FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
瞼を通して、微かな光が感じられる。
どうやら、朝が来たらしい。
それにしては、奇妙なことがある。
どうして私は、こんなに柔らかいところで寝ているのか。
私が眠るのは、いつも湿ったコンクリートの上なのに。
そもそも、朝日で目を覚ます、という状況がおかしい。
だって、私の部屋には日が差すことはありえないから。
ゆっくりと瞼を開く。
視界に映るのは、倒れた木々、抉れた地面。
そうだ、私は彼を呼び出して……
「あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ……」
浅い呼吸と、喉の奥から漏れる苦悶の響き。
腹部を抑えて蹲る。
駄目だ。
おなかが、すいた。
全身の神経が空腹を訴えている。
胃酸が、胃そのものを溶かしていく。
本能が感じたのは存在自体に対する危機。
手当たり次第に、口の中に放り込む。
土を。草を。
石を。虫を。
噛み砕き、飲み下す。
口の中に広がる得体の知れない酸味と、石を噛み砕く不快感。
足りない。
まるで足りない。
ぜんぜん満たされない。
量の問題ではない。
味の問題ではない。
質の問題ではない。
栄養の問題ですらない。
存在の問題。
私が食べたいのは、これじゃない。
「主よ」
声がした。
食欲が涌く。
唾液が、口の端からぼたぼたと零れだす。
「馳走はここに」
彼の指の先。
縄で縛られた、肉の塊。
待ちに待ったメインディッシュ。
前菜は物足りなかったから。
私は、一も二もなくむしゃぶりついた。
柔らかな皮膚に喰らいつく。
鋭い犬歯が、容易くそれを突き破る。
あふれ出す肉汁。
夢中で飲み下す。
上顎と下顎の力を目一杯使って。
筋張った肉を、食いちぎる。
現れたのは、湯気が立つような黄色い脂肪の粒。
白く美しい筋肉。
色とりどりの、目に鮮やかな血管。
その全てが、あまりに神々しくて。
涎を垂れ流しながら咀嚼する。
余分な感情は涌いてこない。
今は、この原始の欲望を満たしたい。
だから、時折聞こえる音も無視する。
なんだろう。
何か、聞こえている気がする。
でも、今の私の言語野には響かない。
そんなところ、とっくに機能は失われている。
それに、この肉は元気がいい。
噛み付くたびに、食いちぎるたびにぴくぴく跳ね回る。
それが楽しくて。
それが疎ましくて。
我を忘れて咀嚼する。
むしゃむしゃ。
ぐちゃぐちゃ。
そのうち、肉は静かになった。
さあ、落ち着いて食事をしよう。
たくさん食べて、精をつけないと。
episode5 異常遭遇
瞼を通して、微かな光が感じられる。
眩しさに耐えかねて、腕で光を遮ろうとする。
そこで、奇妙なことに気がついた。
腕が動かない。
なんで。
その疑問のせいで、たゆたっていた意識が覚醒した。
体をゆっくり起こして、周りを見渡す。
間違いない、ここは俺の家だ。
まだ意識に霞がかかったような感じだが、少し安心した。
「うえ」
口の中に鉄の味が濃く残っている。寝ている間に何かあったのだろうか。
とりあえず洗面所に行って、口を濯ごう。
そう思って、立ち上がろうとすると、左手が動かないことに気がついた。
はてな、と思って左を見ると、そこには俺の手を硬く握ったまま眠る桜の姿があった。
「うわっ」
情けない声が口から漏れ出す。
思考が混乱する。
おーけー、まずは状況を整理しよう。
今は朝、正確な時間はわからないが、ひょっとすると昼に近い時間かもしれない。
つまり、今の時間に寝ている人間は、そこで夜を明かした可能性が非常に高いということだ。
そして、桜は女、俺は男、二人とも年頃だ。
この状況から導き出される最も自然な結論は……。
「いや、その理屈はおかしい」
なんだかそれは、とってもまずい気がする。
それに、不自然な点が多すぎる。
まず、桜には毛布が掛けられている。
これは、意図せずここで眠ってしまった桜のために、第三者が掛けたものだろう。
それに、桜はちゃんと服を着ているようだ。
まさか情事の後に、パジャマでもなく普段着を着て、その姿のまま眠るということもないだろう。
おそらく、桜は何らかの理由で倒れた俺を看病していてくれたのではないか。もしそうなら、口の中の濃厚な血の味にも納得がいく。
とりあえず、桜を起こして事情を聞くべきだろう。
「さく――」
「桜、いい加減に起きなさい」
俺の声に、聞きなれたような、初めて聞くような、不思議な声が重なる。
「なんだ、士郎の方が先に起きちゃったんだ」
「遠坂、なんで俺の家に」
驚く俺の前で、遠坂の顔色が変わっていく。それはもう、リトマス紙の色が変わるみたいにはっきりと。
「ふぅん、『遠坂』ねえ。どうやら衛宮君は昨日のことを忘れちゃったみたいね♪」
寒気がするくらいにこやかな笑顔。
彼女の背後に赤い炎が見えるのは錯覚か。
えまーじぇんしー。
あらーと、あらーと。
このままでは、間違いなく不吉なことが起きる。
どのくらい不吉かというと、フライング気味の走馬灯が頭の中で大回転しているくらい。
遠坂はどうやら、昨日のことを忘れたことに怒っているようだ。
ならば死ぬ気で思い出せ。今思い出さないと、一分後には、考えるという、人間として当たり前の行動すら出来なくなっている可能性が高い。
昨日は、学校に行って、修理をして、掃除をして――。
「あっ」
呆れた、という遠坂、もとい、凛の表情。
「やっと思い出したみたいね。じゃあ、私が何に対して怒っているかもわかるわね」
先ほどの殺ス笑顔は消えたものの、あからさまに不機嫌な顔をしながら凛が言う。
「昨日のあなたの行動を私は認めない。自己犠牲も度が過ぎれば醜悪よ」
自己犠牲?俺は昨日そんなことをしたかな……、あっ。
「凛っ、あの化物は……ぐっ」
急に体を起こそうとすると、腹部に激痛が走った。
そうだ、昨日俺はセイバーを助けようとしてどてっ腹を吹き飛ばされたんだ。思い出すと同時に、猛烈な吐き気が襲ってきた。
「うぐっ」
手で口を押さえ、便所まで走り抜ける。
「ぐええっ!」
便器を抱えるようにして、嘔吐を繰り返す。
鮮血の色をした吐瀉物というのはなかなか刺激的な光景だ。
ごほごほ、と咳き込む俺の背中を、優しい手が摩ってくれた。
「ほら、水。うがいしなさい」
少し心配そうな凛の顔。
ほら、やっぱりこいつはいい奴だ。
◇
その後、俺達は居間に集まって色々なことを話し合った。
昨日のこと、これからのこと。
当面の基本方針としては、積極的にこちらから攻めるのではなく、あくまで攻めてくる敵を迎撃する『待ち』の戦略が選択された。無闇に戦場を拡大させたら、一番の懸案である学校の結界が発動したときに対処しきれなくなる可能性があったからだ。
ともあれ、こちらはほぼ半数の戦力を抱えている。昨日のバーサーカーくらい規格外な化物なら話は別だが、普通(?)のサーヴァントなら問題なく対処できるだろう。
あまり細々としたことまで話し合っていても意味はないし、いざというときの一歩が遅れる。ということで、今日の作戦会議は一時間ほどで終了した。
「先輩、今日の晩ご飯はどうしますか?」
今、この家にいる人間で俺のことを先輩と呼ぶのは一人だけ。
サーヴァント・キャスターのマスター、遠坂桜だ。
「うーん、昨日はこんなことになるなんて考えてもいなかったからなぁ。流石に六人分の食材はないし、後で買い出しに行くよ」
なんたって、元々この家には俺しか住んでいなかったのだ。いくら飢えた虎と、育ち盛りな後輩が兵糧攻めにやってくるとはいえ、基本的な食料は一人分しか備蓄していない。
まあ、最近は後者の消費量が目覚しく増えてきたので二人前は常備されてるのだが。
「先輩?なにか失礼なこと考えてませんか?」
あ、くろいだてんし。
うふふ、と哂う桜。右手には魔術で強化された包丁が装備済み。背中に黒い影が漂って見えるのは目の錯覚と信じたい。
「そんなことないぞ、桜。桜は育ち盛りだ、なんてちっとも考えてない」
「姉さん、セイバーさん、ちょっと居間の畳の下を――」
「すみません桜さん勘弁してください」
ああ、わかってるさ。
俺は一生桜には勝てないんだ。なんたって男として一番弱い部分の首根っこを押さえられてるんだから。
ちなみに、畳の下には俺のパライソが広がってる。一昨日隠し場所を変えたばかりなのに、もう把握してるんですね、桜さん。
「あれくらいの量、普通です、まわりの子なんてもっと…」
赤くなりながら、そんなことをぶつぶつと言う桜は本当に可愛い。よかった、どうやら今まで通りやっていけるみたいだ。
◇
「本当にすみませんでした、先輩」
今日の桜の第一声がそれだった。
畳の上に座して、深々と頭を下げたその姿勢はいわゆる土下座だが、弓道部の桜がそれをすると、厳かにこそ感じられるが卑屈な雰囲気は微塵もない。
「昨日の醜態、そして今までの欺瞞、いまさら許されることではありません。
でも、もし、もしよろしければ、贖罪の機会を頂けないでしょうか」
今日の桜に涙はない。動揺もない。ただ、静かに自己を見つめている。
そもそも、桜は俺に謝らなければならないようなことは何一つしていない。
修行は俺が勝手にやっていたことだし、方法が間違っていたのも俺の責任だ。昨日の桜には驚かされたが、特に迷惑がかかったわけでもない。
だが、桜にそれを言っても納得してもらえないことはなんとなくわかっている。理屈ではないのだ。許されることは救いだが、時には罰せられることのほうが救われることもある。俺は、そのことを痛いくらい知っているのだ。
「わかった。でも、条件がある」
桜は軽く身を強張らせた。
「これから、俺に魔術の指導をしてくれないか。今までの修行には限界を感じてたんだ。腕のいい先生がいてくれると助かるんだけど」
そこまで言うと、まるで厚い雲から太陽が顔を出したかのような輝いた表情で、桜が笑った。
返事は聞くまでもないようだ。
◇
「頭が間抜けですか、あなたは」
買出しに行く、そう告げたときのセイバーの第一声がこれ。
「昨日、教会で何を聞いてきたのです。今、あなたは殺し殺される戦場にいるのですよ。それを呑気に買出しなど、敵に殺してくれと言っているようなものです」
烈火のごとく怒る彼女はセイバー。
自分の名を告げないことを許して欲しい、申し訳なさそうにそう言ったときの彼女と同一人物とは思えない。
「だって、今この家には食料がないんだから、買ってくるしかないだろう」
「む……確かに糧食の補給は戦場における最重要課題ですが……」
彼女は顎に手をあてたまま固まってしまった。『糧食の補給』とか言うあたり、軍の指揮官か何かが彼女の正体なのかもしれない。
「無駄よ、セイバー。そこらへんのとこ、多分この男は化け物だから」
いつの間にいたのか、後ろから凛の声が聞こえた。
「化け物って何だよ」
「化け物は化け物よ。あなた、一度自分の決めたことには異常に拘るから。買い物なんて、サーヴァントにでも任せればいいのに」
「たった一晩しか顔を合わせてないお前に言われたくないぞ」
「一晩も顔を合わせてれば十分よ。それくらい、あなたは歪なの。ちょっとは自覚しなさい」
むっ。
なんか引っかかるな、その言い方。
「だいたい、サーヴァントに買い物なんてできるのか」
「彼らは聖杯からその時代の基本的な知識は授けられてるの。そんなこと、出来ないわけないでしょ」
「でも、料理を作るのは俺だぞ。なら買い物にも俺が行くべきだろ」
「メモでも渡せばいいでしょ、そんなもの」
ああ言えば、こう言う。
こう言えば、ああ言う。
話が前に進まない。
昨日の顛末からか、今日の凛は少し機嫌が悪いようだ。
「わかりました、では私が同行します」
不毛な二人の会話にうんざりしたかのように、腰に手を当て、眉根を寄せながら剣の英霊はそう言った。
「いいのか、セイバー。お前は」
『魔力の節約のために眠らなけりゃいけないんじゃ』、そう視線に意思を篭めて問いかける。
彼女もそれを察したのだろう、同じく意思の篭もった視線で返してくれた。
「確かに糧食の補給は大事。かといってマスター一人に行かせるなど、愚行極まりない。シロウが行くと聞かないなら、私が同行するしかないでしょう」
◇
外は、季節が冬とは思えないほど穏やかな気候だった。
こうしてみると、コートを羽織った俺の服装よりも、冬にしては薄着にすぎるように見えるセイバーの服装のほうが相応しいように思える。
セイバーは俺の少し前を歩いている。おそらくは、如何なる危難からもマスターを守ろうという彼女なりの覚悟だろう。
サーヴァント。過去、或いは未来に生きた英雄達。
そんな、絵本か寝物語の中にしかいないと思っていた存在が俺の前を歩いている、しかもアスファルトの上を、というのは奇妙な感覚だった。
「セイバー」
特に用があったわけではないが、何となく声をかけてみる。
「なんでしょう、シロウ」
彼女は、少し歩く速度を抑えてこちらと並ぶような位置に下がってから、そう答えた。
「お前が生きてた時代って、どんな感じだったんだ」
酷くあやふやな質問だ。そもそも、何を問いたいのか、主題がはっきりしていない。
おそらく、セイバーもその問いに大した意思が込められていないことは気がついていただろう、しかし、彼女は律儀にこう答えてくれた。
「おそらく、どんな時代でも、そこに生きる人々にとってみればその時代こそが絶対。
他と比較することなど、出来ないでしょう。伝聞、あるいは伝承で比較することはできても、実感することは不可能だ」
それはそうだろう。
例え、古代の生活をどんなに深く研究しても、実際に経験することが出来ないのであれば、それは本人の空想、悪く言えば妄想に等しい。極端にいえば、御伽噺に出てくる架空の国となんら変わることがないはずだ。
「私は、自分が生きた時代と今の時代を実感として比べることの出来る稀有な例です。
だからこそいえるのですが、この時代、この国には余裕がある。それは物質的な面でも、精神的な面でも。それは素晴らしい事なのではないか、と思います」
彼女は少し遠くを見つめるような目をしながら、そう答えた。
セイバーが生きた時代。
彼女の正体を知らない俺には、想像も出来ない世界だ。
「それに比べると、私が生きた時代には余裕というものが無かった。人は誰しもが自分が生き残ることに精一杯だった。
農民は今日の食料を手に入れることに命を賭け、騎士は明日、戦場で倒れないように技を磨き、貴族は明後日の酒杯に毒を盛られないために策を練った」
静かな、遠い昔を振り返る声は、誰に対する手向けなのか。
「幸福など、人それぞれ。しかし、私の時代に生きた人々がその生きる時代を選択することができたなら、おそらくほとんどの者がこの時代を選択したでしょう」
しばらくの間、俺もセイバーも無言で歩いた。
さっきの質問は少し無神経だったのかもしれない。
単なる興味以外に、この時代に生きる者としての優越感のようなものがなかったか。
それは、自分の時代を精一杯生きた彼女に対する侮辱以外の何物でもないだろう。
セイバーは奇跡を、聖杯を求めて俺なんかの呼びかけに応じてくれた。
だが、果たして俺に彼女を従える資格など、あるのだろうか。
「なあ、セイバー。何か食べたいものとかあるか」
気まずい雰囲気に耐えかねて、セイバーに尋ねてみる。
「食事ですか。先ほども申しましたとおり、我々には栄養の摂取という意味での食事は必要ありません。ですから、シロウのお好きなものを用意していただければ、それで十分です」
うーん、料理する側としては、そういう答えが一番困るんだよな。
「じゃあ、絶対食べたくないものってあるか」
そう聞くとセイバーは、まるでこの世の終わりみたいな顔をしてこう言った。
「……雑なものだけはどうかご勘弁を」
雑って。
一体何があったんだ、セイバー。
そうこうしているうちに、俺達は十字路に差し掛かった。
ここを左に曲がれば、冬木の皆さんの胃袋を支える、マウント商店街にたどり着く。
しかし、俺はそこで奇妙なものを見つけてしまった。
ソレは、まっすぐに俺達のほうに向かってきた。
いや、まっすぐに、という表現はおかしい。
確かに俺達に近づいてきてはいるのだが、泥酔しているように足元が覚束ない様子だ。
それだけなら別段珍しいものではないのだが、問題はソレが着ている服だ。
顔は逆光になっていてよく見えないが、着ているものの判別くらいはできる。かなり汚れているが、あれはウチの学園の女生徒用の制服だ。
いくら自由な校風の穂群原学園の生徒とはいえ、昼間から泥酔するような奴はいないと思う。まして、あれはおそらく女の子だ。
「シロウ」
セイバーが少し緊張したような面持ちで前に出る。何か良くないものでも感じ取ったのかもしれない。
俺達は立ち止まる。
しかし、ソレは近づいてくる。
よたよたと、二歩、三歩、俺達の方に歩いてきて、
大きくバランスを崩して、
どさり、と。
うつ伏せに、倒れた。
その瞬間、俺は駆け出していた。
「シロウ、待ちなさい!」
後ろからセイバーの声が聞こえる。
セイバーの心配もわかる。きっと、他のマスターの罠じゃないか、と疑っているのだろう。
だが、俺の体は止まらない。
倒れた女の子を抱き起こす。
「おい、しっかりしろ!」
そこにあったのは、自分の知ってる女の子の顔だった。
「代羽!」