FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode79 Between the hammer and the anvil 1 再開

 ぱちぱちと、種火が爆ぜる音が聞こえた。

 それは、既に祭りが終ったことを教えてくれる、音。

 もう、ごうごうと天に昇るような篝火は、燃え尽きて。

 後は、静かに消えていくだけ。

 

 死者は、黄泉へと旅立った。

 

 残されたものは、ただ喘ぐのみ。

 赤い空が、少しずつ黒い空に戻っていく。

 全てを紅く染めた光は、どこかへ消え去ってしまった。

 放たれた光は、どこへ行くのだろうか。

 その場所は、燃え尽きて消し炭になった人達が向かう場所と、同じだろうか。

 

 ならば、いいと思った。

 ならば、救われるのに。

 

 だって、あんなに真っ黒になったのだ。

 光の無い世界では、互いが互いを認識することすら叶わないだろう。

 無明の世界で、手探りでお互いを探し合う。

 のろのろと、蚯蚓のように。

 決して完成しない、ジグソーパズル。

 幾らなんでも、寂し過ぎるじゃあないか。

 それとも、煌煌とした世界で黒焦げの己を認識するほうが、残酷だろうか。

 身体中から得体の知れない体液を流しながら、愛しい人と抱擁するほうが、残酷だろうか。

 でも、俺は、一人が嫌だ。

 僕は、嫌だな。

 この、暖かい手が、知らないどこかに行ってしまうなんて。

 絶対に、嫌だな。

 だから、ぎゅうと、握り締めるんだ。

 絶対に離さないでね、お■ちゃん。

 そしたら、ぎゅうと、握り返してくれたんだ。

 そこだけが、暖かかった。

 さっきまで、全身を炙っていた炎は、もう消えてしまったから。

 今は、身体中が震えるくらいに寒いです。

 がたがた。 

 震えてるのは、僕の手か、繋いだ大きな手か。

 でも、大丈夫。

 この手が、僕を守ってくれるから。

 一緒に、歩きましょう。

 てくてく、とことこ。

 

 痛いなあ、痛いなあ。

 どこが、どこが?

 それも、わからない。

 何が痛いのか、どこが痛いのか。

 ただただ痛くて、苦しくって。

 目の前にある暖かいものを、ぎゅうと抱きしめたんだ。

 ゆらゆらと、揺れている。

 もう、体なんて、動いてくれない。

 でも、景色は、動いていく。

 ゆっくりゆっくり。

 

 ああ、分かった。

 

 お父さんが、負ぶってくれているんだ、

 もう、疲れて立てなくなってしまったから。

 遊園地に行った、あの日みたいに。

 あれあれ、なら、おかしいぞ。

 だって、お父さんは、瓦礫に潰されて、死んじゃったのに。

 

 ああ、分かった、

 

 お母さんが、負ぶってくれてるんだ。

 もう、眠くなってしまったから。

 初めて幼稚園に行った、あの日みたいに。

 あれあれ、なら、おかしいぞ。

 だって、お母さんは炎に飲み込まれて、死んじゃったのに。

 じゃあ、一体誰が、僕を負ぶってくれているのでしょうか。

 小さな、背中。

 小さな、歩幅。

 ゆっくり、ゆっくり、景色が流れていく。

 焦げ付いて、ほとんど動かなくなった瞼を、こじ開ける。

 ぱりぱりと、少し痛かったけど。

 何とか開いて、くれたよ。

 そして、見ました。

 そこには、赤い、赤い、髪の毛が。

 僕と同じ、髪の毛が。

 そうして、名前を呼んでくれたんだ。

 ■■■って。

 ああ、僕の名前。

 僕は、嬉しくなってしまった。

 

 怖いものが来るよう。

 怖いものが来るよう。

 それは、黒いもの。

 黒くて、どろどろしてて、きっと冷たいもの。

 それが、ぽっかり開いた穴から、じろじろと見つめているの。

 ぎょろぎょろと、何かを探しているの。

 僕には、あっさり分かったよ。

 きっと、あの子は、お母さんを探しているんだ。

 だって、凄く、悲しそうだったもの。

 今にも、泣いてしまいそうだったもの。

 お母さん、お母さん。

 そう言って、泣いていたもの。

 僕は、なんだか可愛そうになって。

 少しだけ、声を出してみたんだ。

 ここにいるよ、って。

 そうしたら、あの子は、とっても喜んで。

 僕のほうに、向かってきたんだ。

 ああ、嬉しいな、嬉しいな。

 あの子も、僕と、一緒だから。

 友達に、なれるかな、なれるかな。

 僕は、うきうきしてしまった。

 どろどろが、近付いてきます。

 わくわく、わくわく。

 でも、いつの間にか、体は動かなくなって。

 壊れた体は、もとから動いてくれなくて。

 ぱりぱりに乾いて、閉じなくなった瞼が、その光景を、見つめていた。

 僕と同じ、赤い髪の毛が。

 くろい、どろどろに、飲み込まれていくの。

 まるで、誰かを、庇うみたいに。

 じぶんから、どろどろの中に、走っていったの。

 きっと、もう、動かない足で。

 きっと、誰かを守るために。

 ああ、もう、ずるいなあ。

 それは、僕の、役目なのに。

 僕が、お■ちゃんを、守らないと、いけないのに。

 やめてください、やめて。

 だって、それは、俺が呼んだものだから。

 貴方が、何故、犠牲にならないといけないのですか。

 それは、俺の過ちです。

 俺に、償わせてください。

 贖罪の、機会を、奪おうというのですか。

 それは、何の、残酷な。

 ■さん、■さん。

 貴方は、どうして。

 私に、償え、と。

 そう、一言、言ってくれないのですか。

 なら、私は、この罪を。

 どうやって、償えば、いいのですか。

 教えてください。

 ■さん。

 

 ぱちぱちと、軒先を叩く雨粒の音で、目が覚めた。

 

episode79 Between the hammer and the anvil 1 再開

 

 しとしとと、雨が降っていた。

 冬の雨である。

 雪か霙かそれとも雹か、そう粉うほど、冷たい雨。

 細かい、まるで針のように細く鋭い氷雨だ。

 それが、月と星と電灯で飾られた世界を、優しく濡らしている。

 じきに、止むのだろうか。あれだけ分厚かった雲も、見上げた夜空に散らばるように。

 ばしゃりと、時折足元から水音が鳴る。

 水溜りから跳ね散る飛沫を想像して頬が緩む。

 ポケットに手を突っ込んで、歩く。

 背は、卵を守るタナゴのように曲がっている。

 少し、首を竦めながら。

 傘は、さしていない。

 特に理由は無い。

 如何に穏やかであろうが、雨は雨だ。しかも、冬も盛りの、雨。

 ならば、濡れないに越したことは無い。

 冷気は、想像以上に体力を奪うのだ。

 悴んだ手は精密さを失い、冷えた関節は柔軟性を失う。

 時期と状況を考えるなら、自殺行為と言い換えても過言ではない。

 それでも、皮膚を湿らす夜滴が心地いいと思う。

 だから、雨に身を弄らせながら、歩くのだ。 

 ふと、足を止める。

 理由は、何も無い。

 何も無いアスファルトの上、何の理由も無く歩みを止め、何も無い頭蓋で、月の在る空を見上げる。

 満月、に、限りなく近い月。 

 月に、群雲。

 ああ、明日の月は綺麗だろうな。

 そうあれば、どれ程いいだろう。

 そして。

 眼球を優しく叩く、慈雨。

 月と雨とのコントラストが、どこか冗談染みている。

 きっと、少し遠いところから風で飛ばされてきた雨粒なのかもしれない。

 息が、白い。

 その白さは、口から漏れ出した魂のようでもあり、あの夜、俺の視界で立ち昇った煙のようでもあった。

 茹だった思考に苦笑して、再び歩き出す。

 乾燥した空気よりも、湿り気を含んだ今夜のほうが幾分温かく感じるのは気のせいだろうか。

 それでも、暖かいのだ。

 ならば、気のせいだろうが鬼のせいだろうが、有難いことではないか。

 歩く。

 目的地は、定まっている。

 ならば、歩くということの何と気楽なこと。

 その道程が如何に激しく、その起伏がどれほどの体力を奪おうと、あての在る旅路は楽しいものだ。

 ならば、それのない、旅路は。

 想像しただけで、足が竦んだ。

 だから、歩いた。

 余分なことに、蓋をして。

 鼻から、冷えた大気を肺に取り入れてやる。

 つん、と、痺れるような感覚。

 思わず涙ぐむような痛覚と同時に、郷愁を誘う香りが、した。

 アスファルトの、香り。

 それとも、排気ガスと埃と、人の汗の匂いが交じり合って一体となったような、匂い。

 どこか懐かしい、少年時代を思い起こさせる、香り。

 ふと、何かを思い出しそうになる。

 こんなに、刺すように冷たい夜なのに。

 思い出すのは、茹だる様な、真夏の昼間だった。

 目も眩むような陽光。

 抜けるような青空と、お化けみたいな入道雲。

 蝉の、鳴き声。

 鮮烈な、風。

 風鈴の、澄んだ音色

 玄関で、水を撒く音。

 ひまわりの、黄色。

 じとりとした、汗の感触。

 笑顔。

 もう一人の、自分。

 西瓜。

 赤と、黒。

 笑顔。

 二人で。

 いつまでも、楽しく。

 そんな、尊い、夢。

 それを、妄想した。

 雨だ。

 雨が、洗い流してくれる。

 優しい夢は、きっと悪夢。

 俺を、縛り付ける、錠前。

 前に。

 前に。

 前に。

 ならば、洗い流されてしまえ。

 とろとろと。

 汚れは、落ちていけ。

 それがあるべき姿ではないか。

 歩く。

 歩く。

 こんな時間に、バスなんて、無いから。

 目的地まで、あと僅か。

 時折、ヘッドライトが流れていく。

 自分の影が、伸び縮み。

 いい加減、疲れないか?

 少しは、落ち着けばいいのに。

 

「ねえねえ、そこのお兄さん、ちょっと時間大丈夫かな?」

 

 忙しなく、伸び縮み。

 そして、気付いた。

 いつの間にか、下を向いて歩いていたことに。

 

「おい、無視してんじゃねえよ」

 

 見上げて歩くやつは、名誉を求めている。

 見下して歩くやつは、金銭を求めている。

 それは、人生でも散歩でも同じこと。

 名誉は、遥か上空にしか在り得ない。

 金は、己の足元にしか落ちていない。

 

「まあ、いいや。俺たち、お金が無くて困ってんのよ。ちょっとボランティアしてくんない?」

 

 いつしか、濡れそぼった髪の毛から、雨が滴っていた。

 それが、涙のように、頬を濡らした。

 氷のように、冷たい軌跡。

 最近は、泣くことが多かったから。

 なるほど、涙が熱いのは本当なんだなと、場違いな感動を抱く。

 

「…てめえ!無視してんじゃねえっつってんだろ!」

 

 肩を、捕まれた。

 その感覚に、驚いた。

 驚くと同時に、かちりと、何かが噛み合った。

 エンジンに、ガソリンが。

 ピストンが、唸りを上げる。

 心臓が、跳ね上がった。

 汗が、にじみ出る。

 視界が、鈍く揺れる。

 音が、低く、遠くなる。

 ああ、時間が遅い。

 振り向く。

 そこには、きっと、敵が。

 うん、きっと、敵だな。

 なら、どうしたって、構わないよな。

 そんな、一瞬の思考。

 脳の思考というよりは、身体の思考。

 腕を、撓めて。

 相手を視界に収める前に、裏拳を走らせる。

 鍔鳴りのような、幻聴。

 ぴんと、高い音。

 鈍い感触。

 骨を貫いた音が、俺の骨を伝わる。

 

「…!」

 

 声も無く、敵が転がる。

 顔の下半分を、面白いくらいに歪ませたまま。

 視界に映るのは、五人。

 崩れ落ちていく、一人。

 後は、四人。

 顔が、黒い。

 飛び込む。

 罵声。

 聞こえない。

 左中段蹴り。

 膝を撓めて、足先を走らせる。

 バネか、弦のイメージ。

 脇腹にめり込む爪先の、心地よい感触。

 

「えげッ!」

 

 めしりと、あばら骨の拉げる、音。

 跳ね上がる肝臓。

 ごぼりと聞こえたのは、反吐が逆流する音だろうか。

 敵の覇気が、目に見えて衰える。

 それでも、身体は止まらない。

 止めようなんて、思わない。

 これが、機能だからだ。

 物が本来持つ機能を、思うが侭に振るう様というのは、美しいものだ。

 そして、これが俺という物の、機能。

 十年も、磨き続けてきた刃。

 はは、なるほど、情けない。

 この、程度か。

 倒れていく影を無視して、一歩踏み込む。

 新たな、敵。

 大きく足を広げた、無様な立ち姿。

 ああ、そんなんじゃあ、そこを蹴ってくれって言ってるのと同じじゃあないか。

 右足を、垂直に振り上げる。

 下から、上に。

 ちょうど、敵の股に、滑り込ませるように。

 だが、そのまま振り上げてなんか、やらない。

 当たる直前に、少し、横に捻るように。

 こうやると、金玉は、逃げてくれない。

 逃げることの出来ない金玉は、どうなる?

 決まっている、蹴り潰されるのだ。

 足先に、感触。

 ぷちりと、何かが潰れた様な。

 きっと、幻覚だ。

 

「げうっ!」

 

 蛙を潰したような、声がした。

 なるほど、急所を潰されると、人間はこんな声を上げるのか。

 いい勉強に、なったなあ。

 

「ひい!」

 

 後ずさる、二体。

 ああ、なるほど。

 そっちに、援軍がいるんだな。

 お前達が逃げ去る先に、武器が隠してあるんだな。

 じゃあ、逃がすわけにはいかないな。

 ここで、仕留めないとな。

 大きく、踏み込む。

 狙いは、鼻頭。

 ここを痛撃されると、涙が出る。

 まず、何よりも戦う意志が萎える。

 だから、狙うなら、ここだな。

 真っ直ぐ。

 肩口から、目標まで、何の遊びも無い、真っ直ぐの、打撃。

 最短距離を、一直線。

 縦拳。

 

 ごしゃり。

 

「…!」

 

 軟骨の潰れた音が、拳から身体の中心へと反響する。

 目標は、腰を視点にして、くるりと後ろにひっくり返った。

 ごつ、と、アスファルトと後頭部の奏でる衝突音。

 白目を向いて、悶絶している。

 開かれたままの口、そこに前歯は見当たらなかった。

 

「…ば、化け物…!」

 

 化け物?

 

 ああ、なるほど。

 お前、化け物を連れてくるつもりだな。

 サーヴァントみたいな化け物を、使役するつもりだな。

 じゃあ、倒さないとな。

 ここで倒さないとな。

 あと、一人だしな。

 ゆっくり、近付く。

 あれ?

 早く、倒さないといけないのに。

 早く、仕留めないといけないのに。

 なんで、俺の歩調は、こんなにゆっくりなんだろう?

 これじゃあ、俺が虐めているみたいじゃあないか。

 愉しんでいるみたいじゃあないか。

 なんだ、この頬の強張りは。

 これじゃ、まるで嗤っているみたいじゃあないか。

 悦んでいるみたいじゃあないか。

 

「ゆ、ゆるして…」

 

 え?

 ゆるして、何?

 あ、そうかそうか。

 もう、許してあげない、そう言いたいんだな。

 いい度胸じゃあないか。

 もう、一人しかいないのに。

 そんなに、顔を歪ませて。

 そんなに泣きそうになりながらも、なお戦おうとする。

 天晴れだ。

 凄いぞ、お前。

 じゃあ、本気でやらないと、失礼だな。

 手を、握る。

 拳を作る。

 それを、頭の高さまで、あげる。

 ちょうど、拳で頭を挟み込むみたいに。

 顎を、引く。

 背中を少し曲げて、前傾姿勢に。

 膝を、楽にして。

 足は、肩幅程度に。

 左足が、前。

 右足が、後ろ。

 爪先は、やや内股気味に。

 こうしないと、さっきのヤツみたいに、急所を潰される破目になる。

 切嗣に教えてもらったんだ。

 無手での戦い、その基本の立ち姿。

 そして、視線は敵を殺すかのように。

 

 って、あれ?

 

 目の前に、誰もいない。

 誰の姿も、ない。

 おかしいな。

 確か、誰かが、何かがいたような気がしたけどな。

 ああ、きっと、最初から誰もいなかったんだ。

 誰も、いなかった。

 ここは、影絵の世界だから。

 感じるのは、俺の息遣いだけ。

 それ以外の呻き声は、悉くが俺の幻聴。

 泣き声。

 反吐の毀れる音。

 折れた前歯と吐息が奏でる、甲高い風切音。

 その全てが、気のせいだ。

 そう思って、俺は走り出した。

 何故。

 そう問われれば、俺には答えることなんて、出来なかった。

 ただ、自分が情けなかった。

 この、身を焦がすような激情の正体が、わからなかったから。

 きっと、俺は脅えているんだ。

 そう、思った。

 走った。

 駆け足とかではない。

 ほとんど全力疾走だ。

 腕を、全力で振り。

 肺を、全力で駆動させる。

 息の白さが増していく。

 熱が、どんどん生産される。

 そして、費消されていくのだ。

 その感覚は、快美といえば、快美であった。

 それでも、やがて息が上がり、ふらつく足で立ち止まったとき。

 俺は、そこに立っていた。

 公園の、入り口。

 

 冬木中央公園。

 

 その、正面入口。

 車止めの、鉄の門。

 背の高い、木。

 既に消えた、電灯。

 風に揺れる木々が、まるで襲い来る魔物のように。

 ざわざわと、木の葉が擦れあう。

 黒と、影が支配する世界。

 一歩立ち入るだけで、寒気がした。

 背筋をちりちりと焼くような、不快感。

 無限の怨嗟が、聞こえる。

 

 ―――妬ましい。

 ―――私にも、温い身体を。

 ―――寒いのです。

 ―――お母さん、どこ?

 ―――よくも、見捨てやがったな。 

 

 風と木々が遊ぶ音、その音に混じるように、幾百の人の声が混じる。

 混在に、混一となった声は、木々のざわめきと同化する。

 結局、何一つ聞くことは出来ない。

 耳に心地いいような喧騒が残るだけ。

 死者の為せることなど、所詮はその程度。

 生者に呪詛を吐き掛ける、それくらいのもの。

 それくらいの、それ。

 それが、あまりに苦しくて。

 やはり、俺は、走ったのだ。

 心の奥で、謝りながら。

 口に出して、謝りながら。

 御免なさい。

 御免なさい。

 あの夜、俺は、貴方達を見捨てました。

 ただ、自分だけが助かりたいと、そう思いました。

 絶対に、貴方達と同じになるのは嫌でした。

 だから、逃げたのです。

 大事なものを見捨てて、逃げたのです。

 逃げました。

 だから、私がいます。

 今の、私がいます。

 決して消えない罪に塗れた、私が、ここに立っています。

 どうぞ、その様を見て御楽しみください。

 滑稽に、無様に、どこまでも醜悪に溺れる私を見て、その溜飲を下げてください。

 それくらいしか、私には出来ません。

 歩く。 

 視界が捉えた情報を、脳が処理してくれない。

 くらい、世界。

 何も、見えない。

 そんなことは、意識の埒外だった。

 聴覚も、嗅覚も、範疇から外れている。

 それでも、触覚だけは生きているんだな。

 こつこつと堅かったアスファルトの地面。

 それが、じゃりじゃりと小気味のいい砂利音に変わったとき。

 灯りを失った街灯、その下に置かれた、ベンチ。

 見慣れた、古びて錆びの浮いた、ベンチ。

 そこに、さらに見慣れた人影が、腰を下ろしていた。

 腹痛を抑えるように、蹲った人影。

 影としか映らないそれは、驚くほどに小さく、弱弱しかった。

 無言で、近付く。

 こちらが気付いたのとほぼ同時にあちらも気付いたのだろうか。

 のそりと、頭を上げた。

 きっと、こちらを向いているのだろうか。

 それすらも不鮮明な、闇。

 空を見上げれば、いつの間にか雲が月を隠している。

 無粋なことだ。

 溜息を付いてから、更に歩を進める。

 それでも、影は、動かない。

 こちらをじっと見つめたまま、微動だにしないのだ。

 その様子が、巣穴から顔だけ出した兎みたいで、少し可愛らしかった。

 風が、止んだ。

 木々が、押し黙る。

 響くのは、俺の靴音だけ。

 じゃりじゃりと、細かく石の擦れあう、音だけ。

 後は、心臓の鼓動と、白い呼吸音。

 それで、十分だろうか。

 

「俺が、遅れたのかな?」

 

 まだ、お互いの顔すら確認できない、距離。

 足を止めて、囁く。

 睦言のように、密やかに。

 おそらくは、彼女が聞き取れる、最小限の音量。

 それすらも、まるで改造車のマフラー音みたいに、夜気を切り裂いた。

 

「…いいえ。私が勝手に来て、勝手に待っていただけ。貴方は、おそらく遅れていない」

 

 ぼそぼそと、苦痛を噛み殺すような、声。

 一言一言が、石を吐き出すように重々しい。

 緊張、しているのだろうか。

 であれば、まだ可愛気があるというものか。

 

「でも、寒かっただろう?もう少し早く来たほうが、よかったな」

 

 くすりと、洩れるような笑い声。

 冗談を言ったつもりは無かったが、それでも笑ってくれるなら儲けもの。

 

「そうですね。冬の雨は、少し冷たかった。でも、もう、そんなことすら、忘れてしまいましたから」

 

 彼女は、そう、寂しそうに言った。

 影が、ごそごそと動いた。

 ポケットから何かを取り出そうとしているらしい。

 背筋に僅かな緊張が走ったが、一瞬遅れて、己の愚鈍さに呆れた。

 もし、不意打ちで殺してよしとするならば、俺はもうこの世にいない。

 あの時、まるで大蛇のような何かが意識を締め落としたとき。

 彼女は、如何様にでも俺を殺すことが出来たのだ。

 ならば、今更である。

 頬が、爽やかに笑みを作っていた。

 やがて、彼女は目的のものを見つけたようだった。

 そこから、細い何かを取り出して、口に咥える。

 その先に、手を翳す。

 かちりと、一瞬だけ、辺りが明るくなる。

 小さな炎に照らし出された彼女の顔は、痛ましいほどに濡れそぼっていた。

 

「まだ、未成年だろ?」

「ああ、それは気付かなかった」

 

 紫煙が、燻る。

 彼我の距離は、まだ遠い。

 その空間を、ニコチンとタールの香りが埋め尽くす。

 それは、どこか遠い昔に嗅いだことのある匂いだった。

 切嗣の愛飲していた煙草かと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 更に、更に、遠い昔の記憶だった。

 

「旨いのか、それ」

「甘くはありません」

 

 小さな小さな灯りが、洞穴みたいな暗やみに、燦然と輝く。

 彼女の口から、大きな煙が吐き出される。

 その、満足げな吐息に、羨望を覚える。

 

「前から、吸っていたのか?」

「私が吸うのは、初めてです。でも…、来し方に、いえ、それとも行く末にでしょうか、吸っていたことがあるようですね」

 

 彼女の声は、楽しげに揺れていた。

 からかわれているのか、そう思ったが、どうやらそうではないらしい。

 彼女が愉しんでいたのは、くだらない嘘を吐くことにではなく、己の甘んじる運命に対して。

 ならば、彼女の言うとおりなのだろう。

 彼女は、近い未来か遠い未来に、紫煙を嗜むのだ。

 彼女には、それが分かる。

 それだけの話だ。

 

「…女の子は、煙草を吸わないほうが、いいと思う」

「何故?」

「赤ん坊に、悪いだろう」

 

 彼女は、くつくつと声を殺して微笑った。

 小さな背中が、ひくひくと動いている。

 

「…私を抱く人間が、いるとでも?私が人の子を孕むことが出来るとでも?私がどういう存在か、気付いているでしょう?」

 

 その声は、自嘲にすら塗れていなかった。

 己の姿をあるべきものとして捉える、諦観の響きがあった。

 そのことが、何よりも悲しかった。

 

「…悪い」

「いえ、貴方を責めたわけではありませんから」

 

 彼女は、目の前にある水溜りに、煙草を投げ込んだ。

 じゅ、と、線香花火が落ちたときのような幻聴を、聴いた気がした。

 やがて訪れた、完全な暗闇。

 光の残像が、白い闇となって黒い闇を侵している。

 ふらふらと、それこそ幽霊のように。

 襲ってくれればいいのにと、そう思った。

 

「例えば」

 

 彼女は、言った。

 冷静を取り戻した、いつもの彼女の声で。

 

「遭難した旅人が、死んだ仲間の肉を食べて生き残ったとして、それは罪でしょうか?」

 

 透き通る、声。

 耳の、いや、脳味噌にかけられた一番頑強な鍵をすらをすり抜けるような、声だ。

 

「…」

「飢えで生死の境を彷徨う者が、同じ境遇にある者から食べ物を強奪して生き残ったのならば、それは罪でしょうか?」

 

 なんと、くだらない。

 そんな、有史以来議論され尽くしたような、ありふれた議題。

 答なんて、決まっているじゃあないか。

 命の危機にあるものが止むを得ずにとった行動は、そのほとんどが罪には問われない。

 カルネアデスの舟板。

 緊急避難というヤツだな。

 

「それは…」

「全身に火傷を負って、立ち上がることすら出来なくなった子供が、同じ境遇にある被害者を見捨てたとして、それは罪でしょうか」

「罪だ」

 

 断言した。

 罪だ。

 間違いない。

 それは、許し難い罪だ。

 万人が許したとして、それでも俺だけは許さない罪だ。

 決して、許されてはならない。

 絶対に。

 絶対に。

 俺は、許さない。

 俺は、俺を、許さない。

 

「…そうですか。やはり、貴方は私を許しては、くれないのですね…」

 

 寂しげに、彼女は呟いた。

 ゆるりと、立ち上がる。

 影が、小さな影が、やはり小さな立ち姿を晒す。

 それは、今にも消え去りそうな実在感だった。

 

「…違う。俺は、俺を許さない、それだけの話だ」

「…ふふ、それはね、勘違いですよ。貴方は、あの夜、もう一歩も動けないほどの傷を負っていたのですから。肺をすら焼き尽くされた子供が、どうして寒空の下を逃げ惑うことができるでしょうか」

 

 いつしか、彼女の両手には、星の光を反射させる何かが、握られていた。

 硬質で、透明感のある輝き。

 それは、剣、だった。

 一瞬、もう会うことの叶わない、弓兵の姿を見出した。

 気のせいだと、そう思った。

 

「…代羽。お前は、聖杯に何を望む。何故、奇跡なんて碌でもないものを、欲しがるんだ?」

 

 奇跡。

 奇跡の大逆転。

 奇跡の勝利。

 それは、敗れたものからすれば、悪夢の敗北であり、恥辱の失態だ。

 奇跡なんて、碌なものじゃあない。

 頑張ったものには、相応の御褒美を。

 それがあるべき姿じゃあないか。

 

「私は、この世界を自分のものにしたい。世界征服、素晴らしい響きだと思いませんか?」

 

 その音は、限りない空虚さを持って周囲を満たした。

 誰が聴いてもわかるだろう。

 

「…嘘だ」

「嘘ではありませんとも。世界を自分のものにする。どんな愚劣なことをしても、どんな卑劣なことをしても、許される。それはなんと、素晴らしい」

 

 呪文を、小さく呟いた。

 手に、ずっしりとした重量感。

 干将・莫耶。

 きっと、彼女の持つ双剣のように、輝いていることだろうか。

 

「今までね、苦痛にのた打ち回る私に気付かなかった世界に、復讐をするのです。私が助けを求めても、それに答えなかった全ての人間に鉄槌を下すのです。それは、私に認められた当然の権利、そうは思いませんか?」

 

 微動だにしない、大気。

 それを、雲間から差し込む月光が、切り裂いていく。

 中空を漂う水分が、光に反射してきらきらと輝く。

 その中で、彼女は。

 切れるような、鋭い笑みを浮かべながら、立っていたのだ。

 濡れた髪は、きらきらと光を跳ね返して。

 病的に、白い肌。

 身を包むのは、黒い装束。

 所々を、如何にも頑丈そうなプレートで保護している。

 ボディアーマーのようなものだろうか。

 

「力を思う様に振るう。それは、快楽です。まるで、先程の貴方のように」

「…なんだ、趣味が悪いな。覗き見か」

「ふふ、正確に言うなら、私ではなくアサシンが、ですけども」

 

 顔が、みるみる赤くなっていくのが、分かった。

 情けないところを見られた、そう思う。

 今思えば、あれは完全な八つ当たりだった。

 かわいそうなことをしたものだ。

 

「少し、やり過ぎでした。あの中には、おそらくこれからの人生でなんらかのハンデを負って生きていかなければいけない者もいるでしょう。それを、貴方はどう思いますか?」

「…運が悪かったんだろ。それだけだ」

 

 降りかかる火の粉は、払うさ。

 これじゃあ、まるで慎二の台詞だけどな。

 その結果、火の粉がどうなろうか知ったこっちゃ無い。

 それが、当然だろう?

 

「…そこまで、毒されましたか。それは、些か、貴方には相応しくない」

 

 彼女は、その両手をだらりと下げた。

 背筋を曲げた、前傾姿勢。

 脱力と、それが生み出す不動の中の勢い。

 間違いない。

 あれは、アーチャーの構えじゃあないか。

 

「…代羽、お前、それをどこで…」

「もう、音をもって語るべきは終りました。後は、強きをもって正しさとする領域です」

 

 手に汗が、滲んだ。

 目の前の少女の放つプレッシャーが、信じられなかった。

 こいつは、こんなに強かったか?

 信じ難い。

 もし、ヨハネが現れるなら、別段。

 何で、こいつがこんなに強いんだ?

 

「もしも、私が誤りで、己を正答と信じるならば。貴方の愛しき人を、再びその手に抱きたいのならば。さあ、衛宮士郎。貴方の持つ全ての暴力をもって、私を否定してみせなさい」

 

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