光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集 作:ろっくLWK
嘘みたいだ、と思った。
ドアを開いたその先には、ただ一面を埋め尽くす、白。
壁も、床も、天井も、カーテンも、ベッドも、シーツも、ひまわりの造花も、そこに居た人たちも、まるで世界が色という存在を忘れてしまったみたいに、全ては真っ白に塗りたくられていた。
もしかして時が止まってしまったのではないか? そう考えた
恐る恐る、足を踏み入れる。最初に目に入ったのは、良く見慣れた高身長の後ろ姿。けれどいつもは真っすぐに伸びている彼の背中が、今は、自分よりも小さいのではと思えるほどに縮こまっていた。
聡美の足が、そこで竦んでしまう。
もう一歩を踏み出せば、わかってしまう。全てを知ることになってしまう。それが、怖かった。恐ろしかった。受け入れたくない、受け入れるべきでない現実が、そのもう一歩の先にある。そんなことはとっくに解っていて、だからこそ聡美はいっそこのまま本当に時が止まってしまえばいいのに、とさえ願わずにはおれなかった。
――長い夢を見ていたような気がする。ベッドから起き上がった聡美はまず最初に窓を覆うカーテンへと手を伸ばす。しゃら、という済ました音と共に部屋になだれ込んでくる陽光。ここのところ雨続きだったが、どうやら今朝は気持ち良く晴れてくれたらしい。大きく伸びをして、それから聡美は小物や貴重品の類を収めているチェストの上へと目を向けた。
ガラス製の写真立て。その中に写し出された四人の姿は、今より少し幼く見える。その中には当然と言うべきか、大学生時代の自分の姿もあった。仲の良かった先輩たちと、一緒に遠出した時に撮ったスナップ写真。記憶の中の光景はこの写真みたいに少しずつ色褪せても、楽しかったあの頃の思い出そのものは今でも瑞々しく胸の中に息づいている。日頃の忙しさに揉まれて忘れてしまいそうになる度に、この写真があの淡く美しく輝く一瞬を聡美の中へと引き戻してくれる。
大学を卒業してからというもの、聡美はあっちこっちを飛び回るようにして仕事にまみれる日々を送っていた。プロの奏者としてはありがたい話だ。音楽で生きていく、というのは事前の予想を遥かに超えて大変なことも多いし、心が挫けそうになることだって沢山ある。けれど自分の演奏で聴衆を楽しませ、満場の拍手を返してもらえた時の喜びと達成感は、他のことでは味わえそうにないものがあった。それさえあれば他のいやなことなんて全部忘れてしまえる、と言い切っても良いほどに。この仕事を選んで本当に良かったと思うことは日に日に増えている。そんな自分の今があるのもきっと、あの頃の思い出が支えてくれているから。それは聡美にとって何にも代えがたい宝物だ。
「最近、
聡美はそっと写真立てに手を伸ばし、彼女の面影を指でなぞる。大学時代の先輩である千尋は卒業後、音楽の教師になった。吹奏楽部の顧問となって教え子たちを全国のステージへと導きたい。そう語っていた彼女もまた、着実に夢を叶えるためのステップを踏んでいる。今はどこか、府内の高校に着任しているらしい。お互い忙しくてなかなか行き会えずにいるけれど、あのひとに呼ばれればいつでもどこへでも駆けつける。そうと断言できるぐらいには、聡美は千尋のことを深く尊敬していた。
尊敬。それも確かにあるけれど、少し違う。千尋に抱くこの想いは、本当は。
そう考えたところで聡美はかぶりを振った。それも今は昔の話、にすべきなのだろう。だって千尋は、彼女は音大の同期であった
と、その時、枕元に置いていた携帯がぶるぶると振動した。今日は久しぶりのオフなので少し遅めに起きたのだが、また急な仕事の依頼だろうか。そう思いつつ聡美は携帯の画面を開く。
『滝先輩』
そこに記されていたのは意外な人物の名前だった。千尋ならともかく、滝が自分に直接連絡をしてくることなんて滅多に無い。千尋と同様音楽教師の職に就いた滝が、どうして? 頭に浮かぶ疑問符を締め括るように、千尋は指のひと払いで通話のロックを解除する。
『もしもし、お久しぶりです』
「ご無沙汰してます滝先輩。いえ、今はもう滝先生と呼んだほうがいいですね」
『それはどちらでも。私のほうこそ、今はあなたを先生と呼ぶべきなのでしょうし』
「気にしないで下さい。滝先輩に先生なんて呼ばれると、なんだか体がむず痒くなります」
冗談めかした言い方ではあったが、それは半分事実だった。千尋の幸せを祝福はしても、滝に対する自分の感情にはまだほんの少しだけ苦みに似た複雑さも残っている。勿論そのことを彼らに告げるつもりも毛頭無いけれど。
「先輩が直接私に電話してくるなんて珍しいですね」
『すみません、お忙しいさなかとは分かっているのですが』
「いえ、今日はオフですから大丈夫です。先輩は相変わらずみたいですね。千尋先輩はお元気でいらっしゃいますか?」
そこで生じた妙な空白。電波の状況が悪いのかと、聡美は受話口に耳を澄ます。
『その事なのですが、実は少々、体調を崩していて』
「千尋先輩が?」
「はい。それで、先日から市内の病院に入院しています」
どくり、と鼓動に突き刺さる鈍い痛み。いつもは流暢な滝の言葉遣いが今日は僅かに途切れがちになっていた。逡巡する思考に感情をかき乱されて、次に喋るべき言葉を紡ぎ出せない。何を訊けばいいのか。どう答えるべきなのか。ざわざわと爪でひっ掻かれるみたいな感触が、喉のあたりにへばりつく。
「……という状態でして、そのうちでも結構ですので、もしお時間がありましたらお見舞いにでも来ていただければと思いまして。あなたの顔を見れば、千尋もきっと元気になるでしょうから」
「え、あ、はい。それでその、先輩の入院している病院って――」
矢も楯もたまらなかった。通話を切ってすぐ、聡美は外出の準備を整えて家を出た。
病院に向かう電車に揺られる中、窓に映る空模様は朝の晴れっぷりが嘘のようにどんよりとぶ厚い雲に覆われていた。梅雨時なので仕方ないと言えばそうなのだけれど、ぐずついた天気はまるで今の自分の心境を如実にそこへ描き出されたみたいな気がしてどうにも落ち着かない。市内の駅に降り立ち、近くのお店でお見舞いの品をいくつか買い込んで、聡美は滝に教えられた通りの住所へとまっすぐ足早に歩いていく。
角を曲がってすぐのところに姿を現した、大きく白い建物。自分にはあまり馴染みのないこの場所に今、千尋がいる。そう思うと気が気ではない。逸る気持ちをなんとかなだめながら病院の玄関をくぐり、エレベーターに乗って降りてまた長い廊下を歩く。方々から沁み渡るように漂ってくる消毒液の匂いは、正直居心地の良いものではなかった。やがて『3-A』と大きく書かれた表札が見えてくる。滝に告げられた件の入院病棟は、間違いなくここだ。
「面会の方はこちらにサインをお願いします」
病棟入口のナースステーションで、受付の看護師から差し出されたカードに自分の名前をしたためる。隣の欄には『患者との関係』という項目。少し悩み、それから聡美はそこに『友人』とだけ、小さく書き込んだ。
「すみません。お休みのところにご足労いただいて」
ちょうど手続きを済ませた聡美のところへ、滝が姿を現した。いつになく覇気に乏しい彼を一目見たその瞬間、浅く漂っていた聡美の不安は雪崩を打ったように確信へと変わっていく。
「千尋でしたらあちらに。医師の許可はいただいてありますので、どうぞ」
滝がのろりと病室を指差す。ありがとうございます、とだけ告げて、聡美は飛び込むように病室へと足を踏み入れた。
広いとも言い難い、よくある入院病棟の四人部屋。その室内は意外なほどに穏やかな雰囲気だった。木目調パネルをあしらった床面と壁の
「……聡美ちゃん?」
「お久しぶりです、千尋先輩」
それはやはりというべきか、千尋その人だった。けれど顔色は思っていたよりは悪くなくて、そのことに聡美はほんの少しだけ安堵する。金属製のスタンドにぶら下がった透明なパックから伸びる管は千尋のほっそりした腕へと繋ぎ止められていて、輸液を送るための針が白い皮膚にずぶりと突き刺さっている。誰あろう千尋がそうなっている光景は、少しばかり痛々しかった。
「どうしてここに?」
「滝先輩から聞きました。先輩が入院されてるって」
「
「迷惑なんて、そんなの一つもないです。それに今日はたまたまオフだったので、せっかくだから先輩の顔も見たいなあって思いまして。ちょうど良かったです」
そう言って聡美は袋からお見舞いの品を取り出し、ベッド脇にある飾り棚へそれらをからからと並べていく。
「それと、これも買ってきました」
最後に取り出してみせたのは、小さなひまわりをあしらったブーケ。本当はもっと大きな花束にしたかったのだけれど、それはさすがに邪魔になってしまう。そう思った聡美は代わりに、千尋が最も喜ぶであろうこれを見繕ったのだった。
「わあ、ありがとう」
ブーケを手渡すと千尋はそっと両手で包み込むようにそれを持ち、芳香ごと花の生気を吸い込もうとするみたいにスウと鼻を鳴らす。
「あ、これ造花なんだね。でもちゃんと香りもついてて良く出来てる。本物のひまわりみたい」
「出来れば生花にしたかったんですけど、病院に持ち込むと迷惑かなと思って。それに先輩、この花好きでしたから」
「さすが、良く覚えてる」
「忘れるハズないです。大好きな千尋先輩のことですから」
またそんなこと言ってー、と千尋はくすくす笑みをこぼした。聡美は口中で舌を立て、湧き出た苦味をひっそりと噛み殺す。冗談としか受け取られないのは少し寂しいけれど、今はもう、それでいい。ベッドの隣に置いてあったパイプ椅子に腰掛けると、ちょうどベッドの上の千尋と同じ目線の高さになった。
「それで、お体の具合はいかがなんですか?」
聡美の質問に、うん、と千尋はいくぶん困った時の角度で首を傾げた。
「ここのところちょっとお腹が痛いなーって感じてたんだけど、仕事疲れもあったみたいで具合悪くしちゃって。それでお医者さんに診てもらったら、しばらく休んで治療したほうがいいってことになってね」
「そうだったんですか」
「でもしばらく入院してたお陰で今はもうだいぶ元気になったし、だから全然大したこと無いの。一応大事を取って今は安静にってことになってるけど、心配するほどじゃないから」
「ダメですよ油断しちゃ。そうでなくても学校の先生って激務だって聞きますし、それに先輩って確か、吹奏楽部の指導もされてるんですよね?」
「うん。今年はけっこう部員たちも上達して来ててね。人数が少ないから上位大会には出られないけど、今年こそはコンクールで金賞取れるかもって手応えもあって」
そこまでを喋った千尋は「ふう」と憂いの溜め息をひとつ吐く。
「なのに、顧問の私がこんなことになっちゃって。もうすぐコンクールなんだし部員の子たちにとっても今が一番大事な時期なんだから、私も早く復帰しなくちゃだよね」
「そう思うんだったら今はしっかり休んで体調整えて下さい。お医者さんと、あと滝先輩の言うことも、ちゃんと聞いて下さいね」
「はーい。聡美ちゃん、なんだか私のお母さんみたい」
「先輩のお母さんになれるなら光栄です」
ふふ、と薄く笑みを洩らして、それから千尋は緩やかにベッドへ身を沈める。
「ごめんね。せっかく来てくれたのに、まだちょっと疲れやすくて」
「気にしないで下さい、今日は先輩のお顔を見に来ただけですから。今度はゆっくりお見舞いに来ますね」
「その頃には私、もう退院してるかも」
「だったらその時は二人でケーキ食べに行きましょうよ。退院祝い、ってことで」
「そうだね」
「じゃあ、先輩が眠るまで、ここで見てから行きます」
「うん。じゃあ、またね」
「はい。また」
必ず、また。そんな気持ちを込めて聡美は返事をする。目を瞑った千尋の呼吸は少しずつ緩やかになっていき、やがてすうすうと小さな寝息に変わった。そんな千尋の傍にもっと居続けたかったけれど、さすがにそういう訳にもいかない。彼に会って、訊かなければ。彼女を起こさぬようそっと席を立ち、来た時と同じように周囲へ会釈をして病室を後にする。多くの入院患者が行き交う談話スペースの一角、四人掛けテーブルの席には、何を見るでもなくじっと物思いに耽るように俯く滝の姿があった。
「滝先輩、ありがとうございました」
「もう、よろしいのですか?」
「はい。千尋先輩、疲れちゃったみたいで、今はお休みになってます」
「そうですか」
席を立った滝が聡美を見据える。薄暗い談話室の中にあって、彼の顔には色濃い影が差し込んでいた。
「まだお時間があるようでしたら、お話したい事があるのですが」
「大丈夫です」
何かが鼻腔につんと刺さる。それを堪えるように一度大きく咳払いをして、聡美は滝の後に続いた。
「ここにしましょう」
そう言って滝が腰を下ろしたのは、病院の中庭にしつらえられた金属製のベンチだった。隣の座面に白いハンカチを広げた滝が、そこに手を差し伸べる。
「どうぞ」
「失礼します」
いちおう礼を告げてから聡美はハンカチに腰を下ろす。互いの距離感はちょうど、千尋ひとり分がそこにすっぽり収まるかという程度。今にも一雨来そうなほどぐずつく天候のせいか、不快にすら思える熱気に反して薄布越しに感じる金属の板はひんやりとしていた。
「どうでしたか、千尋は」
「思っていたより元気そうでした」
「そうですか」
途切れがちになる会話。元々滝とはそれほど深く言葉を交わすことがない。間にはいつも、千尋がいたから。二人きりの状況に暴露されたぎこちなさが、聡美の焦燥にますます拍車をかける。それは滝も同じなのだろうか、彼はさっきから膝のあたりに指を組んで、そのままむっつりと押し黙っていた。
「あの、」
堪らず聡美は口を開く。何ですか、と首を巡らせた滝の視線は地面を這うように滑るばかりで、こちらの瞳を覗こうとはしなかった。
「千尋先輩、本当はどうなんですか」
それを聞くのは、怖かった。聞けば何かが確定してしまうと思ったから。けれど、千尋の顔色はそんなに悪くなかった。だったらもしかして本当に大したことは無いのかも知れない。自分が変に勘ぐっているだけで、だからきっと、滝から真実を聞かされれば『なあんだ』と胸を撫で下ろせるぐらいの容態で……そんな思考が怯える自分をなだめすかすようにぐるぐると渦巻く。滝の表情が少しでも和らげば、だいじょうぶだ。息を呑んで、聡美はただただ必死に彼の一挙手一投足を見守る。
「千尋には、内緒にしておいて下さい」
そんな自分の懇願から目を背けるように、滝が顔を伏せた。ほぼ同時に、ぽつり、と頬に雫がぶつかる。
ああ。雨が、降ってしまった。
その時聡美が考えていたのは、そんなことだった。
コンコン、と部屋の扉をノックする。
「先輩」
声をかけてから入室する。過ぎ往こうとする夕暮れに染められた部屋の中は、真っ白な筈なのに深い紅色に燃え上がっているみたいだった。その中央、大きめなベッドの上にはいつも通り、千尋の姿があった。
「今日も来ちゃいました」
そう告げると千尋の顔つきがいくぶん和らぐ。いや、哀しんでいるのだろうか。どっちでも良い。私がここにいるのは私が先輩に会いたいからなんだ。一度でも多く、一秒でも長く、先輩と会っていたいから。
あの日以来、聡美は何かと都合をつけては足繁く千尋のところに通うようになっていた。梅雨が明けて夏が盛りを迎えるのと入れ替わりに、千尋の体調はその影を色濃くするように少しずつ、けれど確実に悪化していった。見舞いに来るたび身体に繋がれた管の数は増え、ベッドの周りには状態を把握するための機械がいくつも置かれている。部屋も今は個室だ。周囲に気兼ねなく療養に集中してもらうため……そう滝は本人に説明しているらしいが、果たして千尋自身はどこまでそれを信じているのか。聡美もまた、千尋には真実を告げられぬままでいる。
「今日は橋本先輩から送ってもらったウィーンの写真を持ってきました。橋本先輩、今は海外公演でヨーロッパを飛び回ってるそうですよ。こないだまで滞在していたドイツの地ビールが美味いって、メッセージ送ってきたりして」
プリントアウトした写真と一緒に、携帯へと送られてきた幾つものメッセージを千尋に見せる。千尋はもう、自分の力では起き上がることができない。橋本から送られてくる数々の風光明媚な景色の写真にも、メッセージ通り楽しそうに振る舞う彼自身の姿など一つとして写ってはいなかった。それはきっと、橋本なりの配慮なのだ。
『千尋ちゃんのこと、頼む』
数多届いたメッセージの最後に一通だけ、別件で送られてきたその言葉だけは、決して千尋には見せない。わざわざ橋本に言われるまでもなく聡美はその誓いを貫いた。これを見せてしまったらきっと、千尋も、自分も、泣いてしまうから。
「私にもこの秋、海外の演奏会に出てみないかってお誘いの声がかかってるんですけど、正直あんまり行く気がしないんです。橋本先輩と違って海外にはあまり興味ないですし、支度とかも大変だから自分はいいかなって」
それは全くの方便だった。海外に行ってしまえば、千尋と過ごせる時間が格段に減ってしまう。この時間は今の自分にとって、音楽家としてのキャリアよりも何よりも大事で重いものだ。自ら手放せるわけがない。本当に大切に思うこの人のことを、自分自身の決断で。
「聡美ちゃん、」
千尋の掠れた声が自分の名を呼ぶ。はい、と聡美は確かに返事をした。
「ごめんね」
「何がですか?」
奥歯できつく口の中を噛み込んでから、聡美は笑顔で応える。生臭い鉄の味が舌の上に広がっても尚、聡美は表情を崩さない。
「聡美ちゃんだけじゃない。橋本君にも、教え子のみんなにも、昇君にも、迷惑ばかりかけちゃって」
「……こないだも言いましたよ。迷惑なんて、一つもないです」
千尋の表情がくしゃりと歪む。滝がどこまでを千尋に伝えているかは分からない。だから聡美はあえて触れなかった。千尋が受け持っていた学校の吹奏楽部、今年のコンクールでの成績は、銀賞だった。
「昇君は『今に良くなる』ってずっと言ってくれてるんだけどね。私、わかるの。きっとこのまま、帰れないんじゃないかって」
「そんなこと、」
無いです、と言いたかった自分の喉に何かがつっかえる。どうして。今それを言わないと、駄目なのに。
「そんなこと言わないで下さい。先輩があきらめちゃったら、誰が病気を治すんですか。お医者さんですか? 薬ですか? 先輩なら大丈夫だって信じてます。絶対に治るって、私は信じてます。だから、」
がんばって。その一言を、頑張り続けている病人に告げることがどれほど酷なことか。聡美だって頭では解っている。けれど、願わずにはおれなかった。千尋が病魔に打ち克ってくれることを。こんなところとは無縁の生活を送れる日々を彼女が取り戻せることを。そしてあの時のように、千尋が再び元気な笑顔を自分に見せてくれることを。
すう、と千尋の
「ありがとう、聡美ちゃん」
消え入るような声で呟いた千尋の言葉が、聡美の耳に焼き付いて離れない。そのまま千尋は眠りの底に落ちてしまったみたいだった。艶を失った唇。鼻に添えられた管。細くなった腕にびっしりと刻まれた点滴の痕。その全てが痛々しくて、やるせない。どうして先輩が、先輩だけが、こんなことに。その叫びをきつく噤んで、聡美は静かに病室を出ていった。
面会中、滝はいつも、聡美を千尋と二人きりにしてくれていた。
「そのほうが喜ぶと思いまして。千尋も、あなたも」
「……ありがとうございます」
本当は滝だって、千尋と少しでも長く一緒に過ごしたい気持ちはおんなじだろうに。いつぞや滝から真実を訊き出したあの時と同じベンチに座り、あの日と同じように、聡美は滝の様子をそっと伺う。
あの日以来、憔悴の一途を辿っているのは千尋や自分ばかりではない。元より不精がちだった滝の頭髪はどんどん乱れが進み、白髪の数もだいぶ増えていた。痩躯である彼の頬はそれと分かるほどにまでげっそりと痩せこけていて、その気色も彼自身が入院患者なのではないかと見紛うほどに青白い。
「最近、あまり良く眠れなくて。近頃は病院に無理を言って、ここで寝泊まりすることも多いんです」
「ダメですよ、滝先輩まで体調を崩したら。何より千尋先輩が悲しみます」
「……あなたにそう言ってもらえるとは」
「どうしてですか?」
その問いに滝は答えを返さなかった。ふう、と浅く息を吐いて、彼は天を見上げる。夏を終えた雲の帯は幾重にも分厚く被さっていて、物憂げな季節の訪れを投影するように、その下端を微かに赤く焦がしていた。
「つい先日も、橋本君が見舞いに来てくれました。彼のことですからずいぶん賑やかにしていましたが、千尋もだいぶ嬉しそうにしていましたよ」
「そうですか」
「けれど、あなたが来てくれるときが、千尋は一番安らぐようです」
その一言に聡美は、ぎゅう、と心臓を鷲掴みにされる。
「学生時代のときからずっと、千尋はあなたのことを信頼していました。私は人間関係とかそういった物事に疎いところもあるので何とも言えないのですが、きっと千尋とあなたはある意味で、私よりもずっと強い絆で結ばれている。二人を見ているとそんな風にも思います」
聡美はそれに肯定も否定もしなかった。謙遜ならば幾らでもできる。ただの勘違いと笑い飛ばしてあげるのだって別段難しいことじゃない。けれど、少なくとも自分自身の千尋への想いの強さは、それだけは他の誰にも負けやしない。それは多分、千尋がこの世で最も愛した滝にでさえも。
「こうしていつも見舞いに来て下さって、本当にありがとうございます」
そこで唐突に、滝が深々と頭を下げた。よしてください、と言ったのは聡美の心からの本音だ。
「私は自分が千尋先輩に会いたいから来てるんです」
「ですが、あなたにとっても今は大事な時期だと伺っています」
「いいんです。私は自分の選択を、後悔してません」
そうだ。後悔するところなど一つとしてある筈がない。むしろこうしなかったほうが、ずっとずっと後悔していただろう。それこそ誤った選択をした自分のことを、未来の自分が呪い殺したいとさえ思うほどに。
「強いですね」
呟く滝の言葉は強い自嘲の念に満ち満ちていた。自分はそうはなれない。滝はひょっとして、そんな己の弱さを忌々しく思っていたのかも知れなかった。
真っ暗な部屋に灯りもつけぬまま踏み込み、ベッドへと身体を投げ出す。途端、全身からどろりと溢れ出る疲労が聡美の意識を飲み込んだ。
これは気疲れだ。自分でもそのことは良く判っていた。千尋の前で少しでも悲しげな顔を見せないように。滝の前でうっかり涙をこぼさないように。日々の仕事に一つの手落ちも無いように。人前では何枚もの仮面を被り、まるで何事も無いかのように振る舞う。そうやって心の内とは裏腹な言動を取り続ける日々の積み重ねは確実に聡美自身をも蝕み、心と肉体を削り取っていた。
べつに、負担だ等と思ってはいない。自分がしたいからそうしてるだけ。後はそれに自分が耐え切れるかどうか、ただそれだけの話だ。
ピリリリ。
突然鳴り響く電子音に、朦朧としていた意識は一瞬で覚醒してしまう。このところ聡美は携帯の音に過敏になっていた。もし、その報せが来たら。そんな恐怖が否が応にも熟睡を許さない。素早く携帯を手繰り寄せ画面を開く。そこにあったのはインスタントメッセージの着信を知らせる表示。差出人は、いつものあの男だった。
『最近はどう? 仕事も忙しいみたいだけど、疲れとか溜まってない?』
こっちの心境も知らないくせに。暢気な文面に奥歯を噛み、再び携帯を投げ出す。返事など思い出したときにすればいい。苛つきを拭うように舌先で撫でた口腔には、血の風味がべっとりとへばりついていた。そう言えばあれから口をゆすいでなかった。どうでもいい。明日の予定はなんだっけ。それもうまく思い出せない。とにかくそれが終わったら電車に飛び乗って、病院へ行って、千尋に会って……。頭の中に巡るのは千尋のことばかりだった。心が思い描くものは千尋ただ一人だった。そうしているうちにぼんやりと、聡美の目の前に千尋の姿が像を結び始める。
「ありがとう」
それは先ほど病室で告げられたそのままの千尋の声だった。そして、元気だった頃の千尋の声だった。
「ずっと私のこと、支えてくれて」
どうしてそんなこと言うんですか。
そう問いたいのに、喉に力が入らない。声が音にならない。
「私、聡美ちゃんのこと、大好きだったよ」
私も、私だって、私のほうがずっとずっと、先輩のことが好きです。
これからもずっと、大好きです。
「聡美ちゃんに支えてもらえて、私、幸せだった」
違うんです。
ほんとうに、ほんとうに幸せだったのは、先輩といっしょに居られて幸せだったのは。
「じゃあね。聡美ちゃん」
どこに行くんですか、先輩。
いやです。返事をして下さい。
一人にしないで。
千尋先輩。
頬を何かが伝う感触だけが、いやにはっきりと感じ取れた。
まどろみのさなかにあった聡美はしばし気付くことが出来なかった。
どこか遠くで絶えず鳴り続ける着信音、それが意味するものに。
(2019年6月29日発表作)