FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
私がこの空間を地獄として認識してから、既に月は十ほど満ち欠けを繰り返した。
それがどれほどの時の長さなのかは分からないし、
少女は暗い部屋にいることが多かったから、それが正確な数字なのかも分からないが、
どうやら私は少女と共にあった。
いままでは断片的な音声としてしか認識できなかった少女は、
今や私と同一の存在と呼べるものになっていた。
私が少女に近づいたのか、それとも少女が私寄りの存在となったのかは不明だ。
ただ、私は少女と折り重なっている、その実感だけはあった。
相変わらず周囲を満たすのは黒い黒い水。
黒蜜のような、コールタールのような、ヘドロのような。
その中で、私は少女になっていた。
少女の意識が流れ込んでくる。
混沌とした、暗い感情に満ちたそれは、まさに呪いと呼ぶに相応しかった。
それを受け止めて、私は驚いた。
彼女は、きっと世界の全てを呪っていると思っていた。
その資格が、彼女にはある。
それくらいの自由、認められてもいいはずだ。
しかし、彼女が呪っていたのは世界などという、得体の知れないものではない。
たった一人の人物だった。
それは、毎日、気が狂わんばかりの苦痛と快楽を与える老人でもなければ、
この地獄を娯楽として待ち望んでいた私でもない。
彼女が憎んでいたのは自分自身。
この呪いは、この世の全てを覆い尽くすような自己嫌悪。
その事実に気付いたとき、私は思った。
この命に代えても、この少女を守ろう、と。
世界を敵に回しても、彼女を幸せにしよう、と。
人の理を無視しても、彼女と共にあろう、と。
これは、誰に向けたものでもない、自分に向けたものですらない誓い。
だからこそ、それは神聖で不可侵だ。
ああ、名前も知らない少女、おそらくは私と同じ存在のあなた。
私があなたを守護しましょう。
私はあなたの盾となりましょう。
そう、誓った。
次に、思った。
守るからには強くならなければ。
盾となるからには、大きくならなければ。
だから、私は手を伸ばした。
存在するはずのない手を伸ばした。
そして、掴んだ。
それは、この空間にあって、私でなかった異邦者達。
荒々しいモノ。落ち着いたモノ。
頭のよさそうなモノ。キグルイとしか思えないモノ。
暖かいモノ。冷たいモノ。
私はそれらに手を伸ばし、
かりかりと、食べ始めた。
episode52 中庭と姉と弟と
彼女は、少し疲れたみたいだった。
調子に乗って、アンコールを連発しすぎたか。ひょっとしたら、彼女の知ってる童謡の全てを歌ってもらったのかもしれない。
「ありがとう、イリヤ。もう満足だ」
「うん、そうだね。私も少し疲れちゃった」
そういって、彼女はにっこりと笑った。
だいぶ身体の調子も戻ってきたので、少し名残惜しいけど、体を起こす。
今度は、彼女も止めなかった。
「ここ、どこなんだ?」
立ち上がって見渡せば、色取り取りの花の群。そして、整地された石畳と、周囲に聳える石壁。足元には緑色の芝生が広がっている。
「ここは、お城の中庭なの。あまり見栄えのするものじゃあないから、普段は誰にも見せないんだけど、シロウは特別だから」
控えめなイリヤの表現とは裏腹に、一般庶民の俺からすれば、感嘆の溜息が出そうなくらい、見事な庭園だ。
それに、さっきのイリヤの言葉には、どこかに隠しきれない誇りがあった。きっと、実はイリヤもここが大好きなのだ。
「アインツベルンの城は冬城だからね、ここは年中寒いの。今日みたいに暖かいのは、本当珍しいわ」
確かに、暖かい。
木陰に入れば調度いいくらいに涼しいが、日向に出て軽い運動をすれば少し汗ばんでしまうのではないか、それくらいの気候である。
俺は、一旦上げた腰を、イリヤの隣に落ち着けた。
幹の太い大樹に、二人で寄り掛かるように、座る。
別に何をしているわけでもないし、何を与えられたわけでもないが、ただここにいるだけで、限りない幸福を味わえてしまう。
ここは、そんな楽園だった。
本当に、幸せだった。
はじめて、幸せだった。
幸福すぎて、涙が溢れそうだった。
「ねえ、お兄ちゃん、今度はお兄ちゃんが歌って」
俺の肩に頭を預けたイリヤが、そんな無茶な注文をした。
「イリヤの歌った後に歌う勇気は流石にないよ。自慢じゃないけど、音痴だぞ、俺」
「ふふ、知ってるわ、そんなこと。だって、お父様もそうだったもの。でも、凄く暖かかったの。きっと、シロウの声もそう。だから、聞きたいわ」
そこまで言われたら、断ることなんて出来ない。
遠い昔、親父に歌ってもらった童謡、それを必死に思い出す。
歌ってる途中に歌詞がわからなくなる、そんな無様は避けたい。
しばらく逡巡して、やっと歌えそうな歌を、見つけた。
唇を一度舐めて、少し硬い声で、歌う。
シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こはれて消えた
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに こはれて消えた
風々吹くな シャボン玉飛ばそ
「悲しい歌だね」
しばらくの静寂の後、イリヤが言った。
確かに、悲しい歌だ。
失ったもの、かえらないもの、それを惜しむ、歌だ。
それでも、きっと、それを乗り越えるための、歌なのだろう。
「もっと歌って。なんだか懐かしいの」
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
夕焼小焼の、赤とんぼ
負われて見たのは、いつの日か
山の畑の、桑の実を
小籠に摘んだは、まぼろしか
十五で姐やは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた
夕焼小焼の、赤とんぼ
とまっているよ、竿の先
「その歌、聴いたことがある」
イリヤは、目を瞑ったまま、そう言った。
しばらく、自己の内側に埋没するように首を傾げ、そして、少し弾むような口調で、笑った。
「ああ、そうだ、思い出したわ。キリツグが歌ってくれたのよ。お母様と、私と、三人で歩いてたときに、歌ってくれたの。安心して、シロウ。貴方のほうが、歌が上手いわ」
彼女は息も絶え絶えに笑いながら、やっとの調子でそう言った。
その顔は、本当に幸せそうだった。
俺は少し楽しくなってきて、最近聞いた歌を歌うことにした。
正直、なんだかよく分からない歌だったけど、人の真似をするのはそれなりに上手いから、問題なく歌えるだろう。
確か、こんな歌詞だったはずだ。
A kind father plays with a little John.
Clip,clip,he dumps his name,name.
A grandfather plays with a little John.
Snip, snip,he loses his flail,flail.
えっと、その先は何だっけ。
確か――。
「ねえ、シロウ、その歌、日本の童謡?」
隣でイリヤは小首を傾げていた。
「いや、違うよ。これは童謡なんかじゃなくて――」
何だ?
童謡じゃあなくて、何なんだ?
どこで、聞いた?
最近聞いたはずなんだ。
でも、どこで――。
「『小さな小さなリトルジョン。
優しいパパと、遊んでもらえてご満悦。
ちょきちょきちょき。
可愛いお名前、どこかに忘れて、ご満悦。
小さな小さなリトルジョン。
お爺ちゃんと、遊んでもらえてご満悦。
ちょきちょきちょき。
楽しい玩具、はさみでちょんぎって、ご満悦。』
あまりよくわからないけど、この国の言葉で意訳すると、こんな感じかな?」
イリヤが、その細い首を傾げたまま、そんなことを言った。
何故だろう。
どこか、この歌詞は禍々しい。
どこが。
「それにしても、幼稚な歌詞だね。言い回しもそうだし、韻の踏み方もなってない。きっと英語を母国語にしてない人が作った詩ね、間違いないわ」
彼女はくすくすと笑った。
そうだ、確かにそういう違和感はある。
なんと言うか、童謡調の歌なのに、不自然に文法に拘っていたり、逆に妙なところで砕けていたり。俺はあまり英語が得意ではないが、それでも違和感を感じる。
「それでも、歌詞は興味深いわね。ねえ、シロウ、はさみって心理学で言うと何を象徴してるか、知ってる?」
心理学?
昨日もそんな話をした。
確か、解離性同一性障害がどうとか。
正直、少し難し過ぎてちんぷんかんぷんだった話だ。
「いや、わからない」
「去勢、よ」
口元に深い笑みを湛えながら、彼女はそう言った。
その瞳は、どこかぎらぎらとしていて、不吉な何かを感じさせるに十分だった。
風が、吹いた。
あたりが、ほんの少しだけ、寒くなったみたいだった。
「それに、flail、フレイルっていうのは色々な形状がある武器だけど、共通するのは長い柄の先に、鎖で何かをくっつけていることね。中には、スパイクのついた鉄球をつけてる、なんて分かりやすいものもあるし」
分かりやすい?
なにが、だ?
「剣をはじめとした武器っていうのは、その多くが男性器を象徴してるわ。多分、この歌詞のflailもそう。棒の先に球体が付いてたら、誰だってそれを連想するわよね」
「つまりね」
「この歌詞は」
「『パパ達の言うこと聞かないと、おちんちんをちょん切っちゃうぞ』」
「そういう歌なのよ」
どくり。
何だ。
どくり。
何だ。
どくり。 どくり。
何かを、掴みそうになった。
何だ。
汗が、出てきた。
どくり。 どくり。 どくり。
じわりと、滲む。
この歌詞だ。
どくり。
この先は、何だった。
思い出せ。
どくり。
きっと、なにかが、ある。
それに、どこだ。
どこで聞いたんだ。
どくり。 どくり。 どくり。 どくり。 どくり。 どくり。 どくり。
この歌は、どこで。
最近だ。
どくり。どくり。どくり。どくり。どくり。どくり。どくり。
最近、聞いたはずなんだ。
どこで。
どくり。
そして、この先の、歌詞は。
どくり。
「少し、しらけちゃったね」
太腿に、重い感触があって、どきりとした。
襟首を引っ掴まれて、現実に引き戻された、そんな感じだった。
それでも、俺の太腿を枕代わりにする少女を見ると、安心した。
ここに、俺の幸せがある――。
そう、感じた。
「ねえ、キリツグのこと、話して」
無邪気な瞳。
彼女は、その瞳で、俺を見上げていた。
細められたそこには、やはり優しい紅。
まるで、最高級のルビーだと思う。
この紅をそのまま封じ込めることが叶うならば、世界中の好事家が、己を破滅させかねないほどの大枚を叩いても、きっと彼らは後悔しないだろう。
「昨日、あらかた話しちまったよ。そうだな、次はイリヤの番じゃあないか?歌だって唄ったろ?」
「あら?シロウは、あんなに下手な歌で、私のと同じ評価を下すの?」
棘を抜いたバラみたいな台詞を口に出して、彼女は微笑った。
俺は、俺がしてもらったみたいに、彼女の髪を梳いた。
一切の引っかかりも無く、冗談みたいに、するり、と、梳くことができた。
本物の絹だってこうはいかない。
魔法みたいな、手触りだった。
「歌うっていう行為そのものに価値があるんだよ。だから、次はイリヤの番だ」
俺がそう言うと、イリヤは拗ねたみたいに口を尖らせた。
眉根を寄せたその表情は、歳相応で可愛らしい。
「わかったわ。こんなに幼気な少女を脅迫するのね。やっぱり、貴方はキリツグの息子だわ」
彼女のは、その視線を、俺の顔から少し逸らした。
「ねえ、シロウ。この木、何の木か、わかる?」
この木?
俺も、上を見る。
俺達を日差しから守るように枝を伸ばした、木。
大木とはいえない。精々が、校庭に生えた桜なんかと同じくらいの大きさだ。
何だろう、この木は。
「ええ、と……。ごめん、よくわからない。クルミ……に似てる気もするけど、違うし……」
太腿の上で何かが揺れていたので下を見ると、彼女が口に手を当てて、笑っていた。
我慢しても我慢しても、笑みが溢れてくる、そんな感じだった。
「あはは、お兄ちゃんも一緒だね。私も間違えたんだ。でも、これはクルミ。サワグルミっていう、クルミの仲間なの」
「へえ、知らなかった」
言われてみれば、あの葉の生え揃い方なんかはクルミと一緒に見える。
「キリツグったらひどいんだよ。一緒に散歩しながらどっちが多くクルミの冬芽を見つけられるか勝負したときに、私は普通のクルミしか知らないのに、キリツグはサワグルミもノグルミもカウントしてたの。そんなの、勝てるわけ無いじゃない」
イリヤはぷりぷりと怒りながら、そう言った。
「お母様も一緒だったのに、教えてくれなかったの。キリツグとお母様は共犯だったのよ。信じられないわ、全く」
そうか。
イリヤは、お母さんと、切嗣と、三人で野山を歩いたことがあったのか。
なんと、幸せそうな情景だろうか。
それは、まるで――。
「でも、今は二人ともいない。お母様もキリツグも、この国で命を落とした。そして、キリツグはアインツベルンを裏切った。だから、私には、お兄ちゃんしかいないの」
雪のように純白の、まるで人のものではないかのように美しい手が、俺の頬をそっと撫でた。その感触の、何と滑らかなこと。
そして、彼女は微笑んでいた。
何の障壁も無い、純粋な笑み。この世のあらゆる庇護欲を一身に受けてもなおあまりあるような、そんな笑み。
しかし。
「イリヤ。教えて欲しい。親父は、何をしたんだ」
「……何って?」
「あの火事があったのが、十年前。そして、魔術師である親父がふらりとこの町に来たのも、俺を拾ってくれたのも、同じ時期だ。一体、親父は何をするためにこの街に?」
イリヤの瞳から、色が消えた。
いや、その表現は正確ではない。
色ではなく、熱。
人として最低限必要な熱。
それが、その瞳から消え失せていた。
「……人はね、疑問を口にするとき、大抵は自分の中でそれなりの答を用意しているものなの。それが正解かどうかは置いておいて、ね。そうでないと、疑問すら思いつかないわ。ねえ、シロウ。貴方はどう考えているの?全て偶然、それじゃあ駄目?」
「……親父は、俺を救ってくれた。だから、親父のしたことを受け止める義務が、俺にはあるんじゃないかと思う。だから、誤魔化したくない」
「……じゃあ、シロウはどう思ってるのかしら?」
口の中が、乾いていた。
舌で、唇を湿らせた。
それでも、その言葉を口に出すのは、難しかった。
何故なら、とっくに理解していたからだ。
俺は、知っていた。
だから、あの神父に、あれほど反発したんだ。
「……親父は、聖杯戦争の参加者だった」
それだけを、やっとの思いで口にした。
「……正解よ」
それだけを、イリヤは、言い切った。
何かが終わった。
そして、何かが息を吹き返した。
そう、思った。
「アインツベルンはね、『始まりの御三家』でありながら、他の二家に比べて、魔術が絶望的に戦闘向きじゃあなかった。だから、反則技まで使って勝ち残ろうとしたけど、その度に失敗したの。そして、熟考の末、どうしたと思う?」
「聖杯戦争は、サーヴァント、そしてマスター同士の殺し合い、か」
「そういうこと。強力な戦闘専門の外来のマスターを招いた。これは、千年以上続く魔術の家系ではまずありえないことよ。とんでもない屈辱。周りの他家からは嘲笑だってあったでしょうね。おそらく、血涙を飲む想いで決断を下したんだと思うわ」
「それが親父……」
「少し古株の魔術師に『エミヤ』って聞いて御覧なさい。皆、総毛だって脅えるわ。それほど、キリツグは戦闘面に特化した魔術師だった。『魔術師殺し』、そんな異名を受け取るほどに、ね」
「なんで親父はその招きに応じたんだ?」
「詳しいことはわからないわ。ただ、利益の合致があったこと、それは間違いないと思うの。アインツベルンは聖杯戦争に勝ち残ることを求め、キリツグは聖杯そのものを求めた。そして、キリツグとお母様は聖杯戦争に身を投じ、二人とも戻らなかった。これが結末。どう?別段面白い話じゃあなかったでしょう?」
「……親父は、勝ち残ったのか?」
「ええ。本当、鬼神の如き強さだったって聞いてるわ。サーヴァントとの確執も無視して、ひたすら効率的に敵マスターとサーヴァントを排除していったって。だからこそ、彼に恨みを持つアインツベルンも、最後まで報復の手を伸ばすことは出来なかった。最初から敵わないってわかってるんだもの。無駄なことはしないのが魔術師、そうでしょう?」
「じゃあ、聖杯を手にしたのか?親父の願いは叶ったのか?」
「いいえ。そこらへんは、あの神父から聞いてるんじゃないの?第四次聖杯戦争に、勝者はいなかった。最後まで勝ち残ったキリツグは、最後の令呪を使って、自分のサーヴァントに聖杯の破壊を命じた。それで、本当に終わり。それだけの話よ」
「……何で、親父は最後の最後に、聖杯を壊したんだろう?」
「大体の想像はつくし、きっとそれは真実なんだろうけど、教えてあげない。でも、聖杯は、キリツグの求めていた聖杯じゃあなかった。そういうことなんでしょうね」
涙が、流れていた。
知らぬ間に、涙が流れていた。
全て、理解した。
理解したのだ。
親父が、聖杯に何を求めていたのか。
そして、聖杯が、どういうものだったのか。
あの夜。
焦げ臭い大気に塗れて、彷徨ったあの夜。
己の皮膚から立ち上る焦げ臭さに嘔吐した、あの夜。
天に、ぽっかりと浮かんでいた、黒い太陽。
赤く焼けた天を背景に、その赤さまでも飲み込んでいた、あの穴。
そして、そこからあふれ出した、黒よりなお黒い、何か。
あれが、聖杯だったんだ。
アレが、聖杯の中身、だったんだ。
だから、切嗣は、最後に破壊を命じた。
一体、如何程の葛藤があっただろうか。
手は、届いていたのだ。
奇跡に、手は届いていた。
しかし、その奇跡が切嗣を裏切った。
あれは、何かを救えるような、器用なものじゃあなかった。
むしろ、その対極。
あらゆるものを殺す、きっとそんな存在だ。
ならば、あの火事は偶然か?
偶然、あの家事が起きて、そしてあの穴が生まれたのか?
違う。
あの火事も、あれが生み出したものだ。
五百の消し炭を作り出したあの火事は、それでもあの穴に潜むものの、産声ですらなかったのだろう。
きっと、ただの胎動。
それで、五百の命が消し飛んだ。
それだけの、力。
そこに、切嗣が奇跡を見出さなかったと、何故断言できる?
万が一。
いや、もっと低い可能性でも、これが真実の聖杯ならば。
これが、彼の理想を叶える、その力を持っていたならば。
いや、力は、ある。
あとは、方向性を正すだけ。
なら、可能なのではないか?
ここで自分の理想が、実現するのではないか?
そんな葛藤が、あったかもしれない。
いや、人間ならば、必ずあった。
断言してもいい。
しかし、彼はそれを断ち切った。
その欲望に抗って、最後の決断を下す、そのなんと苦痛に満ちていることか。
そして、彼は全てを失った。
妻を失い、娘を失い、理想に裏切られた。
何もかも失って、何もかも失って。
そして、俺を見つけてくれた。
見つけてくれた、のだ。
彼は、笑ってくれた。
傷だらけで、どろどろで、今にも死にそうな、小汚い子供を見つけて、笑ってくれた。
笑ってくれたのだ。
ならば。
俺は、何をするべきだ。
何かを、するべきだ。
理想がどうとかじゃあない。
力が足りないとかじゃあない。
為すべきことが、ある。
例え血反吐を吐こうが、全身を切り刻まれようが。
背徳の罪を犯そうが、後ろ指さされる罪人に身を堕とそうが。
彼に救われたものとして。
彼の、息子として。
今、俺には為すべきことが、ある。
偽者だとか本物だとかは些細な問題だ。
恐怖に屈したとか、死が怖いとかなんて、当たり前だろう。
それでも、親父は目指した。
確かに挫折したかもしれない。
ひょっとしたら、あの火事だって親父の責任かもしれない。
それでも。
それでも、親父は俺を助けてくれた。
俺は、親父に助けてもらった。
ならば。
決まっている。
俺も、助けるのだ。
誰を、じゃあない。
誰か、だ。
誰でもなく、それ以上に誰でもある。
それを、助ける。
正義の味方なんて、不可能かもしれない。
一生かけても、あの背中には届かないかもしれない。
それでも、今、俺に助けられる存在があるはずだ。
ならば、救うさ。
その結果、あの赤い世界があってもいい。
その結果、不幸が待っていてもいい。
その結果、野垂れ死にでも構わない。
その結果、世界の奴隷でも、望むところ。
結果を、恐れるな。
目的を、恐れるな。
意味を、恐れるな。
意志だ。
それだけでいい。
刃は、この手に。
その手綱は、心で。
戦え。
戦え。
戦え。
お前には、出来る。
なにせ、オレは、息子だ。
親父の、息子だ。
血は繋がらない、しかし、血よりも濃いものを受け継いだ、息子だ。
ならば、俺は立ち上がらなければならない。
俺自身のためではない。
親父のために。
親父の名誉と、誇りのために。
戦え。戦え、戦え。
朽ち果てるまで、戦え。
崩れ落ちるまで、戦え。
死に果てるまで、戦え。
今日のために、今までの苦難があったのだ。
今日のために、全ての努力が存在したのだ。
今日のために、運命が収束してくれたのだ。
戦って、戦って、戦い続けろ。
そのために、お前は生き残ったのだ。
そのために、魔術回路が在ったのだ。
感謝を。
全てに、感謝を。
セイバーに、凛に、桜に、アーチャーに、キャスターに、全ての人に。
そして、イリヤに。
君のおかげで、視界が晴れた。
背筋が、伸びた。
理想が、息を吹き返した。
これで、俺は戦える。
これで、俺は衛宮士郎を名乗ることが出来る。
紛い物でも、胸を張ることが出来る。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
◇
「ごめん、イリヤ。俺、帰らないと」
シロウは、そう言った。
その瞳からは、絶え間ない涙が、流れていた。
私は、悟った。
致命的なミスを、どうやら犯してしまったことに。
彼の中で、何かが壊れた。
人を人足らしめる、何か、重要なもの。
彼の中でようやく芽生えようとしていた、儚い何か。
それが崩れる音を、はっきりと聞いた。
「……帰って、どうするつもり?」
彼は、涙を流したまま、笑った。
そこに、自分の探していたもの、必死で探していた何かを、見つけたみたいだった。
「決まってるだろ。戦うんだ」
ああ。
お父様。
貴方は。
貴方の、呪いは。
何故、かくも残酷に彼を。
分かりました。
不可能なのですね。
彼の中に貴方を残していては、彼は救われない。
なら、話は早いわ。
彼を、殺します。
一度殺して、それから彼を救う。
そうすれば。
瞳に、強い意志を込める。
この魔術の発動は、それだけでいい。
きっと、彼はそれに抗えない。
彼は、私の虜だ。
それでいい。
シロウはシロウのまま愛したかったけど。
壊れていく彼を見送るよりは、遥かにましだ。
やがて、彼は崩れ落ちた。
食事中の幼児が、眠りの世界からの誘惑に負けたときみたいに、ふうわりと。
私は、彼を抱き止める。
思ったよりも、軽かった。
「セラ、リズ」
後ろで、何かが動く気配があった。
「はい、お嬢様」
「彼を私の部屋まで運んで。私は、招かれざるお客様を歓待する準備をしないといけないから」
「承知しました」
リズがシロウを抱えると、私の方を、少し悲しげな瞳で見つめた。
私は、何も答えない。
彼女も、何も話さない。
それだけで、十分だ。
「さて、侵入者は一人。なら、遠坂じゃあないわね。マキリか、それとも……?」
久しぶりに、血液が沸騰しそうに、興奮していた。
いや、苛々していたのかもしれない。
それをぶつけることの出来る対象、それが近付いてくる。
ああ、なんて幸せ。
そして、なんて不幸な、人。
さあ、来なさい、哀れな贄。
私が綺麗に平らげてあげる。