FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
ひとをころしてしまいました。
少女は蚊の鳴くような声で、そう告げた。
たくさんたくさんころしてしまいました。
彼女がそう言うから、私はこう答えた。
「それがどうしたというのです。そも、あれは人ではない」
人だったものでしょう、と。
窓の外の木々が微風に揺れる。雲の間から漏れる僅かな陽光を反射したそれらは、海面のようにきらきら光っている。
でも、ひとのかたちをしたものです。それがくるしんでいました。わたしはひとをころしたのです。
彼女の表情はひどく虚ろだ。瞳は鏡のよう。像を結んではいるが、きっと何も認識していない。
「後悔しているのですか」
ここに来たことを。私の庇護のもとに置かれたことを。
少しだけ開け放った窓から、暖かい風と一緒に一匹の蝶が舞い込んできた。この蝶の名前はなんだったか。
こうかいができないのです。そして、そのことがいちばんつらい。
後悔。
馬鹿らしい感情だ。
何故なら、後悔という単語が意味するのは、常に過去だからだ。
あの時ああすれば良かった。あれは私のせいだ。そんな考えは現在から過去への責任転嫁か、過剰な自己憐憫、或いは自己への過大評価に過ぎない。
結局、人間は自分の能力以上のことは出来ないのだから、例え過去に戻ってやり直すことが出来たとしても、同じような結果の大量生産にしかならないだろう。ならば後悔という単語には何の意味もないことになる。
「それは素晴らしいことではないですか」
反省ならばいい。反省は、現在の自分に対する戒めとなり、成長の糧となるからだ。来し方になんの意味がある。大事なのは積み上げられた自己であり、これから歩む道なのだ。
あなたは、ごじぶんのせかいをしはいしているのですね。
少女の表情は変わらない。この部屋に入った時から。いや、私が彼女と初めて出会ったときから。
鉛の仮面でも被ったかのように、陰気で堅牢だ。
それは、私のお気に入りの表情だ。
「当たり前です。私に限らず、人は必ず自分の世界を持っている。それを持たないなら、それは人ではなく獣でしょう」
いや、獣ですら己の世界は備えているのか。
「今、この部屋にいるのは私と貴方ではなく、私が認識する貴方と、私が認識する私です。これは私の世界。貴方にとっては、貴方が認識する私と、貴方が認識する貴方がいるだけ。これは貴方の世界。ほら、本当の貴方も私も存在しない」
故に、この世に存在するのは、巨大な、化物みたいな存在としての唯一の世界ではなくて、無数に存在する、それこそ塵芥のような矮小な世界だけなのだ。そして、それらの小さな世界が互いに大きさを比べあっている。
「世界の中では、自己が唯一の支配者であり奴隷、観察者にして実験動物です。なぜなら、それらを認識することができるのは自己のみだから」
例え、他者に生殺与奪の権利を握られた奴隷であっても、自己の世界に対する認識を他者に委ねることはできない。奴隷が自己を哀れもうが蔑もうが、結局のところそれらの感情は己の内から来たものであり、他者が認識できるものではない。他者がそれらを認識できない以上、それを支配することなどできるはずもないではないか。
そういう意味では、人は自分の世界を支配しているのではない。支配せざるを得ないのだ。
「貴方も間違いなく、ご自分の世界を支配しています」
その言葉に彼女は。
いいえ、わたしはじぶんのせかいなどもってはいません。わたしにあるのは、わたしたちのせかいだけ。
窓が、がたがたと揺れた。少し風が強くなってきたようだ。雲も出てきた。一雨来るのかもしれない。
「それは承知しています。それでも、あなたは、今この場にいる貴方は<貴方達>ではない以上、自分の世界があるはずだ」
その言葉に彼女は。
むかしはそうでした。いまはそうではありません。
自嘲に片頬を歪めながら、そう答えた。
陽が翳りだした。厚い雲が空を覆う。今にも泣き出しそうだ。
窓を通して空を見上げながら、私は思う。まるで、目の前の女性のようではないか、と。
わたしは、わたしたちのなかでいちばんおおきかった、ゆえに、わたしたちのせかいは、わたしだった。でも、いま、いちばんおおきいのはわたしではない。かれなのです。わたしのせかいはかれのせかい。わたしにゆいいつのせかいはありません。だから
後悔することが出来ないのか。己が己でないから。世界が過去を憶えていないから。
めのまえに、たくさんのしたいがころがっていました。でも、それはわたしがころしたものではないのです。はたして、わたしはだれにしゃざいすればよいのでしょうか。
ぽつぽつと、雨粒が窓硝子を叩き始める。
それに、と少女は続ける。
わたしのせかいは、わたしにやさしくないのです。
きっと今日は嵐だ、私はそう思った。
episode51 ローレライの城
ほんの僅かの寒気と、瞼を焼く曙光によって、目が覚めた。
信じられないほど柔らかく、それでいて決して寝苦しくないベッド。我が家の煎餅布団とは、それを構成する原子の種類からして根本的に異なっているのではないか、そう思わざるを得ない。
そして、羽毛のように軽く、しかし寝袋よりも遥かに暖かい、掛け布団。
このセットだけで、一体どれだけの数のゼロがつくのか、などと小市民的なことを考えてしまう。
ぐるり、と身を捩る。
天井は、衛宮邸の倍近く高かった。
壁は清潔な白によって彩られ、その端々に、上品な装飾が施されている。
いわゆる、嫌味な成金的貴族趣味ではない。
こうあるのが当然、そういわんばかりの佇まい。偉そうなことを言わせてもらえば、俺は華美な装飾はあまり好きではないのだが、それでもこういった落ち着いた豪奢さにはある種の羨望を覚える。
ベッドから身を起こし、軽く伸びをしていると、重厚な樫のドアが、がちゃりと開いた。
「おはようございます、エミヤ様」
まるで俺が起きるタイミングを測っていたかのように現れた、メイドさん。白と濃紺に彩られた服装から、セラさんだということが分かる。
「えっと、おはようございます、セラさん
。イリヤは……」
「お嬢様は既に食堂でお待ちです」
まずい、客たる身で主人を待たせるとは。
急がないと――。
「お待ちください、エミヤ様」
「?どうしたんだ、セラさん」
「その格好で赴かれるおつもりでしょうか」
「あ」
そういえば、忘れてた。
昨日、俺は遠慮したのに、これもまた馬鹿みたいに肌触りのいいシルクのパジャマに着替えさせられたんだった。いつもはTシャツとかジャージとかで寝ることが多いから、とんと気付かなかった。
流石に、この格好のままイリヤの前に出るのは恥ずかしい。
「お着替えは、こちらに。それと、一度洗面所に行かれることをお勧めいたします」
「ありがとう――って、なんでさ?」
彼女は、視線を俺の顔から少し外して、片頬に微妙な歪みを作りながら、こう言った。
「その粗末なモノをいきり立たせたままで、お嬢様の前に参上されるおつもりということならば、お嬢様に、そしてアインツベルンに仕える者として、相応の対処をしなければなりませんが、よろしいか?」
丁寧な言葉遣いは、後半は詰問口調に変わっていた。
しかし、粗末なモノ?
彼女の視線の先は、俺の股間で、そこにあったのは、いわゆる朝起ちをした――。
「うわああぁ、ご、ごめんなさい!」
思わず姿勢は中腰に、そして両手は股間を守るように。
そんな俺を、まるで養豚場の豚でも見るかのように冷たい視線で射抜いた後、彼女は勝ち誇ったかのような顔でこう言った。
「お気づきになられたようで幸いです。それと、お顔を洗われたほうがよろしいでしょう」
彼女は部屋に入ってきたときと同じく、深くお辞儀した後で、音も無く扉を閉めて、客間を後にした。
それにしても、顔?
不思議に思って、ベッドサイドの置き鏡を覗く。
そこに映った男の眼球は、まるで一晩中泣き喚いたかのように、赤く赤く腫上がっていた。
◇
「おはよう、シロウ。よく眠れ……なかったみたいね」
イリヤの声が、落ち込んでしまった。
そんな小さなことに、重い罪悪感を味わってしまう。
「寝苦しかった?やっぱり、和風のベッドを用意するべきだったかしら」
「いや、畳は別にベッドって訳じゃあないから。よく眠れたよ、ありがとう」
俺の部屋が四つは楽に入るんじゃあないか、それくらいに広々としたダイニング。そして、そこに置かれた十人掛けの、大きなテーブル。遠坂の家のそれも大きかったが、この城は何もかもが桁違いに大きく、更には豪華だ。
イリヤは、その中央に配置された椅子に座っている。
上座や下座なんてはっきり言ってよく分からないし、テーブルマナーなんて『テ』の字も知らない。それでも、とりあえずイリヤの正面の椅子に腰掛けた。そこなら正面からイリヤと話すことが出来るし、少なくとも失礼には当たらないだろう、そう考えたからだ。
「凄いな、イリヤ」
思わず口を割って出た言葉は、しかし俺の本心からはかけ離れたものだった。
「何が?」
「いや、この城にあるものは、何だって凄いよ。圧倒されちまう」
そう、確かに凄い。
朝日を反射してきらきらと複雑に輝くシャンデリアも、部屋の各所に配置された燭台も、それが当然のように部屋と馴染んだ暖炉も、その全てが美しく、気品に溢れている。
確かに、凄いのだ。
しかし、その光景に針の一刺し程の痛ましさを覚えてしまう。
彼女は、ここで一人、食事をとっていたのだろうか。
二人のメイドは、おそらく彼女のことをこの上なく敬い、そして重んじているのだろう。
しかし、それ故に彼女達が対等にイリヤと接することは在り得ない。
ならば、彼女はこの広い空間は、なんと寂しいものだったのだろうか。
「そう?ここは別宅だから、質素なものよ。みすぼらしいとは思わないけど、それほど褒めるべきものは見当たらないわね」
彼女は事も無げに呟いた。
「それに、お兄ちゃんが褒めてるのは、アインツベルンという家の力であって、私の力ではないわ。そこらへんを整理して理解できるようにならないと、近い将来、きっと痛い目を見るわよ」
また、お説教を喰らってしまった。
何か最近、多いなあ。
そんな、優しい、しかし意味の薄い会話をしていたら、いい香りのする料理が運ばれてきた。
少し大きめの皿に盛り付けられていたのは、サラダとソーセージ、スクランブルドエッグその他もろもろ。
思ったより普通だ。
「がっかりさせたかしら?でも、あまり形式ばったものにしても、美味しくないでしょう?」
どうやら、気を使わせてしまったらしい。
確かに、あまり食べ方の分からないような料理が出てきても、困る。銀の器に収まった半熟卵など、果たしてどう食べたものか、昨日の代羽くらい途方に暮れてしまうだろう。
「さ、食べましょう。今日はシロウと遊ぶんだから、たっぷり食べて元気をつけないとね!」
彼女はそう言って、さも嬉しそうにフォークを手に取った。
俺も、それに習う。
彼女は、一体俺をどうするつもりなのか。
その、根源的な問いに、厚く蓋を閉めたまま。
◇
カポーン、と、不思議な効果音が響きそうなほど広い、浴場。
ホテルの大浴場なんかでも、これほどの立派なものはそうはあるまい。
何故、俺はこんなところにいるのだろう。
料理は、とても美味しかった。
特に、ドイツ料理に定番のレバーソーセージは絶品だ。今朝のあれを食べるまでは、妙に臭味の強いソーセージというイメージしかなかったが、今日のそれは、今までの悪印象を拭って余りあるほどの衝撃を与えてくれた。
そんな、この城の調度に比べればやや質素な、しかしこの上なく贅沢な朝食を終えたとき、イリヤが言ったのだ。
『シロウ、汗臭い』、と。
これでも年頃の男の子。
可愛い女の子に臭いと言われれば、ほんの少しの自尊心が傷つく。
仕方ないじゃあないか。
昨日は、色々あったんだから。
昼間は、アーチャーにぼこぼこにされて、その後すぐにマキリ邸に攻め込んだ。
その後食事を取って、さあ風呂にでも、そう思った瞬間にバーサーカーの来襲。
冷や汗も脂汗もたっぷりとかいた後に風呂に入ることも出来なかったんだ。そりゃあ汗の臭いの一つだってするだろうさ。
そんな自己弁護を繰り返しながらうじうじしていたら、イリヤが言ったのだ。
『お風呂、沸いてるよ』と。
「しかし、まさか風呂まで豪華とは……。外国の人ってあまり浴場に拘らないイメージがあったけど」
確か、ヨーロッパあたりは日本と違って水が硬く、風呂などにつかるとすぐに肌荒れを起してしまうから、風呂はもっぱら体調を崩したときの治療がわりとして用いられる、と聞いたことがある。
そもそも、あちらは大気が乾燥しているため、あまり風呂に入る必要がないらしいし。
ならば、あちらにあったものをそのまま持ってきたというこの城に、何故これほど豪華な浴場があるのだろうか。ひょっとしたら、貴族と一般庶民との価値観の差なのかもしれないが。
一通り体を流し、ゆったりと湯船に浸かる。
ふいーっと、深く息をつく。
全身の毛穴から、疲れが染み出していくかのようだ。
やはり、風呂はいい。日本人の幸せを感じる。
ゆっくりと天井を見上げると、ドーム型になったその中央に、大きな天窓が見えた。
夜になれば、星を見上げながら湯に浸かる、そんな贅沢も可能なのだろうか。
両手でお湯を掬って、ぱしゃりと顔にかけた。
ぽたぽたと、鼻先から水滴が滴る。
それの起こす波紋を見つめながら、思う。
遠坂達、きっと心配しているだろうな。
彼女達に迷惑をかけるのは、これで一体何度目だろうか。
悪いことをしたな、と思う。
それでも、仕方ないじゃあないか、そうも思うのだ。
考えてみれば、やはり分不相応だったのだろう。
何年も修行しても、親父の背中にさえ追いつけなかった。
人類の理想の体現たる英霊達ですら、己の叶えられなかった望みが、ある。
ならば、俺の願いは、所詮――。
「はいるよ」
栓の無い思考を中断するかのように、声がした。
抑揚の無い、平坦な声。
しかし、聞き間違えるものか。
さっきのは、間違いなく女性の――!
がらがらと、浴室の扉が開く。
そして、そこには。
全裸の。
リズ、
さん、
が。
「ちょ、ちょっとー!」
首が千切れそうな勢いで横を向いた。
しかし、見てしまった。
分厚い湯気のヴェール、その奥に、はっきりと。
これでも健全な青少年、仕方ないじゃあないか。
あれは、奇跡だ。
たわわに実った、スイカが二つ、くっついてた。
「す、すぐにでますから、ちょっとだけ、そとでまっていてください!」
あれは、凶器だ。
ある意味、あのバーサーカーが振るう斧剣以上の、殺人兵器。
もう一度目にしてしまったら、俺の理性は粉々に砕け散るだろう。
「だめ。イリヤの命令。とのがたの背中をながす。にほんのでんとう」
誰だ、そんな間違えた日本文化を教えた命知らずは!
「違うから!そんなの、伝統でも何でもないから!」
俺がそう叫ぶと、背後で軽く首をかしげた気配があった。
「あれ、違った?」
「そう!完膚なきまでに違う!完全武装に勘違い!頼むから、早く出てってくれ」
そうしないと、色々と不味い。
具体的に言うと、俺の理性のワイヤーが、悲しげな声を上げて軋んでいる位にはぎりぎりなのだ。
「でも、せなかを流さないと、かえれない。イリヤの命令は、絶対だから」
ぺたぺたと、近付いてくる足音。
不味い。
このままだと、背中を流す以上にとんでもない事態になる気がする。
「わかった!わかったから、そのまま動かないでくれ!すぐにあがるから!」
「うん。すなおでよろしい」
ばくばくとうるさい心臓を押えつけて、湯船からあがる。
極力後ろを見ないようにして、一番手近にあった風呂椅子に腰掛ける。
しかし、よく考えてみれば、不思議だ。
外国の浴場に、風呂椅子なんて備え付けているものなのだろうか。
そんなことを考えていたら、背中に柔らかいタオルの感触が当たった。
「痛かったら言って。初めてだから、加減が難しい」
そう言いながら、彼女は俺の背中をごしごしと洗ってくれる。
他人に背中を流されるなんて初めてのことだから、少し緊張してしまう。しかも、相手は女性、更にはとんでもない兵器を胸に装備している。
アレは、そう、兵器だ。
武器でもなく、凶器でもない。
間違いなく、兵器。
そう呼ぶに相応しい威容を兼ね備えていた。
きっと、あの桜よりも――。
「ねえ、シロウ。ひとつ聞いてもいい?」
「な、なんだ?」
「シロウは、イリヤのこと、好き?」
とくり、と、心臓が鳴った。
背中に感じる、優しいタオルの感触。それを通じて、何か暖かいものが流れ込んできた。
しばらく、無言。
ぴちょん、と、天井から垂れた水滴が、床にぶつかる音が、響く。
その間も、彼女は俺の背中を洗ってくれていた。
「……リズさんは、イリヤのこと、好きなんですか?」
「うん。大好き。きっと、セラもそう」
一拍の間もない即答。
そして、無機質な声に込められた、限りないほどの愛情。
俺は、先ほど食堂で感じた、意味も無い哀れみを、恥じた。
イリヤは、愛されている。
こんなにも、愛されている。
ならば、たった一人の食卓であろうと、侘しいはずが無い。
よかった。
「……まだ付き合いが浅いから、あんまりはっきりしたことはいえないけど、でも、きっと好きなんだと思う。もちろん、セラさんやリズさんなんかには及びもつかないんだろうけどさ」
彼女は、何も話さなかった。
無言のまま、俺の背中を擦り続ける。
ただ、その手つきが心なしか丁寧なものに変わっていた。
そして、やはり、暖かかった。
「うん。じゃあ、シロウがイリヤを守ってあげてね」
「――リズさん、何を――」
思わず振り返りそうになる首を、必死の理性で押し留める。
そして、彼女は今までよりも一際強い力を込めて、大きく俺の背中を擦った。
少しだけ、痛かった。
「うん、終了。綺麗になったね」
やっと終わりか。
なんと貴重な拷問時間だったことだろう。
ほんの少しの残念さを覚えたが、それ以上にほっとする。
しかし、他人に背中を流される、それは思ったよりも気持ちよかった。
そして、思う。
昔、同じことが無かったか。
そうだ、切嗣だ。
親父と一緒に風呂に入ったとき、背中の流しっこをしたものだ。
なんで忘れていたんだろう。
それに、もっと昔にも――。
そんなことを考えていたら、がしり、と肩を掴まれた。
はっ?
「ここまではイリヤの命令。ここからはわたしのさーびす」
ぐるり、と風呂椅子ごと回転させられる。
「せっかくだから、隅から隅までぴかぴかに」
今まで、リズさんは俺の後ろにいた。
そして、俺が180度急回転。
前は後ろに、後ろは前に。
ならば、当然、俺の前には、彼女がいるわけで。
「……」
彼我の距離は直近。
そこに、湯気みたいな邪魔者の立ち入る隙間は無い。
つまり、ダイレクト。
やっぱり、目の前には、スイカが二つ。
たゆんたゆん、揺れていた。
「ういやつ、ういやつ。もっとちこうよれ。うぶなねんねじゃあるまいし」
そんな、よく分からない日本語を聞きながら、俺の意識は深い闇の中に落ちていった。
◇
……肌を刺すような冷たい風が、火照った頬に心地いい。
優しい何かが、聞こえる。
それは、風に遊ばれる木の葉のざわめきであり、小鳥の遊ぶ声であり。小さな少女の子守唄だった。
きらきらと、瞼に光が当たる。
日差しは、きっと弱い。それが、素早く点滅を繰り返すように瞬いている。
背中に、心地いいリズムを感じる。
優しい子守唄に合わせたそのリズムは、心に生じたささくれを、優しく癒してくれるかのよう
その全てが、合唱していた。
起きろ、起きろ。
今は、眠るにはもったいない。
今は、起きていなけりゃもったいない、と。
それでも、眠たい。
腕を、庇の代わりにするべく、動かす。
すると、さらりとした、絹糸のような何かに、触れた。
その感触がこそばゆくて、それ以上に心地よくて。
俺は、浅い眠りの底から、起きだす破目になってしまった。
目を、薄ぼんやりと開けると、少女が、いた。
雪のように白く、雪のように柔らかく、雪のように暖かい、少女だった。
彼女は、目を閉じ、その可憐な唇で、優しい唄を、唄っていた。
Ich weiss nicht was soll es bedeuten,
Das ich so traurig bin.
Ein Maerchen aus alten Zeiten,
Das kommt mir nicht aus dem Sinn.
Die Luft ist kuehl und es dunkelt
Und ruhig fliesst der Rhein,
Der Gippel des Berges funkelt,
Im Abendsonnenschein.
美しい、歌声。
この曲は、確か『ローレライ』、だったか。
『なじかは知らねど 心わびて、
昔の伝説は そぞろ身にしむ。
寥しく暮れゆく ラインの流
入日に山々 あかく映ゆる。
美し少女の 巖頭に立ちて、
黄金の櫛とり 髪のみだれを、
梳きつつ口吟む 歌の声の、
神怪き魔力に 魂もまよう。
漕ぎゆく舟びと 歌に憧れ、
岩根も見やらず 仰げばやがて、
浪間に沈むる ひとも舟も、
神怪き魔歌 謡うローレライ。』
ああ、なるほど。
こんなに美しい少女が、こんなに美しい唄を歌っているんだ。
そりゃあ、船乗りだって、酔っちまうだろう。
そして、そのまま海底に誘われるんだ。
でも、そこは荒ぶる海じゃあない。
きっと、母なる海、その一番落ち着いたところだ。
おそらく、幸せ、だったんだろう。
だから、耳を塞ぐことも、しなかった。
彼らは、幸せに死んだんだ。
「起きた、シロウ?」
彼女は、歳とは不相応に、大人びた笑みを浮かべた。
それは、母親や姉が浮かべる、慈愛に満ちた笑みだった。
俺が、初めて見る、笑みだった。
「俺、一体……」
視界に広がるのは、彼女の美しい紅の瞳と白い肌、絹のような銀髪、そして、風に揺れる緑の木の葉。ちらちらと、雪のように舞い散る木漏れ日が、暖かい。
「湯あたりをおこしたんですって。シロウってばうっかり屋さんなんだね」
湯あたり。
そうか、俺は湯にあたったのか。
何か、もっととんでもないモノにあたった気がしたけど、イリヤが言うならきっと気のせいだ。
彼女の細い指が、俺の癖のある赤毛を梳いていく。
その感触に、思わず目を閉じてしまう。
少しくずぐったくて身を捩ると、耳に衣擦れの感触があった。それに、地面を直接枕にしているには、如何にも柔らかい。
ああ、イリヤが膝枕してくれているのか。
そう気付くと、少し気恥ずかしくなってしまった。
「ごめん、迷惑かけた。すぐ起きるから」
そう言って体を起こそうとすると、意外なほど強い力で肩を押えつけられた。
「駄目。シロウが倒れてからまだそんなに時間経ってないんだから。ここはこの城で一番風通しがいいわ。もうしばらく、ゆっくりしていなさい」
ああ、それがいいか。
どうせ、それほど急ぎの用があるわけでもない。
なら、ここでのんびりするのは最高だ。
「イリヤ、さっきの唄、もう一度唄ってくれないか」
不躾なアンコール。
歌手が怒って帰っちまっても仕方ない。
それでも、彼女は、微笑ってくれた。
「ええ、お客様。貴方のお気に召すまで、何度でも」
そう言って、彼女は、再び目を閉じた。
やがて流れ出す、不朽のメロディ。それを唄うのは、きっと本物のローレライだ。
ここに、永遠の安息がある。
俺は、安心して、目を閉じた。