重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
目に映るのはいつものベッドの天蓋ではなく木でできた天井。その光景に怠い体を何とか起こし、目線を下に向ける。
いつもの縫い目一つ見えない毛布とは対照的に、荒い縫い目の羽布団が堂々と居座っている。
服の隙間から覗く腕には包帯が丁寧に巻かれていた。重苦しい布団をどかせば、いつのまにか身に着けている服も変わっていた。よれよれのカーキー色のスカートにくすんだ白いシャツは初めて着る服であり少し心躍るがゴワゴワしていて正直、着心地はよくない。
寝起きでボーッとしていた頭が徐々に覚醒していく。
そして、意識を失う寸前の記憶も思い出される。
ジワジワと、体を蝕んだ死の気配。そしてそれを彼方へ弾き飛ばした命の恩人。
そうだ。彼は、バーサーカーはどこだろう?
部屋を見渡すが、彼は背が同じ人間と思えないくらい大きかった。こんな部屋の天井に収まるわけがない。
彼は私を助けてくれた。
あの時に、雪の大地に横たわっていたときに感じた安心感。
それが無い今、どこか無性に不安な気持ちになる。
そんなことを考えているとドアが軋む音と共に、一人の男がカップの二つ載ったプレートを持って部屋へと入ってくる。
「あぁ、目が覚めたみたいだね」
見知らぬ男にイリヤは警戒心を露わにし、男に鋭い視線を向ける。
「誰?」
「僕かい?僕はブルース・バナー。君は?」
「私は──」
そこで言葉に詰まる。
別に名前が無いわけじゃない。ただあの城では、痩身の男だけが数えるほどしか呼ばれたことがない。それも最早呼んでいたかもしれないというほどにまで薄れた記憶の中で、だ。
部屋のプレートに書かれていた、自分としては気に入らない、無駄に長ったらしい名前。
「──イリヤスフィール」
「……イリヤって呼んでも?」
質問を飛ばすバナー。しかし、名前の話題はイリヤの神経を逆撫でする。
「好きに呼べば、それよりバーサーカーはどこ?」
苛立ったイリヤは視線を逸らすと無理やり話題を変える。
一方のバナーは聞き覚えのない名称に首を傾げる。
「バーサーカー?」
「そう、私を助けてくれた。ねぇ、バーサーカーはどこ?」
繰り返しバーサーカーの居場所を聞くイリヤに、バナーは困ったように頭を掻く。
「あー彼は今、休んでる」
「休んでるの?どこに?」
「それは……ちょっと、言えないかな」
誤魔化すバナーを睨みつけるイリヤ。しかし、そんな視線に晒されてなお、バナーの態度は変わらない。
「答えて、バーサーカーはどこ」
今度は強い口調で問う。
ところが、再びドアが開かれ話は中断され二人の視線はドアへ向かう。
入ってきたのは脇に毛布を抱えた中年の女だった。
「あらお嬢ちゃん、目が覚めたみたいね。酷いけがだったけど元気そうで何よりだわ」
女は小太りな体をせわしく揺らしながら話しかける。
冷めた空気の二人を無視して振りまかれる明るい空気。言葉を返さない二人だったが女は返事を待つことなく、持ち込んだ毛布を広げイリヤがどけていた毛布を軽々と奪い取る。
それが終わると、今度はカーテンの掛かった窓へと女は向かう。勿論、会話は継続したままだった。
「それにしても、びっくりしましたよ。また自殺志願者が森に行ったと思ったら女の子を抱えて帰って来るんですもの」
「まぁ……その件はどうも」
歯切れの悪いバナーだったが、女は気にせず話を続ける。
「それにしても──」
窓辺の作業を終えた女が突然、ヌッと顔をイリヤに近づける。思わず顔をのけぞらせるイリヤだったが、女は安心させるようにニッコリと笑う。
「顔にケガが無くてよかったわ。キズが治るまでゆっくりしてもらって大丈夫だからね」
優し気な声音でそう言うと女は部屋を立ち去った。
きしむドアが閉まり女の足音が遠くへ行くと、部屋は女が残した微妙な空気で沈黙に帰る。
それを壊すべくバナーは無理やり話を切り出す。
「この村は、自殺の名所に一番近くてね。よく死にに来た人がこの村で最後の夜を過ごすんだ」
「ふーん、それじゃあバナーも死にに来たの?」
「そうなるね、現状からして失敗したみたいだけど」
自嘲気味に笑うバナーはイリヤの手に包まれた、未だに飲まれた痕跡のないカップに目を止める。
「飲まないの?」
差し示される白いカップ。
中には薄い茶色の液体が湯気をあげている。
両手に持ったカップを口に付けゆっくりと傾ける。
流れ込んだドロリとした液体が、イリヤの舌に熱さと仄かな甘みを教えてくる。
それが胃に流れ込み、ジンワリと熱が全身に広がっていく。
体が温まり一息つくイリヤにバナーは話を切り出す。
「それで君はそのケガを治したらどうするの?」
「バーサーカーを探すわ、あなたじゃ教えてくれないんだもの」
諦めないイリヤにバナーは天を仰ぐ。
「………彼は君が思ってるようなやつじゃない」
「なんであなたがそんなこと言うの?」
「少なくとも君よりは彼をよく知ってる」
それに対し君は彼のことを何も知らない、と言外に告げるバナー。
そして、とどめをさす。
「ともかく駄目だ。君を彼には会わせない」
「どうして!?」
イリヤの叫び声が部屋に響く。
なぜ、バーサーカーを悪く言うのか。なぜバーサーカーの居場所を教えてくれないのか。
ただ、バーサーカーに会いたいだけなのに。
理由の分からないイリヤは、癇癪を起こす。
そうして、感情のままに力を振るう。
ついさっき、初めてやったこと。
しかし、無意識だというのにそれは起こった。
イリヤの振るった髪の毛は、バナーの座った机を両断する。
ガチャンッという破壊音と共に机の残骸が崩れおり、部屋が静まり返る。そして、その沈黙は作り出した本人によって、派手に壊される。
「バーサーカーは私を助けてくれた!それだけよ!!」
感情に任せたままイリヤは叫び、そのままバナーを睨む。しかし、バナーは彼女を見ていなかった。
バナーの目の前には壊された机と床に垂れ光を失う糸、否、髪の毛。
それとイリヤを交互に見ながらバナーはイリヤに問いかける。
「今の……今のは何だい?」
「今のってなによ」
「髪の毛を抜いて振った。振っただけなのに……」
一体どうやって、髪が媒体なのかと机の残骸を触りながらブツブツ考え込むバナー。
しかし、思索に耽る彼などイリヤには関係ない。
かけられたばかりの毛布をどかし、ベッドから立ち上がろうと体を動かす。
ずっと寝た状態だったせいか体の節々が固く、キズの痛みも合わさり顔をしかめる。が、この程度の痛み、どうってことない。
「もう行くわ」
「いや、それは駄目だ」
立ち上がりそう宣言したイリヤを、再びバナーは止める。
「今度は何よ、確かに私の面倒をみてくれたことには感謝してるわ。でも、私はバーサーカーに会いたいの」
「分かった、バーサーカーには会わせる。ただし、ここでは駄目だ」
先ほどまでの主張をひっくり返したバナーに、イリヤは目を丸くする。
「え?いいの?」
「じゃないと君は納得しないだろう」
バナーはバーサーカーに関する情報をイリヤに話す気は毛頭なかった。
少なくとも彼女の力を見るまでは。
一方、イリヤは呆然としたのも束の間、満面の笑みを浮かべる。
そこに、「疑う」の文字はない。
その表情に、一瞬バナーは笑顔を曇らせる。そして、それを誤魔化すように声を張り上げて立ち上がる。
「よし。一回、気分転換に外を歩こう。ずっとこうしているのは体に悪い」
「バナーは医者なの?」
それらしいことを言うバナーをクスクス笑いながら揶揄うイリヤに、バナーも笑いながら返す。
「医者志望かな。一応、知識はあるよ」
そういうと、バナーはブーツを差し出す。
イリヤは手渡された靴底の厚い、しかしベラベラのシャフトを伴った薄く汚れた茶色のブーツに裸足の足を通す。
そして、バナーが差し出した手を借り立ち上がる。
「よし、行こう」
軋む廊下を歩くイリヤにバナーも歩調を合わせ歩く。
二人でゆっくりとロビーまで進む。
「あら、お出かけですか?」
「えぇ、気分転換に」
「お気をつけて」
「ありがとう」
礼を言ったイリヤの胸は期待で膨らんでいた。
バーサーカーに会える算段はついた。
何より、生まれて初めての城の外。心が躍らないわけがない。
木造のくたびれたホテルを出たイリヤの目に映ったのは石畳の道、そしてズラリと並んだ縦長の箱に三角を置いたような建物だった。
「…………すごい」
目の前に広がる新世界。イリヤにとって初めてづくしのその光景は、彼女自身に実感させた。
今、自分は自由なのだと。
吹雪が舞い込む城のホール。そこに男たちはいた。
目の前に広がる無残な姿となった扉を見つめて。
白衣を着た痩身の男に一人の黒服が近づく。
「城をくまなく探しましたが見つかりませんでした」
「地下室もか?」
「はい、勿論です」
「そうか、いないか」
そうつぶやくと男は膝をつき、重厚な扉の残骸を触る。
まるで、職人が精密機械でも使って切ったかのような、滑らかで凹凸一つない断面。
これを少女が道具を用いずにやったなどと誰が信じるものだろうか。否、この中で痩身の男だけは覚えていた。
城の外、雪が降り積もる大地のさらに先に広がる木々。戦争に負け逃げ延びた我々が偶然と奇跡を何重にも手にした結果たどり着いた、悠然と聳え立つ城。
何とか持ち出した荷物の大半を失い、満身創痍な我々を出迎えたのは
武装していると言っても高々、槍やら剣をもっているだけ。
こちらは自分のような非戦闘員以外はサブマシンガンや機関銃で武装し、さらには組織の新兵器まで装備している。
負けるわけがない。
その慢心は一瞬で砕かれた。銀色の小鳥を操る一人の女によって。
放たれた弾丸が女に届くことはなく、次々と小鳥の放つ弾丸に、小鳥自体に体を貫かれ兵士たちは次々と倒れた。
そしてその攻撃に、自分を含む非戦闘員たる科学者たちも巻き込まれた。
戦いなんて知らない。自分は研究者だ。
頭を抱えて逃げ惑うしかなかった。死神の手が何度も背中を掠めたことを理解したのは、戦いが終わった後だった。
倒れ伏した兵士が一矢報いるべく女の背後から放った銃弾が女を貫き、白い服を赤く染めながら女が倒れたことで終わった。
多くの犠牲を払い、守る女たちを排除した我々が手に入れたこの城。
そこにあった、戦利品の一つ。
それが、逃げ出した。
遂に能力を覚醒させて。
いや、まだだ。この扉の残骸を見るにまだ、あれは──イリヤスフィールはまだ彼女の域には達していない。だが、取っ掛かりを掴んだはずだ。
いける。自分の血の巡りが緩慢な頭では成しえなかった段階を超えたのなら、自分も見れるはずだ。彼女の再現を。
そのためには。何としてでもイリヤスフィールを連れ戻さなくては。
物思いに耽る男。
そこにゾロゾロと銃を携帯した黒服たちが、男へ近づく。
「主任、調査隊の編成が完了しました」
「あれを多少傷つけても構わん。必ず、生きた状態で連れ帰って来い」
「了解しました」
そう言うと、彼らは城を出ていった。
残ったのは痩身の男だけ。
男は、再び物思いに耽る。
それはイリヤスフィールが逃げ出す前に警戒線の反応にあった、生命体についてだった。
警戒線を突破した後も猛スピードで移動し続け、突然向きを変え去っていった何か。
この環境を、あの速度で移動する生き物を男は知らない。
あれも頭に引っかかる。
送り出した連中に期待はしていない。自分が作り出したとはいえ、あれらも多少使えるだけの失敗作。いや、最早ゴミにも劣る何かだ。一からではあれら程度しか作り出せない自分に心底、腹が立つ。
そんなものが、初歩的とはいえ能力を使う存在を連れ帰れるなど、端から期待などしていない。
これはイリヤスフィールへの挑発であり、宣戦布告だ。お前を自由にさせる気はないという意思表明だ。
彼女は乗ってくる。私を殺しに来るだろう。半世紀ぶりのリベンジもまた一興だ。
自分が彼女の踏み台になれるのなら、喜んで地べたに蹲ろう。
「早く来い、来てくれ」
そのつぶやきを最後に、男は吹雪く外界に背を向けて城の中へと戻っていった。
民族衣装といえばやはりディアンドル、ディアンドルは最高。
着させたかったが、今回はなしで。