FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode76 食前問答

「―――そうして、彼女はマキリ臓硯の被保護者となり、マキリの後継者たる責務を負った。そういうことだ」

 

 音が、どこか遠くから聞えた。

 目の前の男との距離が、遠かった。

 いや、違う。

 世界が、大き過ぎた。

 自分が、どんどん小さくなっていく感覚。

 車輪。

 どこかから、ごうごうと回転する車輪の音が聞える。

 ばきばきと、何かを巻き込み、踏み潰し、粉砕しながら近付いてくる。

 知っている。

 これからは、逃れることは叶わない。

 逃げれば逃げた分だけ。

 走れば、その分加速して。

 その車輪は、どんどん近付いてくる。

 今まで一度も見たことのない、きっと黒い車輪。

 その名前は、何だったかな。

 諦観。

 そういう、名前だったかな。

 

episode76 食前問答

 

「君は、あの部屋を見たことがあるのだったかな?」

 

 あの、部屋?

 

「マキリの、隠し部屋、調教室のことだ」

 

 ああ、あの部屋。

 

「マキリの魔術は、というか、この場合はマキリ臓硯の個人的な嗜好によるものの色が強かろう、それは頭に理解させるのではなく身体に馴染ませることによって是とする。つまり、得体の知れない蟲の群れに己の身体を陵辱され尽くすことからその修行は始まるといっていい」

 

 あの、黴臭くて、埃臭くて、それ以上に腐った肉の臭気のする、部屋。

 

「あれはな、君が衛宮切嗣に拾われた、そのほぼ同時期にマキリの庇護の下に置かれた。おそらく、五歳か六歳か。その歳で、あれは男の生殖器を、いや、男の生殖器と同じ形をした蟲と、その体液の味を知る身体と成り果てていたのだ」

 

 あのとき、あの部屋に初めて足を踏み入れたとき、思った。

 ああ、代羽がここにいなくて、よかった、と。

 

「桜から、マキリの修練が如何なるものか、聞いているかね?毒入りの食事、蟲で満たされた溜池での苦行、胎盤を蟲に食い荒らされる苦痛。脳髄を蕩けさせるような快楽と屈辱。私が知っているのはその程度のものだが、漏れ聞えるものなど往々にして初伝に過ぎない。はて、奥伝を極めた彼女は如何なる地獄を見てきたのだろうな」

 

 何のことはない。

 あの空間は、彼女のものだった。

 彼女は、あそこで育ったんだ。

 あの、日も差さない暗い部屋で。

 きっと、たった一人で。

 

「それでもな、彼女はそれを救いだと言ったよ。修行が、愉しい、と。父を、蟲を、愛していると言った。苦しいこと、痛いこと、気持ちのいいことが大好きだと。それは、嫌なことを忘れさせてくれるから、と」

 

『なあ、凛。代羽は、ここにいなかったんだよな?こんなところに入ったことなんて、無いはずだよな?代羽は、幸せに生きてきたはずだよな?なあ、凛。そうだよな?』

 俺は、そう言ったか。

 ああ、よかった。

 その言葉を、代羽に聞かれなくて、よかった。

 

「彼女にとって真に苦痛だったのは、静寂だ。それは、絶え間なく己の罪を責め立てる。一番恐ろしいのは、夢だと言っていた。大切なものを見捨てる夢、それを繰り返し繰り返し見るのだと。涙で眼を腫らし、口の端に反吐を貼り付けたまま、彼女は私に縋りついたのだ」

 

「…なんで、あんたと代羽が、知り合いになったんだ…?」

 

「ふむ…。あれは、いつだったか。…ミサ、だったはずだな。そうだ、閉祭の儀も終わり、信徒の方々も帰られた、伽藍堂となった教会にな、薄汚い子供が一人、残っていたのだ」

 

 その瞳は、遠い過去を懐かしむように。

 まるで、美しい宝物を愛でる、幼い子供のように。

 

「彼女は、いぶかしむ私に問うた。暗い、暗い、奈落のような瞳でな、『地獄とはどのようなところですか』、と。正直に言おうか。私は感動を隠せなかった。考えてもみたまえ。幼子、未だ罪の意味も穢れの意味も知らぬであろう幼子が、天国よりも神様よりも、まず地獄について問うたのだ。それがどれほどの絶望から発せられた問いなのか、そのことに想いを馳せたとき、私の男性は勃起していたよ」

 

 ああ、その気持ちは、何となく理解できるな。

 怖かったんだ。

 地獄が、間違いなく自分が堕ちる場所が、たまらなく怖かった。

 だから、とりあえず知ろうとした。

 知っていれば、楽だからな。

 自分の罪の深さが、理解できるからな。

 ああ、そうだ。

 きっと、彼女は、怖かったんだ。

 

「それ以来の付き合いになるか。その日から彼女が倫敦に留学するまでの約五年間、日曜日のミサに彼女の姿を見なかったことはない。時折は無表情だったが、ほとんどは泣いていていたように思う。だが、彼女は菓子が好きだったな。一つ何十円という安い駄菓子に、目を輝かせていた。その瞬間だけは歳相応の少女で、非常に愛らしかったのを覚えているよ」

「…一つだけ、聞きたい」

「一つといわず幾つでも」

「あんたは、代羽を、愛していたのか?」

 

 男は、嗤った。

 その問いに、如何なる価値も認めないかのように、頬を歪ませながら。

 

「…子供は、神の送りたる最も崇高な価値を有する祝福だ。私はその悉くを愛している。…しかし、そうだな。彼女には、特別な感情を抱いていたことは事実なのだろう。これでも禁欲をもって尊ぶ身、そうでなくてはその戒律を破り、幼子に劣情を抱くことはなかっただろうから」

 

 劣情を、抱、く?

 それは―――。

 

「分からんか?私は、まだ初潮も迎えていなかった彼女を、抱いたと、そう言ったのだ」

 

 がたん。

 あれ、何の音だ?

 近付いてくる。

 目の前の男が、近付いてくる。

 テーブルが、すり抜けるみたいに。

 どんどん。

 あ。

 違うか。

 俺だ。

 俺が、近付いているんだ。

 目の前の男に、近付いている。

 テーブルを乗り越えて、行儀の悪いこと。

 で、何をするつもりなんだ?

 俺は、何をするつもりなんだ、衛宮士郎。

 その固めた拳で、何をするつもりだ、エミヤシロウ。

 知っているぞ。

 俺は、知っているぞ。

 固めた拳の為すべきことは、唯一つだ。

 固めた拳に為せることなんて、唯一つだ。

 俺は。

 目の前の、この男を。

 力一杯。

 

 ――視界が反転した。

 

 がしゃんと、食器のぶちまけられる音が聞える。

 世界が、横になる。

 テーブルの上に、押えつけられる。

 肩が、痛い。

 ぎりぎりと締め付けられる。

 あれ。

 おかしいな。

 何で俺はこんなところにいるんだろう?

 何で俺は、こんなことを?

 

「お客様、如何いたしましたか!?」

 

 ああ、そういえばここは店内だった。

 そんなところで暴れたら、店員さんに迷惑がかかるな。

 

「ああ、何でもない。騒がしてすまないが、しばらく放っておいて頂けると有難い。」

 

 上から、声がする。

 なんだろう、この声は。

 さっき、とっても嫌なことを言った声のような、気がするぞう。

 

「さて、衛宮士郎、落ち着いたかね?」

「殺す…!てめえ、殺してやる…!」

「ああ、その殺意はこの上なく甘美だ。しかし、このまま君が喚いていたのでは、この店にいることは出来なくなる。つまり、この会合も終了と、そういう運びになるが、それでもいいのか?」

「―――!」

「私は、既に昼食を終えた。もう主たる目的は果たしたからな、さほど名残惜しいわけではない。君のほうはどうかな?もう、聞きたいことも無いかね?」

「…分かった。もう、暴れないから、放してくれ」

 

 俺を押えつけていた力が緩む。

 ごつごつとした手が、俺の腕と肩を放した瞬間。

 

 俺は、とりあえず目の前の男の頬を、思いっきり殴っていた。

 

 ごつり、と。

 

 手の先から脳味噌まで直接響くような、重々しい感触。

 しかし、目の前の神父は、微動だにしない。

 頬に拳をめり込ませたまま、呪うように微笑っていた。

 

「…満足か?」

「…ああ、大満足だ」

「なら、掛け給え。まだ聞きたいこと、語りたいことは山とあるはずだ」

「…ああ、分かった。それと、すまない」

 

 神父は、お絞りで頬を拭った。

 それだけ。

 苦痛の声一つ、あげなかった。

 それが、この上なく悔しかった。

 

「さて、話を続けよう。…っと、どこまで話したか…。そうだ、私が彼女を抱いた件だったな。一応、彼女の名誉のために付け加えておくならば、その行為は互いの同意のもとに行われたものであったことを明言しておく。そこに暴力や金銭といった不純物の立ち入る余地は、一切無かった」

「…だからって、それが許される行為だというつもりか…!?」

 

 きっと、刺し殺すような視線。

 それでも、奴の鉄面皮は傷一つ付かない。

 

「法律や道徳から照らすならば、凡そ許されるものではあるまいな。しかし、彼女は救いを求め、私は神の僕である。ならば、彼女を救いうるあらゆる行為が等価であり、そのいずれにも貴賎は無い。しかし…或いは、私も彼女を求めていたのであろうか…」 

 

 遠い、過去を懐かしむ視線。

 その中で、彼女はこいつに抱かれているのだろうか。

 その情景を夢想して、再び抑え難い殺意が湧き出した。

 

「彼女はな、言っていたよ。私はこれから人で無くなる。だから、人であるうちに人として抱かれたい、と。おそらくそれ以前も彼女を犯した男は数多かったのだろうが、それらは全て修行の一環として行われた行為。彼女が女として組み敷かれたのは、あの夜が初めてだったのだろうな。柔らかな曙光に映える白いシーツ、そこに付着した純潔の赤い染みを、まだ、鮮明に思い出すことが出来る」

「黙れ…!」

「そして、彼女は旅立った。今は堕ちたとはいえ、マキリはかつての名門だったからな、生き残っている伝手も幾つかはあったのだろう。或いは、臓硯の生家の力添えでもあったか…。そこらへんの事情は不鮮明だが、とにかく彼女は時計塔への入学を許された。若干十歳での入学だ。それがどれほど異例のことなのかは分からんが、少なくとも私などの耳に入ることから考えれば人並みならぬことではあったらしい」

 

 時計塔。

 話でしか聞いたことの無い、魔術師達の最高学府。

 そういえば、初めて出会ったとき、彼女は外国に留学していたと言っていた。

 それは、なるほど、このことだったのか。

 

「そして、彼女は早々に其処を退学することとなる」

 

 えっ?

 

「理由は、極めて単純。神秘の漏洩がな、管理部門に見つかったのだ」

 

 それは…。

 

「不可思議な顔をするな、衛宮士郎。君の言いたいことは分かっている。神秘の漏洩、魔術師の間でも禁忌中の禁忌だ。それが、時計塔のお膝元で、しかも最も中枢の管理部門に把握された。その時点で抹殺は決定したようなものだからな」

 

 そうだ。

 確か、学校の結界が危険水域に達したとき。

 凛が、神秘の漏洩の危険性について、言及していたはず。

 ならば―――。

 

「ここからは、完全に又聞きの話となるゆえ、その真偽の判定は君に任せよう。彼女は審問にかけられ、実際、後一歩で抹殺される寸前まで追い込まれたらしい。臓硯などもそれなりの働きかけをしたようだが、所詮は中央から外れた異端者、発言力など塵に等しい。だから、彼女を救ったのは全くの第三者」

「第三者…?」

「時計塔の支配階級、ロードと呼ぶことが多いが、その内のおそらく最も力を持つ家の当主が彼女の身柄保護を申し出たそうだ。君は初めて聞く名前と思うがな、バルトメロイ家という」

「バルト、メロイ…?」

「そこの現在の当主…名前は、何と言ったかな。まあ、いい。その人物が、特異な人柄らしくてな。人格よりもその特性を評価し、強力な特殊能力を持つ人間にはそれなり以上の興味を持つ。おそらく、マキリ代羽の特異性が彼女自身を救ったのだ」

 

 彼女の持つ、特異性。

 言うまでもない。

 あの、魔術。

 そして、もう一つの人格。

 ヨハネ。

 滅びの、預言者。

 

「それからの彼女の噂はぷつりと途切れる。当然、時計塔に復学することも無かった。そして、ある日突然ふらりと日本に帰ってきたらしい。らしい、というのは私もそのことを後で知ったからだ。彼女は、私に挨拶にも来なかった。彼女と顔を合わせたのは、つい最近のこと、日本に帰ってきてからの彼女のことは君のほうがよく知っているだろう」

 

『はじめまして、間桐代羽です。

 衛宮先輩ですね、お話はかねがね兄から伺っております。お会いできて光栄ですわ』

 彼女は、そう言って、にっこりと微笑った。

 にこりと、何の屈託も無く。

 それが、どれほど難しい所作だったのだろう。

 彼女は、十年前、俺と同じく、あの火事で全てを失った。

 でも、俺には切嗣がいた。

 彼が、失った俺の全てを、暖かい何かで埋め尽くしてくれた。

 その空白の冷たさを、今でも覚えている。

 ならば、彼女の冷たかった空白は、今、一体何が埋め尽くしているのか。

 何故、彼女は微笑っていられるのか。

 何故。

 

「これが、私の知る彼女の全てだ。後の質問は…そうそう、黒い聖杯について、だったかな?」

 

 奴は再び茶を啜った。

 もう、この店に来てから一時間程度の時が経過している。

 おかしな客が来たものだと、店長は頭を抱えているかもしれない。

 

「聖杯というものについて、君はどの程度の理解をしているのかな?」

「…最上級の聖遺物。聖者の血を受けたもの。だが、この聖杯戦争における聖杯は、ただ力だけを持つ贋作、その程度だ」

「十分だ。ただ、あえて付け加えるとするならば、聖杯は形を持つものではなくあくまで霊的なもの。私が管理しているのは精巧なレプリカに過ぎない、そのことは君が教会に訪れた際に説明しているはずだな?」

「ああ」

 

 始まりの、夜だ。

 凛、桜、セイバー、アーチャー、キャスター。

 まだ守れる、大切な人。

 もう守ることも出来ない、大切な人。

 俺が守らなきゃいけない、大切な人。

 皆で、歩いたんだ。

 

「代々、聖杯を用意するのは御三家のうちでもアインツベルンに課せられた義務でな、第四回の際に用意されたそれは、ホムンクルスの心臓だった。紛い物とはいえ、聖杯という最高位の霊格を宿した礼具を鋳造する方法など、そう幾つもある筈が無い。故に、おそらくは今回も同様だろうと、私は踏んでいる」

 

 それは、つまり―――。

 

「…イリヤの心臓が、聖杯?」

「そういうことだ」

 

 そういえば、昨日、ギルガメッシュが言っていたではないか。

『勘違いするな、白い聖杯よ。此度の聖杯戦争においては、貴様に器としての価値はない。真品が贋作に劣るとはな、恥を知れ』

 器としての、価値。

 それはそのまま、イリヤの心臓が聖杯であると、そういう意味だったのか。

 しかし、ならば―――。

 

「黒い聖杯っていうのは」

「マキリ代羽、彼女の子宮のことだ」

 

 ああ。

 なんて、悪い冗談だ。

 もう、分からない。

 何が、なにやら。

 涙が溢れそうだ。

 これは、悲しいからでも、怒っているからでもない。

 もう、つらいんだ。

 これ以上、情報が、つらい。

 明らかに処理能力を超えてしまっている。

 もう、いらない。

 許してくれ。

 

「これも、聞いた話だ。彼女はな、聖杯の中に潜む泥に、汚染されている。いや、同化していると言ったほうが正しいか。普通ならば狂死するか、それとも自我を飲み込まれるかなのだが、彼女はそれを従えてしまっているらしい。マキリ臓硯は、魔術的な才覚など二の次に、そこに彼女の価値を見出したようだ」

 

 聖杯の中に潜む、泥―――?

 

「あの火災を生き残った君ならば、おそらくは見ただろう?黒い太陽、その中に詰まった呪いの塊を。あれが、聖杯の正体だ。彼女はな、それを一身に浴びてしまったらしい」

 

 ああ。

 知っているさ。

 あの、穴。

 地獄がぽっかり顔を出したような、その表現ですら追いつかないような、穴。

 無限の怨嗟が、響いてきた。

 切嗣が求め、しかし裏切られた、聖杯の、正体。

 其処から漏れ出した、泥。

 それが、一夜にして五百人の命を奪った、あの火災の真実。

 きっと、切嗣を呪い殺したもの。

 あれを、浴びたと。

 彼女は、それを従えていると。

 そう、言うのか。

 

「…在り得ない。あれは、人の従えられるものじゃあない」

「しかし、君は目の当たりにしただろう?彼女、いや、彼女の変貌したものが操る、明らかに人の身には許されざる量の、魔力の渦を」

 

 ヨハネ。

 サーヴァントと見紛うほどの、濃密な魔力。

 神代の蟲を投影し、自在に使役する。

 確かに、それは人間に許された業を大きく超越していた。

 しかし、だからといって、あの泥を受け入れられるかどうかとは話が違う。

 あれは、人の身に従えられるものではなかった。

 

「君の言いたいことはよく分かっている。そこのところは、確かに私も疑問に思う点ではあるのだ。或いは、そこが真にマキリ臓硯の心を引いた箇所なのかも知れんが…当人が既にこの世にいない以上、これより先の詮索は無意味だろう」

「…話は、分かった。でも、それが何で黒い聖杯なんて事柄に結びつく?」

「至極簡単な話だ。聖杯は、文字通り器としての役割を果たす。いわく、『座』へと還る英霊の魂を留め置く楔、それがアインツベルンの用意する聖杯の真の役割だ。そして、今、『聖杯』の中に潜むのは、あの穢れた泥の主。それとパスの繋がった彼女の子宮ならば、その用途を容易に為しうる、そういうことだよ。何せ、あの泥はサーヴァントを喰らうためにあるようなものだからな。それに汚染された聖杯に捕獲されては、逃げ出すことなど叶うまい」

「…ギルガメッシュは、イリヤの心臓よりも、代羽の子宮のほうに高い価値を見出したと、そういうことか」

「ああ、そういうことだ。そして、それは私も同じくな」

「あんたも…?」

「それは、私が聖杯に願うことと直接に関係してくるのだが…。ああ、すまない、紹興酒を頂けるだろうか。グラスは一つでいい」

 

 言峰は、軽く手を挙げて、駆け寄ってきた店員にそう注文した。

 昼間から、聖職者が酒を喰らう。

 何とも破戒的ではあるが、この男に限っては許される、そんな気がした。

 

「君も何か頼むかね?ああ、あのような話を聞いた後では食欲など湧くはずもないか。これは悪いことを聞いた」

「…ここからここまで、全部下さい」

 

 一回やってみたかった、王様オーダー。

 思ったよりも、気持ちいい。

 それが他人の財布だと、なお最高だ。

 

「…これでも清貧をもって是とする身、最初にそう言った筈だが」

「何でも頼むといい、そう言ったのはあんただ」

 

 苦虫を噛み潰したような顔。

 金がないと言っていたのは冗談だと思っていたが、案外本気だったのだろうか。

 

「…まあ、いい。この店は馴染み深い。ツケもきくだろう」

「おまたせしました、紹興酒です」

「ああ、ありがとう」

 

 テーブルに並べられた、紹興酒の瓶と、小さなカットグラス。その横には、小皿に盛られた半透明の白い結晶体が。

 

「…これは?」

「粗目糖だ」

 

 言峰は、それをたっぷり小匙に一杯掬って、グラスの中に入れた。

 その上から、濃い琥珀色の紹興酒を注いでいく。

 

「これはな、もともと質の悪い紹興酒を誤魔化すために考え出された飲み方なのだが、良質な紹興酒が輸入される今でも慣習として根付いている。そして、私もこの飲み方が好きなのだよ」

 

 からからと、指先でグラスをかき混ぜる。

 それは、凛と同じ癖であった。

 蜘蛛の糸のような跡を残しながら、粗目糖が溶けていく。

 

「…何で、いきなり酒を?」

「ふん。これから語ること、素面ではとてもとても…」

 

 手に持った液体の琥珀色よりも、なお濃い自嘲の笑み。

 それを頬に刻みながら、奴はグラスを傾けた。

 ごぼりと、一口。

 まるで石でも放り込んだかのように、グラスの中の液体は消失していた。

 

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