FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
interval7 Humpty Dumpty had a great fall.
少女の後姿を見送った後、神父は秘かに溜息を吐いた。
失望したわけではない。疲れたわけでもない。
ならば、何ゆえ。
そう問われても、彼は答える事が出来ただろうか。
行き詰っているわけではない。今だ一騎の脱落もないこの状況、前回に比べればやや遅々とした進行具合ではあるものの、このように押し留められたエネルギーは得てして急激な加速をもって全てを飲み込んでいくものだ。あたかも、霏々たる豪雨に育てられた大河が街を飲み込んでいくように。
焦ってはいけない。
焦って流れを曲げようとすれば、その流れに飲み込まれるのがオチである。
だから、彼は悠々としたものだ。
その表情には、相も変わらず底の深い微笑が湛えられている。
悠々と構えながら、悠々と次のカードを切っていく。
当面、彼の手駒は一騎。局面が推移すれば奥の手も動かすだろうが、今のところその必要も見当たらない。
そもそも、彼はこの大儀式のゲームマスターである。彼の意向一つで、特定の陣営に有利に取り計らうことなど、造作もない。
しかし、彼はそれをしない。
彼がするのは、こうなってくれればいい、こうなるにこしたことはない、そういった、酷く主体性の薄い働きかけのみ。
だが、それでいいのだ。
この大儀式に、己が如き小さき身の付け入る余地はない、彼はそう確信している。
自分がするべきことは、見極めること。そして、流れを加速させること。彼は、そう確信している。
彼が為すのは、そのための一手。強固なダムに蟻の一穴を穿とうとするようなもの。その行為によって彼は何ら恩恵を蒙らないし、特定の誰かを利することもない。
強いて言うならば、強き者をこそ利することになるか。何故なら、激流は弱き者のみを洗い流し、真なる強者を浮かび上がらせるからだ。
そうして、真に聖杯に相応しい者を見極める。それが彼に課せられた役割であり、今の彼の望みである。
しかし、誰も相応しい者が現れなかったならば――。
「茶番は終わったか」
扉の前で立ち尽くす彼の背後から、いかにも退屈に倦んだ声が、聞こえた。
不思議な声だった。
内容は平凡、特段意匠を凝らした文法を使っているわけでもない。
それでも、心に残る。
いつの間にか、その声が頭の中で繰り返されている。
忘れ難い。
そして、理屈抜きで首肯してしまう。
そんな、声だった。
「旧約聖書において、カインは、神の愛を一身に受けたアベルを嫉妬して、その身に許されざる罪を刻んだ。故に、神は彼をお許しにならなかった。では、カインがアベルを殺したのが、真に神を慮ってのことであったとしたならば、果たして神は彼を罰しただろうか?」
金髪紅眼のその男は、神の偶像の前に置かれた机の上に、無作法に腰掛けた。その手には、赤々と輝く、少し小振りな林檎が握られていた。
彼は、心底楽しそうに笑った。
「さて、どうであろうな。その神とやらが下した罰、その定義によるのではないか?何せ、狂信者どもの想像力の翼は、疲れるということを知らない。頬を叩かれても、両の目を潰されても、神が下したものならば、奴らはそれをこそ救いだと曰うだろうからな」
くつくつと、笑い声。
諧謔に塗れたその言葉の中に、神父は一握りの憎悪を見出した。
彼の正体、そしてその神話を知るものならば、彼が如何程に神と呼ばれる存在を疎んでいるか、明らかであろう。
その彼が、神の僕たる自分に形式とはいえ従っているという事実。その皮肉な巡り合わせに、神父は苦笑した。
「貴様の言うことは、悉く正しい。神の行為は、必ず正しい意味を持つ。如何に醜悪な行為であろうと、神が行うならばそれは輝かしい救済に変貌する。故に、私は思うのだ。神は最初から、カインをお許しになるつもりなど、無かったと」
神父は、まるで込み上げる涙を堪えるかのように、上を向いた。
まかり間違っても彼の瞳から涙が零れるなど在り得ることではないが、その背中には一抹の悲しさが、存在した。
「神が真に絶対であるならば、その創造物たるカインが兄弟であるアベルに対して醜い嫉妬を覚えるなど、在りうべき事ではない。つまり、カインは最初からそう神に望まれて生まれたのだ。しかし、そこには深刻な矛盾が存在する。神がカインをそうあるように御造りになられたとするならば、神はカインを罰するためにお生みになったことになる。そんな、命を弄ぶようなことを、果たして神は楽しまれるのか」
「神が無能なだけだ。それ以外の解答があるならば、教えてもらいたいものだな」
無慈悲とも思える男の言葉に、しかし神父は初めて破顔した。
そして、そのまま振り返らず、こう言った。
「貴様の言うとおりだ、ギルガメッシュ。神は無能であり、世界は矛盾に満ち溢れている。しかし、だからこそ、神は絶対であり、世界はこの上ない調和を謳歌している。私は、そう確信しているよ」
「くだらん」
男は、軽く頭を振った。
男は、神父を認めている。あくまで、一種の道化として、ではあるが。そうでなくては、彼ほど気高い存在が、如何に形式とはいえ人の下風に立つものか。
彼は、その繊細な白い手で、真っ赤な林檎を弄びながら嘯いた。
「矛盾をあるがまま受け入れられぬから、くだらぬ理屈を捏ね繰り回す破目に陥るのだ。言峰、貴様はまだ目が覚めぬか。曇りを振り払って見るがいい。世界はこの上なく滑稽で自由で、そして輝かしい。それこそ、神などという概念など立ち入る隙など無いがごとく、な」
第四次聖杯戦争。
そこで、彼は神父の蒙を啓いた。
彼は、己が当然と思うままに振る舞い、それを指し示しただけだ。
しかし、そのことが神父にとって、どれほどの救いだったか、彼は果たして知り得るのだろうか。
美よりも醜を嗜好する思考。
他者の幸福よりも、不孝をこそ志向する思考。
その呪われた思考は、罪だと思った。
罪ならば、償えるはずだ。許し給う存在が、この世ならぬどこかにいるはずだ。
そう、思った。
しかし、如何に信仰に帰依しようと、罪が許されることは無かった。
絶望した。
罪人は、永遠に罪人でしかないのかと。
問うた。
神に、父に、妻に、師に、酒に、あらゆる存在に。
その回答、あらゆるものの答えは千差万別でありながら、しかし結論は一つであった。
曰く、言峰綺礼は、罪人である、と。
あらゆる理屈が、その理窟を抜きにして、そう弾劾していた。
故に、彼は絶望したのだ。
そして、彼らは出会った。
それを、救済と呼べるか否か。
少なくとも、その神父にとってはこの上ない救済であった。
思えば、その瞬間にこそ、彼は真たる意味で神に帰依したのかも知れない。
己を悪として生みながら、しかしその救いを確約していた神に、彼は心打たれたのだ。
悪であれ、と。
悪であってよい、と。
彼は、悪としての存在を確約された上で、その生を祝福されたのだ。ならば、その存在は神の御心に適わぬものである筈がない。例え、その生の終着点としての罰があろうと、存在を認められた喜びは他の何とも代え難かった。
未だに、疑問に思うことは数多く、煩悶することは限りない。
それでも、彼は救われた。彼の背後で林檎を弄ぶ男と、その敵たる神に。
「カインコンプレックスを持つ妹が、今の父たる愛しき人を守るために人を殺めるとき、果たして彼女は愛を言い訳とするか、それとも憎を言い訳とするか、興味は無いか、ギルガメッシュ」
神父の背後で、男が林檎を齧る、硬い音が響いた。
それをどこか遠くで聞きながら、神父は続ける。
「神話では、憎を理由とした殺人を、神は許さなかった。しかし、愛を理由としたとしても、おそらく神は許しえなかっただろう。何故なら、神は真に絶対である、そう定義されるからだ。もとから許されざる存在として創造したカインを、神は決して許さない」
神父は、ようやく振り返った。
彼の視界には、尊大に足を組みながら、神の偶像の前に鎮座する男が、いた。
「私は貴様に感謝しているのだ。おかげで、こうも甘美な苦悩を味わうことができる」
「やや興醒めだな」
男は、芯だけになって痩せ細った林檎を、まるでそこが屑篭であるかのように、神の家の床に放り投げた。
神父は、さして気分を害したふうではない。この空間では、それが日常であるのかもしれなかった。
「配役には威厳が欠け、主題は陳腐だ。我の興味を引くには、些か重厚さに難あり、だ」
男は勢いをつけて机から飛び降りると、振り向いた神父の横を通り過ぎて扉へと向かった。
「どこへ行く」
「決まっている。この退屈なボレロを、少しは興のあるものに変えに行くのだ。同じ楽器の独奏が続いては、名曲も駄曲に堕ちようというもの。とりあえずは、この興行にいらぬ腐臭を加える、紛い物の器を処分する」
「許さんぞ、ギルガメッシュ」
その声は、隠し切れない怒りによって彩られていた。
男は、その表情には露程も表さなかったが、内心で耳を疑った。
神父は、明らかに怒っていた。
彼が、ここまで感情を表に出すのは、間々あることではない。
そういえば、あの濁った器とこの男は知り合いであったか。
ならば――。
「器に情でも移ったか、言峰」
嘲りの込められた、死刑執行宣言。
しかし、神父の顔色には微塵の恐れも無い。
「冬木の聖杯戦争、その賞品としての聖杯は、いわゆる神の血を受けた遺物ではない。しかし、それが聖杯を呼ばれる以上、そこには相応の価値が生じる。そして、貴様が紛い物と呼んだ聖杯、あれほど聖杯としての価値が高いものは、この世に存在し得ない」
「……どういうことだ」
「あれは、神の卵だ」
神父は、それだけを言うと、男を無視して奥の小部屋に歩き出した。もう会話は終わった、その背中がそう言っていた。
「なるほど、貴様がアレに執心していることはよくわかった。しかし、真贋を見極めるのは我の目が行う。我の目に適わなかったならば、その時は――」
かつかつ、と硬い靴底が床を叩く。
神父は、無言。
そして、その無言は肯定だ。
男は、やはりくつくつと、低い声で、嗤った。
◇
神父は、己の個室の扉を後ろでに閉めると、深く深く溜息を吐いた。
部屋の片隅に置かれたアンティーク調のキャビネットから、出来るだけ度数の高いブランデーを選んで、我が子のように抱きながらソファに身を沈める。
寒々とした石造りの室内、そこに置かれた、場違いのように豪奢なソファ。それは深々と柔らかく、彼の堂々たる体躯と精神を包んだ。
そして、彼は己の内側に、深く深く埋没していった。
――何故、私は溜息を吐くのか。
――疲れているわけではない。
――確かに穂群原学園の事後処理は困難を極めたが、実際に困難に直面したのは私ではない。
――だから、私は疲れているわけではない。
――ならば、何故。
懊悩と呼べるほどのことではない。
自己分析、只の暇潰しだ。
そのまま、彼は、少し眠った。
そして、目が覚めたとき、嗤い始めた。
彼には珍しく、声を上げながら。
何のことは無かった。
つまり、これは慶びの溜息だったのだ。
失望を顕すものでもなければ疲労を撒き散らすものでもない。
ただ、己の興奮を抑えるための安全弁。
今にも悦びで悶え狂いそうになる己の体躯を静めるための、冷却水。
彼は、そのことに気付いたのだ。
いや、そもそも、彼はそのことを誰よりも知っていた。
己が罪深いことを、誰よりも知っていた。
そして、父なる神は、救いのない罪人をこそもっとも強く愛されているのだと、そのことを誰よりも深く確信していた。
神は、今の私を見て、何と仰せになるのだろうか。
絶望に嘆くか、歓喜に身を震わせるか、その罪深さに激怒するか。
いずれにせよ、神をここに招くならば、もう少し調度には気を使うべきかも知れない。
そんなことを考えながら、神父は少し身を起こした。
テーブルに置かれた、栓の開いたブランデーのボトル。
彼は、まるで場末の酒場で若者がするかのように、それを直接呷った。
数回、砂漠の旅人が水を飲むかのように大きく嚥下して、酒精に塗れた満足の吐息を吐き出す。
口の端を法衣の袖で拭い、そこにできた小さな染みを眺める。
その濁った色に対して、清廉な笑みを浮かべつつ、彼は心の最奥にて十字を切った。
神は、彼の心の中で、鷹揚に頷いた。