辺り一面が燃え盛り、息をするだけで寿命が縮まるほどの状況が広がっている。
そんな中、中村主水は意識が朦朧とした状態で床に倒れ伏していた。
「ちっまさかお千代に刺されるとはな……」
腹部から流れ出る血液の生温さ、そして、ジワジワと迫り来る炎の熱気。
今まで幾多の悪人に加えてきた『死』が確実に主水にも迫っていた。
「焼きが回ったもんだ……しかし仕方ねえな。仕事人になった時にいつ死んでもいいという覚悟はしてきたからな……」
すでに主水の感覚は1つずつ失われ、視覚、痛覚が失われていた。
「目の前は漆黒の闇か……これから俺が行く地獄もこうなのかもな」
見えなくなった瞳を見開くが、何も見えない、このまま意識も途絶えるのだらうと覚悟を決めていた。
しかし、次の瞬間目の前に一陣の光が現れる。
「光か…この世に未練はないが、地獄の沙汰も金しだいって言うしな。貰っていくか」
朦朧とした意識、動かないはずの腕を目一杯伸ばそうとする。
(腕が動いた!)
あと一尺、あと一寸、光に手が届くと同時に小屋はやけ崩れ、主水の命も絶たれた。
◇◆◇◆◇◆
「うっなんだ!?」
主水の頬に感じる冷たい感触、その違和感で目を醒ます。
「ついてねえな、鳥のフンかよ」
頬にかかった鳥のフンを手拭いで拭い辺りを見回す。
「確か俺はお千代に刺されて、爆発炎上する小屋の中で……」
主水はモヤモヤしたままで記憶を探り、今までの流れを呼び起こす。
「その中で光を掴んだような…」
主水が光を掴んだ右手を見ると、黄金に輝く約二尺程の今までの十手より幾分か長い十手が。
今まで自分が使用していたものとはそもそも物が違う。
神々しさを感じさせるその十手をマジマジと見つめ、徐にかじりついた。
「硬っ!こりゃあ金じゃねえな」
江戸時代において、小判が本物かニセモノかを判断する簡易な方法として、よく噛んで判断していた。
主水はその要領で十手が金でできているんじゃないかとかじった訳である。
何の金属かは分からないが、主水は十手特別な力を感じるが、今は何も分からないので保留ということにした。
しばらく黙り込み今の自分の置かれた状況に思案に耽る。そして行き着いた答えは…
「ここは地獄ってことか。仕事人を始めた時から覚悟していたことだが」
だった。主水は小さくため息を吐く、何百人と殺してきた仕事のプロが、最期は元仕事人とはいえ女に殺されたのだ。
地獄に来たという感慨よりも、その不甲斐なさにため息を漏らしたのだ。
「いつまでもこんなとこに居てもしょうがねえ。ちと閻魔様にでも会いに行くかな」
主水は立ち上がると、大きな感覚の違いに違和感を抱き、自分の体を見やる。
「どうしたことだ!若返ってるじゃねえか!!」
着ているものは、着流しに黒い同心羽織、裏の仕事をするときのみに巻く年季のいったマフラー。腰には長年仕事で使用してきた二本挿し、と生前と装束は変わらないものである。
しかし、中身である主水は若返っていたのだ。
姑と妻の日頃からのいびりにより、刻まれた深い皺は消え、オネェっぽい筆頭同心の愚痴を聞きながす為に遠くなった聴覚等々が良くなり、体は幾多の剣術を極め、皆伝にまで至らしめた、若き日の屈強で均整のとれた最盛期の体に戻っていたのだ。
(あの時は正義に燃えた熱い心があったが、心までは戻ってはいないか…)
若き日の体を見て思う所もあった主水であったが、過ぎたことはどうしようもない、と前を向いて歩き出した。
歩き出したのはいいが、その世界は主水に大きな衝撃を与えるものばかりであった。
見渡す限り舗装され整えられた道路、しっかりと区画整備が施された通路、レンガ造りで色鮮やか、そして三階以上の建物。提灯のような物が釣り下がる鉄製の棒状のもの。
珍しいものや建物がそこらじゅうに溢れていたのだ。
(おいおい、地獄ってえのは、長崎の出島みてえな所だったんだな)
長崎奉行所で働いていた時のことを思いだし、しばらく感傷に浸る。
興味を引かれた主水は辺りを挙動不審にキョロキョロしながら歩みを進めた。
しばらくすると小さな通路から大通りに出る。
すると、そこには大勢の人が。
(おいおい、マジかよ)
主水の前には、さらに目を疑うような光景が拡がっていた。
生前見た南蛮人が身に付けていた服だったり、西洋甲冑を身につけた兵士、髪型も千差万別で、その色さえも黒一色と言うわけでもなく、様々な色に溢れていた。中には目に優しくない色なども。狸に化かされたような気分に陥る主水であった。
だが、そう思うのは相手も同様である。
物珍しげな奇異の目が主水に注がれる。
月代(さかやき)だったり髷であったり、同心羽織、着流し、はたまた草履であろうか、上から下まで見られている。
「珍しい格好してるな…」
「呉服屋のノブナガみたいだ…」
視線だげでなく、何やらヒソヒソと話す声さえも聞こえる。
視線を集中的に浴びせられた主水は、居たたまれない思いを抱えていた。
(まあ、ババアやかかあの視線に比べりゃあたいしたことないな)
昔蔑んだ視線を姑や嫁が向けてきたことを思いだし、幾ばくか心が和らぎ苦笑いをし先を急いだ。どこという目的地もなく。
(閻魔はいったい何処にいるんだ…なぜあの世なのに腹がすくんだ…)
日もとうに暮れ始め、夜の帳が辺りに降りようとしていた。
江戸から京都まで歩いたこともある主水にとって、歩き続けることは然程苦にはならなかったが、なぜか迫り来る空腹には悩まされていた。
そしてこういう時に限っていい匂いも漂って来て、さらに空腹を刺激する。
(武士は食わねど高楊枝無理な話だ)
主水の頭の中には、いつも飽き飽きしていたはずのメザシがとても上手そうに巡っていた。
(もうだめだ…)
ついに主水の空腹も限界を迎え、座りこんでいた。
そんな時だった
「見かけねえ姿しているが、どうしたんだそんな所で?」
声がする方を見上げると、ガッシリとした体型の大男が。
「腹がへって腹がへって」
「なんだ行き倒れか。それに姿からして田舎から出てきたのか」
大男はフッとため息をつくと、ホラよと何かを投げて寄越した。
「これは?」
「これで何か食いな。それと仕事ならあそこで探すといい」
大男はある建物を指差し、
「ただ」
大男は付け足す。
「帝都は地獄だぜ。腐ったやつの吹き溜まりのな」
自嘲気味に笑うと、じゃあなとウィンクをし笑顔で去っていった。
(なぜ俺は施しなどしたのだ?)
小さなようで、大きな出会いであった。
(まさに地獄に仏だな。いいやつもいたもんだ。感謝、感謝。まあ俺と同じように血の臭いはしたし同業者みたいだったがな、それに相当な手練れ……地獄はそういうやつの集まる所だ気にしたら負けか)
主水はどれくらいの価値があるかは分からないが、人の優しさを深く感じながらもらったお金を元手に、食事を取り、一心地ついていた。
(地獄も捨てたもんじゃねえな)
腹をさすりながら、先ほど指示された建物に入る。
狭く空気の悪い所にあまり柄の良くない店主が、何かイライラした様子でカウンターに座っている。。
「仕事が欲しいんだが」
「まずは一兵卒で雑用からだが」
「構わん」
「じゃあこれを書いて持ってこい」
「名前 中村主水 特技 書庫整理―――――」
「はいはいじゃあまずは雑用からだな」奉行所や家での雑用に慣れていた主水は問題なく仕事にありつけのだった。