光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集   作:ろっくLWK

1 / 14
一.早朝の窓辺に

 

 そっと手を伸ばした靴棚は、シンと冷え切っていた。咄嗟に手を引っ込めた(かなで)は自分の手をさすり、それからもう一度、靴棚の戸に指を引っ掛ける。

 そこに並ぶ二つの上履き。この一年履いていたものだけれど、だからといって特に愛着があるわけでも無い。そもそもからして、学校の上履きというものは総じてデザインがダサい。これだってそう。つま先のところが学年を示す鮮緑色に彩られた、よくある学校指定シューズ。校則に縛られた装いにファッション性など求めても仕方が無いが、せめてもう少しマシなものであって欲しかった、と奏は内心思う。

 靴棚から取り出した上履きをバタッとすのこに落とし、代わりに脱いだ下足の冬用ブーツを靴棚に置く。吐いた息は屋内だというのに白く曇り、校内の温度が未だに低いことを思わせた。早く部室に行こう。そう思い、奏は誰も居ない廊下を一人歩く。窓辺にうっすら積もった雪はぴたぴたと、階下に雫を垂らしていた。

 

 

 

 彼女がわざわざこんな早朝に登校しようと思い立ったのはこの前日、パートの皆とのちょっとした会話がきっかけである。

「すごいですね、黄前(おうまえ)先輩」

 小耳に挟んだその一言に奏は振り返る。そこではいつもの低音パートのメンバーが、わいわいと何らかの話題で賑わう姿があった。

美玲(みれい)、何の話?」

「ああ奏。黄前先輩の朝練の話」

「ふうん。美玲までそんなふうに言うなんて、それほどまでに凄い朝練をなさってるんですか? 久美子(くみこ)先輩」

 いつものように小首を傾げながら尋ねると、いやあ、と久美子は少し照れくさそうに頬を掻きながら答えてくれた。

「凄いって言っても時間だけだけどね。毎朝六時ぐらいに学校来て、それで朝のHR始まる頃まで練習してるってだけで」

「でもそれをほぼ毎日、ですよね。テスト期間以外は」

「まあね」

「すごーい」

 感心しきりといった様子の美玲とさつきに、久美子は謙遜のはにかみを向ける。

「朝練でその時間に来てるって言えば、あとは高坂先輩ぐらいですよね。ひょっとして毎朝一緒に来てるんですか?」

「うん。麗奈とは家の方向もいっしょだし」

「練習もご一緒に?」

「それはあんまり無いかな。たまーに曲合わせるぐらいはしてるけど」

 美玲はしつこいぐらい久美子に朝練の話を聞き出そうとしている。いや、もしかしたら美玲が聞き出したかったのは久美子本人についてでは無いのかも知れない。いずれにせよ、久美子が話題の中心になるのはけっこう珍しいことだ。この機に乗じてみるのもいいかも。そう考えた奏は椅子を引き、久美子の隣に肩を並べる。

「どうして久美子先輩はそんなに練習熱心なんですか?」

 今度は下から覗き込むようにして久美子に問う。自分のその振る舞いに久美子が小さく息を呑むのを、奏はしかと確認した。この先輩は同性の可愛らしい仕草や行動に滅法弱い。その事実を奏はとっくに見抜いている。

「べつに、そんな練習熱心とかじゃないと思うけど」

「でも先輩、幹部の業務で忙しい合間を縫いながら練習がんばってらっしゃるじゃないですか。それに遅くまで居残り練習なさってる日もけっこうありますし」

「あれは練習っていうより、麗奈を待ってる間はヒマだから楽器吹いて過ごしてるだけ、っていうか」

「それも練習には変わりないですよ」

 くすくす、と奏は吐息をこぼしてみせる。

「どうしてそんなに練習をがんばれるんですか?」

 追って尋ねると久美子もとうとう観念したのか、ぐう、と喉を鳴らして俯く。ややあって、彼女は面を上げた。

「誰にも負けたくないから、かな」

 その短い言葉に、奏の心臓はストレートに抉られた。どこか抜けているようで抜け目のない先輩。ボーっとしているようで意外にしっかりしている先輩。そして、強い意志を瞳に宿してハッキリとものを言う先輩。いずれも入学してからこれまでに奏が見て来た『黄前久美子』という人物の姿。そして、奏にとっては、今は。

「やっぱり黄前先輩ってすごーい! さすがですね!」

「私もこれからは、少し早く来て朝練しようかな……」

 のんきな賛美の声を上げるさつきはともかく、美玲までもがそんなことを言い出すとは。――いや美玲の場合、お目当てはこの人では無いか。苦笑を堪え切れない奏を見つけてか、美玲は少し顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。そんな彼女の様子を心の内で密かに愛でつつ、それにしても、と奏は久美子を横目に見る。

 誰にも負けたくない。ユーフォを吹いていてそんな心情になったことなんて、奏には今まで一度だって無かった。むしろその逆であることの方がずっと多い。突出して上手い後輩は時として先輩の目の(かたき)にされる。そうなるのを避けるために実力をセーブする。それは吹奏楽部という集団の中で居心地良い環境を作り維持するために半ば必然のことだ、とすら思っていた節はあった。

 けれど目の前のこの先輩は、衆人を前にして決然と己の目標を言い切ってみせた。そんな久美子の姿が、今の奏には少し眩しい。

 どうしてこんなにも強く、上手くなることを目指せるのだろう。それをはっきりと声に出して言えるのだろう。ここが北宇治だから、というのは勿論あるのかも知れない。今の顧問が赴任して実力主義に転換した北宇治だからこそ『上手くあること』が絶対的なステータスとして認められる。そういう向きは確かにある。その点は奏の母校であった、西中の吹奏楽部と大きく異なるところだ。

 けれど久美子には、それだけでは無い何かがあるようにも思える。部とか友人とか、そういうものを超越した何かをただじっと見ているような。それがずっと気に掛かっていた。憧れる、というのとはちょっと違うけれど、自分には無い何かを持っている久美子のことを、いつしか奏はじっと見るようになっていた。

 

 

 

 

 おはようございます、と奏は音楽室の戸を開ける。室内の暖房はまだ充分に回っていないらしく、ここでもきりりと締め付けるような寒さが奏の身を襲う。冬休み期間中ということもあり、部室の椅子は合奏形態に並べられたままだ。そこに久美子の姿はなく、代わりにトランペットパートの席に二年の先輩、高坂麗奈の姿があるだけだった。

「おはよう、久石さん」

「お早いですね高坂先輩」

「久石さんもね、この時間に珍しい。今日は何か用事?」

「いえ、用事というほどのものでもありません。強いて言うならそうですね、たまたま興が乗った、という程度の話でして」

「ふうん」

 その一言だけであっさりと、麗奈はこちらへの詮索を切り上げた。それを見て奏はこっそりと嘲りの表情を浮かべる。高坂麗奈。この先輩は自分如きに大した関心など示さない。もしもここに立つのが自分ではなく美玲であったなら、彼女は麗奈との会話を繋ぐことにあれこれ腐心するか、あるいは緊張と気まずさに堪りかねていたところだろう。だがあいにくと奏はそうでは無かったし、奏自身の目的もこの人には無い。だから社交辞令もそこそこに、奏は本題を切り出す。

「久美子先輩はどちらに?」

「いつもの教室だと思う」

 なるほど。昨日の久美子の弁どおり、二人は一緒に練習をしているという訳ではないらしい。ありがとうございます、と高坂に返事をして、奏は自分の譜面台を手に部室を出た。「練習がんばって」という労いすらも無い麗奈のトランペットが生み出す鮮やかな音色を背に受けながら。

 すぐ傍の楽器室に入り、棚から自分のユーフォが収まったケースを取り出す。春、久美子に選んでもらったユーフォ。これも特に愛着があると言うわけでは無かったのだが、最近になって少し「自分の楽器がこのユーフォで良かった」と思えるようになっていた。ケースの把手を掴んで持ち上げ、奏はいつもの三年三組を目指す。

 未だひと気の少ない廊下は外気に冷やされ凍てついたみたいに、塵一つですら動く気配を見せなかった。その只中を一人ひたひたと歩いていると少々心細さを覚えるものもある。こんな朝早くに学校まで来て、誰に見せるでもなく黙々と練習して、暑さ寒さにも孤独に耐えて。そうする人達の心理や動機は理解出来なくはない。だが自分もそうしようという必要性を奏は全く感じなかった。それは彼女が聡明であるが故に。又は本質的なところで彼女自身、そうまでする意義を見出さなかったが為に。

 ちょっとした思いつきで早朝登校なんてしてみたけれど、やっぱりこういうのは自分の性に合わない。明日からはいつも通りの時間に登校しよう。などと考えていたちょうどその時、廊下の向こうから暖かく柔らかいユーフォの音色が響いてきた。それに耳を澄ませながら奏は少し足早に、その音の出どころである三年三組の教室を目指して進む。

 久美子のユーフォの音は、自分のそれよりもずっと洗練されている。濁り無く、音色という言葉そのままに、場面に応じた音の使い分けはまさしく絵の具のように様々な色を生み出す。今年の北宇治で誰がいちばんのユーフォ奏者かと問われれば、それは間違いなく久美子だろう。でもその久美子ですら目標としている人物が、かつて北宇治には居たらしい。その人の演奏を直に聞いたこともある。けれど、今の久美子だってきっと負けてはいない。奏は密かにそう思っていた。

「おはようございます」

「おはよう、ってあれ、奏ちゃん?」

 互いの吐息が白く曇る。教室の戸を開けた人物が奏である事に気付いた久美子が、少し狼狽した様子で構えていた楽器を下ろした。

「すみません。練習のお邪魔をしてしまいましたか?」

「ううん、そんなこと無いけど。でも珍しいね、奏ちゃんがこんな時間に朝練来るなんて」

「きのうのお話を聞いて、先輩の練習ぶりに若干興味を抱いたものですから」

 戸を閉めた奏はうっそりと笑みを浮かべて久美子に近付く。えぇ、と戸惑いを浮かべる彼女の近くに鞄や譜面台など私物を下ろし、そこからユーフォと楽譜を取り出して、奏はわざと久美子のすぐ隣に自分用の椅子を置いた。

「それに私も今はちょっと、上手くなりたいって思っていますので」

「そっか」

 言葉少なに久美子は頷き、再び楽器を構え直す。果たして自分の方便を彼女がどう捉えたかは定かでないが、この分だと怪しんではいないだろう。クツ、と喉を鳴らした奏は楽器に軽く息を吹き込んでから、己の言にウソが無いと誇示するみたいに粛々と基礎練習のロングトーンを始めた。と、

「そう言えば、奏ちゃんさ」

 突然久美子に呼び掛けられ、何でしょう? と奏はマウスピースから唇を離す。

「もうすぐなんだっけ、誕生日?」

 あれ、と奏は意外に思う。この人でもそんな事に関心があったのか……などと本人に向かって言えばへそを曲げるに決まっているので、奏はあえて素直に話を合わせる事にした。

「そうですね。近いっていうか、今日ですけど」

「うわ、今日だったんだ。しまった」

 久美子が顔を青くしたのを見て、奏はちょっぴり愉快な気分になった。別に自分が何かをしたという訳ではなかったけれど、何となく、久美子を出し抜くことが出来た。あえて言語化するならそういう感覚だ。

「はい、今日で十六歳になりました。でも特段これといった感慨はありませんね」

 それは半分は本当だった。誕生日には友人達がプレゼントをくれたり、両親がケーキと料理でお祝いをしてくれるので楽しみではあるのだけれど、でもそれだけだ。一つ年を取るということは、それだけ大人になるということ。そしてその分だけ、今よりももっと多くのものに向き合わないといけなくなるということだ。それを奏は既に悟っている。だから歳を取る事を無邪気に喜んだりなどはしない。自分はそこまで子供じゃない、という思いと共に。

「私もその気持ちはちょっと分かるけどね。思ったよりも成長しなくて」

「成長って、何がですか?」

「ああいや、別に大した意味じゃないんだけど。その、精神的にとか」

 嘘ばっかり、と奏はほくそ笑む。久美子の視線が自分の胸のあたりにしっかり固定されているのを、奏は確かに感じ取っていた。

「でも私うっかりしてて、誕生日プレゼントとか何も用意してないよ」

「別に構いませんよ。私は特に気にしませんので」

「そういう訳にはいかないって。私の誕生日のときは奏ちゃんからもプレゼント貰ってるし」

「そんなにあの貯金箱を気に入っていただけたんですか?」

「あれは、いや、まあ。じゃなくて、そういうのと別に貰った分は貰った分として、ちゃんとお返ししなきゃだし」

「思いのほか義理堅いんですね」

「義理っていうか、可愛い後輩だから当然? みたいな」

「またすぐに、そんなことを仰って」

 笑いながら、自分の頬がじんわり熱くなるのを感じる。久美子のこういうところが実に憎らしい。彼女にしてみればきっと今の一言は何でもない、ごく自然に放ったものであるはずだ。その言葉が相手にどういう効果をもたらすのかを、たぶんこの先輩はあまり良く自覚できていない。だからこそ美玲も、夢も、そして高坂も、きっとこうやってこの人にほだされたのだろう。

「どうしてもというなら別に後日でも構いませんし。先輩と私の仲です、いちいち目くじらを立てるような真似はしないですよ」

 こんな風に奏が言っても、久美子の表情から焦りの色はなかなか取り払われなかった。どうしようどうしよう、とトレードマークのもじゃもじゃ頭を掻き毟りしばらく何かを思案して、それから唐突に、

「そうだ、それじゃあ」

 ふと何かを思いついたように、久美子がいそいそと楽器を構え直す。何ですか? と尋ねた奏に、久美子は少しばかり誇らしげな顔つきを覗かせた。

「奏ちゃんにこの曲を送るよ。良く聴いてて」

 そう告げて、久美子はマウスピースに口を付け、演奏を開始した。

 率直に言って、とてもきれいな曲だった。

 その曲を、奏はこれまで耳にしたことが無い。きっと有名なものではないのだろう。けれどその音の一粒一粒は、まるでユーフォのあるべき音がこうなのだと主張するように、華やかさと微かな憂いを含んでいた。パッセージを経て駆け上がり鳴らされる高音。優雅に揺れるビブラート。そして終幕の余韻豊かな減衰。夢のようなその調べのひと時に、奏は時間の感覚を失うほど聴き惚れてしまう。

「どう?」

「とっても素敵な演奏でした」

 演奏を終えた久美子に拍手と賛辞を送ると、でしょ、と久美子が控えめにその胸を張る。

「私の知らない曲でしたけど、何という曲なのですか?」

「それは秘密かな」

「教えて下さらないのですか?」

「今はまだね。そうだなあ、私が卒業する時に、奏ちゃんに教えようかな」

 卒業。その一言に胸がざわりとする。次の春が来れば久美子は三年生になる。それはつまり、彼女もこの北宇治にあと一年しか居られないということだ。一年は長いようで短い。この春にあの人が卒業してしまうのと同じように、またあっという間に一年が終わったら、この人とも離れ離れになってしまう。ずっと遠くにあるようでいて、今この一瞬から一日また一日と確実に近づく別離の時。学校とはそういうものだと解ってはいても、己の内から勝手に溢れ出るこの寂寥を、奏にはどうすることも出来ないのだ。

 そんなふうに俯く自分の様子を見て、彼女は何かを思ったのだろうか。楽器を机に置いた久美子は奏の前髪をさらりと指で払った。

「お誕生日おめでとう、奏ちゃん」

「……ありがとうございます」

 やっぱりこの先輩にはかなわない。そんな風に奏は思った。

 この曲の名を久美子から聞き出すその日までに、自分は今より少しでも上手くなろう。奏はそう思った。窓辺に積もった雪はいつしか溶け落ち、真冬の空を飾る柔らかな日の光がきらきらと久美子の笑顔を照らしていて、ともすればそれが奏にとって今日一番のプレゼントとなったのかも知れなかった。

 

 

 

 




(2019年1月7日発表作)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。