存在するのは民家から漏れ出る光のみの夜の帳が降りきった暗闇の中で対峙する三つの影。
その内の一つが動きを見せた。
「来いよ。さっきまでのやる気はどうしたんだよ」
「…………」
問い掛けられたノバラは答えない、いや答えられなかった。
シリュウから発せられる目に見えるほどの殺気がノバラを呑み込み、身動き一つ、さらには呼吸することさえ困難にさせていた。
ノバラを支配するのは先程まで存在していたシリュウに対する殺意ではなく、恐怖のみであった。
「答えないならこちらから殺しに行くか…」
シリュウが一歩踏み出す所でまるで陽炎が揺らめくようにカモクの姿が闇に溶け込む。
しかし、それを歯牙にもかけずシリュウはノバラのみに視線を向けたまま歩みを続ける。
「ひっ!!」
腰から砕けノバラが尻餅をつくや否や血飛沫と共に腕が宙を舞う。
「えっ!………うがああぁぁ!?」
突如襲いかかる壮絶な痛みにノバラは腕の切断面を押さえ踞る。
しかし、それと同時に全身を走るその痛みがノバラを恐怖という名の呪縛を解き放つ。
痛みという明確な感覚が抽象的な恐怖という感覚を越えた時だった。
「くたばれえええぇぇ!!」
我に返ったノバラは踞まった姿のまま体全体から鋭い針が突き出てシリュウを襲う。
まるで剣山のような姿と化したノバラ。
それは初見であれば避けきることは不可避であるノバラの必殺技であった。
危険種レイククラーケンを摂取し続けたことにより、体が軟体化しており、皮膚や体組織を自由に操ることが出来、それにより体から硬質化させた皮膚を針のように突き出させるノバラにとっての奥の手。
今まで貫けなかった者は存在しなかった。
盾も甲冑も兜さえも貫き、命を思うがままに奪ってきた。
故にノバラは痛みに顔を歪ませつつもうっすらと笑みを浮かべた。
目の前の自分を恐怖に縛っていたものを排除出来たと。
しかし、そんなささやかな希望をも打ち砕く声が。
「お粗末な技だな」
声に驚き顔を上げたノバラの前に、無傷のシリュウの姿が。
「な、なんで」
穴だらけになって死んだんじゃというノバラの問いかけに今度はクリュウがため息交じりに苦笑する。
「危険種ラージヤマアラシの方がよっぽど上手く攻撃してくるぞ」
冷笑を浮かべるシリュウの足元に切断された針の山が。
一瞬の予備動作からどのような攻撃をノバラが画策しているのかを読み切り対応したのだ。
絶望に青ざめるノバラの顔面をシリュウは蹴り上げる。
血を吹き上げ吹き飛ぶノバラ。
シリュウの体も既に限界に近づきつつあるのだが、それを越える怒りが、ノバラを簡単には殺してはならない、十分にいたぶって殺すという指示を送っていたのだ。
地に墜ちまるで痙攣するようにビクビクと蠢くノバラに向け足を踏み出そうとしたシリュウが足を止める。
刹那シリュウの鼻先を錫杖が掠め地を抉る。
「!!」
シリュウの真横になんの前触れもなく現れたカモクが振るった錫杖であった。
しかし、それを振るったカモクの笠ごしにカモクの表情を伺うことは出来ずとも、その息遣い等から驚愕の色を感じとれた。
なぜ避けることが出来たのか?
避けれるはずがない!
それがカモクの疑問。
カモクは相手に知覚させないように、気配、姿、音を消すことが出来、それを武器として敵を暗殺してきた。
気づかれることなく全ての相手は死んでいった。
中ではなぜ死んだのか分からずに死んでいった者も多かれ少なかれいたであろう。
しかし、シリュウは嘲笑うようにそれを簡単に避けきったのだ。
「お前の錫杖が降り注ぐ際にそよ風が来たから分かったんだよ」
シリュウの槍が鋭く闇夜を切り裂くように二度カモクを穿った。
刹那舞い散る紅きカモクの血潮と両腕。
「ウグッ」
今まで何が起ころうとも一言も発することがなかったカモクが低い唸り声を上げたのだ。
口許を軽く上げたシリュウがカモクの背後に回り込み槍を三日月を描くように振るう。
突如崩れ落ちるカモク。
「セラの苦しみには到底及ばないが……」
シリュウは空いた左手でカモクの首を掴むと天高々と放り投げた。
数秒後闇夜に鳴り響く大きな水音。
近くに存在する川にカモクを投げ込んだのだ、腕と足の腱を切られもがくことすら封じられた状態で。
『溺れる者は藁をも掴む』
しかしその術をも腕を失ったことにより奪われ、立ち泳ぎも足の腱を切られたことにより封じられている。
全ての救いの道を尽く奪われたことによる恐怖はどれ程のものか。
さらには、着物が水を吸い重くなり、カモクの体を暗い深みに引きずり混んでいく。
カモクには、その感覚が今まで殺してきた者が服を掴み地獄の底に引きずり混もうとしているというように感じていた。
カモクは恐怖と苦痛と絶望に苛まれたまま闇に包まれた川の底に沈んでいった。
ーーーーーー
「あとはお前だけだ」
川から音が消える同時にシリュウは冷えきった表情で歩き出す。
シリュウの携えた槍の穂先からカモクの血潮が滴り落ちる。
その血液の地を打つ音が近づく毎にノバラの絶望が高まり恐怖に顔をひきつらせる。
どのように想像しても自分が何も出来ずに無惨に殺される像しか浮かばない。
その絶望から羅刹四鬼としてのプライドをかなぐり捨て潰れた顔面のまま地を這いつくばりまるで虫のような不様な姿で逃げて行く。
少しでもシリュウから離れたい。
これが夢であればどれ程神に感謝することか。
今まで神など信用せず、あまつさえ自分が神だとまで思い上がっていたノバラが、神頼みするほどまで追い詰められていた。
「お前だけが逃げられるとは思ってないよな」
後方から聞こえていたはずの水音が消え、シリュウの声が這っている進行方向の先から聞こえていた。
ノバラは極度の恐怖から股間を濡らしていた。
「た、助けてくれ。俺はオネスト様に命令されただけなんだ」
地に頭を打ち付け土下座して懇願するノバラ、その勢いは地にめり込むのではと思えるほどで、すでに暗殺者として見るかげもない。
そして暗殺者として一番してはならない依頼者をばらすという失態まで犯していた。
暗殺者であればどのような拷問を受けようとも黙して語らず座して死を待つ、それが暗殺者としての鉄則であった。
「それぐらい知っている。しかし行動に起こしたのはお前だ。責任はその命をもって償うのが筋ってもんだろ」
冷笑を浮かべたシリュウは徐に槍を構え、そして突きだした。
まるで五月雨のように突きが降り注ぐ。
そしてその全ての突きが恐ろしく絶妙に急所を避けて穿っているので激痛のみが限りなく訪れる。
その痛みから逃れたいという切望から既にノバラは『死』を望むほどにまで至っていた。
しかし、激痛を本能的に押さえるために意識が飛びそうになる度に、新たな激痛が舞い降り意識が飛ぶことさえも許されない無限地獄。
ノバラには永遠にも感じたであろう。
すでに体は肉片と化し、穿つ部分が無くなったことによりノバラは死という救いを得ることが出来たのだ。
「セラ………仇は取った…………ぐっ」
痛みを抑えていたアドレナリンがきれたのか、シリュウの体に痛みが走りその場に膝をついた。
「シリュウさん大丈夫ですか」
近隣の家の扉が開かれ人々がシリュウに駆け寄ってくる。
外から伝わる音が命の危険を知らせていたため、息を潜めて家に閉じ籠っていたが、音が聞こえなくなったために危険はさったと判断して外に出てきたのだ。
「おいシリュウさんが大変だ!誰か医者を呼んでこい!」
「ああ、たしか警備隊の主治医はフヨウって医者だった。そう離れてはいないから行って呼んでくる」
男の一人が医者のフヨウを呼びに走り、その場に残った他の者に抱えられて家に運び込まれた。
ーーーーー
「パパ………」
「セリュー……パパは大丈夫だ……」
シリュウは大粒の涙を流すセリューを安心させるべく体を横たえつつ笑顔で頭を撫でながら諭すように告げる。
満身創痍のため話すことすらキツいのだが、セリューを第一に考えるシリュウは痛みを堪えて安心させるべく笑顔を作ったのだ。
「シリュウさんフヨウ先生を連れてきたよ」
「これは酷いな」
男の後に続いて入ってきた白衣を羽織った医師フヨウは僅かに表情を曇らせ呟いた。
「これから治療をする。皆は外で待っていてくれ」
「でも」
「セリューちゃん先生に任せて外で待っていようね」
シリュウのことが心配で一度は拒みかけたセリューだが、他の者に諭されて何度も何度もシリュウを振り返りつつ外に出ていった。
ーーーーー
「痛むでしょうから麻酔をかけます。これで痛みから解放されますよ」
フヨウは鞄から取り出した注射を筋肉質な二の腕に射し、意識が混濁していくシリュウに更に続けた。
「世のしがらみからも解放されますよ」
(何を…くっ……セリュー………)
すでに声さえもでない状態であった。
そして帝都警備隊隊長シリュウ・ユビキタスは眠るようにその鼓動を止めた。
愛する娘をこの世に残し………
(さすがオネスト様。読みがずば抜けている。酷い怪我であったがシリュウであれば死ぬことはなかっただろうからな)
フヨウは昼下がりに思いを馳せる。
◇◆◇◆◇◆
麗らかな陽気の昼下がりであった。
フヨウが、地下の薄暗い室内で、借金の肩に預かった献体に新薬を試し打ちしている時であった。
「先生に会わせて欲しいと来ている者がいるのですが」
「暇ではないと伝えて帰らせろ」
「しかしオネスト様からの遣いと申しておりますが」
「オネスト様」
フヨウもオネストという名前をたびたび耳にしており、日の出の勢いということから面識を得たいと考えている時だったため、取るものも取らず地下室を後にした。
「オネスト様がこの私に何の御用でしょうか」
頭を下げ伏しままオネストの遣いと言っていたゴマスーリに問い掛ける。
畏まった様子に気をよくしたゴマスーリは、勿体ぶりながら書簡を懐から出し告げた。
「オネスト様からお前にあてた書簡だ。即座に目を通せ」
(小役人が偉ぶりおって)
その態度にフヨウは苛立ちを覚えたが、気にしていないように装い書簡を受け取ると一礼して目を通した。
「今夜そちらに帝都警備隊隊長シリュウの治療の要請が来るはずだ。その際にシリュウに永遠の眠りを授けるように。その暁には、我が御抱えの医師として遣えることをここに約束するものとする」
一読し終わると再度書簡を天に掲げ深々と一礼をし、ゴマスーリに伝えた。
「慎んでお請け致します」
◆◇◆◇◆◇
「これでよろしいでしょうか」
媚びへつらうように主水に問うフヨウ。
主水は能面のような無表情で、セリューは流れ落ちる涙を拭うこともせず、その場にペタリと腰砕けの状態になっていた。
賊に襲われたと教えられていた裏に存在していた真実。そして防衛本能から無意識に記憶の底に封印していた記憶が甦り、それら全てがセリューに重たくのし掛かっていた。
嗚咽を漏らしながら「パパ…ママ……」
と慟哭するセリューだったが、思い立ったようにまるで幽鬼のようにフラフラと立ち上がる。
瞳は深い闇に沈み大粒の涙を湛え、腕に装備している虹色のガントレットからは凍てつくほどの冷気が吹き荒れ辺りを白く染めている。
絶望に沈んだセリューの心象を明確に表しててた。
「ヒイイィィッッ!!私は全てを話したんだ!それに私は本当はしたくはなかったんだ!それでも無理矢理オネストにさせられたんだ!!私は悪くない!!」
目前に迫っていたセリューに対し狂ったように喚き散らずフヨウ。
「主水君………………」
「虫けらのように幾多の命を奪ってきた男です」
端で聞けば意図が全く分からない会話であるが、二人の中では理解しあっており、セリューは主水の言葉に軽く頷くと、腕を振り上げた。
「パパの仇だッッ!!」
「やめてくれええぇぇ」
白い空気を纏い唸りをあげて繰り出された拳はフヨウの顔面にめり込むと同時にフヨウを瞬間的に芯まで凍結させ、見事に人間の醜さを凝縮した彫像を作り上げた。
(一応俺の仕事だからな)
主水は肩で息をするセリューを横目に、帯から鞘ごと刀を抜くと、一撃で氷の彫像と化したフヨウを打ち砕いた。
しばらくセリューのすすり泣きが廃屋に響いていた。
主水は無言でセリューに寄り添うことしかできなかった。
そしてどれ程の時間がたったのだろうか、穴の空いた天井から淡い月光が部屋に注ぎ込む中で、セリューが救いを求めるように主水に問い掛けた。
「私はどうすればいいの。パパの仇は討てたけど、まだ黒幕も討ててないし、もう帝国の為には働けないよ……」
今まで帝国の正義を妄信的に信じイェーガーズで働いてきた。
しかし、真実が明らかになった今としては、帝都=オネストという考えに立てば
帝都はセリューの仇ということになるのだ。
「私はセリューさんに正義を教えるといってここに連れてきました。過去のお父上の在り方を聞きそれが分かるはずですよ」
ここでオネストを討つために革命軍に入れと言えば、今のセリューならば加入したかもしれない。
しかし、それでは根本的な解決にはならず、セリューは悩み続けることになる。
故に、主水は別の道を取ったのだ。
「お父上が命をかけてまで護ろうとしたものは何ですか?」
「パパが護ろうとしたもの……」
「はい」
廃屋に静寂が訪れる。
季節柄外から虫の鳴き声が聞こえてくる。
しばらくその状態が続いた後に、セリューはポツリと呟いた。
「ママや私、そして帝都の人」
「ええそうです。お父上は自分の身を呈して、セリューさんを、セリューさんの
母上を、そして帝都の人々を護っていたんです」
主水は答えを言わずにあとは分かりますねと言うように途中で言葉を止め、セリューに振った。
「パパの正義を、意思を継いで帝都の人を護れば」
「そうです。答えが見つかりましたね。オネストや帝国の為に働くのではなく、帝国の人々のために働けば良いのです」
「うん。パパが護ったものを私も護る!」
再び力強さが戻ったセリューの瞳を見て主水は軽く微笑む。
まるで自分の娘の成長を喜ぶように。
「でもね主水君。私はパパを殺したオネスト大臣を許せない」
実際にシリュウを殺すことを企てたのはオネストであり、自らの手を下さずとも仇はオネストなのである。
「断言は出来ませんが、いずれ敵討ちに適した時期が必ずやって来ます。それまでは我慢してください」
「うん…………」
主水を全面的に信頼しているセリューは渋々ではあるが了承した。
「では帰りますか」
主水が廃屋を出ようとセリューに背を向けたその際、急にセリューが主水の背に抱き付いてきた。
「主水君は絶対に私を置いてどこにも行かないでね」
まるで懇願するように背中に顔を埋めてセリューは呟いた。
「……………」
「お願いだから…………置いて何処にも行かないって約束して」
「…………」
主水は答えられなかった。
単純に「はい」ということは簡単であった。
しかし、それは偽りになりうる答えである。
今後帝国と、エスデスやブドー、左京亮と戦うことになれば、死ぬことの方が可能性は高く、生き残れるとは断言出来ないからだ。
主水はセリューに対しては嘘偽りはつきたくなかった。
再び心に大きな傷を残すことになるのだから。
「うう………だめなの………」
涙声まじりに主水の背中から離れるセリュー。
主水が振り返ると、セリューは俯いて涙をポツリポツリと落としていた。
父親を、母親を、そして師匠のオーガを想い出しているのだろう。
「すいません。セリューさんには嘘はつけませんので」
主水はすすり泣くセリューを抱き締めることしか出来なかった。