FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
少女は、無言で立ち尽くしていた。
水溜りの中、無言で立ち尽くしていた。
澄み切った夜空の下、まるで彫像のように、無言で、立ち尽くしていたのだ。
彼女の足元には、物言わぬ躯となった、彼女の弟が、いた。
双子の、弟。
血を分けた、程度ではない。
半身、だった。
彼女そのもの、いや、彼女自身よりも遥かに大切な存在だった。
一度、彼女自身の罪によって失い、そうして再び出会えた存在であった。
きっと、大切な宝物、だったのだ。
だから、殺した。
殺すしかなかったとは、言わない。
それ以外にも、彼を助ける数多の方法が存在したはずだ。
それでも、彼女は、彼を殺すことを選んだ。
理由は、簡単だ。
それが、最も簡単で、最も確実だったから。
彼女は、気付いていた。
もうそろそろ、彼女は役割を終えつつあることを。
じきに、彼女は、この世から姿を消すだろう。
そうすれば、彼を止めるものは、いなくなる。
彼を守るものは、数多い。彼を慕うもの、愛するものも、両手の指では数え切れないほどに。
少女は、そのことを誰よりも知っていた。
それでも、彼を殺しうる人間がいないことも、知っていた。
だから、殺したのだ。
彼を、弓兵にしないために。
果たして、少年はそれを喜ぶだろうか。
余計なことをするなと、口汚く罵るだろうか。
少女は、その様を思い浮かべて、苦笑した。
要するに、彼女は自分がしたいようにしただけの話。
誰を恨むわけでも、誰に許しを請うわけでも、ない。
ただ、罪であることは、知っていた。
そして、罰を受ける覚悟は、あった。
それだけの、ことだ。
やがて、少女は振り返る。
彼が最後に投擲した、短剣。
それを、受け止めるために。
彼は、これで少女を殺そうとしたのだろうか。
それとも、違う意図があったのか。
それは、不明だ。
でも、仮にそうだとしたら、それは強さだろうか。
彼は、自分なりの強さを作り上げようとしていたのか。
それとも―――。
少女が、無為な思考を展開している間に、然り、短剣は弧を描きながら、持ち主の元に戻ってきた。
夫婦剣、干将・莫耶。
少女は、その性質を知り尽くしていた。
ある意味においては、少年以上に知っていたといってもいい。
だから、悠々と剣を叩き落そうと、そう思っていたのだ。
彼女は、懐から新たな短剣を取り出す。
甲虫の外骨格から削りだした、宝具にも届くような、二振りの短剣。
少女はゆるりとそれを持ち上げ、構えようとした。
そのときだ。
死体が、呟いた。
口を、泥水に浸しながら、泡立つような声で。
壊れた幻想、と。
episode84 Between the hammer and the anvil 6 再会
破裂。
剣。
赤い、炎。
爆風。
目が。
耳が。
痛い。
何だ、これは。
知っている。
壊れた幻想。
ブロークンファンタズム。
英霊エミヤ、その武装。
宝具を、爆弾に。
何故。
伏兵?
在り得ない。
在り得ない。
ならば。
在り得ること。
在り得ること。
それは。
それは。
それは。
衛宮、士郎。
死んで、いなかった!
振り返る。
遅れた。
見下す。
そこには。
もう、誰も。
当然だ。
なら、どこに?
いや、そもそも。
何で?
心臓に、銃弾。
防弾処理?
在り得ない。
それに、最後の一発は。
特性の、銀弾。
死ぬ。
死なざるを得ない。
なら?
いや、捨て置け。
この思考は、余分だ。
今は、目標の補足を。
耳が。
目が。
馬鹿だ。
どこに。
…。
いた。
立っている。
ぼう、と。
炎の、下。
はっきりと、青白い、顔。
まるで、置物みたいだ。
人形みたいだ。
駄目だ。
止めて。
そんなの、気持ち悪い。
貴方は、そんなの、駄目。
許せない。
銃を。
マガジンの交換。
完了。
構えて。
引き金を。
パン。
乾いた音。
キン。
乾いた音。
弾かれた。
剣が。
射線上に。
「駄目だよ、代羽。そんなもの、もう、効かない…」
やはりか。
鷹の目。
高度な、空間把握。
銃口の位置。
弾丸の射出角度。
それが分かれば。
不意打ち以外。
通じない。
もはや、用を為さない。
放り捨てる。
構える。
双剣。
切りかかる。
「はあっ!」
「ふん!」
焼き直し。
最初の。
それでも、駄目だ。
押される。
精神的に、負けている。
何故?
何故、死ななかった?
斬る。
斬り合う。
赤い、光。
木々が、燃えている。
爆発の余波か。
明るい。
初めて、今日、明るい。
その中で、斬り合う。
弾き合う、刃。
その一部が、細やかな傷を。
彼の、顔。
赤い、線。
垂れる、血。
それが。
瞬時に。
「そうか、アヴァロン…!」
しまった。
あの時、セイバーに返したものと。
返して、いなかったのか?
いや
違う。
返したのだ。
至高の宝具は、悠久の時を経て、担い手のもとに帰った。
それは、ヨハネが確認している。
ならば?
決まっている。
一つしか、ありえない。
再び離れたのだ。
鞘は。
騎士王の、手元から。
つまり。
返して、再び貸与された。
騎士王の、最も崇高な宝具。
それを、与えられた。
騎士として、認められたのだ。
彼が。
私の、弟が。
あの、この世で最も誇り高い、王に。
騎士であれと。
騎士であって、よいと。
そんなの。
そんなの。
そんなもの。
糞喰らえだ!
「もう一度聞くぞ、代羽!」
降りかかる、刃。
悪夢のような、刃。
あの、呪われた男と、同じ。
私の中にいる、あの男と同じ。
一部の隙も無い。
自在に操られる、双剣。
堅い。
強い。
私の模造刀では、防ぎきれない。
いや、違う。
それも、ある。
しかし、もっと根本。
私は、及んでいない。
この少年に。
彼に宿った、何かに。
さもありなん。
私は、私の中に、弓兵を宿した。
故に、弓兵の技を持つ。
彼は、弓兵によって覚醒させられた。
故に、弓兵の技を持つ。
そこは、同格。
しかし、技が一緒でも。
その技は。
その技は。
衛宮士郎に、最適化。
マキリ代羽は、所詮。
ならば。
「お前の望みは、何だ!」
勝てない。
勝てない?
負ける?
私が?
私が?
誰に?
彼に?
弟に?
弟に?
なら。
ならば。
私が、負けたならば。
どうなる。
彼は、どうなる。
私に勝った、彼はどうなる。
知っている。
決まっている、
止まらない。
止まらない。
このまま、走り続ける。
このまま、前に進み続ける。
終着駅は?
その旅路の、目的地は?
どこだ?
どこにある?
知っている。
誰よりも、知っている。
見たのだ。
見たのだから。
赤い、大地。
罅割れた、大地。
乾いた、風。
無慈悲に吹き荒ぶ、風。
流れる、雲。
無彩色の、空。
誰もいない、世界。
完成された、世界。
呪われた、世界。
その中に、一人きり。
一人きり。
一人きり。
一人ぼっち。
誰もいない。
誰もいない。
誰もいない。
声が聞こえない。
目が、見えない。
呼吸が、苦しい。
喘ぐ。
ぜえぜえ。
それでも。
誰よりも、救いがたかったのは。
何よりも、哀れを誘ったのは。
彼にとって。
赤い、弓兵にとって。
その、世界が。
既に終わりを迎えた、世界が。
何よりも、他のどこよりも、どんな理想郷なんかよりも。
ただただ、安楽だったのだ。
「聖杯に、何を望むんだ、代羽!」
「黙れ、愚弟!」
させない。
絶対に、させない。
私が、生きている限り。
私が、貴方のそばにいる限り。
私の、全存在を賭けて。
私の、全知全能をかけて。
貴方を、あんな世界に、連れて行かせない!
めらめらと、燃えていた。
雨に濡れた巨木が、燃えていた。
宝具の、爆発。
その火が、燃え移ったのだ。
本来、在りうる話ではない。
水分を大量に含んだ木が、天に昇るように燃え盛るなど、在り得ない。
だが、それを見ている一人の少女は、当然だと思った。
こんな崇高な戦いが、ただ闇の中で行われるなんて、あっていい話ではないと、そう思った。
二人。
少年と、少女。
赤い照明のもと、剣舞に興じる、二人。
二人とも、その手に双剣を持っている。
それで、斬り合う。
命を奪い合う。
しかし、その戦いを見つめる少女は、そうは思わなかった。
二人とも、戦っているのではないと、いつしかそう思っていた。
二人は、遊んでいた。
例えば、道端に落ちている枯れ木の枝を聖剣に見立てて、ちゃんばらに興じる子供のように。
例えば、陽が隠れるまでキャッチボールを止めない、意地っ張りな子供のように。
二人は、遊んでいた。
今まで、望んでも得られなかったものを、取り戻すかのように。
今まで、決して還らないと思っていたものを、抱きかかえるかのように。
二人は、遊んでいたのだ。
少女は、羨ましいと。
そう、思った。
「答えろ、代羽!お前は、聖杯に何を望む!」
少年の刃が、奔る。
「くどい!」
少女の刃が、遮る。
「人に言えないような、くだらない願いか!」
少年の刃が、奔る。
「ええ、その通りです!」
少女の刃が、遮る。
「俺でもか!」
少年が、前に出る。
「…何と?」
少女が、後退する。
「俺にも、言えないのか!」
少年が、前に出る。
「…!」
少女が、後退する。
「俺に、その資格は、ないのか!」
少年が、追い詰める。
「それは…!」
少女が、追いつめられる。
「また、俺は、お前を助けることが出来ないのか!」
少年が、追い詰める。
「違う!見捨てたのは、私だ!」
少女が、追いつめられる。
「何故、助けさせて、くれない!?」
少年が、追い詰める。
「…違う、私は、違う!」
少年が、追い詰める。
「何故、俺に償わせてくれない!」
少年が、追い詰める。
「私は、私は、違う…!」
少年の言葉が、追い詰める。
「俺は、あの日、貴方を見捨てたのに!」
少年の視線が、追い詰める。
「違う…違うのです…」
少年の想いが、追い詰める。
「罪は、償えないのが、苦しいんだ!何で、分かってくれないんだ!」
少年の優しさが、追い詰める。
「許して…私は、私に、そんな資格は…」
少年の存在そのものが、少女を、追い詰める。
「なら、答えろ、代羽!お前は、何を求める!奇跡に、何を求める!」
「見たかった!!!」
少女は、激した。
その様は、少年が初めて見る、少女の生々しい感情だった。
少年は、気付きえただろうか。
これが、少女が初めて見せる、少女の素顔だったことに。
「私は、見たかった!それだけだ!」
「何を!」
少女が、前に出た。
「世界を、見たかった!」
「世界なら、いつもある!」
それは、只の意地だった。
「私は、私のいない世界を、見たかった!」
「…!」
それは、戦意では、無かった。
「私は、私のいない世界が、どれほど完成されているか、知りたかった!」
「…そんなもの確かめて、何になる!」
それは、殺意でもなかった。
「私は、私のいない世界が、どれ程美しく、どれ程調和に富み、どれ程笑顔に溢れているか、それを確認したかった!」
「だから!それを確認して、何になる!」
「安心できる!」
それは、本当に、只の意地だった。
「私は、私がいなければ、私さえいなければこの世界は完成される、そう思ってきた!」
「そんなの、誇大妄想だ!」
何の価値ないガラス玉を必死に磨く、子供と一緒だった。
「知っている!それでも、私は、私がこの世界を捻じ曲げていると、そう確信して生きてきた!」
「違う!それは、貴方じゃあない!この世界を狂わしているなら、それは、それは…!」
大切な宝物を母親に捨てられて、涙を堪えた必死な瞳で睨みつける、子供と一緒だった。
「それは、罪だ!調和を乱すならば、それは罪だ!」
「違う!絶対に、それだけは、認められない!」
口喧嘩に負けそうな子供が流す、悔し涙と一緒だった。
「私のいない世界を見れば、私の罪の程度が、分かる!」
「誰も、救われない!」
だから、それは、兄だったものとしての、意地だった。
「知っている!それでも、俺は、そうするしか、無かった!」
「違う!他に、方法なんて、いくらでもあった!」
「それでも、それが一番楽だったんだ!」
絶対に、弟には負けられない、そういう意地、だったのだ。
「罪の程度が分かれば、罰の程度も明らかだ!そうして、初めて俺は、安心して眠れる!悪夢に魘されずに、済む!」
「違う!そんなもので、悪夢は、晴れてくれない!」
だから、少女は、引かない。引けない。
「知った風な口を!」
「俺も、そうだったから!」
それが、彼だった彼女の、最後の矜持だった。
「何を…!?」
「俺も、何度も魘された!その度に、跳ね起きた!」
それすらも、もう、用を為さなかった。
「悪夢に魘されて、涙を流しながら跳ね起きて、便所に駆け込んで、嘔吐した!」
「…それは!」
少年は、既に、少女の知る少年では、無かった。
「罪は、知るものじゃあない!消すものじゃあない!償うものだ!代羽、お前が、自分を罪深いと思うなら!お前は、お前自身を許す道を、探すべきだった!」
「…そうして、お前は、あの弓兵になるんだ!お前もきっと、俺と同じように、自分殺しなんて救いの無い救いを求めるようになるんだ!」
「俺は、求めない!」
そこには、少女の知らない、少年が、いた。
「俺は、後悔しない!何があってもだ!どんな世界が、そこに在っても、絶対に、後悔しない!」
少年は、強くなっていた。
「…お前が…だから!」
それは、少女にとって、歓喜であると、同時に。
「だからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからあああぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!」
この上ない、罰であった。
「お前が、そんなだから、俺はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
少女の、乾坤一擲の、一撃。
渾身の力の上に、渾身を乗せた、一撃。
少年は、それを、いとも容易く捌き。
少女の、首筋に、短剣を、突きつけた。
それが、この剣舞の、終わり、だったのだ。
無言で代羽の喉元に刃を突きつける。
まいったか、そうは聞かない。
ただ、それ以上の意思を込めて、彼女の瞳を睨みつける。
しばしの静寂。
そして、がらん、という硬質で重量感のある音が響いてきた。
足元に視線をやると、透明感のある、歪な短剣が二本、転がっていた。
ああ、終わった。
安堵感が身体を包む。
剣に込めていた力が、僅かに緩む。
その瞬間。
大きな質量を持つ物体が、もの凄いスピードでぶつかってきた。
「えっ」
「これで二度目ですね、衛宮士郎…!」
明らかな優越を含んだ声は、常の彼女の、それだった。
周囲の風景が激しくぶれる。
自分が倒れつつある、そう理解したのは地面が背中を叩いた後。
一瞬だけ暗転した視界が捕らえたのは、いつもと変わらずにこやかに微笑む代羽の顔。
先程の、必死の形相はどこにも見当たらない。
幻だったのかと、場違いな感想を抱いた。
「謝罪しましょう、衛宮士郎。いつかあなたに言いましたね、『人がいいのはあなたの長所である』、と」
どこか、ぼやけたような、声。
それで、分かった。
どうやら俺は、軽い脳震盪を起こしているようだ。
上手に、体が動いてくれない。
それでも、代羽は、動くのを止めない。
いつの間にか。
身体と意識のラインが繋がる、その前に。
彼女の小さな両手が、俺の右腕を捕らえていた。
俺の上に馬乗りになっていた彼女の身体が、俺の右腕と共に、横方向に倒れていく。
それと同時に右腕の根元、脇の下に近い部分が、彼女の両足に挟まれる。
あ、これはまずい。
なんだかしらないが、これはまずいぞ。
理屈ではない。
本能からの警告だ。
咄嗟に体をばたつかせる。
しかし、彼女の身体と、それに掴まれた右腕はびくともしない。
左腕は彼女の足の先で押さえられて、剣を振り回すことができない。
そして、彼女の背中が地面に触れたと同時に、俺の右腕の肘関節は、まるで一本の棒切れのように伸ばされていた
「どうやら私は嘘吐きです」
艶のある声で、彼女はそんなことを、言った。
「さて、衛宮士郎。まいりましたか?」
「なにを…」
そこに一切の慈悲はなかった。
いや、それこそが彼女なりの慈悲だったのかもしれない。
ぶちぶち、と。
右腕から、寒気のする音が、聞こえた。
例えるならば、鶏の手羽先を、引きちぎったときに聞こえる音。
それを何倍にも不吉にして、体内から響かせた、音だ。
最初に感じたのは、痛みよりも寒気。
次に感じたのが寒気を吹き飛ばすほどの激痛。
右肘が、凄い角度で曲がっていた。
「いいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ!」
痛い。
全てを吹き飛ばすくらいに、痛い。
痛みで体が再構築されたのではないか、そう思えるくらいに、痛い。
情けない悲鳴が漏れる。
刃で切られるのとも、拳で殴られるのとも、拳銃で撃たれるのとも、違う痛み。
本来、人間の身体が有している防御機能、例えば頑丈な骨格、或いは弾力性にとんだ筋肉、そういったものが一切役に立たない痛み。
関節が、あり得ない方向に捻じ曲げられる、その嫌悪感。
それらが綯い交ぜになって、この悲鳴。
はは、情けないったら。
「ああ、言い忘れましたが」
痛みに犯される意識の中で、彼女の声が朗々と響く。
「今からあなたが上げていい声は、降参の意思表示以外には苦痛の悲鳴だけです。それら以外は戦闘続行の意思表示と見做しますのでお忘れなく」
いつの間にか代羽は俺の右足を捕らえていた。
彼女は両足でそれを挟み込み、踵を肘の内側で固定している。
「まいりましたか?」
「強化、開…」
何の躊躇もなく、彼女は一気に身体を捻った。
ぶちっと。
膝から、嫌な音が聞こえた。
右肘の痛みを忘れさせる程の寒気を感じて。
やはり、それを吹き飛ばす程の激痛が襲ってきた。
どんどん捻られていく俺の右足。
膝を支点にして、爪先が明後日の方向を指し示す。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
「詠唱不要の、シングルアクションの魔術が使えないのが貴方の敗因です。これが遠坂先輩や桜相手ではこうはいかなかった」
俺の悲鳴など聞こえていない素振りで、彼女は続ける。
「魔術行使には精神の集中がまず必要。これだけのダメージを負ってしまってはそれも難しいでしょう。降参しなさい」
聞こえない。
痛みで、耳が塞がっている。
会話が、出来ない。
脳の機能が、停止している。
ただ、なんとなくわかった。
彼女が倫敦で習得した技術というのは、銃の腕のことだけではない。
こっちだ。
どちらと問えば、この技術、体術の方が、彼女が苦痛の末に勝ち取ったものだ。
なんと。
なんとまぁ、貧弱な技術だろう。
こんなもの、百人の魔術師がいたら、九十九人には通用しまい。
炎、氷、雷、幻術。
あらゆる魔術が天敵だ。
しかし、一人には通用した。
俺には、通用した。
彼女がそのことを知っていたはずがない。
知っていて身につけた技術ではないのだ。
彼女には、これしかなかった。
魔術の才を持たず、或いは奪われ。
しかし、戦うために。
おそらくは役に立たないであろう、敵に蹂躙されるだけであろう技術を、血を吐きながら習得したのだ。
なんという無駄。
なんという喜劇。
何が、彼女をそうさせたのか。
そんな、どうでもいいことを考えていたら、今度は左足が捕まった。
代羽の右脇に抱えられた左足首。
アキレス腱、その下に彼女の腕が差し込まれている。
そして、彼女が身体を倒していくと同時に、焼けた火箸を突っ込まれたような痛みが脳髄を貫いた。
「まいりましたか?」
「ふ…ざけるな…」
ぶつん、と。
拍子も無く、俺の中で太い何かが千切れた。
痛い。
痛い。痛い。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
「あああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「まいりましたか?」
「………」
ぶちん。
熱い。
「まいりましたか?」
「………」
ばき。
痛いのではなく、熱い。
「まいりましたか?」
「………」
めじ。
全身を、鉄板で炙られているかのよう。
「まいりましたか?」
「………」
べき。
ふと、あの日を思い出す。
「まいりましたか?」
「………」
ぐち。
熱いといえば、なによりも熱かったあの日。
「…まいりましたか?」
「………」
ぼき。
熱かった空気と、暖かかった掌の感触。
「…まいりましたか?」
「………」
ぶち。
俺の手を引いてくれた、誰かの手。
「…まいり…ましたか?」
「………」
ごき。
ああ、俺は、覚えている。
「…まいったと……いってください…」
「………」
びき。
この掌の感触を、覚えている。
少年の体は、聖剣の鞘という奇跡によって治癒される。
千切れた靭帯、あるいは折れた骨。
それくらいならば、五分もあれば完治する。
完治すれば、彼は立ち上がる。
立ち上がり、戦い続ける。
だから、少女は、折り続けなければならない。
靭帯を切り、骨を折り、肉を捻じ切らねばならない。
愛した者の体を、痛め続けなければならない。
たった一言の約束を取り付ける、その時までは。
そして、少年は地獄を味わい続けなければならない。
靭帯を切られ、骨を折られ、肉を捻じ切られねばならない。
だが、一番痛いのは、そのことではない。
一番痛いのは、愛する者の体を痛め続ける、目の前の彼女が漏らす、無言の叫びだった。
許してください、と。
許してください、と。
しかし、彼女は、絶対にその言葉を口にしない。
だから、彼は、たった一言の約束を口にするわけにはいかなかった。
だから、泣いていたのは、少女のほうだった。
その少女は、泣いていた。
瞳は乾き、嗚咽も漏らさなかったが。
どうしようもないくらい、まるで闇夜に置き去りにされた幼子のように、泣いていた。
そのことを、少年は、知っていた。
命を脅かすもの以外の、ありとあらゆる関節を破壊され、比喩ではなく壊れた操り人形のようになった少年。
それでも彼は、己が敗北してはいけないことを知っていた。
仰向けに寝転がる少年
彼の上で、無表情のまま泣きじゃくる少女。。
少年は慈しむように少女を見上げ。
少女は、己の罪を恥じるように少年を見下ろした。
異様な光景だ。
罪に頭を垂れ、勝ちを懇願する少女。
痛みに立ちはだかり、敗北を拒絶する少年。
二人の間に会話は無い。
ただ、無言。
無言のまま、見つめあう。
少女は、痛みと共に、少年を見つめる。
少年は、痛みに耐えながら、少女を見上げる。
ただ、無言。
互いの吐息すらが、静穏を乱す闖入者。
そして、距離。
一メートルにも満たない、僅かな距離。
それだけの、距離。
しかし、二人の間にあったのは、空間だけではない。
時間が、あった。
離れ離れに過ごした時間が、あった。
互いを身近に感じて過ごした時間が、あった。
互いのことを知らずに過ごした時間が、あった。
互いのことを忘れて過ごした時間が、あった。
互いのことを知って過ごした時間が、あった。
己のことを告げずに過ごした時間が、あった。
相手の痛みを想像することすら許されなかった時間が、あった。
それを知って絶望し、己を、そして相手をすら憎んだ時間が、あった。
そして、気の遠くなるほどの時間があって。
彼らは今、再会した。
「なぜ…まいった、と…いってくれないのですか」
「だって、俺が負けたら、貴方が苦しむ」
「私が望むのです。あなたは自分のことだけを考えていればいい」
「嫌だ。俺は一度貴方に救われた。なら、今度は俺が貴方を救う番だ」
「あなたの言っている意味がわからない」
「思い出したんだ、何もかも」
「―――――」
「あの日、、あの赤い世界で、俺を背負ってくれた背中を。俺を掴んでくれた手を」
「ほんとに…ですか…」
「ああ、何もかも、思い出した」
「…そうですか。ならば、私を殺しなさい。あなたにはその資格がある」
「えっ?」
「私はあの日、あなたを見捨てました。あなたには私を憎む理由があり、その資格がある。罪には相応の罰が必要です。だから、私を殺しなさい」
「嫌だ」
「私はアーチャーを殺しました。
私はバーサーカーを殺しました。
私はキャスターを殺しました。
私はあなた達を謀りました。
裏切りは原始の罪です。死刑こそが、応報でしょう」
「そんなこと、知らない」
「罪は、無条件に許されることの方が苦しいのです。貴方も先程、そう言ったではありませんか。罰してください。何故、殺してくれないのですか」
「俺が、貴方を殺したくないから」
「あなたは、間抜けですか」
「何でもかまわない。俺は、貴方だけは、殺さない。絶対に、憎まない」
「残酷ですね」
「そうかもしれない。でも、」
兄さん、貴方より、ましだ。
ああ、と。
深い、深い絶望の声を発した彼女は。
穏やかに、とても穏やかに瞑目し。
氷の彫像のように、動かなくなった。
一体どれほどの時間が流れたのか。
一瞬だった気もするし、酷く長い間このままだった気もする。
背中から、雨に濡れた服を通して、体温が奪われていく。
それが、少し億劫になってきた、頃合。
上に圧し掛かっている、彼女の重さ。
それが、思ったよりも心地よいなと、どうでもいい感動を覚えた、頃合。
やがて、彼女は前に倒れる。
ゆっくりと、眠るためにベッドに倒れこむように。
俺は、彼女に捻じ曲げられた両の手で、彼女を抱き止める。
痛みは既に感じない。
ただ、目頭が熱かった。
「恥知らずですね、私は」
ぼんやりと、しかしどこか投げ遣りな声。
「どうして」
「己が見捨てた人間に、抱き留められた。これ以上の無様、この世にあるでしょうか」
その顔に浮かんだのは、いつもと変わらぬ微笑。
だから、分かった。
彼女は、いつも泣いていたんだと。
この貌は、涙の替わりなのだと。
「俺は貴方に助けられた。この世の誰が否定しても、俺はそう確信している。貴方にそれを否定する権利なんて、無い」
俺の言葉に、彼女は目をぱちくりとさせて。
やがて、くすくすと、笑い始めた。
「そんなことに権利という言葉を持ち出しますか。今更そんなことを言われて、私に何をしろというのですか、貴方は」
彼女の、黒曜石のように黒い瞳が、直ぐ傍にある。
まるで口付けを交わす寸前の恋人のような距離。
額と額がこつりと触れ合う。
しかし、まるで羞恥は感じない。
緊張すらも、感じない。
心臓の拍動も平時のそれと同じリズム。
ならば、感じているのは、母に抱かれたような安堵だけ。
ああ、なるほど。
俺には、恥ずかしがる理由なんて、無かったんだ。
「たまには、泣いたらいいと思う。兄さん、貴方は、強すぎたんだ」
もう一度、彼女はぱちくりと、目を瞬かせて。
兄さんは、今度こそ、本当に愉快そうに、笑った。
「私は、貴方の前では、涙を捨てました。貴方に涙は見せないと、誓いました。でも、今はそれが少し残念。ああ、泣けないということは、哭くことよりも、悲しいのですね」
その言葉が、この意味の無い戦いの最後だった。
でも。
意味は無くても。
ただ一片の救いは、あったような気がした。
多分、気のせいじゃあないと思う。