FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
それは、まだ生きていた。
あれほど巨大だった威容は、既に、無い。
むしろ、微細。
天にも届かんとするような巨躯は、大英雄の岩剣によって削り取られ、名も知れぬ英雄の操る名立たる名剣によって穿たれた。
それは、死んだのだ。
ゴルゴンと呼ばれた怪物は、間違いなく死んだ。
しかし、彼女は生きていた。
四肢を失い、僅かに身動ぎすることさえ許されない、体。
だから、そこにあったのは残骸だった。
鋼の鱗を毟られ、伝説に名高い魔眼を失い、蛇の頭髪をも失った。
彼女を彼女足らしめる全てを失った残骸。辛うじて、その不死性こそが彼女を証明している、そう言えないこともなかったが。
だからこそ、彼女は彼女に戻っていた。穢れた全てを祓い落とされたが故に。
彼女は、瞳の無い眼孔で、空を見上げていた。
光を映さぬ彼女の瞳が、ほんの僅かな熱を覚える。
彼女は、それを月の暖かさだと思った。
頬に伝う柔らかな液体の感触。
彼女は、それを雨の雫だと思った。
声帯を失った喉が、堪えきれずに震えた。
彼女は、それを久方ぶりの寒さのせいだと思った。
満天の星、それを統べるが如く君臨する、月。
その下で、彼女は、ただ幸福だった。
何が。
そう問われても、彼女は答え得なかったかもしれない。
それでも、彼女は幸福だった。
己が己であること。
己を己として認識できること。
それが、彼女にはこの上ない救いだった。
ああ、これで帰ることができる。
どこに?
どこかに。
愛しい人達の待つ、どこか、尊い場所に。
そう考えて、彼女は溜息を吐いた。
ほう、と、心底幸せそうに。
「生き汚い」
侮蔑の、声。
彼女の全てを否定する、声。
「やはり、蛇如きに不死の神薬は過ぎたものであったか。これほど醜いものを見せつけられる日が来るとは、流石の我も思わなんだわ」
ざくざくと、足音が近付いてくる。
それは、死神の足音。
不可避の死。
しかし、それすらも彼女には幸福だった。
この男。
おそらくは、自分を見下ろす、男。
空気を震わすような、威厳。
彼女は、薄れ行く意識の中で、理解した。
理屈などではない。
直感だ。
八人目のサーヴァント。
おそらく、自分が今まで戦った敵の中で、最強。
たとえ自分が万全であったとしても、歯向かい難い、敵
「宴も酣である。貴様が如き小物に許された演目は、とうに終わっている。ならば、疾く消え去るが礼儀であろう」
ああ、と、彼女は微笑んだ。
既に、笑みを作ることは、できない。
だから、心の中で、微笑んだのだ。
これで、終われる、と。
もう、終わりにしてくれ、と。
「ただ、貴様の真の姿、あれは美しかった。貴様が貴様であろうと、醜く足掻くが故に、な」
ばちん、と、男が指を鳴らした。
聴覚以外の五感、その悉くを失った彼女は、知り得ない。
彼の手に、異様な、剣とも呼べぬ剣が握られていたことを。
「これは王の褒美である。受け取るがよい」
それが、彼女の聞いた最後の音。
まるで、荒波の中の小船が如く弄ばれる、儚い意識。
その中で、彼女は願った。
次こそ。
次こそは、愛しい人たちに、会いたい、と。
interval8 King、Junkie、Canibal
夢を、見ていた。
遠い、遠い、最初の夢だった。
私が私であると、そう思った、最初の夢だった。
足を、動かしていた。
果ての知れぬ、道。
いや、道と呼べるものなど、ない。
ただ、平面。
地平線も、水平線も、見えない。
暗い。
何も、見えない。
だから、本当は平面ではないのかもしれない。
足を動かす。
左足を前に。
足を動かす。
右足を前に。
歩くのではない。
ただ、足を動かす。
前に進んでいるのか。
それとも、実は後ろに引き摺られているのか。
全てが、曖昧模糊としていて、不確定だ。
座標が、欲しかった。
自分の位置を教えてくれる、何かが欲しかった。
自分が自分であると、胸を張れる何かが、欲しかった。
足を、動かす。
動かし続ける。
一体、いつから。
そうだ。
眠る前からだ。
眠る前から、足を動かし続けていた。
そうだ、何かから逃げようとしていたんだ。
何から?
そんなこと、すっかり忘れてしまいました。
でも、ずっと、足を動かし続けていた。
体が、軽かった。
羽根が生えたように、軽かった。
何か、抱えたものを落としたのか、そう思えるほどに、軽かった。
右手が、冷たかった。
さっきまで暖かい何かを握っていたはずなのに。
暖かくて、柔らかくて、小さいもの。
私が守るべき、もの。
それを握っていたはずなのに。
今は、軽かった。
それでも、足を動かした。
何故。
もう、止まってもいいじゃあないか。
少し休んでも、いいじゃあないか。
誰も、怒らない。
優しいお父さんも、綺麗なお母さんも、怒らない。
だって、二人とも。
二人とも。
なのに、動かす。
動かし続ける。
もう一歩。
あと一歩。
少し、我慢してみよう。
あと少しなら、我慢できる。
それは、永遠に我慢できる、そういうこと。
だって、私はそういうものだから。
そういえば、私は誰だろう。
思い出す。
掴み取ろうとする。
それでも、擦り抜けていく。
掴もうとしたもの、やっと掴めたもの、その悉くが。
するりするりと、笊の目を抜けるように。
だから、私は叫んだ。
自分が、自分であると、叫んだ。
自分の名を、叫んだ。
そうだ。
私の名前は――。
「ようやく目覚めたか」
◇
「目覚めたか、主よ」
その声が、痛かった。
聞きなれたその声が、がんがんと、耳道の奥で反響する。
耳から侵入した蟲が、直接脳を突いたときよりも、痛かった。
思わず、蹲る。
耳を、押さえる。
相も変らぬ空腹が、空っぽの胃の腑を締め付けているが、それでも、耳が痛い。
痛くて痛くて、死にそうだ。
いや、死ねるのか。
これで、ようやく死ねるのか。
ならば、ならば私は――。
甘い妄想。
それに蓋をし、見たくも無い現実を凝視する。
指を、喉の奥に突っ込む。
そこを掻き回してやると、空っぽの胃が痙攣してくれた。
「ぐええ!」
びしゃびしゃと、まるで酔っ払いの反吐のように、大量の胃液が逆流する。
バケツをひっくり返したような、黄色い吐瀉物。
喉が、焼ける。
当然だろう。
純粋な、胃液。
それも、私の胃液だ。
肉を、人の肉を溶かすための胃液だ。
ならば、私の肉だけが溶けない、そんなこともないだろう。
しかし、こうでもしないと、胃液が胃を溶かし始める。
胃が穿孔し、腹腔に、強力な酸が、ばら撒かれる。
それは、耐え難い苦痛だろう。
死を許されないが故に、死にたくなるほどの苦痛に違いない。
「ぐえ、おえええ!」
びしゃびしゃと、胃液が流れ続ける。
分かっている、これは必要だから分泌されるのだ。
早く、肉を喰らえと。
そうしなければ、どんどん腐る、と。
腐って、微細になり、人の形を保てなくなる、と。
知っている。
そんなこと、熟知しているさ。
でも、今は肉が無い。
だから、我慢しないと。
街に。
街に帰りさえすれば。
そこには、肉の、群が。
「主よ」
そっと差し出された、手。
彼の、長い、左手。
その上には、赤黒い、何か。
ごつごつしていて、筋張っていて、グロテスク。
「干し肉だ。当座は――」
彼の言葉は、耳に入らなかった。
ひったくるように奪い取り、恥も衒いもなく、かぶりつく。
がつがつと、犬のように。
得体も知れぬ肉を、咀嚼する。
味は、しない。
せいぜいが、血の味がする程度。
何の肉か、それすらも分からぬ、肉。
それを、貪るように喰らう。
涙が、出た。
空腹を埋める、その満足の涙ではない。
情けなくて、涙が出た。
情けなくて、情けなくて、涙が止まらなかった。
何故だ。
何故、私はこうも浅ましいのか。
己の不遇を呪うわけではない。
むしろ、私は幸運だった。
そのことについて、不平は無い。
でも、何故。
何故、私は、この人の前で、かくも醜い姿を晒さなければならないのか。
地に蹲り、吐瀉物と泥に塗れた両手で肉を抱え。
口角に黄色い涎を垂らし、くちゃくちゃと咀嚼音を響かせながら、肉を喰らう。
それが、幸せなのだ。
堪らなく、幸せなのだ。
だから、情けなった。
涙が、止まらなかった。
私に忠誠を誓ってくれた、暗殺者。
私如きの呼び声に応えてくれた、暗殺者。
何度も助けられた。
何度も救われた。
その彼の前で、何故、このような醜態を晒さなければならないのか。
不合理だ。
不条理だ。
そして、何よりも、醜悪。
それが、堪らなく、嫌だった。
「醜い」
ええ、その通り。
暗殺者の声ではない、声。
しかし、どこかで聞いた、声。
私は、肉を喰らう。
くちゃくちゃ。
くちゃくちゃ。
「所詮は黒い聖杯、それに優美さを求めるのが間違いか」
ええ、その通り。
私は、貴方が感じている通りの存在です。
私は、肉を喰らう。
くちゃくちゃ。
くちゃくちゃ。
「これが神の卵だと?ふん、コトミネも、流石に冗談の一つも覚えたか。興醒めだな」
いつの間にか、肉がありません。
もう、食べてしまいましたか。
掌を、ぺろぺろ。
指の先を、ぺろぺろ。
指の股を、ぺろぺろ。
ご馳走様でした。
全然足りませんが、我慢しましょう。
「誅殺だ。貴様に納められた雑多な魂は、本来の在るべき器に収められるだろう。安心して、疾く、死ね」
蹲ったまま、振り返る。
そこには、男が、いた。
金色の、男。
輝く月の光、それさえ霞ませながら、男が、立っていた。
「貴方は……」
「ほう、今日日は犬も喋るか。賑やかなことよな」
犬。
地に伏せ、食器も使わずに肉を喰らう私には、この上なく正しい形容だろう。
自嘲に頬が歪む。
「以前、一度お会いしましたね」
◇
それは、門の前だった。
無骨は鉄の門、その前に、男が立っていた。
月の無い夜空、しかし、その頭髪を街灯の光に弄らせながら、男が立っていたのだ。
こそ泥などではあるまい。
まして、女に餓えた下種の類でもないだろう。
ならば、何者。
そういぶかしみながらも、門を通り過ぎようとする私に、彼は悠々と話しかけてきた。
「今のうちに死んでおけ、いずれ、死にたくても死ねなくなるぞ」
どくり、と、心臓がなった。
きっと、その中に棲む大切な人も、驚いたことだろう。
私は、振り返った。
そこには、誰もいなかった。
あれほどに圧倒的な存在感を放ちながら、いつの間にか男は消え失せていた。
まるで、蜃気楼か何かだった。
◇
「『今のうちに死んでおけ』、でしたか」
男は、嗤った。
赤い瞳に浮かんだのは哀れみではなく嘲笑。
端正な唇を曲げていたのは、親愛の情ではなく傲岸の念ゆえに。
それでも彼は美しかった。
身に纏うのは黄金の覇気。
いや、それは違うか。
彼の覇気と同じ色を黄金と呼ぶのだ。
彼の覇気と同じ色だからこそ、ただの金属に高い価値が与えられたのだ。
そう確信できるほど、目の前の存在は気高かった。
「その通りだ。だから、我は忠告をしてやったというのに、その様か。どうだ?死は、どれほど貴様から遠ざかった?」
その通りだ。
この、浅ましい、身体。
既に、死神からさえ愛想を尽かされた、身体。
あまりに、醜い、身体。
「我が主を、侮辱するか」
「ほう、下賤な中毒者風情が、王たる我に意見するか」
「ふん、そんなもの、飽きるほどに殺してきたわ」
「王を僭称する紛い物、それを殺した数を誇るか。いいだろう、真な王にその薄汚れた刃が届くか、試してみるがいい」
「控えなさい、アサシン」
右手が、輝く。
これで、二回目の令呪。
暗殺者は、姿を消した。
すみません、アサシン。
貴方の誇りを、踏み躙りました。
この報いは、後ほど。
それでも。
それでも、今、貴方を失うわけには、いかないのです。
「申し訳ありませんでした」
地にひれ伏す。
頭は、上げない。
目の前の地面を見つめながら、言う。
「従者の不徳は主たる私めの不徳。この罰は、如何様にでも」
「ほう、殊勝な心がけではないか。ならば、速やかに自害しろ。王たる我の手を煩わせるなど、不忠の極みであろうが」
「ご忠告、痛み入ります」
声が、硬い。
恐れているのだろうか。
何を?
死を?
まさか。
違う。
私が恐れているのは、別のもの。
「しかし、この身は既に死を受け入れられぬ不良品。そのうえ、穢れた身には過ぎた望みを持ってしまった」
そう、私が恐れるのは、志半ばにて、心挫けること。
それは、あまりにも甘美だから。
全てを放り出し、殻に籠もることが叶うなら、そこには、どれほどの幸せが――。
「死ねない。ええ、死ねません。死んでなるものですか」
だから、見捨てない。
もう、見放さない。
祈らない。
祈れば、心が折れる。
振り返らない。
敵は、前にいるのだから。
この両の目は、前にのみ、ついているのだから。
故に、この手は、彼のために。
故に、この命は、彼のために。
「立ち塞がるのならば、殺します。私の望みを妨げるのであれば、例え神でも食い殺してみせましょう」
「我でも、か」
「貴方でも、です」
彼は、笑った。
声を上げ、腹を抱え、本当に愉快そうに。
「なるほど、神を、そして我を食い殺すか。口先だけとはいえ、その意気や良し。貴様に、聖杯たる価値を認めてやろう。精々、無様に這いずるがよい」
声が、遠ざかる。
どうやら、見逃してくれたようだ。
「だが、憶えておくといい。貴様が歩むは灼熱の地獄。空気が身を焦がし、倒れ伏した地面さえ貴様を焼き尽くすぞ」
彼はそう言って立ち去った。
少し、強い風が吹いた。
ざわざわと、木々の木の葉を揺らす、不躾な風だった。
だから、私の言葉は彼に届かなかったはずだ。
「その程度の地獄では、私は止まりません。なぜなら、私が生まれたのは、まさに貴方の言う、その灼熱の中なのですから」
顔を上げる。
そこには、誰もいなかった。
それでも、予感があった。
彼こそが、神父の鬼札。
ランサーを凌ぐ、最強のカード。
いずれ、私の前に立ちはだかるだろう。
そのとき、私はどうするのか。
果たして、勝てるのか。
しばらく、そのままの、地に伏せたままの格好で、考えた。
そうしたら、ぐう、とお腹がなった。
「帰投します、アサシン」
とりあえず、食事をしよう。
人間、寒いときと空腹なときは、碌なことを考えない。
まずは、食事を。
女がいい。
女の肉がいい。
ごくり、と、喉が鳴った。
人間であるために人間を食べ、どんどん、人間から遠ざかる。
そんな皮肉に、思わず笑みが漏れた。