FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode62 アベルカイン1 姉妹

 安いホテルの一室だった。

 何の変哲もない、ビジネスホテル。

 例えば、何百年の歴史を誇る一流ホテルのスイートルームでもなければ、怨霊に祟られたいわくつきの旅館の一室でもない。

 ごくありふれた壁紙、ごくありふれた調度。

 地方に出張にやってきたビジネスマンが体を休めるのに使う、本当にありふれた狭い空間。

 そこに彼らはいた。

 一切の魔術的な要素を取り払ったがゆえに、神代の魔術師の監視網にも引っかからなかった、空間。それは、戦争が始まる前から準備していたものではない。

 あくまで、臨時的に拵えた、仮屋。

 本来彼らの本拠地であるはずの工房は既に引き払っている。おそらくは既に遠坂の魔術師が家捜しをし終えた後だろう。それは一向にかまわない。彼らの不利になるようなものは、何も残していないはずだ。

 狭い、室内。

 シングルのベッドがある以外、特に目立った家具も無い。

 殺風景で、実用的。

 そんな、部屋。

 その部屋には、二人の男がいた。

 二人とも、かなりの長身だ。

 一人は直接ベッドに腰掛け、もう一人は部屋の片隅で影のように突っ立っている。

 ぎしり、と安ベッドのスプリングが軋む。

 

「暗殺者の英霊たるあなたに質問したい」

 

 指を組み、視線をそこに落としたまま、座った男は問いかける。

 問いかけられた男は無言。いや、彼の異相を見ると、そもそもしゃべることができるのかすら怪しいものだ。暗がりであれば人の本能的な恐怖を否応なく駆り立てるそれも、人工的な明かりに照らされた室内においてはいっそのこと滑稽なのだが。

 無言の返答を是ととったのか、座った男は続ける。

 

「『人生は』。その後に続く、もっとも相応しい形容詞とはなんだろうか」

 

 およそ、この時期、この場所においては考えられぬ問い。

 暗殺者は呆れながら、それでもこう回答する。

 

「その問いには答えることが出来ぬ。ありとあらゆる形容詞が接続可能で、ありとあらゆる形容詞が等しい価値しか持たぬゆえ」

 

 人は、その小さな脳髄以外で、世界を認識することは不可能だ。

 故に、人が考え出したあらゆるものは、その脳髄の限界を超えることは叶わない。悪も、善も、神も、悪魔も、言葉も。

 逆に言えば、その限界以内であれば、人はあらゆる物事を再現することが出来る。悪も、善も、神も、悪魔も、言葉も、全てが人の代名詞だ。

 ならば、人生という言葉を飾る修飾語には、如何なる言葉も相応しく、また、如何なる言葉も相応しくない。人生、それを認識する脳髄、それが考え出した泡沫のような単語。

それをもって人生を語るなど、人が己の生まれた意味を問いかける、その行為に等しかろう。当人には絶対の価値をもっても、それを証明する数式は存在しない。

 故に、人は人生を語るとき、その狭量さを曝け出す。

 

『○○とは、人生のようなものだ』

『人生とは、○○のようなものだ』

 

 そこに如何なる単語が割り当てられても、如何にも陳腐で、失笑の域を出ない。

 彼女は、死に行く弓兵に、そう言ったのだ。

 

「あなたの言うことはもっともだ。私も深く同意する」

 

 ぎしり、と、より深くベッドに体重を預け、男は続ける。

 

「それを承知で、私は思うのだ。

 『人生は美しい。』

 醜悪で、不快で、どうしようもないくらい暗愚でも、人生は美しい。彼女の内側から見た世界しか知らぬ私には、そう思えてならないのだ」

 

 夢を、見るような呟き。

 余人が聞けば、おそらくは一笑に付すであろう、他愛も無い、感傷。

 それでも、男は誇らしげだった。

 彼の存在意義。

 おそらくは、それは終わりを告げようとしている。

 それは、彼にとっての不可避の死を意味している。

 にもかかわらず、彼は楽しげだった。その頬に、深い溝を作り上げるほどに。

 

「少し、話しすぎた。忘れてくれると有難い」

「斯様な戯言を私と交わすために、わざわざ表に出てきたというのか、卿は」

 

 呆れたような、しかし、怒りに満ちた、呟き。

 それを聞いて、男はやはり苦笑した。

 

「あなたの言いたいことは分かっているつもりだ。しかし、これは他ならぬ彼女が望んだことなのだよ」

 

 その言葉に、仮面は黙る。黙らざるを得ない。

 

「所詮、我らは彼女の使い魔でしかない。そして、それが限りなく光栄だ。そうは思わないか?」

 

 視線は、窓の外に。

 青みがかった大気。

 まもなく、夜が明ける。

 例え、雨と風に塗れた、誰もが望まぬ朝であっても、夜は必ず明けるし、朝は必ず来る。

 ならば、いずれ彼女も解放されるのだろうか。

 果たして、何から?

 そこまで考えて、男は己の思考を中断した。

 それらは、彼が決めるべきことではなかったから。

 

「さあ、行こうか。そろそろ、夜が明ける」

 

 髑髏が、静かに頷いた。

 

episode62 アベルカイン1 姉妹  

 

 生暖かい空気が、頬を撫でた。

 たっぷりと湿りを帯びたその風は、少しだけ開いた襖と柱の隙間から流れ込んでくる。

 しとしとと、穏やかな冬の雨。昨日の嵐も、今は息を潜めている。

 ぼんやりとした視界と思考。

 身体中を覆う、えも言われぬ快美な倦怠感。

 重たい布団。それは、この布団で閨を共にした、二人の男女の体液をたっぷりと吸い取ったからだろう。

 ふ、と、隣を見る。

 眠る前に、この世でもっとも愛しい人がいた、場所。

 そこに、熱は、無かった。

 愛しい人の姿は無く、後朝の文も無い。

 安心した。

 もし、そこに穏やかな寝顔を浮かべた彼女がいたら、平静でいられる自信が無い。

 それにしても、少し無茶をさせすぎた。あくまで、彼女は怪我人だというのを忘れていた。

 だって、我慢なんてできるはずが無いじゃあないか。

 憧れ、だったんだ。

 あの、凛とした立ち姿。明朗快活で、誰にも靡かない在り様が、野生の猫みたいだと思っていた。それでも、まるで白鳥みたいに優雅で、繊細で、いい匂いがした。

 それが打ち砕かれるのに、実際は五分もかからなかった。

 あれは、もはや侵略者だった。

 暴君。

 赤い、悪魔。

 とんがった尻尾と、蝙蝠の翼を持つ、悪魔。

 でも、妙に情に厚くて、いざというときに非常になれなくて、そんな自分を嫌悪している、そんな、見習いで駆け出しの、あくま。

 それが、どれほどに眩しかったか。

 何度も助けられた。

 そして、何度かは救った。

 憧れは、淡い恋心に変わっていた。

 その彼女が、腕の中にいた。

 腕の中で、喘ぎながら、何度も俺の名前を呼んでくれた。

 熱っぽく、濡れた声で。

 それを思い出すと、下腹部に熱が集中してしまう。

 愛おしくて、胸が張り裂けそうになる。

 柔らかかった。

 引き締まった彼女の体が、奇跡みたいに柔らかかった。

 どこを触っても、楽器みたいに声を上げてくれた。

 ひょっとしたら、演技だったのだろうか。

 それでも、構わないと思う。

 それでも、愛おしい。

 もう、離したくないと、そう思うほどに。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 のろのろと、下着を履く。

 ああ、後始末が大変だ。

 どろどろのシーツは早々に洗わないといけないし、布団だってさっさと干さないとえらいことになるだろう。

 そういえば、凛の下着がどこにもない。おそらく、洗面所に持っていってしまったのだろう。

 

「そこらへんは、遠坂だよなぁ……」

 

 苦笑する。

 きっと、朝一番に見る彼女は、いつもの彼女だ。

 凛として、冷静で、確固として。

 それでも、きっと、頬は赤いだろう。

 多分、今の俺みたいに。

 それを想像して、頬が緩んだ。

 さあ、シャワーを浴びよう。

 きっと、今日は忙しくなる。

 それは、とっくに決まっていたこと。

 だから、気合を入れないと。

 あいつに笑われたら、生きていけないもんなぁ。

 

 

「そうか、あの後、一旦城に……」

「ええ。アーチャーとバーサーカーが共闘したんだもの、いくらゴルゴンでも勝てるはずは無い。そう思ったけど、あの二人も確かに死んだ。いくらなんでも、綺麗に相打ちって訳はないでしょう?そう思ったの」

 

 朝食。

 今日は、俺が作った。

 しかし、如何にも居心地が悪い。

 今日、俺が起きたのは、八時も回った頃だったらしい。

 だって、仕方ないだろう。

 夜の一時まで付きっ切りで凛の看病、そして、その後は一時間以上も…。

 そんなこんなで体力を使い果たした後で眠れば、少しは寝過ごそうというもの。

 手早くシャワーを浴びて、おそるおそる居間の障子を開けた。

 そこには。

 明らかに不機嫌な、イリヤ。

 ぼんやりと、しかし好奇心に瞳を輝かせるリズ。

 『このケダモノが』、そういわんばかりに白い目を向けるセラ。

 一瞬こちらに目を向けて、深く溜息を吐いたセイバー。

 そして。

 その中で、まるで借りてきた猫みたいに、こじんまりと赤くなった、凛。

 左肩を、三角巾で吊っている。

 そして、その瞳。

 柔らかなその瞳は、ゆっくりと俺の瞳と交差して。

 助けを求めるみたいに、うるうると滲んでいた。

 ああ、もう。

 ずるい、卑怯だ、口惜しい。

 あんなに乱れた夜の、次の朝に、こうまで惚れ直させるなんて、どうかしてる。

 そこまで、俺を狂わせたいか、遠坂凛。

 この、この世で一番愛らしい、こあくまめ。

 もう、俺は白旗を掲げているのに。

 完全降伏、手だって後ろで組んでいるのに。

 なのに、この悪魔は、許してくれないのだ。

 もっと惚れろ、と。

 もっと夢中になれ、と。

 どこまでも、深く要求してくる。しかも、それが無意識だから性質が悪い。

 そして、一番救い難いのは、それを俺自身が望んじまってるってことだろう。

 それが、幸せなのだ。

 理想、その影すらも霞んでしまうほどに。

 彼女と一緒の人生が、輝いて見えた。

 もし、これからも、彼女と一緒に歩けたら。

 俺と彼女の子供を、この手に抱くことが出来たら。

 そう思うと、足が竦んだ。

 唯一、それだけが、恐ろしかった。

 もしかしたら、彼女の手も振り払わなければならない日がくるのだろうか。

 彼女の瞳を、俺の罪で濡らさなければならない日が、来るのだろうか。

 それは、あまりにも、恐怖だった。

 

「結局、あの場に生き残ったサーヴァントはいなかった。綺麗に相打ちになったのか、それとも漁夫の利を得た第三者がいたのかは分からないけどね。あったのは、枯れた森と、吹き飛んだ城だけだったわ」

「そうか、あの城が……」

「ええ。跡形も無く、吹き飛んでた。あれは、きっと何かの宝具だと思う」

 

 その言葉を聞いて、イリヤの顔が僅かに曇った。きっと、色々な思い出の詰まった城だったのだろう。それが跡形もないと聞けば、ショックを受けるのも当然だろう。

 しかし、同じように顔を青褪めたセラさんは、こう言った。

 

「イリヤスフィール様……」

 

 それに答える、イリヤの声。

 

「ええ、天のドレスが、失われた……」

 

 天のドレス?

 何のことだろうか。

 凛は、そのまま続ける。

 

「そして、帰りの道行き。そこで、突然、焼けるような痛みで意識を失った。気がついたらこの家にいたわ。これが、私の覚えている全てよ」

「後は、私が引き継ぎましょう」

 

 ことりと置かれた湯飲み。

 引き締まった瞳。

 もう、二度と見ることは無い、そう思っていた聖緑と金砂。

 何故だか、嬉しくなる。

 

「卑怯にも背後から凛を襲ったのは、ランサー。クー・フーリン、アイルランドの光の皇子、その人でした。おそらく、殺すつもりは無かったのでしょう。彼が本気で殺すつもりならば、リンが生きているはずが無い」

 

 それは、俺もいたく同感。

 あの、真紅の槍。

 それより何より、貫くような冷たい殺気。

 正直、何故俺が生き残ることが出来たのか、不思議で仕方が無い。

 それほどに、絶対の死の気配を纏った存在だったのだ。

 

「それは、サクラの意志かしら、それとも、ランサーのマスターの意志?」

「きっと、ランサーのマスターの意志でしょうね」

 

 イリヤの問いに、凛が答える。

 

「完璧に、あの子は私を殺すつもりだった。あの殺気は本物よ。獲物を甚振るなんて、二流三流のやること。一流は、仕留められるときに確実に仕留めるわ。そして、あの子は私の妹なんだもの。超がつくほどの一流、それが妙な悪戯心を働かせてくれたなんて、甘い憶測でしょうね」

 

 凛の細い手が、震えていた。

 そっと、握ってやる。

 彼女は、振り向かない。

 それでも、ぎゅっと、握り返してくれた。

 それで、十分だ。

 

「じゃあ、なんで?」

 

 当然すぎる疑問を口にする。

 こういった議論の場では、当たり前すぎることも提議する必要があるのだ。でないと、とんでもない方向に筋道が逸れていくことが、ままある。

 

「おそらく、私と桜をとことん争わせて、疲弊させるため、でしょうね」

 

 ぎしり、と彼女の白い歯が、軋んだ。

 

「あの場で私を殺しても、セイバーが逃げのびて士郎と再契約でもすれば、少なくともランサーのマスターには意味が無い。まして、例えばキャスターが強制的に再契約して桜の戦力が飛躍的に増強される、そんな結果になったら目も当てられないわ」

「つまり……」

「ええ。こちらが望もうと望むまいと、桜と私は戦う。戦わざるを得ない。そこで、彼女に協力しているランサーがどう動くか。桜は、今、ランサーを排除することは出来ない。強力な対魔力を誇るセイバーは、キャスターにとって天敵だから。そして、いかにセイバーとはいえ、彼ら二人を相手にするのは、あまりにも厳しい。つまり、ランサーがどう動くかで、戦局ははっきりと決まってしまう。結局のところ、決定権を握っているのは、ランサーのマスターなのよ」

 

 なるほど、わかりやすい。

 例えば、セイバーの戦力を10としよう。

 キャスターの戦力は、相性の悪さも伴って、5か6くらいのものだろう。

 そして、ランサーが、俺の見立てでは8か9。

 キャスター単体では、セイバーには勝ち得ない。

 しかし、キャスターとランサーが共闘すれば、13から15と、セイバーの戦力を大きく上回る。

 ならば、どういう戦局を作るも、ランサーのマスターの胸先一つ、そういうことになる。

 キャスターと共闘してセイバーを屠るも、キャスターを裏切ってセイバーの贄とするも、自由自在、そう言うことだ。

 だが一方で、ランサーだけではセイバーに勝ち難い、それも事実なのだ。

 ならば、ランサーのマスターにとって、最高の結果とは何だろうか。

 セイバーとキャスターが共倒れになる、それが最高なのは間違いあるまい。

 しかし、俺が気付く程度のこと、聡明な桜達ならば百も承知だろう。故に、きっと彼女達は、最前線にランサーを駆り出し、自分達は出来るだけ傷つかないようにするはず。そうすれば、セイバーとランサーが倒れた際に勝者になるのは自分達なのだから。

 それを、ランサーのマスターが望むだろうか。

 否。

 ならば、この二人の間には、埋め難い不信の溝があることになる。

 俺たちが突くべきは、そこだろうか。

 

 ……果たしてそうなのか。

 

 未だ姿を見せないランサーのマスター。

 果たして、そいつの意図は、そこにあるのか?

 本当に、セイバーとキャスター、この二人を仕留めることがそいつの望みなのか?

 ならば、もっと簡単にことを済ませることは可能だったのではないだろうか。

 例えば、森で凛を殺して、その直後に返す刃で、油断した桜とキャスターを仕留める。

 仮に、その後、俺とセイバーが再契約をしても、凛がマスターだったときのセイバーとは比べるべくも無いほどの弱体化をしているはず。

 ならば、十分に勝ちの目はある。不安定な共闘を結ぶことと比べて、どちらが成功率が高い?

 目的が、勝ち残ることに無いとするならば、本当の目的はどこにある?

 戦うこと。

 争わせること。

 それが、目的?

 まさか。

 それに、もう一人。

 アサシン。

 奴のマスターだった、マキリ臓硯は、死んだ。確かに、蛇の腹の中に消えたはずだ。

 しかし、本当にそうか?

 あの怪老が、本当に死んだのか?

 あまりにも、呆気なさ過ぎる。

 万が一、生きていたら?

 この、美味しすぎる状況。これを、如何にして利用するか、舌舐めずりをしていることだろう。

 いや、そもそも奴が本当にアサシンのマスターなのか?

 ライダーのマスターは、奴だった。学校で令呪を使っていたことからも、それは間違いない。

 だが、奴をアサシンのマスターと断ずるには、あまりにも証拠が少なすぎないか?

 ただ、奴とアサシンが、一緒にいただけ。

 ただ、アサシンのマスターに相応しい人物が、他にいないだけ。

 本当か?

 本当に、他にアサシンのマスターたる人物は、いないのか?

 ……分からないことが、多すぎる。

 どれもが不確定で、不安要素だらけだ。

 

「……駄目ね、考えても、分からないことが多すぎるわ」

 

 ふう、と、溜息。

 そして。

 

『ええ、そうでしょうね。それに、貴方はもう考える必要なんて、無いのだから』

 

 声が、した。

 聞きなれた、声。

 この場にいる誰の声よりも、俺の耳に馴染んだ声。

 そして、俺が初めて聞く、限りなく冷たい、彼女の声。

 その声を聞いたとき。

 俺の中の、最後の希望の綱が、空しく引き千切られてしまった。

 理解したのだ。

 彼女は、己の意志で、凛を殺そうとした、と。

 セイバーが、飛び掛るように障子を開けた。

 板張りの廊下。

 縁側。

 その、更に外。

 庭の中央。

 深い水溜りの、そのど真ん中に、彼女は亡っ、と立っていた。

 視線は、限りなく虚ろ。

 濡れたカラスの羽のような艶やかな黒髪から、止め処なく雫が滴り落ちる。

 まるで、幽鬼。

 それでも、身に纏うのは、いつもの彼女の服。

 ロングの、ベージュ色のスカート。

 彼女と同じ名前の、桜色のカーディガン。

 その下に来ているのは、真っ白なシャツ。

 いつもの、彼女。

 ただ、その表情が、違う。

 俯き加減の、顔つき。

 暗い、瞳。

 暗い、歪んだ口元。

 絶望。

 そんな題名の、彫像に、こんなものがあっただろうか。

 

『ごきげんよう、姉さん。傷の加減は如何ですか?』

 

 くすくすと、蜜を含むように微笑う、桜。

 その声に、限りない不吉を感じる。

 その髪に、彼女自慢のリボンは、無い。

 髪が、しな垂れ落ちている。

 話に聞いた、凜からのプレゼント。

 それを外したのは、彼女なりの決別宣言なのだろうか。

 

「『影』を飛ばしてきたの?しばらく見ないうちに、ずいぶん偉くなったのね、貴方」

『ええ、だって、今代の遠坂の当主ですからね、私は』

 

 ぼやけた輪郭。 

 ぼやけた声量。

 蜃気楼のように揺らぐ、彼女の影。

 

「……ふん、一回不意打ちが成功しただけで、ずいぶん大きく出たわね。これまで、貴方の連敗記録がどれだけ続いてたか、ここで披露してあげましょうか?」

『数に拘りますか?ああ、姉さん、失望したわ。どれだけ負けても、最後に勝っていればいい、そう言った貴方は、それなりに素敵だったのに……』

 

 辺りを満たす、凄まじいほどの威圧感。

 これが、魔術師としての、桜。そして、凛。

 イリヤも、セラも、リズも、そして、俺も、飲まれてしまっている。

 唯一、セイバーだけが、痛ましそうに二人を見つめる。

 まるで、己の過去を再確認するかのように。

 

『これが、最後のチャンスです。魔術刻印を私に譲り、魔術回路を捨てなさい。そうすれば、貴方を生かしておいてあげてもいいわ』

「舐めた口、誰に叩いてるのかしら、桜?」

 

 青白く燃え上がるような、凛の魔力。

 柔らかな髪の毛が、逆立つ。

 拳に、骨が浮き出る。

 ちりちりと、産毛が逆立つ。

 牙をむき出しにする、好戦的な笑み。

 まるで、豹。

 怒り狂った、笑み。

 

『そう、最後まで賢くなれないのね。私は、貴方を殺したくなかったのに』

 

 儚い笑みと共に吐き出された、その言葉。

 それだけが、唯一真実の気がした。

 

「そうね、貴方の言葉に唯々諾々と従うのが賢いというならば、私は賢くなんてなれないかもしれないわ」

『馬鹿な、人……』

 

 彼女は、より一層、俯いた。

 姉の視線から、その顔を隠すかのように。

 やがて、彼女は背を向けた。

 静かに、静かに。

 

「ああ、それとね、桜」

 

 今までと打って変わって、軽い調子の凛に声。

 振り返る、桜。

 その視線の先。

 彼女の姉。

 その人が、俺の顎に手を添えて。

 まるで、貪るように、俺の唇を。

 舌が、侵入してくる。

 技術も何も無い、攻撃的な口付け。

 数秒、それを楽しんだ後で、凛は、唖然とする妹に、こう言い切った。

 

「私、士郎の女になったから。そこんとこ宜しく」

 

 にんまりとした、笑み。

 勝ち誇った、雌の顔。

 そして、一言。

 

「負け犬は、お呼びじゃないのよ。さっさと、尻尾を巻いて帰りなさいな」

 

 桜の表情から、感情が消えていく。

 無垢の顔。

 そして、それを微笑が塗り潰していく。

 

『あはっ』

 

 あ。

 微笑った。

 桜が、微笑った。

 

『うふふ、やっぱりだ……』

 

 最後の糸が切れたような、その笑い声。

 限りなく楽しげで、この上なく殺意に満ちている。

 

『やっぱり、貴方は先輩を手に入れちゃうんですね……』

 

 ゆるゆると、彼女の足が、水溜りに沈んでいく。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 まるで、殺意の対象をその目に焼き付けようとするかのように、ゆっくりと、ゆっくりと。

 

『でも、貴方は先輩を不幸にする……。それは確定した事実なんだから……』

 

 謡うようにそう言った彼女。

 一瞬だけ、俺を見た。

 胴の辺りまで沈んだ彼女の瞳。

 優しく、慈愛に満ちている。

 それでも、一瞬。

 その表情は、元の呪われたそれに戻った。

 そして、交錯する、姉妹の視線。

 それだけで射殺すような、そんな視線。

 

『今日の夜、学校の校舎で待っています』

「へえ、大サービスじゃない。どうしたの、お腹でも壊した?」

『これが、最後のチャンス。最高の準備を整えて来てください。せいぜい、悔いの残らないように……』

 

 ちゃぷん、と、間の抜けた音を立てて、桜は、完全に水溜りの中に消えた。

 そこには、微かな波紋が残った以外、彼女がいた証は、無かった。

 まるで亡霊が通ったみたいな、冷ややかな空気が、項を撫でていった。

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