FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
今は何時だったか。
時計の針を信じるなら、太陽は中空を越え、僅かに傾き始めた頃合だろうか。
それは、一日の中では太陽の支配する時間であり、いくら日が傾くのが早い季節とはいえ、昼間の勢力が衰えるには早すぎる時間だ。
しかし、この鬱蒼とした森の中では、昼は夜にその領土を明け渡してしまっているらしい。
陽の光の届かない、暗い森。こんな自然がこの冬木に、いや、日本という国にあるということが正直信じ難い。
私達は、言葉を忘れたように黙々と歩く。タクシーを降りてから、既に一時間は経過したはずだ。
「気をつけろ。そろそろアインツベルンの勢力下に入ったはずだ」
隠し切れない緊張を孕んだアーチャーの声。
無理もない。
アインツベルンの領土には、当然存在するはずなのだ。
無邪気な、笑いながら人が殺せるくらい無邪気な少女と。
そして、何の躊躇いもなくその命令を実行することのできる鋼の従者が。
「セイバー、士郎は」
「今のところ、ラインに異常はありません」
マスターとサーヴァントは、魔力の供給のためにラインで結ばれている。それは魔力の供給以外にも、無意識の共有や、簡単な意志の疎通すら可能にする。
不完全とはいえ、士郎とセイバーはラインで繋がっている。そのセイバーが言うのならば、どうやら士郎はまだ無事らしい。
「急ぐぞ、凛。あの粗忽者のことだ、いつ自らの寿命を縮める軽挙に走るか分からん」
アーチャーのいうとおりだ。あの馬鹿は望んで自らを危険に晒す悪い癖がある。
……無事でいてよ、士郎。
じゃないと、無事ですましてなんかやらないから。
episode53 集結
……おかしい。
この森に入ってから感じていた微妙な、しかし決定的な違和感がどんどん強くなる。
「妙ね」
「どうしたの?キャスター」
桜が問いかける。
「アインツベルンというのは高名な魔道の一族なのでしょう?それが支配する領地、そこに魔術的な監視や罠が一つもないのは解せないわ」
そうだ。
私が感じていた違和感はそれだ。
あまりに無警戒すぎるのだ。
確かに、彼女は最強の従者を従えている。正面からの襲撃ならば、例え敵が複数であっても物の数ではないだろう。
しかし、例えばアサシンのような搦め手も存在する以上、自らの陣地には最低限の監視や結界があってしかるべきだ。
それなのに、これまでそういった存在を感知することはできなかった。
「アーチャー」
「残念だが、凛、私もそういったものの存在は確認できていない。ただ、何らかの魔術の基点となるような痕跡はいくつかあった。どうやら今は機能していなかったようだがな」
どういうことだろう。
私はひたすらに足を動かしつつ、自らの思考の内に埋没する。
「……それは既に使い捨てられたものなの?」
「さあ、私はそれほど魔術に造詣が深くはないのでね、断言することはできない。キャスター、君の意見を聞きたい。君も気付いていたのだろう?」
珍しく、アーチャーがキャスターに話を振った。
「そうね、中には既に機能を失ってたのもあったけど、ほとんどは最近魔力を通した痕跡があったわ。少なくとも機能不全に陥ってる、ということはないはずよ」
ということは、考えられるのは三通りか。
1、発動する必要がない。
2、発動する意志がない。
3、発動することができない。
あのお子様の性格からしていかにもありそうなのは1番だが、現状ではそれ以上の推測は不可能だろう。
少なくとも、今の私達にとって監視がないのは僥倖だ。
正面からあの狂戦士と戦ってはあまりに勝算が薄い。
急襲、奪回、即時離脱。
今回とり得る戦術はそれ以外にない。
ならば、天が与えたもうたこの好機を見逃す手はない。
そこまで考えたとき、前衛を務めていたアーチャーの足が止まった。
「どうしたの、アーチャー」
いぶかしむ私の声にも彼は振り返らない。
嫌な予感がする。
私の勘は、そういった方面に対してはひどく敏感だ。
そして残念なことに、最近はその機能が役立つことが非常に多い。
私は疲労を訴える足を叱咤して、彼の横まで走った。私の視界が、彼と同じものを捉える。
……何だ、これは。
忘れかけていた燦燦たる陽光を浴びながら、私は絶句した。
森が、ない。
いや、正確に言うならば森の一部が消え失せている。
それ自体はなんら驚くべきことではない。どんなに深い森でも、開けた場所の一つや二つはあるものなのだろう。
しかし、一直線に伸びたそれが、地平線の向こうからその反対まで続いているというのはどういうことだろう。
その幅は約20メートル。まるで急造の高速道路でも通ったみたいだ。うねるように地面についた模様は、蛇か何かが這いずったあとような印象を受ける。そして、地面には押しつぶされた巨木が転がっている。おそらく、何か巨大で長大な物体が通過した跡なのだろう。
アーチャーはしゃがみこんで巨木の残骸を手に取った。
「……驚いたな、凛、これを見ろ」
アーチャーが持っているのは何の変哲もない木片だ。しかし、そこに残った濃密な魔力をみれば、これがただの木片でないことがわかる。
「これは……」
いつの間にか私の背後にいたキャスターも絶句する。
「ああ、石化している」
そう言ったアーチャーは木片を強く握り締めた。
バキ、という乾いた音をたてて粉々になった、木片だったもの。
「石化の魔術……?」
ささやくように弱弱しい桜の声。その声には怯えに近いものが含まれている。
それに対して、キャスターが言う。
「いや、おそらく違うわ。石化の魔術は恐ろしく燃費が悪い。それをこんなふうに無差別に撒き散らす馬鹿はいない。これはむしろ現象、生態に近いものだと思う」
つまり、例えばソイツがそこに居るだけで、或いは呼吸をするだけで周囲の物体を石化させるようなナニカ。それがここを通ったということか。
落ち着いて周囲を見渡せば、道の脇に立った木々も石化しているようだ。
蛇、石化。
この二つの要素から、私は一匹の怪物を連想した。
おそらくは、ギリシャ神話で最も有名で、最も厄介な怪物。
その目を見た全てを石に変える、呪われた女神。
「アーチャー、一応訊くけど、この道の先は」
「ああ、私達の目的地と一緒だな」
私は内心で、信じてもいない神とやらに愚痴を零す。
――ああ、神様。何故あなたは余計な真似をするのが好きなのですか。いつか私があなたの元に召されたら、きついビンタをかましてやるから覚悟しておいてくださいね。
「急ぎましょう。シロウが心配だ」
いつもは冷静なセイバーの声にも焦りの色が見える。
彼女が見つめるのは、石化した巨木で舗装された、長大な道の先。
そこにいるのは、鉛の大英雄と、純白の少女。
そして、得体の知れないナニカ。
◇
軽い頭痛で、目が覚めた。
イリヤに優しく起こされたときとは雲泥の、吐き気がする目覚めだった。
「ここは……」
二日酔いみたいに濁った視界で、周囲を見渡す。
相も変わらず豪華な調度。
しかし、俺が泊まった客間よりも、更に一段階グレードが高い気がする。
そして、天蓋つきのベッドに置かれた、可愛らしいぬいぐるみ。
ああ、ここは。
「おはよう、シロウ。気分はどう?」
優しい、声。
それでも、先ほどまでの無邪気さが、ない。
いや、無邪気さはそのままに、子供だけが持ちうる残酷さをブレンドした、そんな声。
「イリヤ……」
起き上がろうとする。
しかし、手首に僅かな痛みを感じて、その行動は断念せざるを得なかった。
「なんで……」
「当然でしょう?貴方は戦うことを選んだんだもの。なら、私の敵で、つまりは捕虜。ここにジュネーブ条約は適用する余地はないからね、そのつもりで」
どうやら、椅子に座らされて、後ろ手に縛られているらしい。
先ほどまでの待遇とは、正に天と地だ。
「……俺を、どうするつもりだ」
彼女は、さも楽しげに、人差し指を唇に当てた。
「んー、最初はお人形さんにでもするつもりだったんだけどね、今のシロウの器を変えても不愉快なだけだから、それは断念したわ」
人形?器を変える?
意味の分からない言葉に、この上ない不吉を覚える。
「冗談じゃない。俺は、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ」
「貴方の意見なんて、通ると思ってるの?ああ、可愛い人!」
いつの間にか俺のすぐ目の前に立っていたイリヤは、その細い指で俺の頬を撫でた。
そして、言った。
「これが最後通牒よ。貴方の人生を左右する、重要な、問い。心して答えなさい。どういう返答をしても、きっと貴方は後悔することになるから」
そして、彼女の顔が、近付いてきて。
頬に、柔らかい彼女の手が添えられて。
唇が、柔らかい何かと、触れ合った。
何が起きているのか、全く理解できない。
そして、唇を割って口腔内に侵入してきた、柔らかいイリヤの舌。
それが、俺の舌を絡めとり、歯茎をなぞり、徹底的に蹂躙した。
何も、考えられない。
何も、抵抗できない。
一体どれほどの時が経ったのだろうか。
いつのまにか、イリヤの顔が、目の前にあった。
その、可憐な唇から、悪戯めいて飛び出した、可愛らしい舌。
そこに、きらきらと光る、唾液の橋が、架かっていた。
「一緒に、ここで、一緒に暮らしましょう、シロウ」
「い……りや……」
「貴方は綺麗よ、その歪な生き方も、その愚直な理想も。だから、外の世界ではあなたは排除される。人は純粋なものに憧れ、それ以上に恐怖するわ。なぜなら、世界は純粋を嫌うから。
でも、ここなら大丈夫。ここなら貴方も生きていける。だって、ここには何も無いから。嫌になるくらい地獄だけど、同じくらい天国。
一緒に、此処で一緒に、いつまでも静かに暮らしましょう、士郎」
それは、どこまでも甘美な誘惑だった。
凍てつく時間によって閉ざされた荘厳な城の中で、雪の精のように美しい少女と暮らす。
そこには何の変化もなく、何の苦しみもない。
あるのは、ただただ安らかな人生。
昨日と同じ今日を生き、今日と同じ明日を待つ。
永遠の冬の中、永遠の春を過ごす。
ならば、それはやはり天国なのだろう。
「大丈夫、心配しないで、シロウ。煩わしいものは、全部捨ててきてあげる。欲しいものは全部揃えてあげる。だから、お願いだから一緒にいて、お兄ちゃん」
そう言って、彼女は俺を抱きしめた。
まだ女性と形容するにはあまりに儚い胸に包まれる。
思い出すのは遠い過去。
記憶から失われたはずの美しい日々。
望めば、それが手に入る。
いつの間にか縛めは解かれていた。
さっきまで後ろ手に縛られていた両手で、彼女を抱きしめる。
驚くほど細いその腰は、ほんの少し力を込めれば呆気なく砕け散ってしまいそうだ。
体に感じるのは、意外なほど高い彼女の体温。ひとひらの雪を連想させる彼女には、相応しくないとすら思える。
だから、分かってしまった。
きっと、イリヤは本当に俺の身を案じてくれている。
そして、こんな俺を本当に必要としていてくれる。
それは、本当に、涙が出そうなくらい、嬉しかった。
「なあ、イリヤ」
「なあに、シロウ」
でも。
いや、だからこそ。
俺は、彼女を裏切らなくてはいけなかった。
「凛が、待ってるんだ」
腕の中の彼女の体が、ほんの微かに強張る。
「セイバーも、桜も待ってる。きっと心配してると思うんだ。だから、俺、帰らなくちゃ」
俺の頭を抱きしめている彼女の腕に、僅かな、しかし精一杯の力が込められる。
「何で?何で私じゃいけないの?」
俺にはその問いに答える資格なんて、ない。
「それに、俺が助けなくちゃいけない誰かもいるはずなんだ。イリヤ、お前の提案は本当に嬉しかったけど、俺は行かなくちゃ」
そこまで言うと、俺の視界一杯に、イリヤの顔が映った。
お互いの吐息の熱さが感じられる距離。
赤い、血のように紅い彼女の瞳。
にこやかに歪められたそこには、何の狂気も感じられなかった。
でも、俺にはわかるよ、イリヤ。
君は、死ぬほど怒っている。
「ねえ、シロウ。私は今日ほどキリツグに殺意を感じた日はないわ。
あなたはどこまでも真っ白だから、この上なく他の色に染められやすい。
そして、今のあなたを染める色は、限りなくグロテスクよ」
穏やかに笑ったイリヤは、そう言って俺から離れた。
それを追いかけようと腰を浮かすと、両手を縛った荒縄が、俺の意思を阻んだ。
あれ?さっき確かに。
「だーめ、物分りの悪いシロウにはお仕置きが必要だから、その縄は解いてあげない。
ちょっとだけ待ってて、シロウ。あなたを縛り付けるもの全部、私が壊してあげるから。
それから、あなたを真っ白に戻してあげる。そうすれば、あなたは人間に戻れるわ」
彼女はそう言って部屋から出て行った。
間違いない、イリヤは凛達を殺すつもりだ。
駄目だ、あの子にそんなことは似合わない。
絶対にそんなこと、させるもんか。
「投影、開始」
俺はいつものように唱えると、右手に現れた短刀でロープを切り始めた。
◇
気に入らなかった。
キリツグが、気に入らなかった。
私に優しかったキリツグが好きだった。
私と遊んでくれたキリツグを愛していた。
私を捨てたキリツグを憎んだ。
私を忘れたキリツグを殺したかった。
でも、今は。
今は、ひたすらに、気に入らない。
私じゃなくて、彼を選んだキリツグが。
そして、彼の心にあんなにも大きな爪痕を残したキリツグが。
安心して、シロウ。今から、あなたの中のキリツグを殺してあげる。
そうすれば、きっとあなたは幸せになれる。私が、幸せにしてみせる。
行きましょう、バーサーカー。
彼を殺して、彼を生かすために。
「だから、あなたは邪魔よ、マキリ臓硯」
望まれざる客人に向かって私は言った。
「いつから気付いておった?」
ゆっくりとロビーの柱の影から姿を現す老人。
いつから?彼は耄碌したのだろうか、私を馬鹿にしているのだろうか、それともその両方か。
「ここはアインツベルンの森。いわば私の体内よ。あなたのように穢れた異物、気付かないとでも思ったの?」
「かかっ、言いよるわ小娘が。ならば当然我が従者にも気付いておるのだろうなぁ」
私と、私のバーサーカーを前にして、この落ち着き払った態度が気に入らない。
「あなたの従者?私がそんなものに注意を払うとでも思っているの?蟲の従者なんて、蛆かハリガネムシくらいが精々でしょうに」
そう言うと、臓硯は痙攣するように大きく笑った。
「なるほどなるほど、ハリガネムシか、言いえて妙よな。その通り、我が従者は長虫の類よ」
カツン、と杖を鳴らす妖怪。
「正体などすぐに割れよう、故に真名を教えてやる。我が従者の名前はメデューサ、ギリシャ神話最悪の怪物よ」
彼がそう言い終えるやいなや、頑強を誇る城の外壁が吹き飛んだ。
そこにいたのは、黒いうねり。
長大な、連環。
その光る眼球の存在を予感した私は、咄嗟に眼を伏せた。
まるで、脅える子犬がそうするかのように。