FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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interval14 少女、二人。

「ねえ、遠坂先輩。一つ、賭けをしませんか」

「……どんな?」

 

 目の前の少女は、私が初めて見る悪戯げな表情で微笑った。

 儚いというよりも、やや自虐的な笑みだったのかもしれない。

 

「遠坂先輩が、士郎、衛宮先輩を真人間に戻せるかどうか、です」

「…なに、それ。からかってるの」

 

 壁に背を預けた少女が、笑う。

 へばりつくような、笑み。

 

「いえ、本気です。これ以上ないくらい本気。だって、あの子壊れてるでしょう。あの子、色んな修理は上手いけど、自分だけは直せないみたいだから、誰かが直してあげないとどんどん壊れていく」

「……」

「私はもう手遅れ。でも、彼はまだ間に合います。正義の味方なんて、呪いみたいな理想を受け継いでしまったけど、それでも彼はまだ手遅れじゃない。私はきっかけを作ることはできる。でもアフターケアはできないのです。だから、それをあなたに任せたい。だめでしょうか」

 

 そう語る彼女の瞳は、くだらない理屈を挟むことができないくらい真剣で。

 私に、ある種の決意を抱かせるに、十分過ぎるほどだった。

 

「…賭けに勝ったら、何をくれるの?」

 

 彼女は、やはり真剣な瞳で答えた。

 

「土下座して、『負けました、遠坂凛様、あなたには遠く及びません』って言ってあげます。なんなら靴を舐めてもいいですよ」

 

 なんだ、その魅力的な賞品は。

 

「賭けに負けたら?」

「貴方を殺します。私はこの世界から消えてなくなるけど、それでも絶対貴方を殺しにいきます」

 

 なんだ、その過酷な罰ゲームは。

 まったく釣り合いが取れていないじゃないか。 

 片や、ただの土下座で。

 片や、私の命か。

 まったく、私の命も安く見られたものだ。

 でも、彼女はやっぱり真剣で。

 だから、とても愉快だった。

 くすくす、と笑いが漏れる。

 それを見た彼女が、やはり吹き出す。

 

「あはは、なによそれ、私の命って!」

「ふふ、なにを言うのです、この私が土下座するのですよ、それくらいは対価にしてもらわないと困ります」

 

 二人で笑って。

 いいかげん腹筋も引き攣ってきたとき。

 私はこう言った。

 

「ええ、なかなか面白い賭けね。考えておくわ」

 

 彼女は優しい笑みを浮べてこう言った。

 

「はい、考えておいて下さい」

 

 そんな、子供みたいにくだらない会話。

 でも、どこか尊くて、冒し難い会話。

 その余韻を噛み締めていたとき、ふと、耐え難いほどの眠気が襲ってきた。

 瞼が、私の意志の届かないほど、重く鈍くなる。

 

「…薬の影響でしょう。抵抗しないで。ほんの少し、眠るだけだから…」

「…これ以上、食べないでよ、私の身体…」

 

 最後に、彼女が笑ったことを、覚えている。

 

「ふふ、私はね、貴方の髪の毛の一本だって、食べていませんよ…」

 

 その言葉の意味を理解する一歩手前で。

 私の意識は、深い深いところに、落ちていった。

 

interval14 少女、二人。

 

 そんな、じゃれあうような、時間。

 それを、思い出す。

 裸。

 一切、この身体を隠すものは、羽織っていない。自由になった手足で部屋の中を探索してみたが、それらしきものは見当たらなかった。

 自由になった、手足。

 薬による重たい痺れは、無い。

 じゃらりと冷たい鎖も、無い。

 いや、そもそも、と。

 握る。

 動かす。

 そこにあるはずのない、しかし確かに存在する、左手を。

 そこにあるはずのない、しかし確かに存在する、両足を。

 夢、まず最初にそう思った。

 そうではないと気づいたのが、数瞬後。

 まだ薄く霞がかった、ローギアの頭で考える。

 左手は、いい。

 魔力を通したときに、多少の違和感がある。おそらく、これは精巧な義手の類だろう。

 しかし、両足があるのは、どういうことだろうか。

 あの時、薄れ行く意識の中で、彼女が肉を咀嚼する音を、確かに聞いたのだ。

 一体、あれは―――。

 そんなことを考えながら、裸のまんまベッドに腰掛けて、何をするでもなくぼんやりとしていたら。

 

「おはようございます、遠坂先輩」

 

 ちらりと、目をやる。

 音も無く開かれた扉。

 そこから、少しひんやりとした空気が流れ込んでくる。

 部屋の中の薄い光に慣れた瞳には、彼女が背負った太陽の光が優しくない。

 手を庇にしながら、数回瞬く。

 そこには、一人分の衣服を抱えた、黒髪の少女が、いた。

 

「具合はどうですか?そろそろ薬も抜けた頃合だと思うのですが…」

「…おかげさまで。不躾で悪いんだけど、いくつか聞いていい?」

「ええ、どうぞ。ただ、その前にこちらの服を着てくれませんか?同性とはいえ、先輩のような人の裸は、目に毒ですから」

 

 彼女は、輝くような笑みを浮かべながら鷹揚に頷いた。

 

 ―――散々人の身体を舐め回しておいて、今更何を言ってんだか。

 

 そう言おうと思ったが、何故だか後ろ暗い気がして、止めた。

 のそのそと、彼女が持ってきた衣服に袖を通す。

 流石にサイズに合う下着は無かったのか、胸が少しきつい。

 それでも、ゆったりとしたトレーナーの上下を着ると、人心地がついた。

 

「…じゃあ、聞いていいかしら?」

「ええ、存分に」

 

 彼女、マキリ代羽は、その小さな体を、やはり小振りのソファに沈めながら、頷いた。

 失われたはずの左手が、少し痒いような気がした。

 

「この左手、何?それと、足は、どうなってるの?あなたが食べたんじゃあ…」

「…その左手は、ご要望のあった、精巧な義手です。まあ、マキリが用意したものですからね、素材についてはあたりがつくでしょう?」

「…蟲、ね?」

「正解です」

 

 私は、おそらく眉を顰めたのだろう。

 それは、生理的な嫌悪というよりも、ただの反射に近い感覚だ。おそらく、これが宝石で出来ていても、人の身体で出来ていても、私の細胞を培養して作ったものだったとしても、私は、きっと同じ表情を浮かべていたに、違いない。

 それでも、私は、後悔することになった。

 目の前の華奢な少女が、少しだけ、ほんの少しだけ辛そうな顔をしたから。

 

「…御免なさい。そういうつもりじゃあ…」

「知っています。貴方は、誰よりも誇り高く、優しい。だから、貴方に慰められることは、何より辛い。申し訳ありませんが、それだけは、分かってください」

 

 彼女は、それでも微笑っていた。

 いつもと全く同じように、微笑っていたのだ。

 それは、まるで仮面、だった。

 まるで仮面のように、陰気で、堅牢な、笑み、だった。

 

「…その腕の寿命は、半年ほど。それまでに、蟲を制御する術式を組み立ててください。でないと、魔力の枯渇した蟲達は、まず手近にある肉を食らい始めるでしょうから」

「…一週間で、組んであげるわよ、そんなもの」

「ああ、貴方はやはり天才だ。そんな貴方だからこそ、その腕を託したのですけれど…」

 

 その満足気な笑みを、なんと名付ければよいのだろか。

 一瞬だけ逡巡して、私は理解した。

 それは、誇りだった。

 間違いなく、誇りだった。

 それも、自己を誇る、優越に満ちたものではない。

 例えば家族や、仲間、或いは恋人を誇る、穢れの無いそれだった。

 

「あと、貴方の足は、間違いなく両方ともが貴方自身のものです。あの時に打った麻酔薬は、あくまで魔力枯渇用に埋め込んだ蟲を摘出するためのもの。いわば、虫下しでしたから」

「…でも、あのとき確かに…」

 

 くちゃくちゃと。

 肉を咀嚼する、湿った音が聞こえたではないか。

 あれは、幻聴だったのか?

 それとも…。

 そう、思索する私がおかしかったのか、やはり彼女は微笑っていた。

 最早、彼女とその表情は、不可分なものと思えるほどだった。

 

「言ったでしょう?私は、人の肉を喰らう死徒であると。ならば、食べますとも」

「…じゃあ、あの時食べてたのは…」

「ええ。単純に、貴方以外の、人だった物の肉、そういうことです。それ以上、説明がいりますか?」

 

 彼女は、事も無げに言った。

 もう、それ以上聞こうと思わなかった。

 私の代わりに食べられた、どこかの誰か。

 その人のおかげで、私の足は、今ここにある。

 そして、その人の、或いはその人だった物の一部は彼女の胃袋で消化された。

 それだけの話で、それ以上の話ではない。

 その肉の出自や由来を知ったところで、何一つ変わらない。

 もし、今から彼女が人を食べるというのであれば、きっと私は全力で阻止するだろう。

 それでも、既に終った事実に心を痛めるほど、私の性格は可愛げのあるものではないのだ。

 果たして、それは罪だろうか。

 罪だと。

 誰かが、そう言った気がした。

 

「本当に、貴方を食べようと思っていたのですよ?それほどに貴方は魅力的でしたから。でも、食べることができませんでした。食べることが、できなかったのです…」

 

 何故、と。

 そう問う勇気が、私には無かった。

 聞けば、きっと彼女は正直に答えてくれるから。

 きっと、その答えは、この世で一番残酷なものだから。

 

「…もう、ありませんか?」

「…あと、二つ。時間は大丈夫?」

「ええ。夕食まではまだ時間がある。ならば、少しくらいのおしゃべりも悪くはないでしょう」

 

 夕食。

 彼女の夕食には、一体何が並ぶのだろうか。

 その選択肢に自分の肉が在りうることも考えたが、不思議と怖くはなかった。

 だからだろうか。

 既に令呪の使用も可能なのに、セイバーを呼ばなかったのは。

 

「貴方、嘘を吐いたでしょう」

「はい」

 

 一拍の間もない、断言。

 少しだけ噴出しそうになる。

 

「…まさか、そんなに自信満々に言われるとは思ってなかったわ」

「私も、これでも一応は人間のつもりですから。知っていましたか?人はね、乳児の頃から嘘を覚えるのです。只管に、母親の愛を独り占めするために。ならば、私とて嘘の一つや二つ、吐きますよ」

 

 からからと、彼女は乾いた声で笑った。

 

「…そういう、一般的な話じゃあ、ないわ。私が眠る前に聞いた話。昔々の、御伽噺のことよ」

「…ほう。あのどこに嘘があったと?」

 

 彼女の眼光が、ふいに鋭さを増す。

 まるで、鷹のような眼光。

 どこかの誰かさんのようだと、意味のない感想を抱く。

 

「あのとき、貴方は言ったわね。『あねとおとうと』って。でも、それはきっと嘘。本当は、『あにとおとうと』なんでしょう?」

「…その根拠は?」

「二つ。まず、貴方と士郎の、魔術の共通項とその特異性。私は、曲がりなりにもあいつの師匠だからね、あいつと貴方の魔術が同じものだっていうのは理解しているつもりよ」

「私の魔術が投影だと?」

「というよりも、己の内面にある世界から持ち出した、現実を侵食する幻想。それが、貴方の魔術であり、士郎の魔術。その本質は、大禁呪、固有結界。多分、もう一人の貴方、ヨハネの使ってたアレも、固有結界なんでしょう?」

 

 あの夜、ヨハネは無数の蟲を使役した。

 見たこともない、幻想種の群れ。

 いずれも、醜悪で、それ以上に精強。

 しかし、その中に一匹だけ、絶対に存在するはずのない蟲がいたのだ。

 アポルリオン。

 ヨハネの黙示録に記された、滅びの蟲。

 それだけは、この世に存在するはずがない。それが存在するということは、黙示録が成就した、もしくはしつつあることを意味するからだ。

 黙示録の成就は、限られたごく一部の人間以外にとってはまさに滅びそのものである。

 有史以来、そういった預言の成就を思わせる出来事は、存在していないはずだ。もし存在したならば、既に神の奇跡が具現化したならば、教会の存在価値そのものが無くなるのだから。

 つまり、いまだかつてこの大地に存在したことの無い蟲。

 それは、異例だ。

 なぜなら、彼らの魔術には、まず対象を視認しその解析を行うことが最低限必要な条件のはず。

 ならば、ヨハネは今まで一度も見たことの無い対象を、どうして自在に使役することができるのか。

 それは、滅びの蟲の出自が、ヨハネという人格の内面世界だからに他ならない。

 

「ヨハネという名前だからそういう世界を内に宿したのか、それとも、そういう世界を内に宿していたからヨハネという名前が与えられたのか、それは分からないけど。とにかく、投影と見紛うような特異な魔術と、その本質としての固有結界。この二つだけで貴方達が容易ならざる関係であることは推認できる。例えば、一卵性の双生児のような、ね」

「それだけでは、二人が兄弟であることの証明にはならないでしょう。仮に二人が一卵性双生児だとしても、異性の一卵性双生児というものも存在するのですから」

「ターナー症候群、クラインフェルター症候群のことね」

「ご存知でしたか。なら結構。では、果たしてもう一つは?」

「ああ、それはね、とても単純なの。見たのよ、あの地下室で、臓硯の日記を」

 

 地下室。

 マキリの修練場。

 腐肉と生肉と、蟲の体液の臭いしかしない、閉ざされた空間。

 そこにあった、隠し部屋。

 その本棚を埋め尽くしていた研究日誌。

 あの時は、さらりと読み飛ばしてしまったが、今考えれば明白だ。

 

 まず、最初の記述。

 

『○年○月○日 桜を遠坂に返却する。素材をマキリの胎盤とするための調整を開始。淫蟲は使用できないため、他の蟲にて代用。経過は順調。』

 

 淫蟲は、使用できない。

 

 次に、この記述。

 

『○年○月○日 調整完了。これより淫蟲を用いた調教を開始する。経過は順調。』

 

 最初は、おやと思ったものだ。

 何故、最初から淫蟲を用いた調教をしなかったのかな、と。

 少なくとも、桜はマキリに連れ去られた初日に、淫蟲による凌辱を経験している。

 幼い子供であっても、その修練の苛烈さ、或いは陰湿さは減ずるところが無いのは明白だ。

 では、何故この子供にはそれが無かったのかと。

 少し、違和感を覚えた。

 しかし、そこにこういった仮説を持ち込んでみる。

 

 使わなかったのではなく、使えなかったのではないか。

 

 淫蟲。

 詳しい生態についてはまだ解明の余地が多過ぎるが、大雑把なそれは明白だ。

 人間の血液、精液、骨髄を好む魔物。

 男ならば、その脊髄と脳髄を喰らう。

 女ならば、その子宮に潜み、胎盤を喰らう。

 いずれにしてもおぞましい限りだが、そこには決定的な違いがある。

 淫蟲の好む箇所は、少なくとも男にとっては、まさに致死なのだ。

 故に、男子の後継者の育成に淫蟲が使われることはないはずである。少なくとも、女子に使われるのと同じ用途で用いられることはあるまい。

 では、この子は男子だったのだろうか。

 それは、おかしい。

 なぜなら、約一ヶ月の期間をおいてから、確かに淫蟲による調教が開始されているからだ。

 この矛盾に、どういった整合性を求めるか。

 最初はわからなかった、というよりも気にも留めていなかった。

 だが、こういうことではないだろうか。

 

 最初は使えなかった、しかし一ヵ月後には使えるようになっていた。

 

 つまり。

 

 その間に、入れ替わったのだ。

 

 子供の性別が、男から、女に。

 

 在り得ないこと、だろうか。

 否。

 在り得ないことでは、無い。

 マキリの業は、髪の毛や瞳の色といった、遺伝的な資質の汚染にまで及ぶ。

 ならば、その業をもって性別如き入れ替えることができないと、どうして言い切れるか。

 そもそも、性というのは魔術とは切っても切り離せない重要な要素の一つだ。

 ならば、その操作が秘術として存在しても、何の不思議も無い。

 約一ヶ月という短い期間での、性別の転換。

 そこに、どれほどの苦痛があったのか。

 身体の隅々までを破壊されて、再構築されるような地獄だったはずだ。

 それを、五歳か六歳の子供が、自我を崩壊させることも無く、耐え切った。

 いや、或いは、その自我はそこで破壊されたのだろうか。

 だから、彼はもう一つの人格を宿した。

 少女としての、人格。

 それが―――。

 

「もう、結構。正解です。貴方の仰るとおり、私は昔、男でした。もっとも、第二次性徴の前でしたから、今の自分に違和感を覚えることはありませんが、ね」

 

 あっさりとした。答え。

 それでも。

 なんだろう。

 なんだろう。

 おかしい。

 何かが、おかしい。

 何かが、狂っている。

 違和感。

 歯に物が挟まったような、掻痒感。

 半分めくれた瘡蓋のような、異物感。

 掛け違えた、ボタン。

 壊れたジッパ。

 私の、一番奥が、叫んでいる。

 どうでも、いいことのはずなのに。

 あの話の姉が、実は兄だったから、何が変わるというのか。

 どんな不都合が生じるというのか。

 生じない。

 姉が兄だったところで、一切の不都合は生じない。

 精々、御伽噺にちょっとしたスパイスが効いたくらいの話だ。

 大勢に影響は無い。

 ならば、どうして。

 私の、魔術師としての感覚が、こうも騒ぐのか。

 これは、尋常ならざる事態だと。

 この差異は、決定的だと。

 

「そして、私は、衛宮士郎の双子の兄。まさに、貴方の仰るとおりです。もう、ほとんどのことは忘れてしまいましたが、彼と遊んだ夏のことは、昨日のことのように思い出せますよ」

「…じゃあ、ひょっとして、自分の名前も、覚えてる?」

 

 その質問は、何気ないものだった。

 代羽という、呪われた名前を与えられて。

 それでも、自分の本当の名前くらい、覚えているなら。

 それはほんの少しでも救いではないかと、そう思ったのだけれども。

 

「…貴方が、お前が、それを、聞くのか…?」

 

 それは、怒りだった。

 初めて、剥き出しの、怒りだった。

 私は、恐怖した。

 だって、その声は、この上ないくらい、怒りに濡れていて。

 それ以上に、悲しみに彩られていたから。

 

「代羽…」

「…失礼。少し、取り乱しました」

 

 そこにいたのは、いつもの彼女だった。

 私が味わったのは、安堵だろうか、それとも失望だろうか。

 

「…最後に。貴方は、聖杯に何を望むの?」

「…私は、何も望みません。だって、私は聖杯なのです。景品自体が景品を欲しがるなんて、おかしな話でしょう?…でも、もし許されるなら、私は見てみたいと思います」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「私は、自分のいない世界を、見てみたい。私のいない世界で、彼がどのように暮らして、どのように成長して、どのように過ごすのか、それを見てみたいと。そう、思います」

「…何で、よ?」

「…私は、あの日、彼を見捨てて逃げ出しました。もし、私が最初から存在しなければ、彼はどうなっていたのか。救われていたのか、それとも、あの火事の中で焼け死んでいたのか、そもそもあの火事に出くわすことそのものが無かったのか…」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「もし、私がいなくても彼が同じ人生を歩んでいたら、私には何の罪も無いことになる。それは、安心でしょう?」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「もし、私がいることで彼が少しでも幸福な人生を歩んでいたら、私には何の罪も無いことになる。それは、安心でしょう?」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「もし、私がいることで彼の人生が不幸なものになっていたとしても、その程度が分かれば量刑は明らかだ。それは、安心でしょう?」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「遠坂先輩。私はね、安心したいのです。一瞬でいい、一瞬でもいいんです。安心したい。それは、罪でしょうか…?」

 

 縋りつくような瞳。

 必死なほどに同意を求める、瞳。

 私は、醜悪だと思った。

 彼女は、只管に過去に囚われている。

 それを変えようとするわけでは、ない。

 過去の改変、それは後ろ向きな行為でありながら、それでも一部は未来へ希望を託す行為だ。

 だが、彼女のそれは。

 あらゆる感情のベクトルが、過去へ向いている。

 そこから派生する、未来への反射というものが、一切存在してない。

 まるで、漆黒の深淵を覗き込むような、行為だ。

 人は、どれほどの絶望を味わえば、このような願いを持つことが叶うのか。

 それが、私には分からなかった。

 故に、醜かった。

 醜悪だった。

 でも。

 その一言を言う、勇気、或いは優しさが。

 私には、致命的に、欠如していたのだ。

 

「…これで、全て、ですか?」

 

 大きく溜息を吐いた彼女。その表情には疲れの色彩が強い。

 

「…ええ。感謝します、マキリ代羽」

 

 その言葉に、彼女は再びいつもの表情を取り戻した。

 

「ふふ、乙女の破瓜の相手を、聞き出したのです。この程度の対価は、安過ぎるというものでしょうに」

 

 ふいに、顔が熱くなった。

 

「あ、あんた…!」

「夕食にしましょう。それとも、もう帰られますか?であれば、特に掣肘はしませんが」

 

 私は、とことん彼女に付き合う覚悟を、決めたのだ。

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