FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
interval6 IN THE ABOLISHED FACTORY 1
まあ、結論としてはさ、結局のところ人間、ていうか動物全部?にとって一番重要なのは、危険察知能力と危機回避能力な訳ですよ。
こう殴られたらこうかわす、こう攻められたらこう避ける、そんなこと言ってるうちは、護身なんて下の下。危ない奴に近付きそうになったら巨大な門の幻が現れる、最低それくらいにならないと偉いお爺ちゃんも認めてくれないぞ?
だから、俺には危険察知能力は欠けてたんだろうねえ。生物としての認めがたい欠陥ってやつ?だって、その話を聞いたとき、小躍りしちまったんだもん。
噂には聞いてたけどさ、まさか俺が誘われるとは夢にも思ってなかったの。イカれた兄貴が自分の妹マワさせて悦に入ってる、そんな与太話、誰だって半信半疑だろ?
でも、その話はどうやら真実、そしてついにお鉢が俺のところに回ってきたらしい。しかも、その妹ってのが、絶世の美人、具合は最高ってんだから、チェリーのワタクシとしては、お話聞いただけでもおっ勃っちまうわけよ。
その上、その話を持ってきたのが、自分もパーティーに参加したことがある我が心の友だったんだから、嫌が応にも期待は高まるわけだ、これが。
会場が街外れの廃工場、発射時刻が深夜だって聞いたときも、別段不思議には思わなかったね。元々は何かの製材所だったらしいけど、取り壊しの工事をするたびに、体中を穴だらけにした変な男女の二人組みの幽霊が出るってんで野晒しになってる場所。噂じゃあ、呪いで死人が出てるとか何とか。
でもそういう噂ってのは、えてして人払いのための絶好の理由になるわけだよね。だから、有名な心霊スポットってのは俺らみたいにいけない人達の溜り場にもってこい、馬鹿なカップルカムカムエビバデ、ってことになってるの。あんたも肝試しするときとか気をつけたほうがいいぜ?可愛い彼女の前で素っ裸にひん剥かれたくないだろ?あ、あんたはひん剥く側か。
話を元に戻そうか、閑話休題っていうのかな?
俺は喜び勇んで会場に行ったね。親友は先に行ってたみたいだけど、心配だったのは、どうか僕が着く前に女を壊さないで下さい、それくらいのもんだ。
あんなに胸がときめいたのは、小学校の修学旅行の前日の夜以来かな。千円を超える栄養ドリンクを飲んだのだって、初めてだ。いやー、凄いね、あれ。何にも触ってないのに勝手にギンギン。あれなら二十四時間戦えますわ、いやホント。
でもさ、実際会場に行ってみると、何かおかしいんだよ。
え?何がおかしいかって?うーん、中々言葉には表しにくいなあ。
強いて言うなら、雰囲気?あ、間違えるなよ、別に幽霊が云々、って話じゃないからな。自慢するわけじゃないけど、心霊体験ゼロ、霊感もゼロ、年に一回初詣に行けば、まだ神様との交流が深い年になるってくらいの信心者の俺だ。幽霊なんて、ニュートリノの存在くらい信じちゃあいない。
…ああ、もう、糞ったれ!
あ、悪い。別にあんたのことじゃねえ。さっきから、ケツが痒いんだよ。
まあ、なんだ、だからさ、おかしかったのは、もっと別のものなんだよ。
空気、いや違うな、そう、風だ。
お、今の格好良かった?真似すんなよ、著作権料頂くぜ?なにせ、この国のそこらへんの団体は、ハイエナよりもがめついって噂だからな。いつあんたのところに請求書が届けられるか分かったもんじゃあない。油断はしないに限るってもんだ。
…分かったよ。悪かった、話を先に進めるよ。そんなにがっつくなよな、焦る男はみっともないって言うぜ?童貞の俺が言うのもなんだけどさ。
ま、つまりおかしかったのは雰囲気なんかじゃなくて、風とか空気とか、もっと具体的なもんだったんだ。あの時はわからなかったけど、今なら分かる。
静か過ぎたんだ。
だいたい、お日様に顔向けできるような健全な集まりじゃなかったからさ、ドンチャン騒ぎ、ってのも変な話だ。
でも、噂じゃあこのパーティーに参加する人数は、両手両足の指の数を超えるらしい、そんな話を聞いてたからさ。まさか一人の女がそれだけの相手を出来るわけねえから、きっとどっかから攫ってきた女もお仲間にしてあげるんだろ、その程度にしか考えてなかった。
だから、おかしかったんだ。
予定の時間は過ぎてる。ひょっとしたら女は虫の息で、おこぼれに与れる程度になるかもしれない、そんな絶望的なことを考えながら工場に入ったらさ、何の音もしねえんだ。女の悲鳴も、馬鹿な男が囃し立てる声も、下卑た笑い声も。
しーん、とさ、耳が痛いくらいに静かだったんだ。
人間ってやつはさ、自分の想定してたことと違うことが起きると、どうも落ち着かなくなるんだね。
声も出なかったよ。
おーい、誰かいませんかぁ、そんな恥ずかしいことも口に出せなくなるくらい、俺は焦ってた。心臓なんてバクバク、クソ寒いのに、汗だって滲みやがる。
嫌な予感が、じわじわ広がってきた。透明な水に醤油を垂らしたみたいな感じかな。だんだんとモヤモヤが広がってきて、少しずつ何かが黒くなっていく、そんな感じ。
流石に帰ろう、そう思ったとき、妙にくぐもった声が聞こえたんだ。
女の声だった。
お。やってるじゃん。
今までの焦りが嘘みたいに、体が軽くなった。そうすると不思議なもんでな、血が下半身に集中するんだ。要するに、戦闘準備完了、どっからでもかかって来い、そんな状態だね。
喜び勇んで奥のほうに歩いたよ。
そしたらさ、段々声が大きくなってくるの。しかも、獣みたいな喘ぎ声。ああ、きっと好きものな女なんだな、単純にそう考えて、嬉しくなったよ。だって、流石に初めては泣き叫ぶ女を犯したくはないだろう?変な趣味に目覚めちゃったら、俺の今後の人生が心配だ。
せいぜい楽しませてやろう、そう思ったね。そりゃあテクなんてあったもんじゃないけど、若さと回復力ならピカいち、絶対にひいひい言わせてやる、硬い決意と共に奥の部屋を覗いたらさ。
なんか、ころがってんの。…ああ、ホント痒いなあ。
最初見たときは、芋虫?そう思ったかな。
でも、それにしちゃあ大きい。デッサンが狂った?そう思わせるくらいに大きかった。例えれば、今の俺やあんたくらい。つまり、人間と同じくらいに大きかったんだ。
それがさ、うんうん唸ってるわけよ。へえ、芋虫も人間くらい大きくなれば声を出せるんだ。そんな馬鹿なことを考えながら、俺は必死に女を探した。
そう、必死だったね。
だって、女がいなきゃおかしいだろ?人間みたいな芋虫、いや、自分を誤魔化すのはやめようか、芋虫みたいに手足を失った人間が、三桁を超える数、呻きながら這いずってんだ。もし、これで女がいなけりゃ、状況は最悪だ。間違いなく、この祭りの見世物は、俺達誘われた側ってことになるからな。
声がしたのは、その時だ。
後ろから、冷たい、でもどこか安心する、妙に懐かしい声が聞こえたんだ。
「あら、まだいたのですね」
女が、いたよ。
綺麗な女だったなあ。
ぱっと見て、わかったよ。こいつが、今回の獲物だって。
だって、我が心の友に、事前に写メを見せてもらってたからな。
確か、前回のパーティーのときのだって言ってたっけ。
それが、いい女だったんだよ。だから今回来る気になったってのもあるぜ。
でも、実際に見ると、もっといい女だった。
親友の写メなんかよりも、遥かにいい女だった。写メで期待して実物でがっかり、そんな女、山ほどいるけどさ、その逆は中々珍しいぜ、きっと。
まあ、それも仕方ないと言えば仕方ないんだけどな。
だって、あの写メの表情ときたら、まるで人形みたいでな。確かにきれかったけど、まるで人形みたいだった。精液やら唾液やらでどろどろに汚れた顔で、薄ぼんやりとカメラを見てるんだ。手はピースサインなんか作らされちゃってさ。どんだけ出したんだよお前、そう言って笑い転げたのが懐かしいね、全く。
それに比べれば、笑ってるあの女が、どれだけ綺麗だったか。可愛い、とかじゃねえんだ。綺麗なんだよ。美しいんだ。
一瞬、何もかも忘れてむしゃぶりつきたくなる位に、いい女だった。
でも、それが出来なかったんだ。
だって、おかしいじゃねえか。
本当なら、今回の獲物も、この女のはずだ。
それが、何でここにいる?
しかも、服だって着てるし、連中に遊んでもらった様子も見当たらない。
それどころか、脅えた様子も、憤った様子も見せずに、ただただ笑ってるんだ。
底冷えのするような、切れるような笑みでな。
俺は理解したね。
こいつは、ヤバイ。こいつが親玉だ。そう思ったよ。
写メなんかじゃあわからなかったけど、こいつは本当にヤバイ奴だ。俺はそう確信した。
さっきも言ったけどさ、生き物にとって一番重要なのは、危険察知能力と危機回避能力だ。これは間違いないと思う。
そのうち、危機回避能力には自信があるんだ、俺。まあ、人間相手限定だけどな。
親にも先生にも友達にも先輩にも褒められたぜ、『お前は嘘が上手い』ってな。
嘘泣き、作り笑い、相手に合わせて憤慨して見せること、どれも俺の得意技だ。ダチにゃあ笑われたけどさ、言葉さえ通じるなら神様だって騙して通してみせる、俺は本気でそう思ってるんだ。
結局、いきなり問答無用で殴りかかってくる人間ってのはほとんどいないからな、穏便かどうかは置いといて、普通はまず話し合いだ。とりあえず、そこで他人に罪を擦り付ける。それから、俺も被害者だと同情を買う。とどめに、相手の境遇に共感してみせる。一回だけヤクザの事務所に連れてかれた事もあるけど、最後は『困ったことがあればいつでも来い、面倒見てやる』とまで言わせたんだ。
だから、その時だって、俺の舌はフル回転だ。間違いなく、今までで一番調子が良かった。
曰く、今夜ここで、口に出すのも忌まわしいような趣旨の集まりがあると聞いた。
曰く、親友が人の道を踏み外しかかっているのを諌めに来た。
曰く、か弱い女性が犠牲になっているのを助けたかった。
曰く、携帯電話の電波が入らなくて、警察に通報は出来なかった。
曰く、だから僕一人で助けようとした。
あ、お前笑ったな?確かにこうして並べると歯が浮きそうになるくらいくだらねえ理由ばっかりだがよ、臨場感ってもんが一番重要なんだよ、実際は。
まあ、携帯云々は嘘なんだが、本気で確かめる奴なんてほとんどいないし、万が一確認されたってすっ呆けりゃあいい。そこらへんの誤魔化しは得意中の得意だからな。
こう見えて、ほら、俺って見た目が真面目だろ?そこらへんは計算してんのよ。やっぱり、見た目から悪な奴って損してるぜ。就職活動とかと一緒なんだろうな、多分。人間、見た目が一番だ。
だからさ、女は最初のうちは訝しそうに俺を見てたんだけど、そのうち表情が真剣になってきてな、しまいにゃあ、涙だって流し始めたんだ。『ああ、貴方は何と立派な人なのでしょうか』、そこまで言わせたんだ。
勝った、俺は思ったね。
そこで這いずってた芋虫達に、唾の一つでも浴びせたくなったよ。後ろに握った手で秘かにガッツポーズだって決めた。
間違いなく、人生で最高の瞬間だったぜ。
幸せってのには二種類あるらしくてさ。一つが、何かを得た幸せ、つまりゼロからプラスへの幸せだな。もう一つが、何かを回避できたときの幸せ。これはマイナスからゼロへの幸せだ。
さっきまでの状況は、間違いなく致命的だったからな。そこからの生還、マイナス一億万からのゼロだ。今夜の趣旨とは違うところで射精しかけたぜ、マジな話。
さてどうするか、俺はそう思った。女は涙を流し続けてるし、足元にゃあ人間止めちまった芋虫がごろごろ転がってる。ま、さっさと退散して今夜のことは忘れるのが一番だわな。
それじゃあまた会いましょう、そんな台詞を吐く訳にもいかないからさ、俺は無言で後ろを向いたんだ。決して急いじゃいけない。何せ、俺は女と親友を助けに来た正義の味方だからな、あくまで堂々と立ち去らないと怪しまれる。
その時、女は笑ってたよ、
さっきまでの笑いじゃあない。本当に優しい、母親みたいな笑みだ。
それで、なんて言ったと思う?
涙まで流して褒め称えた相手に、何て言ったと思う?
「でも、ついでですから」
やっぱり笑いながら、そう言いやがったんだ。
ちくり、と何かに刺されたことは覚えてる。そんで、今はこの様、そういう訳だよ。
結局のところ、俺達は化け物に捕まっちまったんだろうな。
アレは、間違いなく化けもんだ。
あいつは、間違いなく俺の話を信じてた。そこらへんの機微には敏感だからな、これは間違いない。
だから、あいつは、本気で自分が立派だと思った奴を、本当に『ついで』に捕まえたんだ。何のためかは知らねえが、な。きっと、俺の変わりに生まれたての赤ん坊がいたとしても、あいつは同じ事を言ってたよ。
これで、俺の話は終わりだ。次はあんたの番だぜ?せいぜい楽しい話を聞かせてくれよ。
あ、っと、その前に一つ頼まれてくれるかい?
実はさっきから、ケツが痒くて痒くてさあ、どうしようもないんだよ。初対面のあんたに頼むのも悪いとは思うんだけど、ちょっとだけ掻いてくれないか。痒くて痒くて気が狂いそうなんだ。
え?
馬鹿、自分で掻けないから頼んでんだろ。それくらい察しろ、ぼけ。手足が無いのに、どうやってケツを掻いたらいいんだよ?
……ああ、そうか。あんたも、もう外されちゃってんだな。こりゃあ悪い事言った、許してくれ。
じゃあ、仕方ないか。どうせ後少しだ、我慢するよ。
あ?気付いてないのか?さっきから、芋虫の数が減ってきてるだろ?
一匹一匹、奥の部屋に引きずり込まれてんのさ。そうだ、あの、獣みたいな喘ぎ声のする部屋さ。しゅうしゅう、蛇みたいな鳴き声のする、あの部屋だよ。ついさっき、俺の心の友も、泣き叫びながら引きずり込まれていったぜ。そして、誰も出てこない。つまり、あそこが俺達の人生の終着点、そういうわけだな。
まあいいじゃねえか。どうせこんな手足じゃあ、生き延びたところでロクな人生が待ってるわけでもなし。ここで化け物の胃に靠れてやる、ってのも一興、そうは思わねえか?
……へえへえ、さいですか。まあ、価値観なんて人それぞれだからねえ。
とりあえず。俺は痒くて堪らねえからさ、さっさとお呼びがかかるのを待ってるんだ。
だから、それまでの退屈しのぎだ。
お前が、一体どういう経緯でこのパーティーに参加する羽目になったのか、教えてくれよ。こっちは一から十まで話したんだ。お前も話すのが、平等ってもんじゃねえか?
◇
素敵な夜だった。
暖かくて、何より静か。
耳を澄ましても、虫の鳴き声も聞こえない。車のエンジン音すら聞こえない程深い静寂は、街中の喧騒に慣れたこの耳には、あまりに過ぎた贅沢な気がしてならない。
そして、美しい。
光の柱が、天より降り注いでいる。
無論、そう見えるだけだ。
所々穴が開いて、今まで崩れ落ちなかったことが不思議なほどに痛んだ天井。そして、その穴を通って地に届く月光。それが部屋に充満した埃に反射して、きらきらと輝いて見えるのだ。
月の光は、優しい。
おそらく、それは死んだ光だからだろうか。
陽光は、岩石だらけの天体と衝突して、拉げて死ぬのだ。だから、この光には覇気がない。
ゆっくりと、眠るように目を閉じる。
この光は、いつまで私を受け入れてくれるのだろうか。出来るだけ長く続けばいいのに。
日の光は、どうやら私が御気に召さないらしい。
遠からず、私は陽光の下を歩くことが出来なくなるだろう。
それが苦しいとは思わないが、少しもったいないと思った。
それでも、もともと日の光と縁深い生活を送ってきたわけでもない。だから、それと距離を置くこと自体、何の痛痒も感じない。
ただ、今まで一度も海水浴に行ったことがなかった。
一度、行きたかったと思う。
気の置けない友人と一緒に、燦燦たる太陽のもとではしゃぎまわることができれば、それは何と幸福にまみれた光景であるだろう。
そんな、在り得ない情景を、夢想する。
夢想するだけなら、自由だ。
良かった。
私にも、それくらいの自由は、あるらしい。
「……た、たすけて……」
彼は、そういった機会に恵まれたことがあるのだろうか。
友人と遊び、笑い、さんざめくような毎日を過ごしたことがあったのだろうか。
そうなら、幸せだ。
そうでないなら、なんと痛ましい。
彼は、いつもあの表情だった。
何かに憑かれたような、必死の表情。私には、それがこの上なく痛ましかった。
だが、今は分かる。
彼が、果たして何に憑かれていたのか、はっきりと分かる。
ならば、話は簡単だ。
祓い落とせばいい。
穢れは、ゆらゆらと祓い落とせばいいのだ。
彼の美しい瞳を歪める、あの禍々しい光。その悉くを、私は祓ってみせよう。
「……あんたの言うとおりにした!何もかも、あんたの言うとおりにしたじゃないか!」
目的さえ定まったならば、手段は無限だ。
そして、最も確実性の高い手段が、私の目の前に転がっている。
簡単なことだ。
因が変われば、自ずと果も変化せざるを得ない。
それが最も簡単で、確実な手段だ。
そして、それを叶える奇跡は、目の前にある。
それを手にすること自体、さしたる労力を伴うものではないだろう。事態がこのまま推移してくれるならば、如何にも容易い。
問題は、その過程に彼が如何様に関わってくるか、である。
目的と手段がすり替わるような愚かがあってはならない。そのことは強く自戒せねばなるまい。
しかし、目的のためならば、多少の犠牲はつきものだ。
恐れることがあってはならない。
世界は、変貌する。
蝶が舞うことによって嵐が起きるように、この世界は待ったく別の方向性を持つに至るだろう。
ならば、この世界における彼の苦痛など、如何程の価値があろうか。
彼は、救われる。
大事の前の小事である。
躊躇は、するな。
「……オンナがいるんだよう。たのむよ、ころさないでくれ……。人なら、またあつめるから……」
それにしても、お行儀が良くなったものだ、と思う。
体育倉庫のミイラを片すのには、少なからず辟易とさせられた。
今回も同じ、いや、倍加した食事の量と比例するだけの労働が必要と思うと憂鬱だったが、杞憂に終わったようだ。
今の彼女は、食事の包み紙も残さずに食べてくれている。これであれば、例えば食料に自らを埋める穴を掘らせる等の手間も省けた。
無駄な労力は省くに如かず、だ。
さて、となれば少し時間が出来てしまったか。
外はいい天気だ。
月が無ければなお良かったのかもしれないが、それでもいい天気である。
「少し、歩きましょうか、アサシン」
私が差し出した手を、彼は無言で握った。
「行かないでくれ!た、たすけ、たすけて!おねがいだか……!」
ごつり、と音がした。
黒々とした鱗が、月の光に照らされて、てらてらと、濡れたように輝いていた。
それは、歪に捻じ曲がった己の食料にぐるりと巻きついて、ニヤニヤと笑っていた。
「ああ、御粗末さまでした、ライダー。味も量も物足りなかったかもしれませんが、今はこれで我慢しておいてください」
それにしても、と思う。
何故、彼女は私を喰らわないのだろうか。
既に、令呪は、無い。
『私が指令を下すまで、自衛以外、独断で動くことを禁じる』
『衛宮士郎を殺すな。そして、彼を殺そうとする者を、絶対的に排除しろ』
『消えて戻れ、ライダー』
故に、今の彼女を縛る鎖は、存在しない。
最初の命令の影響が残っているのかもしれないが、それにしても今の彼女を縛り付けるだけの効力があるとは到底思えない。
そして、彼我の力の差は明らかだ。彼女がほんの少し身を捩っただけで、小虫が如きこの身など、すり潰されてしまうだろう。
真実など、分からない。
しかし、想像はできる。
彼女は、私を恨んでいる。
早々に楽にさせるのが許し難いほど、恨んでいる。
だから、今は喰らわないのだ。
せいぜい調子をつけさせ、勝ち残らせ、美味しく太ったところを、ぱくりと平らげるつもりなのだろう。
望むところだ。
彼女には、その資格がある。
だが、私には目的がある。
容易く喰われてやるわけには、いかない。
最高なのは、化け物どもが喰い合って、共倒れになってくれることなのだろうが、それは流石に高望みというもの。最後は、私自身の手で決着をつけなければならないだろう。
そんなことを考えていると、しゅうしゅうと、安らかな寝息が聞こえてきた。
黒い、うねうねした物体が、己の巨大さを誇示するかのように、眠っていた。腹を満たせば眠くなる、あらゆる生物に共通する欲求は、この怪物にも当てはまるのだろうか。
私は、無限に広がる闇に向かって言伝た。
「お父様、少し外に出ます。三十分程で戻りますので」
返答は、無かった。
暗やみの中に立ち尽くす、人の影だけが、あった。
私は、苦笑した。
全く、返答の無いことなど、とっくに理解していたはずなのに。
「さあ、行きましょう、アサシン」
「御意」
私達は、手を繋いだまま、歩いた。
ごとり、と、何かが転がる音が、背後で響いた。彼女が寝返りでもうったのだろうか。
外は、満月かと勘違いするほど、明るかった。
空を見上げる。
そこには、分不相応に輝く月。
十三夜月というのだろうか、それにしては少し欠け過ぎている気もする。上弦の月との中間位かも知れない。いずれにせよ、もう少ししたら満月なのだろう。
それを見上げながら、私は思わず呟いた。
「良い、夢を」
「……何か言ったか、主よ」
「いえ、何でもありません」
それは、誰に向けた、祈りだったのか。
堕ちた女神を憐れんだのか、彼の不孝を嘆いたのか。それとも――。
まあ、いいだろう。
気紛れは、楽しい。
だからこそ、この散歩も、きっと楽しいものになるだろう。
「アサシン」
「……何だ」
彼が、その手に少し力を込めたようだ。
少し、痛い。
しかし、その痛みが心地いい。
「何でもありません」
彼の歩調が、少し乱れた。
呆れた、のかもしれない。
とても楽しい、そう思った。
いつまでも、続けばいいのに。
そう、可能性がゼロのことを、強く願った。