FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
紅洲宴歳館・泰山。
昔、切嗣に連れられて、一度だけ行ったことがある。
料理の質は上々で、値段もそれほど高くはない。
町の中華料理店にしては、穴場といっていいだろう。
しかし、唯一にして絶対の欠点が。
それは、辛いのだ。
『辛』という一文字に『からい』と『つらい』の二つの意味を込めて、それでもなお生温いと思えてしまうほど、その料理は強烈である。
逆に言うと、さほど辛くない料理、例えばあんかけ系や揚げ物系なんかは、他の料理の非常識さを考慮に入れても、なお食べる価値を有する。
一言で言ってしまえば、魔窟。
そして、なんだかとっても勿体無い店。
それが、紅洲宴歳館・泰山なのである。
episode75 中華料理を食べに行こう!
昼下がりだった。
太陽は、分厚い雲に覆い隠されている。
薄暗い昼間、身を切り裂くような冷たい風が吹き荒れる。
最近は冬とも思えない穏やかな気候が続いていたせいか、思わず首を竦めてしまうほどの寒さだ。
灰色の町並み。
朝は染み入るような陽光が眩しかっただけに、この無彩色の世界が一層寒々しく感じる。
人通りは、驚くほど少ない。家からここまで、一切の人間とすれ違うことは無かった。
何も知らない普通に人たちも、恐れているのかもしれない。まるで、病魔の到来を息を潜めて見送る、中世の村人のように。
ならば、それは在る意味において、正しい行動だ。
人は、己の理解の及ばないものを、極力遠ざけようとする。
何のことは無い、それが最も安全な手段だからだ。
一番、生き残る可能性が高い。
それは、今、この状況においても同じことだろう。
だから、これがあるべき姿なのだ。
そう、自分に言い聞かせながら、歩いた。
◇
マウント商店街。
ふざけた名前だが、最近流行の郊外大型スーパーと正面からやりあって、なお優位に立つという男気溢れる店ぞろい。
そして、幼い頃から俺を知ってくれている人達が、多い。
『お、士郎君、今日は鯵のいいのがはいってるんだが、どうだい?』
『やあ、士郎君、見てくれよ、この林檎。これ三つで三百円だ』
『士郎君、確か今日が入学式なんじゃあなかったのか?もってけ、祝い代わりだ!』
そんな、落ち込むことも許されないような、賑やかさ。
人情味溢れる、そう言葉にしてしまうと陳腐だが、俺はこの通りが大好きなのだ。
それが、寒風吹き荒ぶ鈍色の空の下、あらゆる精気が吸い取られてしまったかのよう。
誰一人、声をかけてもくれない。
視線を向けると、面倒臭そうに逸らされる。
それが、この街の置かれた状況を如実に顕しているのだろうか。
そんな、寂れたような雰囲気の商店街の外れに、泰山はある。
「いらっしゃいませ、お一人でしょうか?」
「いえ、待ち合わせがありますので」
「そうですか、どうぞごゆっくり」
笑顔で出迎えてくれた店員さんに礼を言って、店内を見回す。
清潔な白と、幾何学模様的な赤。如何にも中華飯店といわんばかりの内装が、ごてごてと意匠を凝らしたものよりも好ましいと思う。
入り口から見渡せるところに、待ち人の影は無かった。
ゆっくりと店の奥に足を進める。
鼻をつく、妙に辛い空気。きっと、唐辛子満載の料理が、厨房にて産声を上げているのだ。
目を軽く瞬かせ、それでも奥へ歩く。
そこに、奴はいた。
店の一番奥、壁際の席を占領するかのような、巨体。二メートル弱の身長というのは、日本人としては在り得ないほどの巨躯といっていいだろう。
おそらく、ほぼ同時に互いの存在を認識したのだろうか、奴の瞳が愉しげに揺れる。まるで、仕掛けにかかった獣を見つめる猟師のような瞳だ。
「よく、来た。しかも、言いつけどおり一人でか。なるほど、君の壊れ方も中々愉快だな」
奴の前には、空になった大皿。俺の到着を待たずに食事を終えているあたりは、らしいといえばらしいのかもしれない。
その真正面の席に、空の茶杯が置かれている。
どうやら、ここに座れということらしい。
「見ての通り、私の昼食は終っている。君も何か頼むといい」
無言で奴の向かいの席に座る。
円卓。
それほど大きなものではない。
少なくとも、正面に対するこの男の威圧感を薄れさせてくれるほど、有難い距離は存在しないようだった。
空の茶杯に、店員さんがお茶を注いでくれる。
湯気と供に立ち昇る爽やかな香り。
ジャスミン茶のようだ。
「御託はいい。さっさと本題に入りたい」
「先に食事を済ませておくことを薦めるよ。私の話を聞いた後であれば、食欲の欠片も残らんぞ」
「…ふん、『来るなら一人で来い』、そう言ったわりには気を使ってくれるんだな。てっきり、あの野郎がいるのかと思ったんだが」
昨日の、夜。
混沌とした戦場の空気を、一瞬にして支配した男。
古代メソポタミアに君臨した、神と人の混血。
英雄王、ギルガメッシュ。
「あの男は、気紛れでな。一応は私がマスターであるのだが、言うことを聞こうとはせん。進行方向の定まらぬ竜巻のような男だ、あれは」
呆れたような表情。
しかし、その目は漆黒のまま。
如何なる感情も、そこから読み取ることは出来ない。
「じゃあ、ここで俺を捕まえるとか、有利な状況で交渉するとか、そういうつもりはないのか?」
「ああ、それは勘違いだな。君一人を呼んだのはな、もっと単純な理由からだよ。これでも神に仕え、清貧をもって是とする身ゆえ、あの人数全員で来られると財布の厚さが些か心もとないのだ」
奴は、手元にあった小さな茶器を口まで運んだ。
俺もそれに倣う。
熱すぎない、適度に暖められた茶器が、冬の風に痛めつけられた指先には心地いい。
口元までそれを運んでやると、ふうわりと気持ちのいい爽やかな香りがした。
一口、啜る。
口中から鼻腔に抜ける、花畑のような香気。
それが、食欲を沸き立たせる。
「何でも頼むといい。君一人の胃袋を満足させるくらいは出来よう」
「いい。自分の分は自分で出す」
「まあそう言うな。親を亡くして独力で生計を立てている子供と食卓を供にしてその財布を軽くさせたのでは、吝嗇家との謗りを免れんだろう。ここは、私の名誉を守るためと思って折れてくれ」
苦笑に歪んだ頬。
何故だろうか、そこに一握りの安堵を感じてしまったのは。
「さて、君は私に尋ねたいことがあるのだったな。何でも答えよう、私の知る限るの事実の全てを」
その視線は、神の僕に相応しく、迷い子の遥か上から。
その瞳は、新しい玩具の箱を開ける手前の子供のように。
要するに、だ。
こいつは、楽しんでやがる。
そう思っただけで、耐えがたい殺意を覚えた。
「…まず、聞きたい。あんたは俺の疑問に答えてくれる、そう言ったが、そのことであんた自身に何の益がある?少なくとも、今の俺には、相応しいような対価は用意できそうにない」
ふむ、と、腕を組んだ目の前の男。
一つ一つの動作が重々しく、しかし少しも鈍重ではない。
隙のない所作。
その動きを見れば、一目瞭然だ。
こいつは、強い。
「まず、勘違いがあるようだから、そこから正しておこう。私は君との対話に関して、如何なる報酬も要求しない。それでも、あえて私が欲するものがあるとするならば、それは君自身の苦悩に他ならない。つまり、趣味と。そう言い換える事が出来るだろうか」
趣味。
人の悩み苦しむ姿を観察するのが、趣味かよ。
全く、ここまで神父らしい神父も、初めて見た。
「衛宮士郎、趣味というものの定義はな、如何に労力を裂こうが苦にならず、しかし何ら生産性も無い、そういうことだ。私は君に真実を告げることで何ら益も被らない。しかし、そのことをもって無上の悦びを得ることができる。これを趣味といわず、何と言う?」
「…もういい。要するに、俺は気兼ねなく聞きたいことを聞けばいい、そういうことだな?」
「飲み込みが早くて助かる。しかし、問うということの本質は、相手に己の器量を指し示すということだ。愚鈍な質問は自分の価値を貶めるぞ。そのあたりには相応の注意が必要かも知れんな」
奴は、一度茶を啜った。
俺も、それに倣う。
暖かい湯温が、乾いた空気に痛めつけられた咽喉には優しいようだ。
「…じゃあ、まず一つ。あんたは、この戦いで、何がしたい?あんたの目的は何だ?まさか、それも趣味と、そういうつもりか?」
「くく、そのように逃げ道を殺した質問は些か不快だな。しかしまあ、趣味と、そう言い切るには、この身を縛る枷はやや重過ぎる。私は、いや、代々の監督役はな、聖杯戦争のゲームマスターでありながら、聖杯を託すに相応しい人物を選定し、それを影ながら補佐すること、それを責務として負ってきた。第四次聖杯戦争における私の父などと同じく、な」
聖杯に相応しい人物の、選定?
それは、一体?
「分からんか、衛宮士郎。至極単純な話だ。この地における聖杯は、真実神の血を受けた聖杯ではない。そういう意味では贋作である。しかし、この贋作は本物と同じく所有者の願いを叶える、願望器としての役割を備えている。そこが、最も厄介なところだ。何故なら、このように、極東のちっぽけな島国の、それも片田舎で行われる黴臭い儀式如きで、下手をしなくても世界の趨勢が変わるのだからな」
「…言いたいことは、何となく分かる」
「本物であれば、教会はその存在価値の全てをかけて奪取にかかるだろう。しかし、表向き偽物と判明している以上、過激な行動は取り難い。教会と協会は、一応の不可侵協約を結んでしまっているからな」
「…それで、教会側の派遣した監督役が暗躍すると、そういうことか」
言峰は、鷹揚に頷いた。
「聖杯戦争の本当の目的、それはここでは割愛しよう。帰ってからアインツベルンの小娘にでも尋ねるがいい。ともかく、いわゆる『魔術師』が聖杯を手にして、勝手に世界の外側に旅立つ分には、我々としては全く問題はない。しかし魔術師には変わり者が多い。中には本気で世界の滅亡を望むような愚か者も存在する。そう言った危険な手合に聖杯を渡さない、そしてあわよくば聖杯を教会の手で確保する。それが、監督役の真の使命だ」
世界の外側。
俺には何のことか、ちんぷんかんぷんだ。
だが、一つ、分かっていることがある。
そんなこと、どうでもいい。
それだけは、間違いない。
「…じゃあ、あんたは聖杯なんてどうでもいい、そういうことか?一切の危険の無い人物に聖杯が渡れば満足と、そういうことなんだな?」
「結論を急くな、衛宮士郎。私は今、監督役の存在する意味について語ったに過ぎない。私自身のことは、まだ何一つ語った覚えはないぞ」
奴の、目を閉じたままの、頬に刻まれたような笑み。
そこには、探求者としての苦悩と悦楽が、ほぼ等分に存在していた。
「私はな、確かに監督役として存在している。そして、相応しい者がいるならば、その者に聖杯を渡して是とするつもりであった。しかし、人の身の悲しさよな、こうしていると欲が出てくる。私にも、叶えたい望みというものは在ったらしいのだ」
「…それは、俺が聞いても、構わないのか?」
「思ったよりも臆病なのだな、君は。しかし、最初にこう言ったはずだ。『私は君のあらゆる疑問に答える』と。その中には、当然私自身に関する事項も含まれる。例外は、存在しない」
「じゃあ…」
言峰は、その大きな掌を俺のほうに向けた。
ごつごつとした、古木のような指先。
所々、そして打突部位の悉くが、瘤のように盛り上がっている。
「悪いが、少しだけ待って欲しい。物事には然るべき順序というものが存在する。私が聖杯を求める動機は、最後に語らせてもらいたい」
…情報交換というよりは、一方的に教えてもらっている立場なのだから、贅沢は言えない。最終的に答を得ることが出来るならば、順番はさして重要ではないはずだ。
「…なら、違うことを。昨日の夜、あの金色の男、ギルガメッシュが、代羽を指してこう言ったな。『黒い聖杯』、と。あれは一体どういう意味だ?それに言峰。お前も、まさか代羽のことを知っていたのか?」
「質問は一つ一つで頼みたいものだな、衛宮士郎」
奴は再び茶を啜った。
ほう、と、満足げな吐息。
空になった茶杯に、どこからか現れた店員が茶を満たしていく。
奴はそれに笑顔で応え、その後姿を見送ってから口を開いた。
「その質問に答えるには、少しばかり昔語りをせねばならない。君は、時間のほうは大丈夫かね?」
◇
こえ。
声。
どこから。
どこから、声。
声が、する。
ぼわぼわと、耳道に響く。
萎びた鼓膜が、辛うじて己の責務を果たす。
「…ください」
何を?
何を、下さい?
私の、命?
駄目よ、絶対に。
命は、あげられない。
いくらあんたのお願いでも、命だけはあげられない。
だって、私が死んだら、あの馬鹿が悲しむじゃない。
絶対に、泣いちゃうじゃない。
だから、残念でした。
私の命は、あげられません。
もう、手も、足も、一本ずつしかないけれど。
命も、たった一つしかないから。
それは、もうあいつに捧げたものだから。
貴方なんかに、絶対にあげられません。
「起きてください、遠坂先輩」
ああ、そうか。
起きて、ください、ね。
なんだ、そんな、勘違いさせないでよ。
なんだかとっても恥ずかしいこと、考えちゃったじゃない。
ゆっくりと瞼を開ける。
ぼやけた視界、そこに映りこんだ美しい少女。
間桐、代羽。
いや、その呼称は正しくないだろう。
マキリ、代羽。
蟲使いの一族、マキリの当主。
それならば、相応の敬意を持って応対しなければいけないだろう。
「…目覚めは、どうですか?」
口の中が、乾いてる。
じゃなけりゃ、唾の一つでも吐きかけてやれたのにな。
「…頭が、がんがんする。それに、身体の輪郭がぼやけてる感じ」
「すみません、それは薬のせいです。今日一日は我慢してください」
…笑いを堪えながら、そう言いやがった。
なんでだろう。
こいつに笑われると、無性に腹が立つ。
なんか、決して負けてはならない存在に負けたような、横綱が十両に転がされたような、そんな感じだ。
「はい、あーんしてください」
いつしか、銀の匙が、口元に突きつけられていた。
全く、馬鹿にしやがって。
いいじゃなか、存分にこき下ろしてやる。
これでも、私は料理が得意なんだ。
「…あーん」
「はい、素直でよろしい」
口の中に放り込まれたのは、程よく冷まされた、粥だった。
もぐもぐと、咀嚼する。
…美味しいじゃないか、クソッタレ。
「どうですか」
「…美味しいわ、多分、私よりも」
「ふふ、私、貴方のそういうところは大好きです。如何ですか、もう一口?」
「…私は、あんたのそういうところが大嫌いよ。でも、もう一口頂くわ」
全く、いけ好かない。
何で、こいつに足の一本くらいならあげてもいいと、そう思ってしまったんだろうか。
柄でもない母性本能に絆されたか?
そんな気もするし、違う気もする。
もっと、私の一番奥の何かが命じた気がする。
でも、多分気のせいだろう。
私は、こいつのことなんか、知らないはずなんだから。
そして食事は終わり、狭い部屋の中、二人きりでしばらく経ち。
「退屈、ですね…」
身動きはとれない。
四肢と意識が切り離されたよう。
よほど強い薬でも打たれたのだろう。
もしかしたら、何か魔術的な要素でもあるのかもしれない。
いずれにせよ、大事なのは結果だけ。
身じろぎ一つできない。
まあ、例え薬も手枷も無かったとして、手足が一本ずつしかない私には逃げることなんて出来ないんだろうけど。
「御伽噺をしましょうか」
私をそんな状態にしている張本人、マキリ代羽が呟く。
「そうね、退屈をしないものなら歓迎よ」
仰向けに寝転がったまま、視線だけを彷徨わせる。
声の源は、辛うじて確認することが出来た。
壁にもたれ、腕を組んだ彼女。
その視線は、物憂げな様子で中空を漂っている。
「ご期待には添えそうにありませんね、これはとても退屈な御伽噺だから」
彼女は何かに憑かれたような、疲れた表情で言った。
「むかしむかし」
そう、御伽噺はむかしむかしのこと。
人を苦しめるものはいつだって、むかしむかしからやって来る。
「むかしむかし、あるところに、たいへんなかのいいきょうだいがくらしていました。
ふたごの、あねと、おとうと。
ふたりはふたごで、かおもそっくりだったので、
あねは、おとうとをたいへんかわいがりました。
ときには、けんかをすることもありました。
おねえちゃんのケーキのほうが、おおきい。
たまに、あねのいたずらが、けんかのげんいんになることもありました。
なんで、ぼくのふくにおねえちゃんのなまえがかいてあるの。
それでも、ふたりはたいへんなかがよかったのです。
それは、あるよるのことでした。
あねは、まどのそとがあかるくて、めをさましました。
おかしいな。
いまは、おつきさまがきれいなじかんなのに。
なんで、こんなにおそらがあかるいのだろう。
かのじょは、となりでねていたおとうとをおこします。
ほら、おきて。
こんなに、おそらがあかるいよ。
それは、かぞくでいった、キャンプのかがりびのようで。
かのじょは、とてもたのしくなってしまいました。
だから、かのじょはたいへんおどろいたのです。
おとうさんとおかあさんが、みたこともないようなかおで、へやにとびこんできたから。
てくてく。てくてく。
とことこ。とことこ。
ちいさな、ちいさな、あしおとがふたつ。
あねとおとうとは、あるきます。
まいちるひのこと、ひとびとのきょうかんのなかを。
おとうさんとおかあさんは、いません。
おとうさんは、くずれたがれきにおしつぶされて。
おかあさんは、ほのおにのみこまれてしまったから。
てく、てく。てく、てく。
ちいさな、ちいさな、あしおとがひとつ。
おとのないせかいを、あるいていく。
ひとびとのこえは、とおのむかしにたえはてて、
くずれるたてものも、なくなったから。
あたりは、とてもしずか。
それでも、あねはあるきます。
せなかにおった、だいじなものをまもるために。
だいじょうぶだからね。
おねえちゃんが、まもるから。
てくてく、てくてく。
ちいさな、ちいさな、あしおとがひとつ。
あねは、なにもせおっていません。
きっと、どこかでおとしてしまったのでしょう。
つめたいあめのなか、ひとりきりであるいています。
あてもなく、ひとりきりで。
やがて、かのじょはそらをみあげる。
そこにあるのは、くろいおひさま。
あかいよぞらに、ぽっかりあいた、あなのようで。
すいこまれたしまうんじゃないか、とすこしきたいをしました。
でも、そこからあふれてきたのは、くろいどろ。
どろどろ、どろどろ、くろいどろ。
ああ、とてもつめたそう。
あついのは、もういやだから。
うれしいな、うれしいな。
やがてかのじょは、いしきをうしないました。
私は、今、生まれた。
『ようやく目覚めたか』
こえがきこえる。
くらくて、かおがみえない。
あなたはだあれ。
『儂はこれからお主の親となるものよ』
うそをついちゃだめなんだよ。
だって、わたしにはちゃんと、おとうさんも、おかあさんもいるもの。
『ふむ、ではお主は父と母の顔を思い出せるのか』
もちろん。
おとうさんは、めがきりっとして、はながたかくて、
頭が半分無くなってて。
おかあさんは、かみがきれいで、はがしろくて、
全身真っ黒焦げで。
あれ。
あれあれ。
おかしいな。
おとうさんってだれ?
おかあさんってなに?
そういえば、わたしはどこ?
『判ったか。お主は今、この世に生を受けた。ゆえに、儂がお主の親となる』
わかりました、おとうさん。
『では、まずお主に名を与えよう』
なまえ。
『お主の名は代羽。お主はこれより間桐 代羽として生きる』
しろう。
なつかしいなまえ。
あたたかいなまえ。
どこかできいたなまえ。
わたしの、なまえ。
なんだかわたしは、うれしくなった。
わたしがなげこまれたのは、いけのなか。
ぐちゃぐちゃ。
きいきい。
ききたくない、おとがする。
なにかがからだにはいってくる。
くちから。
みみから。
はなから。
めから。
てのつめのあいだから。
おへそから。
おしっこのあなから
おしりのあなから。
あしのつめのあいだから。
あんまりいたくてくるしくて、
めのまえがまっしろになって。
でも、
あんまりいたくてくるしくて、
めにまえにくらやみがひろがって。
そんなことをくりかえしてたら、
わたしがどんどんこわれていって。
そんなことをくりかえしてたら、
わたしたちがどんどんうまれてきて。
こわれていくわたし。
うまれてくるわたしたち。
どんどんわたしがちいさくなる。
わたしのはへんから、わたしたちがふえていく。
わたしは、きっと。
どんどんちいさくなって。
やがてきえてなくなってしまうのだろう。
ボクガカワルヨ
わたしのなかで、こえがした。
イタイコトモ、クルシイコトモ
きっと、わたしじゃない、わたしたちのなかの、だれかのこえ。
ゼンブ、ボクガヒキウケテアゲルヨ
ほんとうに?
ダカラ、キミジャナイキミタチヲ、タベサセテ
そんなことでいいの?
ソウスレバ、ボクハドンドンオオキクナレル
あなたの、おなまえは?
ボクノナマエハ、ヨハネ」
仕事を終えた語り部は、静かに口を閉じた。
やはり、物憂げな視線を、中空に漂わせたまま。
「…本当に退屈な話ね。世界中、どこにだってある話」
語り部は苦笑する。
「ええ、本当、その通り。どこにでもある、そして一番私の身近にあったお話」
遠い視線。静かな声音。だからこそ、私は確信した。彼女の決意は何よりも固い。
「何で、私に話したの」
「さあ。きっと退屈だったから。もしかしたら、ただの甘えかも」
「……心の贅肉ね」
「ああ、その表現!本当に相応しいわ!」
彼女は声をあげて笑った。それなりに長い付き合いだが、こんなに愉快そうな彼女は初めてだ。
だからだろう、彼女は常なら絶対に口にしないようなことを言った。
「私の名前は奇妙でしょう?人にそのことを問われるたびに、『時代を羽ばたく』、その字をとって『代羽』だと誤魔化してきた。でも、本当は違います。本当に込められた言霊は、マキリ臓硯が不死の身体へ『羽化するための依り代』。その字をとって代羽。それが私の生まれた意味」
「あ、そう。それでなに、可哀想ね、とでも言って欲しいの?」
珍しいことではない。
魔術師の世界において、我が子を研究の道具として扱うことなど、日常の範囲内だ。まして、それが拾った子供ならば言うに及ばずだろう。
「そうですね、きっと私は誰かにそう言って欲しかった」
彼女は心底愉快そうだった。
その表情は、人質と話す優越感に満ちたものではない。
まるで、気の置けない友人と話すときのように華やいでいた。
「でも、それ以上に私はあなたに知っておいて欲しかった。私はもうすぐこの世界から消えてなくなる。だから、私という存在を知っておいて欲しかった。だから、これはきっと、そう、心の贅肉ですね」
その表情は。
さっきまでの楽しそうなそれとは一変して。
本当に、寂しそうで。手遅れなくらい達観していて。
私は心底腹が立った。
一言、文句を言ってやろう。
そう思って口を開きかけた時。
「ねえ、遠坂先輩。一つ、賭けをしませんか?」
「……どんな?」