FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode50 冬の公園

 あの夜を、思い出した。

 教会からの帰り道、坂の上に聳えていた巨大な黒い影。

 そして、影を従えていた、純白の少女。

 圧倒的だった。

 圧倒的だった。

 圧倒的だった。

 噛み潰される、そう思った。

 餓えたライオンの口の中に頭を突っ込んでいる、それと同じだ。

 こっちの選択肢は尽きている。

 あとは、あちらさんが、ほんの僅かの気紛れを起こしてくれるのを期待するだけ。

 それ以外、助かるすべは無い、そう確信してしまった。

 目の前に聳える、鉛色の巨兵。

 吐き出す吐息に石油臭さを感じてしまうくらい、人外の気配を放っていた。セイバーやアーチャー、キャスターとも更に一線を画す、人を辞めてしまったモノの醸し出す気配だった。

 

「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」

 

 可憐なその声にすら、死の気配は濃厚だった。

 その声の持ち主が、俺の存在を気に喰わないと、僅かにでもそう思ったならば、俺の首は即座に胴体と分かれて飛ぶ、そう確信した。

 

「へえ、三体もいるんだね。手間が省けて嬉しいわ。死に物狂いで頑張りなさい。そしたら、少しは覚えておいてあげるから」

 

 彼女は、ゆっくりと俺達の方を指差した。

 その指は、まず俺を射抜いているみたいな気がした。

 

「じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」

 

 死が、襲い掛かってきた。

 

 そんな夜を、思い出した。

 

「迎え撃ちますか、リン」

 

 既に武装を完了させたセイバーが言う。

 その瞳は勇壮、しかし、やはり振り払い難い疲れの影が見える。魔力の枯渇は、余程深刻なのだろう。

 

「冗談。貴方が万全の状態の時だって歯が立たなかったのよ。何の戦術も組み立てずに勝てる相手じゃないわ」

「でも、ここはキャスターの『神殿』なんだろ?なら――」

「どんなに優れた領地でも、まさかサーヴァント一人分の働きをするなんて、本気で思ってるわけ、士郎?ううん、一人分じゃ前と同じ。最低二人分の働きはしてもらえないと、引き分けにだって持ち込めない」

 

 そうだ。

 サーヴァントなんて具現化した神秘、現代の魔術じゃあ抑えられる器量を超えている。しかも、ランクB以下の攻撃の無効化なんて反則、多少の小細工じゃあ噛み破られる。

 

「じゃあ、どうするんだ?」

「決まってるでしょ、逃げるのよ!」

 

episode50 冬の公園

 

 しばらくの間、何も見えなかった。

 目も眩むような空間を通り抜けて、突然夜の闇の中に放り出されたのだ。虹彩の処理が追いつかないのはむしろ当然だろう。

 白と黒が綯い交ぜになったような視界の中で、それでも辛うじてベンチを見つけた。空間転移なんていう出鱈目を経験して、流石に疲れた。少し休みたい。

 ふらふらと、歩く。

 二回ほど、転んだ。

 剥き出しのコンクリートで、掌を擦りむいた。じくじくと痛むが、視界が元に戻るまでは何も出来ない。

 それでも、何とかベンチに腰掛ける。

 ちかちかと細かい点滅を繰り返す視界の中で、記憶の琴線に触れる風景を見つけた。

 あの木、あの自販機、そして、確かあそこに鯛焼き屋の屋台があったはず。

 

 なるほど、ここは――。

「ここは……あの公園、か」

 

 一昨日、代羽と一緒にイリヤと話した、その小さな公園だ。

 思わず、皮肉な笑みが漏れる。

 あのとき歓談した少女に、今は命を狙われている。中々ウィットの効いたジョークだ。まぁ、ウィットなんて何のことか、ちいとも分からないのだが、それほど間違えた使い方はしていないと思いたい。

 背もたれに腕を預けて、天を見上げる。自然、口が半開きになった。

 星は、見えなかった。

 その代わり、大きな月が、あった。

 十三夜月というのだろうか、それにしては少し欠け過ぎている気もする。上弦の月との中間位かも知れない。いずれにせよ、もう少ししたら満月なのだろう。

 目を閉じる。

 暗闇に目を慣らしたいなら、しっかる目を開けておいたほうがいいのかも知れない。

 それでも、目を閉じたかった。

 そして、目を閉じたまま呟いた。

 

「投影、開始」

 

 軽い頭痛の後で、両手にずっしりとした感触を覚えた。

 握っただけで分かる。この干将・莫耶は、昨日死ぬ思いで作り上げたそれよりも遥かに出来がいい。おそらく、道場でアーチャーの投影品を実際に振るったからだろう。

 それでも、こんなものがあの狂戦士に役立つとは思えない。

 あれは、技がどうとか経験がどうとかじゃあなかった。

 生き物としてのランクが、桁二つくらいで違っていた。

 例えば……いや、止めておこう。馬鹿馬鹿しすぎて、比較の対象すら思い浮かばないのがオチだ。それに、いくら例えとはいえ自分を卑下しすぎるのはよくない。

 だから、出会ったら負け、なのだと思う。

 出会わないこと、それが最善の方法で、唯一無二の道。

 そんなこと、知ってる。

 髪の毛の先から、足の爪の先のそのまた先まで、理解してる。

 そう、知ってるんだ。

 なら、何故逃げない?

 ここは、遠坂の家からそれほど離れていない。

 おそらく、もっとも近い『門』に飛ばされてしまったようだ。

 なら、逃げないと。

 それに、このベンチは道路から丸見えだ。街灯にだって照らされてる。

 なら、隠れないと。

 でも、腰が重い。

 気力が、根こそぎ奪われてしまったみたいだ。

 立つ気力が、無い。

 寒い。

 着の身着のままで外に出てきてしまったのだ。冬の寒気は、部屋着にはあまりに冷たい。

 手が、悴む。

 凍傷になることはないと思うが、それでも一応握って開いてを繰り返す。

 それでも冷たくなってきたから、体を前かがみにして、手に息を吹きかける。

 じんわりと、熱が広がっていく。

 暖かい。

 頬が、緩んだ。

 

「そんな格好じゃあ、風邪引くよ、お兄ちゃん」

 

 優しい、声がした。

 想像した声では無かった。

 無邪気な殺意に満ちた、あの冷血な声では無かった。

 優しい、まるで家族に向けられるような、そんな優しい声だった。

 

「イリヤ」

 

 冬の少女が、鉛の従者を引き連れて、朗らかに笑っていた。

 

「他の人達はどうしたの?一緒に殺してあげようと思ったんだけど、もしかしてそこらへんに隠れてるのかしら?」

 

 イリヤは、心底楽しそうに辺りを見回した。

 その様子があまりに微笑ましかったので、純粋な笑いが漏れた。

 

「あー、シロウ、今笑ったでしょ」

「ごめんごめん、でも、探したって猫の子一匹いないぞ、きっと。俺達はばらばらに飛ばされたから」

 

 そう、ここにいるのは俺一人だ。

 

『一人でいても全員でいても敵わないなら、ばらばらに転送する。そのほうが、個々人が生き残る可能性が高い』

 

 そう言ったのは、リンだったか、キャスターだったか。

 今となっては、その選択肢が正しかったのかどうか分からない。少なくとも、ここに全員が転送されるケースを考えれば、僥倖と言っていいのだろうか。

 

「ふーん。ま、私はどっちでもいいんだけどね。一匹一匹狩っていくのはめんどくさいけど、楽しみが増えたわ。ほら、狩りって貴族の嗜みでしょう?」

「じゃあ、最初の獲物が俺ってわけだな?」

 

 ゆっくりと、立ち上がる。

 さっきまでの腰の重さが、嘘みたいだ。

 長い間寒気に晒されていたとは思えないほど、筋肉が柔らかい。視界も、暗視ゴーグルをつけているんじゃないかってくらいクリアだ。

 きっと、生物の本能が、理解してしまっているのだろう。

 これが、最後だと。

 筋肉を使うのも、虹彩を使うのも、心臓を拍動させるのさえも。

 これが最後だから、せいぜい楽しもうとしているのだ。

 最後の最後まで、味わい尽くそうとしているのだ。

 そんな馬鹿馬鹿しいことさえ理解しながら、俺は立ち上がった。

 

「どうしたの?お兄ちゃん、そんなもの握って、何がしたいの?」

 

 そんなもの。

 これでも一応、俺の用意できる最高の武器なんですけど。

 

「決まってるだろ、無抵抗のまま殺されるわけにはいかない」

 

 似たようなもんでしょうけどね。

 

「そんなに震えてるのに?」

「寒いからだよ」

 

 がちがちと、歯が鳴る。

 武器を握った手が、力の入れ過ぎで白くなっているのが、わかる。

 それでも、汗が噴き出している。

 寒さなんかでは、ない。

 

「嘘。寒いから震えてるんじゃないわ」

「なら、きっと武者震いだ」

 

 がくがくと、膝が笑っている。

 つま先が、痛い。

 今にも逃げ出そうとしている体を引き止めるのに、精一杯だ。

 武者震いなんかじゃあ、ない。

 

「嘘。貴方は、怖いから震えているのよ」

「違う。そんなことはない」

 

 違う。

 そんなことは、無い。

 認められない。

 

『恐怖とは、執着だ』

 

 認めたら、俺が俺で無くなる。

 

『執着とは、即ち生そのもの』

 

 そうだ、乗り越えろ。

 

『喜べ、衛宮士郎。お前は人として生きることが出来るよ』

 

 絶好の機会じゃあないか。 

 恐怖を、自分のものにしろ。

 勇気を、奮い起こせ。

 戦え、戦え。

 結果を恐れるな。

 恐れるから、前に出れないんだ。

 死ね。

 死んだと思え。

 死んだと思えば、怖くない。

 死人は、怖がらない。

 死人に、なれ。 

 そうすれば、戦える。

 戦える。

 恐怖に、打ち克てる。

 そうしないと、負ける。

 夢が、理想が、逃げていく。

 あの背中が、遠ざかる。

 おいていかれる。

 いやだいやだいやだ。

 だから、死ね。

 死んでしまえ。

 ここで、死ね。

 嫌だ、生きたい。

 死にたくない。

 死んでなるものか。

 ほら、謝れ。

 この子は、お前に対して怒っている。

 何に怒っているか分からないけど、絶対に怒っている。

 なら、必死で謝れ。

 地面に額を擦り付けろ。

 靴の裏だって舐めてやれ。

 今までのお前の人生、全てを謝れ。

 息をしたこと、糞をしたこと、笑ったこと。

 その全てが罪業でしたと、謝ってしまえ。

 そして、油断させろ。

 優越感に浸らせて、あの細い喉笛を掻き切れ。

 お前は、いつだってその手に刃物を握ることが出来る。

 なら、油断させろ。

 真っ裸になるのもいいかもしれない。

 そうすれば、あの類の輩は、嗤うだろう。

 裸踊りでもしてやればいい。

 油断させろ。

 油断させて、殺せ。

 あわよくば、逃げ出せるかもしれない。

 あやまれあやまれあやまれ。

 いや、駄目だ。

 そんなことをしたら、親父に顔向けできない。

 親父に、見捨てられる。

 あの笑顔が、失望に塗り潰される。

 そんなの嫌だ。

 なら、戦え。

 勇壮に散れ。

 死ね。

 嫌だ。

 痛いのは、嫌。

 死にたくない。

 死ね。

 死にたくない。

 殺せ。殺したくない。

 逃げろ。逃げたくない。

 死ね。死にたくない。

 散れ。散りたくない。

 謝れ。謝りたくない。

 戦え。戦いたくない。

 しろ。したくない。

 何も、したくない。

 

「……泣いてるの、お兄ちゃん?」

 

 小さな手が、頬をそっと撫でてくれた。

 

「イ……リヤ?」

 

 彼女は、少し寂しそうに微笑んだ。

 

「ごめんね、最初からお兄ちゃんを殺すつもりは無かったの。脅かしすぎちゃったね」

 

 もう片方の手が、首の後ろに回されて。

 彼女は、まるで父親に抱きつくみたいに、俺に体を委ねた。

 

「この前みたいに、お話しましょう?ほら、あのベンチだって空いてるし。今度は、私が飲み物を買ってくるから」

「……お嬢様に、そんなこと、出来るのか?」

「あ、酷い!シロウが馬鹿にした!見てなさい、たっぷり後悔させてやるんだからー!」

 

 そう言って、彼女は自販機の頼りない灯りに向かって走っていった。

 それに付き従う、鉛色の巨人。彼は、終始俺をその視界に収めることは無かった。

 また、見逃された。

 そして、俺は恐怖に負けた。

 今度こそ、言い訳は出来ない。

 だって、俺が認めてしまったんだから。

 

「ああ、ここまでかなぁ……」

 

 力無く、ベンチにへたり込む。

 

「シロー、お茶でいいー?」

「……ああ、頼むよ」

 

 喉が、緊張でからからだったから、有難かった。

 それでも、もう駄目かも、そう思った。

 両手で顔を覆う。

 涙は、流れていなかった。

 

 

「シロウ!お茶でいいんだよね!」

 

 白い息を、音符みたいに弾ませながら、イリヤが駆け戻ってきた。

 少し、汗ばんでいる。

 この街の冬は、それほど寒くならない。少なくとも、この子の故郷なんかに比べれば冬と呼ぶのもおこがましい程だろう。

 ポケットからハンカチを取り出そうとして、そこで気付いた。

 部屋着なのだ、ハンカチなんて気の効いたもの、持っているはずがない。

 

「はい、シロウの分!」

 

 誇らしげに胸を反らせながら、輝く瞳と共に差し出されたスチール缶には、堂々とした文字で、大きくこう書かれていた。

 

『お汁粉』

 

 ……。

 喉が渇いてるときのお汁粉って、絶望の味がしますよねえ。

 

「どうしたの、お兄ちゃん?何か間違えた、私?」

「いや、間違えてない。寒いときのこいつは最高だ」

 

 イリヤの分のプルトップを開けてやる。

 それから、自分の分のプルトップを開けて、一口飲んだ。

 

「……日本のお茶って、甘いのもあるのね。お爺様からは、悪魔と同じくらいに苦いお茶しかないって聞いてたけど」

「そうだな、甘い日本茶って聞いたことない」

「でも、美味しいわ。身体の奥から温まる、そんなほっとする甘さだね」

 

 ベンチに二人並んで座って、お汁粉を啜る。

 そんな光景に、どこか羨望を覚える。

 そして、思う。

 イリヤの言うとおりだと。

 甘い。

 蕩けそうだ。

 頑なに守ってきた、色んなもの。

 俺を俺たらしめていた、かけがえのないもの。

 それが、蕩けそうなくらい、甘かった。

 ああ、ほんと、そうだ。

 ほっとする。

 何のことはない。

 受け入れれば良かったんだ。

 甘さを、受け入れてしまえば、良かった。

 そうすれば、楽だったんだ。

 そんなことに気付けなかったなんて、我ながら馬鹿馬鹿しい。

 あまくて、いいじゃないか。

 あまくったって。

 

 

「キリツグのこと、話して」

 

 私がそう言うと、彼は少し驚いたみたいだった。

 それでも、その表情は変わらない。

 まるで鉛の仮面でも被ったみたいに、陰気だった。

 陰気で、堅牢。

 いつだって、変わらない。

 そんな、顔だった。

 

「イリヤ、切嗣のこと、知ってるのか?」

「知ってるも何も、私が日本に来たのは、彼を殺すためよ」

 

 そっか、と彼は呟いて、一人勝手に何かを納得してた。

 彼の知ってるキリツグにも、人から恨みを買うような、そんな側面が存在したのだろうか。

 

「……前も話したかな。切嗣は、親父は、もうこの世の人じゃあない。だから、イリヤが切嗣を殺すことは、出来ないよ」

 

 崩れ落ちそうな程か弱い笑みを浮かべる彼。その笑みの中に、一握りの優越を感じてしまったのは、私の嫉妬心が暴れ回ったせいだろうか。

 

「そんなこと、知ってる。でも、話して。お兄ちゃんが独り占めするなんて、ずるい」

 

 彼は私の頭をそっと撫でて。

 そうだな、と呟いて。

 ポツリ、ポツリと、宝物を引き出しから取り出すみたいに、大事そうに話し始めた。

 

「俺はね、切嗣に救われたんだ」

 

 それは、前も聞いた。

 

「火事が、あったんだ」

 

 それは知識として知っている。

 

「俺は、全てを失ったよ。家も、家族も、名前も」

 

 もう、それも聞いたよ。

 

「そんな俺を、を救ってくれたんだ。本当の正義の味方みたいだったな」

 

 彼は、月を見上げていた。

 この前、雲を見上げていたのと同じように。

 その瞳に、輝きを映さないまま。

 

「でも、今考えてみると不思議だな。なんで切嗣は俺の名前を知ってたんだろ?」

「……お兄ちゃんが話したんじゃないの?」

 

 リズムを作るための相槌。

 くだらない、そう思う。

 

「んー、もうだいぶ忘れちゃったからなあ。でも、切嗣から話しかけてきたんだよ。『やぁ、士郎君、思ったより元気そうだね、よかった』って。それを聞いて思ったんだ。ああ、俺の名前だ、ってね」

 

 どうでもいい。

 そんなこと、羨ましくなんか、ない。

 

「きっと、寝言か何かで話してたのよ。それ以外、考えられないじゃない」

「自分の名前をか?でも、それくらいかなぁ。もしくは、戸籍か何かから辿ったか、それとも名前のわかる何かを持ってたか」

 

 彼は、心底不思議そうに首を捻った。

 陰気な表情のまま首を傾げたその様子が、とても可笑しかった。

 そして、彼は話した。

 身振り手振りも加えて、本当に嬉しそうに。

 私も、笑った。

 ほとんど、私の記憶にあるキリツグと一緒だった。

 母様と私を愛してくれたキリツグが、そこにいた。

 だから、楽しかった。

 なのに、なんで。

 なんで、目の前で楽しそうに話す、この男は。

 何で、一度も。

 

「そっか、キリツグは優しかったんだね」

「ああ、優しかったよ」

「キリツグと一緒にいて、楽しかった?」

「ああ、楽しかった」

 

 その表情に、イラついた。 

 その、確実に一番大事なものが抜け落ちたまま、それでも楽しそうな表情が、限りなく醜かった。

 

「なら、お兄ちゃんは幸せだったの?」

「ははっ、なんか最近その質問が多いな」

 

 彼は口元を歪めた。目は相変わらず月を見つめ、しかしその錆色の瞳は何も映していない。

 

「幸せだった。切嗣に拾われて良かった、心の底からそう思うよ。だって、今もこんなに幸せなんだから」

 

 幸せ?

 今の彼が?

 私にはとてもそうは思えない。

 彼はいつもしかめっ面だった。それは何かを耐えていたからではないのか。

 彼の拳はいつも固く握り締められていた。それは何かを我慢していたからではないのか。

 

 殺そうと思っていたのだ。

 

 聖杯戦争に勝つのは私の存在する理由だが、キリツグとシロウを殺すのは私の存在する意味、そう信じて極東の島国にやって来た。

 私を捨ててまで選んだシロウを殺したらキリツグはどんな表情をするだろう。怒り狂うか、泣き叫ぶか、許しを請うか。それが楽しみで、今の今まで苦しい修練に耐えてきたのだ。

 でも、キリツグは既にこの世の人ではなくなっていた。

 ならば、あの世から彼を悔しがらせてやろう。せいぜい残酷に、執拗に彼の置き土産を壊してあげよう。そう考えていたのだ。

 しかし、彼の置き土産は既に手の施しようが無いくらい壊れていた。少なくとも私にはそう思える。

 自らの従者を助けるためにバーサーカーの剛剣の前に立ち、自分を殺そうとした敵と和やかに話し、他人のためだけにこの凄惨な大儀式に参加する。これを壊れているといわず、なんというか。

 だから、私は彼を殺すのを諦めた。だって、すでにこの上なく壊れているものなんだから、壊しようがない。ガラクタをいくら叩き潰したところで、ガラクタ以外の何物にもなり得ないのだから。

 

「そっか、お兄ちゃんは幸せなんだね」

「ああ、ほんと、自分には不相応だと思えるくらいに」

 

 何故だろう。何故彼を見ているとこうも苛々してしまうのか。

 

「幸せなら、なんで笑わないの?」

「えっ?」

「幸せなんでしょう?楽しいんでしょう?なら、なんで笑わないの?私、今までお兄ちゃんの笑った顔、見たことないよ」

 

 彼は一瞬だけ泣きそうな顔をして、それでも表情を崩さずにこう言った。

 

「幸せだからって楽しいわけじゃないだろ。今はそれほど楽しくはないし、あまり笑うこともないけど、それでも俺は幸せだよ。これは間違いない」

 

 ああ、なんだ、そうか。

 彼は、勘違いをしているのだ。

 彼は楽しまない。

 彼は笑わない。

 普通、人はそれを不幸と呼ぶのだろう。

 しかし、彼はそれを幸福だという。

 彼は根本から間違えている。自分の感情を理解していない。

 だから、彼は幸福を求めない。いや、求める術を知らない。

 故に、彼は幸福になり得ない。

 単純な話だ。地図も持たず、目的地も知らず、ただ闇雲に歩いていつかその場所に辿り着ける、そんなむしのいい話はないだろう。

 彼が求めるのは不幸だけ。痛みだけ。苦しみだけ。

 それを求めて、それを集めて、それを固めて。

 彼は何になるのか。何になりたいのか。

 

「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの夢って何?」

 

 彼は、私が初めて見る、輝くような笑みを浮べてこう言った。

 

「俺はね、正義の味方になりたいんだ」

 

 駄目だ。

 彼は、やっぱり。

 お父様。

 あなたが捨てた子供は。

 あなたが拾った子供は。

 二人とも。二人とも。

 これ以上ないくらい、壊れています。

 お父様。

 これがあなたの望んだものですか。

 これがあなたの理想の具現ですか。

 ならば、私はあなたを軽蔑します。

 もういいわ。あなたのことなんて、もういい。

 今、決めました。

 私がシロウを救います。

 あなたの遺した悪夢から、彼を解き放ってみせる。

 あなたの理想なんて、彼の中にこれっぽっちも残してあげない。

 これが私の復讐。

 あなたの理想を継ぐ者は、この世にはいなくなる。

 あなたの生きた意味なんて、この世には必要ない。

 悔しがりなさい、歯噛みしなさい、エミヤキリツグ。

 

 私があなたを殺します。 

 

 

 イリヤが、突然立ち上がった。

 

「ねえ、お兄ちゃん。今から私のお城に行きましょう?ほら、前に約束したじゃない」

 

 ああ、そういえばそんなことも言ったかな。

 せいぜい二、三日前のことなのに、もう遠い過去のことみたいだ。

 

「駄目だよ、イリヤ。みんなが心配するから、今日は行けない」

 

 そう言うと、イリヤは、嗤った。

 彼女が、今日初めて見せた、無邪気で、同じくらい残酷な、子供だけが浮かべることの出来る、笑みだった。

 

「そう?じゃあ、先にみんなを殺しましょう。そうすれば、シロウは何の心配もなくお城で遊べるものねぇ」

 

 その台詞で、やっと理解した。

 なるほど、最初から選択権なんて、無かったんだ。

 そんな簡単な事を、思い出した。

 

「手」

 

 顔を上げると、そっぽを向きながら、俺のほうに手を差し出すイリヤが、いた。

 

「手、握って」

「駄目だ、さっきそこで転んでさ、どろどろなんだ。イリヤの手を汚しちまう」

 

 俺がそう言うと、彼女はスカートのポケットから、純白のハンカチを取り出した。

 

「お、おい、イリヤ」

 

 いかにも高級そうなそれを、血だらけの俺の手に無造作に巻きつけると、彼女は再びこう言った。

 

「手、握って」

 

 俺は苦笑しながら立ち上がる。

 そして、無言のまま、彼女の手をとった。

 意外なほど暖かかったその手は、俺の手の存在を確かめるみたいに、ぎゅっと握り返してきた。

 少し痛かったけど、それ以上に嬉しかった。

 

「でも、何でシロウだけこんな近くに飛ばされてたの?」

 

 公園の入り口に向かって歩く。

 

「ああ、術式から転移先を読まれたくないってことで、ランダムで飛ばしたみたいだな」

 

 できるだけ、ゆっくりと。彼女の小さな歩幅に合わせるように。

 

「ふーん、でも、空間転移なんて大魔術使ったら、転移先でも強力な魔力の波動が起きるから一発で分かっちゃうのに、無駄なこと考えるんだね、遠坂って」

 

 ……遠坂の呪いって、ほんとに凄いなあ。

 誰が考えたんだろ、ほんと。

 

 

 彼らは、暗い公園の中を、歩いていた。

 手は、しっかりと握られている。

 一人は、兄妹みたいだと思った。

 一人は、姉弟みたいだと思った。

 多分、両方が真実だった。

 公園の入り口には、お辞儀をしながら二人を待つ、白い衣服の従者。

 少年と少女は手を繋ぎ、鋼の戦士は、その二人を守るかのように彼らの後ろにつき従った。

 幸せそうな、後姿。

 彼らの後姿のみを見るならば、それは仲のよい親子にも見えただろうか。

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