FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode65 アベルカイン4 幕間劇

 夜。

 梟の鳴かない、しかし、梟の鳴き声が相応しい深夜。

 古びれた洋館の二階、その片隅のドアがぎしりと鳴いた。

 

「……?誰ですか?」

 

 誰何の声は柔らかい。

 さもありなん、この家は元々からして要塞、今は神殿だ。外敵の侵入など許すはずが無い。

 故に、今扉を開けたのは自分の家族でしかあり得ない。ならば、何故神経を昂ぶらせる必要があるだろうか。

 

「桜、私よ」

 

 答える声には、どこか緊張の色があった。

 

「キャスター、どうしたの?」

「本当は話すかどうか迷ったのだけれど……」

 再び、扉はぎしりと鳴いて、二つの人影を飲み込んだ。

 

◇

 

 幸せな、夜だった。

 姉さんも、先輩も、キャスターも、代羽も、アーチャーさんも、セイバーさんも。

 みんな、みんな、楽しそうだった。

 ああ、こんな毎日があればいいのに。

 そんな、奇跡みたいなことを願ってしまうくらいには、素晴らしい一日だったのだ。

 なのに、何故、目の前の女性の顔は、こうも曇っているのだろうか。

 

「どうしたの、キャスター?」

 

 沈痛、というよりも、己に対する不信に揺れる瞳。

 人差し指の第二関節を噛み締める動作。

 何らかの不安の表れだろうか。

 

「……昨日のアーチャー、どう思った?」

 

 昨日。

 アーチャー。

 マキリとの、戦い。

 

「どうっていわれても、質問の趣旨がわからないわ」

「そうね……。全く、どうかしてる……」

 

 彼女は、テーブル横の水差しから、直接水を呷った。

 ぐびり、と蠢く白い喉が、同性から見てもたまらなく扇情的である。

 

「おそらく、彼の宝具、あの捻れた剣、あれを見てどう思った?」

 

 剣。

 深い神秘を湛えた、あの剣。

 

『逃がすか!』

 

 そう、叫んだ彼の手に、いつの間にか握られていた、剣。

 

「どうって……凄いと思った。あんなに深い神秘、初めて見たから……」

「ええ、最初は私もそう思ったわ」

 

 逸りたつような、声。

 何だ。

 彼女は、何が言いたい?

 

「ねえ、キャスター。私は貴方を信頼してるわ。だから、貴方も正直に話して」

「……今日、坊やの魔術を指導したでしょう。彼の魔術、投影って彼が勘違いしていた魔術、あれを間近にみて、わかったの。アーチャーがあの捻じ曲がった剣を取り出したときに感じた魔力の波動、それと同じだって」

「それってどういう……」

「単純に言うとね、アーチャーも、あの歪な投影の使い手っていうこと」

 

 どくり。

 何かが、背筋を走りぬけた。

 なんだろう。

 こんなに気持ちの良い夜には、相応しくない何か。

 

「ねえ、桜。私は長いこと魔術に関わってきたけど、あんな出鱈目な投影、初めてお目にかかるわ。それが、突然二人も。これ、偶然かしら?」

 

episode65 アベルカイン4 幕間劇

 

 私は、この匂いが嫌いだ。

 白く、洗浄された空間。

 ステンドグラスが、単色の光を、花束のような煌くそれに変えている。

 眼前にそびえる、神を祭った処刑器具。ある意味において、狂信と退廃に満ちたこの宗教に相応しい偶像といえるのかもしれない。

 其処から溢れる、静謐な香り。

 精神を、優しく撫で摩るような、心落ち着く香り。それは、何かの香炉を焚いたものなのかもしれないし、或いはこの空間そのものが生み出す幻臭なのかも知れない。何故か、寺や神社などからも同じ香りがすることを考えると、有力なのは後者だろうか。

 ああ、嫌だ。

 そう思いながら、この香りを胸一杯に吸い込む。

 肺を、これ以上無い、それくらいに膨らませて、嫌な魂と一緒に息を吐き出す。

 それを数回繰り返すと、やっとのことで体がこの空間に入る準備を整えてくれた。

 陸に上がる、魚のようなものだ。

 えらを、肺に置き換える。

 気の遠くなるような、時間と世代。

 一体、どのような覚悟が、それを為さしめたのだろうか。

 そこに、楽園があると、思ったのだろうか。

 それを求めて、困難に挑んだのだろうか。

 私は、違うと、思う。

 彼らは、逃げたのだ。

 逃げ出した。

 苦しい現実から、想像の内にのみ存在する、楽園に。

 しかし、待っていたのは、戦場のみ。

 楽園など、無かった。そこにあったのは、新たな呼吸器を血臭で満たす、戦場のみ。

 だから、人は夢想するのだ。

 海水の中で、漂う自分を。

 母なる海で眠る、自分を。

 皮膚は腐り、肉はこそげ、骨だけになって海底へ沈んでいく、自分を。

 ああ、何と安らかな印象だろうか。

 そこだけが、拠り所だ。

 異形の生物が、その腹鰭をもって歩き回る、その世界が。

 何と優しく、私を誘ってくれるのだろうか。

 

「神の声は、聞こえたか、遠坂桜」

 

 いつ、初めてその問いを頂いたのだろうか。

 しかし、私に語りかけてくれる神は、存在しなかった。

 どれだけ静寂の中で耳を澄ましても、聞こえるのは天使の囀りくらいのもの。

 相変わらず、神の声は、聞こえない。

 でも。

 

「貴方の声は、聞こえました、言峰神父」

 

 こつり、と、硬い靴底が床を叩く音が、した。

 

「私は、神ではない。しかし、君がそう望むのならば、神父とは神たりえる。そこが、我々の最も自戒せねばならない点だ。神の権威と己の実力をはき違え、自己を見失うことがあってはならない。何故なら、人は神には届かない。そうだろう?」

「貴方の信ずる神は、人でありながら神、そして聖霊、そうだったのではないですか?」

「『ヨハネによる福音書』であるな。ふん、父と子と聖霊の御名において、か。時として、人の想像力は神をも凌ぐ、そう思うよ」

 

 こつ、こつ、こつ。

 重量感のある、しかし、少しも鈍重でない、その足音。

 猫科の猛獣、老練な虎などならば、こういった歩き方をするのだろうか。

 

「『神は世を愛された。その愛ゆえに神は一人子を世につかわされた。一人子を信じるものは誰でも滅びることはなく、永遠の命を持つ』。おそらく、新約聖書の中でも最も有名な一説である。遠坂桜よ、君はどう思うね?」

 

 足音が、私のすぐ後ろで止まった。

 彼の、おそらくは小さな鼓動まで聞こえてくるようだ。

 それほどまでに、圧倒的に静寂。

 ちくり、と鼻の頭が痛んだ。

 

「私は、貴方に救われました。そのことは感謝しています。しかし、神に感謝はしていません。感謝するには、神は遠すぎる」

 

 くす、と。

 籠もるような笑い声が、聞こえた。

 

「君は聡明だな。そうでなくては面白くない」

 

 彼は、再び歩き始めた。

 こつ、こつ、こつ。

 きっかりと、三歩。

 ゆっくりと、噛み締めるように。

 音が、反響する。

 それでも、やはりこの空間は静謐だった。百人の合唱団が賛美歌を歌ったとしても、この空間はやはり静謐だろう。信仰心のあるものに、この空間を喧騒で満たすことは不可能、そう思わざるを得ない。

 

「用件は何ですか?監督者たる貴方が、参加者の一人を内密に呼び出すなんて、権限外のことなのでは?」

 

 今、姉達は、マキリの屋敷で戦っているはず。

 なのに、私はのんびりと、神父と問答か。

 吐き気が、した。

 そんな私の気など知らぬふうに、彼はゆっくりと振り返った。その顔に、噛み締めるような愉悦を含ませながら。

 しばらく、無言。

 彼が話さないならば、私も話すべきことは無い。なぜなら、彼には質問に答える義務があるから。

 だから、無言。

 耳が痛くなるような、無言。

 

「なに、今回君をここに招いたのは、純然たる私の娯楽のため。君を罰するためでも、祝福するためでもない。安心したまえ」

 

 無言を破った彼は、高らかにそう謳いあげると、小さな包みを私に寄越した。

 薄い紙を通じて伝わる、硬質な手触り。

 そして、意外なほどの重量感。

 何だろう、最近これと同じものを手にした気がする。

 

「一つ、忠告しておこう、遠坂桜よ」

 

 包みを開けようとしていた私の手を、厳粛な声が静止させた。

 

「それを開ければ、君は大切なもののうち、確実に一つを失うことになる。それを理解したうえで、開けねばならないのなら開けるといい」

 

 ……私は、この男のこういうところが大嫌いだ。

 選択肢を与えておきながら、そこに正解を設けない。

 煩悶とさせながら、しかし、明快な解答を用意している。

 その周到さ、或いは優しさが、私は嫌いだった。

 

「そんな目で見るな、言いたいことは、分かっている。しかし、君は遠からず私に感謝することになる」

「……何故、そう言い切れるのですか?」

「私は、君に覚悟を与えたからだ。君が、何の準備も無くその包みを開けたならば、間違いなく君は後悔していた。そして、私を恨んだだろう。しかし、覚悟があれば、人は如何なる困難も打ち倒すことが可能だ。ああ、君のように、運命に翻弄され続けた人間には、釈迦に説法だったかな?」

 

 そう言って、彼は私に背を向けた。

 また、硬質な足音が、空間を満たす。

 その音が疎ましくて、私は包みの封を破った。

 微かに震える掌に、中身をあける。

 カチャリ、と、硬い金属がぶつかり合う音が、響いた。

 

「さて、今からは如何なる質問も受け付けない。君がその口を開いていいのは、私の質問に答えるときのみだ。それ以外での発言は、悉くがこの会談を打ち切るための合図と理解する。もし、君が私の意見に耳を塞ぎたいというのであれば、早々にその口を開くといい」

 

 これ、は。

 確かに、あの晩、先輩の命を救ってくれた、遠坂の秘宝。

 それが、何故ここに。

 そして、何故、二つも――。

 

「君ほどの魔術師ならば、その二つの秘石の本質が掴めている筈だ。おそらく、それは正しい。その二つは、込められた魔力にこそ若干の差異は認められるものの、物質としては全くの同一だ。宝石の遠坂、その後継者たる君ならば、私の言わんとしていることは理解できるはずだな」

「……ええ」

 

 宝石は、この世に二つとして同じものは無い。

 分子の構成、宿った自然霊の性質、そして蓄積された魔力の色。

 それらの全てが同じ宝石など、ある筈も無い。

 まして、これは遠坂の秘石。同じものが、二つもあってたまるものか。

 

「しかし、それは厳然として、ここにあるのだ。さて、遠坂桜よ。君は、この不可解な現象に如何なる仮説をもって挑むか?」

「…不可能は不可能でしかありません。ここに、同じ宝石が二つある、そのことが間違いである。これが、一つ」

「ふむ、私と君が、全く同じ勘違いを起こしている、そういうことか。なるほど、或いはその可能性こそがもっとも高いのかも知れんな」

 

 鷹揚に頷く背中。

 彼の視線の先には、神の偶像。

 それでも、きっと彼は目を閉じている。

 そう、思った。

 

「それだけか?」

「……あとは、不可能を可能にする奇跡に頼るだけでしょう」

「具体的にはなんだ?」

「時間旅行、或いは平行世界の移動。つまり、魔法、そういうことです」

 

 こんな陳腐な現象を、奇跡を持ってしか説明できない自分に腹が立つ。

 よくもまあ、これで魔術師などと、恥ずかしげもなく言えたものだ。

 

「ほう、私がこの二つの宝石を得たのは、魔法に関わりのあることと、君はそう言う訳だな?」

 

 人を喰ったような問いが、その実、彼にとってこの上ないほどに真剣な問いであるということを、私は知っている。

 

「ええ、そういうことです。それが、もっとも説明をし易いでしょう」

「魔術による複製という可能性は?」

「これほど完全な贋作を作り上げるのであれば、それこそ魔法の域にある。結局は同じことでしょう」

「正解だ、遠坂桜。やはり君は聡明だよ」

 

 彼は、振り返った。

 何年ぶりだろうか、彼の顔をここまで間近で見るのは。

 歳のわりに若々しいその肌は、しかし時の暴虐を確かに刻んでいた。

 悲しいとは思わない。

 それが、当然なのだから。

 

「しかし、やはり純粋な魔法というのもおかしな話だろう。いくら気紛れで知られる彼の宝石翁といえ、ここまで不可解な行動をとることはあるまい。これは魔法に限りなく近い現象の副産物である、そう捉えるのが自然ではないかな?」

 

 魔法に近い現象。

 この街で、今、現在進行形で行われている、大儀式。

 聖杯戦争。

 その副産物。

 つまり――。

 

「英霊の所有物?」

「それも、正解」

 

 ありうることだろうか。

 一体いつからこの宝石が遠坂の手にあったのかはわからない。

 しかし、その前に、或いは遠坂の手から離れた後に。

 この宝石を手にした人物が、英霊となって此度の戦争に召喚された。

 在り得ない――ことではないか。

 特定の英霊を召喚しようとすれば、その英霊に縁の深い遺物が必要となる。

 しかし英霊自身が、召喚者に縁の深い物を所持していた場合、その英霊が呼び出されることもある、そうではなかったか?

 ならば、この宝石は、誰の持ち物だ?

 決まっている、魔道の名門、遠坂の当主たる、姉さんの持ち物だ。

 そして、姉さんが召喚した、正体不明のサーヴァント、アーチャー。

 彼が、この宝石を持っていたとしたら?

 二つの宝石。

 この宝石は、姉から、誰かに渡されたもの。

 その誰かが、英霊と為った。

 誰だ?

 誰が、アーチャーになった?

 一体、誰が?

 

「君はその答を知っているはずだ」

 

 こつ、こつ、こつ。

 一度は遠ざかった威圧感が、近付いてくる。

 ああ。

 来ないで。

 もう、それ以上、私を虐めないで。

 

「余人ならいざ知らず、魔術を極めた者であるキャスターが、奴らの魔術の同一性に気がつかないはずが無い。そして、主人に忠実な彼女のこと、その情報はもう君の耳に入っているのではないかね?」

 

『今日、坊やの魔術を指導したでしょう。彼の魔術、投影って彼が勘違いしていた魔術、あれを間近にみて、わかったの。アーチャーがあの捻じ曲がった剣を取り出したときに感じた魔力の波動、それと同じだって』

 

 止めて。

 

『単純に言うとね、アーチャーも、あの歪な投影の使い手っていうこと』

 

 とめて。

 

『ねえ、桜。私は長いこと魔術に関わってきたけど、あんな出鱈目な投影、初めてお目にかかるわ。それが、突然二人も。これ、偶然かしら?』

 

 違う。

 

 絶対に、違う。

 

 彼は、先輩じゃあない。

 だって、あの目は、先輩の目じゃあないもの。

 先輩は、あんな目をしない。

 あんな、奈落の底を覗いたみたいな目を、絶対にしない。

 あれは、人の目じゃあ、無い。

 もっと違う、おぞましいものの、目、だ。

 

「事実から目を背けるな、遠坂桜!」

 

 声。

 気付けば、目の前に、神、が。

 動けない。

 足が、竦む。

 助けて。

 助けて、先輩。

 助けて、姉さん。

 助けて、助けて、助けて、助けて。

 ぱしん、と。

 軽く、頬を叩かれた。

 

「落ち着きたまえ、遠坂桜。君は罪人ではなかろう?ならば、威風堂々としていればいいのだ。この世に、君を脅かす何者があろうか」

 

 その言葉は、私の深奥に響くかのように。

 空虚だった胸の奥に、暖かい何かが満たされていく。

 ああ、安心した。

 そうだ、私は、昔、この男に助けられたことがある。

 蟲倉から引きずり出され、身体中から蟲を引きずり出され、穴だらけになった私の身体。

 それを、丁寧に塞いでくれたのが彼ではなかったか。

 あの、暖かい手。

 あの、慈しむ言葉。

 ああ、ここは、安心だ。

 安全じゃあないか。

 

「すこし、話をしようか、遠坂桜」

 

 いつの間にか、私はミサで使う長椅子に座らされていた。

 何のクッションも無い、無骨な木の椅子。

 それが、ひどく心地いい。

 

「きみは、天使と悪魔の違いを説明できるかね?」

 

 ……なんと、幼稚な問いか。

 答える気も起きないほどだ。

 

「ふむ、お気に召さなかったか。まあ、いい。私が勝手に話すから、気が向いたら合いの手の一つも入れてくれ」

 

 彼は、後ろに手を組んだまま歩く。

 広い教会、その中を、当て所なく。

 こつ、こつ、こつ、と。

 

「天使とは、言うまでも無く神の御使いであり、人を正しい方向、神の思し召しに適った方向に導く者だ。宗派、教義の解釈によって幾つかの細分化はされるものの、概ね、この大枠に反する考え方は存在しないな」

 

「転じて、悪魔とは神の教えから人を遠ざけようとするもののことを指す。人に危害を加えるもののことではない。むしろ、人を殺し、罰するのは天使の領分にある。かの聖書において人を殺した数は、悪魔は僅か十人、天使は三千万を越すとの解釈もあるのは、非常に興味深い」

 

 謳いあげる、声。

 天井から、きらきらとした光が差し込む。

 人は、神の奇跡を体現するために、無数の美術品を生み出した。

 それでも、神は遠いのだろうか。

 それほど、神は偉いのか。

 

「土着の神々を取り込んだという例外を除けば、悪魔の起源はその多くが天使に求められる。堕ちた天使、というやつだ。もっとも有名なのは、明けの明星と謳われた、大天使長ルシフェルだろうか」

 

 ゆっくりと、声の主を見る。

 彼は、いつの間にか私の隣に座っていた。

 それでも、彼我の距離は三メートル。

 不快と不信と疎遠を覚えさせない、絶妙の距離だ。

 

「しかし、天使も悪魔も、その本質においては同等の存在なのだよ。わかるか、遠坂桜」

 

 突然の質問。

 口を、開く。

 それでも、声がでない。

 渇いた喉に、舌が張り付いてしまっている。

 

「天使は、その威光をもって神を讃える。それは、当然だろう。そして、悪魔は人を堕落させ、神の教えに反することで神を讃えているのだ。如何にも逆説的ながら、そのことに異論を挟むものはいないだろう」

 

「何故なら、神は真に絶対だからだ。神の為す行為は、その過程の如何を問わず、最終的には善なる行為と価値付けられる。そこに議論の余地は無い。疑義の余地も無い。価値観を挟む余地すらない。もし、神の行いが醜悪に見えるとするならば、それを醜悪と断ずる思考こそが醜悪なのだ」

 

「ならば、神の創造物たる天使、そして悪魔。これらが神の御心に適わぬはずがあろうか。キリストの十二使徒、その中でも最も寵愛を受けたといわれるヨハネ。彼が、かの滅びの黙示録に描かれた奈落の悪魔、アバドンと同一視されるのは偶然だろうか?アバドンが悪魔の王たるサタンと同一視されるのは偶然だろうか?サタンがゾロアスター教の悪神、アンリマユと同一視されるのは、果たして偶然だろうか?」

 

 冷ややかな、熱弁。

 まるで、自らの説を論破されることを望んでいる、そんな声。

 

「つまり、天使と悪魔の境は、存在しないのだよ、遠坂桜。そこには、何も無い。境界になど、意味はないのだ」

 

 ああ、それは痛く同感。

 きっと、それは正しい。

 この世は、全てが不確定。

 何もかもが、あやふやだ。

 

「……ならば、貴方は何をもって善と悪を区分しますか?」

「ただ、神の御意志をもって」

「では、何をもって神の意思としますか?」

「ただ、神の教えをもって」

「では、その教えが正しいと、神の意思が正しいと、何故証明できますか?」

「ただ、私の価値観をもって」

 

 ほら、ぼろが出た。

 個人の価値観を差し挟まなければならないような神など、神ではない。

 それは、偶像に過ぎない。

 かすかな失望。

 所詮、この男も凡百の宗教家か。

 

「それは少し違うな、遠坂桜よ」

 

 横から、声。

 その視線は、真っ直ぐに。

 

「確かに私は凡夫に過ぎん。しかし、神は確かに存在する」

「……果たして、どこに」

「私の中に、だ」

「あは」

 

 思わず、苦笑が漏れた。

 なるほど、立派なお言葉だ。

 神は、ただ信心の中に、か。

 百点満点の回答じゃあないか。

 思わず笑ってしまう。

 

「それも、おそらくは違う。本当は、神の存在など、どうでもいいのだ。それでも、神は私の中にいる。なぜなら、私がそう定義したのだから」

 

 自身に満ちた、声。

 何故だか、心を揺さぶられる、声。

 今までで、一番彼の真実に近い、声。

 

「神を探すから、人は苦しまねばならない。そんなもの、どこにも存在しないが故に、な。何故気付かぬか。神など、何処にも存在しないが故に、何処にでも存在することが可能なことに。神は、ここに存在するのだ。そこに存在するのだ。あそこに存在するのだ。どこにでも、存在するのだ」

「……何故、そう断言できますか?」

「私が、そう定義したから、だ」

 

 なるほど。

 初めて、この男の一端に触れた。

 この男は、神を最上位に置きながら、己をその更に上に置いている。

 己を至高としながらも、下位の存在に頭を垂れているのだ。

 その、交錯性。

 それこそが、この男の本質か。

 

「君は、私をそう定義するのか」

「えっ?」

 

 おかしい。

 さっきから、何故私の思考は悉く。

 

「意味など無い。ただ、そう思っただけだ」

 

 ふうと、大きな溜息。

 僅かな、空白の時。

 

「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか、そう問うた画家がいたな」

「ゴーギャン、ですか」

「しかし、この問いは、問うことに意味は無い。ただ、答えることにこそ意味がある」

 

 ゆっくりと、彼の頬は、笑みの形を作っていく。

 

「私は、神より生まれた。私は、神の僕である。私は、いずれ神の御許に召される。ほら、これだけで『私』という存在が定義されたではないか」

 

 まるで、宗教家の模範解答のような彼の台詞。

 それが、私には、例えようも無く。

 不吉に、聞こえた。

 

「さあ、君も定義してみるといい。そうすれば、人生は限りなく栄光に満ちるだろう。己が何者で、何のために生きるのかを定めてみろ。それだけで、人生は祝福に満ちる」

 

 私は、立ち上がった。

 これ以上、ここで彼の説法を聞くのが苦痛だったから。

 もう、ここに来ることはないだろう。

 そう思いながら、教会を後にした。

 きっと、彼は最後まで嗤っていたはずだ。

 

◇

 

 とぼとぼと、帰った。

 コートのポケットには、二つの宝石。

 それを、意味も無く弄ぶ。

 

「ただいま帰りました……」

 

 さあ、叱責されるだろうか。

 多分、そうだろう。

 この大事な時期に、無断で家を空けたのだ。

 それは十分に叱責の対象となる。

 怒られるのは嫌だなと。

 ぼんやりした感想を、思い浮かべる。

 

「おかえり、桜」

「先ぱ……!」

 

 では、無かった。

 玄関に待っていたのは、赤い外套。

 黒い、皮鎧。

 しかし、その上から似合わないエプロンを着た、弓の騎士。

 

「ああ、あの愚か者か。奴なら、ほら、居間で眠りこけている」

 

 それは、知っている。

 そんなこと、知っている。

 それでも。

 

「先輩……」

「起こしたいなら、耳元で怒鳴ってやれ。私が許可する」

「先輩……」

「そんなに急ぎか?なら、私が起こしてこようか?」

「先輩!」

 

 思わず振り返った、彼の顔。

 その、奈落のような、瞳。

 しかし、その中に、確かに、見慣れた輝きが、あった。

 

「さ……くら……?」

「先輩は、どれだけの絶望を、見てきたんですか?」

 

 なんて、幼稚な台詞。

 怖気がする。

 それでも。

 それでも、問わないわけにはいかないじゃあないか。

 

「貴方は、どれだけの荷物を背負い込んでしまったのですか?」

「……君の言っている意味が、わからない」

 

 彼は、私から視線を逸らした。

 もう、それだけで十分だった。

 回答は、いらない。

 涙が、溢れた。

 そのまま、自分の部屋まで駆けた。

 そして、泣いた。

 彼が背負ってきた苦労を想って、泣いた。

 彼が背負うであろう苦労を思って、泣いた。

 泣いて、泣いて、泣いて。

 そして、気付いた。

 彼は、もう手遅れだけど。

 彼は、まだ間に合うんじゃあないか。

 だって、彼はまだ人間で。

 これからも、人間のはずだから。

 なら、どうすればいい。

 どうすれば、英霊なんていう、化け物みたいな存在にさせないで済む?

 考えろ、考えろ、考えろ。

 ……。

 

「なあんだ、簡単じゃない」

 

 アーチャーは、姉さんに呼び出された。

 そして、遠坂の秘石を持っていた。

 誰よりも、姉さんとの縁が、濃い。

 きっと、姉さんが、関わっている。

 どこで、どのように関わったかは、わからないけど。

 それでも、其処を変えれば、運命は変わるはず。

 つまり。

 

「姉さんは、いらないわ……」

 

 私は、間違えていない。

 私は、間違えていない。

 私は、間違えていない。 

 だって、私がそう定義したのだから……。

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