FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode56 マキリ臓硯

 首に撒きつかれ、絞め殺された。

 その巨体に、磨り潰された。

 胴体を、力任せに引き千切られた。

 吐き出した胃液で、溶かされた。

 牙に宿った毒で、狂い死んだ。

 一体、彼は幾度の死を迎えたのだろうか。

 分からない。

 少女に、大切な従者の死の数を数えることの出来る理性の余裕など、残されていなかった。

 

「英雄といえど、二本足で戦うものにとって、この足場は如何にも戦い難かろうなあ。蛇の血は、油が多い。彼奴にしてみれば、氷の上で戦うほうが、まだやり易かろうよ」

 

 ただでさえ滑らかな、大理石の床。

 その上に、満遍なく敷かれた、蛇の血液。

 それが、彼の足場の摩擦係数を、極度に減らしていた。

 彼の、押さえの利かない怪力、それが仇となる。

 立ち上がることが出来ない。

 仮に立ち上がることが出来ても、踏ん張ることが出来ない。

 仮に踏ん張ることが出来ても、攻撃を受け止めることが出来ない。

 滑る。

 何もかもが。

 手に馴染んだ岩剣ですら、彼の意志を裏切るかのように。

 ぬるり、ぬるりと。

 彼のように、白兵戦しか戦闘手段を持たないものにとって、確かにここは死地であった。

 そして、何より致命的だったのが、彼の性質。

 彼が、深い理性を湛えた本来の彼であったならば、この状況を打破する策の一つや二つ、容易に講じることが出来ただろう。

 しかし、彼は狂戦士。

 只管に殺し、只管に敵に向かい、只管に剣を振るうしか許されない、呪われた存在。

 彼に、理性など残っていない。

 故に、彼は動けない。

 そして、彼が完全に狂いきっていたならば、その本能をもってこの場から逃げ出していたかもしれない。

 状況さえ変わるならば、やはり彼は最強だ。

 壁の隙間から見え出す外の世界に戦場を移すことが叶えば、やはり互角以上の戦いは望めるだろう。

 しかし、彼は彼女の従者。

 致命的にまで狂いながら、その背中は常に彼女を守り続ける。

 その、理性とはいえない理性。

 あえて言うならば、英雄として刻まれた、本能。

 人を救うという、宿命。

 そして、彼女との、絆。

 それが、彼を縛った。

 故に、彼は動けない。

 つまり、単純な話だった。

 彼は、勝てない。

 勝敗が決するのが、早いか遅いかの違いだけ。

 あと、命のストックが何個あろうが話は変わらない。

 結論は、出ている。

 そのとき、狂戦士が、己の運命に抗うように、か細く吼えた。

 

episode56 マキリ臓硯

 

「理解できぬか、アインツベルン、何故ヘラクレスが勝てぬかを」

 

 足元から、声がした。

 意識が、違うどこかから戻ってきた。

 

「本来ならいかにメデューサといえ、怪物というカテゴリに含まれる以上、ヘラクレスには勝てぬ。それは間違いない」

 

 気付けなかった。

 足元。

 階段の、下。

 そこから、しわがれた、粘着質な声が、した。

 

「しかし、それはヘラクレスが力において勝るからではない。技において勝るからではない。人が怪物に勝るのは、その知と理性よ」

 

 こつり、こつり、と。

 殊更ゆっくりと、奴が階段を上がってくる。

 その背後に、隠しきれない何かを従えながら。

 きちきちと、軋る何かを従えながら。

 

「人はその知で怪物に立ち向かい、その理性で怪物を打ち滅ぼす。その両輪を欠いたヘラクレスなど、既に英雄と呼べるものではない。ならばそれは只の化け物。化け物同士の戦いならば、より深い年輪を刻んだメデューサに分がある。故にこの勝負、ヘラクレスでは勝てぬのだ」

 

 理解できたかな?

 彼はそう言って、それから痙攣するように、低く笑った。

 

「しかし、既に貴様が学ぶ時間は終わっている。後は、精々後悔するがいい。貴様になど、生きる価値は無いのだから」

 

 彼の背後の影が、盛り上がった。

 膿を搾り出す寸前の痤瘡のように。

 

「さて、如何様に死にたいかな?まずは、人の形を残したいか否か、それから問おうか」

「ふざけるな、下種が!」

 

 魔力。

 何の加工も加えない、純粋な魔力を、そのまま弾丸に変えて叩きつける。

 指向性をもった魔力の渦、それが奴の頭部を弾き飛ばす。

 鼻から上、そこをからにして、しかし奴は笑い続ける。

 それは、悪い冗談みたいな光景だった。

 

「蟲の快楽で狂死するのがお好みか?それとも、女陰から臓物を引きずり出してやろうか?耳から脳髄を啜られるというのはどうかな?」

 

 臓硯の影から溢れ出した蟲が、消し飛んだ頭部に集まった。

 うぞうぞとした細かい蟲が、やがて人の形を作っていく。

 駄目だ。

 私では、こいつに勝てない。

 

「決めたぞ。全てだ。全てを味あわせてやろう。感謝するがいい、人形よ。貴様のように作られた存在には、過ぎた贅沢よ」

 

 口元を愉悦に歪ませながら、しかし奴は笑っていなかった。

 その目に宿ったのは、怒り。

 隠し切れない、憤怒。

 ひっ、と、情けない声が漏れた。

 思わず、後ずさる。

 こいつは、何者だ。

 何者だ。

 知らない。

 こいつは、知らない。

 こいつは、誰だ。

 一体、誰だ。

 私は、逃げた。

 敵に背を向け、恥も外聞も無く、逃げた。

 駄目だ。

 こいつには、勝てない。

 何かが、違う。

 こいつは、何かがずれている。

 

「お嬢様!」

 

 声が。

 セラ。

 

「イリヤを虐めるやつ、許さない」

 

 リズ。

 手には、長大なハルバート。

 私の、大切な人達。

 駄目。

 貴方達でも、勝てない。

 

「Verbrennung、Die Atmosphäre、In Asche!」

 

 セラの魔術。

 大気が、燃える。

 臓硯が、燃えている。

 きいきいと、蟲達の断末魔が、響く。

 それでも、奴は歩を休めない。

 

「この程度か、アインツベルンのホムンクルスよ。いや、所詮は聖杯に成り得なかった出来損ない、過分な期待は酷に過ぎるか」

 

 こつり、こつり、と奴が歩を進める。

 不快な焦げ臭さを纏わりつかせながら。

 

「それ以上イリヤに近付くな」

 

 リズ。

 自慢のハルバートを振りかぶって。

 跳躍。

 そして、轟音。

 壁に、リズと、セラが。

 

「がは!」

 

 犬が鳴くような、悲鳴。

 二人が、血の塊を、吐き出した。

 哄笑する、臓硯。

 奴の後ろに、巨大な蟲が。

 蟷螂と蠍を組み合わせて巨大化させ、悪意で彫り上げたかのような形状。

 幻想種。

 明らかに、臓硯よりも巨大な魔力。

 まさか、使い魔?

 ありえない。

 主人より強力な使い魔など、ありえない。

 これは、なんだ。

 こいつは、なにものだ?

 

「さて、まずは気の狂わんばかりの快楽、であったかな?」

 

 ぼとぼとと、赤黒い蟲が、天井から落ちてきた。

 まるで、男性器のような、卑猥な形状。

 淫蟲。

 忌まわしき、マキリの魔術。

 

「安心するが良い、気付けば、何も分からぬ白いところにいる。経験者が語るのだ、間違いないぞ」

 

 くつくつと、奴は嗤う。

 びちゃびちゃと、蟲が、跳ね回る。

 嫌だ。

 嫌。

 助けて。

 誰か。

 蟲が。

 蟲が。

 蟲が蟲が蟲が。

 

「イリヤ!」

 

 声、が。

 

「イリヤから離れろ、てめえ!」

 

 人影。

 私と、蟲の間に。

 背中。

 大きい、背中。

 切嗣。

 ああ、違う。

 彼じゃあない。

 シロウ。

 私の、弟。

 

◇

 

 化け物と化け物が殺し合う、戦場。

 その間近。

 僅かに頭上で対峙したのは、魔術使いと魔術師。

 一人は、若い。

 その面影には、若者だけが持つ青臭さと、等量の可能性が色濃い。

 錆び色の瞳、少し癖のある赤毛。

 一人は、既に百を超えた老人の風貌。

 落ち窪んだ眼窩は、一体どれほどの絶望を飲み込んできたのだろうか。

 そんな二人が、対峙した。

 もし、魔道に身を捧げた時間がその実力を決定するならば、二人の間には埋め難いほどの力の壁が存在する。

 若者は、逆立ちをしても勝てまい。

 しかし、その瞳に宿った炎の色は、不屈。

 ゆるりと構えた双剣。

 その様は、歴戦の騎士のよう。

 そして、相対するは、理想の残骸。

 文字通り、残骸。

 その瞳には、驚愕。

 いや、もっと粘ついたもの。

 恐怖。

 恐れ。

 唇を戦慄かせ、後ずさる。

 それは、明らかに脅えていた。

 何に脅えていたのか、分からない。

 それでも、明らかに脅えていたのだ。

 

「何故だ……何故、貴様がここにいる!」

 

 そのとき。

 怪老が何かを恐れ、後ずさったとき。

 ホールを埋め尽くす大蛇の群、その中の一匹が、その腐った視界に、若者の姿を収めた。

 蛇は、一瞬考えた。

 あれ、何だろう、と。

 可愛らしく、小首を傾げて、考えた。

 その退化した記憶力を総動員して、思い出そうとした。

 僅かな間。

 そして、蛇は狂喜した。

 思い出した、と狂喜した。

 ああ、獲物だ。

 確かに、獲物だ。 

 あの時仕留めそこなった、可愛らしい獲物が、ここにいる。

 彼女は、彼を愛でたときの快楽を、今だ忘れていなかった。

 殴っても、蹴りつけても、立ち上がった、彼。

 涙を流し、小便を漏らし、絶望に抗いながら、立ち向かってきた、彼。

 ああ、彼がいる。

 それは、恋にも似ていたかもしれない。

 幸い、目の前にいる巨人は、既に脅威ではない。

 彼と遊ぶのもいいだろう。

 新たなる快楽の予兆に胸を躍らせながら、彼女はその紅い瞳で、愛しい人を、見つめた。

 

◇

 

 醜悪な、蟲。

 不快な、蟲。

 卑猥な、蟲。

 這いずる。

 飛び掛る。

 落下する。

 払い除けた。

 踏み潰した。

 叩き切った。

 身体が、軽い。

 ここまで。

 これほどか。

 強くなったと思う。

 キャスターの魔術の効果が、まだ残っているのかもしれない。

 それでも、強い。

 肉体的なものではない。

 精神的なものでもない。

 もっと、根源的なもの。

 存在そのものの強度。

 それが、強くなった気がする。

 理由は、明白だ。

 理解したから。

 自分の存在価値を、理解した。

 存在理由を、理解した。

 自分が何のために生きるべきか。

 何を目指し、何を求め、何に縋っていくべきか。

 それを、理解した。

 道が、見えた。

 一度は消えかかった道だ。

 きっと遠大で、空虚で、荒廃した、道。

 その先に何があっても、構わない。

 何があっても拒否しない。

 幸せがあるならば、それを受け入れる。

 絶望があるならば、それを受け入れる。

 何も無いならば、それを受け入れる。

 その覚悟。

 簡単なことだった。

 借り物の理想。

 正義の味方の偽者。

 それでいい、それでかまわない、それを、受け入れる。

 ならば、あとは簡単だ。

 進めばいい。

 助けるだけだ。

 あれほど重たかったあの誓いが、今は羽根が生えたように軽く感じる。

 無心で、剣を振るう。

 右手で振るう。

 左手で振るう。

 右足で振るう。

 左足で振るう。

 爪先で振るう。

 指先で振るう。

 拳で振るう。

 背骨で振るう。

 筋肉で振るう。

 骨格で振るう。

 脳味噌で振るう。

 精神で振るう。 

 殺意で振るう。

 理想で振るう。

 本能で振るう。

 振るう。

 振るう。

 振るう。

 いつしか、蟲はいなかった。

 切り刻まれた、蟲の残骸が、あった。

 目の前には、何も無かった。

 そして、目の前に、老人が、いた。

 マキリ臓硯。

 堕ちた魔道、マキリの当主。

 かつて桜を苦しめ、今、イリヤを脅えさせる、敵。

 俺の、倒すべき、敵。

 人の寿命を基準とすれば、無限ともいえる時を魔道の探求に捧げた、魔人。

 本来ならば、俺程度の存在、纏わりつく羽虫よりも軽いだろう。

 だからこそ、奇妙だった。

 その、瞳。

 落ち窪んだ眼窩。

 そこに宿った光。

 それは、脅えだった。

 紛れもない、恐怖。

 予想外の事態が起きた、それに対する驚愕もあるだろう。

 そもそも、俺がここにいることなんて、彼の既定事項からは外れているはずだからだ。

 それでも、それだけではない。

 まさか、俺に脅えているのか?

 俺に殺されると、脅えているのか?

 否。

 俺だって、馬鹿じゃない。

 そこまでの自惚れは、いくらなんでもできない。

 こいつは、あの凛と互角以上に渡り合ったのだ。

 大体の話は聞いている。

 奴の背後に控える、巨大な蟲。

 蟷螂のような複眼、しかし、蠍のような毒の尾。

 きらきらと、不吉に光る金剛石の体。

 あれは、あの夜に、凛がやっとの思いで退けた幻想種と同じものだろう。

 ならば、俺にあれが倒せるか?

 わからない。

 やってみないと、わからない。

 しかし、容易ではないだろう。

 それくらいは、わかる。

 いや、正直に言おうか。

 俺では、あれに勝てない。

 不可能だ。

 明らかな力の差。

 例えば、サーヴァントと対峙するほどの絶望的なものではないにせよ、幸運だけでは埋められない、差。

 それが、ある。

 だから、俺ではマキリ臓硯に勝てない。

 少なくとも、普通に戦ったのでは、だ。

 限界を超えれば?

 限界を超えて魔術回路を酷使すれば?

 それこそ、わからない。

 だが、有利なのはあちらさんだ。

 奴が脅える理由など、どこにあるというのだ。

 

「何故だ……何故、貴様がここにいる!」

 

 意味不明な呟き。

 そこには、絶望といってもいい、深い嘆きがあった。

 奴は、大きく口を開いたまま、固まっていた。

 まるで、閉じる事を忘れてしまったかのように。

 喘ぐように開かれた口、その端から、濁った涎が滴り落ちる。

 魂が、丸ごと抜け落ちてしまったかのような、その様子。

 それは、一縷の哀れみを覚えさせるのに、十分だった。

 

「ありえん……何故……どうして……」

 

 焦点を失った瞳。

 俺を指して、そのままわなわなと震える、枯れ枝のような指。

 よたよたと、酔っ払いのように、後ずさる。

 流石に、不審を覚える。

 何が言いたい?

 そう、問いただそうとした、その刹那。

 限りなく凶暴な何かが、ホールの方から、すっ飛んできた。

 一体、何が?

 そんなこと考えている余裕なんて、無い。

 とにかく避けないと、死ぬ。

 いや、死よりも酷い目に、合う。

 後ろに、イリヤ。

 抱えて、思いっきり、跳ぶ。

 後頭部に、凄まじい擦過音。

 寒気のする、空気の流れ。

 そして、凄まじい轟音。

 大理石の壁が、紙細工のように爆ぜた音。

 城が悲鳴をあげているかのよう。

 腕の中のものを、卵のように大切に抱いたまま、地面に倒れ伏す。

 肘が、地面と擦過する。

 嫌な熱。

 顔を顰めつつ、後ろを振り返る。

 そこには、黒く巨大なチューブのようなものが、突き刺さっていた。

 悪い冗談みたいな、光景。

 一体、何がホールにいるのか。

 視線を、横に。

 

「やめろ!見るなぁ!」

 

 怪老の、悲痛な、叫び。

 しかし、遅かった。

 俺の視界に、赤い瞳が。

 赤い、瞳が。

 赤赤赤い赤赤い赤赤赤いいいいい赤い赤い赤赤い赤い、世界が。

 赤い世界が。世界が。赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤世い赤い赤世界が。い赤い赤い赤い

 赤い赤い赤い赤い世界が。赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い

 赤い赤い赤い赤い赤赤い赤い赤い赤い赤世界が。い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い 

 赤赤赤世界が。世界が。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤

 赤赤赤世界が。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤 

 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤世界が。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤 

 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤世界が。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤世界が。赤赤世界が。

 

◇

 

 喚いていた。

 老人が、喚いていた。

 口角泡を飛ばすような様で、見苦しく、それでも必死に。

 その瞳の先には、己の従者。

 黒々とうねる、蛇の塊。

 それを相手に、老人は、喚き散らしていた。

 

「分をわきまえよ!貴様に課した使命は、そこな狂戦士の抹殺!それ以外の行いは、許可した覚えは無い!」

 

 言葉の通じるかどうかも知れない怪物を相手に、マキリ臓硯は、必死に訴えかけていた。

 私の腕の中には、意識を失ったシロウ。

 ぱきぱきと、耳を塞ぎたくなるような音が、彼の四肢から響く。

 

「『私が指令を下すまで、自衛以外、独断で動くことを禁じる』、令呪をもって命じた令を、忘れたか!」

 

 原因ははっきりしている。

 あまりにも有名な、伝説。

 彼女の瞳を見たものは、石くれと成り果てる。

 それこそ、幼児でも知っているような、伝説。

 彼は、その実証者となってしまったのだ。

 助ける術は? 

 無い。

 おそらく、術者が死ぬか、解呪を施さない限り、この石化は止まらない。

 ならば、私が為すべきなのは、目の前の男に、この呪を解かせること。

 彼は、ゴルゴンの主なのだ。

 彼が命じるならば、この石化は止まるはず。

 なのに。

 

「疾く、この術を解け!疾く、疾く、疾く、疾く、疾く!」

 

 誰よりも慌てていたのは、かの老人だった。

 誰よりも慌てふためき、滑稽なほど狼狽していた。

 その様は、いっそ哀れなほどだった。

 哀れなほど、何かを恐れ、何かを愛し、この上なく狼狽していた。

 その狼狽振りは、私に、失われた冷静さを取り戻させるほどだった。

 何故?

 何故、彼がこれほど醜態を晒さねばならないのか。

 この上ない勝利のはずだ。

 バーサーカーは敗れ、私は奴に歯が立たない。

 イレギュラーで参戦したシロウも、彼の従者の前に敗れ去った。

 これ以上の戦果があるだろうか。

 なのに、何故。

 シロウが生きていないと、この老人に、何か不都合でもあるというのか。

 いや、そうではあるまい。

 もっと、単純なところだ。

 もっと単純なことで、彼は恐怖している。

 何に?

 きまっている。

 シロウが、死ぬことに、だ。

 

「おのれ、おのれ、おのれ、怪物め!これが貴様の復讐かぁ!」

 

 彼の背後から、無数の蟲が涌いた。

 見たことも無い、奇妙な蟲の、群。

 それが、一斉に、彼の従者を襲う。

 奇妙な、構図だった。

 おそらく、長い聖杯戦争でも、一度として見られなかった構図ではないだろうか。

 マスターを殺すサーヴァント、そんなものはいくらでもいただろう。

 令呪の力でサーヴァントに自害を命じるマスター、それもいたかもしれない。

 しかし、サーヴァントを、令呪に力を用いずに殺そうとする、マスター。

 そんなもの、この儀式の本質から考えて、生じるはずのない戦いだ。

 そして、絶望的な戦い。

 蟲が、砕けていく。

 文字通り、虫けらを潰すかのように。

 蛇が身を捩るだけで、いとも容易く。 

 それは、一際大きな魔力を貯えた、あの幻想種でも同じこと。

 耳を劈くような奇声をあげて、蛇に切りかかっていったが、その巨大な顎、その中にまるで吸い込まれるようにして消えていった。

 ごくり、と。

 一飲みだ。

 数瞬、蛇の喉元辺りが蠢いていたが、やがてそれも収まった。

 

「嘘だ、おのれ、何故!何故、こんなことに!くそ、おかしい、なんで!どうして!違う、こんなものは、わたしののぞみでは…」

 

 老人の声は、突然、消えた。

 当然だろう。

 蛇の体内に飲み込まれて、それでも喚き続けられるはずが、ない。

 老人を飲み込んだ大蛇は、満足気に、その細い舌で唇を舐め取った。

 ちろり、と。

 そして、その溶け出しそうな白目で、私達を見た。

 大きく口を開けて、さも嬉しそうに。

 これから私達が誘われる空洞を、その口の中に、見せびらかす様に。

 次は、お前達だ。

 そんな、声が、聞こえた。

 私は、シロウを強く抱きしめた。

 せめて、最後は一緒に。

 それが、最後の思考だった。

 

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