FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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interval12 空と海の間にあるもの

 雲の上に、雲が重なる。

 薄く冷たいそれが幾重にも重なり、暖かな太陽の光を吸い尽くしているよう。

 空気が、じとりと湿り気を帯びている。

 遠からず、雨が降るのだろう。

 驟雨になるかもしれない。

 神父は、空を見上げながらそう思った。

 溜息を一つ吐いて、再び歩き始める。

 彼の目の前には、だらだらと長い坂道が続いている。

 何度もくねり、何度の切り替えし、そうしてやっと頂上にたどり着く、そういう坂道だ。

 長い、うんざりする様な坂道。

 もう、十年以上もこの坂道を登り続けている。

 冬木教会。

 その終着点としてあるのが、神の家であり、彼の寝床なのだから。

 彼は、いつもと同じようにその坂を上る。

 背をぴんと伸ばしたまま、その表情に一切の感情を表さないまま。

 中腹辺りで、ふ、と後ろを振り返る。唯一、それがいつもの彼と違うといえば、違ったのだろうか。

 彼の視界を埋め尽くすのは、灰色の空、灰色の町並み、そこを隔てる、鈍色の帯。

 そこには、冬木港を眼前に、まっ平らな海が広がっていた。

 距離が、うねるような白い波頭を掻き消している。

 のっぺりとした、鈍色の海。

 それを見ながら、神父の思考は数年前の森の中に遡っていた。

 

 

 暗い、森だった。

 

 

 あれは、何の折だったのだろうか。

 おそらく、外道に堕ちた魔術師の処理の際だったか。

 夜更け。

 獣を避けるための、薪。

 胸を梳くような炎、向かい合わせに座った、幾らか見覚えの在る、女。

 泣き黒子が印象的ではあったが、その仔細は覚えていない。

 彼女は、言った。

 今にも泣き出しそうな、迷い子の表情で。

 

 ―――時に、生きていることさえ苦しく思える。

 

 揺れる光源に照らし出された如何にも陰鬱な瞳は、彼の最も純粋な部分を刺激した。

 本来の彼であれば、揚々と意気込んで彼女の傷口を切開しただろう。

 だが、彼が行った行為は、唯一つだけだった。

 彼は口走ったのだ。

 苦悩し、それでも足掻こうとする女性を、哀れに思って。

 果たして、その時の彼の頬は、暗い喜びに歪んでいたか否か。

 

 ―――生きているのが苦しいのではない。

 ―――君は、呼吸をするのが厳しいのだ。

 ―――もし、君がその棘を枷であると認識しているならば。

 ―――自身が世界に不要であると感じるならば。

 ―――バゼット・フラガ・マクレミッツ。

 ―――お前は、おまえ自身の許すため、多くの世界を巡れ。

 ―――ちっぽけな自分、ちっぽけな国を捨てて、旅行鞄一つで世界を巡れ。

 

 今思えば、なんと拙い助言だったのだろう。

 おそらく、彼は幼い自分を、彼女の中に見つけたのだ。

 神の出題に、正しい答を見つけることの叶わなかった、遠い日の自分。

 足掻き、足掻き、足掻き抜いて、それでも正しい解答を求めた、自分。

 救いようの無いほど、哀れで、愚かで、脆弱だった自分。

 神父は、どう感じたのだろうか。

 小汚い子犬に、戯れに餌をくれてやった、その程度のものかもしれない。

 彼女を自分の過去と同じだと思ったのかもしれないし、或いは神父の真意は遥か遠いところにあったのかも知れない。

 しかし、金色の王の何気ない一言が彼に救いを見出させたように、その一言は泣き黒子の女性にとって確かに救いだった。

 その邂逅が彼女に破滅をもたらすことになるとしても、彼女はそれを尊んだ。

 ならば、救いと。

 そう呼んで、いいものだったのだろう。

 

 さて、と、神父は思考する。

 

 くるりと振り返り、再び坂道を登りながら。

 多くの世界を見て、多くの価値観を知る。

 視点を高く持ち、物事を多角的に捉え、その上で自己の価値を図る。

 それは、正しい見解だ。

 しかし、正しい見解が正しい解答を導き出すと、誰が決めたのか。

 世界は、続いている。

 ならば、苦悩もまた続くのだ。

 戦場は、その境界線を区切らない。

 どろどろとした触手を伸ばして、被害者を飲み込んでいく。

 それが、たかが地理的な差異如きで、逃れられるとでも?

 この世に真実の地獄が無いのと同様に、この世には真実の楽園も、また、無い。

 人生を、恥知らずにも戦場と例えるならば。

 その戦場は、限りなく続く。

 どこまでも、追いかけてくる。

 戦っても、戦場。

 逃げても、戦場。

 それを儚んで、人生に見切りをつけたとしても、やはりそこにあるのは、戦場だ。

 己の価値をどれだけ正確に汲み取ろうが、世界が戦場であることは、変わりないのだ。

 彼は己の安っぽい思考に呆れ果て、それでもふと思った。

 

 ―――ならば、私は何と戦っているのか。

 ―――ならば、私は何故戦っているのか。

 ―――人並みの幸せなど、とうの昔に諦めている。

 ―――今更、永遠の楽土を目指しているわけではない。

 ―――日々が、奥歯をすり減らすほどに苦しいものであっても、いずれは慣れる。

 ―――はて、ならば私は。

 

「お久しぶりです」

 

 少女の声が、した。

 ぴたりと、背後から。

 寒気がするほどの直近でありながら、しかし神父は身構えない。

 身構えず、ゆるゆると長い坂を上っていく。

 汗は、掻いていない。

 夏の、アスファルトが溶けるような陽光のもとでも、彼は汗一つ掻かない。

 ならば、冬の寒空の下においてをや。

 

「君か。もう、会うことは無いと思っていたのだがな」

「ええ、私も、もう会うことはないと、そう誓ったのですが」

 

 それは、或いは信頼の証でもあったのだろうか。

 こつこつと硬質な靴音を愉しみながら、神父は歩く。

 歩きながら、思い返す。

 さて、この前に彼女と顔を合わせたのは。

 教会で顔を合わせたのが、一週間ほど前だったか。

 そのとき、彼らは互いに感じたのだ。

 次に会うのは、雌雄を決するとき、と。

 その不文の誓いを破った罪は、少女にある。

 神父は少なからず安堵した。

 

「今日、彼と会いました」

「そうか、奴と顔を合わせたか」

 

 神父は、鉄の少年を思い浮かべた。

 少女は、錆び色の瞳の少年を思い浮かべた。

 二人はおそらくは同じ人物の顔を思い浮かべながら、しかしその固有名詞は違った。

 そのことに気付いていたのは、彼らのうちの、一人だけだったのだろうか。

 それとも、その両方が気付いていたことを、一人が認識していなかっただけか。

 

「哀れな人間だな、あれは」

「ええ」

 

 最短の返事に込められた無限の感慨を、神父はほぼ正確に汲み取っていた。

 この少女は、あの少年を想っている。

 それは、男女の情愛ではあるまい。

 一番近いのは、肉親の親愛だろうか。

 父は、死んでいる。

 母も、死んでいる。

 五百に上る物言わぬ死体の列、その中に二人の名前は確かに存在した。

 唯一生き残っている可能性があるのは。

 少年の、双子の、兄弟。

 だから、そういうことなのだろう。

 神父は、そのことを理解している。

 正直、信じられない思いもあった。

 一番可能性が高いのは、単なる書類上のミス、だろうとも思う。

 しかし、戸籍謄本と彼女の言葉は、確かに合致する。

 遠い昔に、聞いた。

 少女は、今よりも遥かに幼かった少女は、目の前の神父を試すように言い切ったのだ。

 己を卑下する、自虐の瞳で。

 しかし、誇り高く勇壮に、犯しがたい瞳で。

 己が如何様に蟲に弄られたか。

 どれだけ詰らない男が、彼女の上に圧し掛かってきたか。

 何度、その処女膜を蹂躙されたのか。

 そして、もともと彼女がどういった存在であったのか。

 もしかしたら、それが彼の性欲を如何に刺激したか、少女は知っていたのかもしれない。

 そして、彼らは求め合った。

 少女は父よりも大きい神父に抱かれ、神父は娘より小さな少女に欲情した。

 少女は貪欲に神父を飲み込み、神父は悪辣に少女を貫いた。

 汗が飛沫となって舞い散るような、激しい逢瀬。

 安ベッドのスプリングの軋む音。

 儚い蜀台の明かり。

 股間に走る、激しい痛み。

 初めての、絶頂。

 彼女の深奥で放たれた、神父の分身。

 意識を取り戻した彼女は、自身の太腿を伝うそれを集めて、丁寧に舐め取った。

 己の中に、彼の部品を取り込もうとしたのだ。

 そうすれば、生きていけると。

 自分も、強くなれると。

 それは、間違いなく妄信だ。

 しかし、その行為は少女に生きる力を与えた。

 彼女の主観として、初めての人喰い。

 ならば、やはり救いと。

 そう、辛うじて呼べるものだったのだ。

 

「貴方もそう。貴方も、彼と同じ」

「失敬だな、君は。私はあれほどは壊れていない。私は、私自身の幸福と安らぎを求めて戦う。最低限、その点だけは偽らないつもりだ」

 

 どこかで、狂っていたのだ。

 それを加速させたのが、今は亡きマキリの長老。

 マキリ、臓硯。

 彼の業、遺伝的要素をすら狂わす人外の外法をもってすれば、不可能なことではない。

 彼女は、狂わされた。

 その存在の、全てを。

 しかし、彼女はその全てを、微笑みでもって受け入れている。

 その様子は、さながら捨身の聖女のようではないか。

 神父は、内心に感動を抑え切れなかった。

 

「もし、彼が私を愛してくれるならば、私も彼を愛そうと思っていたのですけれど…。彼は、己に相応しい伴侶を見つけました。ならば、邪魔者は身を引くべきでしょう」

「ふむ、願わしいことだな。己と同じ遺伝子を持つもの同士が番うなど、神も祝福せぬだろうさ」

 

 少女は苦笑した。

 まるで、神父の答を予測していたかのようであった。

 

「気付いていたのですか?全く、貴方も人が悪い」

「で、君は聖杯に何を望むのだ?」

 

 少女は、真摯な瞳を前方に向けた。

 彼女の数少ない友人がそれを見れば、弓を持って的を狙う彼女のそれと同じだと気付いただろう。

 しかし、彼女と同じ方向を見つめる神父は、彼女の瞳に興味を抱かない。

 彼らの瞳は、いまだ交わっていなかった。

 

「知りたいのですよ。私自身が如何に罪深い存在か」

「それは、神のみが計り得る命題だな。人の身では、少々重過ぎはしないかね?」

 

 二人は、歩き続けた。

 二人が、もしも並んで歩いていたならば。

 二人が、慈しみあいながら歩いたならば。

 二人は、親子にも見えたかもしれない。

 

「ああ、少し言葉足らずでしたか。私は、私自身の価値観に照らして、私がどれ程に罪深いか、それを知りたいのです」

「そうか。なら、いい」

 

 神父は、足を止めた。

 急坂の、一番傾斜の厳しい、立ち止まるにはどうにも落ち着かない、そんな箇所。

 少女は、そのまま歩を進める。

 彼女が神父の脇を通り過ぎる瞬間、彼の鼻を鮮烈な香気がくすぐった。

 芍薬、だろうか。

 それは、一夜限りの逢瀬を、神父の男性に思い出させるに十分過ぎる香りだった。

 

「自身の罪の程度を知れば、自分にどの地獄が相応しいか、自ずと明らかだ。覚悟は安心を齎してくれる。つまるところ、私は私の欲を持って、私自身のために戦っているのです。どうです、失望しましたか?」

「いや、感動をすら覚えている」

 

 少女は、遠慮の欠片も無く歩き続ける。

 神父は、それに習って、再び歩き出す。

 立ち位置がその役割を決めるとするならば、二人の役割は確かに入れ替わった。

 救いを求める信徒は、救いを与える神父に。

 答を与える賢者は、答を求める求道者に。

 

「私は、てっきりこう思っていたのだ。君は、あの少年を救うためにこの戦争に参加したのだと」

「失敬ですね、貴方は。私は、そこまで自惚れてはいないつもりです」

 

 言葉とは裏腹に、少女は微笑った。

 神父は、ふとあの女性を思い出した。

 若かった自分との間に子を為した、あの女。

 さて、あの女、名前はなんと言ったか。

 さて、己が子には、なんと名付けたのか。

 

「人は、人を救うことなど出来ません。ただ、支えあうことが出来るだけ」

「君は賢明だ。しかし、それが少し悲しいな」

 

 風が、吹いた。

 それが、少女の長髪を舞い上がらせる。

 さらさらと、さながら弦楽器のようだった。

 心地よい幻聴が耳道の奥に響くのを、神父は確かに聴いた気がした。

 ふう、という少女の溜息は、風に掻き消されて神父の耳には届かなかったのに。

 

「貴方は、何を求めて戦うのですか…?」

「私か?私はこの聖杯戦争の、監督役に過ぎん。己の望みなど、あるはずが…」

 

 少女は、振り返った。

 神父は、立ち止まった。

 二人の間に存在する傾斜が、彼らの視線の高さを同一にしていた。

 初めて、彼らの視線は交わった。

 初めて、神父は少女の射殺すような瞳を、正面から受け止めたのだ。

 少女の瞳は、言っていた。

 悲しい、と。

 漆黒の瞳。

 神父は、それを抉り出して己の眼球と交換したくなる欲望と戦わなくてはならなかった。

 潤んだ瞼で、少女は再び言った。

 それは、偽りを許さない、神罰にも似た声だった。

 

「…貴方は、何を求めて戦うのですか…?」

「…私も、君に等しい。己を計るために、戦う。それだけだ」

 

 神父は再び歩き始めた。

 視線が、高くなっていく。

 少女の瞳が、少女の額に。

 少女の額が、少女の前髪に。

 やがて、少女が彼の視界から完全に消え去ったとき、彼は初めて安堵した。

 

「私の知己にな、一人の少女がいる。その少女は蟲に犯され、その身体は蟲と成り果てた。人として生きるためには人の肉を喰らわねばならない、この世でもっとも穢れた存在だ」

「…へえ。私以外にも、そんな子がいたのですね」

 

 神父の背中に、少女の笑い声が突き刺さる。

 その声は、彼が歩みを進めるたびに、少しずつ遠ざかっていった。

 もう、ついて来るつもりも無いのだろうか。

 

「彼女は、僅か五歳のときに女性器に男性を受け入れた。それは忌むべきことだったにも関わらず、彼女は依然その処女性を失っていない。何故なら、彼女の中に存在する蟲達が、彼女の傷を癒そうとするから」

「ええ、知っています。まるで、私と同じですね」

 

 しばらく歩いてから、神父は振り返った。

 彼の視界を埋め尽くすのは、灰色の空、灰色の町並み、そこを隔てる、鈍色の帯。

 そこには、冬木港を眼前に、まっ平らな海が広がっていた。

 距離が、うねるような白い波頭を掻き消している。

 のっぺりとした、鈍色の海。

 その中央に、少女は鎮座していた。

 白黒のモノクロームの写真の一点に、鮮やかな色が付いているようだった。

 美しい、と。

 

「…彼女の処女膜は、貫かれるたびに再生する。彼女の女性は、男性に愛される都度、血の涙を流して悶えるのだ。それは、彼女の処女性が永遠に失われないことを意味している」

「…あれは、結構痛いのですよ。男性の貴方には分からない痛みでしょうけれど」

 

 苦虫を噛み潰したような少女の表情。

 それをすら美しいと、神父は思った。

 いま、彼女を押し倒せば、彼女は自分を拒むだろうか。

 おそらくそうだろうと考えて、彼はほんの少しの寂寥を味わう破目になった。

 

「彼女は、永遠に処女性を失わない。それは、彼女が処女のまま懐胎することを意味している。処女のまま懐胎することを許されたのは神の子の母たる女性のみであり、処女たる母胎から生まれ出ることを許されたのは、神の子たる彼の人のみだ」

「…果たして、そうでしょうか」

 

 神父は、己の願いが如何に狂っているかを知っていた。

 知っていて、求めた。

 少女は、その神父が如何に狂っているかを知っていた。

 知っていて、求めた。

 

「しかし、哀れなるかな。聖母は、闇に汚染されている。彼女は女として生まれ変わった瞬間に、この世でもっとも純粋な悪意と臍帯をもって繋がっている。つまり、彼女が孕むのは、やはりこの世全ての悪の御子以外、在り得ない」

「…果たして、そうでしょうか」

 

 少女は、初めて苦々しげに俯いた。

 それは、達観した様子の彼女には珍しい、苦悩を湛えたものだった。

 知らず、神父の男性は、勃起していた。

 

「神の為す行為は、悉く善と位置づけられる。ならば、神こそは善性の体現。この世全ての悪が為す行為は、悉く悪と位置づけられる。ならば、言うまでも無くそれは悪性の体現。彼女が産む赤子は、二つの対極に位置する性質の双方を、父性として生まれるのだ」

「……果たして…、そう、でしょうか…」

 

 自転車が、二人の傍を走り抜けた。

 坂の頂上からの勢いをそのままにして走りぬける、元気のいい速さだった。

 その自転車に乗っていたのは、少年だった。

 輝くような笑みを浮かべた、少年。

 果たして、坂の頂上の教会に、一体どのような用件があったのか。

 しかし、少女はその少年の面持ちを、どこかで確かに見たことがある気がした。

 それは、遥か昔の彼女自身だったと。

 誰がそれを否定しうるだろうか。

 

「偉人は、言った。人は天使よりも優れている、と。何故だかわかるか、マキリ代羽よ」

「…天使はその善性ゆえに善たる。しかし、人は自由意志を持ち、悪に染まる可能性を持ちながら善にしがみつく、故に、生まれながらに善以外となりえない天使よりも、優れている」

 

 神父は、嘲笑った。

 少女も、ほとんど同じ気持ちだった。

 この言を吐いた偉人は、気違いかそれとも相当の恥知らずだったに違いない、と。

 

「その通りだ、マキリ代羽。そして、私は思うのだよ。世を救うような善性と、人を滅ぼすような悪性を同時に備え、その方向性の定まらない存在。それをこそ人と呼ぶのではないか、と。ならば、彼女が孕むのは、原初の人に他ならない」

「…突飛に過ぎます。過大評価も甚だしい」

 

 神父は、空を見上げた。

 遠くで、雷が鳴るような低い音が響いた。 

 稲光は、無かった。

 桑原桑原と唱える必要も、まだあるまい。

 

「原初の人ならば、その魂は原罪に汚れることはあるまい。それが、果たして私に対してどういう評価を下すのか。やはり無価値と断じるか、それとも一片の価値でも与えてくれるのか…。しかし、これでは私自身を計ることにはなり得ない。そうだな、やはりこれは好奇心に属する欲望のようだ」

「つまり、貴方は貴方自身の欲望のために、私を手に入れたいと。そういうことですか?」

 

 少女は呆れたのだ。

 一人の女性を手に入れるために聖杯を欲する、目の前の男性を。

 それでも、それが誇れる事実だとは思った。

 己を求めてくれる存在がいることが。

 それが、目の前の男性でありことが。

 彼女にとっては、この上ない誇りだった。

 

「その程度のことに聖杯を必要としますか。それでは、己の性欲を満たすために腕力をもって女性を屈服させる卑劣漢と、なんら変わるところが無いではないですか」

「ああ、やはり君は聡明だ。その通り、私は君を求めるが故に聖杯を欲する。君を蹂躙し孕ませるために、聖杯を欲する。それは、間違えた行動だろうか?」

 

 これは、愛の告白に等しい。

 もし、彼女が首を縦に振れば。

 聖杯などを必要とせず、自分の子宮を彼に捧げるといえば。

 彼は、何の遠慮も無く、この場で彼女を押し倒していただろう。

 その深奥に、思うさま彼の分身である白濁をぶちまけていただろう。

 

「いえ、それは極めて正しい行動だ。もう、私が愛するのは貴方ではない。故に、貴方が私に指一本触れるなど、奇跡でも起きない限り、許されない」

「手厳しいな、なかなか。しかし、それゆえに価値があるともいえるか」

 

 天を見上げたままの神父の瞳に、太い雨粒が当たった。

 豪雨を予感させる、肥太った雨粒。

 しかし、彼の瞼が閉じられることは、無かった。

 その水滴は、涙のように彼の頬を伝った。

 

「…何故、私に会いに来た?」

「一つは、貴方が何故黒い聖杯を求めるのか、それを問い質しに」

 

 きっと、あの男がうっかり漏らしたのだろう。

 人の色恋沙汰に首を突っ込むとは、如何に王でも越権に過ぎよう。

 例えようもない不快感。

 だが、神父は笑っていた。

 瞳から涙のような雨粒を垂らし、それでもやはり笑っていたのだ。

 

「もう一つは、貴方にお別れを言うために」

「ほう、別れと」

 

 ぽつぽつと、雨が降り出してきた。

 これは、本格的に一雨来るのだろう。

 冬の、雨だ。

 早々に引き上げるべきだろう。

 彼は、坂の頂上を目指して歩き始めた。

 その背中に、会合の名残は、一切残っていなかった。

 

 

「さようなら、お父さん。私、好きな人が出来ました」

 

 

 神父は、最後に一度だけ振り返った。

 そこに、少女の姿は無かった。

 神父は、苦笑した。

 彼女が父と呼んだ男は、悉く死んでいる。

 一人目の実父は、大火の中、彼女を庇って死んだ。

 二人目の義父は、彼女に食い殺された。

 人は、いずれ死ぬ。

 ならば、私は如何様に死ぬのだろうか。

 その様を、夢想する。

 そして、彼は理解した。

 彼が、何と戦ってきたのか、を。

 

 ―――そうか。

 ―――私は、戦いたいのだ。

 ―――戦う対象を求めるために、今まで戦い続けてきた。

 ―――人の戦場ではなく、己の戦場にて。

 ―――他者の苦悩を蒐集するのではなく、己の苦悩を蒐集したい。

 ―――故に、答を求めたい。

 ―――それだけのこと、だったのか。

 

 神父は、一人ごちた。

 そこには、深奥を覗いた者のみが浮かべ得る、酷薄な笑みが、存在した。

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