FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
目が、覚めた。
意外なほどに、さっぱりとした目覚めだった。
身を縮こませるような寒気も、それを助長したのだろうか。
瞼が、軽い。
視界が、一瞬で冴え渡る。
少し、首の後ろが痛い。
右手で摩りながら、あたりを見回す。
見覚えのある部屋、しかし俺の部屋ではない部屋。どうやら、客間の一つに俺は寝かされていたらしい。
布団を跳ね上げるように、起きる。
身体が、軽い。
それでも、がちがちと震える顎を疎ましく思いながら、急ぎ足で風呂場へと向かう。
太陽よりも早く起きてしまったのだろう、部屋の外はまだ暗かった。これでは、おそらく三時間と寝ていないのではないだろうか。
きっと、精神が興奮して、上手く寝付けなかったのだろう。未熟なことである。
肩を抱きながら、廊下を歩く。
途中、俺の部屋の前を通った。
耳を、欹てる。
すうすうと、安らかなセイバーの寝息。
それに、泣きたくなるほどの安堵を覚える。
そして、また歩いた。
真っ暗な脱衣所に着く。
手探りで灯りのスイッチを入れてやる。
檜造りの自慢の湯船、その蓋を取ると、白い湯気が溢れ出す。昨日の残り湯ではあるが、冬の早朝、暖かい湯は何よりのご馳走だ。
手早く寝巻きを脱ぎ捨て、二、三度、掛け湯をする。
分厚い布団の中にまで冷気の侵略は及んでいたのだろう、多少冷めたはずの残り湯が、声が出そうになるくらいに熱く感じた。
最後に頭から湯をかぶって、それから湯船に浸かる。
痺れるような感覚に、思わず目を閉じる。
息が止まるような数瞬。快楽と苦痛が綯い交ぜになって、瞼の裏がちかちかする。
それでも、満足の溜息を吐き出す。
真まで冷えた体に、じんわりと熱が染み渡っていく。
最後に残っていた眠気の残滓が、汗と共に抜け落ちていく。
ゆっくりと目を開く。
雲の中みたいな、濃い湯気。
ぽたぽたと、前髪から滴る水滴が、水面に波紋をおこしている。
それを見つめながら、思った。
夢じゃないんだ、と。
これは、現実なんだ、と。
一昨日の夜、憧れ続けていた女の子と結ばれて。
昨日の夜、その子を攫われた。
「なんて、無様…」
両腕を、思い切り水面に叩きつける。
ばしゃりと、大量の湯が跳ね散る。
その幾らかが、水滴となって眼球を打つ。
だから、流れたのは眼に入った残り湯だけ。
それ以外のものが流れたなんて、気のせいだ。
頬肉を、噛む。
じわりと、血の味。
錆びた鉄の味が、吐き気を誘う。
そして、思うのだ。
こんなものを口にしなければ、彼女は生きていくことすら出来ないというのか。
ならば、それは、どれほど苦しいことなのだろう、と。
episode74 それでも朝は、やってくる。
「死徒って、何のことか分かる?」
家に帰っていきなり、イリヤがそう言った。
時間は、深夜だ。そもそも学校に向けて出発した時間からして日付を跨いでいたのだから、そろそろ早朝と呼んだほうがいい時間帯になりつつある。
ここにいるのは、俺、セラさん、ランサー、そしてイリヤの四人。あとは、全員が意識を失って床に伏せている。
桜は、凛との戦闘とランサーとの契約で、魔力を使い果たしてしまった。おそらく、今日一日は動くことも出来ないだろう。
リズは、既に一日の稼働時間の限界を超えてしまった、とのこと。ホムンクルスがどうとか、難しいところはよく分からなかったが、命に別状はないらしい。
一番危ないのが、セイバーだ。
あのとき、ヨハネが使役した、蟲。
アポルリオン。
人類を粛清するために神が使わした、滅びの蟲。
その毒針を、もろに喰らったのだ。
五ヶ月間、死に勝るようなあらゆる苦しみを味あわせ、しかし死は遠ざかるという、猛毒。それは聖剣の鞘をもってしても容易に解毒がかなうものではなかったようだ。
ヨハネとアサシンが立ち去った後、セイバーはふらりと倒れた。きっと、緊張の糸が切れたのだろう。
身体中を神話の毒で蝕まれながら、しかし俺なんかのために戦ってくれた彼女を想うと、涙が出そうになる。
ぜえぜえと息の荒い彼女を背負って、家までたどり着いたのが午前の二時。彼女は今、俺の部屋に敷いた布団の中だ。
『サーヴァントがあれくらいで死ぬかよ。明日にはけろりとしてる。戦士に気を使いすぎるのはかえって残酷だぜ、小僧』
彼女を看病しようとした俺に、ランサーはそう言った。
たしかに、彼女は誇り高い。もし、目覚めたときに眼の下に隈を作った俺がいれば、彼女は間違いなく自分を責めるだろう。
今日、誓ったのだ。
彼女と一緒に、戦うと。
背中を預けて、戦うのだと。
それは、相棒を信じるということ。
ならば、今俺の為すことは、彼女の苦しげな寝顔を見続けることでもなければ、その手を握り締めることでもない。
俺は、出来るだけ静かに障子を閉めた。
「吸血鬼、のことじゃあないのか?」
「概ねのイメージとしては正解。でも、それだけしか言葉が出てこないなら、細かいところは知らない、そういうことね」
緑茶を綺麗に啜りながら、イリヤはそう言った。
純和式の、居間。
そこにいる日本人は自分だけ。
セラさんはさして苦しげでも無く正座をしているが、イリヤは胡坐を組み、ランサーは行儀悪く片足を立膝にしてくつろいでいる。
時計の針の音ですら五月蝿いような、静寂。
時折響くのが、お茶請けの煎餅を、ランサーが豪快に齧る音。
「…じゃあ、死徒っていうのは、何物だ?」
イリヤが憂鬱そうな視線を寄越す。
きっと碌でもない回答が返ってくる、それは予知にも等しい直感だった。
「定義は、難しいわ。人以外の動物でも死徒になることは可能だし、植物が死徒になったっていう稀な例も存在する。己を現象化して不死を得た者、己を一つの世界として不死を得た者。趣味で血を飲む者もいれば、飼い主の真似をして血を飲み始めたっていう個体もあるみたいね。ただ、あくまで一般的な死徒をイメージして一番大きな枠を当てはめるならば、『不死に限りなく近い、しかし生き永らえるために人の生血を吸う者』、こうなると思うのよ」
テーブルに肘をついて、その上に顎を乗せた姿勢。
しどけなく胡坐を組んだ足。
だらしないはずのそれらが、何故だか優雅で、見惚れそうになる。これが生まれつき高貴な者と庶民の違いだろうか。
「…あの野郎は言ったな。代羽は、死徒だと。それは、そういうことなのか…?」
「あの雰囲気じゃあ、けちな脅しってわけじゃあないと思う。多分、あれは真実。マキリ代羽は、死徒。不死者にして人の血肉を貪るカニバリスト、そういうことでしょうね」
ぐらりと、視界が歪む。
光が、音が、どんどん遠くなる。
イメージが、浮かんだ。
学校だ。
学校の、廊下。
騒がしく、しかし不思議と耳に残らない笑い声。
ざわついた足音が其処彼処から響いてくる。
周囲を満たす人の気配、しかし、視界には、彼女以外誰一人映らない。
窓から差し入ってくる、煌くような陽光。
きらきらとしたその輝きが、目の前の少女の黒髪の上で滑り落ちていく。
あまりにも美しいものは、光すらも恐れ戦くのだろうか。
そう、思ったのだ。
そして、眼が合う。
黒い、墨汁で出来た染みのような、瞳。
それが、にこりと微笑ってくれる。
そして、言うのだ。
こんにちは、今日も能天気そうでなによりです、衛宮先輩。
その、優しい笑み。
白い、歯。
紅玉を溶かしたような、唇。
それが、いつの間にか、真っ赤に染まっていた。
赤く、赤く。
とろりとした液体が、口の端から毀れていく。
あれ、代羽。
それ、なんだ。
その赤いの、何だ、それ。
ああ、そか。
昼飯、ミートスパゲティ、食べたんだ。
あの食堂、何でも肉の味しかしないあの食堂の中じゃあ、比較的食えるほうだもんな。
まだ、ましな料理だ。
それとも、トマトジュースでも飲んだのかい、代羽。
でも、それにしちゃあ、嫌に粘着質じゃあないか。
代羽、それは、なんだい?
ああ、わかりませんか、衛宮先輩。これはね、遠坂先輩の、血液ですよ。
にっこりとした、笑み。
恍惚とした、笑み。
ちろりと、紅い舌が顔を出す。
そして、舐め取るのだ。
口の周りについた赤い液体を、さも美味しそうに。
美味しかったわ。遠坂先輩は、とても美味しかった。綺麗な人って、内臓まで美しいんですね、勉強になりました。
ああ、そうらしいぞ、凛。
よかったな、凛。
美味しくて、美しかったらしいぞ、凛。
最高の褒め言葉じゃあないか、凛。
なのに、凛。
お前は、今、どこにいるんだ?
わかりませんか、衛宮先輩、今、遠坂先輩がどこにいるのか?
いつしか、目の前にいた、少女。
その口が、淫らに開かれる。
糸を引く、桃色の唾液。
舌が、淫靡にうねる。
ほら、ここにいますよ。
その小さく薄い唇が、俺のそれと、重なる。
鼻を摘まれる。
息が出来なくなる。
反射的に開いた、口。
そこに滑り込んできた、うねうねとした何か。
少しつぶつぶしていて、何より鉄臭い。
それが、俺の口蓋を蹂躙する。
跳ね回るように、犯していく。
人形のように呆けた俺を、意のままに操る。
やがて、送り込まれてくる液体。
彼女の唾液と、誰かの生血の混合液。
それに、何か、異物が混じっている。
口の中に絡みつく、細長い何か。
目の前の少女を押しのけて、口中からそれを取り出す。
つう、と、赤い液体の絡みついたそれは。
黒く、ほんの少しだけ癖のある、艶やかな長い髪の毛、だった。
ああ、まだそんなところに残っていたのですね、遠坂先輩。
少女は、俺の手から、凛の一部を取り上げて。
大きく開いた口の中に、放り込んで。
くちゃくちゃと、さも美味しそうに、咀嚼するのだ。
「おい、坊主!」
肩を揺さぶられて、起きた。
ああ、今のは、夢だったんだ。
でも、それ以外は、夢じゃあなかった。
ほんの少しの安堵と、それ以上の絶望。
知らずに、涙が流れていた。
だくだくと、頬に熱さを覚えるくらいには。
「衛宮様、何を勘違いされているかは知りませんが、まだ遠坂の当主は死んでいません。まず、それをご理解ください」
この上なく冷静な、声。
セラ。
その声が、俺の中にある一番理不尽な部分を刺激する。
「…何で、何で、そんな気休めが言える…!?凛は、攫われた!もう、戻ってこないかもしれないのに!」
目の前にあったちゃぶ台に、精一杯の怒りを叩きつける。
振り上げた両腕を、叩きつけてやる。
真っ二つになったら愉しいと思った。
でも、やっぱりちゃぶ台はそのままで。
俺の腕が、痺れただけだった。
「…セラの言うとおりよ。少なくとも、今の段階でリンは死んでないわ」
「…何で、だ?」
「坊主、お前、頭が回るようで周りが見えてねえな。あの嬢ちゃんが喰われたなら、なんでセイバーは現界していられる?」
あ。
そうだ。
セイバーは、まだいる。
単独行動のスキルの備わっていないはずの、彼女。
しかも、毒に侵されて、疲弊している彼女。
その彼女が、まだこの世界にいるということ。
それは、凛が、まだ生きていると。
先程とは違う種類の涙が、頬を濡らす。
きっと、口はあんぐりと、開けたまま。
魂が抜けたような、呆けた表情を浮かべていただろう。
それでも、よかった。
ああ、生きている。
凛が、生きている。
そのことが。
それだけで。
これほどに。
ただ、安心した。
「でも、一時間後に生きているとは限らないわ。ただ単に、気紛れで生かされているだけかもしれない。それに、生きていても―――」
イリヤは、口を噤んだ。
そうだ、彼女の言うとおりだ。
凛は、今は生きている。
分かっているのは、それだけ。
一秒後に生きている保障なんて、どこにもない。
それに。
生きているとしても。
生きているほうが、残酷な。
そういう状況にないと、何故言い切れるか。
立ち上がる。
こんなところで、油を売っているわけにはいかない。
とにかく、何かをしないと。
ここではないどこかで、何かをしなければ!
「おう、坊主!どこへ行くつもりだ!?」
「そんなの、知らない!でも、ここにいても何にもならないじゃあないか!」
「お前が闇雲に足掻きまわったところで、どうにかなるもんでもねえだろう!」
「でも、それでも!」
この場にいても、何にもならない。
俺は、走った。
とりあえず、玄関に向かって。
その後、どこに行くのだろうか。
分からない。
それでも、ここにはいられなかった。
だから、走ったのだ。
「ったく、しゃあねえな…」
そんな呟きが、すぐ後ろから聞えて。
首に、鋭い衝撃を受けた。
そこまで、覚えている。
そこまでしか、覚えていない。
◇
東の空に浮かんだ灰色の雲、それに色がつき始めた頃。
居間のちゃぶ台の上には、人数分の朝食が完成していた。
いつもの、オーソドックスな、日本の朝食。
出汁巻き。
昨日の夕食の残りの、芋と野菜の煮付け。
焼き魚、今日は少し奮発して、マナガツオの西京焼きだ。
納豆に、漬物。
あとは、若布の味噌汁と白いご飯。
これ以上無い、そう胸を張れる日本の朝食。
きっかり、八人分。
俺の分。
桜の分。
セイバーの分。
ランサーの分。
イリヤの分。
セラの分。
リズの分。
そして―――。
「お、旨そうだな、坊主」
「おはよう、ランサー」
にこやかに眼を細めながら、一番乗りはランサーだった。
彼の象徴とも言える、紅い魔槍と蒼天のような皮鎧は身に纏ってはいない。切嗣が使っていた、俺には一回りから二回り大きな寝巻きを、少し窮屈そうに着ている。
「言峰の野郎は、こんな気の効いたもん、用意しやがらなかったし、バゼットもこっちには全然無頓着だったからなあ…」
「言峰って、やっぱり、お前は…」
「ん?ああ、まだ言ってなかったか。俺は元々バゼットっつう女に召喚されたんだがな、言峰の野郎に不意打ちを喰らって、令呪を奪われた。それ以来、奴の使い走りをやらされてたんだよ」
あっけらかんと、彼はそう言い切った。
そういえば、忘れていた。
俺は、一度、こいつに殺されかけたんだ。
あの、冷たい、人を人と理解しながら、それでも義務を遂行する、瞳。
あれを思い出しただけで、膝が震えてくる。
その男が、俺の作った料理を舌舐めずりしながら見回しているというのは、如何にも不思議な光景だった。
「なあ、早く喰おうぜ。料理は熱いうちが華だろう?」
「駄目だ。皆が起きてくるまで、我慢しなさい」
そう口にしてから、心の中で笑った。
だって、これでは聞き分けのない子供と、お母さんの会話だ。
そういえば、セイバーにも似たような稚気があった。
全く、英霊というものは理解し難い。
「そんなこと言ったってよ、今日は誰も起きてこないぜ、きっと」
何気ない、口調。
思わず聞き流してしまいそうになったが、到底無視しえるような内容の言葉ではなかった。
「ランサー、それはどういう…?」
「んー?言葉通りだ。今日は、きっと昼過ぎまで誰も起きてきやしねえよ、多分な。さっき一通り回ったがな、アインツベルンのお嬢ちゃん達と俺のマスターは魔力切れ。セイバーも、どうやら峠は越えたようだがまだ辛そうだったぜ。無理矢理起こして飯を食わしても仕方ないだろう?」
そこまで、考えていなかった。
昨日、時間的には既に今日だったが、イリヤは特に辛そうなふうでもなく話していたから、気付かなかった。
イリヤも、セラさんも、キャスターと戦ってくれたんだ。
キャスターも、あれで敵には容赦がないから、きっと殺すつもりで、本気で干戈を交えたはずだ。
それを、生き残っただけでも、賞賛に値するのだ。力など使い尽くしていて当然、あのように話せたこと自体が驚異的な精神力の賜物なのだろう。
「ひい、ふう、みい…。それにしても、一つ多くねえか。俺の分だけ二人前用意してくれてたんなら別だがよ」
「…それは、凛の分だ」
我ながら、声が堅い。
でも、未熟を恥じるわけではない。
むしろ、平然としているのが強さなら、そんなものはいらないと思う。
「ふーん、じゃ、これだけは置いておかなくちゃいけねえな。可愛い恋人の分だ、喰ったら虫歯になっちまう」
ランサーはそう言って、箸を取った。
俺も、それに習う。
とにかく、ここにいる二人以外に誰も食べないなら、これ以上待って料理を冷めさせてしまうのも気が引ける。それに、食べれるときにはしっかり食べておかないと、いざというときに動けなくなる。
今、俺がするべきこと。
それは、闇雲に凛を探して街を彷徨うことではない。
しっかりと英気を養い、唯一のチャンスを我が物とすること。
それが、彼の生き方では無かったか。
そんなことを考えているうちに、ランサーの前に並べた皿が、すっかり空になっていた。
全く無遠慮に、他人のおかずに手を伸ばすランサー。
俺も、負けじと食べる。
既に、おかわりは二杯目だ。
「おう、それでいい。喰うべきときは、たらふく喰う。眠るべきときは、泥みたいに寝ればいい。戦うべきときは、自ずとやってくる。そのときに動けない奴は、カスだ」
からからと笑うランサー。
その言葉に、無言で首肯する。
味噌汁を、啜る。
少し、しょっぱい気がした。
多分、気のせいだ。
◇
静かだった。
おそらくは雀だろうか、小鳥の鳴き声と車のエンジン音が響く以外、何の音も聞えない。
陽は、暖かい。
最近は冬とも思えないような快適な気候が続いている。過ごしやすいといえばこの上ないが、一抹の寂しさがあるのも事実だ。
そんな、どうでもいい思考を展開しながら、俺は天井を見上げていた。
眠ろう、そう思ったのだ。
皆に比べれば比較的ましな状態ではあるものの、睡眠不足と魔力の枯渇はわりと深刻なところにあると、ランサーに諭された。
それを一度に解消する、一番手っ取り早い方法、それが睡眠だ。
だから、俺は客間に敷きっぱなしになっていた布団に横になった。
それでも、中々寝付けない。
当のランサーは、索敵に赴いてくれた。おそらく一番怪しいマキリの屋敷、他にも空気の淀んだ場所を幾つか知っているから任しておけ、そう言って彼は出て行ったのだ。
歴戦の勇士であり、ルーン魔術の使い手でもある、クー・フーリン。俺が下手に動いては、彼の邪魔をすることにもなりかねない。
ならば、今、俺に出来ることは、身体を休めることくらいだろう。
しかし、それ以外にも、何かあるのではないだろうか。
何か、無いのか。
凛は、今も俺の助けを求めているはずだ。なのに、俺はこんなところで寝転がっているのが、最善なのか。
分からない。
ぐるぐると、同じ場所を堂々巡りする思考。
そして、結局考えるのは、凛のこと、代羽のこと。
何故、彼女は。
俺と同じ、魔術を使えるのだろうか。
凛は、そしてキャスターは言った。
この魔術は、規格外だ、と。
確かにそうなのだろう。
それは、何となく分かる。
それでも、ならば、あれだって規格外だ。
蟲を、生命を、投影する、魔術。
そんなの、等価交換どころじゃあない、もっと重要な何かを、無視している。
生命を、生み出す。
そんなの、まるで、神様じゃあないか。
じりりりり、じりりりり。
けたたましいベルの音が、鳴り響く。
時代から忘れ去られたようなダイヤル式の黒電話、その音。
じりりりり、じりりりり。
ああ、五月蝿いな。このままじゃあ、皆が起きてしまう。
「はいはい、ちょっと待ってくれ」
何気なく歩いて、ふと気付いた。
もしかして、これは代羽からの電話なのではないか、と。
とたんに跳ね上がる、心臓。
足が独りでに走り始める。
どたどたと、この上なく滑稽に。
その間も、絶え間なく鳴らされる、心臓によろしくない金属的な音。
急いで、受話器を取る。
「…もしもし、衛宮、です」
しばしの、間。
受話器の向こうからは、何も聞えない。
「もしもし。…代羽、なのか…?」
やはり、何も聞えない。
焦りが、じりじりと嵩を増していく。
まるで、足元を火で炙られるかのような、焦燥感。
もう、駄目だ。
溢れる。
叫びだす。
そう、思った瞬間、あちら側から声が、した。
『…どうやら、凛はまだ帰らぬか、衛宮士郎』
その、声。
重厚で、人の心の深奥に抉りこむかのような、声。
聞き覚えがある。
つい、最近だ。
最近、この声を聞いたぞ。
そういえば、昨日も聞いた。
金色の、圧倒的な気配を持つ男、奴を従えていたのが、この声の持ち主ではなかったか?
覚悟の声で、誰何する。
「お前、もしかして、言峰―――!」
『時間はあるかな、衛宮士郎。もし都合が合うならば、昼食でもどうだ。ついでに、私の知る全て、貴様が知りたい全てに答えようではないか』
ちらりと、時計を見る。
いつのまにか、十一時を回っていた。
うつらうつらしながら、それでも少し眠っていたのだろうか。
「…いいだろう、場所は?」
『商店街の外れに、泰山という中華飯店がある。そこがお気に入りでな、中華料理は大丈夫かね?ああ、聞くまでも無いことだった。凛の得意料理がそれなのだから、恋人たる君がそれを嫌うはずがない』
「…すぐに、行く」
『落ち着け。十二時きっかりだ。それと、もし来るなら一人で来たまえ。それ以上ならば、私は君を食事を共にすることが出来なくなるだろうから、そのつもりでな』