FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
雨で、あった。
しとしとと降る、優しい雨であった。
それは、死者を黄泉に届ける葬列のように、優しい雨であった。
煙が、立ち昇る。
既に辺りは暗いというのに、その白さだけが不思議と際立っていた。
男は、走る。
煙の白さも、雨の冷たさも、無視して。
ただ、走った。
一刻も早く、と。
涙で頬を濡らしながら、走った。
絶望で砕けそうになる心を押し留めながら、走った。
男は、必死だった。
必死に、探していた。
何を?
男はそう問われれば、あまりの恥に、自害していたかもしれない。
彼が探していたのは、人間だ。
あちこちに転がっている、人間だった物では、ない。
人間。
息をしている、人間。
心臓の動かすことの出来る、人間。
生きている、人間。
男は、それを求めて、走り回った。
幾度も瓦礫に足を取られながら、走り回ったのだ。
声が、響く。
もう、辺りに音を立てることのできる何かは、ほとんど存在しないから。
不思議なほど、涙に濡れたその声が、よく通るのだ。
誰かいないのか、と。
誰か、生きている者はいないのか、と。
頼むから、誰か生きていてくれ、と。
それは、男の、心からの叫びだった。
もし、誰もいなければ。
彼がその悉くを、殺し尽くしてしまっていたのならば。
もう、生きていくことは、できない。
その確信が、あった。
だから、男は走り回った。
生きてくれていれば。
生きてくれてさえいれば。
男の手には、騎士王の鞘。
それが在れば、助けることが叶う。
そう確信して、走り回って。
走り回って、走り回って。
咽喉が裂けるほど叫んで、肺が潰れるほどに走り回って。
結局、男は、絶望した。
どこにも、いなかった。
生きている人間など、どこにもいなかったのだ。
男の頬が、自嘲に歪んだ。
知っていた、ことだ。
呪いが、溢れたのだ。
人類全てを殺し尽くす呪いが、溢れたのだ。
こんなちっぽけな町、多い尽くすのが如何程のことだろう。
逃れられるはずなど、無い。
死んだのだろう。
苦しみながら、死んだのだろう。
悲しみながら、死んだのだろう。
怨み言を吐きながら、死んでいったのだろう。
―――いたい。
―――あついあつい。
―――しにたくない。
―――なんでわたしだけ。
―――たのむ、おまえだけは、いきのこって。
―――うらめしい。
―――いやだ。
―――ゆめだ。
―――おねがいだから。
不憫だと、思った。
彼らは、誰が己らを殺したのか、それすらも知らずに黄泉路へと旅立ったのだ。
恨むことすら、許されない。
恨む対象が、見つからない。
ならば、恨むことができるのは、自分自身だけだ。
男は、誰よりもそのことを知っていた。
だからこそ、正義の味方などという、訳のわからぬ存在を目指したのだから。
ならば。
自分を恨むことしか、出来ないならば。
家族を、恋人を、恩人を守ることの出来なかった罪を、己に課すことしか出来ないならば。
その魂は、永遠に救われることは、在るまい。
他ならぬ、己が許すことが出来ないのだから。
他の誰が許したところで、その魂は地獄の最下層を這いずり回る。
本来、別の人間に与えられるべきだった罰を求めて、這いずり回り続けるのだ。
永遠に、永遠に。
全ての魂が。
自分が、罪人だと。
自分が、見捨てたのだと。
お互いが、お互いを、見捨てたのだと。
そう勘違いしながら、只管に許しを請い続けるのだ。
永遠に、永遠に。
その様子を想像して、男は嘔吐した。
胃の腑を吐き出すように、激しく嘔吐した。
地面に蹲り、神に許しを請う罪人のように頭を垂れながら、嘔吐し続けた。
涙と涎が、絶え間なく流れる。
男の目の前には、黄色と、それに赤の混じった、水溜り。
饐えた臭いは、焦げ臭さに掻き消された。
そして、その焦げ臭さすら、彼の鼻は認識してくれない。
もう、慣れてしまったのだ。
だから、臭いは、無かった。
そのことが悲しくて、男はまた泣いた。
泣いて、しばらく泣き喚いて。
やがて、ふらりと、立ち上がる。
彼の瞳は、澄み切っていた。
ゆっくりと、歩み始める。
それは、救いを求めての道行きではない。
それは、結論を求めての道行きであった。
男が求めた、最後の結論。
曰く、罪人は死ね。
それは、間違いなく逃避だった。
死に勝る罰はないが、それと同義に、死に勝る許しも存在しない。
自分の未来を、思い煩わなくて、済む。
結局、楽なのだ。
自分を責める声。
自分を責める、自分の中からの声。
耳を塞いでも、聞こえてくる。
鼓膜を破って、耳小骨ごと蝸牛を引きずり出しても、聞こえてくるだろう。
その声が、余りにも苦痛だから。
男は、彼にとって最も安楽な道を歩もうと、決意したのだ。
だから、そこに、崇高な理念など、無かった。
責任を取るとか、世を儚んでとか、そういう詩的なものは、一切無かった。
敗残者の自己憐憫と、現実逃避。
在ったのは、精々がそれくらいのもの。
男はそのことを理解しながら、のろのろと歩き続けた。
場所は、決まっていた。
あの、黒い太陽が、現界した、場所。
この地獄の中央。
そこが相応しいと、理由もなく、そう思ったのだ。
歩いた。
もう、できるだけ地面は見ないようにした。
そこに何が在るのか大体は分かっていた。
何より、死に場所までの道行きは、せめて己を責める声は小さくあって欲しかった。
それでも、その声は刻一刻と大きくなっていった。
もう、耐え切れない。
ついに、最後の場所まで歩くことすら耐え難くなって。
彼が、自分の骨で作った弾丸を、愛銃の弾倉に詰め込もうとしたとき。
音が、した。
久しぶりに、彼自身の罵声以外の音を聞いた男は、驚いた。
驚いて、走り寄った。
万が一の可能性に、賭けたのだ。
その時の、彼の表情。
頬は削げ、目は血走っていた。
髪が白くなっていないのが、いっそ不思議だった。
それでも、その瞳は、希望に濡れていた。
もしかしたら。
その後に続く言葉は、飲み込んだ。
それを声に出して、そこに何も無ければ、自分は狂うと、理解していたから。
そして、その判断が正しかったことを、男は知る。
死体、だった。
黒焦げの、死体。
それが、熱による引き攣れで、僅かに動いたのだ。
それだけ、だった。
彼は、弾倉に銃弾を、詰め込んだ。
そして、また、歩き出した。
手に握った冷たい金属が、男に無上の安心を与えてくれた。
彼を終らせてくれるその冷たさを、初めて愛おしいと思った。
それくらいしか、彼の手には残っていなかった。
妻は、死んだ。
教え子は、死んだ。
娘は、戻らない。
暖かいものは、全てを置き忘れてしまった。
もう、何も、残っていなかった。
いつしか、彼の無表情には自嘲の笑みすら浮かばなくなっていた。
それでも、歩き続けた。
ふらふらとした足取りで。
手には、黒光りのする金属を持ちながら。
幾度も彼の生命を救った武器だ。
幾人もの血を啜り舐めた、武器である。
ならば、己に最後を与えるのに、これほど相応しいものもないだろう。
それだけは幸運だったと、男は思った。
そうして、また音が、聞こえた。
ぱしゃりと、水溜りに足を突っ込んだような。音だった。
男は、再び走った。
その表情に一片の輝きも残さぬままに、走った。
絶望しながら、走ったのだ。
もしかしたら。
その後に続く言葉は、飲み込んだ。
それを声に出して、そこに何も無ければ、自分は狂うと、理解していたから。
そして、その判断が正しかったことを、男は知る。
死体、だった。
犬の、死体だった。
黒焦げの犬の、死体だった。
その、おそらくは尻尾に当たる部分が、不自然に濡れていた。
そこに、いくつかの肉塊が、転がっていた。
まるで、子犬のような形をした、肉塊。
男は、理解した。
きっと、死んでから破水したのだ。
それとも、最後の力で産み落としたのか。
男は、肉塊に、目をやった。
無惨に、命でなかったかのように転がった、数匹の子犬。
それを、彼は抱き上げて。
丁寧に、心音を確かめて。
その全てが止まっていることを、確認した。
男は、黒焦げの母犬、その乳房のあった場所に、子犬の死体を、並べた。
只の、自己満足だ。
母犬の顔は、笑ってくれなかった。
男は、ふらりと、歩き出した。
のんびりと、そこらを散歩するような足取りで。
そうして、たどり着いた。
大火災の中心。
惨劇の始まりの地。
そうして、それが終る場所。
そこに、ただ、立ち尽くす。
どれだけの間、そうしていたのだろうか。
やがて、男は銃身を、口中の奥深くに突っ込んだ。
もう、一瞬だって、生きていたくなかった。
頭蓋の中で反響する検察官の声は、その音量を増していくばかり。
それだけではない。
弁護人も、彼を非難する。
傍聴席からも、罵声が飛ぶ。
裁判長が、にやにやしながらそれを眺める。
そんな風景が、彼の脳味噌の中に、あった。
それを、吹き飛ばしたかった。
如何にも正当なそれが、ただ苦痛だったのだ。
それだけだ。
そして、彼の震える指が、引き金にかかったとき。
また、音がした。
またかと、彼は思った。
彼は、引き金を引いた。
引こうとした。
それでも、引けなかった。
いつもはあれだけ軽い引き金が、今だけは鉛以上に重たかった。
彼は、呆れた。
これだけ生を疎いながら、それでも生にしがみつこうとする己が、哀れなほどに浅ましくて。
それを断ち切ろうと、最後の力を込めたとき。
声が、したのだ。
音では、無かった。
声だった。
擦れて、潰れて、今にも消えそうな弱々しい響きではあったが。
それは、間違いなく、人の声だったのだ。
男は、銃を投げ捨てた。
己に最後の救いを与えてくれるであろう、救いの主を投げ捨てた。
それは彼なりの覚悟だった。
そこに、彼を救ってくれる何かがいれば、よし。
いなければ。
彼は、罰を受ける決意をしたのだ。
生きよう、と。
無様に、卑劣に、外道として生きようと、決意した。
死を恐れたと人が言えば、理不尽な怒りをもってそれを殺そうと。
老人から奪い、女を犯し、子供を殺し、それを笑うような。
もう、あらゆる存在が己に唾を吐きかけるように。
そんな惨めな贖罪を送ろうと、そう決意した。
そして、走った。
それが最後の疾走になるという、確信があった。
もう、二度と走ることはあるまい。
だから、走った。
そして、見つけたのだ。
黒焦げの、子供。
髪は、焼けて焦げ落ちている。
目は、片方だけ見開かれたまま。
きっと、瞼を閉じる力すら、残っていないのだ。
手と足は、綺麗に折りたたまれている。
それは、焼死体のそれと、何ら変わるところが無かった。
それでも、その瞳は、確かに生きていた。
絶え間なく涙を流し続けるその瞳は、確かに生きていた。
男は、何事かを呟いた。
彼は、何よりも彼自身を信じることが出来なかった。
これは、奇跡だと思った。
せめて、許されたのだと。
この上なく罪に塗れた、餓鬼がひり出す糞便にも劣る、この身ではあるけど。
せめて、この子を助けることだけは許されたのだと。
それは、紛れもない奇跡であった。
男は、この上ない幸福に包まれて、少年を抱き上げた。
少年は、漂白された意識の中で、男を見詰めた。
それは、互いにとって、確かに救いだった。
この瞬間だけは、何人もそれを否定し得なかっただろう。
◇
かつん、かつん、と、靴音が反響した。
男は、冷たい廊下を、歩いていた。
冷たい、リノリウムの廊下。
しかし、不思議と無機質ではなかった。
時折、子供の笑い声が、聞こえた。
話に聞いたことがあった。
内科棟の患者は元気が無いが、外科棟の患者は、元気がいい。
遠からず健康を取り戻すことが叶う、その確信が声を明るくするのだ。
なるほどと、彼はそう思って、久方ぶりの笑みを作った。
鼻を刺激する、消毒薬の匂い。
それに、どこか生臭い、生きた人間が発する臭いを足すと、病院の空気になる。
そんな、埒もない、思考。
彼はそれに呆れて、目的地を探し出す。
もう、集中治療室から移されたことは、知っている。
面会謝絶の看板も、一週間ほど前に取り払われた。
だから、彼の足を遠ざけたのは、純粋な恐怖心。
もし、糾弾されたら。
あの瞳が、この身を詰ったら。
そう思うと、足が竦む。
それでも、彼は歩いた。
それが、最後の矜持だった。
やがて、病室が現れた。
受付けで教えてもらった部屋番と、何度も見比べる。
そして、深呼吸を一回。
いや、二回三回。
こんなに緊張したのはいつ以来だろうかと、思い返す。
何と、話しかけようか。
記憶は失っているらしい。
無理も無いだろう。
あんなに幼い子供が、死に瀕した、いや、間違いなく死んでいたのだ。
ならば、記憶の一つや二つで済めば、儲けものである。
男はそこまで考えて、第三者のような己の思考に吐き気を催した。
嘔吐く声を、噛み殺す。
酸っぱい唾を、無理矢理に飲み下す。
浮かんだ涙を、スーツの袖で擦り取る。
名前は、知っている。
子供の、名前。
幸運にも、服の製品タグに名前が書いていたらしい。
その部分だけが、何かに守られるように、焼けていなかったとのこと。
士郎と、いう。
それが、この子供の名前だ。
もう一度、深呼吸。
何を話そうか。
まず、彼はどうしたいか、それを聞こう。
きっと、性急に過ぎる質問だろうけど。
それでも、これだけは聞いておかなくては。
得体の知れない、見たことも無い、中年の男。
それに引き取られたいなどと、いくら子供でも思わないだろう。
それでも。
それでも、もし。
もし、少年が、男の息子になることを選んでくれたなら。
男は、いずれその全てを打ち明けるつもりだった。
彼の主観からすれば、まるで永遠のような逡巡。
そうして、やがて男は、病室の扉を開く。
白い、室内。
開け放たれた窓、そこから入ってくる風が、白いカーテンを弄る。
白いベッド、白いシーツ。
白い包帯に、ぐるぐる巻きになった、少年。
不思議そうな、まるで人形のような視線を、男に寄越す。
その無垢に、彼は気圧された。
まるで彼の罪を糾弾しているかのようだと、思った。
それでも、精一杯の勇気と、最後の意地を込めて、彼は言ったのだ。
「やぁ、士郎君、思ったより元気そうだね、よかった」