FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
episode83 Between the hammer and the anvil 5 代羽
雨で、あった。
しとしとと降る、優しい雨であった。
それは、死者を黄泉に届ける葬列のように、優しい雨であった。
煙が、立ち昇る。
既に辺りは暗いというのに、その白さだけが不思議と際立っていた。
老人は、歩く。
まるで神のように、悠々と。
時折、彼の足元で、乾いた音が、響く。
それは、程よく焼かれた誰かの骨だ。
それを無関心に踏み拉きながら、老人は悠々と歩くのだ。
急ぐ必要など、無い。
何故なら、全ては終ったのだから。
全ては、老人の予想通りといってよかった。
哀れな後継者は、勝手に自滅してくれた。
彼に従わない一族郎党に、何の価値があるか。
英雄に縁の品を無駄にしたのは痛かったが、それでも不穏分子が取り除けたのだ。
ならば、良しとすべきだろう。
何よりも、あれが無傷で残ったのが素晴らしい。
万が一、雁夜がとち狂って、遠坂の胎盤辺りにでも泣きつけば。
或いは、時臣が翻意して、あれを取り返しに来るという、最悪の事態もありえたのだ。
最悪でなければ、最善。
今のマキリの現状を考えれば、それくらいの苦渋は舐め取らねばなるまい。
それにしても、老人の懊悩が尽きることは無い。
ここ二百年あたり、後継者のことに関して明るい話題は何一つ無い。
反比例して、暗い話題には事欠かない。
まず、魔術回路の数が、代を重ねるごとに減少していく。
代を重ねるごとに神秘の濃度を高めるのが魔道の在り方だとするならば、マキリは既に魔術の家ですらないのかもしれない。
そう考えて、思わず嘆きたくなる。
そうして、愚昧。
今も、老人の後ろには、彼の後継者がついてきている。
間桐鶴野。
始まりの御三家の後継者でありながら、令呪も宿らぬ、無能。
それが、老人を苛立たせる。
苛立たせながら、ついてくるのだ。
へっぴり腰で、おっかなびっくりと、時折漂う、人の肉の焦げる臭いに嘔吐しながら。
もしかしたら、これがマキリの後継者としての最低限の義務とでも思っているのかもしれない。
だとしたら、滑稽を通り越して哀れだ。
マキリの後継者の義務は、唯一。
次代に、より良い種を残すこと。
それだけだ。
それだけのことが出来なかったから屑だというのに、こんなところで妙な意地を張ったところでその評価が覆る筈も無い。
そんなことも分からんのかと、老人は内心で、己の子孫を罵った。
もう、幾度も繰り返した思索である。
それが呪いとして機能するならば、一応の後継者はとっくに彼岸に旅立っているであろう、それほど濃厚な絶望だった。
だから、老人は、ずっと不機嫌だった。
今のマキリの当主が生まれてから、いや、生まれる前から、ずっと。
故に、今も不機嫌であり、無表情に憮然としながら歩いた。
片手に、杖を持っている。
片手に、和傘を持っている。
ぱらぱらと、小さな雨粒が傘をたたく、軽い音が響いた。
それでも、老人の意識は、ただ前方に。
しわがれた皮膚と、落ち窪んだ眼窩。
その奥で炯々と輝く、人外の瞳。
既に、雨は止みつつある。
もう、この場に息のある人間がいないことは、確認済みだ。
もっとも危険だったあの男、魔術師殺しのエミヤも、足早に戦場を立ち去った。
大事そうに何かを抱えていたのが気にはなったが、それ自体は重要なことではない。
今、老人にとって重要なこと。
それは、欠片を手に入れることだ。
聖杯の、欠片。
黒い、泥。
それを、何としても手に入れねばならぬ。
あれは、聖杯の中に潜むものの体液に等しい。
それを精製し、その中で培養した刻印蟲ならば、無条件にその存在とのパスを繋げるだろう。
桜。
あれは、素晴らしい母胎だ。
如何なる責め苦にも崩壊しない、肉体と精神。
出来損ないの後継者、その、更に出来損ないの息子にくれてやるなど勿体無い、そう思えてしまうほどに、逸材である。
さぞ、呪われた生涯を送ることだろう。
一生、日の目を見せてやらないのもいいかもしれない。
蟲のように、じめじめとした暗い空間を、一生のた打ち回らせてやるのだ。
退化した視界、無限の闇の中、四つん這いで這い回る胎盤というのも笑いを誘う。
手足を蟲に食らわせ、文字通りの達磨のようにして、蟲倉に転がすのはどうか。
さぞ、よい仔を為してくれるだろう。
用済みとなれば、蟲の滋養としてやればよい。
いや、仔に母を喰らわせるのはどうだろう。
呪い仔に、更に呪いを孕ませる。
その上で、呪われた女神を召喚すれば。
或いは、悪神となった後の蛇女を召喚することも、出来るやも知れぬ。
いやいや、それでは余りにも勿体無いか。
では、こういうのはどうだ。
あれには、文字通り仔を孕む機械となってもらう。
魔術師の種、決して安いものではないが、好色な魔術師など掃いて捨てるほどいるのも事実。
それに、代わる代わるあれを孕ませてもらえばいい。
幼子であの美貌である。
それが成長したならば、どれほどそれに磨きがかかるか。
どのように扱っても構わない、そう申し渡しておけば、さぞいい種が釣れることだろう。
そうして、大量の仔をなして。
蟲毒の壷に、放り込む。
仔も、母も、我が後継者も。
そうすれば、さぞ熟成された魔が生き残るだろう。
それを、真の後継者と据える。
それとも…。
老人の妄想は、脹らむことはあれど萎むことはなかった。
それが、彼の魔術師としての才を表していたのか。
それが、彼の酷使された脳細胞の限界を示していたのか。
余人にも、彼自身にも、永遠に分かることはなかったのだが。
そうして、老人は辿りつく。
惨劇の震央、黒い太陽のあった場所、その真下に。
彼は、初めて嗤った。
聞く者の聴覚を犯す様な、底冷えのする笑みであった。
彼が望んで止まないもの、それがあちらこちらにへばりついていた。
へばりついて、淀みながら、それでも生きようと足掻いていた。
考えようによっては、これらも被害者、なのだろうか。
突然に眠りから覚まされ、望まぬ世界に招かれて、只管に災いを振り撒く。
これが真実そういう存在だったとして、能力と指向性が一致するなど、誰が断言できよう。
或いは、もっとも悲しんだのは、この泥の主かもしれない。
しかし、老人にそんな妄想は、遠過ぎた。
彼は、容器を開く。
もちろん、只の器ではない。
仮にも、『この世全ての悪』と名付けられた存在を封じる、器だ。
幾重にも厳重な封印が施され、万が一にもその呪いが溢れださないように術式を組んでいる。
その中にいるのは、一匹の淫蟲。
桜の処女膜を削り取り、それを培養して生み出した、少女の一部といっても過言ではない、蟲だった。
それが、瓶の片隅で、脅えたように動かない。
その様子は、蟲の母胎である少女の苦悩を思い起こさせた。
だが、いや、やはり、だろうか。
老人は、極めて無感動だった。
無感動に、泥を掬い。
無感動に、それを瓶に詰め込んだ。
流れ込む、呪いの塊。
蟲は、一度だけ身動ぎして、やがて動かなくなった。
それを、じっと見つめる老人。
しばらくしてから満足の笑みを浮かべると、ゆっくりと踵を返そうとした。
彼は、生粋以上の魔術師だ。
必要なことは如何なる手段を用いても遂行する代わりに、不要なことに時間を裂くのを、極端に厭う。
故に、早々にこの場を立ち去ろうとした。
その時だ。
「うわあ!」
素っ頓狂な声が、老人の耳を叩いた。
彼は、舌打ちを隠そうとしなかった。
またかと、内心を怒りで焼きながら。
殺そうとすら、思った。
もう、あれは、用済みだ。
この上なく無能とはいえ、それでもマキリの血を受け継いだ男子を、為しているのだから。
―――不要なら、処分するか。
そんな、冷たい思考が、老人の頭蓋に沸きあがる。
今まで生かしておいてやったのは、殺す必要がなかったから。
だが、もう、堪忍袋の紐も緩まり過ぎた。
殺そう、そう老人は決意した。
事実、次の一言が無ければ、彼はこの場で後継者を殺していただろう。
その行為に、道義上の掣肘を感じるような性格ではないのだから。
だが、次に老人が聞いた叫びが、その怒りを圧して余りあるほどの興味を呼び起こした。
「い、生きてる!こ、こいつ、この泥の中で、生きてやがる!」
老人は、初めて駆けた。
その痩身矮躯からは想像もできないような俊敏さで。
そして、崩れ落ちた瓦礫の山、その頂に立ったとき。
彼の眼下には、沼のように広がる泥の海と、その辺で腰を抜かす、後継者。
そして。
無限の悪意、その中で倒れ伏す、少年の姿を、見たのだ。
◇
数日が、たった。
あれほどに降り続いた雨も、やがては収まった。
人は、慣れる生き物だ。
だから、あれほどの惨劇にも、慣れつつある。
もう、日常を取り戻している。
それは、強さなのだろう。
老人は、相変わらず無表情だった。
無表情で、少年の身体を調べた。
あらゆる手段、あらゆる角度、あらゆる知識をもって。
そうして、老人は、久方ぶりに、心から満足した笑みを浮かべた。
それは、今まで彼が作り出した笑みのうちで、最も輝かしいものだっただろう。
見るものが見れば、背骨に氷柱を突っ込まれたように総毛立つであろう、そういう笑みだった。
広い、和室。
広さは、十五畳ほどだろうか。
呆れるほど、そういう訳ではないが、この国の常識的な間取りからすれば、かなり広いといえる。
その中央に、ぽつんと鎮座する。
そうして、思考するのだ。
―――さて、どうすべきか。
―――あれの特異性は、十分に把握した。
―――まさか、あのような起源があるとはな。
―――『白』。
―――他の何物よりも、他の何物かに染まりやすい。
―――自我を持たぬ、もしくは極めて薄い。
―――其れゆえに、何者になることも出来る
―――調教しだいで、如何様にでも化けうる、逸材。
―――おそらく、あの泥を浴びて死を免れているのは、その性質の恩恵。
―――むしろ、積極的に一体化しているとさえ言える。
―――完全に、あの泥を、従えているのだ。
―――惜しむらくは、あれが男だということだ。
―――もし、女であれば、桜を遥かに凌ぐ、最高の胎盤となっただろうに。
老人は、臍を噛んだ。
そうして、呆れた。
己は、何を考えていたのか。
――そんなもの、どうにでも、なるではないか。
確かに、あれは逸材だ。
あれをマスターとして聖杯戦争を戦えば、勝利は自ずと飛び込んでくるだろう。
何故なら、あれは聖杯と、完全にリンクしている。
それも、例えば桜に施そうとしていたような、不自然な繋がりではない。
もっと、自然に。
例えるなら、母と子のように。
ならば、当然聖杯の加護は、この少年に宿ることだろう。
いや、少年という呼称は、もはや正しくない。
今から、これに与えられる呼称は、違うものに変貌する。
少女。
あれは、今から、女としての一生を歩むのだ。
あれは、今から、マキリの胎盤として生きるのだ。
不可能か?
可能だろう。
マキリの業は、その遺伝的な資質の変成までも可能とする。
ならば、たかが性別を弄くる程度、如何程のことも無い。
男性器を切り取り、女性器を掘り、その奥に子宮をでっち上げればいいだけのこと。
もちろん、それだけで済むはずがない。
男性と女性とでは、脳の作りからしてして違っているのだ。
その全てを在るべき形に作り変えようとすれば、相応の苦労と、想像を絶するような苦痛があるだろう。
しかし、そんなことは、老人には関係ない。
苦痛を被るのは、あくまでこの少年だ。
そして、老人に救いを齎すのは、少年だった少女。
上手く、行くだろう。
老人には、確信があった。
そもそも、少年に与えられた起源を考えれば、失敗するはずが無い。
白ならば、その上に如何なる絵図面を描いたところで、それに歯向かうことなど出来ないのだから。
桜は確かに逸材であるが、胎盤とするには小さからぬ危険を冒さねばならない。
その点、この少年を胎盤とするには、毛の先程の危険も無い。
そう考えて、老人は再び微笑んだ。
その時、襖の向こうから、僅かに震えを帯びた声が、聞こえた。
「失礼します、お爺様」
◇
少年は、目覚めた。
暗い、部屋だった。
目の前に、見知らぬ老人がいて、少し驚いた。
「ようやく目覚めたか」
老人の声が、遠かった。
少年は、軽く目を瞬かせた。
その瞳の不審を悟った老人は、鷹揚に微笑った。
少年は、その小さな背中に、ひんやりと堅い、石の感触を覚えた。
「儂はこれからお主の親となるものよ」
少年は、不満そうに首を傾げた。
何か、言いたいことがあるのは、明白だった。
それでも、彼の焼きついた声帯は、如何なる音も発してくれなかったのだが。
老人は、彼の言いたいことを察したのか、そのまま会話を続ける。
「ふむ、ではお主は父と母の顔を思い出せるのか」
少年はしばらく、逡巡して。
泣きそうな瞳で、老人を見つめた。
それは、正しく迷い子の瞳だった。
老人は、如何にも満足気に頷く。
「判ったか。お主は今、この世に生を受けた。ゆえに、儂がお主の親となる」
少年は、初めて微笑った。
義父を、得る。
それは、彼の人生にとって、逃れられない事実だった。
だから、彼はそれをすんなりと受け入れた。
「では、まずお主に名を与えよう」
そして、老人は、呪いを紡いだ。
それは、彼の望みの体現。
脆弱な蛹より羽化し、永遠の命を得るための寄り代。
故に、代羽。
それが、彼が我が子と呼んだ子供に与えた、最初の玩具だったのだ。
「お主の名は代羽。お主はこれより間桐 代羽として生きる」
少年は、満足げに、微笑った。
よほど、馴染みの深い、名前だったのだろう。
どこか、彼と近しい人間に、同じ名前を持った者が、いたのかもしれなかった。
◇
少年は、目覚めた。
暗い、部屋だった。
彼は、自らの股間に、手をやった。
そこには、何も、無かった。
知っていたことだ。
最初に、あの池の中に、放り投げられたとき。
彼の股間にあった幼い男性器は、得体の知れない蟲に喰いちぎられた。
視界が白く焼け付くような、激痛。
そして、それは、それだけで終ってくれなかった。
傷口から、強引に蟲が入ってくる。
何も無い肉の壁を、蟲が割り入ってくる。
その時の、ぶちぶちという形容し難い音を、彼はまだ覚えていた。
そうして、約一ヶ月。
蟲と外科手術による、外側からの改変。
魔術と投薬による、内側からの改変。
もう、彼には時間の感覚が、どんどんと薄れてきているのだけれど。
それでも、約一ヶ月。
少年の股間には、秘めやかな縦筋があった。
それは、見間違うことなき、少女の女性器だった。
彼は、それを愛おしげに、眺めた。
彼は、彼が彼以外の何かになっていくのが、楽しかったのかもしれない。
自分という存在がいたことが、何よりも許せなかったのかもしれない。
それが、救いだったのかもしれない。
今日、少年は、初めて淫蟲による調教を受けた。
彼の女性器は、初めて男性を受け入れたのだ。
それを思って、彼は微笑った。
その笑みには、神による確かな救いを感じた、信者の狂信が存在した。
少年は、自らの女性器から漏れ出した、蟲の体液と破瓜の血が混じった液体を、指で掬って。
それを、嬉しそうに、しゃぶりあげた。
彼が、彼女になった瞬間だった。
◇
少女は、目覚めた。
暗い、部屋だった。
冷たく、湿ったコンクリートの上に、直接寝ていた。
体が、その過酷な環境に抗議して、ばきばきと不快な音を立てた。
それでも、彼女は身体を起こした。
ねちゃりと、粘着質な音が、股間から響いた。
胎内で何かが蠢いている感覚に、少女は眉を顰めた。
彼女は、自らの性器に、腕を突っ込んで。
その中を、丁寧に弄って。
指先で、淫蟲の鞭毛を掴んで、それを引きずり出した。
もう、慣れたことだった。
少女は、自らの腕を枕にして、再び眠った。
もう、悪夢は見たくない、それだけが望みだった。
◇
少女は、目覚めた。
暗い、部屋だった。
それでも、いつものコンクリートの上では、なかった。
柔らかな、ベッドの上。
そうして、背中に体温を感じた。
首を廻らす。
そこには、巌のように巨大な、鍛え抜かれた男の背中が、あった。
それで、ようやく思い出した。
少女は、神父に抱かれたのだ。
全てを、打ち明けた。
自分が、罪人であること。
いつも、得体の知れない蟲に、犯され続けていること。
そして、もとは男であった、こと。
全てを、嘘偽り無く、告げて。
その上で、抱いて欲しいと望んだ。
きっと、断られると、思った。
正常な人間なら、そうするだろう。
だから、少女の視線は、常に俯いていたのに。
神父は、さも嬉しげに、彼女の頤に手を添えて。
膝を、そして背中を折り曲げながら、少女の唇を貪ったのだ。
その姿勢のまま、彼は彼女を抱え上げて、己の寝室まで連れて行った。
まるで、強姦されるような、激しい逢瀬だった。
神父は、彼女の幼い性器を、何の躊躇いも無く全力で貫いた。
少女は、神父の杭が身体に打ち込まれるたびに、無上の快楽に酔いしれた。
浅く、狭い、少女の膣。
神父の長大な男性は、到底そこに納まるようなものでは、なかった。
だから、少女はその女性器の全て、子宮も含めた全てで、神父を愛したのだ。
蕩けるような、性交だった。
神父にとっても、少女にとっても、それは初めての体験だった。
二匹の蛞蝓が、一匹に合一するかのような、交わり。
それを望んだのは、壊れた神父であり、誰よりも少女だった。
だから、彼女は、完全に満たされていた。
神父の背中を見たときの彼女は、確かに幸福だったのだ。
そのとき、ぬるりとした感触が、彼女の太腿を伝った。
それを、指で、丁寧に掬い取る。
神父の精液と、彼女の、果たして幾度目かも知れない破瓜の血が混じった、桃色の液体。
彼女は、嬉しそうにそれを見つめて、さも美味しそうにそれを飲み下した。
初めての人喰いの味は、青臭くて、鉄臭くて、少し苦かったのだ。
◇
少女は、目覚めた。
明るい、部屋だった。
白昼夢を、見ていたのかもしれなかった。
ぼうと、呆けた表情。
それを、義兄が、訝しそうに覗き込む。
「ほら、ちゃんと挨拶しろよ。僕に恥を掻かせるな」
兄の、声が、遠かった。
日本に帰ってきて、それまでよりも更に疎遠となってしまった、兄の声。
そんなもの、どうでもよかった。
少女の前に、もう一人、男性が立っていた。
赤い、髪の毛。
少女も、昔はそうだったのだ。
今は、赤に、マキリの青が混じった、赤紫みたいな黒だけど。
錆び色の、瞳。
少女も、昔はそうだったのだ。
今は、この世全ての悪を孕んだ、黒い瞳だけど。
そして、彼は、少年だった。
少女も、昔はそうだったのだ。
今は、蟲だって避けて通るような、爛れた女の肉だけど。
そもそも、人の肉なんて、一片も残っていないけど。
それでも。
それでも、少女は、嬉しかった。
自分がどんなに変わっても。
彼は、ちっとも変わっていない。
そして、生きていてくれた。
その、事実が。
涙を流すことを忘れるほどに、嬉しかったのだ。
「はじめまして、間桐 代羽 です。衛宮先輩ですね、お話はかねがね兄から伺っております。お会いできて光栄ですわ」
少女の形をした蟲は、その顔に笑みと呼べる表情を刻んだ。
目の前には、双子の弟の、照れたような笑み。
それは、弟だったものが、兄だった少女を覚えていなかったと、それとも気付かなかったと、その残酷な事実を指し示していた。
それでも、やはり少女は、嬉しかった。
この世に神はいるのかもしれないと、恥知らずにもそう思った程に。
「ああ、これからもよろしく。ええっと、シロオちゃん」
少女は、今度こそ本当に、微笑んだ。