FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
私は、長い間ここに立っていた。
一体、どれほどの時間だったのだろうか。
目の前には、錆びの浮いた、鉄の扉。
それを見つめながら、じっと立ち尽くしている。
人は、弱い生き物である。
基準が無ければ、安心できない。
座標が無ければ、己を見失う。
ここに秒針は無い。
故に、一瞬は無限。
もう、どれほどの間ここに立っているのか、分からない。
ぼう、と、まるで影のように。
じりじりと、蝋燭の焦げる音が聞える。
どこかから隙間風が入ってきているのだろうか、時折ゆらゆらと揺らめく。
私の影も、揺れる。
現世においては稀人に過ぎない身ではあるが、庇の代わりくらいにはなるらしい。
そう思うと、仮面の下の表情筋が、微妙に蠕動したようだ。
皮肉なものだと思う。
私は、限定された一つの用途のために召喚された。
唯一つ、それ以外の目的を望まれない、いわば道具として。
曰く、殺しあえ。
他のサーヴァントを、或いは敵するマスターを殺す。
それが、私がこの世界に存在する意味。そのはずだった。
ならば、私は何度戦ったのだろうか。
指折り数えようとして、止めた。
あまりにも馬鹿らしくなったからだ。
それくらいは、覚えている。
いくら磨耗して、人を殺す方法についてしか記憶してくれなくなった脳細胞でも、それくらいのことは覚えてくれているらしい。
たった、一度だけだ。
私が戦ったのは、一度だけ。
いつかの夜、赤い外套を羽織った弓兵と、一戦を交えただけだ。
しかも、惨敗。
本来であれば叱責も当然の、情けない戦果であった。
その上、騎乗兵と二騎がかりでさえ、獲物を仕留めることは叶わなかった。
全く、役立たずにも程があるというものだろう。
しかし、彼女は怒らなかった。
声を荒げることも、嫌み一つを口にすることも無く、いつも通りの平静な声で、私を労ってくれた。
それが、如何程に私の自尊心を傷つけたか、あの少女は知り得るのだろうか。
あと、私が為し得たこと。
敵の本拠地を、空き巣のように家捜し。
半死人の、とどめ。
油断した女子供を、不意打ちで殺した。
その、程度だ。
正面きっての戦いは、全て彼女の中の彼に任せた。
マスターの影に隠れる、サーヴァント。
はは、らしいじゃないか、アサシン。
全くもって、貴様らしい。
生前も、死後も、お前にはそれしか出来なかったのだ。
たった一つのことしか、出来なかったのだ。
たった、一つ。
人を笑わせることなど、出来なかった。
雄々しく戦場で戦うことなんて、出来なかった。
人を教え、導くことなんて、出来なかった。
私に許されたのは、人を殺す、ただその一事だけだった。
姑息に、卑劣に、下品に。
闇の中で、首をへし折る。
天井から、毒を垂らす。
すれ違い様に、太腿の裏側を掻き切る。
そうして、殺した。
殺した。
殺した。
殺した。
ああ、殺したよ。
女と子供の肉は、驚くほどに柔らかかった。
首を切るといっても、大動脈は想像以上にこりこりしていて、中々切れてくれない。
切り裂いた胸の中に手を突っ込むとな、ぬるりと暖かいんだ。
最初は、生きるために殺した。
糧を得るため、そして、あの楽園に帰るため。
でもな、どんどん薄れていくんだ。
目的意識が、薄れていく。
考えてみれば、明白だ。
誰が、飯を食べるために、名前を捨てるか。
誰が、女や薬のために、顔を焼くか。
そんなくだらないもののために、血反吐を吐くような修練を耐え凌げるか。
決まっている。
そんなもののためじゃあない。
生きるためとか、食べるためとか、快楽のためとか、どうでもよくなってくる。
もちろん、高尚な思想なんて、最初から持ち合わせちゃあいないんだ。
なら、何があるのだろうか。
目的意識が薄れて、いずれ無くなって、真空になった空間に、何が残ったのか。
知っている。
俺は、覚えているよ。
それは、血の味だ。
目の前で真っ赤に咲く、他人の命。
毒で咲かせた。
刃物で咲かせた。
魔術で咲かせてやった。
どれも、凄く綺麗だった。
他人の人生を終らせたという、満足感。
他人の人生を自分のものにしたという、征服感。
己の力は誰のも負けないという、優越感。
それは、どんな麻薬よりも甘美だったんだ。
だから、殺した。
最初の目的は、何だったんだろうな。
生きるために、糧を得るために殺す、もう一つ前、だ。
もっともっと、前のこと。
なんだったかな。
もう、思い出せないな。
何かのために、戦った気がする。
何かが嫌で、何かになりたくて、戦った気がする。
でも、駄目なんだ。
一度殺すと、もう駄目だ。
何かのために殺していたはずなのに。
気がつけば、殺すための何かを探している。
殺す理由を探している。
殺すことが、幸せでならない。
そのことに気付くと、もう駄目だな。
私は、その瞬間に人を止めた。
人並みの幸せを望まなくなった。
愛しい恋人と口付けを交わす唇は、削ぎ落とした。
愛しい稚児を抱くための掌は、はらわたに汚れている。
もう、そんなことは、とうの昔に諦めている。
そして、血の色だけを望むようになった。
それが、幸せでならない。
幸福で、ならないんだ。
どこの哲学者が言ったのだろうか。
人が深淵を覗き込むとき、深淵もまた人を覗き込む、と
私は、魅入られてしまった。
何か、深淵に潜む、何かにだ。
もう、離れてくれない。
この手が、離そうとしてくれない。
だって、幸せなのだから。
幸せならば、十分だ。
人は、結局のところそれだけを求める。
愛することも。
憎むことも。
子を為すことも。
信じることも、裏切ることも。
全ては、幸福となるための手段に過ぎない。
平凡を求める。
普通でありたい。
他者よりも優れていたいという欲望と、相反するような希望。
注目されたい、されたくない。
労られたい、放っておいて欲しい。
服従したい、従えたい。
相反する欲望の塊でありながら、それらは全てが同一のベクトルを持っている。
あらゆる生き方、思考、哲学、行動が、結局のところ幸福でありたいという欲望を充足させるものに過ぎない。
聖女のような自己犠牲も、結局は己が幸せになりたいから。
指向性は、死姦愛好者のそれと些かも変わりない。
だから、私は充たされている。
何故なら、私は確かに幸せだったのだから。
人を殺して、やはり幸せだったのだ。
己を卑下する必要は、無い。
胸を張れ、アサシン。
ハサン=サッバーハよ。
貴様は、立派だよ。
お前は、誰よりも殺したのだろう?
世界を見渡してみろ。
どこに、そのことを善なる行為と位置づける国がある、宗教がある。
結果としてのそれを容認する国があっても、行為としてのそれを勧奨する国は、無い。
殉教、聖戦を讃える宗教はあっても、快楽殺人を崇拝する教えなど、どこにあるか。
どこにも無い。
しかし、貴様は幸せなのだろう?
人を殺して、その人生に無理矢理な幕を下ろして、そのことを自覚しながらも幸せなのだろう。
ならば、正解だ。
貴様の人生は、何ら恥じることなど無かった。
充足した人生だったではないか。
その結果としての地獄があったとしても、胸を張って受け入れればいい。
地獄の獄卒どもに、自慢してやれ。
己が殺した人の数を。
どうだ、貴様らは私ほどに人を殺したのか、と。
悔しがらせて、歯噛みさせて、身悶えさせてやればいいのだ。
そうだ。
私の人生に、悔いる要素など、一片たりともあるものか。
そうだ。
そんなもの、存在しない。
だが。
なら。
ならば、だ。
どうして、私は召喚に応じた。
何を、未練たらしく求めているのだ。
名前?
本当にお前は、名前が欲しいのか。
そうなのか?
果たして、そうなのか、アサシン。
そんなものが、そこまで欲しいのか。
恋焦がれ、それこそ身を焦がすまでに、欲しいというのか。
己の死後に、己の名前を求めて何になる。
墓標に刻まれる文字が、多少変化したところで、それが何になろうか。
私は、死んだ。
仮に、私に生命があって、それを永劫のものにしたいというなら、別段。
もう終わり、朽ち果てた命の呼称など、誰も気に留めない。
神の名前ですら、この時代には軽すぎる。
そんな時代に己の名前を残して、何になる?
お前が欲するものは、何だ?。
アサシン。
至高の暗殺者として生きて、そして死んで。
その後に、お前は何を求めたい?
名前が欲しいのか?
ハサン=サッバーハという、輝かしく呪われた名前。
それを、自分だけのものにしたいと。
本気で、そう思っているのか。
そうなのか。
私は、本当に。
そんなものが。
「アサシン」
interval11 Boy,Meats,Girl.
「アサシン」
疲れが染み出たような声で、私は目覚めた。
夢を、見ていたのだろうか。
酷く現実味の薄い、現実。
今、再び目が覚めたとしても、それ自体驚くことは何も無い。
そんな灰色の風景の中、私の主が佇んでいた。
私の目線の、遥か下から、少女の声がする。
「……すまない、少し寝ていたようだ」
「……サーヴァントも、眠ることがあるのですか?」
その響きに、皮肉や譴責に響きは無かった。
あったのは、純粋な驚きの色のみ。
それゆえに、私はより深く赤面する破目になってしまったのだが。
「……必要なわけではない。ただ、人の形をするということは、人の業に囚われるということ、それだけの話だ」
誰が聞いてもそれとわかる、拙い言い訳。
しかし、少女は微笑ってくれた。
くすくすと、本当に楽しそうに。
血に塗れた口元に、手を当てながら。
それを見て、思ったのだ。
ああ、よかった、と。
「ああ、おかしい!要するに、転寝をしていたのですね、貴方は!」
「……否定は、しない」
私の言葉に、彼女は火がついたように笑った。
口元に手を当てたまま、蹲ってしまった。
ぴくぴくと、小さな背中が震えている。
此間、平手打ちを喰らって憮然とした私を見たときも、彼女は同じく、大いに笑った。
そのことを勘案するに、どうやら私の反応に、彼女の笑いの痛点を刺激する何かがあるのは間違いないらしい。
それにしても、流石にここまで笑われると、私としても若干不本意である。
前は、寝姿を見守っていたら平手打ちで報われた。
故に、扉の外で警護をしていたのだ。
確かに、その最中に船を漕いでしまったのだ、それが叱責の対象となることは間違いない。
しかし、そこまで笑うことでもあるまいに。
そう思うのは私の器量が狭いからだろうか。
「ああ、おかしかった。貴方にも可愛らしいところがあるのですね」
「……光栄だよ、心からな。……しかし、主殿は私の失態に応えるに、怒声ではなく笑い声をもって鞭を打つ。それが、少し痛いな」
私がそう言うと、彼女の表情が少し沈痛に歪んだ。
その姿に、ちくりと痛む。
「……すみませんでした。そういう意図は無かったのです。信じてください」
「……いや、私も言い過ぎた。少なくとも、此度のは私の失態である。いかなる罰を下されても甘受せねばならんところ。この程度の仕置きに不平を漏らすとは、あってはならぬことだな」
「そんな!……私は、本当にそういうつもりでは……」
俯いて、僅かに震える彼女の肩。
細く、薄く、肉が透けるほどに、白い。
それを、抱きしめたくなる。
抱きしめて、折り砕いて、血反吐を吐かせたくなる。
この気持ちは、何だろう。
この少女を、私だけのものにしたい。
他の誰にも、触れさせたくない。
この気持ちは、どこから来るものだろう。
この世界に召喚されたときにも、味わった。
あの時、己の血に塗れ、己の心臓を握り締め、己の祖父を食い殺した、彼女の表情。
それを見たときに、私の胸中を充たした、感情。
懐かしく、おそらくそれ以上に忌まわしい、感情。
私の膝を、これでも組織の頂点にあった私の膝を、無条件に折り伏せた、あの感情。
この、胸を締め付けるような澱に、何と名付ければよいのだろうか。
「…私も、主を非難する意図は無かった。そのことは、信じて欲しい。…もう、この会話は打ち切ろう。今の我々には、少しも相応しくない」
懐に入れていた清潔な布切れで、彼女の口元を拭ってやる。
咽喉元をくすぐられた猫のように、目を細める少女。
その様が、私の深奥の澱を、更に大きくしていく。
「……食べたのだな」
主語は、語らない。
言うまでもないことだろうから。
「……はい。食べました」
彼女も、語らない。
もう、言う必要も無いのだろう。
「もう、幾百の命を食い殺しました。その数が、一つ増えただけ。もう、その数すらも覚えていませんが」
「……ならば、いいのだ」
ぱさり、と、音がした。
私が彼女の口元を拭った、布切れだ。
真っ白だったそれが、赤黒く染まって、コンクリートの床を彩っている。
もう、二度と使われることの無い、存在価値を終えた、ハンカチ。
それを眺めながら、私は少女を抱きしめていた。
「……放しなさい、アサシン。私は、貴方にそのような行動を許可した覚えはありません」
「ああ、その通りだ。しかし、掣肘を受けた覚えも無い」
「……詭弁です」
「ああ、その通りだ」
彼女は、私の腕の中、ピクリとも動かない。
ただ、聞える。
彼女の息遣いと、私が抉り取った心臓の鼓動が。
その音の、なんと安らかなこと!
私の、既に動かなくなって久しい心臓に、暖かい血液が送り込まれるかのようではないか。
「……もう一度、言います。放してください」
「……ならば、何故振りほどかぬか」
少女の声は、嗚咽に震えていた。
涙は、流れない。
その目頭に決壊寸前の水分を湛えながら、涙だけは流さない。
まるで、それが最後の矜持であると、そう言わんばかりに。
「……決まっています。私が、貴方に抱かれていたいからです」
「……ならば、何故私を拒絶するか」
私を見上げる、大きな瞳。
瞼の裏の闇よりもなお暗く、しかし黒真珠よりも輝かしい。
その、絶望と、それ以上に欲情に濡れた瞳。
それが、私の中で消えかけていた欲望を刺激する。
「……貴方は、人でしょう。私の身体は、既に人のそれではありません」
少女は、その流れるような長髪の一房を、引き千切った。
夜空を細く削ったような、黒髪。
それが、彼女の掌で、苦しげに蠢いた。
うぞうぞと、焼けた地面に悶える、蚯蚓のように。
「もう、私の身体に、人であると胸を張れる部位は、残っていない。それは、私が人ではないと、そういうことでしょう?」
徐々に縮れ、ついには枯れ果てた、彼女の髪だったもの。
それは、人の腸に寄生するという長虫を思い起こさせた。
「人ではないから、人には抱かれたくないと、そういうことか」
「人ではないから、貴方が抱くには相応しくない、そういうことです」
彼女は優しく微笑みながら、しかしおそらくは全身の力を振り絞って、私の腕の中からその身を逃れさせた。
その、微笑み。
このまま手首を掻き切りそうなほどに、矮小な存在感。
もう、この場から消え失せてしまったかのような、失望。
少女が、背を向ける。
駄目だ。
いけない。
このまま彼女を行かせるわけには、いかない。
私は、既に己の一部となって久しい、白い仮面を、掴んだ。
「マキリシロウ」
◇
「マキリシロウ」
一瞬、それが誰の声か、分からなかった。
誰のことを呼んでいるのか、分からなかった。
だって、初めてだったのだ。
初めて、名前を呼ばれた。
マキリ、シロウ、と。
そう呼ばれたのが、そう呼んでもらえたのが、生涯で二度目の体験。
初めて呼んでくれたのは、私が初めて誘った男性。
あの、聳える巌のような、神父。
次に呼んでくれたのが、彼。
私が呼び出した、私だけの英雄。
その彼の、私を指した言霊。
それが、この上なく快楽だった。
ああ、私の名前を知ってくれている。
私の名前を呼んでくれる人がいる。
それが、どれ程に救いであるか。
どれ程の、安らぎであるか。
「こちらを向け」
心なしか、堅い声。
どこかに決意を孕んだ、声。
それが私の決心を鈍らせる。
もう、立ち去ろうと思っていた。
涙は、出来るだけ流したくない。
流すにしても、人前は嫌だ。
だから、部屋で泣こうと思った。
その決心が、揺らぐ。
ゆらゆら、ゆらゆらと。
「こちらを向け」
繰り返された、有無を言わさぬ強い響き。
その暖かさに負けて、私は振り返る。
その行為が如何に恥知らずか、おそらくは十分に理解し得ないまま。
そして、見た。
初めて、見た。
彼の、仮面の下。
彼の、素顔。
「目を逸らすな。しかと焼きつけよ」
その、顔。
焼け爛れて、赤黒く濁った、皮膚。
唇は、削ぎ落とされている。
頬骨は削られ、鼻と呼べる突起は元から存在しないかのよう。
目は、大きく真ん丸に見開かれている。
ひょっとしたら、瞼すらも失ったのか。
「……ア、サシン、それは……」
我知らず、二、三歩、後ずさっていた。
「勘違いするな。これは、己の意志で行ったもの。瞼をちぎったのも、鼻を削いだのも、唇を焼ききったのも、全ては己の意志。誰でもなくなることで、誰にでもなる。そうすることで、山の翁の名を受け継いだのだ」
知っていた。
その程度の知識、知っていた。
そして、痛感した。
知るという行為の、なんと儚いこと!
そんなもの、無知、無意味、蒙昧にすぎる。
如何なる知識も、彼の相貌を語るには矮小。
その、余りに苛烈な、意志。
それを語るに、己の浅慮をひけらかすなど、無恥にも程がある。
「どうだ、恐ろしいか」
その声が、遠い。
私の鼓膜が、千切れ飛んでしまったのだろうか。
「私を、恐れるか」
否定したい。
私は、露ほども貴方を恐れていない、と。
この膝の震えは、異なる感情の発露である、と。
「ならば、いい。私を嫌悪して、私の腕から逃れるならば、それを許そう」
違うの。
私は、違うの。
私は、こんなにも、貴方を。
貴方、だけ、を。
「しかし、己を卑下するのは、許さぬ。私がお使え申上げているのは、その程度の方ではない。自分の身体が人でない?それが如何程のことか!貴方はほれ、そんなにも美しいではないか!」
ああ。
ああ。
ああ。
「お間違えめさるなよ。今宵、貴方は私の醜さにより、私を恐れるが故に、私の腕から逃げたのだ。それ以外は在り得ぬ。己の身を恥じるような愚物が、私の主であるはずが無い。そのことを、ゆめお忘れになるな」
私は、駆け出していた。
ばちん、と、凄い音が鳴った。
それが、私の掌と、彼の頬が奏でた音であると、やっとのことで気付いた。
呆気に取られた、彼の表情。
私の頭の、遥か頭上にある、その顔。
私は、精一杯、跳躍して。
彼の首に、腕を絡めて。
その、存在しない唇に、私の唇を、合わせた。
歯と歯が、かちんとぶつかる。
その、どこか間の抜けた、音。
驚きで僅かに空いた、歯の隙間。
そこに、舌を滑り込ませてやる。
技巧など、あったものではない。
鼻息も荒い。
貪るような、口付け。
そこに、愛情なんて、無かったのかもしれない。
憐憫、だろうか。
意地、だろうか。
怒り、かも知れない。
それでもいい、そう思う。
とにかく、許せなかった。
何が。
そう問われても、分からない。
何がなんだか分からなかったが、それでも許せなかったのだ。
やがて息が続かなくなって、唇を離す。
そういえば、私の舌は、生血に塗れていた。
そんなことすら忘れてしまうくらいに、私は怒っていたのだ。
「主殿、何を……」
目の前にある、彼の素顔。
醜く焼け爛れ、おそらく虫にも愛されない、そんな顔。
その顔に、おそらく人を噛み殺すような笑みを向けてやる。
「……きなさい」
擦れた、声。
きっと、私が何を言ったのか、神様だって分からないはずだ。
然り、きょとんとした彼の表情。
それを愛しいと思ってしまったのだ。
文句がある奴は、雁首揃えて出て来い。
片っ端から、食い殺してやる。
「主殿、今、何と……?」
「私を抱きなさいと、そう言いました、この愚図!」
その瞬間、左腕を、蟲が這い回るような掻痒感が襲った。
この感覚は、覚えている。
令呪。
それを使ったときの感覚だ。
全く、笑える。
私は、これまでに二度、令呪を使った。
一度目は、心臓を抉り出させるために。
二度目は、無謀な戦を避けさせるために。
で、三回目がこれか。
最後の決戦を控えている今、それにどれほどの価値があるのか、計り知れない。
おそらく、長い聖杯戦争の歴史でも、初めてのことなのではないだろうか。
三度目の令呪、サーヴァントに対する掣肘として、他の二回よりも遥かに重要な意味を有する、令呪。
それを、己の性欲を満たすために使用する。
滑稽、ここに極まれり、だ。
それでも。
それでも、この一瞬だけ。
私は、私のことが好きになれそうな、そんな錯覚を抱いた。
「主よ……!」
彼は、私を押し倒した。
背中に感じたのは、冷たく堅いコンクリート。
ああ、もう少しムードのある場所で命じるべきだったかと、筋違いな後悔を抱く。
それでも、そんな自分が楽しい。
そんな感情、何時以来だろうか。
「主よ……主よ……!」
切羽詰った彼の声。
ああ、私はまたしても彼を侮辱してしまった。
そのことだけが、痛い。
でも、それ以上に嬉しかった。
びりびりと、まるで紙のように破かれていく私の衣装。
肌が寒気に晒されると、乳首がぴりりと縮こまる。
それでも、私は知っている。
この肌は、すぐに暖かくなる。
彼の手が、私の身体を温めてくれる。
きっと、それは泣きたくなるくらいに幸福だろう。
なのに。
何故。
私の瞳からは。
絶え間ない涙が、流れていくのだろうか。
「許してください、許してください、アサシン……!」
どこかで聞える、誰かが謝る声。
「済まぬ、済まぬ、主よ……!」
それに、もう一つ、間の抜けた声が、重なる。
ああ、修羅場だな。
そんな陳腐な感想を抱いた。
そのとき、一際強く、蝋燭の火が揺らめいた。
灯りに誘われた哀れな蛾が、それに飛び込んだのだ。
季節は冬なのに、そんな気がした。
◇
夢を、見ていた。
遠い、夢だった。
原初の夢よりも、更に遠い夢だった。
それは、違う他人の夢だった。
多分、一人の男の夢だった。
一人の、男。
自分の知らない、一人の男の夢だった。
遠い異国に、彼は生まれた。
今日の糧に喘ぐような、寒村。
人からも、神からも、時代からも忘れられたような、寒村。
彼は、其処に生まれた。
故に、彼は、外の世界に憧れた。
いや、憧れたのではないか。
彼は、恐怖したのだ。
このまま、誰にも知られることなく朽ちていくことに。
己という存在が、誰からも忘れられて朽ちていくことに。
彼は、誰よりも臆病だったから。
空腹よりも、夜の獣の遠吠えよりも、何よりも、一人であることを恐れた。
独りぼっちになることを、恐れたのだ。
だから、彼は悪魔の囁きに首肯した。
きっと、彼は気付いていたのだ。
それが、暖かいものではないと。
それが、己を不幸にする楔であると。
それでも、彼は首肯した。
悪魔との契約を、是とした。
それは、ひたすら恐怖ゆえに。
己が一人になっていく、その恐怖ゆえに。
全てを、打ち捨てた。
父を、母を、友を、そして神を。
それでも、一心に希ったのだ。
勇壮は叙事詩の英雄のように。
ああ、己も、誰かの中に息づきたいと。
そうすれば、自分は永遠に一人ではなくなる、と。
それは、愚かな望みだったのだろう。
誰もが一笑に付す、くだらぬ願い。
ならば、嗤えばいい。
彼を、嗤えばいい。
キグルイと憐れんで、愚か者と指差して、身の程知らずと蔑んで。
腹を抱えて嗤えばいい。
嗤うがいい、嗤うがいい。
息が切れるまで、嗤い尽くせ。
そうしたら、私が二度と嗤うこともできなくしてやる。
◇
瞼を突き通す陽光で、目が覚めた。
柔らかくて暖かい何かに包まれている。
ほかほかとして、麻薬のように眠気を誘う。
寝返りをうつと、腰を滑る布の感触。
まだ目を開けていないからハッキリしないが、おそらく清潔なシーツを敷いた、ベッドの上で眠っている。
きっと、コンクリートの上で目覚めると思っていたから、意外といえば意外だった。
ほとんど無意識に、私以外の温もりを探すが、それはどこにも見当たらない。
無情なことである。
そう思って、眉を顰める。
「起きたか、主よ」
それは、いつもの彼の声。
どこにも昨日の余熱は無い。
それが、どこまでも彼らしくて、笑いが堪えきれなかった。
布団を頭から被って、笑い声を殺してやる。
だって、これ以上、優しい彼を傷つけるわけにはいかないから。
「……もう、慣れた。そうやって気を使われるほうが、心外だ」
その、少しいじけた声は反則だろう。
私は、声をあげて笑った。
布団を、弾き飛ばして。
生まれたままの姿で、笑い転げた。
「……満足であるか」
「ええ、もう、大満足!」
眼の下を拭ってくれる、彼の長い指。
昨日、散々私を弄んだそれが、細長く美しいことに、今更に気がついた。
「……勝とう。でなければ、嘘だ」
「……はい。勝ちましょう、アサシン!」
既に、彼は仮面をつけている。
その、歪んだ笑み。
そこに、私は口付けた。
私は、微笑った。
仮面の下の彼の素顔も、きっと微笑ってくれているはずだ。
そんな、夢のような情景を、私は夢想した。