FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode60 昼、そして夜

 開け放った窓から、一匹の蝶が舞い込んできた。

 あのとき、彼女が不可視の涙を流し、無音の嗚咽を漏らしていたあのときと同じ蝶。

 ひらひらと、ひらひらと、柔らかい日差しの中を蝶が舞う。

 儚いその姿は、なぜか彼の少女を連想させた。

 私は戯れに指先をそっと伸ばしてみた。

 蝶はしばらくの間部屋を散策した後で、ようやく私の指を止まり木として認めてくれた。

 羽を休める不躾な闖入者を眺めながら、少女のことを考える。

 わたしは彼女に生きていくための力を与え、同時に彼には生きていくために必要な枷を与えた。

 彼らは今、何をしているのだろうか。

 やはり、今も明けない夜の中をさ迷い歩いているのだろうか。

 やはり、今もその表情は陰気で堅牢なままなのだろうか。

 蝶はふわり、と私の指から飛び立ち、窓の外の世界へと旅立った。

 私はそれを後押しするように、柔らかな風を起こした。

 私の起こした風に乗って、大空に羽ばたく蝶。

 きっと、私が彼らと再び出会うことはあるまい。

 だから、私と彼らの物語はここで終わり。

 私が影響を与えた少女と少年は、何一つ私に影響を与えないまま消えていく。

 それが、一番綺麗だと。

 無責任に、そう思った。

 

episode60 昼、そして夜

 

「お兄ちゃん、早く来ないと置いてっちゃうよー!」

 

 元気な声が、青空の下に響く。

 真っ直ぐな陽光に照らされた彼女の髪は、きらきらと輝く新雪のよう。触れれば、ふんわりと儚く溶けてしまうのではないか、そんな妄想を抱く。

 白く弾んだ吐息。それだけが、彼女が人であることを証明している、そう思える。

 それほどまでに、可憐で、幻想的。

 奇跡みたいな、光景。

 そんな彼女と、二人で歩く。

 今日の夜から明日の夜にかけて天気が崩れるという話を聞いていたので少し心配だったが、今日は太陽が頑張ってくれているらしい。

 大通りに、人通りは少なかった。

 平日の朝だというのもあるのだろうが、それ以上にこの街を支配しているのは、気だるいような閉塞感。たまに行き交う人の顔にも、得体の知れない疲労が色濃い。

 まるで、海の底を泳ぐ深海魚のようだと思う。ゆらゆらと、退化した視界の中を、匂いと音を頼りに餌を探し這いずる。

 そんな、埒外の景色。無彩色の街並み。

 唯一色を持ったのは、美しい少女。

 くるくると変わる表情。

 くるくると踊る小さな身体。

 思わず抱き締めたくなる。

 その感情を、必死に押さえ込む。

 少なくとも、俺にはその資格は無い。

 俺は、彼女を裏切った。

 彼女の手を、振り払った。

 ならば、俺は、彼女に愛されてはならない。

 だから、それ以上の何かを込めて、語りかける。

 何か、よく分からない、暖かいもの。

 それが、彼女に伝わりますように、と。

 無責任な願いを込めて。

 

 

「あ、この子も可愛い。でも、この子もいいなぁ。ねえ、お兄ちゃん、お兄ちゃんは、どっちがいいと思う?」

 

 広い店内を、所狭しと埋め尽くす、ヌイグルミ達。

 のんびりとした音楽に、心なしか甘い空気。

 俺一人なら、間違えても立ち入ろうとしない、禁断の地。

 ファンシーショップ。

 

「これはセバスチャンに似てるから、もういらないかなぁ。あ、この子いいかも。オットーのお嫁さんにぴったり!」

 

 普段の彼女には珍しく、少しはしゃいだ声。それを聞いているだけで楽しくなってくる。

 良かった、機嫌は直ったみたいだ。

 最初は、映画館に行くつもりだった。

 特に見たい映画があったわけでもないが、彼女と二人で見るならば何でも面白いだろう、そう思ったのだ。

 ちょうど上映していた映画は、「Fate/Zero」。それほど前評判の高い映画だとは聞いていなかったが、そういうものの中にこそ名作も多い。

 しかし、結局それを見ることは無かった。

 原因は、些細な出来事。

 彼女と並んでチケットを買おうとしたとき、売り子さんがこう言ったのだ。

 

『高校生一枚と小学生一枚で三千円です』、と。

 

 俺は、その時の冷たい殺気を生涯忘れることは無いだろう。

 今にも、『殺すわ』、と、物騒なことを言いかねない彼女を、引きずるようにして連れて来たのが、このファンシーショップ。レストランにでも入ろうかと思ったが、お子様メニューでも出された日には、本気で暴れだしかねない。

 

「ねえ、聞いてるの、お兄ちゃん?」

 

 ふと気付けば、目の前には少し不機嫌な彼女の顔。

 頬を膨らませたその表情が、仔栗鼠のようで、ひどく愛らしい。

 

「悪い、聞いてなかった。えっと、何かな?」

「……ま、正直って、基本的には美徳よね」

 

 はあ、と溜息を吐きながら、彼女は二つのぬいぐるみをかかげ上げる。

 

「どっちの子が可愛いかな、そう聞いてるんだけど」

 

 二つのぬいぐるみ。

 どちらも俺にとってはさして違いがあるようには見えないが、どっちでもいいんじゃないか、というふうな解答は、この際禁忌だろう。

 右手には、数珠のように丸っこいたてがみをつけた、惚けたライオンのぬいぐるみ。

 左手には、もこもこと白い、アザラシの子供のぬいぐるみ。

 両方とも、彼女の小さな体を覆い隠さんばかりに大きい。

 実を言えば、どちらもそれほど可愛らしいとは思わないが、それを彼女が抱えていると可愛らしく見えるから不思議だ。

 

「迷ってるのか」

「ええ、だって、どちらもとっても可愛いんだもの」

 

 そう言って眉根を寄せる表情が、微笑ましい。

 この顔を見ることが出来ただけでも、今日彼女を連れてきた価値があるというものだ。

 

「いいよ、両方買おう」

 

 ひょい、と取り上げる。

 

「いいわよ、私が買うから」

「ちょっとは兄貴に格好つけさせてくれ」

 

 まだ何事かを言っている彼女を無視して、レジに向かう。閑散とした店内と比例して、レジは空いていた。

 並ぶことも無く、商品を店員に渡す。

 値段は、目が飛び出るというほどでは無かったものの、それなりに諭吉さんがいなくなるほどではあった。ぬいぐるみ、恐るべし。

 しばらく待って、綺麗にラッピングされたぬいぐるみを受け取る。二つ抱えると、流石に手一杯になる。

 苦心してなんとか抱え上げ、彼女の待つ店先のベンチに。

 自動ドアが開くと、冷たい冬の寒気が肌を刺す。

 外で待っていた彼女の頬は、水蜜桃のように、赤かった。

 少し、不機嫌な表情。

 

「……私がお姉ちゃんなのに……」

「ん?何か言ったか?」

「何でもない!」

 

 弾むように近付いてくる。

 それでも、少しも崩れが無い。

 一つ一つの動作が気品に溢れ、それ以上に可憐だ。

 一瞬、気を奪われてしまった。

 気付けば、彼女の小さな手が差し出されている。

 そして、一言。

 

「私が持つわ」

「じゃあ、一つだけ」

 

 比較的小さな、ライオンのぬいぐるみの包みを、手渡す。

 彼女は、それを紙袋の上からぎゅっと抱きしめる。

 かしゃっと、紙の潰れる音。

 輝くような、微笑み。

 子供にプレゼントを渡す親の喜びとはこのようなものだろうか、と、埒もない想像をする自分に苦笑した。

 

「?どうしたの、お兄ちゃん?」

「いや、何でもないよ。それより、そろそろ飯にしようか」

 

 二人で、歩き出す。

 手は、握らない。

 彼女の小さな手は、必死に大きな包みを抱えているから。

 ああ、一つだけにすればよかったかもしれない。

 二つのぬいぐるみを買ったことを少し後悔し、彼女に抱かれたそれに、少しだけ嫉妬した。

 

 

 公園。

 そこの芝生に、大きめのシートを敷き、弁当を広げる。

 少し寒いかと心配したが、冬には珍しい暖かい風。歩き通しだった体には、かえって優しい程である。

 回りの木々は流石に冬の装いであり、薄茶けた幹が寒々しい。ただ、芝生の青さが目に鮮やかである。

 

「はい、あーん」

 

 差し出される箸と、それに摘まれた卵焼き。これは彼女が作ったものだ。正直、お嬢様が料理を作れるとは意外であったが、こなれた手つきはそれが初めてのことではないことを主張していた。

 少し躊躇したが、結局、馬鹿みたいに口を開ける。

 あんぐりと開かれたそれに、放り込まれた卵焼き。丁寧にタオルで包んでおいたからだろう、まだほの暖かい。

 むぐむぐと咀嚼する。

 少し甘すぎる気もしたが、これくらいのほうがお弁当の卵焼きっぽくていいだろう。

 

「どうかな、美味しくできてる?」

 

 不安そうな顔。

 ああ、将来彼女に恋人ができたら、そいつにも同じ表情で語りかけるのだろうか。

 ほんの少し、妬ましいのかもしれない。

 そんな小さな考えを振り払うように、笑ってやる。

 

「ああ、最高だ。今度、作り方を教えて欲しい」

 

 ぱああ、と、雲間から日が照るような、笑み。

 見ているだけで、幸せになる。

 魔法のようだ、と、魔術師らしからぬ感想を抱く。

 それを噛み締めながら、色取り取りのおかずを摘み取る。

 

「ほい、おかえし」

 

 鶏の唐揚げ。俺の自慢の一品である。

 それを、彼女の口元に突きつける。

 一瞬、きょとんと何かが抜け落ちた彼女の表情。

 

「えっ?私も?」

「当然」

 

 微かな狼狽。

 

「でも、あれって女の子が男の子にするものなんじゃないの?」

「さあ、そうかもしれないし、違うかもしれない」

 

 普段なら、回りが気になるようなシチュエーションが、逆に楽しい。

 

「でも、はずかしいよ」

「自分がやられて嫌なことを、他人にやってはいけません」

 

 これは、真理。

 人が人と上手くやっていくための鉄則でありますな。

 むー、と、少し拗ねたような顔をした後で、渋々と彼女は口を開けた。

 目を閉じたそれは、親鳥に餌をねだる雛鳥みたいで。

 まるで、胸が締め付けられるような保護欲が襲ってきた。

 それに、必死の想いで耐えながら、唐揚げを放り込む。

 やはり、彼女もむぐむぐと、それを咀嚼した。

 

「どうだ、美味いか?」

「……美味しい」

 

 言葉と相反して、納得し難いような表情。

 はて、どこか失敗があったかしらん。

 

「どうした、なんか不味かったか?」

「味は申し分ないわ。セラもびっくりするわよ、きっと」

 

 じゃあ、どうしたんだろうか。

 

「はあ、きっとお兄ちゃんのお嫁さんは苦労するわ」

「なんだよ、それ」

「だって、自分よりも料理の上手い旦那さんって、屈辱よ、きっと」

「そんなもんかね」

 

 最近は、主夫だって珍しい存在じゃあないし、女の人が必ず料理ができないといけないというのも固定観念だ。第一、俺のはただの趣味であって、別に特技といえるほど凝ったものが作れるわけではない。だから、他人に自慢できるようなものではないと思っている。

 それでも、彼女を喜ばすことが出来たならば、それだけで価値があったというもの。

 特に苦労したことも無いが、それでも続けてきて良かったと思った。

 

 

 鮮やかな、宝石の群。

 蒼い、水。その中を、飛ぶように泳ぐ海亀。

 薄暗く、人影もまばらな館内。

 密やかな空気。

 隣に立った彼女も、何も言わない。

 その手は、から。彼女の荷物は、既に宅急便で送ってある。

 視線は、真っ直ぐに。

 ただ、その光景に心を奪われている。

 人は、魔術など使わなくても、人の心を奪うことが出来る。

 冬木市から、電車で三十分ほどの駅、そんな近くにある水族館。

 子供の頃はよく藤ねえと一緒に来たものだが、最近はとんと足を運んでいなかった、場所。

 久しぶりのそこは、やはり輝くような魚たちの住処で。

 何故か、ほっとした。

 

「すごいね……」

 

 ぽつりと、彼女は呟いた。

 その瞳は、驚きというよりも、納得。感動よりも悲しみに彩られていた。

 

「かわいそう、か?」

「ん、ちょっとだけ」

 

 円筒型の水槽、そこをくるくると泳ぐ魚達。

 狭い、世界。そこだけの、世界。

 それが幸福なのかとか、不孝なのかとか、そういうことに想いを馳せるのは、おそらく子供の感傷に過ぎないのだろう。

 普段なら、一笑に付すような、幼稚な思考。

 それを是とするような何かが、ここには存在した、それだけのこと。

 

「私も、彼らと一緒だから」

 

 静かな、呟き。

 ふ、と、隣を見る。

 彼女の瞳は、乾いていた。

 安心した自分に、嫌悪を覚える。

 

「心配しないで、私は幸せだったのよ。それでも、たまに思うの。狭い世界しか知らないで幸福に過ごすのと、例え不孝であっても広い世界を生きること。どっちが本当に近いのかなって」

 

 その問いに答えることに、意味は無い。

 ただ、問うことにこそ意味がある。

 それは、誰よりも彼女が一番良く知っているはずだ。

 だから、答えない。

 彼女も、それ以上問わなかった。

 それだけ。

 それだけの、禅問答。

 ゆっくりと、水槽に目を戻す。

 そのとき、少し弱った魚が、ふらふらと泳いでいるのが目に入った。

 名前も知らない、魚。

 きらきらと、透き通った宝石のような熱帯魚の中では、やや地味な、目立たない魚。

 背びれが、傷ついている。ひょっとしたら、他の魚にやられたのかもしれない。

 

「楽園なんて、どこにもないのにね」

 

 きっと、明日にでもあの魚はこの水槽からいなくなっているだろう。

 そのことに、きっと誰も気付かない。

 気付かずに、通り過ぎるのだ。

 でも、俺は覚えておこうと思った。

 多分、一週間も覚えておければ、自分を褒めてやってもいいだろう。

 その、程度のこと。

 

「ねえ、あっちも見たいな」

「ああ、行こうか」

 

 ゆっくりと、踵を返す。

 何かの声が聞こえた気がした。

 小さな、助けを呼ぶような声だった。

 それでも、俺は歩いた。

 そんなもんだろう。

 

 

「今日は、楽しかったか?」

 

 二つの、影法師。

 

「うーん、楽しかったけど、62点」

 

 足元から、長く長く伸びている。

 

「なんだそりゃ、結構辛口だな」

 

 背中に、斜陽の熱。

 

「レディをエスコートするには、雅やかさに欠けてたわね」

 

 世界が、赤く、黒く、染まっている。

 

「そんなもの、俺に求めないでくれ」

 

 片手に、大きくて軽い包み。

 

「あら。きっと、リンだって欲しがると思うけど」

 

 片手に、彼女の体温。

 

「なんで凛が出てくるんだ?」

 

 小さな、掌。

 

「さあ?どうしてかしらね?」

 

 小さな、歩幅。

 

「きっと、あいつは、もう俺の前には姿を見せないと思う」

 

 それにあわせて、小さく歩く。

 

「そんなこと、ないと思うけど。だって、あの子、堪え性がないから」

 

 吹く風は、流石に冷たい。

 

「どういう意味だよ、それ」

 

 街灯の、灯り。

 

「気付いてなかったの?あの子、お兄ちゃんに惚れてるわ」

 

 影が、歪に捻じ曲がる。

 

「……」

 

 近付けば、段々と小さくなり。

 

「その様子じゃ、気付いてた?」

 

 遠ざかれば、段々と大きくなる。

 

「……自惚れだと、思ってたよ」

 

 曲り角を、曲がる。

 

「一日一緒にいれば、よく分かる。もう、めろめろよ、あの子」

 

 そこには、いつもの町並み。

 

「めろめろって、いつの時代だよ、その言葉」

 

 影絵の世界は、無かった。

 

「サクラもそう。きっと、セイバーも。みんな、お兄ちゃんのことが、大好きなの」

 

 いつもの、世界。いつもの、日常。

 

「ああ、それは有難いな」

 

 それが、なんで、こんなにも。

 

「じゃあ、なんで、そんなに辛そうなの、シロウ」

 

 振り返ったイリヤ。

 その瞳は、夕焼けなんかよりも、紅くて、紅くて。

 夕焼けなんかよりも、遥かに、怒っていた。

 

「辛くなんか、無い」

「嘘。じゃあ、なんで笑わないのよ」

 

 それは、いつかと同じ質問。

 胸の深奥、そこを抉り、掘り穿つ、質問。

 

「ああ、だって、別に笑う必要が無いだろう」

 

 もう、迷わない。

 答えは、得たから。

 

「俺は、正義の味方になるんだ」

 

 視線は、前だけに。

 後ろは、見ない。

 そこに、どんな楽園があっても。

 

「もう、変えられないの?」

「もう、決めたから」

 

 振りほどかれた、手。

 彼女の熱が、まだ残っている。

 名残惜しいとは、思わない。

 きっと、こんなこと、これから何回だって待っている。

 その度に、躊躇していたら、助けられる人だって助けられなくなっちまう。

 躊躇うな。

 弱くなるぞ。

 留まるな。

 忘れてしまうぞ。

 蹲るな。

 凍えてしまうぞ。

 

「そっか、もう、止まれないんだね」

 

 歩く。

 俺は、イリヤを押しのけるように、前に。

 彼女は、俺を押しとどめるように、後ろ向きに。

 ゆっくりと、でも、確かに。

 前に、歩いていく。

 

「ああ、多分、無理だ」

 

 立ち止まった彼女を、追い越した。

 眼前には、誰もいない。

 ただ、地平線みたいなアスファルトが、広がっていた。

 そこを、歩く。

 足が、震えそうだった。

 

「じゃあ、私も一緒に歩くわ」

 

 手に、再び、暖かい熱。

 隣に、小さな彼女の姿。

 

「駄目なんて、言わせない。私だって、キリツグの娘なんだから、その資格がある」

「きっと、不幸になる」

 

 今度は、歩幅は大きく。

 彼女を、置き去りにするかのように。

 

「でも、貴方はそれを望んだ」

 

 小走りで、駆けてくるイリヤ。

 息が、心なしか苦しそうだ。

 

「そう、俺が望んだ。別に、お前が付き合う必要は、無い」

「そう、でも、これは私が望んだの。嫌でも付き合って貰うから」

 

 だって、と。

 彼女は、珍しく、言い澱んだ。

 静かな、沈黙。

 遠くで、季節はずれの風鈴の音が、した。

 

「私は、シロウの、お姉ちゃんなんだから」

 

 きっと、幻聴だろう。

 風鈴なんて、許せない。

 だから、もう、いい。

 この手を、握り締めよう。

 今だけ。

 いずれ、放してしまうから。

 

「ああ、知ってたよ」

 

 小さくて、大きい、この手。

 どこかで、握ったことのある手と、同じ。

 暖かくて、頼りがいがある。

 

「正義の味方にだって、味方が必要でしょう?」

「ああ、そうだな」

 

 縋りつきたくなる、その台詞。

 それでも、きっと、俺は彼女を裏切るだろう。

 いずれ、置き去りにしていく。

 それでも。

 

「嬉しいね、シロウ」

 

 ああ。

 心の底から。

 

「嬉しいよ、イリヤ」

 

 

「おかえりなさいませ、イリヤ様」

 

 門には、白い人影。

 遠くからでも、それとわかるシルエット。

 

「セラさん、こんな寒い中、ずっと待ってたのか?」

「それが、務めなれば」

 

 確固たる返答。

 おお、これぞ使用人の鑑。

 

「夕食は済まされましたか?」

「いや、まだだけど……」

「既に、夕餉の準備は整っております」

 

 時間は、六時前。まだ少し早いかもしれないが、それでも今日は歩きとおしでお腹が減った。なら、こんな時間の夕食もいいだろう。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。いいだろう、イリヤ」

「そうね、もうお腹ぺこぺこだもの」

「では、こちらに」

 

 先導する、セラさんについていく。

 鼻をくすぐる、いい香り。

 否応無く高まっていく、期待感。

 居間の襖を開けると、そこにはテーブル一杯に盛り付けられた、色取り取りの料理の山が。

 

「すごい……」

 

 俺の家庭料理なんて、目じゃあない。やっぱり、本職の人には勝てません。

 

「材料も揃いませんでしたし、調理器具も不慣れでしたのでこの程度ですが……」

 

 これで、この程度ですか。

 

「十分よ、セラ。さあ、食べましょう、シロウ」

「ああ、そうだな」

 

 ゆっくりと腰を下ろす。

 イリヤも、座布団の上に、ちょこんと腰掛けた。

 しかし、セラさんとリズさんは、立ちんぼのまま。

 

「あれ?二人はもう食べたのか?」

 

 彼女達は、無表情のまま、こう答える。

 

「我々は使用人です。主人と食事を共にする訳にはまいりません」

 

 なるほど、そういうものだろうか。

 それでも、ここは衛宮邸、口幅ったいながらも、俺の家だ。

 郷に入れば、郷に従え。

 ここは俺のルールに従っていただきましょう。

 

「いいよ、一緒に食べよう。皆で食べたほうが、美味しい」

 

 きらり、と、リズさんの目が光った気がした。

 

「しかし……」

「セラ、我々は客で、しかも捕虜よ。ここは、主人の命に従いましょう」

「イリヤ様……」

「それに、もう私はアインツベルンの後継者ではありません。厳密に言えば、貴方達が敬う必要なんて、どこにもないのだから」

 

 僅かな自嘲に塗れた主人の言葉を、従者達は、侵し難い誇りを持って否定した。

 

「我らは、もとよりアインツベルンに仕えていたのではありません。イリヤスフィール様、貴方にこそお仕えして参りました。それは、永劫変わることはありません」

「私も、セラも、イリヤのこと、大好き」

 

 そんな、言葉。

 ほんの少しだけ、しんみりとした、空気。ここは、ホストたる俺が舵を握るべきだろう。

 

「さ、みんなで一緒に食べようか」

 

 イリヤは満面の笑みで。

 リズさんは、無表情で、でも、どこか嬉しそうに。

 セラさんは、渋々と、でも、やはりどこか嬉しそうに。

 四人で、囲む食卓。

 そこに、一昨日までの面子は、一人もいない。

 それでも、きっと暖かい、食卓。

 それが在ることが、どれほどの奇跡の上に成り立っているか。

 それが有ることが、どれほど得難く、有難い事なのか。

 俺は、きっと理解していない。

 それでも、嬉しい。

 茶碗に盛り付けられた、湯気の立つ、白いご飯。

 手を合わせて、さあ、食べよう。

 

 そう、思ったとき。

 

 ――どん、どん、どん。

 

 玄関の戸が、激しく打ち鳴らされた。

 

 ――どん、どん、どん。

 

 何かに、まるで追い詰められた獣のように、忙しなく。

 

 ――どん、どん、どん。

 

「……ウ!……ウ!」

 

 何かが、聞こえる。

 聞きなれたような、声。

 でも、結界は作動していない。

 敵では、無いはずだ。

 

「私が見て参りましょう」

 

 ゆっくりと腰を上げたセラさん。

 襖が開けられた一瞬だけ、戸を叩く音が、大きくなった。

 

「何だろう……?」

 

 さっきの声。

 不吉を感じさせるものは、無かった。

 それでも、どこか、気になる。

 この時間なのだ、セールスや新聞の勧誘等ではないだろう。

 いや、そもそも時期が時期だ。結界が作動しなかったとはいえ、どんな危険があるかわかったものではない。

 

「やっぱり、俺も行く」

 

 腰を上げる。

 少し不安げな、イリヤの瞳。

 

「リズさんは、ここでイリヤを頼む」

 

 襖を開ける。

 玄関の方を見ると、閉じられた戸と、そこに立つセラさん。

 何か、話している。

 

「お帰りください、既にエミヤ様もお嬢様も、貴方達とは関係を持たぬ身。ここの逃げ込むなど、筋違いも甚だしい」

『わかっています、それを百も承知で、恥知らずに申し上げるのです。どうか、どうかシロウに取り次いで頂きたい!』

「重ねて申し上げます。どうか、お引取り下さい。ここは、既に貴方達のいるべき場所ではありません」

『お願いです、お願いです、どうか、助けてください!』

 

 声。

 聞き覚えのある、澄んだ声。

 鈴を転がしたような、声。

 まるで、さっき聞いた、風鈴の様だと思った。

 その声の持ち主を、俺は知っている。

 一昨日まで、一緒に飯を食ったのだ。

 昨日まで、生死の境を共に潜り抜けたのだ。

 

「……セイバー、か?」

『シロウ、ああ、シロウ、そこにいるのですか!?』

 

 縋りつくような、声。

 あいつには、相応しくない、切羽詰った声。

 なにがあったんだ。

 セイバーに、そして、凛に。

 

「ちょっと待て、すぐに……」

「いけません、エミヤ様」

 

 立ちはだかる、セラ。

 不思議な、帽子のような衣装は、既に脱ぎ去っている。

 銀色の、イリヤのような、絹髪。

 さらりと流れるそれが、雪のように舞う。

 

「貴方も、イリヤスフィール様も、既に戦う術を失っております。この上、聖杯戦争に関わろうとするのは、自殺行為。貴方が死ぬだけならまだしも、ことはお嬢様の身の安全に及びます故、ここは我を通させて頂きます」

「でも、セイバーは俺を何度も助けてくれた。だから、俺は助けたい」

「どうしてもと言うなら、どうか私を殺してからお通りを」

 

 確固たる瞳。

 俺を押しとどめるかのように、開かれた両の腕。

 俺は――。

 

「控えなさい、セラ」

 

 背後から、声が。

 

「お嬢様――」

「ここは彼の家です。貴方がそこまででしゃばるのは、明らかに越権でしょう」

「しかし、これはお嬢様の身の安全に関わる話なれば……」

「私が望むのです。さあ、彼をお通ししなさい」

 

 一瞬躊躇った彼女は、それでも渋々と道をあけた。

 そこを、飛び込むように走り抜ける。

 

『ああ、シロウ、シロウ……』

「待ってろ、すぐに開ける!」

 

 震える手ももどかしく、古臭い鍵を、開錠する。

 がらがらと、引かれた戸。

 そこには、血に塗れたセイバーと。

 青白い顔で項垂れた、凛、が

「ああ、シロウ、すみません、私は恥知らずです。再び、貴方を戦場に誘おうとしている……」

「そんなこと、どうでもいい!」

 

 自分でも驚くほど、大きな声。 

 目を、丸くした、セイバー。

 そして、そんな声にも、ピクリとも反応しない、凛。

 

「すぐに、居間に運ぶんだ!」

 

 セイバーが担いだ、肩。

 その逆の肩に空いた、冗談みたいに大きな穴。

 そこから、止め処なく血が流れていく。

 ぽたりぽたりと、命そのものが毀れていくかのように。

 

「セラさん、治癒の魔術は使えるか?」

「……嗜む程度には」

「頼む!あれは、只の怪我じゃあない!」

 

 つまり、救急車を呼んでも仕方がない、そう言うことだ。

 

「イリヤ、包帯と消毒液を!場所は分かるか?」

「え、ええ、食器棚の下でしょう?」

「ありったけ頼む!」

 

 それにしても、なんで凛とセイバーだけ。

 桜は?

 キャスターは?

 頭が、ぐるぐるでごちゃごちゃだ。

 とにかく、こいつを助けないと。

 凛。

 細い、細い、呼吸。

 今にも千切れそうな、命の灯火。

 駄目だ、絶対に死なせない!

 

「セイバー、こっちに!」

「ああ、すみません、すみません……!」

 

 まるで涙を流す直前の少女のように、弱りきった彼女。

 それでも、これだけは確かめておかないと。

 

「誰だ?誰が、凛をこんな目に?」

 

 走るように歩きながら、問う。

 ぽたぽたと、板張りの廊下を、凛の血が不吉に彩っていく。

 紅く、紅く。

 まるで、今日の夕焼けのようだと、どうでもいい感想を抱く。

 

「……らです」

 

 小さな、涙を堪えるかのような、呟き声。

 そこに、聞いてはならない人の名を、聞き取ってしまった気がした。

 思わず、足を止める。

 もう一度、問い質す。

 

「……誰が、だ?」

「……さくら、です」

 

 何かの、間違いの返答。

 聞き間違い。

 言い間違い。

 在り得ない、間違い。

 それでも、セイバーは繰り返す。

 逃げ道を、断つかのように。

 己の過ちを、噛み締めるかのように。

 

「桜です!桜が、裏切りました!」

 

 がたがたと、戸が震えた。

 風が、出てきたようだ。

 今日の夜は嵐になる。

 そんな天気予報を、今更に思い出した。 

 

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