FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode78 デザートにクレープを

「お一つ、如何ですか?」

 

 差し出された、小さな手。

 その手には、暖かな湯気の立つ紙包みが。

 逆三角形の形。

 包装紙からはみ出した、毒々しいような果実の色と、それを包む生クリーム。

 それを持つ手は、病的なまでに白く、飴細工のように繊細だった。

 細く、細く、弱弱しい、手。

 それが、俺のほうに差し出されたのだ。

 輝くような、表情で。

 天使が微笑ったような、表情で。

 

「こう寒い日には、暖かいものが何よりのご馳走でしょう?どうぞ、冷めないうちに」

 

 そう言った、少女。

 にこやかに、微笑んでいる彼女。

 彼女の口元には、紅いソースが、べったりと。

 それは、まるで、血のように。

 俺の、恋人の、血のように。

 

「し、ろう…」

 

 彼女は、やはり微笑っていた。

 そう、ちょうど、初めて出会ったあの時と同じように。

 

episode78 デザートにクレープを

 

 なんと言えばいいのか、分からなかった。

 なにを言えばいいのか、分からなかった。

 言いたいことが、多過ぎた。

 聞きたいことが、多過ぎた。

 問い質したいことが、多過ぎた。

 何もかもが、多過ぎて、太過ぎて、抱えきれない。

 それが、一気に外に出ようとする

 狭い狭い、非常口から。

 一気に、我先に飛び出ようとする。

 悲鳴が、聞える。

 俺の中から、悲鳴が聞える。

 感情と感情がぶつかり合って、死んでいく声だ。

 つぶれていく感情と、軋む脳髄。

 ぐらぐらと、ちかちかと。

 ぜえぜえと、咽喉が鳴る。

 口が、ぱくぱくと動く。

 意味のある単語が、生まれない。

 生まれるのは、畸形児のような、喘ぎ声だけ。

 意味の無い、言葉。

 ならば、それは鳴き声だ。

 獣が、啼いている。

 慟哭している。

 ここにいるのは、人ではない。

 まして、衛宮士郎ではない。

 もっと、違うもの。

 人ではなくて、衛宮士郎ではなくて、○○士郎でもなかったもの。

 もっと、もっと、違うもの。

 この場所には、いてはいけない、もの。

 深海魚たちが、嗤っていた。

 嗤いながら、飛び泳いでいた。

 俺の周りを、さも楽しそうに。

 

 くるくる。

 くるくる。

 

 人の口で、嗤っている。

 己の仲間を見るように、嗤っているのだ。

 いつか見た、仲間たち。

 ここにいるべきではない、異邦者の群れ。

 存在すべきでない、異形。

 

『久しいな、衛宮士郎。』

 

 リュウグウノツカイが、そう言った。

 

『覚悟は決まったか、衛宮士郎?』

 

 メガマウスザメが、そう言った。

 

『ならば、その答に胸を張れ、エ宮士郎。』

 

 ヨミノアシロが、そう言った。

 

『お前はその答えに胸を張るべきだ、エミヤ士郎。』

 

 シンカイクサウオが、そう言った。

 

『誰かのために生きて、何が悪い、エミヤシ郎。』

 

 オニボウズギスが、そう言った。

 

『他人の幸福が己の全てで、何を恥じるか、エミヤシロウ。』

 

 フクロウナギが、そう言った。

 

『ならば、それは正解だ、○ミヤシロウ。』

 

 テンガンムネエソが、そう言った。

 

『貴様が選んだ道は、ただ、幸福へと連なっているぞ、○○ヤシロウ。』

 

 カイロウドウケツが、そう言った。

 

『さあ、人を救うがいい、○○○シロウ。』

 

 ドウケツエビが、そう言った。

 

『いずれ、その肺は血臭で腐り、呼吸することもままならなくなるだろう、○○○○ロウ。』

 

 スケイリーフットが、そう言った。

 

『手足は折れ砕け、無様に這いずり回る滑稽な生き物に生まれ変わるだろう、○○○○○ウ。』

 

 カイコウオオソコエビが、そう言った。

 

『それでも、戦い続けろ、○○○○○○。』

 

 トゲヒラタエビが、そう言った。

 

『それが、お前の望みだろう、○○○ヤ○○?』

 

 フクレツノナシオハラエビが、そう言った。

 

『人を救うために、人以外のものになりたいのではないのか、○ミ○○シ○?』

 

 ダイオウイカが、そう言った。

 

『人の身では人を救えないから、人以外の人になりたいのではなかったか、え○ヤ○○ロ?』

 

 ニュウドウカジカが、そう言った。

 

『それだけが、貴様の望みなのではなかったか、エミヤシロウ?』

 

 ホンフサアンコウが、そう言った。

 

『それが、父の姿だったのだろう、衛ミヤシロウ?』

 

 タウマティクチスが、そう言った。

 

『あの男のように、心の底から、笑いたいのだろう、衛宮シロウ?』

 

 デメニギスが、そう言った。

 

『お前は、あの男の願いを受け継いだのだろう、衛宮士ロウ。』

 

 デメエソが、そう言った。

 

『だからこそ、あの男は微笑いながら逝ったのではなかったか、衛宮士郎。』

 

 ボウエンギョが、そう言った。

 

『約定を違えるか。』

 

 ワニトカゲギスが、そう言った。

 

『あの顔を、失意で塗り潰すか。』

 

 カブトウオが、そう言った。

 

『あの微笑を、溜息混じりの悲嘆に変えるか。』

 

 シーラカンスが、そう言った。

 

『それは人に、いや、子には許されざる行為、そうは思わんか、衛宮士郎。』

 

 エゾイバラガニが、そう言った。

 

『いやいや、その実、そうではない。』

 

 ヒドロクラゲが、そう言った。

 

『親は子の幸福のみを望むもの。』

 

 シロウリガイが、そう言った。

 

『簡単な話だ、お前は己の幸福のみを追い求めればいい。』

 

 サツマハオリムシが、そう言った。

 

『己が幸せになること、それだけを考えればいいのさ。』

 

 ウリクラゲが、そう言った。

 

『あの女と添い遂げ、子を成し、その手に抱けばいい。』

 

 ムラサキカムリクラゲが、そう言った。

 

『それは、何と幸せか。』

 

 コウモリダコが、そう言った。

 

『さあさあ、覚悟を決めろ、衛宮士郎。』

 

 センジュナマコが、そう言った。

 

『貴様の前途には、幸福のみが待ち構えている。』

 

 オウムガイが、そう言った。

 

『それを受け入れる自信が無い?』

 

 ミツクリザメが、そう言った。

 

『そんなこと、なんの苦もないぞ。』

 

 オニキンメが、そう言った。

 

『ただ、為されるがままでいいのさ。』

 

 ザラピクニンが、そう言った。

 

『ならば、話は早い。』

 

 見たことも無い魚達が、ぐるぐる回っていた。

 

『貴様は、幸せだ。』

 

 ぐるぐる。

 

『五百人の怨嗟をその背に浴びて、それでも幸せだ。』

 

 やめろ、目が回る。

 

『それが、貴様に許された、唯一の贖罪。』

 

 溶けて、バターになっちまう。

 

『それでも。』

 

 どろどろ。

 

『それでも、貴様が、違うものを望むならば。』

 

 魚が、生き物が、海が、どろどろになって。

 

『幸福とは違う形の幸福を追い求めるつもりならば。』

 

 どろどろが、びちゃびちゃ、一つになって。

 

『私は優しいぞ、○○○。』

 

 うねうねと、黒々としたものになって。

 

『必ず貴方の声に答えよう。』

 

 それが、朗々と言うのだ。

 

『さあ、人を救え、○○○。』

 

 もう、一度見た、塊。

 

『歩くが如く救え。』

 

 体が、沈んでいく。

 

『喰らうが如く救え。』

 

 深海よりも、更に深いところへ。

 

『呼吸をするが如く、救え。』

 

 冷たさが熱さに変わり、熱さが甘い痺れに変わり。

 

『救って救って救い続けろ。』

 

 白く、白く漂白された、腐れた空間。

 

『そうすれば、貴様は確かに幸せだ。』

 

 誰かが、いた。

 

『死後も、救い続けることが出来る。』

 

 お前は、何者だ。

 

『それは、何と有意義な存在ではないか?』

 

 俺であって、俺で無い者。

 

『罪人として生きた貴様には、何よりの救いだろう?』

 

 何者でもあって、何者でもない者。

 

『そうではないか、この世の誰よりも、意味なき生を生きる者よ』

 

 ああ、お前は、阿頼耶識か。

 

 あ―――。

 夢を、見ていた。

 どんな夢だったんだろうか。

 わからない。

 ぼんやりとした視界よりも、さらに滲んだ意識。

 それが、深海から浮かび上がる。

 ああ、なるほど、と。

 深海魚が、浮上してきたんじゃあない。

 何のことは無い、俺が沈降していっただけだ。

 深い、深い、ところ。

 俺を求める、何かがいるところへ。

 

「はっきりしましたか、衛宮先輩?」

 

 鼻に突きつけられた、甘い香りのするもの。

 華やかな包装にくるまれた、小麦色のもの。

 色取り取りの、具材。

 

「ほら、前に言ったでしょう?フルールのクレープが食べたい、と。貴方があまりにも遅いから、私が買ってしまいました」

 

 見上げる。

 やっと、雲間から顔を出した、太陽。

 その光が、彼女を照らすためだけに、降り注ぐ。

 きらきらと輝く、宝石のような長髪。

 細められた瞳。

 人懐っこい笑み。

 その全てが、造られたものだと知る。

 

「ほら、またあのベンチで食べましょう?色々お話もしたいですし」

「…凛を、どうした…?」

 

 呪文を唱え、あの男に変貌するとき。

 彼女は、ちらりと俺を見遣ったんだ。

 その、瞳は。

 間違いなく、耐え難いほどの苦痛に濡れていた。

 

「全く、貴方はいつも行動が遅過ぎるのです。女性が欲しいといえば、即座に行動するのが男の甲斐性でしょうに」

「凛を、どうした…?」

 

 貴方は、そうだったのか。

 いつも、いつも、そうだったのか。

 蟲に凌辱され、人に凌辱され、悪夢に凌辱され。

 蟲を恨まず、人を恨まず、悪夢を恨まず、ただ己だけを恨み。

 歯を食い縛って、最下層の地獄を這いずり回っていたのか。

 それは。

 それは、違う。

 貴方には、ちっとも相応しくない。

 俺だ。

 俺が、引き受けるべき苦痛だ。

 貴方は、もっと輝かしくあるべきだ。

 いらない。

 俺なんて、いらない。

 俺には、幸福なんて、いらない。

 なのに。

 なんで、この人が、一番不幸でなければいけないのか。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 もう、涙は、流れていなかった。

 だって、分かったから。

 何が罪だったのか。

 何が罪で、誰が罪人なのかを、理解した。

 

 俺だ。

 

 俺が、存在していること。

 俺が、この世界に存在していること。

 それ自体が、許されざる罪だ。

 俺が、いなければ。

 俺が、あの火事で消し炭になってさえいれば。

 彼女は、きっと苦しまなかった。

 もっと、光の当たる人生があった。

 なら。

 ならば。

 俺は。

 

「さ、行きましょう。あまり遅いと陽が傾きます。それはいくらなんでも寂しいでしょうから」

「凛をどうしたと、そう聞いている!答えろ、マキリ代羽!」

 

 差し出された手を、振り払った。

 高らかな、皮膚が皮膚を打つ音が、響いた。

 一瞬遅れて、ばちゃりと、破滅的な音が聞えた。

 俺の涙が染みこんだアスファルトの上で、クレープが塵屑に化けていた。

 

「…貴方が、私をその名前で呼ぶのですか…?」

 

 その表情には、些かの曇りも存在しない。

 ただ、くすくすと俺を見つめる。

 くすくすと。

 にたにたと。

 

「…そんなことは、聞いていない!答えろ、マキリ代羽…!答えによっちゃあ…」

「私を、殺しますか?」

 

 風が、吹いた。

 この季節には似つかわしくない、生暖かい風だった。

 生暖かく、それ以上に生臭い風だった。

 まるで誰かの溜息のようだと、そう思った。

 

「もう一度、聞きます。果たして、私の名前は、何ですか?間桐代羽でしょうか、それとも、マキリ代羽でしょうか、それとも、それ以外でしょうか?貴方は、私に誰であってほしいのですか?」

 

 大きく手を広げている。

 誰かを抱きとめる直前みたいだ。

 陽光を背負ったその姿は。

 神の仔を生んだという、聖母にも似ていたのだろうか。

 

「貴方の恋人になれというなら、喜んで手を差し出しましょう。貴方の母になれというなら、喜んで乳房を差し出しましょう。貴方の娼婦になれというなら、悦んで貴方の性器を慰めましょう。貴方の性奴隷になれというなら、悦んでこの首に枷を嵌めましょう。貴方の後輩のままでいいというなら、喜びながら微笑みましょう。貴方の先輩になれというなら、悲しみながら叱ってあげましょう」

 

 細い、身体。

 細い、身体。

 何で、こんなことに気付かなかったのだろうか。

 今なら、分かる。

 この身体。

 人の理想形のように、均整の取れた、美しい身体。

 さもありなん。

 理想は、理想。人のそれは、届かない。

 ならば、理想に届いたそれは、何なのだろうか。

 決まっている。

 それは、人ではないのだ。

 彼女は、人ではない。

 

 蟲だ。

 

 蟲が、蠢いている。

 彼女の身体の外で。

 彼女の身体の中で。

 彼女の身体の、ありとあらゆるところで。

 彼女の振りをして、蠢いている。

 

「さて、貴方は私に何を望みますか…?」

 

 肺の形をした蟲が、脹らんで

 声帯の形をした蟲が、震えて。

 唇の形をした蟲が、卑猥に歪む。

 人の形をした、蟲。

 人を形作る、蟲の群体。

 もう、既に、彼女は人ではなかった。

 蟲。

 人の形をした、蟲で形作られた、死徒。

 彼女は、もとからそういう存在だったのだ。

 

「私は、ご覧の通りの存在です。貴方が望むならば、どのような形にでも。ああ、そうでしたね、貴方のお好みは、こんな顔立ちでしたか?」

 

 彼女の整った顔が、ぐねぐねと歪む。

 骨格が、ばきばきと音を立てる。

 髪の毛の色が、変わっていく。

 赤紫がかった黒から、漆黒へ。

 一切の癖のない毅然とした長髪が、軽くウェーブのかかった柔らかい髪の毛に。

 

「これでどう、士郎?」

 

 耳に心地いい、声。

 そこには、よく見知った女性がいた。

 一昨日、俺の腕の中で、泣きながら慰めた、人だ。

 昨日、俺の腕の中から、するりと落としてしまった、人だ。

 今日、俺が、狂ったように捜し求める、人だ。

 遠坂、凛。

 彼女の形をした蟲が、そこにはいた。

 

「何でもしてあげるわ、士郎。貴方のものに、なってあげる。どんな娼婦も思いもつかない痴態を、見せてあげる。貴方のためだけに生きて、貴方のためだけに死んであげる」

「やめろ…!」

 

 その、凛の形をしたもの。

 服を、一枚一枚、脱ぎ捨てていく。

 その、見慣れた美しい、手で。

 普通の、街中で。

 疎らながら、人通りのある、アスファルトの上で。

 それは、どこまでも現実感を欠いた光景だった。

 やがて、露になる、乳房。

 股間の、淡い茂み。

 あの夜、淡い月明かりの中で見たそれと、寸分違わず同じ形。

 

「さあ、士郎。私を、どうしたい?ここで、皆が見てる前で、犯したい?それとも、私に首輪をつけて、引きずり回すというのはどうかしら?私、ちゃんと脚を上げて、犬みたいにおしっこするわ。アスファルトを四つん這いで歩くと、膝が擦りむけて痛いのだけれど、貴方のためなら我慢する」

「止めてくれ…!」

 

 後ずさる。

 それでも、捕まる。

 交尾を終えた後の、雄カマキリみたいだ。

 しなだれかかってくる。

 分厚い冬着越しに感じる、彼女の体温。

 それは、あの夜、狂おしいほどに交わった、彼女の体温と同じ。

 鼻腔を突き抜ける、淫らな雌の匂い。

 それは、あの夜、彼女の体液から漂ってきた香りと、同じ。

 

「でもね、士郎、お日様の下は、少ししんどいの。だって、私はもう人間じゃあないから。少しずつ、壊れていってしまう。それでも、貴方はそれを見たい?私が悶え苦しんで、のた打ち回る様を見て、愉しみたいの?」

「頼む…!もう、もう、許して…!」

 

 がちがちと、歯が鳴る。

 俺は、間違いなく恐怖していた。

 伝わってくる、体温に。染み込んでくる、雌の匂いに。

 耳に、暖かい吐息が吹き込まれる。

 彼女の髪の毛が、俺の鼻頭を擽る。

 その、甘美な感触。

 硬直した身体と、それよりも堅い身体の中心。

 

「ふふ、ご主人様の、こんなに堅い…」

 

 耳道を、ちろりと舐められる。

 その感触だけは、違った。

 凛ではなく、俺の後輩だった少女のものだった。

 

「ひいいいいぃぃぃぃッッッッッ!!!!!」

 

 思いっきり、突き飛ばした。

 目の前の、何かの形をした、何かを。

 もう、何がなんだか、分からなかった。

 とにかく、これは嘘だと思った。

 視界が、ガラス越しに歪んでいるみたいだった。

 きっと、これは、悪夢だと。

 そう、信じ込みたかった。

 

「…そう。それが、貴方の望みなのですね…」

 

 はあ、はあ、と、荒んだ呼吸が聞える。

 誰だ、誰の気配だ、これは。

 ああ、俺のだ。

 そう気付いて、無上の安堵を味わった。

 一瞬遅れて、脳が視界を認識する。

 そこには、凛の形をした蟲は、いなかった。

 ただ、俺の見知った後輩の形をした、蟲がいた。

 きめ細やかな、肌。

 桜色の乳首。

 足の付け根に、露になった女性器。

 それでも、それは人ではない。

 それが、この上なく恐怖だった。

 

「…お前は、お前は、人を喰うのか…?」

「はい、食べますとも」

 

 無邪気な声。

 のそりと、彼女は下着を身につけ始めた。

 慣れた手つきで、まるで始めから女性だったみたいに。

 その表情に、色はない。

 色の無い瞳が、揺れていた。

 

「人は、人であるために服を着るでしょう?人は、人であるために法を守るでしょう?私は、人であるために人の肉が必要なのです。ならば、食べます。ええ、食べますとも」

 

 知っている。

 死徒は、好き好んで人の血肉を貪るのではない。

 不死ともいえる長命により、崩壊していく人の遺伝情報。

 それを補うために、他人の血肉が必要なのだ。

 ならば、彼女は。

 

「私は、魔術師ではありませんから。この仔達を私の形に留め置くには、何らかの楔が必要となる。それが、人の形の設計図。一度、我慢してみたんですけどね、どんどん崩れていくんですよ。指が、ぽろりと腐って落ちる。目玉が、眼孔に収まっていてくれない。身体中で、蟲が共食いを始める。己が、己に食べられる。それがどれほど恐怖か、貴方に分かりますか?」

「人喰い…!」

「特に、ヨハネから戻ったときなんかは、酷い。きっと、身体中の細胞がずたずたになっているからでしょうね。胃の腑がね、締め付けられるんですよ。早く肉を喰え、と。そうでないと、お前を溶かしてやるぞ、と。」

「てめえ、凛をどうしやがった…!」

「ああ、遠坂先輩ですか?とても、美味しかったわ」

 

 何気なく吐き出された、その一言。

 まるで、コンビニのおでんの味を評するかのような、軽い言葉。

 それで、理解した。

 彼女にとって、人とはそういう存在なのだ。

 きっと、人が一膳のご飯の中に、何粒の米が入っているのか気にも留めないのと同じこと。

 彼女にとっての人間も、そう。

 只の食い物で、さらには日常食。

 恍惚を覚えるようなものでは、ないのだ。

 

「だって、とてもお腹が減るのです。さっきも言ったでしょう?彼から戻るときはいつもそう。本当に、お腹と背中がくっつくんじゃないかっていうくらいお腹が減るのです。だから、少しくらい摘み食いしても、許されると思いませんか?」

「…殺す!殺してやる!」

「そんなに怒らないでください。だって、彼女は無事ですよ?」

 

 言葉とは、裏腹に。

 その顔は、嗜虐に歪んでいた。

 いつの間にか、身体の震えは収まっていた。

 いや、ちがうか。

 身体は、震えていた。

 でも、それは恐怖による震えではなかった。

 怒りとか、殺意とか。

 そういう、マグマみたいに煮え滾った紅い感情の塊。

 それが、排出口に詰まって起きる、反射みたいな震えだった。

 

「殺してはいません。だって、殺してしまったら、人質の価値が無くなってしまうわ。だから、足を一本だけ。私はとても我慢強いから、足を一本だけ食べたの。二本付いているんだから、一本くらいいいでしょう?血はあまり出なかったわ。だから、彼女は無事です。ああ、本当に、とても美味しかった」

「よくも、よくも凛を!」

 

 いつの間にか、手には剣が握られていた。

 干将・莫耶ではない。

 そんな、人を守るためとか、生易しい形状ではない。

 もっと凶悪で、人を殺すためのフォルム。

 己の意に沿わない、全てを叩き潰すためのフォルム。

 バーサーカーの、斧剣。

 それが、手に握られていた。

 

「それで、私を、真っ二つにするつもりですか…?」

 

 無言で、振り上げる。

 怒り、それがここまでのエネルギーのなることが、信じ難かった。

 この燃料が切れたら、俺はどうなるのだろうか。

 そのことだけが、少し怖かった。

 思い切り、振り下ろす。

 軽い、手応え。

 何か、枯れ木の枝でもへし折ったかのように、そんな音が、手の先から響く。 

 そして、轟音。

 アスファルトが、割り裂ける。

 砂煙。

 そして、血煙。

 曇った視界。

 風が、吹き飛ばす。

 地中に埋まった、刃先。

 転がった、右手首。

 それでも、彼女の姿が、無い。

 一瞬の、隙。

 背後から、何かが首に巻きついた。

 長い、蛇みたいな、何かだった。

 

「貴方も、怒れるのですね…」

 

 その声は、初めて聞く声だった。

 欲望ではなく、慈愛に歪んだ声だった。

 いや、慈愛も欲望なのだろうか。

 慈愛も、欲望だというならば。

 その声は、なんと喜びに歪んだ声だったのだろうか。

 まるで、初めて自分の足で歩いた幼児を、褒め称えるかのような、声。

 

「まだ、摘み食い。でも、いずれは食べ尽くします。だって、あんなに美味しかったんだから」

 

 意識が、遠くなる。

 血が、脳から締め出される。。

 酸素が、足りない。

 視界が、白んでいく。

 

「今夜、私達が生まれた場所で、待っています。それまでは、我慢しますから。貴方の手で、止めてください」

 

 その声が、最後に聞いた声だった。

 俺は、失禁しながら、気絶していた。

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