FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
episode61 最後に、深夜
静か、だった。
荒れ狂う風の音が、全てを掻き消している。
だから、何も聞こえない。
だから、とても静か。
先ほどまでの喧騒が、嘘みたいだ。
すう、すう、と、安らかな寝息。
時折、苦痛に身を捩るような声が漏れるが、それでも峠は越えたのだろうか。
月明かりは、ない。分厚い雲が空一面に広がって、細やかな星さえも隠し尽くしてしまっている。
ちらちらと、灯りが揺れる。
電灯の、一番小さな、灯り。
橙色の優しい光が、辛うじて室内を照らす。
それでも、青白い、彼女の頬。心なしか、げっそりとこそげている。
そりゃあ、あれだけの血を流したのだ。少しは萎まないほうが、どうかしているのかもしれないが。
「う…ん……」
身を、捩る。
大穴の開いた左肩、そこを庇うように。
室内は、暖かい。
そこに横たわる、凛。
上半身は、包帯でぐるぐる巻きで、陳腐な表現ならば、ミイラ男のようだ。
じわりと滲んだ、真っ赤な血液。まだ、完全に傷口は塞がっていないのだろうか。
「……し、ろう?」
夢見るような、口調。
「……ああ。お前が、呼んだんだろう?」
既に、セイバーは退出している。なによりも、凛がそれを望んだから。
静かな、室内。
「ごめんなさい、呼びつけておいて。少し、寝てたみたいね」
「……ああ」
「今、何時?」
まずは、状況確認から。
彼女らしさに、苦笑する。
「夜の一時だ」
「そう、じゃあ、四半日は寝てたのね。……ったく、なんて無様」
無茶を言っている。
半死半生の、惨状。そこから、一日もたたずに目を覚ましたのだ。化け物じみた回復力、そう言っても過言でもないのに、彼女はそれを恥じている。
いや、その実、恥じているのは別のことだろうか。
「……事情は聞いてる?」
「……大雑把には、な」
狼狽し、それでも自己を見失わないセイバー。
彼女の説明は、時系列に沿っていて、主観を可能な限り切り捨てた、非常に分かりやすりものだった。
だからこそ、逆に疎ましかったのかもしれない。
彼女の説明には、一切の疑問の余地が無かった。
曰く、桜は、凛を背後から不意打ちした。
彼女の肩を貫いたのは、一振りの槍。
紅く不吉に濡れる、凶槍。
ゲイ・ボルク。
それが、彼女を貫いたのだと。
あとは、無我夢中だったらしい。
追撃するランサー、そしてキャスター。
サーヴァント二騎から、命辛々逃げ延びたと。
唇を、血が滲むほどに噛み締めながら、彼女はそう言った。
もはや、事態は、明白だ。
未だ姿を見せないランサーのマスター。
そいつと、桜が、手を結んだ。
そして、桜は裏切った。
操られているという可能性は、この際排除しなければなるまい。なぜなら、この時代においては最強と呼んでいい魔術師が彼女の従者なのだから。
だから、そういうことなのだ。
そういう、ことなのだろう。
「……はぁ……全く、なっちゃあいないわね」
ふう、と、凛は大きく溜息を吐いた。
その視線は、天井に。
まるで、そこに愛しい何かが映りこんでいるかのように、視線を外さない。
「貴方を見捨てておいて、貴方に助けられた。何か、言いたいこと、あるんじゃないの?」
自嘲に歪められた頬。
掃き捨てるような声が、震えていた。
「……俺を見捨てておいて、俺に助けられた。無様だな、遠坂」
「ああ、最高ね、貴方」
くくっと微笑った彼女。
その振動が傷口にさわったのか、息を詰まらせて、身を硬くした。
しばらく、荒い吐息が続く。
はあ、はあ、と。
その様が、扇情的で。
そう思考した自分に、限りない嫌悪を覚える。
「ねえ、私の左手、ここにある?」
唐突な質問。
一瞬、真意が分からない。
「感覚がね、無いの。左肩は焼け付くみたいに痛いのにね」
露になった、彼女の上半身。
そこに、左手は、しっかりとある。
「安心しろ、ちゃんとついてる」
なのに、何も感じないということは。
おそらく、いや、間違いなく。
肩の傷で、神経がやられているのだ。
そして、その傷は、呪いの槍で穿たれたもの。
俺のような特異体質か、それともサーヴァントのような神秘でもない限り、完全に治癒することは、あるまい。
そして、肩と上腕部を繋ぐ骨も、完全に砕かれている。
もう、彼女の左手が動くことは無い。
そういうことだ。
「……そう」
呆気ない、声。
のほほんとすら、している。
「ねえ、衛宮君、一つお願いしてもいい?」
「……なんだ?」
「出来るだけ、切れ味のいい刃物、用意してくれない?」
明るい、声。
明るさを、装った、声。
この上なく、悲哀に満ちた、声。
「セイバーに頼んでも、きっとあの子、断るわ。こんなつまらないことに令呪を使うなんて勿体無いし、第一、自分のケツは自分で拭かないとかっこ悪いでしょう?」
「……いっている意味が、分からない」
「相変わらず朴念仁ね、衛宮君」
出来るだけ、体を揺すらずに、微笑った彼女。
その額には、珠のような脂汗がぽつぽつと浮いている。
「もう、この手、いらないでしょう。だから、切り落とす、そう言ってるの」
「……凛」
薄明かりに照らされた、彼女の頬。
正視に堪えないほど、醜く歪んだ、頬。
それが、あまりに痛ましい。
「役に立たないなら、いらないわ。でも、痛いのは嫌でしょう?だから、できるだけ鋭い刃が、欲しいの。お願い、衛宮君」
「……凛」
彼女は、泣いていた。
醜く微笑いながら、ぼろぼろと泣いていた。
悔しいのだろう。
恐ろしいのだろう。
それ以上に、悲しいのだろう。
裏切られたのだ。
そこに、どんな意図があったのか、知り得ない。
それでも、少なくとも凛の主観としては、裏切られたのだ。
もっとも信じていた、自分の半身に。
もっとも愛していた、自分の肉親に。
それが、悲しくないなんて、どうかしている。
彼女は、悲しいのだ。
悲しくて悲しくて、堪らないのだ。
「ねえ、お願い、衛宮君。対価は支払うわ。私の身体を自由にして、構わない。これからも、貴方には絶対服従するから。だから、お願い」
「凛、お前、疲れてるだろう」
ゆっくりと、立ち上がる。
俺は、ここにいてはいけない。
そう、思ったからだ。
ゆっくりと、横たわった彼女に背を向ける。
「……意気地なし!」
突き刺すような、声。
まるで、猫の悲鳴だ。
「女が誘ってるのよ!応えるのが、男ってもんでしょう!」
普段の彼女からは、考えられないような、台詞。
常に余裕をもって優雅たれ。
その家訓さえも、どこかに置き忘れてしまったのか。
「……泣いている女の子を、抱けないよ」
「私は、泣いてなんか、いない!」
涙に声を詰まらせながらの、絶叫。
いつの間にか、彼女は上半身を起こしていた。右手一本で、如何にも器用に。
じわり、と、左肩の赤い染みが広がる。まるで、それこそが彼女の心の痛みだと、主張するかのように。
はあはあと、息が荒い。
興奮の故か、痛みの故か、それとも涙の故か。
「ほら、これならどう!?」
残された右手で、器用に包帯を解く。
するすると、包帯が布団の上に落ちていく。
露になった、彼女の皮膚。
艶やかで、まるで鏡面のように、滑らか。
染み一つない、素肌。
そして、豪奢な彼女には控えめとすら思えるほどの、小振りな胸。
儚い、光。
そこに照らし出された、女神の裸体。
その全てが、例えようもなく、美しかった。
「おねがいだから……おねがいだから、だいて、しろう……」
そして、彼女は、泣き崩れた。
もう、耐えられない、そう言うふうに。
前のめりに、動かない己の肩を、抱き締めるかのように。
ぽたぽたと、布団に赤い染みが広がっていく。
「おもたいのよう、ひだりてが、おもたいの……」
そして、涙が、ぽつぽつと。
赤い染みの隣に、透明な染みが。
その数を競い合うように、零れ落ちていく。
「これからも、おもいだすでしょう?この、うごかないひだりてが、おもいださせるでしょう?」
ぐしゅぐしゅと、鼻を啜りながら、彼女は泣いた。
親に見捨てられた女の子みたいに、憚らずに、泣いた。
それはいいことだと、思った。
きっと、無理に強がるよりも、いいこと。
「こわいの、しろう。あのときのさくらが、たまらなくこわかったの。『もう、姉さんはいらない』、そういわれたのよ、わたし……」
いつしか、肩から流れ落ちる赤い液体は、止まっていた。
彼女が受け継いだ、遠坂の魔道書、魔術刻印。おそらくは、その働きだろう。
それでも、彼女の涙は止まらなかった。
その事実が、心と身体、どちらに負った傷が致命的か、雄弁に語りかけてくるようで。
痛くて、ただ、痛かった。
「もう、いきていたくないよう……」
「凛……」
泣きじゃくる、彼女。
その頬を流れる、透明な雫。
氷砂糖を溶かしたみたいに、透明。
舐め取りたくなる誘惑に、抗えない。
そっと、頬に口付ける。
やっぱり、甘かった。
それが、例えようもなく、悲しくて。
俺も、一緒に泣いた。
「……泣いてるの、士郎?」
「ああ、だって、凛が泣いてるから」
それから、二人で泣いた。
肩を抱き合って、声を上げて、泣いた。
わんわんと、まるで子供が喧嘩するみたいに、泣き合った。
じゃれあうように、泣いた。
慈しみあうように、泣いた。
それが、快楽だった。
二人の境界が、もどかしかった。
こんなもの、いらないと。
そう、強く抱き合った。
何かが、溶けてしまいそうだった。
何か、硬くてごつごつしたもの。
ごつごつして、とげとげしくて、人を傷つけて止まないもの。
それが、柔らかかった。
柔らかくて、蕩けそうだった。
溶け落ちて、無くなりそうだった。
◇
「落ち着いた?」
凛の、声。
優しく背中を摩る、暖かい、手。
彼女に、誰よりも助けを求めていた彼女に、労られる。
その事実に、苦笑した。
結局、先に泣き止んだのは彼女だった。
ずるいと思う。
これから、彼女をからかういいネタができたと思ったのに。
これじゃあ、からかわれるのは俺の方じゃあないか。
そして、思い出した。
あの、夜。
学校での戦い。
悪夢。
目覚めた、闇の中。
点かない電灯。
恐慌。
錯乱。
そして、誰かの、暖かい、手。
俺を、抱き締めてくれた、手。
それを、払った。
その持ち主を、殴った。
蹴り飛ばした。
噛み付いた。
引っ掻いた。
思いつく限り、暴れ回ったのだ。
夢、だと思っていた。
いや、思い込みたかったのかもしれない。
だって、凛が、傷だらけだったから。
青痣だらけで、引っ掻き傷も作って。
それでも、笑ってくれたから。
だから、あれは夢だと、そう思いたかった。
多分、そうだ。
「これで、二回目だな」
「えっ?」
「凛に抱き締められるのが、だ」
「な、なんのことかしら?」
惚けた、彼女の顔。
本気なのか、演技なのか。
問い詰めても、真意を明かすことは無いだろう。
でも、それで十分だ。
俺が、知っていればいい。
俺だけが、彼女がどれだけ優しいか、それを知っていれば、十分だ。
抱き締め合うように、背中を摩りあう。
優しいリズムで。
心臓の鼓動に合わせるように。
君がくれた優しさが、君に伝わるように。
「ねえ、士郎、もう、私、泣いてないわ」
顔を、上げる。
そこには、目を赤く腫らした、それでも輝くように微笑う、凛がいた。
涙の、跡。
鼻水の、跡。
ぐしゃぐしゃの、顔。
それでも、一番綺麗な、凛。
「そうだな、もう、お前は泣いてないよ」
きっと、俺も同じ。
赤く腫れた、目。
これでもかと、涙を流した。
鼻水だって、流したのだろう。
ぐしゃぐしゃの、顔。
「今までで、今の貴方が一番素敵」
そんな、台詞。
「今までで、今の君が、一番綺麗だ、凛」
歯が浮くような、台詞。
にこやかに。
見つめ合う。
僅かな距離。
それさえも。
もどかしくて。
「凛、お前を、抱きたい」
きょとんとした、表情。
それに、すこしずつ、色がついていく。
赤く、赤く。
まるで、林檎のように赤い、頬。
そっと、口付ける。
まるで林檎みたいに、柔らかくて、甘かった。
「……悔しい」
顔を顰めて、怒りに肩を震わす彼女。
その反応が、この上なくらしくて。
思わず、笑みが零れ落ちる。
「勝負は先出しだって決めてたのに……!」
「先に言ったのは凛、お前だろう?」
「あんなのノーカンよ!私は、もっと……」
いらないことを口走りそうな、可愛い唇に、無理矢理な蓋をする。
腕の中で体を強張らせた彼女だったが、それもやがて解き解れていく。
そっと、唇を離す。
舌は絡めない、幼稚なキス。
それでも、潤んだ彼女の瞳。
極上のサファイアだって、こんなに輝かない。
「俺、自慢じゃないけど初めてだから、優しくできるか自信が無い」
なさけない、台詞。
「痛くするかもしれない、それでもいいか?」
互いの息遣いが、こそばゆい。
緊張で喉が渇く。
ごくり、と、生暖かい唾を飲み下す。
その瞬間、目の前の女性の、折れそうなほど細い喉も、ぐびりと動いた。
なんだ、こいつも緊張してるんだな。
そう思うと、腕の中の熱の塊が、この上なく愛おしく思えてくる。
なるほど、食べたいほどに愛おしいというのは、こういう感情か。
不思議と、納得した。
「今止めたら、一生笑いものにしてやるから覚悟しなさい」
震える唇で、そう言った凛。
勝気な、笑み。
挑むような、笑み。
その勇ましい瞳が、その震える肩が、その暖かい身体が。
悉く、俺の理性を薙ぎ倒していく。
「凛……!」
彼女を、柔らかい布団に押し倒した。
傷口が、出来るだけ痛まないように。
今の俺の理性に、許される限界で。
そっと、獣のように。
「士郎……!」
情欲に濡れた、その声。
嵐逆巻く、夜。
風が、五月蝿く、密やかな、夜。
そんな、優しい夜に。
俺たちは、恋人になった。
◇
「よかったの、桜?」
「分からない。でも、これしか思いつかなかったから」
窓の外を、眺める。
雨。
台風の夜よりも、ひどい、雨。
それが、大切な、いや、大切だった誰かの涙のようで。
居た堪れなくなって、カーテンを閉めた。
「今の私たちなら、勝てる。そうでしょう、キャスター」
そうでないと、意味が無い。
聖杯。
初めて、欲しい。
心の底から、欲しいと思う。
でないと、救えない。
誰も、救えない。
今まで救われてばかりだった私だから。
一度くらい救ってみたい。
そう、思うのは、罪だろうか。
「桜、もう遅いわ。凛が生きてるにせよ死んだにせよ、明日は忙しくなる。もう、寝ましょう」
それは非常に建設的な意見だ。
ゆっくりと、振り返る。
そこには、憂いを湛えた瞳のキャスターが。
まるで母親みたいだと、そう思った。
「そうね、もう寝ましょうか」
私が微笑むと、彼女も微笑んだ。
そして、ゆっくりと部屋を出て行こうとする。
それを、必死の声で引き止める。
「待って、キャスター」
「どうしたの、桜」
ちょうどドアノブに手をかけた、彼女。
肩越しに振り返ったその瞳には、一抹の驚きと、それよりも更に微量の哀れみが。
「……今日は、今日だけは、一緒に寝て。多分、一人では寝れないから……」
俯く。
哀れを装う。
一番ひどい裏切りをしておいて、図々しい限りだと、そう思う。
でも、一人が心細いのは、真実。
だって、初めてだから。
こんなに心細いのは、初めて。
いつだって、あの人が傍にいた。
悪夢に魘された飛び起きて、泣き喚いたあの日も。
部屋に飛び込んできた虫に、声も出せずに恐怖したあの日も。
いつも、姉は傍にいた。
それが、いない。
たとえ自分で切り払った絆とはいえ、あまりにも貴重すぎた。
いずれ、会うだろう。
そこが現世か、それとも地獄かは、わからない。
できれば、地獄がいい。
地獄で会えば、謝ることが出来る。
現世で会えば、闘わなくてはならない。
それは、もう、嫌だ。
もう、あの人の血は、見たくない。
「……ええ、いいわよ」
その言葉を聞いて、安心した。
ゆっくりと、ベッドに潜り込む。
冷たい、布団。
まるで、罪人を罰するかのように、冷たく、硬い。
そこに、自分以外の熱が加わる。
優しい、熱。
背中に感じる、暖かい掌。
「眠りなさい、今日は、もう大丈夫だから……」
そんな、言葉。
意識が、まどろむ。
夢の世界は、果たしてとがびとに優しいだろうか。
「……不器用な子……」
何かが聞こえた。
それでも、落ちていく。
地獄があればいいと、思った。
この穢れた身に相応しい痛みが、恋しかった。
蟲倉。
その薄汚れた空間が、何故だか恋しかった。