FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
冷たい、冬の空気で、目が覚めた。
胡乱な意識で、ゆっくりと身体を起こす。
霞んだような視界の中、指先を見つめる。
肌色。
灰色では、無かった。
石では、無かった。
握る。
動いた。
開く。
動いた。
どうやら、本当に治ったらしい。
とりあえず、生きている。
のそり、と、布団から抜け出す。
立ち上がると、目の前が真っ白になった。
思わず、膝をつく。
重度の立ち眩み。
魔力が、底をついている。
全く、桜め、やってくれる。
苦笑が漏れる。
それでも、立ち上がる。
厚手のパジャマ、その上から、突き刺すような冷気が感じられる。
身を縮こませながら、洗面所へ向かう。
板張りの廊下が、冷たい。
息が、白い。
がらがらと、洗面所の扉を引く。
鏡の前に立つ。
蛇口を捻る。
ばしゃばしゃと、水が流れる。
まず、手を洗う。
ばしゃばしゃと、揉むように。
痺れるような水温。
ばしゃばしゃと、洗う。
綺麗になった。
汚れが、落ちた。
きれいさっぱり。
掌にも。
手の甲にも。
如何なる汚れも、残っていなかった。
それから、貌を洗う。
ばしゃばしゃと。
ばしゃばしゃと。
episode59 早朝
台所には、既に人影があった。
「おはようございます、エミヤ様」
その声は、聞きなれた声ではなかった。
桜の声では、なかった。
「おはようございます、セラさん」
「朝食は、私が。エミヤ様はゆっくり休んでください。貴方は、まだ動けるような身体ではないのですから」
そう言って、彼女は会話を打ち切った。
黙々と、料理に打ち込む。
窓の外は、まだ暗い。
電灯に照らされた、台所。
二人で作業をするには、少し狭い。
俺は彼女に背を向けて、ゆっくりと台所を後にした。
道場の扉に、鍵をかけたことは、無い。
何故なら、そこに盗まれて困るようなものなんて、無かったから。
がらがらと、扉を開ける。
漆黒の空間。
手探りで電気のスイッチを探す。
そして、止めた。
だって、こんなに暗いのだ。
誰も、いるはずがない。
この空間には、誰もいない。
誰もいないなら、ここに来る意味も無い。
俺はその暗やみに背を向けて、ゆっくりと道場を後にした。
結局、ここに来た。
始まりの場所。
何も無い、場所。
土蔵。
雑多な空間。
ガラクタ置き場。
冷たい、石造りの室内。
埃の匂い。
薄ぼんやりとした、格子の外。
セイバーの残滓。
消えかけた、召喚陣。
消えた、令呪。
失った、絆。
溜息。
今、彼女はどうしているのか。
お腹を空かしていないだろうか。
凛も、桜も、料理が上手い。
なら、その心配はないだろう。
頬が、引きつった。
それでも。
ああ。
彼女が、いない。
それが。
それが。
どうしようもなく。
「お兄ちゃん」
声。
振り返る。
青みがかった、大気。
僅かな曙光。
白金の髪。
紅い瞳。
「イリヤ」
俺の、妹。
生きていた。
死んでいなかった。
救われた。
彼女がいて、よかった。
「セラが呼んでるよ。朝ごはん、出来たって」
「ああ、すぐに行くよ」
そう言って、ゆっくりと外に出る。
それから、立ち止まる。
首を捻って、後ろを見る。
そして、扉の外から、乱雑な室内を見回した。
予感があった。
この光景を見るのは、最後になるだろう。
そんな、予感。
刻み込むように、見る。
そして、頭を下げた。
扉を閉めた。
頑丈な、南京錠で施錠をした。
鍵は、どこかに捨ててこよう。
強化の魔術でもかけておけば、この鍵を断つのは不可能だ。
これで、ここには誰も入らない。
それでいいだろう。
◇
悪夢から目を覚ましたとき、そこには、皆がいた。
凛がいた。
桜がいた。
イリヤがいた。
セイバーがいた。
キャスターがいた。
セラさんがいた。
リーゼリットさんがいた。
そして、アーチャーだけが、いなかった。
「凛、アーチャーは……」
「死んだわ」
単純明快で、一切の誤解を許さない返答。
それは、救いだったのだろうか。
涙が、溢れた。
何故。
己の内に、そう問うた。
解答は、どこにも見当たらなかった。
それでも、涙が流れた。
「ふう、ぐっ、ふぅぅっ……」
得体の知れない、涙だった。
気持ちが悪かった。
それでも。
それでも、悲しかった。
別に、仲が良かったわけではない。
むしろ、険悪だったのかもしれない。
でも。
彼がいないという事実が。
その事実が、どうしようもなく、悲しかった。
「ありがとう、衛宮君、あいつのために泣いてくれて」
差し出された、ハンカチ。
それを、拒絶した。
服の袖で、涙を拭う。
気付けば、凛も泣いていた。
きっと、俺よりも悲しかったのだろう。
桜も、泣いていた。
何故だろう。
何故、皆が泣いているのか。
それが、分からなかった。
それでも。
それでも、あいつのために涙を流してくれる人間が、三人もいること。
それを、あいつに教えてやりたかった。
◇
「俺が気を失ってから、何があったのか、教えて欲しい」
士郎は、赤く目を腫らしたまま、そう言った。
「貴方がイリヤを庇って臓硯の前に立った。そこまでは覚えてる?」
彼は、しっかりとした瞳で頷いた。
そこに、甘えはない。
既に、事実を受け入れているのだろう。
「貴方、メデューサの瞳を見たのよ。そして、石化した。なんとか解呪は出来たけどね」
◇
「何とかして、キャスター!」
半狂乱の桜。
走る車、その広い車内。
そこを、絶望が満たしていく。
パキパキと、硬質な音が、絶え間なく響く。
それは、人の体が、人ではなくなっていく、音。
たんぱく質が、石になっていく。
大切な人が、じわじわと、石になっていく。
荒く、細く、不規則な、士郎の呼吸。
まるで、断末魔。
いや、このまま事態が推移すれば、彼は間違いなく、死ぬ。
死んで、石となる。
そんな、最悪の妄想。
脳髄に直接鑢を掛けられるような焦燥感。
そして、絶望感。
私には、どうしようもない。
その、確かな直感と、無力感。
イリヤも、セイバーも俯いている。
歯向かいようの無い、強大な敵。
それが、高笑いをしているようだった。
「……手段は、無いわけじゃあないわ」
ゆっくりと、キャスターが言った。
室内に、天使が舞う。
福音を、救いのラッパを奏でながら。
「私の宝具なら、彼の石化を解くことも容易でしょうね」
そうだ。
あらゆる魔術を無に帰す、破戒の刃。
何故、それに気付かなかったのだろうか。
助かる。
彼は、助かるのだ。
「でも、私の宝具は、それほど器用じゃあないの。問答無用で、彼に掛けられた魔術、その全てを破戒してしまうわ。それがどういうことか、分かるでしょう、セイバー」
魔術の破戒。
それは、つまり――。
「私とシロウ、その契約も破戒される、そういうことですか?」
緊張した、セイバーの声。
室内を、静寂が満たす。
パキパキと、神経に触る音を除いて。
「……ええ、その通りよ。私に判断を下すことは出来ない。貴方が決断しなさい」
「私を愚弄するか、キャスター」
瞳。
セイバーの、聖緑の瞳。
それが、確かに怒っていた。
何に怒っているのか。
己の誇りを汚した、キャスターの言葉か。
いや、それは違うだろう。
キャスターの言葉は、セイバーを気遣っていた。それを分からぬ彼女ではあるまいし、その心遣いに憤りを覚えるような小人でもあるまい。
彼女が怒っていたのは、自分自身に対して。
士郎を救うこともできず、本来敵であるキャスターに気遣われる自分。
その事実に、何よりも彼女は怒っていたのだ。
「私は、彼の剣になると誓った身。主を見捨てて生き延びる剣に、如何程の価値があろうか。さぁ、キャスター。彼の呪いを、解いてやって欲しい」
「……わかったわ」
彼女は、懐から歪な短剣を取り出した。
七色に光る刀身。
デフォルメされた稲妻のように捻じ曲がった刃。
それを、士郎の胸に突き立てた。
一瞬、車内に緊張が走る。
それでも、彼女は落ち着いて、その真名を解放した。
「破戒すべき全ての符」
光が、車内を満たした。
一瞬、視界が漂白された。
そして、それが収まったとき。
安らかな寝息をたてる、士郎が、いた。
指先は、まだ白い。
それでも、じわじわと熱が戻りつつある。
彼は、助かったのだ。
ほう、と、溜め息が出る。
桜は、泣いていた。
嬉し涙を、流していた。
それは、イリヤも。
そして、ひょっとしたら、私も。
「はぁ、ぐっうぅぅ……!」
苦悶の響き。
小さな彼女が、身体を折りたたんで、苦しみもがいている。
「セイバー!」
当然だ。
もともと、彼女の魔力は、尽きかけていた。
そして、剣の英霊に、単独行動のスキルは、無い。
ならば、彼女は遠からず、消え去る。
それが、摂理だ。
「……これで、いいのです、凛。私は、彼を巻き込んでしまった。彼は、戦うには優しすぎる。私が消えれば、彼も解放されるでしょう。……これで、いいのです」
薄い、笑み。
漂白されたような、綺麗な微笑み。
私は、腹が立った。
彼女の、潔さに、では無い。
それを利用しようとしている、自分に、である。
「本当に、それでいいの、セイバー?」
「……どういうことですか、凛?」
脂汗を額ににじませながら、彼女はそう問うた。
私は、知っている。
彼女が頷くことを、知っている。
知っていて、取引を持ちかけるのだ。
いや、こうなることを期待していたのかもしれない。
「私と、再契約しなさい、セイバー」
剣の英霊。
戦いが始まる前から、熱望していた、存在。
それが可憐な少女であると知って、なお欲しくなった。
絶対に、私なら、彼女を使いこなせる。
絶対に、負けない。
あのへっぽこにはもったいない。
欲しい。
例え、奪い取っても。
そういう思考が、無かったか。
無かったと。
これは、仕方の無いことだと。
己が望んだことではない、と。
そう、断言できない自分が、情けなかった。
「貴方には、叶えたい望みがあるのでしょう。ならば、足掻きなさい。それとも、ここで消えるのが貴方の望みかしら。マスターに操をたてて、英霊の座に逃げ帰るの?そんなに綺麗でいたい?貴方の望みは、その程度のものなの?」
手を、握り締める。
爪を、立てる。
鋭いそれが、皮膚を破り、肉を抉った感触。
熱さと、痛み。
それが、心地いい。
それくらいの苦痛がないと、気が狂いそうだ。
それくらいの刺激がないと、こんな恥知らずな台詞、正気では口に出来ない。
「……私は、初めて貴方を軽蔑します、凛」
「ええ、それで結構よ、セイバー」
だって、それは極めて正しい評価。
私は、下衆だ。
でも、魔術師なんて、そんなもの。
こいつが、異端すぎるのだ。
こいつが、綺麗すぎるのだ。
だから、疎ましい。
こいつがいなければ、私は諦められた。
魔術師など、そんなものだと。
これが、魔術師の宿命だと。
それでも、こいつは綺麗だったのだ。
綺麗なまま、魔術師だったのだ。
いや、こいつは、自分のことを魔術使いだと評したか。
そんなこと、どうでもいい。
つまるところ、私は太陽に近付きすぎたのだ。
美しく、輝かしく、灼熱の太陽に、近付きすぎた。
このままでは、私は焼け死ぬ。
焼けて、焦げて、炭化する。
しかし、その中から何かが生まれるだろう。
きっと、今よりも、気持ちのいい自分。
でも、それは、私ではない。
遠坂凛では、ない。
だから、いい機会なのだろう。
彼は、魔術と関わるには、綺麗すぎる。
私は、彼と関わるには、醜すぎる。
二人は、交わるべきではない。
それは、掌を覆う痛みよりも、なお痛い認識だった。
「――告げる。汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、我に従え。ならばこの命運、汝が剣に預けよう」
了解すら取らずに、契約を開始する。
これは、脅迫ですらない。
服従を強いる、一方的な強制執行。
それを承知の上で、私は一歩を踏み出した。
彼女が、それに応えざるを得ない、それを承知で踏み出した。
呪われろ、遠坂凛。
貴様は、今、魔術師になったのだ。
◇
「そっか……」
彼は、左手の甲を、ぼんやりと見つめた。
そこには、もう、何もないというのに。
まるで、その熱の残滓を惜しむかのように、ぼんやりと見つめたのだ。
「……私は謝らないわ」
言い訳は、しない。
いや、この一言こそが、何よりも醜い言い訳だろうか。
謝らない。私は、卑劣だ。如何様にも詰れ、貶せ、貶めろ。貴方には、その権利がある。
そう言って、相手に断罪の権利を与えること。
それは、逃避ではないのか。
士郎は、恨まないし、憎まない。まして、報復など、出来るはずもない。
それを知りながら、その権利を彼に委ねる行為は、彼に罪悪感を委ねる行為と同一だ。
らしいじゃないか、遠坂凛。
まったく、お前は魔術師らしい。
「……生きているんだ。これ以上望んだら、罰が当たっちまうよ」
それでも、彼は笑った。
青白い、死人のような、顔色で。
唇を、戦慄かせながら、それでも、にっこりと。
吐き気が、した。
「ありがとう、キャスター。また、助けられちまった」
「……どういたしまして。お代はいらないわ、だって、これで最後だものね」
そう。
これで、彼は戦わずに済む。
何故なら、彼は剣を失ったのだ。
もう、戦わなくてもいい。
いや、彼は、戦うべきではない。
この点。
この一点における判断のみは、私は胸を張ることが出来る。
彼を戦わせてはいけない。
彼は、それこそ本当に死ぬまで、戦い続けるだろうから。
それは、戦いの結果として死ぬこととは根本的に意味が異なる。
彼は、己の死を理解して、計算して、その上で死ぬまで戦うだろう。
覚悟、などという生易しい言葉では、それを表すことはできない。
むしろ、中毒。
いや、呪い。
そのほうが、より近い表現だ。
だから――。
「最後ってなんだよ。俺は、戦うぞ。セイバーのマスターが凛になったからって、俺自身には何の変化も無いじゃあないか。だって、俺はまだ戦えるんだから」
一同が、息を呑んだ。
空気が、凍りついた。
聖杯戦争。
人を超越した人、サーヴァントの繰り広げる戦い。
そこに、半人前の魔術師が、己の力のみで飛び込む。
結果は、明らかだ。
そんなこともわからないほど、こいつは間抜けか。
違う。
こいつは、知っている。
知っていて、全てを理解して、それでも止まれないのだ。
「……お兄ちゃん、貴方には、もうサーヴァントはいないわ。参加権は無いの。私と同じ。もう、貴方は戦わなくていいのよ」
噛み締めるように、イリヤが言った。
その瞳には、強い後悔が。
私の知らないところで、何かがあったのかもしれない。
「それは違う、イリヤ。参加権が云々じゃあない。このままいけば、きっと聖杯戦争とは何も関係の無い人達が、死ぬ。それを、俺は止めたい。
ああ、こいつは――。
「そう、貴方は戦いたいのね」
「ああ、戦いたい」
私はゆっくりと立ち上がった。
「戦うな、そう言ったら?」
「それでも、戦うさ」
彼もゆっくりと立ち上がった。
「はっきり言って、邪魔よ」
「なら、俺一人で戦うだけだ」
「Es befiehlt――Mein Atem schliest a……」
影が、彼を覆っていく。
まるで、黒蟻の大群みたいに、足元からじわじわと。
後ろを振り返る。
そこには。
「桜……」
私の妹。
彼女は、笑っていた。
にんまりと、本当に愉快そうに。
「ああ、先輩、貴方は気付いていないんですね」
「……さ……くら……?」
胡乱な、士郎の声。
「もう、貴方も、『聖杯戦争とは何も関係の無い人達』の一人なんですよ?」
士郎の魔力が、吸収されていく。
影の牢獄。
桜の魔術。
今の彼では、どうやっても抜け出ることは叶うまい。
「やっと理解しました、少し遅すぎたかもしれませんが。やっぱり先輩は、あの人なんだ……」
悲しげな、桜の声。
そして、苦悶を上げる、士郎の声。
それがだんだんと弱弱しくなっていき、ついには途絶えた。
ぐらり、と崩れ落ちる、彼の体。
イリヤが、小さな身体で、それを必死に受け止めた。
「桜、貴方……」
「姉さんも、同じことを考えていたのでしょう?」
その通りだ。
私も、士郎をぶちのめしてやろうと思っていた。
ひょっとしたら、令呪を使って、セイバーにそれをやらせていたかもしれない。
それほどに、私は怒っていた。
自分と、彼に、だ。
それでも、桜。
貴方の、その笑みは、何?
それは、私の初めて見る、笑み。
誰だ。
こいつは、誰だ。
「行きましょう、姉さん。もう、私達はここにいるべきではないわ」
「……ええ、そうね」
歩き出した桜。
彼女の後を追うように、扉に向かう。
「イリヤ」
振り返る。
そこには、意識を失った士郎を抱える、小さな少女が。
羨ましい、と。
それは、気のせいだろう。
「言伝といて。『今後、遠坂邸に近付けば、敵対の意思表示と見做す。命までは取らないけど、痛覚をもって生まれたことを後悔させてあげる』ってね」
イリヤは、微笑った。
「……本気ね、リン」
私も、微笑った。
「ええ、本気も本気。だから、十分に言い含めといてよ。私だって、別にサディストってわけじゃないんだから」
踵を返す。
ゆっくりと、居間の入り口をくぐる。
もう、この部屋に入ることはないだろう。
ああ、こんなにも暖かかったのに。
残念といえば、それが一番残念なのかもしれない。
「リン」
声が、背後から聞こえた。
私は、もう、振り返らない。
「私が、シロウを守るから。貴方達は、せいぜい派手に散りなさい」
ああ。
それが、一番聞きたかった台詞。
ありがとう、イリヤ。
士郎を、お願い。
喉の奥から、何かが込み上げそうになった。
私は、それを必死で押さえ込んだ。
「……行きましょう、マスター」
目の前には、剣の英霊。
その瞳は、勇壮。
ならば、何を恐れるか。
「…ええ、セイバー。行きましょう、勝利をもぎ取りに」
◇
朝食は、美味しかった。
冷蔵庫の残り物を使ってこれだけ上手に料理を作れるあたり、セラの家事能力は相当に高いのだろう。
「ねぇ、お兄ちゃん、今日はどうするの?」
だらしなくテーブルに両肘を突きながら、イリヤが言った。
その表情は、どこかぼんやりとしていて、歳相応の少女の顔だった。
「どうって言われてもなあ……。戦うって言ったら……」
「全身の関節を外して、土蔵に放り込むわよ」
にっこりと、イリヤは微笑った。その後ろで、ぽきぽきと指の関節を鳴らすリーゼリットさん。無言の圧力が怖いです。
「……かといって、学校も休みだし……。イリヤ、お前のほうこそ、何かしないといけないことはないのか?」
「バーサーカーは死んじゃったし、私は聖杯たる役目を奪われた。もう、私の聖杯戦争は終わったわ。今から本家に帰っても邪魔者として処分されるだけでしょうし、何もするべきことなんて、残ってないの」
絶望的とも言える台詞を、何の気負いもなく吐き出した少女。
しかし、その中に聞き流せないものがあった。
「なあ、イリヤ。『聖杯たる役目』って何だ?」
「あれ?お兄ちゃんには言ってなかったっけ?」
はい、これっぽっちも聞いてません。
「私はね、聖杯なの」
……はい?
「でも、言峰が、聖杯は教会にあるって……」
「簡単に言えば、それはレプリカね。第五次聖杯戦争において用意された聖杯は、私ことイリヤスフィール=フォン=アインツベルンの心臓よ。それ以外では在り得ない…はずだったんだけどね」
イリヤは、ばつの悪そうにそう言った。
「つまり、それ以外の聖杯がある、そういうことか?」
「というよりも、そっちが本物の聖杯になっちゃった、そのほうが正しい表現だと思うわ。だって、三体のサーヴァントが消滅したのに、私は一つの魂も回収することが出来なかった」
サーヴァントの魂?
一体、どういうことだ?
「お兄ちゃん、詳しい説明は省くけど、聖杯の本当の役割は、勝者の願望の成就なんかじゃあないわ。消滅したサーヴァント、その魂を溜め置き、管理すること。それが聖杯の真の役割なの。だから、無機物たる杯なんかよりも、鋳造されたホムンクルスなんかの方が都合がいいんでしょうね、きっと」
「でも、イリヤは切嗣の娘で、俺の――」
「それ以上は言わないで、お兄ちゃん。きっと、幸せすぎて鼻血が出ちゃうから」
彼女は、やはり微笑った。
それは、照れ隠しなのかもしれなかった。
「とにかく、サーヴァントの魂は、今どこに収められてるかわからない。それは、私以外に聖杯が存在することを意味しているわ。つまり、私は御役御免、存在価値を失った、そういうこと。今更、何をする気にもならない、それが正直なところね」
はあ。と、溜息。
そして、沈黙。
こっちこっちと、時計の秒針の音だけが聞こえる。
セラさんも、リズさんも、何も話さない。
そして、俺は、腹がたった。
こんなに小さな子の心臓を、訳もわからぬ器に改造した、魔道の一族に。
そして、そんな妹がいることも知らず、安穏と日常を過ごしていた自分に。
謝りたい。
君が俺を殺そうとしたのは当然だ、と、土下座をしたい。
しかし、そうすれば、イリヤは怒るだろうし、それ以上に悲しむだろう。
誰だって、どういう理由があろうと、肉親に土下座をされれば悲しくなるはずだ。
だから、俺は謝らない。
ならば、俺は何をするべきだろう。
「……決めた」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「イリヤ、今日は遊びに行こう」