FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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Between the hammer and the anvil 2


episode81 Between the hammer and the anvil 3 士郎

 雨で、あった。

 

 しとしとと降る、優しい雨であった。

 

 それは、死者を黄泉に届ける葬列のように、優しい雨であった。

 

 煙が、立ち昇る。

 

 既に辺りは暗いというのに、その白さだけが不思議と際立っていた。

 

 男は、走る。

 

 煙の白さも、雨の冷たさも、無視して。

 

 ただ、走った。

 

 一刻も早く、と。

 

 涙で頬を濡らしながら、走った。

 

 絶望で砕けそうになる心を押し留めながら、走った。

 

 男は、必死だった。

 

 必死に、探していた。

 

 何を?

 

 男はそう問われれば、あまりの恥に、自害していたかもしれない。

 

 彼が探していたのは、人間だ。

 

 あちこちに転がっている、人間だった物では、ない。

 

 人間。

 

 息をしている、人間。

 

 心臓の動かすことの出来る、人間。

 

 生きている、人間。

 

 男は、それを求めて、走り回った。

 

 幾度も瓦礫に足を取られながら、走り回ったのだ。

 

 声が、響く。

 

 もう、辺りに音を立てることのできる何かは、ほとんど存在しないから。

 

 不思議なほど、涙に濡れたその声が、よく通るのだ。

 

 誰かいないのか、と。

 

 誰か、生きている者はいないのか、と。

 

 頼むから、誰か生きていてくれ、と。

 

 それは、男の、心からの叫びだった。

 

 もし、誰もいなければ。

 

 彼がその悉くを、殺し尽くしてしまっていたのならば。

 

 もう、生きていくことは、できない。

 

 その確信が、あった。

 

 だから、男は走り回った。

 

 生きてくれていれば。

 

 生きてくれてさえいれば。

 

 男の手には、騎士王の鞘。

 

 それが在れば、助けることが叶う。

 

 そう確信して、走り回って。

 

 走り回って、走り回って。

 

 咽喉が裂けるほど叫んで、肺が潰れるほどに走り回って。

 

 結局、男は、絶望した。

 

 どこにも、いなかった。

 

 生きている人間など、どこにもいなかったのだ。

 

 男の頬が、自嘲に歪んだ。

 

 知っていた、ことだ。

 

 呪いが、溢れたのだ。

 

 人類全てを殺し尽くす呪いが、溢れたのだ。

 

 こんなちっぽけな町、多い尽くすのが如何程のことだろう。

 

 逃れられるはずなど、無い。

 

 死んだのだろう。

 

 苦しみながら、死んだのだろう。

 

 悲しみながら、死んだのだろう。

 

 怨み言を吐きながら、死んでいったのだろう。

 

 

 ―――いたい。

 ―――あついあつい。

 ―――しにたくない。

 ―――なんでわたしだけ。

 ―――たのむ、おまえだけは、いきのこって。

 ―――うらめしい。

 ―――いやだ。

 ―――ゆめだ。

 ―――おねがいだから。

 

 

 不憫だと、思った。

 

 彼らは、誰が己らを殺したのか、それすらも知らずに黄泉路へと旅立ったのだ。

 

 恨むことすら、許されない。

 

 恨む対象が、見つからない。

 

 ならば、恨むことができるのは、自分自身だけだ。

 

 男は、誰よりもそのことを知っていた。

 

 だからこそ、正義の味方などという、訳のわからぬ存在を目指したのだから。

 

 ならば。

 

 自分を恨むことしか、出来ないならば。

 

 家族を、恋人を、恩人を守ることの出来なかった罪を、己に課すことしか出来ないならば。

 

 その魂は、永遠に救われることは、在るまい。

 

 他ならぬ、己が許すことが出来ないのだから。

 

 他の誰が許したところで、その魂は地獄の最下層を這いずり回る。

 

 本来、別の人間に与えられるべきだった罰を求めて、這いずり回り続けるのだ。

 

 永遠に、永遠に。

 

 全ての魂が。

 

 自分が、罪人だと。

 

 自分が、見捨てたのだと。

 

 お互いが、お互いを、見捨てたのだと。

 

 そう勘違いしながら、只管に許しを請い続けるのだ。

 

 永遠に、永遠に。

 

 その様子を想像して、男は嘔吐した。

 

 胃の腑を吐き出すように、激しく嘔吐した。

 

 地面に蹲り、神に許しを請う罪人のように頭を垂れながら、嘔吐し続けた。

 

 涙と涎が、絶え間なく流れる。

 

 男の目の前には、黄色と、それに赤の混じった、水溜り。

 

 饐えた臭いは、焦げ臭さに掻き消された。

 

 そして、その焦げ臭さすら、彼の鼻は認識してくれない。

 

 もう、慣れてしまったのだ。

 

 だから、臭いは、無かった。

 

 そのことが悲しくて、男はまた泣いた。

 

 泣いて、しばらく泣き喚いて。

 

 やがて、ふらりと、立ち上がる。

 

 彼の瞳は、澄み切っていた。

 

 ゆっくりと、歩み始める。

 

 それは、救いを求めての道行きではない。

 

 それは、結論を求めての道行きであった。

 

 男が求めた、最後の結論。

 

 曰く、罪人は死ね。

 

 それは、間違いなく逃避だった。

 

 死に勝る罰はないが、それと同義に、死に勝る許しも存在しない。

 

 自分の未来を、思い煩わなくて、済む。

 

 結局、楽なのだ。

 

 自分を責める声。

 

 自分を責める、自分の中からの声。

 

 耳を塞いでも、聞こえてくる。

 

 鼓膜を破って、耳小骨ごと蝸牛を引きずり出しても、聞こえてくるだろう。

 

 その声が、余りにも苦痛だから。

 

 男は、彼にとって最も安楽な道を歩もうと、決意したのだ。

 

 だから、そこに、崇高な理念など、無かった。

 

 責任を取るとか、世を儚んでとか、そういう詩的なものは、一切無かった。

 

 敗残者の自己憐憫と、現実逃避。

 

 在ったのは、精々がそれくらいのもの。

 

 男はそのことを理解しながら、のろのろと歩き続けた。

 

 場所は、決まっていた。

 

 あの、黒い太陽が、現界した、場所。

 

 この地獄の中央。

 

 そこが相応しいと、理由もなく、そう思ったのだ。

 

 歩いた。

 

 もう、できるだけ地面は見ないようにした。

 

 そこに何が在るのか大体は分かっていた。

 

 何より、死に場所までの道行きは、せめて己を責める声は小さくあって欲しかった。

 

 それでも、その声は刻一刻と大きくなっていった。

 

 もう、耐え切れない。

 

 ついに、最後の場所まで歩くことすら耐え難くなって。

 

 彼が、自分の骨で作った弾丸を、愛銃の弾倉に詰め込もうとしたとき。

 

 音が、した。

 

 久しぶりに、彼自身の罵声以外の音を聞いた男は、驚いた。 

 

 驚いて、走り寄った。

 

 万が一の可能性に、賭けたのだ。

 

 その時の、彼の表情。

 

 頬は削げ、目は血走っていた。

 

 髪が白くなっていないのが、いっそ不思議だった。

 

 それでも、その瞳は、希望に濡れていた。

 

 もしかしたら。

 

 その後に続く言葉は、飲み込んだ。

 

 それを声に出して、そこに何も無ければ、自分は狂うと、理解していたから。

 

 そして、その判断が正しかったことを、男は知る。

 

 死体、だった。

 

 黒焦げの、死体。

 

 それが、熱による引き攣れで、僅かに動いたのだ。

 

 それだけ、だった。

 

 

 彼は、弾倉に銃弾を、詰め込んだ。

 

 

 そして、また、歩き出した。

 

 手に握った冷たい金属が、男に無上の安心を与えてくれた。

 

 彼を終らせてくれるその冷たさを、初めて愛おしいと思った。

 

 それくらいしか、彼の手には残っていなかった。

 

 妻は、死んだ。

 

 教え子は、死んだ。

 

 娘は、戻らない。 

 

 暖かいものは、全てを置き忘れてしまった。

 

 もう、何も、残っていなかった。

 

 いつしか、彼の無表情には自嘲の笑みすら浮かばなくなっていた。

 

 それでも、歩き続けた。

 

 ふらふらとした足取りで。

 

 手には、黒光りのする金属を持ちながら。

 

 幾度も彼の生命を救った武器だ。

 

 幾人もの血を啜り舐めた、武器である。

 

 ならば、己に最後を与えるのに、これほど相応しいものもないだろう。

 

 それだけは幸運だったと、男は思った。

 

 そうして、また音が、聞こえた。

 

 ぱしゃりと、水溜りに足を突っ込んだような。音だった。

 

 男は、再び走った。

 

 その表情に一片の輝きも残さぬままに、走った。

 

 絶望しながら、走ったのだ。

 

 もしかしたら。

 

 その後に続く言葉は、飲み込んだ。

 

 それを声に出して、そこに何も無ければ、自分は狂うと、理解していたから。

 

 そして、その判断が正しかったことを、男は知る。

 

 死体、だった。

 

 犬の、死体だった。

 

 黒焦げの犬の、死体だった。

 

 その、おそらくは尻尾に当たる部分が、不自然に濡れていた。

 

 そこに、いくつかの肉塊が、転がっていた。

 

 まるで、子犬のような形をした、肉塊。

 

 男は、理解した。

 

 きっと、死んでから破水したのだ。

 

 それとも、最後の力で産み落としたのか。

 

 男は、肉塊に、目をやった。

 

 無惨に、命でなかったかのように転がった、数匹の子犬。

 

 それを、彼は抱き上げて。

 

 丁寧に、心音を確かめて。

 

 その全てが止まっていることを、確認した。

 

 男は、黒焦げの母犬、その乳房のあった場所に、子犬の死体を、並べた。

 

 只の、自己満足だ。

 

 母犬の顔は、笑ってくれなかった。

 

 男は、ふらりと、歩き出した。

 

 のんびりと、そこらを散歩するような足取りで。

 

 そうして、たどり着いた。

 

 大火災の中心。

 

 惨劇の始まりの地。

 

 そうして、それが終る場所。

 

 そこに、ただ、立ち尽くす。

 

 どれだけの間、そうしていたのだろうか。

 

 

 やがて、男は銃身を、口中の奥深くに突っ込んだ。

 

 

 もう、一瞬だって、生きていたくなかった。

 

 頭蓋の中で反響する検察官の声は、その音量を増していくばかり。

 

 それだけではない。

 

 弁護人も、彼を非難する。

 

 傍聴席からも、罵声が飛ぶ。

 

 裁判長が、にやにやしながらそれを眺める。

 

 そんな風景が、彼の脳味噌の中に、あった。

 

 それを、吹き飛ばしたかった。

 

 如何にも正当なそれが、ただ苦痛だったのだ。

 

 それだけだ。

 

 そして、彼の震える指が、引き金にかかったとき。

 

 また、音がした。

 

 またかと、彼は思った。

 

 

 彼は、引き金を引いた。

 

 

 引こうとした。

 

 それでも、引けなかった。

 

 いつもはあれだけ軽い引き金が、今だけは鉛以上に重たかった。

 

 彼は、呆れた。

 

 これだけ生を疎いながら、それでも生にしがみつこうとする己が、哀れなほどに浅ましくて。

 

 それを断ち切ろうと、最後の力を込めたとき。

 

 

 声が、したのだ。

 

 

 音では、無かった。

 

 声だった。

 

 擦れて、潰れて、今にも消えそうな弱々しい響きではあったが。

 

 それは、間違いなく、人の声だったのだ。

 

 男は、銃を投げ捨てた。

 

 己に最後の救いを与えてくれるであろう、救いの主を投げ捨てた。

 

 それは彼なりの覚悟だった。

 

 そこに、彼を救ってくれる何かがいれば、よし。

 

 いなければ。

 

 彼は、罰を受ける決意をしたのだ。

 

 生きよう、と。

 

 無様に、卑劣に、外道として生きようと、決意した。

 

 死を恐れたと人が言えば、理不尽な怒りをもってそれを殺そうと。

 

 老人から奪い、女を犯し、子供を殺し、それを笑うような。

 

 もう、あらゆる存在が己に唾を吐きかけるように。

 

 そんな惨めな贖罪を送ろうと、そう決意した。

 

 そして、走った。

 

 それが最後の疾走になるという、確信があった。

 

 もう、二度と走ることはあるまい。

 

 だから、走った。

 

 

 そして、見つけたのだ。

 

 

 黒焦げの、子供。

 

 髪は、焼けて焦げ落ちている。

 

 目は、片方だけ見開かれたまま。

 

 きっと、瞼を閉じる力すら、残っていないのだ。

 

 手と足は、綺麗に折りたたまれている。

 

 それは、焼死体のそれと、何ら変わるところが無かった。

 

 それでも、その瞳は、確かに生きていた。

 

 絶え間なく涙を流し続けるその瞳は、確かに生きていた。

 

 男は、何事かを呟いた。

 

 彼は、何よりも彼自身を信じることが出来なかった。

 

 これは、奇跡だと思った。

 

 せめて、許されたのだと。

 

 この上なく罪に塗れた、餓鬼がひり出す糞便にも劣る、この身ではあるけど。

 

 せめて、この子を助けることだけは許されたのだと。

 

 それは、紛れもない奇跡であった。

 

 男は、この上ない幸福に包まれて、少年を抱き上げた。

 

 少年は、漂白された意識の中で、男を見詰めた。

 

 それは、互いにとって、確かに救いだった。

 

 この瞬間だけは、何人もそれを否定し得なかっただろう。

 

 

 かつん、かつん、と、靴音が反響した。

 男は、冷たい廊下を、歩いていた。

 冷たい、リノリウムの廊下。

 しかし、不思議と無機質ではなかった。

 時折、子供の笑い声が、聞こえた。

 話に聞いたことがあった。

 内科棟の患者は元気が無いが、外科棟の患者は、元気がいい。

 遠からず健康を取り戻すことが叶う、その確信が声を明るくするのだ。

 なるほどと、彼はそう思って、久方ぶりの笑みを作った。

 鼻を刺激する、消毒薬の匂い。

 それに、どこか生臭い、生きた人間が発する臭いを足すと、病院の空気になる。

 そんな、埒もない、思考。

 彼はそれに呆れて、目的地を探し出す。

 もう、集中治療室から移されたことは、知っている。

 面会謝絶の看板も、一週間ほど前に取り払われた。

 だから、彼の足を遠ざけたのは、純粋な恐怖心。

 もし、糾弾されたら。

 あの瞳が、この身を詰ったら。

 そう思うと、足が竦む。

 それでも、彼は歩いた。

 それが、最後の矜持だった。

 やがて、病室が現れた。

 受付けで教えてもらった部屋番と、何度も見比べる。

 そして、深呼吸を一回。

 いや、二回三回。

 こんなに緊張したのはいつ以来だろうかと、思い返す。

 何と、話しかけようか。

 記憶は失っているらしい。

 無理も無いだろう。

 あんなに幼い子供が、死に瀕した、いや、間違いなく死んでいたのだ。

 ならば、記憶の一つや二つで済めば、儲けものである。

 男はそこまで考えて、第三者のような己の思考に吐き気を催した。

 嘔吐く声を、噛み殺す。

 酸っぱい唾を、無理矢理に飲み下す。

 浮かんだ涙を、スーツの袖で擦り取る。

 名前は、知っている。

 子供の、名前。

 幸運にも、服の製品タグに名前が書いていたらしい。

 その部分だけが、何かに守られるように、焼けていなかったとのこと。

 士郎と、いう。

 それが、この子供の名前だ。

 もう一度、深呼吸。

 何を話そうか。

 まず、彼はどうしたいか、それを聞こう。

 きっと、性急に過ぎる質問だろうけど。

 それでも、これだけは聞いておかなくては。

 得体の知れない、見たことも無い、中年の男。

 それに引き取られたいなどと、いくら子供でも思わないだろう。

 それでも。

 それでも、もし。

 もし、少年が、男の息子になることを選んでくれたなら。

 男は、いずれその全てを打ち明けるつもりだった。

 彼の主観からすれば、まるで永遠のような逡巡。

 そうして、やがて男は、病室の扉を開く。

 白い、室内。

 開け放たれた窓、そこから入ってくる風が、白いカーテンを弄る。

 白いベッド、白いシーツ。

 白い包帯に、ぐるぐる巻きになった、少年。

 不思議そうな、まるで人形のような視線を、男に寄越す。

 その無垢に、彼は気圧された。

 まるで彼の罪を糾弾しているかのようだと、思った。

 それでも、精一杯の勇気と、最後の意地を込めて、彼は言ったのだ。

 

「やぁ、士郎君、思ったより元気そうだね、よかった」

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