FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
パン、と、軽い音が、一度鳴った。
軽い、音だった。
例え、視界を遮るほどの豪雨が無かったとしても、その音は夜の闇に吸い込まれて、余人の耳を騒がすことはなかっただろう。
そんな、軽い音。
花火や爆竹のそれと、何ら変わるところが無い。
そんな、音が、一度だけ響いたのだ。
そして、少年の苦痛の声が、辺りを圧した。
喉の奥を絞り上げたような、声だった。
ばしゃりと、少年の身体が崩れる音。
次に、ぱんぱんぱんと、三回、乾いた音。
音源は、少女の握った、黒い金属。
人を殺すために作られた、呪われた出自を持つ、金属だった。
いつの間に、手にしていたのだろうか。
少年は、気付けなかった。
機会があったのは、少女の構える双剣、その片方が折れ飛んだとき、だろうか。
その、一瞬。
意識が、闘争から次の段階への移行に、無意識に備えてしまった一瞬。
彼女は、背中に隠してあったホルスタから、拳銃を抜き取っていた。
早業では、あったのだ。
まるで、西部劇の主人公が行うような、早抜き。
いや、流石にそれほどではなかったかもしれない。
だが、少年の油断をつくには、十分過ぎる速度ではあった。
そして、何のためらいも無く、引き金は引かれた。
まず、一度。
狙いは、左大腿部。
命中。
苦悶の響きが、辺りを満たす。
がくりと崩れ落ちる、少年の身体。
少女は、表情一つ変えない。
次に、引き金は三度引かれた。
グロックシリーズ。
各国の軍隊や警察組織で採用されている、名銃。
その中でも"Baby"と称されるほど小さく、携帯に適した、それ。
グロック26。
彼女が握った金属塊は、それだった。
きっちり三度のマズルフラッシュが、辺りを照らし出す。
そして、苦痛の声は、一度。
全てが、脚部に命中。
そもそも、剣で斬り合うような至近から発射されたのだ。
外せというほうが、むしろ難しい。
では、何故頭部を狙わなかったのか。
そう問われれば、彼女は苦笑をもってそれに応えたかもしれなかった。
彼女の足元で蹲る、少年。
彼の体には、四つの風穴が開いている。
傷口を押さえ、無様に転げ回る。
それでも、その瞳から戦意が失われることは、無かった。
天より降り注ぐ慈雨が、少年の身体から流れ出した血液を、洗い流していく。
しとしとと、癒すように。
それでも、雨は徐々にその勢いを収めていった。
ざあざあとした雨脚が、しとしととした、それに。
そして、それすらも、勢いを落としていく。
もう、雨は上がるのだろう。
少女は、空を見上げた。
episode82 Between the hammer and the anvil 4 最愛
「さて、衛宮士郎。起源の話、でしたでしょうか…」
少女は、豊かな程に蜜を含んだ声で、そう言った。
彼女は、近場にあったベンチに腰掛ける。
そこあったのは、勝者の余裕というよりは、敗残兵の疲れであった。
雨に濡れた、ベンチ。
腰掛ければ、服は濡れてその冷たさが直に伝わることだろう。
しかし、そもそも彼女の体に、これ以上水分を含むことの出来る衣類は存在しない。
べしゃりと、粘着質な音が、鳴った。
少女は、僅かに眉を顰めた。
眉を顰めながら、ポケットに手を突っ込む。
そこから水浸しになったシガーケースを取り出し、近くの水溜りに投げ捨てた。
「魔術師が、その魔術の習得の際に、己の起源にあったそれを選ぶという話を聞いたことは…?」
少女の、質問。
しかし、少年は、答えない。
答えることが、出来ないのだ。
そもそも、その口はものを言えるような状態では、なかった。
食い縛っている。
奥歯を噛み折るかのように、満身の力で食い縛っている。
理由は明白だ。
開けば、苦痛の呻き声がもれる。
それは、誰よりも彼自身の心をへし折るだろう。
その確信があったから、彼は口を開けない。
口を開かず、ただ睨みつける。
そうして、戦おうとする。
痺れて動かない足を無視して、両腕を持って起き上がろうとする。
まるで、オットセイが鼻に玉を乗せるかのような、姿勢。
そんな間の抜けた姿勢で、少女を睨みつける。
それを、少女は鼻で笑い。
少年の右肩を、手にした拳銃で打ち抜いた。
「うぎいいッ!」
少年の身体は弾け飛び、左手で右肩を抑えながら、転げまわった。
それを見る少女の視線は、やはり無表情。
それは、若人の視線では、ありえなかった。
まるで、人生に疲れた老婆のような諦観が、そこにはあったのだ。
「聞けば、疾く答えなさいな。そう、学校で教わりませんでしたか…?」
「ぐはあぁ、ぐはあぁ、ぐはあぁ…!」
喘ぐような、呼吸。
仰向きに寝転がった少年の影、その胸部が大きく脹らみ、萎む。
少女はそれを見ながら、唾を吐き捨てた。
まるで、口の中に異物が残っていたかのようだった、
そうして、それは正にその通りだった。
少女の吐き捨てた唾液、そこには細やかな、小動物のような毛が、大量に含まれていたのだ。
「人は、いいですねぇ…。鉛の玉で苦しんでくれる…。大変、安上がりです…」
くすくすと、陰に篭もった笑い声が響く。
少年は、それを聞く余裕すらない。
ただ、苦痛に喘ぐ体を宥め抑えるので精一杯だ。
だが、仰向けのまま、空を見上げた。
そこに、分厚い雲は、無かった。
薄い雲と、そこから覗く夜空と星々。
通り雨だったのかもしれない。
そう思って、一度だけ大きく息をついた。
「死徒を相手取るに、鉛の玉では通用しない。銀の弾丸、それも高名な悪魔祓い師に洗礼を受けたものでないと、障壁を貫くことすら出来ない。だから、私はいつも食うや食わずやでしたよ…」
「…お前、偉い貴族様に養われてたんじゃあ、なかったのか…?」
「…ああ、それは酷い勘違いだ。知っていますか、衛宮士郎。金持ちとはね、吝嗇家の代名詞なのですよ…」
初めて、少女は本当に楽しそうに微笑った。
少年も、その身を犯す苦痛が無ければ、笑いたかった。
そうして、心底驚いた。
自分の恋人を攫った、そうして、その身体の一部を喰らったであろう相手と、こんなふうに話せる自分が、不思議でならなかった。
「装備は、自費負担です。それでも、私は戦いに赴きました。一銭の報酬も出ない、戦いです。何故だか、わかりますか…?」
少年は、再び答えなかった。
銃弾が怖くなかったわけではない。
あれは、確かな苦痛だからだ。
それでも、答えるわけにはいかなかった。
何故なら、彼はその答を知っていたから。
彼は、その問いに、正答をもって応じることができたから。
それは、彼自身が同じ懊悩を抱えていると、宣言するに等しい行為だったから。
「また、答えて、くれないのですね…」
彼女は、ゆっくりと銃口を持ち上げた。
そして、それが当然のように、引き金をしぼった。
パン、と、軽い音が鳴って。
少年の身体に、もう一つ風穴が、開いた。
「ぐあああ!」
まるで、陸に揚げられた海老のように、無作為に飛び跳ねる少年の身体。
少女は、それを愉快だと思って。
そうして、頬の内側の肉を、噛み切って、飲み込んだ。
「…私は、誰かに必要とされたかった。それだけで、私は生きていける、そうでないと、私は生きていけない。私は、そうだったのです。衛宮士郎、貴方は如何ですか?そう、思ったことは、ありませんか?」
少年の喘ぎ声が、寒空の下に響いた。
今度は、少女は、その手を持ち上げなかった。
ただ、まるで泣き顔を隠すかのように、俯いていた。
その理由は、明白だった。
彼女も、少年の答を、知っていたのだ。
「『白』、です…」
「…?」
少女の呟きに、少年は首を捻った。
何のことを言っているのか、分からなかったからだ。
それでも、少女の瞳は、真剣そのものだった。
それ以上に、苦痛に満ち満ちてはいたが。
「…私達の起源は、『他の何物よりも、他の色に染まり易い』。つまり、『白』、それが私達の持った方向性です」
「…」
少年は、その言葉をいとも容易く受け入れた。
驚きというよりも、納得があった。
ああ、なるほど、と。
言われてみれば、そうかもしれない、と。
そう、思ったのだ。
少女の頬は、自嘲に歪んだ。
内心で、思ったのだ。
何と因果な起源だろうか。
他の何物よりも、他の色に染まり易い。
白。
背景としての、色。
他の色に塗り潰されるために存在する、色。
それ単体では、色として成立しないような、色。
彼らは、そんなものを起源として、生まれてしまったのだ。
起源とは、魂の更に高次元に位置するもの。
人の一生が如き薄まった価値観では、それに抗いようも無い。
故に、彼らには、個としての意思が限りなく薄い。
何せ、白、なのだから。
他者の思想の影響を、真正面から受け止めてしまう。
その飛沫にすら、毒される。
そんなものに、人並みの幸福など、求めよう筈が無いではないか。
人足り得ない、人。
人以下の、人。
それが、彼らに与えられた、宿命であった。
「ほら、貴方の名前にも、『しろ』の文字がある。きっと、私の名前にも、そうだった筈。名前に起源を練り込むというのは、どうやら魔術師の世界ではありふれたことのようですから」
それは、例えば少年の義父のように。
衛宮切嗣。
切って、それを嗣ぐという、捻れた名前。
それを冠した少年は、やがて少年の理想を抱えたまま、大人と成り果てた。
それがどれ程の悲劇を周囲に撒き散らすか、それすら理解しないままに。
そうなのだ。
名前は、原初の願い。
その言霊は、他の何物よりも強烈に個人を縛り付ける。
起源とは、魔術の方向性をも含める。
それを原初の言霊と同一化させることで、より魔術に強烈な意味を含ませる。
ならば、それは呪いと。
何故、言い切ることが出来ないか。
「…貴方は、火事によって空っぽになったのではない。私達は、最初から空っぽなのです。後から何かを詰め込むつもりだったのか、それとも、もうそんなことすら薄れるほどに、魔術から遠ざかっていたのか、それは定かではありませんが」
遠い、遠い、もう、誰も覚えていない、意味の無い話だ。
彼らの家は、普通の家だった。
暖かい家族、暖かい食事、暖かい空間。
それらは、魔道の探求に血道を捧げる一家のそれには、似つかわしくない。
だが、少年と少女の体には、二十七本の魔術回路が走っている。
もっとも、少年のそれが目覚めたのはごく最近のことであり、少女のそれはもう一つの人格に支配されて、彼女の体には化石のようにしか残っていないのだが。
だから、それは真実だったのだ。
その家は、真実、魔道を、切り捨てたのだ。
それは、無為であると。
誰も、幸福にしない、と。
それは、完全な正解だ。
何も、人外の秘法を求めずとも、人は幸福になれる。
自分達と、その子孫の笑顔を得るに、魔術は必要ではない。
そう、少し昔に悟った一族がいた、それだけのことだ。
そうして、その一族から、魔の色は、消えていった。
だが、連綿と続いたそれは、一代では消えてくれない。
染み付いた穢れは、一代では落ちてくれないのだ。
徐々に、徐々に、少しずつ。
今までかけてきた時間を、手繰るように、少しずつ。
そうして、慣習だけが残った。
意味を失い、目的を失い、そうして形だけが残る。
往々にしてあることではないか。
惰性。
この世の大半は、それで出来ているようなものだ。
その家も、そうだった。
優れた後継者を残すための儀式が、只のおまじないに。
そうして、付けられた呪い名。
一つの受精卵から分かたれたが故に、同じ起源を持つ二人。
その双子には、共に『しろ』の韻を含む名が、与えられた。
それは、完全な親の愛情からだった。
幸せになってほしい。
そう願わぬ親の、あろうことか。
その名が、二人の子供に、この上ない因果を齎すことになったとしたならば。
親は、そのような名前、掃き捨てたであろうに。
違う名前、ならば。
違う名前、だったならば。
或いは、全く違う人生が、ありえたのだろうか。
しかし、それは意味の無い仮定だった。
意味の無い、仮定だったのだ。
だからこそ、少女は、求めた。
意味の無い仮定を。
己の持つ意味を、計るために。
「貴方の身体には聖剣の鞘が与えられ、貴方の身体は無限の剣を内包する、巨大な鞘と化した。貴方の精神には正義の味方という呪いが与えられ、貴方はその盲信者となった。それは、共に我らの起源が故に」
「…じゃあ、代羽。お前の身体には、何が埋め込まれた?お前の精神には、何が埋め込まれたんだ…?」
「私が、ですか…?」
少女は、一瞬、驚いたように目を見開いた。
その後、自嘲に頬を歪めた。
少年は、言葉を発してから、後悔した。
音波が色と形を持つならば、それを回収したいという欲望と、戦わなくてはならなかった。
分かりきっているではないか。
彼女が、その身体に何を孕んだか。
彼女が、その精神に何を孕んだか。
知っているはずではないか。
幾度も、戦ったのだから。
それを、一瞬でも忘れた自分の脳髄が、恨めしかった。
「…私は、身体に無数の蟲を埋め込まれた。故に、私の身体は無限の蟲を内包する、巨大な蟲倉と化した。そして、私の精神には、ヨハネというもう一つの人格が埋め込まれ、私は彼の従者と成り下がった。それだけの、ことですよ…」
少年は、耳を塞ぎたかった。
それでも痺れた右手が、それをさせてくれなかった。
その時点で、彼は初めて、己を撃った少女を、憎んだのだ。
「そういえば…彼女は、一度だけ私の願いを聞き入れてくれた。一度だけね、我侭を言ってみたのです。時計塔に保存されている、幻想種の標本が見たい、と。なるほど、彼女は最高権力者だ。あっさりと私の願いは叶った」
彼女の視線は、遥か過去を眺めるかのように、遠くを見詰めていた。
雨雲は、完全に姿を消していた。
彼らの頭上には、月が輝いていた。
ほとんど欠けるところのない、しかし満月にはぎりぎり手の届かない、そんな月だった。
その月が、笠を被っていた。
丸い、ぼやけたような線が、丸い月の回りを飾っていた。
それは、涙で視界が滲んでいるようではないかと。
二人は、ほとんど同時に、そう思ったのだ。
「私の世界に内包される蟲達の原型は、ほとんどがそこに在りました。だから…彼女はやはり、私と彼の、恩人なのでしょう」
「…代羽、お前の望みは、何だ…?」
少年が、ゆっくりと立ち上がる。
その様を見て、少女もベンチから腰を上げた。
ふらつき、折れそうになる膝を叱咤して、それでも立ち尽くす少年。
悠々と、それが当然であるかのように、しっかりとした足取りで近付く少女。
彼我の距離は、約五メートル。
それが、まるで無限のように、少年には思えた。
「貴方に、質問する権利は、ありません。ただ、答える義務があるだけ…」
「答えろ、代羽。お前は、聖杯に何を望む?世界征服とか、復讐とか、そんなくだらない嘘は、もういい。本当の望みを、聞かせてくれ」
少女は、引き金を引き絞った。
銃口は、少年の右膝を狙っていた。
銃弾は、少年の右膝を破壊した。
「…!」
少年は、顔を顰めた。
顔を顰めただけで、苦痛の叫びはあげなかった。
それがどれ程の精神力のなせる業なのか、少女には計り知れなかった。
だから、もう一度、引き金を引き絞った。
銃口は、少年の左膝を狙っていた。
銃弾は、少年の左膝を破壊した。
「…!」
少年は、顔を顰めた。
それでも、やはり苦痛の叫びはあげなかった。
都合、少年の身体には。八つの風穴が開いたことになる。
もちろん、流れ出した血の量とて、致死に値する。
雨に濡れた身体は、体温を保てない。
意識が、遠くなりかける。
実際に、先程から何度も細かく気絶と覚醒を繰り返している。
そういう意味では、苦痛すら愛おしいほどだった。
「…教えろ、代羽。お前の、本当の望みは、何だ…?」
少年は、少女に歩み寄った。
一歩一歩、ゆっくりと。
少女は、気圧されて、後ずさる。
一歩一歩、ゆっくりと。
少女は、悟った。
この少年は、止まらない。
止まることが、できないのだと。
それが、彼に与えられた色で、呪いなのだと。
そうして、彼は走り続けるだろう。
彼の幻影の中にだけ存在する、義父の背中を追い求めて。
そうして、走り続けて。
最後に、奇跡を求めるのだ。
そうして、走り続けて。
彼は、英雄に祭り上げられるのだ。
人類の抑止、アラヤの戦士へと。
そうすれば、もう駄目だ。
何者も、彼を救うことは、できない。
それこそ、世界を滅ぼしでもしない限り、彼は永久に救われない。
そんなのは、嫌だった。
何よりも、それが許せなかったのだから。
少女は、決意した。
その、余りに幼い胸のうちで、決意した。
少年を、殺そうと。
「止まりなさい、衛宮士郎。これ以上近付けば、貴方を殺します」
その声に、一切の迷いは、無かった。
あったのは、決意。
堅い、堅い、ダイヤモンドのように堅い決意だ。
堅く、鋭く、しかしダイヤモンドのように砕けやすい、決意だ。
その声は、間違いなく、涙に濡れていた。
少年が初めて聞く、少女の悲鳴、だったのだ。
「お前には、出来ないよ…」
「試してみますか…?」
背筋を伸ばして、まるで最後の審判に立つ罪人のように、しっかりと屹立する少女。
苦痛に背を丸め、それでも己の義務を果たそうと立ち上がった、無垢の少年。
二人の視線の高さは、同一。
荒い、呼吸。
白が、二人の顔の前に、現れては消える。
それは、まるで二人の運命のように。
ゆっくりと持ち上がった、少女の腕。
そこに握られた、小さな拳銃。
人の命を奪う以外、如何なる機能も持たない、それ。
その銃口が、少年の心臓を、ぴたりと狙った。
もちろん、少年はそのことを理解していた。
少女の視線に、全く嘘がないことを、少女以上に理解していた。
だからこそ、引くことは、出来なかった。
何故なら、少女は、泣いていたからだ。
今も、以前も。
初めて出会ったときから、ずっと。
少女は、泣き続けていた。
情けないことに、少年は、初めてその事実に、気が付いたのだ。
そして、今、自分が引けば、少女はこれからも涙を流し続けることも。
そんなの、いや、だった。
絶対に、許せなかった。
だから、立つのだ。
皿を砕かれた、膝で。
風穴を開けれれた、太腿と爪先で。
必死に歯を食いしばって、それでも立ち上がったのだ。
少女は、それを知っていた。
少年が如何に優しいか、知っていた。
知っていて、殺さなければならなかった。
もし。
少女は、そう思わざるを得ない。
もしも、この男が卑劣漢であったならば。
唾棄に値する、屑だったならば。
彼女の懊悩は、どれほど軽くなっていたことだろうか。
放っておけばいい。
どこに行こうが、知らぬ存ぜぬで、関わらなければいい。
勝手に生きて、勝手に死んで、勝手に英雄にでもなればいい。
そう思えただろう。
無関心は愛の対義語だ。
愛は、人を苦しめる。
ならば、無関心の何と安楽なこと!
そんな仮定を夢想して、少女はぎしりと歯を鳴らした。
結局、少年は優しすぎた。
少女が全てをかけて庇護するに、十分過ぎる価値を有していた。
だからこそ、彼女は苦しまねばならなかった。
二人の視線が、交錯する。
「話せ、代羽、お前は、聖杯に何を望むんだ?」
「黙りなさい…」
恐れないのは、少年だった。
恐れているのは、少女だった。
そして、全てを終らせる権利を持ったのも、少女だったのだ。
「話せ、代羽!お前は、聖杯に何を望むんだ!?」
「黙れと言っている!弟の分際で、私に偉そうな口を叩くな!」
少年は、唯一残った左手で、その短剣を投擲した。
少女は、その剣線から身をかわし、そうして数度、引き金を絞った。
ぱんぱんと、二度。
今までと合わせて、全部で十回。
それで、彼女の愛銃の弾倉は、完全に空になった。
狙いは、心臓。
命中したのも、心臓。
回転する弾頭が貫いたのも、心臓だった。
倒れていく、少年の身体。
少女が、弟と呼んだ少年の、身体。
やがて、ばしゃりと、盛大な水音が聞こえた。
水溜りの中に倒れ伏した少年。
ぴくりとも、動かない。
少年の身体は、今、機能することを、止めたのだ。
そして、少女はやっと安堵した。
これで、少年が英雄になることは、無い。
これで、私の目的は、達せられた。
なのに、何故。
少女は、頬に、手をやった。
明らかに雨粒とは異なる熱い液体が、そこを伝っていた。
ああ、と、大きなため息が、響いた。
せめて、彼の血の赤が、闇に隠れてくれていること。
それが、この上なく、ありがたかった。