光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集 作:ろっくLWK
Prologue
やけに寝覚めの良い朝だった。
最初に嗅ぎ取ったのは、微かな違和感。それに鼻腔をくすぐられ、
「……シーツのにおい、いつもと違う」
いつの間に柔軟剤変えたんだろう、などと暈けた思考を払うように目をこすり、むくりとベッドから起き上がる。部屋の中はまだ真っ暗だった。それもそのはずで、この時期は家を出る時間帯でも空はまだ夜闇の真っただ中にある。まずは部屋の明かりを点けよう。掛布団のぬくもりを名残惜しく思いつつも足を抜いて立ち上がり、そこで久美子は自分の身にずしり、と何かがのしかかっているような感覚に襲われた。
「なんでだろ。肩、凝ってる」
ゆうべ寝違えたのか、それともこのところのストレスやら何やらが知らぬうちに蓄積していたのか。そっと触れてみた肩はぱんぱんに張っていて、まるで血流がそこで滞っているみたいだった。いや、それだけじゃない。どうも普段よりも息苦しいような感じがする。ひょっとして風邪? と思いつつ、久美子は何の気なしに胸の辺りをそろりとさすってみた。
ふよん。
「あれ?」
手のひらに、不思議な感触。なんだろうこの、手に余るほどのボリュームで、雲のようにふかふかで、けれど中身のぎっしり詰まったプリンみたいに重さを感じる弾力の塊は。それが、自分の胸にある――そうとまで考えたところで、久美子は両手でがばりと自分の胸を鷲掴みにする。
「ウソ。……大きくなってる」
胸が。あんなに憧れた大きな胸が。高校に入ったら大きくなると信じて疑わなかった、自分の胸が。いま、たしかに、間違いなく、手のうちに、ある。
マジかよ。信じられない。やった。あらゆる喜びの言葉が脳内を、胸中を駆け巡る。春の身体測定までは中学の頃とさして変わらなかった筈なのに、いや合宿の辺りでも
早くこの目で見てみたい。強い思いに駆られ、久美子は手探りで照明のスイッチを探す。けれどおかしいことに、いつもなら暗闇の中でも迷わずすぐに辿り着くそのスイッチがなかなか見つからない。このへんにあった筈なのに。あまりのことに気が動転してしまっているのだろうか。それに気のせいか、なんだか部屋の形まで違っているような。いつになく苦戦しつつも四方八方にと手を動かし、ようやっとスイッチらしきものに指先が触れる。パチンとスイッチを押すと同時に明るくなる部屋。久美子の視線は即座に、部屋の一角に置かれた姿見に向かった。急ぎ足で近付き、そして大きくなった自分の胸を姿見に映す。
はず、だったのだが。
「――何ですか、これ」
久美子は唖然となった。
髪は黒く、肩の先までまっすぐ長く伸びている。
目元は勝ち気で、肌は浅黒く日に焼けている。
胸元は大きく、部屋着であろうトレーナーをはちきらんばかりに隆々と盛り上がっている。
そのいずれもが、久美子のものではなかった。
鏡の中に描かれた容貌は紛れもなく、
Side:Kumiko
たっぷり数十秒ほど膠着していた脳みそが、ようやっと動き始める。
えっと、なにこれ、どういう状況?
ひょっとしてまだ夢の中なのでは。そう思った久美子は試しに自分の頬をつねってみる。すると姿見の梓が自分の頬を指で引っ張り間抜けな顔になる。思い切ってうんと強く捻ってみる。痛い。姿見の梓の表情もまた苦痛に歪む。ぴん、と摘んでいた頬を放すと、梓の表情はたちまち元通りになった。けれど自分の意識は、元に戻らない。
「ちょっと待って? どうなってるのこれ!」
思わず洩れた声はほとんど絶叫に近かった。咄嗟に口を覆ったものの、隣室から家族の非難が飛んでくることは無かった。いや待て、とそこでようやく久美子の認識が自分以外のものへと向けられる。
部屋の構造も、家具の配置も、掛布団の柄も、壁に掛けられた制服も、あまつさえ目の前の姿見の造りでさえも、何もかもが自分の部屋のそれとは掛け離れている。というよりもまず、我が家ではない。ここはどこだ。どくどく、と首の周りを不快な感触が駆け巡っていく。まるで見覚えのない景色。まるで理解のできない状況。それらはあっという間に久美子を恐怖のど真ん中へと引きずり込んでいく。
とその時、どこかでモーターの駆動音が鳴るのが聞こえた。音の出どころを探して久美子は目を凝らす。枕元の携帯電話。そのランプが煌びやかに明滅していた。恐る恐る近付き携帯を手に取ってみると、あちこちキズだらけの携帯はこれまたやはり自分のものではなかった。少し迷い、けれど他にどうすべきかも思いつかず、半ば諦めたように久美子は携帯の画面を開く。そこにあったのは着信の報せ。発信元は――『
脳内は混迷を極めている。立て続けに理解不能なことが起こっているせいで、久美子はもはやこの着信に応じるべきかどうかを考えることすら出来なくなっていた。半ば無意識のうちに画面の上で指をスライドし、携帯を耳にあてがう。
『もしもし』
スピーカーから響いてきた第一声は、まるで聞き慣れないものだった。
「えっと、もしもし」
自分の返事がそうとうにぎこちないものであったことは疑いようがない。なにせ本来の持ち主ではない人間が電話口に出ているのだから。それにこの通話を掛けてきた相手が仮に『ほんとうの自分』なのだとしたら。そしたら今ここにこうしている自分は、自分という存在は、何だというのか。そんな焦燥と不安を舌の先にびりびりと感じながら、久美子はただじっと相手の発言を待つ。
『もしかして、いま私が話してるのって、久美子?』
その言葉に喉がぎくりと鳴る。どうして通話先の『久美子』は、いま電話している相手が久美子だと解ったのか。正直に認めるべきか、はぐらかすべきか、逡巡する久美子はしばらく黙り込む。
『久美子なんでしょ?』
「……あの、あなたは?」
『お願いだからハッキリ言って。久美子かどうか、それだけ』
「そう、だけど」
『良かったぁー!』
急に耳元の声が弾け、ぎょっとした久美子は咄嗟に携帯から顔を離す。
『もー、不安でたまんなかったよぉ。起きたら突然こんなだし、いったい何がどうなってんのって頭こんがらがっちゃって。でも咄嗟にもしかしたらって思って、それで自分に電話掛けてみたんだよ。そしたら見事ビンゴ。それにしても私たち、どうしてこんなことになっちゃったんだろうね? 久美子は何か心当たりある?』
「え、いやあの、待って、ちょっと一旦ストップ」
電話口の相手がやにわに高速でまくし立て始めるもので、久美子はすっかり狼狽してしまう。依然聞き覚えのない声の主の、しかしマシンガンの如く息もつかせぬその喋り調子にはどこか思い当たる節もあった。
それに、この会話の内容。
彼女は『自分に電話を掛けた』と言っていた。
そしてその電話を受け取ったのは自分、つまり梓の姿をした久美子だ。
勿論この部屋には黄前久美子の影もかたちもありはしない。
従ってこの電話の主、つまり久美子ではない誰かは、ここにいる梓のかたちをした何者かが久美子であると確信を持って電話を掛けてきた、ということになる。
ということは。いま電話を掛けてきているこの人物、その正体は。
『やっと分かったの? そういうとこ、やっぱ久美子だなあ』
呆れ混じりの溜め息を間に挟みつつ、彼女は朗らかに告げた。
『私だよ、梓。と言ってもいまは、久美子になっちゃってるけど』
『それにしても、気付いた時はホントにパニック起こしそうになっちゃったよ』
「だよね。私もすごくびっくりした」
梓を名乗る久美子――というのはややこしいにも程があるので、もう梓としておこう。梓の語ったことはほぼそのまま、ついさっき久美子が体験したことそのものだった。
朝起きて、自分が自分では無いことに気が付いた。よくよく確認してみると自分が久美子になっていた。気が動転しかけた梓はしかし、自分が久美子になってしまったなら久美子もまた自分になったのでは、ということに思い至り、こうして梓の携帯宛に電話を掛けてみたのだという。
「そこに気付くとは、さすが梓ちゃん」
『我ながらすごいよね。どうにかしなきゃって頭がフル回転したのかも。勉強でももうちょっと、このぐらいキレ良く回ってくれたらなぁ』
「それはなかなか、思い通りにはいかないね」
『って、そんな話してる場合じゃなかった。どうしてこうなったか、久美子は何か思い当たること、ある?』
「ううん、全然。そういう梓ちゃんは?」
『分かんないよ。だって有り得ないでしょ、お互いの体が入れ替わってるなんて』
「だよね」
『昨日会った時だって、べつに変わったことなんて何もなかったよね』
「と、思うよ」
それは昨日の帰り道のことだった。大会も近いことだし、願掛けに神社にでも寄ってみよう、とふらり京阪宇治駅から最寄りの神社へ足を向けたところで、後ろから声を掛けてきたのは梓だった。聞けば彼女も今日は所用で少し早めに居残り練習を切り上げたらしい。用事を済ませて家に帰る途中で久美子を見かけたので、家とは逆の方角ながら梓は久美子の向かう先へと付き合うことにした……というのが、前日の二人が共有するおおよその流れである。
『で、そのあと二人でお参りして、河原で少し話した後、ふつうに家に帰ったと』
「だよ。家で晩ご飯食べて、宿題して、ふつうに寝て」
『私も。それなのにどうしてこんなことになっちゃったんだろ』
「さあ……」
事の次第を突き詰めようとすればするほど堂々廻りの繰り返しになってしまう。久美子と梓、そのどちらもが、その身に降りかかったこの現象の根源に思い当たる節などなにも無い。けれど時間が経つに連れ、二人が入れ替わっているという事実がじとりと胃の辺りに沁み込んでくる。
『そうだ、学校どうしよう?』
学校。そうか。いまの今までそのことに、久美子は全くと言っていいほど頭が働いていなかった。久美子の所属する北宇治吹奏楽部と梓の立華吹奏楽部は、そのどちらもが大一番の大会を目前に控え練習に打ち込んでいる真っ最中。しかも二人はそれぞれ部長として吹部を率いる立場にある。言わばキーパーソンとも言える彼女たちが仮病で練習を休むなどしたら、部全体の士気にも少なからぬ影響を与えてしまいかねない。それだけは、絶対に避けなければならないことだ。
「病院とか、行かなくていいのかなあ」
『行ってもどうしようもない気がする。二人とも頭のオカシイ子って思われて、とっとと追い返されそう』
「確かに」
『とにかくさ、今日はこのままお互いの学校行って、それで無難にやり過ごそうよ。こうしてたって解決もしないし、皆に迷惑掛けるわけにもいかないから』
「それって、私が梓ちゃんのフリするってこと? うまくできるか心配なんだけど」
『大丈夫大丈夫。久美子ならできるって! 私も今日は一日、久美子らしくしてるから』
私らしく、ねえ。梓が自分のことを日頃どんな目線で見ているのか、気にならなくはない。けれどそんなことを梓に問うているほどの精神的余裕は、今の久美子には無かった。
「分かった。やってみるよ」
『よおし決まり。じゃあこっちの大体のスケジュールを言うから、今日はその通りに動いてね。まず朝イチだけど、』
「疲れたー」
立華高校の門をくぐり、久美子はそこで大きく息を吐く。
梓がトレーニングを兼ねて自転車通学をしているというのは知っていたのだが、それにしても彼女の家のある黄檗から高校まで、これだけの距離を毎日自転車で往復しているとは。ぼやく久美子はスカートの裾からスラリと伸びた小麦色のふとももをそっとさすってみる。朝っぱらからあれだけの運動量をこなしたにもかかわらず、梓のしなやかな脚に帯びる形の良い筋肉は痛みの一つも感じていないみたいだった。さすがはマーチング全国級の強豪……などと感心している場合ではない。今日は久美子がそんな梓になり切って過ごさなくてはならないのだから。いくら肉体的には消耗していないと言っても、慣れない自転車での登下校をこなさなければならない久美子にしてみれば、朝からこれだけの距離を走らなければならないのも心理的に一苦労である。
苦労と言えば、コンタクトレンズを装着するのも久美子にとってはたいへんな作業だった。梓は日頃は裸眼で過ごしているように見えるが実は昔から目が悪く、中学のある時から眼鏡をやめてコンタクトレンズに切り替えている。あんな大きなものを目玉に入れるのは不慣れな自分には至難の業であり、もういっそ諦めて裸眼で行こうかと腹を括りかけたものの、ボンヤリした視界のままだと世界がぐわんぐわんと歪曲しているようですらあった。これでは歩くことさえままならない。断腸の思いで決断した久美子がやっとの思いでレンズを入れることに成功した時、別の意味で涙が出そうになったのはここだけの話である。
「おはよう、梓ちゃん」
所定の位置に自転車を止め駐輪場を出ようとしたところでちょうど、背後からころりと転がる鈴のような声色が響いた。この声に聞き覚えは勿論ある。どきりとした久美子はおずおずと振り返る。
「ああ、おはよう」
そこに居たのは立華のトロンボーン担当で、久美子たちとは同学年の子、
「今日も早いんだね。毎日自転車通学で疲れたりしない?」
「え? いやまあ、毎日のことだから。うん、全然ヘーキ」
梓ってこんなんだっけ。上手く演じられているか全然分からず、久美子の返答もしどろもどろになってしまう。少しだけ不思議そうに小首を傾げたあみかだったが、思い出した、とばかりにポンと拳で手のひらを叩いた。
「そう言えば、こないだの練習で
「へえ、どんなこと?」
「私も詳しくは分からないんだ、恵里佳ちゃん全然話してくれなくて。でもきっと人間関係とかそういうのだと思う。あの子、昔の梓ちゃんにちょっとだけ似てるから」
「そっか」
梓が人間関係に悩む姿。それがどうにも久美子には想像がつかない。久美子の知る限りの佐々木梓という人物は、いつでも元気いっぱいでたくさんの友達に囲まれている、お喋り好きなごくふつうの女の子。彼女が今こうして強豪マーチング部の部長を務めているという事実でさえ、にわかには信じがたいと思えるほどだ。しかしあみかのこの様子からするに、彼女はそんな梓の過去を知り得ているみたいだった。立華に入学してからの梓に一体何があったというのだろう。ものすごく知りたい。
「もし良かったら、あとで恵里佳ちゃんにそれとなく聞いてみてくれるかな?」
「分かったよ。あみかちゃんが言うならそうする」
そういうのは割合得意だし、と気軽に久美子が返事をしたその途端、それまで笑顔だったあみかの形相が一瞬にして凍り付く。
「あみか、ちゃん?」
「え、ど、どうしたのあみかちゃん」
「梓ちゃんこそどうしたの、いつも私のこと呼び捨てにしてるのに」
しまった。互いの呼び名を間違えるとは、初歩的なミスをかましてしまった。焦る久美子にあみかは何か悪い物でも食べたのか、と言わんばかりの胡乱げな目つきを投げかけてくる。
「あ、いや、その。あみかの『恵里佳ちゃん』って呼び方にね、つられちゃったんだよ、つい」
慌てて場を取り繕ってみる。かなり苦しい言い訳なのは自分でも分かっていたが、こうするより他にない。それでもあみかの疑念はなかなか晴れなかったようで、彼女は隅々まで舐め尽くすように久美子の顔をじろじろと覗き込み続ける。もしバレたらどうしよう。そんな懸念がだらだらと、背中の辺りを滑り落ちる。
「あ、ほらほら、早く練習しに行こうよ。三年の私たちがいつまでもこうしてたら、後輩たちに示しつかないし」
「……まあ、いいけど。何だか今日の梓ちゃん、梓ちゃんじゃないみたい」
「はは、ソンナコトアルワケナイヨ」
「梓ちゃんも何かあったら、きちんと私に話してね」
未だ腑に落ちていないらしいあみかが、歪めた眉を戻さぬままくるりと振り向いた。久美子は黙したまま、校舎へと向かうあみかの後についていった。
一発目からやらかした。
久美子の胸中に渦巻いていたのは、そんな思いだけだった。
「おはようございます!」
着替えを済ませて中庭に出ると、既に準備を終えていた後輩たちがこちらに向かって一斉に頭を下げてきた。立華特有、体育会系顔負けの力強いあいさつ。それが以前からどうにも苦手で、しかし今は梓である以上、それにもちゃんと順応しなければならない。おはよう、と気持ち声を大きめに張って、久美子は後輩たちにあいさつを返す。
「大会も近いし練習頑張っていきましょう。今日は全員の動きをきっちり揃える意識で、初心に立ち返って基礎を確認していきます。それじゃ
「え、私?」
突然話を振られた志保がきょとんと困惑の眼差しを向けてくる。久美子はそれをあえて無視した。細かい練習指示は全て志保に任せること。それは、梓の組んだ作戦のひとつだった。
『志保に任せときゃ大丈夫だから。久美子は余計なことしないで、デンと構えて突っ立ってて』
果たしてそれで本当に大丈夫なのかは甚だ不安だったが、他ならぬ梓本人がそう言っているのだ。彼女を完璧に演じ切るためにはその言に従うしかない。ある意味では新人が先輩に教わった通りにするのと同じこと、と久美子は開き直りに近い心理でその場に立っていた。
「えーと、うー、それじゃ基礎の見直しって事で最初はマークタイムから。注意点は足の高さを揃えて姿勢をきちんと保つこと。特に顔をきちんと客席に向けましょう。お客さまはそういうところもしっかり見てます。それが出来たら次は――」
てきぱきと指示を出す志保の頼もしい姿を見て、久美子はこっそり安堵する。
「そこ、つま先からの入りが甘い。バレてないと思っても、外から見てると丸わかりだから」
「はい!」
「動かすのは足だけ、上半身はきっちり固定する。そんなんだとシング吹くときボロボロになるぞ」
「はい!」
「何度も言ってるけど、笑顔を忘れずに。練習から楽しくやれてないんだったら、本番じゃ絶対に楽しい演技なんてできないから。見てる人に『苦しそう』って思わせるようなのは、立華のパフォーマンスじゃないよ」
「はい!」
こうして見ている限り、立華の練習はスパルタに輪を掛けて厳しい。それに容赦なく揉まれ続け、休憩はおろか一分の間隙すらも与えられず動き続ける立華の後輩部員たちは、ほんの十数分のうちにすっかり汗だくになってしまっていた。いかに強豪立華の部員とは言え、彼らの中にはまだまだマーチングに不慣れな者もいるのだろう。何人かは姿勢を保つのもやっと、といった具合に顔色を青白くしている子さえもいる。
「こんなんでバテてたら本番のステージに上がれないよ。みんな何のために立華に来たの? ガンガン動いて踊って吹く、最高のパフォーマンスをする立華に憧れたんじゃない?」
「はい!」
「だったらこんなとこで一息ついてる暇なんてないから。三年間なんてあっという間だよ。来年にはみんなより上手い子も入ってくる。ただ練習してるだけでステージに立てるほど、立華は甘くない。そのことを忘れないでね」
「はい!」
練習においてはあのあみかですら、可愛らしい顔に似合わずきついことを言い放つ。それが立華なのだろう。この厳しさに耐えて耐えて耐え抜いたからこそ、志保もあみかもこうして立華の部員で居られるのだ。北宇治とはまた趣の異なる風景の一つずつが、久美子には少しばかり新鮮に映る。
「今の動き、全然できてないよ。今からちょっと見本見せるから、よく見てて。梓、
え? と久美子は虚を突かれる。隣にいた
「ほら、梓も早く」
「え、ああ、うん」
見本も何も、あんな動きなんていきなりできっこない。やばいどうしよう。ひとまず両手を顔の前に組んで楽器を構える時のように掲げ、同じくセットアップの体勢を取る三人を横目に真似つつ『気を付け』の姿勢を保つ。
「
志保の号令に合わせ、あみかも含めた四人は行進を開始する。最初の八歩まではまだ良いとして、ここからは立華特有のトリッキーな動きが待ち構えていた。ええい、ままよ。そんな心境に身を委ね、久美子は思い切りさっきまでの動きを真似てみる。
――ふうと息を吐き、それから久美子はおずおずと、部員達を見やった。全員、唖然とした表情のまま固まっている。それは一緒に動いていた志保たちも同様で、一様に頬を引きつらせたままで硬直していた。こうなることは分かっていたのに。久美子はもう泣きたい気分だった。
「えっ、と」
何かを言い淀む志保はしばらく硬直した。ふと我に返った彼女は何やら太一に耳打ちをして、それから「梓、ちょっと」と久美子のジャージの袖を掴んでくる。わかった。もういい。こうなったらいっそどうにでもしてくれ。
「ほ、ホラ、ボーっとすんな。気を取り直して、もう一回さっきのところやってみるぞー」
そんな太一の声をどこか遠くに感じながら、志保に引き回されるがまま、久美子は暗闇の中へと落ちていった。
「どうしたの梓。今日はちっとも梓らしくない」
陽の射さぬ校舎裏の壁際。そこに立たされた久美子の目の前は志保とあみかによって塞がれていて、つまり逃げ場は全く無かった。
「何とか言ったらどうなの」
ばん。こちらの回答を急かすように志保が壁に手をつき、そのあまりの迫力に、ひ、と情けない声が久美子の口洩れてしまう。それはますます志保の疑念を膨らませてしまったようだった。
「私も朝から思ってた。今日の梓ちゃん、なんかヘンだよ」
「いやぁ、そんなことは無いと思うけど……」
「ある。全っ然ある」
あみかすらも今は完全にこちらの挙動を不審がっている。あれこれ言い訳してどうにか回避を試みるも、二人の追及はなおも止まない。
「梓だったらあれぐらいのムーブ、完璧にこなすはずだよ。ふだんなら後輩の子らにももっとビシバシ言ってるし、見本の件だって自分から言い出す。なのに今日はただ黙って大人しくしてるだけだったでしょ。ぜったいおかしい」
「それに今日の梓ちゃん、なんか自信無さげっていうかおどおどしてるっていうか、そんなふうに見えるよ。いつもならもっと堂々としてるのに」
それがいちばん難しいんだってば、などという久美子の心の声は二人に届くはずもない。そうこうするうち「熱でもあんの?」と志保が額に手のひらを乗せてきた。
「……熱、ってわけじゃないか。それともどっか他に具合悪いとことか、怪我したとかある?」
「ううん、そういうのはなにも無いよ」
「ほんとに?」
「ホントホント」
こくこく、と首を縦に振ってみせても訝しげな志保の表情はいっこうに晴れない。とその時、ずい、と下から迫る何らかの圧力を久美子は感じた。そこにはあみかが居た。何? と久美子が問いかけてもあみかは答えず、ただ朝のときにそうしたようにただじいっと久美子の瞳、その奥底を覗き込むような仕草をしていた。どのくらいそうしていただろうか。いいかげん焦れ始めたその時、唐突にぽつりとあみかが一言をこぼす。
「梓ちゃんじゃない」
どきり、と心臓が大きくジャンプしたような心地さえした。さっきまでの疑念めいた言い方じゃない。いまのあみかの発言は、強い確信に彩られたものだ。
「あなた、梓ちゃんじゃない」
「ちょっとあみか、何言い出してるの」
「私には分かるよ。梓ちゃん――ううん、
「目つき?」
志保もまた目をすがめてじろじろと久美子の瞳を眺めてくる。目を逸らしたい。けれど今逸らしてしまったら、それはあみかの主張を認めるのとほぼ同義だ。明らかに分の悪い抵抗を、けれど久美子はひたすらに続けるしかなかった。
「目つきったって、私には全然分かんないけど」
「それに、感じるの。梓ちゃんっぽく振る舞ってるけど違うって、そんな感じ。元気がないとか悩みがあるとかじゃなくて、全然別の誰かみたいな」
久美子は明らかに驚愕していた。どうしてこの子はここまで的確に、自分が梓を偽っていると解るのだろう。例え自分の演技力がどれだけ拙かろうとも、少なくとも見た目は完璧に梓である以上、常識的に考えて「梓ではない」なんてあり得ないことだというのに。
「あなた、誰?」
そうとまで訊かれて、いよいよ久美子にはこれ以上ごまかし続けることなど不可能だった。ごめん梓ちゃん。心の中で手を合わせ、覚悟を決めた久美子は口を開いた。
「そっかぁ。さすがはあみかだな」
「もう完敗だったよ。なんであの子、あんな勘鋭いの」
「まあ、あみかとは色々あったし。それだけ私のことも分かってくれてるんだと思う」
宇治の街並みはうっすらと赤銅の輝きに包まれ始めている。その中を久美子と梓は二人、駅前のパン屋で調達したフランクデニッシュをかじりながら歩いていた。
「志保は、何か言ってた?」
「最初はびっくりしてたけど、でもあみかちゃんの話にある程度は納得したみたいで。今日の梓は調子悪かったってことにして後は上手くやっとくから、学校終わったらまっすぐ家に帰りなって」
「やっぱり志保は頼りになるなあ」
「それとあみかちゃんからは、『本物の梓ちゃんによろしく』だって」
その伝言にはさすがに梓も苦笑を浮かべるしかなかったようだ。あみかのやつ、完全に確信してるな。梓の表情に浮かぶ色はそういう心のメッセージをくっきりと反映していた。
「けっきょく立華のみんなに迷惑掛けちゃったし。こんなんだったら梓ちゃんのフリなんか、しなきゃ良かったよ」
「まあまあそう言わずに。ふだんと違うものが見れて、けっこう面白かったでしょ?」
「そりゃあ、まあ」
不承不承に久美子は頷く。北宇治にすっかり馴らされていた自分にとって、立華の外側ではなく内側から見たものが少なからず刺激になったことは否定できない。あのような雰囲気や慣習を北宇治に持ち込むつもりはさらさら無いにしろ、全国常連を当たり前のようにこなす彼らが日々どんな日常を送っているのか、どういう心構えでもって挑んでいるのか、それを内側の視点から知ることが出来たのはひとえに貴重な体験と言えるだろう。
「そういう梓ちゃんは、どうだったの?」
「私?」
んー、と梓は顎に手を当てしばし考え込む。彼女は久美子をうまく演じ切ってくれたのだろうか。その疑問に、しかし梓は答えず、彼女らしい笑みをにかりと浮かべて、
「楽しかったよ。北宇治のみんなのこと、内側からいろいろ見れて」
それなら良かったけど、と久美子は己の腕をじっと凝視する。肩から手首までをすっぽりと覆う水色の制服。二人はまだ、入れ替わったままだった。
昼休憩中、梓から送られてきたメッセージにはこう書かれてあった。
『今日はこっちも早く帰るから黄檗で合流して、そのあとこれからどうするか考えよう』
果たしてその文言通り、黄檗で梓と待ち合わせた久美子はそのまま梓の家へと戻って来ていた。中学三年の終わり頃にそれまでの住まいを離れて黄檗に引っ越した梓の新居に、まさかこういった形でおじゃますることになろうとは。少し複雑になりながらも、改めて久美子は家の中をしげしげと眺める。朝は動揺と憔悴のせいでよくよく確認するいとまも無かったのだが、こうして見てみると築数年の佐々木家の邸宅はかなり近代的な装いをしていて、本来の久美子の自宅とは異なる雰囲気とにおいに包まれていた。
「うちのお母さん、帰りは遅いから。ここなら二人でじっくり話せると思う」
そう言って梓は手早く靴を脱ぎ、さっさと奥へ歩いていく。自分の姿をした人間がそうしている光景は、なんというか、違和感がひどい。まるで勝手知ったる他人の家に我が物顔でドカドカ上がり込んでいるさまを録画で見せつけられているみたいだ。そんなことを思いつつ、久美子もそろりと居間へ入る。と、足元に何かが「ごすっ」とすり寄ってきた。
「うわっ」
見ると、白い毛玉のようなものが足にまとわりついている。何だこれは。そう思っているところに、キッチンから梓が戻ってきた。
「ただいまーウナギ。いい子にしてた?」
ウナギ、と呼ばれたその毛玉が梓の手に抱きかかえられる。きゃん、と吠えたウナギなるその物体は、良く良く観察してみるとどうやらマルチーズらしかった。
「うちで飼ってるの、ホントはおばあちゃん家の子なんだけど。驚かせてごめんね」
「ううん、大丈夫」
動物を飼っていない久美子にしたら、こうして犬を間近に見る機会もそうそうあるものではない。とくに犬に苦手意識があるわけでもないけれど、どう接したらいいか分からず困惑してしまう。と、ウナギが突然ばたばたと手足を暴れさせた。梓の手によってそっと床に置かれたウナギは再びこちらの足元にすり寄って、くんくんと甘い鳴き声を発し始めた。
「あらら、そっちに懐いちゃうか。まあ今は久美子の姿だもんね、私」
「だね。それに犬って鼻がいいっていうから、匂いで梓ちゃんだと思ってるんだよ、きっと」
「だとすると、あみかは犬よりハナが利くってことだね」
「それ、あみかちゃんが聞いたらさすがに怒ると思う」
あはは、と談笑しつつ、梓の勧めに従って久美子はリビングの一角に腰を下ろす。
「さて、それでこれからどうする?」
ソファにだらりと足を投げ出した梓の問い掛け。こうして見ると梓の、いや久美子自身のふとももはずいぶん滑らかで女性的な曲線を帯びているように感じられる。自分の目で見ている時はそんなこと、これっぽっちだって考えたりはしないのに。
「今日はともかく、もしもずっとこのままだったら私たち、どうなっちゃうのかな」
「それは困るよね。お互い大会ももうすぐだし、それにその後のことも」
「うん」
それまで快活だった梓の表情がうっすらと翳ったのが判る。それも仕方ない。お互い入れ替わったまま、というのは実質的に無理だ。そのことを久美子は今日一日でイヤというほど痛感した。梓が北宇治での一日をどう過ごしたかは分からないが、そんな彼女にしたっていつまでも久美子として過ごせるわけじゃないのは聞くまでも無いだろう。お互いに家族があり、友達があり、居場所があり、人生があるのだから。
「あーもーホント、どうしてこんなことになっちゃったんだろう」
今日何度目かも分からないその語句をまた吐いて、梓が勢いよくソファに仰け反る。事の原因。それさえ掴めれば、この状況を脱するヒントになるかも知れないのに。けれど漫画に良くある「頭をぶつけた」とか「雷に打たれた」とか、そんな事態に見舞われたわけでは全く無い。そもそもの話、入れ替わった相手がどうして梓だったのか。
「昨日神社行った時、私たちって何したっけ」
「何って、一緒にお参りしただけじゃない」
「だから、そのお参りのときに何かこう、罰当たりなことしたとか」
昨日の行動を思い返すように、梓がうーんと首を捻る。
「何も無かったと思うよ? ちゃんと手水でお清めしたし、お賽銭も入れたし」
「願掛けしたのがいけなかったとか。なんか神社のお参りって、『神さまありがとう』って気持ちを伝えるのが本来の目的らしいし」
「それ、どこ情報?」
「ネットで調べた。たぶん間違ってない……と思う」
「でもさ。それのせいだとして、じゃあ神さまのご機嫌損ねたからってばちが当たって体が入れ替わるなんて、そんなことあり得る?」
「分かんない、けど」
それ以上は久美子の口から出てこなかった。大体からして、起こっている現象そのものが自分たちの、いや現代科学の常識をとっくに超えているのだ。学力的には一介の高校生に過ぎぬ自分たちに原因の究明など出来ようはずもない。けれど自分と梓、二人を結ぶ接点になっているのが、昨日のうちにあった何かであることは間違いない筈なのだ。久美子にとっては唯一その一点だけが、残された希望と言える手掛かりだった。
「こうしてても埒が開かないし、昨日の神社に行ってもう一回お参りしてみない?」
「そうだなぁ」
腕組みをした梓はしばし考え込む。
「そうだね。とにかく出来ることは何でもやってみようか」
合意に至った二人はすぐに家を出て昨日の神社に向かい、そして二人なりに懸命に祈った。
『どうかお互い元の体に戻れますように』
果たしてその願いを神さまが聞き届けてくれるかどうかは分からない。特に手応えもないまま、今日のところはひとまず家に帰ろうということになり、久美子は家路に着く梓を朝霧橋のたもとで見送った。彼女が向かった先はもちろん久美子の家だ。そして久美子は久美子で京阪宇治駅から黄檗駅まで電車に揺られ、ついさっき梓の自宅に再び戻ったところであった。少なくとも今日は一晩、見慣れぬ互いの家で過ごすということになる。
『たぶんお母さんは寝るまでに帰って来ないと思うから、冷蔵庫のもの適当に食べてて。あと、ウナギのエサもお願いね』
そんな頼まれごとをこなすべく、久美子は「このへんにある」と梓に言われた食器棚や収納の辺りをしばらくがさごそと探っていた。ようやく見つけたドッグフードを専用の器に盛りつけてやると、ウナギは我を忘れたかのようにエサの山にかぶり付き、がつがつと荒々しい音を立て始める。
「ご主人様がこんなんじゃ、ウナギだって困っちゃうよねえ」
そんなことを言いながら柔らかそうな毛に覆われた背を撫でてやると、食事を中断したウナギがこちらに向かって「わん!」と甲高い返事をよこしてくれた。真っ白の中に埋もれかけた、オニキスのように真っ黒な二つの瞳。まるで何の悩みもなさそうなそのつぶらさに、久美子はついつい溜め息を洩らしてしまう。
「いっそ入れ替わったのがこの子だったら、何の悩みも無く一日ぐうたらするだけで良かったんだろうな」
そんな愚痴さえも口をついて出てしまう。とは言え実際、犬と人間が入れ替わったらそれはそれで大問題だ。こっちは確かにエサを食べて適当に暴れ回って昼寝でもしていればそれで済むかも知れないが、一方のウナギは中身が犬なだけに方々で何をしでかすかも分かったもんじゃない。ともすればそのへんの電柱に向かって突然四つん這いで片足を高々と上げる、なんて事さえも有り得る。その場合、運良く元の身体に戻れた翌日の自分が周囲からどのような目で見られるか。恐らくは戻れた事すら不運の極みと感じるに相違ない。
と、思索に耽る久美子のおなかが『ぐう』と悲鳴を上げた。さっきフランクデニッシュを一本たいらげたというのにずいぶん強欲なことだ。それともひょっとして、梓の体は久美子のそれよりも数段代謝が良いのかも知れない。あれだけ飛んだり跳ねたりするのが梓の日常だというなら、それもやむなしか。おもむろに立ち上がりキッチンへと向かう。いくつかメモ書きの貼られた冷蔵庫のドアを開けると、ちょうどそのど真ん中にはラップに包まれたお皿と、その上に一枚の紙切れとが置かれてあった。
『今日はオムライスとチキンサラダです。添え付けのスープはいつも通り戸棚にあるからそれも忘れずに。もうすぐ大会なんだしきちんと食べて栄養つけてね 母より』
流麗に走り書きされたそのメッセージに、久美子の胸はじんと熱くなる。梓の母の帰りが遅いのは今日に限った話ではないという。女手一つで梓を育てる彼女の母は、今朝も目覚めたときにはもう仕事に向かっていたようだった。そうしてすれ違いがちになってしまう娘との時間を、きっと母はこういう形で補っているのだろう。ここまで大切に想われている梓のことが、何だかちょっとだけ羨ましく思えてしまう。
梓母お手製の作り置きオムライスは、ハヤシライスソースをふんだんに使った高級感のある味わいだった。友人のご家庭でこれほどの味を堪能できるとは。ちょっと得をしたような気がして、ぺろりといただいた後のお皿を久美子は上機嫌で洗い上げる。ふと時計を見やると、時刻は深夜と言ってよい頃合いに差し掛かりつつあった。
「そろそろお風呂入って寝なきゃ」
朝が早いのは久美子であろうが梓であろうが同じだ。エサを食べきったウナギがソファの上ですぴすぴと鼻を鳴らし始めたのをそっと確認してから、久美子は着替えを取りに梓の部屋へと向かう。ばたばたと慌ただしい一日だったがそれももうすぐ終わる。せめて眠っている間ぐらい、梓になっている事も忘れてゆっくり休ませてもらおう。と、その時ふと、本当に何気なく、久美子は己の胸元へと視線を向けた。
これからお風呂に入る、ということは、つまり。
「……私、いまは梓ちゃん、なんだよね」
朝そうしたのと同じように、久美子は両の手で胸を鷲掴みにする。せっかくの機会なんだし、今夜はとことん『佐々木梓』を堪能させて貰うとしよう。そんな考えがむくむくと、久美子の中で鎌首をもたげていた。