あの一件以来セリューの悪人への態度が少し緩和したように思われていた。
以前であれば、どんな微細な悪事でさえも、死刑の範疇であったはずが、今では四肢の欠損ぐらいですむのだから、相当な進歩である。
ただし、その進歩は主水にとっても喜ばしいことではあるが、それとは別に新たな問題が噴出していた。
「主水君、一緒にご飯食べよ」
「主水君、道場で稽古つけて欲しいな」
「主水君、今日もいっぱい悪人捕まえて、正義の光で照らしてきたよ。褒めてほしいな」
等々、セリューの主水束縛が激しくなっているのだ。
パパは誰にも渡さないと言った所だろうか。
主水の気が休まることはなかった。
だが、それさえも主水は自分の向上に繋げたのはさすがである。
セリューの過度な束縛から逃れる為に隠密スキルを向上させたのである。
しかも、隠密スキルは裏の仕事にもいかすことができるという、正に一石二鳥のことであった。
―――――
麗らかな昼下がり、
「はぁ~あ、息抜きしねえとやってられねえな」
日課の市中警備と言いながら、主水は帝都市中をあてもなくブラブラしていた。
ついに、主水の昼行灯の気がこの世界でも現れたのだ。
(また彼処に行くか)
主水は目的地を決め、歩き始めた。
「よっ、貸し本屋」
主水は声をかけながら、店頭に置かれている本(18禁)を捲り
「この世界の春画はすげえなぁ」
と唸りながら、読み耽っている。
「おっ主水の旦那どうしたんだよ。今(表の)仕事中じゃないのか?」
表の家業で貸本屋を営んでいるラバック、ナイトレイドに加入して以来よく主水は訪れていた。
ちなみに、主水は仲間内では『主水の旦那』や『主水』と呼ばれている。
「ああ、今仕事中だぞ。なにやら禁書の匂いがしてな」
本を読む手を止め、ラバックをニヤニヤしながら見る。
「表の家業じゃ危ない橋渡ってないって」
笑顔で取り繕ってはいるが、視線が泳いでいるのを見逃す主水ではなかった。
(ここか)
「あっそれは!!」
主水の動きは速かった。まるで一陣の風のように。
「なになに……!!!」
主水は隠されていた本を見つけ、手に取り見ると、青ざめ、動きが止まった。
何やら見てはいけない物を見てしまったようだ。
「す…素敵な兄貴(18禁)!!」
まさにアッーー!!とでも言う、見るものにとっては地獄絵図が載っている、ある意味の禁書であった……。
「ラバック、おめえ口では女好きとか言うのは、この趣味を隠すためだったのかまさかおめえがコッチ系だったとは、少し付き合いを考えんといかんな…」
主水は憐れみと軽蔑の混じった視線を送りながら、間合いを取る。まさにいつでも逃げれるように。
主水の頭の中では以前の上司の筆頭同心が『中村さん!』と言っている像が想像されていた。。
「ち、違う。それはブラー……いや何でもない」
ラバックは何か言いかけるが、すんでの所で踏み留まった。
客商売は信用第一の職業であるため、商売人としての魂が保身よりも仕事を選んだのだ。
冷や汗が止まらないラバック。自分の身を守りたいのにできないことへのジレンマ、かなり苦しんでいる。
主水準は痛々しく、見るに耐えなくなったことと、少し憐れに感じた為に、助け船を出すことにする。
「よし、ここはおめえが所有する秘蔵の貸本で手を打とう」
一方的に主水が得をする構造ではあるが。
「そうなるのね」
項垂れたラバックは裏から、禁書ギリギリの本を持ってきて、主水に貸し出すこととなった。
「まだ俺自身読んでないのにー」
とラバックが悲痛な叫びをあげたのは言うまでもない。
主水はラバックから本を借り受けると、「これは俺の心の中に留めておくぞ。じゃあな」
と、また市中徘徊を再開した。
(次は少し小遣いがほしいな)
主水次の目的を見つけ、ある店を目指し歩いていた。
江戸でもちょくちょくしていた、役人の特権を用いた小遣い稼ぎをしようとしていたのだ。
(いつ見ても、すげえ人だな)
主水は大通りに出ると、その人の多さに辟易しながらも、目的地を目指す。
人込みを掻き分けながら、最高の立地条件にある、大きな米問屋に入っていく。
「よお、店主いるか」
「はいはい、これはこれは中村様、御仕事御苦労様です」
店主があからさまな営業スマイルを浮かべ、低姿勢で主水の元にやって来る。
「お前も上手くやっているみたいだな」
主水は店主に背を向け、後ろ手を差し出す。
「私共が仕事に励めるのも、中村様や警備隊の皆さまのお陰です。これは日頃の感謝の気持ちです」
店主は紙に包んだ何かを、主水の後ろ手に掴ませた。
「ああ、頑張って稼げよ」
主水は店主に告げると意気揚々と店外に出ていった。
店を出た主水は足早に建物の影に隠れ、渡された紙の包みをとく。
中には金貨が一枚入れられている。完璧な賄賂である。
「やっぱり稼いでやがるな」
悪い笑顔で金貨を撫でていると、
「主水の旦那ー、みーたーぞー、警備隊がそんなことしていいのかなー」
気配も感じさせずに、レオーネが含み笑いを浮かべ背後に立っていた。
「い、いつの間に!!」
「だいたい主水の旦那は金が絡むとガードが弱くなるんだよ。で、いいのか警備隊が賄賂なんかせびって」
レオーネはニヤニヤしながら、主水の顔を覗き込んでいた。
(こいつ全て見てやがったな)
またもやレオーネに一杯食わされたと、回りを警戒していなかったのを後悔しながらも、手を打つ。
「分かった。そこでなんか奢ってやるからこのことは黙っていろよ」
「さすが主水の旦那は分かってるー」
指をパチンと鳴らして、喜び勇んで食堂に入っていくレオーネを見て、過去の仕事仲間加代のことが頭を過っていた。
(あいつも金の匂いに敏感で、俺が大棚から賄賂をもらう度よく現れたな)
主水はため息をつきながら、レオーネを追って食堂に入っていった。
―――――
一時間後、
「はあ旨かった。ありがとな主水の旦那」
と満足気なレオーネと渋い顔をした主水が…
主水の大切な賄賂の金貨がたった一時間で僅かな小銭に変わってしまったのは、言うまでもないことである。
主水は今後は絶対にレオーネには奢るものかと強く心に誓ったのである。
精神的に参って主水は警備隊の隊舎に戻ると、待ち構えていたようにセリューが走ってきた。
「どこ行ってたの主水君。今日は一緒に町中の警備にいくはずだったのに」
頬を膨らませて怒っている。下を見るとコロもそれを真似ている。とても和やかな情景である。
「すいませんでした。用事があって」
「もう、まあ謝ったから許してあげるけど、明日は一緒に行くよ。約束ね」
「はい」
約束を取り満足気なセリューと、苦笑いを浮かべる主水。そんな折だった。
「あれ、主水君。なにもっているの?」
セリューが、首を傾げながら、主水の懐に視線を向ける。
主水の懐にはラバックに借りた秘蔵の本が。
(しまった。置いてくるんだった)
本当であれば、賄賂をもらった後に秘蔵の本を置きに帰るはずであった。
しかし、レオーネに捕まり、それもできずに、後生大事に懐にしまったままにしていたのだ。
「見せてね」
その時のセリューの動きは機敏であり、主水を持ってしても、止めることができなかった。
セリューは本を開き、ページを捲る。
主水は気配を消し、その場を逃げる。
セリューの動きは完全に止まっていた。顔を真っ赤にし、手はわなわなと震えながら。
(ラバックすまん。俺の命の為に、本は犠牲になるだろう)
心の中でラバックに謝罪しながら、主水が逃げている後方で、
「コロ、食いちぎれ」
という冷たいセリューの命令が響き、紙がシュレッターにかけられ裁断されるような音が。
そして直後、主水の襟首が恐ろしい力で引き留められた。
止まらない冷や汗と、頭の中で鳴り響く半鐘の音。
それはけたたましく、主水の危機を報せていた。
逃げようとするのだが、主水の襟首を掴む力は尋常ではなく、動くことができない。
本能は絶対に振り向くな!と言っているが、選択肢はそれ以外に存在しなかった。
主水が恐る恐る振り向くと、悪人を憎悪した時と同じ顔をしたセリューが。
その後の主水の記憶は存在していない。
ただただ、怖かったという刷り込まれた恐怖しか残っていなかった。
こうして、今日も中村主水のしがない一日は過ぎたのだった。