FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
吹き飛ばされた城壁。瓦礫と化したシャンデリア。泥とほこりに塗れ、襤褸と呼ぶにも憚られる絨毯だったもの。要するに、ここは既に廃墟だ。
窓など見上げる必要はない。天井と外壁は崩れ、視界一杯に満天の星が広がっている。
この城に着いたときは、まだ辛うじて昼だった。しかし、今空を支配しているのは漆黒。
戦いは終わった。もっとも、それはこの場にいない者達だけについてではあるが。
私は生き残った。
呪われた蛇神は死んだ。狂える大英雄も、その役目を終えた。
これで、帰ることができる。
敬愛すべき、あのひねくれた、どこまでも真っ直ぐな少女の下に。
きっとそれは、幸福とよばれる領域に属することなのだろう。
瞼が重い。じっとしていたら夢の世界からの招待に膝を屈してしまいそうになる。
そうすれば、きっと彼女は怒るだろう。
『この私に心配させて、のんきに眠りこけていたですって!?』
真っ赤になりながら、そう叫ぶ彼女を想像して頬が緩む。
ああ、それも悪くない。
きっと彼女は筋違いな罪悪感に苛まれていることだろう。ひょっとしたら自分を捨て駒にしたとでも思っているかもしれない。
ならば、少し意地悪をしてやるのもいい。そのほうが、きっと彼女は素直になれる。
でも、まあ、すぐに帰ろう。
なぜなら、私が我慢できない。あの少女を悲しませるなど、我慢できない。だから、帰ろう。
崩れかけそうになる膝を叱咤し、霞む視界に喝を入れ、ゆっくりと歩を進める。
足を進めるごとに膝が笑い、視界が歪む。
なんだ、これでは家に着くにはいつになるか分からないじゃないか。自分でも分かるくらい疲労に満ちた苦笑が浮かぶ。
それでも、足さえ動かせばいつかはたどり着けるのだ。比喩ではなく無限に続く苦役に耐え続けてきた私にとって、この程度の苦難は数えるにも値しない。
歩く。
思い浮かぶのは勝気な彼女の笑み。
『ええ、後悔させてね、アーチャー』
歩く。
思い浮かぶのは凛とした彼女の横顔。
『アーチャー、貴方に感謝を』
歩く。
思い浮かぶのは花が咲くような彼女の笑顔。
『アーチャーさん、私、貴方が大好きです』
歩く。
思い浮かぶのは必死な顔をした愚か者。
『……なあ……、アー……チャー、お……れには……、できな……かったよ……』
歩く、歩く、歩く。
「こんばんは」
声がした。
凍えるような、冷たい声。
同時に、冷たい何かが胸を貫いた。
ああ、この感触はいつかも味わったことがある。
反転する世界。
近づいてくる地面。
心のどこかで冷静に考えながら、同時に、私は、もうあの家には帰ることができないことを悟った。
episode58 マキリ代羽
消え行くこの身に後悔は無い。
ただ、ほんの少しの未練と、自らの運命に対する苦い失望があるだけ。
無駄なことだとわかっていた。
例え、無数に存在する世界の、全ての自分を殺し尽くしたところで、私が解放されることは無いだろう。
だから、これは判りきっていた結果。
別段、何が変わるわけでもない。
次に目を覚ましたとき、私はやはり私なのだろう。
輪廻から外れ、正義の虐殺を繰り返す。
これは自分が望んだ結果。自分で選んだ理想。
怨むなら、自分を怨むしかない。
故に、自分を殺そうとした。
そして、それすら成し遂げることは叶わなかった。
期待は失望へとすりかわり、希望は悉く絶望へと反転した。
もはや、私がこの世界にいる意味は失われた。
ならば、おとなしく消え去るとしよう。
願わくば、私が次に目覚めたときに、私が私ではありませんように。
「いい夜ですね」
消滅の瞬間に備えて目を閉じた私の耳に、安らかな声が滑り込んできた。
一刻と持たずこの世界から消える私に話しかけるとは、暇な人間もいたものだ。
だから、私はこう答えた。
「ああ、いい夜だ。無様に消えていくには最高の夜だ」
天に輝くのは小望月。満月に至らぬ半端さが、今の私に相応しい。
「ええ、本当その通り。今日の月は明るいわ」
目の前に立つ少女。傍らには右手を朱に染めた暗殺者。
この世界に召還され、幾度も見かけた少女。
この世界の私の家にいた少女。
なのに、私の記憶の琴線には、全く触れることのなかった少女。
沈み行く太陽の残滓のような髪の色。
白皙の肌。
挑みかかるような瞳。
彼女は言う。
「生きていくには長すぎる。死んでいくには早すぎる。儘ならぬ、ならぬが人生。消えていくなら昼よりも夜がいい。朽ちていくなら多くよりも独りが相応しい」
人生という単語を使うにはあまりにも未熟な少女。朽ちた死人の口元に冷笑が生まれかけたが、しかしそれは未遂で終わった。
かの少女の視線は中空を捕らえていた。視線の先にあったのは闇夜。月の明るさを讃えながら、その瞳はなお輝きを映していなかった。
「貴様の年齢で人生を語るとは笑止だな」
冷笑の代わりに嘲りを加えて少女に問いかける。
「人生を語るに満ちる年齢などあるものですか。人は人生を語るとき、悉く己の狭量さを曝け出すのです」
少女は微笑んでいた。消え行くこの身を慈しむが如く。
「ならば貴様はさぞ大きな器量を持っているらしい。自分だけを己の言の埒外において他者を批判するとは、小人の思惑とは思えぬな」
下らぬ会話だ。野良犬の交尾の方がまだ生産的といえるだろう。
「いえ、私の器はとても小さい。だって、こうして消え行くあなたを見てもなんの感慨も涌かない。同情の言葉も、敢闘の労いも、慰めの台詞も浮かびません」
少女の微笑み。虫唾が走る。
「同情などしてみろ。殺してやる」
「ああ、かわいそうな、哀れなアーチャー」
にんまりとした笑み。
しかし、少女の瞳に浮かんだのは嘲笑ではなく明確な敵意。
こいつ。何者だ。
少女は屈みこみ、私に顔を近づけてこう囁く。
「はっきり言っておきましょう。私はあなたが大嫌い」
「ほう、気が合うな。私は、私の次に貴様が嫌いだ」
「奇遇ですね、私もそう。あなたより憎むべき人間など、自分以外想像できない」
そうだ。
思えばこの世界は何かおかしかった。
言葉にはできない違和感。
桜が遠坂の姓を持っていたことなどではない。
いや、それを含めて、もっと大きなところで何かが変質している。
おそらくは平行世界。
本質は同じ。しかし、根本的に破綻している。
こいつだ。
今、確信した。
こいつが原因で全てがずれたのだ。
「あなたは英霊です。ならば成し得た何かがあるはずだ。なのに、何故自分が許せないのですか。認めることができないのですか」
怒りを孕んだ視線。
それは、上から同情をもって見下ろすでもなく、下から蔑みをもって睨目上げるでもなく。
射殺すかのように、ただただ正面から挑んでくる。
しかし、同時に違った感情の存在を感じ取ることができる。
これは?
「私は英霊などではない。ただの掃除夫、世界の便利屋だ」
抑止の守護者といえば聞こえはいいが、私がしてきたことといえば他人の尻拭いだけだ。
自らのちっぽけな好奇心、もしくは虚栄心を満たすために、望んで破滅の扉を開こうとする愚か者達。運悪くそれに巻き込まれ、被害者でありながら罰せられる弱き者達。
彼らの命は私にとって等価だ。
いや、悉く命に価値などありえない。そうでなければ、そう思い込まねば、私は呼吸することさえ出来なくなってしまう。
「貴様に想像できるか?救いを求めることすら忘れてしまった子供達がどういう瞳を私に向けてくるのか。彼らは既に救いなど無いと知っている。しかし、終わりを求めているのでは、全てを受け入れているのではない。同時に人形ですらない。どこまでも人間でありながら、そのこと故に苦しまねばならぬ。私にできることは、全てを無かったことにするだけだ。どうだ、これが英雄の所業か!?」
怨嗟。
声を発した本人である私にすら、この声は無限の怨嗟を伴って響いた。
死ね、消えうせろエミヤシロウ。貴様にこの美しい世界は不似合いだ。
「あなたのことなんて私は何一つ分からない。あなたの歩んできた道程の醜さなんて興味も無い。――でも。あなたの自分勝手さは許せない」
耳のすぐそばで発せられた、震える声。
ああ、わかった。わかってしまった。
彼女の瞳に荒れ狂う感情。
これは、嫉妬だ。
「あなたは人を助けることを望んだ。事実、あなたは数え切れない人を助けた。なぜなら、抑止の守護者が召還されるのは、人類の滅びの可能性を消し去るためだから。なんて幸運、なんて幸福。なのに、目に見える人達が救えなかっただけで自らを無価値と断じるその傲慢さは何故ですか。私はあなたが許せない」
互いの吐息が交わり、一つのものとなる。
視線は交錯し、しかし交わらない。
「違う。あんなもの、俺の望みじゃあない。俺は全てを助けたかった。みんなの涙を止めたかった」
「ならば、あなたは魔法使いを目指すべきでした。全てを幸福にするなど、人たるものの所業ではない」
わかっていた。そんなこと、とうの昔にわかっていたさ。俺の目指した道は、どうやら間違っていたらしい、そんなこと、知っていた。
だから、やり直しを求めたんだ。あの子達にしたように、全てを無かったことにしようとしたんだ。それのどこが悪い?
縊るように睨む。
初めて視線が交わる。
鼻先が触れ合う、まるで口づける寸前の恋人のような距離。
その距離で見た彼女の瞳は、黒曜石のように黒く。
しかし、確かにどこかで見た気がした。
いつだったか。
遠い記憶と、近い記憶を思い返す。
「私はあなたを殺します。あなたの望みは叶えさせるわけにはいかない」
その時、脳裏に一つの映像が浮かんだ。
しかめっ面で、無愛想で。
ソイツが腹の底から笑っている顔なんて、見たことも無い。
ソイツの顔を見るときは、いつも無言。静寂とのお友達。
ああ、なんだ、こいつは――。
「ですが、安心しなさい、違う世界の衛宮士郎。あなたの望みは私が叶えましょう」
その言葉と同時に、少女が手にしていた短剣は容易く私の胸を貫いた。
既に、痛みなど感じない。
気分は晴れやかだ。だって、私は勘違いしていたのだから。その理由が、わかったのだから。
「は、ははは、はははは」
愉快だ、痛快だ、傑作だ、こんなに楽しい喜劇は初めてだ。
死んでからこんなに笑うことができるとは、彼奴の言うとおり人生は儘ならぬ。
なるほどなるほど。
因と果が入れ替わったのだ。
主体と客体が入れ替わったのだ。
被害者と加害者が入れ替わったのだ。
最初と最後が入れ替わったのだ。
原因はこの女ではなかった。
原因はこの女ではなかった。
原因は、違和感の原因は――。
◇
細かい光の粒が舞い散る。
幾千の蛍を思い起こさせるそれらは、私の中に舞い降りて。
蛍のように、私の中を、食い散らかした。
世界地図が破られる。
地球儀が黒く塗りつぶされていく。
記憶が、判別できない。
これは私の記憶か?
それとも、この身に巣食う、抜け殻の記憶か?
風が、冷たい。
私の中にある、彼の欠片。
そこから流れ込んでくる彼の人生。
こんなにも多くの絶望を。
こんなにも多くの失望を。
抱えたまま生きていくことのできる人間がいたのか。
乾いた風。
ひび割れた大地。
千切れ飛ぶ淡雲。
人を寄せ付けぬ、完成された世界。
大槌と、金床の間で生まれて。
なんて、かわいい人。
なんて、かわいそうな人。
わたしには、
くらく、しめったせかいしかしらないわたしには、
ひかりとどかぬいしのうらにしかいきられないわたしには、
かわいたかぜが、
かわいた
かわいたかわいた
かわいたせかいが
こわくて
おそろしくて
のろおしくて
どこまでもどこまでも
うらやましくて
ああ
わたしは
かれに
なりたい
な
「何をしている」
かわいたこえ。
「何故立ち上がらぬ」
あなたはだあれ?
「あの時の誓いは虚言か」
あのときっていつ?
「私の望みを叶えるのでなかったか」
あなたののぞみ?
「その程度か、我が主よ」
あなたのおなまえおしえて。
「そこで朽ちるか、あなたの望みを抱いたまま」
わたしののぞみ。
「あなたが奪った命に背を向けたまま」
わたしがうばったいのち。
わたしがたべたいのち。
ああ、お父様。
「ならば、引導は私がくれてやろう」
だめ。
もう、にどと。
あなたの腕を。
私の血でなんて、汚させない。
「不要。私を誰と思っているのですか」
自分の声とは信じられなくらい枯れた声。
それでも、彼は笑ってくれた。
「なるほど、これはとんだ無礼を」
脂汗で濡れた額を、彼が優しく拭ってくれた。
ああ、今決めた。
私は彼が大嫌いだ。
「礼は言いません」
彼は蹲ったままの私に背を向けて、無言で姿を消した。
その心遣いがほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、嬉しかった。