インドにて
崩壊し、大きく陥没した大地。
そこはついさっき──数分前までS.H.I.E.L.D.の基地があった場所だった。
そんな光景を前にS.H.I.E.L.D.長官、ニック・フューリーは部下と通信を繋げ宣言した。
「我々は戦争状態に突入した」
インド カルカッタにて
「お願い、助けて」
クシャクシャの紙幣を手に、父が苦しんでいると今にも泣きそうな顔で助けを求める少女。
ブルース・バナーが隠れ住むここ、インドは歪な国だ。
世界第二位の人口を誇り、資源や国土にも恵まれ急速に発展を続ける、今まさに先進国にならんとする発展途上国。
だが、急速な発展は歪みを生んだ。
IT産業に力を入れ、世界に名だたる技術者を輩出しながらも十億を超える総人口の約1/3が一日2ドル以下の生活を送っている事実からも分かるように、この国の貧富の差はあまりにも大きい。事実膨大な数の貧民が国内に点在するスラム街で生活を送っている。
だからこそ自分のように追われている人間でも隠れ住み、誰かのためにこの地で働ける。
今日の診療はもう終わった。
普通の医者なら少女の願いを断るだろう。業務時間外にくしゃくしゃの紙幣数枚で患者を診察し治療を施すほど、彼らの仕事は安くない。
しかしバナーにとっては、そんな法外に安い報酬もここでの生活を送るには十分なもの。
金のためではなく人助けを。
そう、小さな同居人への帰りが遅くなる言い訳を考えながら走る少女の背を追う。
錆びたトタンと木でできた継ぎはぎだらけの家。
明かりが灯いていなければ廃墟としか思えないそれも、この地域では大して珍しくない。
少女の後を追いバナーはそれのドアの代わりにしては明らかに役不足な風に揺れる布を捲る。
さて、患者はどこか
足を止め、家全体を見渡す。しかし案内役の少女はバナーを置いて、隙間だらけの壁をするりと抜けるようにして家を出ていく。その姿にバナーのささやかな疑念は確信に変わる。
「はぁ、先に金を貰うべきだった」
随分平和ボケしたらしい。
自分への呆れも込めて、溜息と共にそうぼやく。
少女が抜け出し自分ひとりだけとなったはずの家。
しかし誰かいるという確信がバナーにはあった。
そして、その確信のとおり垂れた薄い布をかき分け一人の女が姿を現す。
「あなた、ストレスを避けて暮らしたいってわりには、ひどいところに住んでいるのね」
「ストレスは関係ない。……僕を殺しに来たのか?それならやめといたほうがいい」
それはないだろうな
そう思いながらも一応、確認はする。
殺す気なら最初からミサイルなり爆弾でこの家諸共吹き飛ばせばいい。まさか今更になって毒殺なんてするわけがない。話をしての足止めならさっきまでいた小さな子役で十分なはずだ。
ここは郊外。自分が見事に誘い出された構図で相手はこうして身を晒している。
となれば目的は勧誘だ。
「誤解しないで。私は、ナターシャ・ロマノフ。S.H.I.E.L.D.の使いできたの」
「S.H.I.E.L.D.か……」
厄介な連中が来た。
女──ナターシャの口から出てきた組織名に思わず顔を歪めたバナーを責められる者がはたしているのだろうか。
S.H.I.E.L.D.
戦略国土調停補強配備局。
国際平和維持組織として語られ、世界を守る秘密組織として世界中から認知されている。
だが秘密組織というのは裏で何をやっているか、知れたものじゃない。
そのことをブルース・バナーは身をもって知っている。
「あの子はどうした?」
「あの子って?」
「僕と一緒に生活している女の子だ」
「無事よ、見張りをつけてるだけ。誓って他に何もしてないわ」
「そうか……」
何より心配なのは小さな同居人、イリヤのこと。
彼女がここ、インドであの力を使ったことはないし使わせなかった。
しかし彼女が狙いにならないとは言い切れない。イリヤには人質としての価値がある。
僕を、ハルクを言うとおりに動かすために。
黙り込んだバナーに、ナターシャは話を進めるべく携帯を取り出し一つの画像を見せる。
そこに映っているのは、水色に輝く正六面体の何か。
「…これは?」
「四次元キューブよ。地球を滅ぼすエネルギーを持ってる」
「これをどうしろと?僕に飲み込めとでも?」
「探してほしいのよ。奪われたの」
「僕を檻の中に入れて?冗談じゃない」
「長官はあなたを信じてる。檻の中になんていれない」
「本当に?とてもじゃないが信じられる話じゃないな」
二人の話は平行線を辿る。
ナターシャはバナーを同意のうえで連れていく、バナーは今まで通りの生活を。
二人の目的が重なることは叶わないはずだった。
ここにいるはずのない少女の声がするまでは。
「何やってるの、バナー?」
「イリヤ!?」
跳ね上がった心臓。それを認識した瞬間、バナーは必死になって落ち着かせる。
不思議そうに首を傾げて二人を見る少女はバナーには見慣れた、しかしナターシャからすればここにいるはずのない人物だった。
「どういうこと、見張りがいたはずよ」
ナターシャはよいしょ、と気の抜ける声と共に隙間から家に入ってきた少女に僅かに動揺を見せる。
ナターシャはバナーがこの少女と行動を共にしていることを知っていた。
ある日、S.H.I.E.L.D.は蜂の巣をつついたような騒ぎに陥った。ニューヨークで破滅的な被害をもたらし、そして逃亡したブルース・バナーを見失ったからだ。
ハルクことブルース・バナーの扱いは最早人間のそれではない。
やろうと思えば都市一つを瓦礫の山に変えられる上、倒し方も未だ定かではない。
軍が周囲への被害を顧みずハルクへの対策を整え奇襲したにも関わらず、選りすぐりの精鋭部隊は返り討ち。
制御不能の爆弾が、人の形をして歩いている。
それがハルクの存在を知る人間の認識だ。
故に彼の監視を担当していたチームは文字通り死に物狂いで捜索を行った。
衛星、各国に設置された監視カメラ、さらには直接人間を送り込んでの聞き込み等の捜索。
もし見つけられなければ文字通り首が飛ぶ彼らの様子はエージェントたちを慄かせるほどの何かがあった。
そんな彼らの努力が実ってか、ブルース・バナーは思いのほかすぐに見つかった。
一人の少女を隣に連れて。
出自不明の銀髪の少女。
少女について分かっていることはあまりにも少ない。だがブルース・バナーへの刺激を避けるため、少女との接触は厳禁だった。
そして今、ブルース・バナーとの交渉にあたって少女を隔離するべく彼女たちが住む家は部下が見張らせていた。
だというのに、その少女は彼らからの連絡もなく今、ここにいる。
「まさかと思うけど、使った?」
「何もやってないわよ。ちょっとお願いだけ」
「本当に?」
「私がいないとバナーが変身して暴れちゃうって言ったら、慌てて案内してくれたわ」
いたずらが成功したかのように笑うイリヤ。しかしそれを聞いた当人たちの心中はさぞ穏やかではいられなかっただろう。
見張っていたエージェントの心労を想像しバナーは心の中でそっと手を合わせる。
そしてイリヤに向けていた視線をそのままナターシャへと向ける。
「彼女について調べようと思ってるならやめておいたほうがいい。僕ともう一人の僕、両方を敵に回すことになる」
「そんなこと、するつもりは──」
「ない、とは断言できないだろう。君は違うかもしれないが他は違う」
押し黙るナターシャにバナーは言葉を続ける。
「S.H.I.E.L.D.が清廉潔白な正義の組織だとでも?」
「S.H.I.E.L.D.があなたに求めるのは、この4次元キューブの捜索だけ。この件が終わったらあなたは自由の身よ」
「そうなる保証がどこにある?現に君たちは僕を見張ってた」
「守っていたのよ、あなたを。もう一人のあなたにさせないために」
「守っていた、ね」
彼がトラブルに巻き込まれ万が一のことが起きれば、彼の意思関係なくもう一人が暴れ出す。だからこそ、S.H.I.E.L.D.は彼を駆除ではなく保護に方針を変えた。
ブルース・バナーはハルクになることを嫌っている。その前提と共に。
しかしそれをバナーは苦笑気味に笑い否定する。
「確かに僕は、もう一人の僕が大嫌いだ。でも彼女に手を出すなら何が相手でも、僕は喜んでこの身をもう一人の僕に捧げるよ」
チラリとナターシャの瞳が揺らぐ。
それは僅か一瞬のことだったが、それを見逃さなかったバナーはナターシャに止めの一言を投げかける。
「今の生活は気に入ってるんだ、帰ってくれないか」
交渉は決裂した。ナターシャは与えられた任務を果たせず。
「いいじゃない、行こうよ。バナー」
「……なんだって?」
だがその流れはイリヤによって阻まれる。
味方であるはずの少女の裏切りに自分の耳を疑うバナーは思わず問いただす。
「僕が檻の中に閉じ込められるかもしれないのに?」
「バーサーカーが檻ごときに閉じ込められるわけないでしょ」
しかし返ってきたのはハルクへの信頼のみ。イリヤを見返せば、自分を見つめ返す紅い瞳は一体何が心配なのかと逆にバナーへの疑念に満ちている。
まるで、バーサーカーを疑うのかと言うかのように。
そんな視線に狼狽えたバナーをイリヤはさらに追いつめる。
「それに目的がバーサーカーでもいいじゃない。もしもの時があれば……ね?」
「ちょっと待って……いや駄目だ。それは駄目だ」
「お願い、バナー。もう半年以上ここにいるんだからいい加減、次の場所に行こう」
寂しそうに目を伏せるイリヤ。
その姿は可憐な見た目も相まって怒り狂う蛮族も笑顔で許してしまいそうな、弱弱しくも視線を引き付けられる、そんな色香を感じさせる。
そんな少女の姿に,彼女を連れだしたという負い目のあるバナーは逆らえなかった。
「……分かった。その依頼を受けよう」
「久しぶりの旅ね、バナー!」
飛び跳ねるイリヤだが、その年相応の姿に心を休める暇は大人たちにはない。バナーもナターシャも、ようやくスタートラインに立ったと言える状況だ。
ナターシャは任務の達成に一先ずは胸を撫でおろすと一抹の心苦しさと共に残念な知らせをイリヤに告げる。
「ごめんなさいね、これはバナーの任務。あなたはお留守番なの」
「いや、彼女も一緒だ」
「彼女のことなら安心して。S.H.I.E.L.D.が責任を持って守るわ」
それはナターシャの純粋な善意だったが、それをバナーはそれらしい言い訳をつけて振り払う。
「そうじゃない、出来るだけストレスの原因は消しておきたい」
「彼女はよっぽど大切なのね」
ナターシャはバナーを訝し気に見るが、ブルース・バナーはS.H.I.E.L.D.が招く客。フューリーはいい顔をしないだろう。だが注文を断ることは出来ない以上、少女を置いていくという選択肢はない。
無邪気な少女の声が響く中、バナーの勧誘に成功したことに安堵しつつもそれをおくびにも出さず、ナターシャはイリヤに近づく。
「ナターシャ・ロマノフよ。よろしく」
スッと差し出された手を、イリヤは穢れを知らない銀髪を揺らし握り返す。
「イリヤ、イリヤスフィールよ。姓は名乗らないようにしてる」
こちらも更新再開していきます。
何年かかるか分からないけど、ドラマLOKIまでは書いてみたい