FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode72 人造両儀7 主従共闘

 右手に、彼の、捻くれた、矢を。

 左手に、彼の、黒塗りの、弓を。

 精神を集中する。

 いや、それは正しくないだろうか。

 これを手にした瞬間、精神のチャンネルが切り替わった。

 ぱちりと。

 自分でも驚くほど、鮮明に。

 人から。

 人の形をした、機械に。

 弓を引き絞り、矢を射るための、機械。

 機械に精神があるだろうか。

 否。

 そんなもの、存在しない。

 存在しうる筈が無い。

 それでも。

 それでも、もし、あるとするならば。

 きっと、それは今の俺のような心持なのだろう。

 研ぎ澄まされた水面のような、イメージ。

 微風すら吹かず、魚達すら息を潜めるような、静寂。

 鏡のように、周囲の風景を映し出す。

 そこに、天上で結露した水滴が、落ち来る。

 ぴちゃん、と。

 それが起こした、僅かな飛沫と、小さな波紋。

 その中に、目標を見つける。

 闇の中に光り輝く、蟲。

 傷ついた彼女に止めを刺すべく、一直線で飛んでいく、蟲。

 安定した軌道。

 これなら、外せというほうが、難しい。

 いや、それは違うか。

 ふらふらと飛ぼうが、一直線に飛ぼうが、鋭角に曲がろうが。

 当たると思って射離せば、必ず当たるのだ。

 故に、弓兵。

 それが、彼の仇名の所以。

 ならば、彼の使った弓と、矢。

 如何に未熟な俺でも、外すはずがない。

 呼吸を、正す。

 背を、張る。

 視線は、唯一点を見つめて。

 

 足踏み。

 八文字、足の間の寸ぞなき、その身その身の、曲尺に合わせて。

 

 胴造り。

 胴はただ、常に立ちたる姿にて、退かず掛からず、反らず屈まず。

 

 弓構え。

 大石を、抱く心を忘るるな、居向きに向けよ肘口をはれ。

 

 打起し。

 風もなく、空に煙の立ちのぼる、心の如く、うちあげよかし。

 

 引分け。

 引き取りは、げに大鳥の羽をのして、雲井をくだる、心得ぞよき。

 

 会。

 持満とは、矢束一ぱい引き詰て、離れぎわ迄、息にさはらじ。

 

 離れ。

 よく引きて、引な抱えよたもたずと、放れを弓に、知せばしすな。

 

 そして。

 

 残心。

 

 残身。

 

 結果は、知っている。

 

 あとは、最後の一節を、奏でるのみ。

 

 いざや、ゆるゆる、はぜてゆけ。

 

「壊れた幻想」

 

episode72 人造両儀7 主従共闘

 

 爆風が、校庭に漂う饐えた空気を吹き飛ばした。

 まるで、そこに小さな太陽でも生まれたかのような、暴風。

 その前に屹然と立つ、少年。

 飛び散る砂利にも、目を閉じようとしない。

 ただ、一点。

 彼が守るべきもの。

 それを視界に収め、小揺るぎとしないのだ。

 一瞬、その場にいた全ての瞳が彼の背中に集中する。

 その中には、人外の化け物がいた。

 その中には、人外の英雄がいた。

 その中には、彼の姉がいた。

 その中には、彼の恋人がいた。

 それらの視線を受けて、それでも彼は、なお慄然と立ち尽くしていたのだ。

 あるものは、その背中に父の幻影を見た。

 あるものは、その背中に騎士の余熱を感じた。

 あるものは、その背中に将来への可能性を感じた。

 そして。

 あるものは。

 その背中、明らかに英雄に近付きつつある、その背中を見て。

 少年の不幸に、涙を流したのだ。

 

「おお……。おおお……。何故、神は、彼女に、かくも重たい試練を課するか……」

 

 悲痛な、喉から搾り出すような、声。

 地に伏せ、拳を大地に打ちつけ、泣きじゃくる。

 まるで、幼児のように。

 辺りを憚らず、絶対の実力を兼ね備えた、敵の眼前で。

 預言者は、泣いた。

 泣いていた。

 それだけではない。

 蟲が、泣いていた。

 彼が作り出した蟲の群体、その全てすらが、涙を流していたのだ。

 切れ長の美しい瞳を涙で濡らし、獅子の牙の生え揃った口を大きく開けて、声を上げて泣いていた。

 美しい、声。

 さながらカストラートが奏でるグレゴリオ聖歌のような、その旋律。

 戦場には、如何にも不似合いなその音階が、凄惨な戦いに一瞬の空隙を作り出していた。

 

「呪うぞ。神よ、私は、深く、貴方を呪う……」

 

 静寂。

 百戦錬磨の槍兵ですら、その異様に飲まれかけていたのだ。

 やがて、預言者はゆるりと立ち上がる。

 その瞳には、一抹の決意と。

 それを上回る狂気が、彩られていた。

 

「ならば、打ち倒そう。我が意に沿わぬ神など、不要。今、この場をもって、それを打ち倒すことを、私は誓おう」

 

 そして、彼は、呪文を紡ぐ。

 なぜなら、それが彼に許された、唯一つの戦い方だから。

 それは、相手が何であっても変わらない。

 人であっても、英雄であっても、神であっても。

 彼は、唯一つの呪文を持って、歯向かうのだろう。

 

「Apollyon」

 

 先程の数を倍する光体が、彼の周囲に乱舞する。

 長大な、呆れるほどに長大な詠唱は、既にない。

 一度唱えてしまえば、既に不要なのか。

 それとも、そんな常識すらも、今の彼には埒外なのか。

 ただ、彼の魔力が真実に無限ならば。

 これは、彼の敵にとって、不可避を死を意味していた。

 

「痛いだろう。苦しむだろう。しかし、死にはしない。五ヶ月の間、死は君から遠ざかるだろうから」

 

 涙に濡れた、その声。

 その視線の先にあるのは、彼の敵ではない。

 むしろ、彼が守るべきもの。

 彼の主が、己の命を擲ってまで守ろうとした、尊いもの。

 預言者の殺意は、彼の主の守るべき対象に、注がれていた。

 

「おい、戦いの途中に、何を呆けてやがる」

「黙れ、犬ころ」

 

 ぷちり、と。

 その二人を見つめていた者達は、何かが細長いものが千切れる音を、聞いた気がした。

 爆ぜる空間。

 瞬きほどの暇もなく、槍兵の愛槍は、預言者の脳天を貫いていた。

 ごつり、と、嫌な幻聴を聞いたものが、いたか否か。

 だが、それでは終わらない。

 槍兵の、肥大化した背筋が、うねる。

 力ずくだ。

 刃の切れ味なんて、あったものではない。

 ただ、まるで割り箸を裂くかのように。

 脳天に突き刺した槍。

 それを、そのまま、強引に振り下ろした。

 ばきばきと、骨の砕ける音。

 まるで竹に鉈を打ち込んだかのように、真っ二つに裂けていく、預言者の身体。

 みりみり、ばきばき、ぐちゃり。

 人体の奏でることのかなう、あらゆる音が響いた。

 そして、槍は、地面に突き立つ。

 頭頂部から、股間まで。

 綺麗に、等分。

 ばしゃり、と、血のぶちまけられた、音。

 それでも、唯一つ。

 苦痛の叫びだけは、響かない。

 預言者は、振り向かない。

 微動すれば泣き別れになる体をそのままに。

 ただ、一点を、見つめている。

 

「死よりも、死より苦しい苦痛よりも、更に苦しい現実というものは、確かに存在するのだ。ならば、例え今君が死んでも、彼女は私を讃えてくれるだろう。それは私にとって無上の喜びなのだよ」

 

 細長い、一流のピアニストのように美しい指が、蟲の楽団を指揮する。

 その先には、二つの人影。

 倒れ伏した、騎士王。

 それを抱きかかえる、少年。

 その二人に、黙示録の騎士団が、襲い掛かる。

 

 

 全身を、酷い倦怠感が覆っている。

 まるで、地の底に引きずりこまれるかのような、重たい痺れ。

 いままで感じたことのない、重大な疲労。

 そして、苦痛。

 全身の痛覚を、引き裂き、塩を塗りこむような、苦痛。

 鞭打ち、杖打ち、暴行、強姦。

 火刑、磔刑、ギロチン、車折。

 駿河問い、水責め、木馬責め、塩責め 笞打、石抱き、海老責、釣責、蓑踊り。

 あらゆる拷問、あらゆる尋問、あらゆる死刑。

 それを、瞬時に体感するような、瞬間。

 叫びたい。

 この苦痛を、喉から解放したい。

 のた打ち回って、爪を地面に立てて、そのまま爪を毟り取りたい。

 爪の無い指先で頭皮を掻き毟り、髪の毛を頭皮ごと引き千切ってやりたい。

 喉を裂き、そこから手を突っ込んで、心臓を引きずり出したくなる。

 そんな、苦痛。

 閉じた瞼の奥、そこが、赤と黒の光で点滅している。

 吐きたい。

 胃の中に何が入っているのかも分からないが、とりあえず吐き戻したい。

 しかし、許されない。

 四肢の先まで満たされた疲労が、意志の命令を拒絶する。

 指一本動かせない。

 不動。

 不動の、地獄。

 叫び声をあげる自由すらない、苦痛の坩堝。

 耐えられない。

 もう、一秒だって耐えられない。

 気を失うことが出来たら、どんなに楽だろうか。

 それが、許されない。

 明瞭な意識の中、痛覚を蹂躙され続ける。

 もう駄目だ。

 私が、私でなくなる。

 砕け散る。 

 微細になる。

 霧散する。

 私が、消えてなくなっていく。

 ああ、すみません、シロウ、リン。

 私は、どうやら、ここまでの……。

 

「セイバー」

 

 声が、聞こえた。

 優しい、声。

 果たして、誰の声だったか知らん。

 耐え難い苦痛の濁流の中で、そう思う。

 遠い、遠い、声。

 ずっとずっと昔に、耳にした、心地よい、声。

 心惹かれた。

 その生き様に、その心根に。

 美しいと。

 この、冷たい体でも、温めてくれるのだろうか、と。

 それでも、彼は彼自身に相応しい伴侶を見つけた。

 美しい、ひとだ。

 気高く、聡明で、猛々しく、何より、つよい。

 力とか心とか、そんな瑣末なことではなく、もっと根本的なところで強い、女性。

 私の、新しいマスター。

 彼女ならば、この声の主に相応しい。

 それでも。

 ああ、それでも。

 叶うでしょうか。

 許されるでしょうか。

 私が、この、澱のように溜まった感情の塊を吐き出すことは、認められるのでしょうか。

 きっと、私は、貴方を。

 いつからか、分かりません。

 マスターの血に塗れ、恥知らずにも貴方の家の門を叩いたとき。

 貴方が、米粒ほどの躊躇も無く、その門戸を開け放ってくれたときでしょうか。

 騎乗兵との戦いで、全ての力を使い果たしたとき。

 役立たずの私を、心底気遣ってくれる瞳を見たときからでしょうか。

 狂戦士の刃に倒れ、不可避の死を覚悟したとき。

 動かない私の体を、貴方の背中が守ってくれたときからでしょうか。

 いや、それとも、その遥か以前。

 私が、この時代に召喚される前。

 貴方が、この世に生を受ける前。 

 もっと、もっと、ふるいところ。

 そう、きっと、そうです。

 そこから。

 私は。

 

「セイバー、これ、返すから。長い間、借りっぱなしで、悪かったな」

 

 囁くような、睦言のような、声。

 この身に、暖かい何かが、注がれていく。

 暖かく、それ以上に懐かしい、何か。

 知っている。

 私はこの熱を、知っている。

 大昔に、失ったものだ。

 遠い遠い、御伽噺の時代に、失ったのだ。

 

『お間違えめさるな。剣は敵を討つ物ですが、鞘は貴方を守る物。その鞘を身につけているかぎり、貴方は血を流す事もなく負傷する事もない。真に大事とすべきは剣ではなく鞘なのです』

 

 魔術師の、手厳しい言葉。

 あの時は、理解できなかったけど。

 それでも今は、彼の言いたかったことが、理解できる。

 私は、勘違いをしていた。

 確かに、敵を倒せば、大切なひとは、死なないで済む。

 しかし、そもそも大切なひとが守り抜けるならば、敵を倒す必要すらないのだ。

 そんな簡単なことが、あの頃の私には分からなかった。

 大切なのは、奪うことではない。

 守ることだというのに。

 私は、なんと愚か、だったのだろうか。

 

「でもな、セイバー。ありがとう。何回も、お前に守られた。何回も、救われた。最高の騎士だよ、お前は」

 

 ――。

 ああ。

 こんなにも、愚かな私なのに。

 それは、私の意志ですらなかったというのに。

 貴方は、私を、騎士と呼んでくれるのか。

 こんなにも、弱い、私なのに。

 貴方は、私を、騎士と。

 ならば。

 ならば。

 ならば!

 目を開けろ!

 立ち上がれ!

 戦え!

 刃砕け、矢尽き果てるまで!

 拳が潰れ、歯が折れ尽くすまで!

 朽ち果てるのは、病床ではない!

 ただ、戦場にて!

 この身は、彼の剣!

 しかし、それ以上に彼の盾なり!

 ならば、疾く、立ち上がれ!

 苦痛など、意に介するな!

 散々、食い散らかさせればいい!

 それでも、その鈍重な体は、動くだろう!

 ならば、戦え!

 彼を、守れ!

 ほら、彼の後ろから、あの蟲が飛んでくる!

 彼を殺そうと、牙を鳴らしながら!

 それを、見過ごすのか!

 疲れているから、見過ごすのか!

 痛いから、見過ごすとでも、言うつもりか!

 

 かちり。

 

 存在の深奥で、何か、大切な何かの撃鉄が、打ち下ろされた。

 

 

 ここまでだな。

 うん、ここまででいい。

 俺が倒すべきなのは、セイバーを殺すために飛んでいった蟲、あの一匹だけだ。

 それ以外は、どうでもいいな。

 俺の責任の範疇外だからだ。

 背後に感じる、幾十もの死の気配。

 警察官、検察官、刑務官、執行人。

 罪に塗れたこの体が、恐ろしいと感じる、全て。

 それが、口の端を涎で濡らし、飛んでくる。

 圧倒的な、死の予感。

 それでも、それすらどうでもいい。

 だって、知っているから。

 あの牙は、あの毒針は、俺には届かない。

 だって、俺には、こいつがいる。

 こいつが、絶対に俺を守ってくれる。

 

「……貴方に、謝罪を、シロウ」

 

 目を閉じたまま、こいつはそう言った。

 口元が、悪戯っぽく歪んでいる。

 ああ、なるほど。

 こいつも、きっと楽しいんだ。

 

「ああ、俺も、お前に謝罪を、セイバー」

 

 ゆっくりと、瞼が持ち上がる。

 俺の腕の中、余りに軽い、その体躯。

 それでも、大きすぎて、俺の存在じゃあ抱えきれない。

 

「はて。私は、貴方に謝罪を受けなければならないことなど、何一つ無いのですが?」

 

 その訝しげな表情に、思わず笑みが漏れる。

 それを見て、少し不機嫌な彼女。

 ああ、まずい、眠り姫の気分を害してしまったのだろうか。

 

「先に謝っておきたかったんだ。だって、女の子に自分を守らせる男なんて、最低だろう?」

 

 一度だけ、ぱちくりと目を瞬かせた彼女は。

 やがて、華の蕾が綻んだように、微笑った。

 

「……民を守ることこそ、騎士の本懐。ならば、どうして謝罪を受ける必要があるでしょうか。それより、シロウ。貴方は、私が貴方を守ることを、許可してくださるのですか?」

 

 その言葉を聞いて。

 一度だけ、ぱちくりと目を瞬かせた俺は。

 きっと、鼻に皺を寄せるように、微笑った。

 

「そうだな、一方的に守られるのは、如何にも居心地が悪い。だから――」

「そうですね、私も男性に楽をさせるのは、些か落ち着かない。ならば――」

 

 立ち上がる。

 飛び跳ねる。

 二人、全く同時に。

 その瞬間。

 背後にいた、哀れな蟲達の先鋒は。

 その全てが、一刀両断に、斬り捨てられていた。

 

「お前の背中は、俺が守るよ!」

「この背中、貴方に預けましょう!」

 

 

 美しい。

 そう、思った。

 無くなった左腕を愛おしむかのように、左肩を撫で摩る。

 光り輝く蟲の群れ、それを切り伏せるセイバー。

 彼女の背後を守り、双剣を振るう士郎。

 その二人が、この上なく美しかった。

 かたや、伝説に名高きブリテンの赤き竜。

 その手には、剣の頂点、神造兵器、人々の願いの具現。

 かたや、へっぽこで、見習い魔術師で、どこまでも素敵な、私の恋人。

 その燃えるような赤い頭髪が、火竜の吐息のよう。

 暗い校庭、その中でぽつりと照らされた小さな舞台。

 二人は、そこで剣舞を演じる、つがいの踊り子に、見えた。

 なんと、似合いの主従。

 思わず、歯軋りが鳴る。

 悔しい。

 ついこないだまで、私はあいつよりも強かったはずなのに。

 今は、全く勝てる気がしない。

 私は、守る側の人間だと思ってたのに。

 いつの間にか、守られている。

 悔しい。

 なんて、強い、二人。

 なんて、楽しそうな、二人。

 悔しい。

 でも、今だけよ。

 きっと、今だけ。

 すぐに追いつくから。

 ううん、追いつくだけじゃない。

 追い抜いて、そのまま周回遅れにしてやる。

 士郎だけじゃない、貴方もよ、セイバー。

 だって、二人とも、私のサーヴァントなんだから。

 使い魔より劣る魔術師なんて、かっこつかないでしょう?

 だから、今だけ。

 所以の知らない涙が流れるのも、今だけ。

 覚悟してなさい。

 きっと、あっという間に、私は……。

 

 ――とん。

 

 あ……れ?

 わた、し、は……。

 

 

「おのれ、何故だ、何故死なぬ!?」

 

 預言者の苛立たしげな、声。

 彼は、知っていた。

 この戦いが、如何にも彼に不向きなことを。

 しかし、それでも望んだのだ。

 戦いたい。

 彼女を、守りたい、と。

 そして、戦った。

 これまでは、概ねこちらの思惑通りにことが運んだ。

 おそらくは一番厄介と思われる神の仔は、苦心の末に排除した。

 クランの猛犬が生き残ったのは聊か想定外であったものの、誤差の範囲内だと思っていた。

 だが、段々と、その誤差が大きくなっていく。

 そのことに、彼は大きな焦りを感じていた。

 

「貴様らは、人ではないのか!?人ならば、何故死なぬ!?それは、そういう存在なのだぞ!」

 

 アポルリオン。

 彼が、そう呼んだ、蟲。

 その実、その蟲の名は、それではない。

 ヘブレオ語にてアバドン、ギリシア語にてアポルリオン、そう呼ばれるのは、あくまでも深奥に君臨する王の名である。

 ならば、その尖兵、人類を粛清せよと使わされた、これらの蟲の名は。

 無い。

 蟲に名は、無い。

 名など無く、故に愛されることも無く、ただ、人々の信仰心のうちにのみ、存在を許された存在。

 余りに薄い、実在感。

 しかし、その機能は明白だ。

 人を、殺す。

 人類を、粛清する。

 それ以外の機能を持たない、単一性能の集団。

 それが、その蟲軍の正体だ。

 人を殺す。

 その性能ならば、如何なる存在にも引けを取らない。

 人類に対する、絶対的な殺戮者。

 それは、かの霊長の殺人者の複写、そう呼んでも差し支えない存在。

 だからこそ、この戦いは、彼に不向きだったのだ。

 

「貴様らは、人ではないのか!?」

 

 その声に、騎士は楽しげに応える。

 

「ほう、貴様は知らぬか。我が異称は、ブリテンの赤き竜。ペンドラゴンの名を持つものぞ!」

「……貴様も、混ざり物……!そうか、そしてお前は彼女と同じ起源……!ならば、既に純粋な人ではないか!」

 

 預言者は、渋々と首肯した。

 なるほど、ここまで不向きな戦いとは思わなかった。

 冷や汗が、彼の背中を濡らした。

 勝てないかもしれない、その不快な預言が、彼の思考に黒い染みを作り出した。

 それでも、彼の為すべきことは、唯一つだ。

 それ以外、彼に出来ることは、無い。

 元々、彼は無だった。

 暗い、暗い、コールタールのような黒い空間を漂う塵、それが彼だったのだ。

 その空間は、一人の少女が、まだ人の細胞を宿していたころの、小さな脳髄。その乳白色の塊の中に広がるものだった。

 最初は、一人だった。

 一人で、ふわふわと、漂っていた。

 その頃の彼は、幸せだった。

 その内、隣人が出来た。

 よく分からない、多数の隣人。

 優しい彼は、それらを受け入れた。

 その頃の彼は、幸せだった。

 そして、彼は不幸になる。

 己の幸福が、少女の不幸であったと知ったために。

 そして、彼は自覚したのだ。

 己が、何者で、何をするために存在するのか。

 もともと、その乳白色の空間の支配者であった彼は、只の使い魔に堕ちた。

 さながら、神に反逆した天使のように。

 隣人を喰らい、人の肉を喰らい、人にあらざるものの肉を喰らい。

 それでも、彼は満ち足りていた。

 それを幸福と呼べるのならば、彼は幸福になった。

 そして、今、彼は幸福だ。

 だから、無だった彼が為すべきことなど、唯一つ。

 彼女を、守る事。

 守る。

 それが、唯一、彼の存在意義。

 だから、彼は唱えるのだ。

 唯一、彼に許された、呪文を。

 

「Veni, et vide!」

「Veni, et vide!」

「Veni, et vide!」

 

 三度繰り返された、呪文。

 現れた光体は、既に三桁を超えている。

 彼の激情を表すかのような、その光。

 万軍の蹄音より、なお巨大な羽音。

 それが、彼の周囲に存在する、忌まわしい敵を屠り去ろうとした、そのときに。

 

 ぱちり、と。

 

 この場においては、いっそ滑稽な音が、響いた。

 同時に、どこからか飛来した剣群が、蟲群を、切り裂いた。

 そして、声が、聞えた。

 まるで、聞く者の耳に染み入るような、美しい声。

 しかし、聞く者が、膝を屈せざるを得ないような、支配者の声。

 王の、声。

 それは、王権を簒奪した、覇王の声ではない。

 それは、王権を引き継いだ、賢王の声ではない。

 それは、王権を造った、始祖のこえではない。

 王という概念を造った者の、声。

 王の中の王。

 この世で、王に対して王権を主張し得る、唯一人の者の声。

 それが、低い夜空に、高らかと響いたのだ。

 

「そのような雑兵相手に何を梃子摺っているか。我をあまり失望させるでない」

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