光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集 作:ろっくLWK
Side:Azusa
梓がその事実に気が付いたのは、目覚めてからほどなくのことだった。
体が軽い。いつもの自分じゃないみたい。そう思って部屋の灯りをつけ、部屋の片隅に置かれた姿見を見た瞬間、梓は己の身に起きた事態を把握したのだった。
自分が、久美子に、なっている。
速まる動悸とは裏腹に、思考はやけに落ち着いていた。どうしてこんなことになっているかはさっぱり解らない。けれどまずは確認が先だ。しばし黙考し、梓の頭脳は比較的早くその解答に辿り着く。
「そっか。自分に電話掛ければいいじゃん」
辺りをきょろきょろと見渡した梓は枕元に置かれた携帯を見つける。自分のと違い、傷一つ無いと言えるほどていねいに扱われている久美子の携帯。ロックが掛かってないといいな。少し不安になりつつ画面を開くとあっさりメニュー画面が映し出される。
「この時間なら向こうも起きてるよね、きっと」
自分が久美子になっているのなら、自分であるはずの、その人物の中身は。根拠のない確信を抱きながら、梓は受話口の鳴らす呼び出し音にそっと耳を傾けた。
今日一日お互いのフリをして無難にやり過ごそう。その案を久美子に持ち掛けたのは梓からだったが、自信はそれなりにあった。
久美子とは中学の頃からの付き合いで、彼女のことは良く知っている。今日一日はそんな久美子らしく振る舞えばいい。ただそれだけのことだ。制服に着替え歯みがきを終えた梓は、洗面台の鏡を前ににっこりと微笑んでみる。あまり主張し過ぎない、控えめな笑顔。よし。ばっちりイメージ通りの久美子だ。チェックを終え、それから梓はひらひらと鏡の前で体を左右に振ってみる。
「やっぱりスタイル良いよなぁ、久美子って」
それは前から思っていた事だった。高すぎず低すぎない、理想的女子の身長。腰高で形良い脚線美。全体的に無駄のない肉付き。とりわけ胸の辺りに邪魔なものが一切ないことが、梓にとっては実に都合の良いことだった。
この体でマーチングが出来たら、ぜったい格好良いのに。
久美子が進学先に立華を選ばなかったことを少し勿体なく思いつつ、けれどこうしてのんびりしている暇はない。いまの自分は黄前久美子なのだ。ならば彼女らしく、違和感のないように、久美子を演じ切らなければならない。
「久美子、早く朝ご飯食べなさい」
リビングの向こうから響き渡ったその声色もその語句も、梓にとっては全くといっていいほど耳慣れないものだった。そうか、久美子の家にはこの時間でもこうして親が居るのか。そんな些細なことも、なんだかちょっぴり嬉しく感じられてしまう。
「はーい!」
元気良く返事をして、それからリビングへと向かう。いつもの自分と違う、別の誰かの一日。それを目前にした梓は、ほんの少しばかり浮き立っていた。
「おはよう、久美子」
「おはよ」
朝の京阪宇治駅で梓を待っていたのは、同じ中学の出身である
「いつもよりちょっと遅かったけど、何かあった?」
「あー、うん。ちょっと進路のことで、お母さんと話してて」
「そう。もう電車来てるから、行こ」
梓は頷き、先を歩き出した麗奈についていきながら、ぴんと伸びた彼女の背筋を後ろからまじまじと眺める。中学時代からトランペットに卓越していた彼女は、立華の推薦を蹴ってまで北宇治を進学先に選んだ。そしてその理由、つまり麗奈の動機が、梓には皆目見当もつかない。コンクールで全国にも出場するほどの強豪となった今の北宇治ならばまだ分かる。けれど自分たちが高校受験をした当時、北宇治は全国どころか府大会金賞すらほど遠い弱小校の地位に甘んじていた。そんな北宇治に一体どうして、麗奈はあえて進学することを決めたのか。それをつついてみたい衝動が、梓の喉の奥でちくちくと疼く。
電車の中に入ると、ほわりと温まった空気が二人を迎え入れてくれた。まだ秋の最中とは言え朝晩は冷え込みがきつい。ひょっとして暖房でも入れてるのかしらん、などと思いつつ、麗奈の座ったその隣へと梓も腰を下ろす。
「ところで、前から聞きたいと思ってたんだけどさ」
努めて久美子らしく振る舞うことを心掛けつつ、それとなく梓は麗奈に切り込みをかける。それは中学時代
「麗奈って、どうして北宇治に来ようと思ったの?」
「どうしてって、」
こちらを見る麗奈は明らかに変な顔をしていた。それを見て梓は、あ、と息を呑む。
「前に話したでしょ。久美子だって、ちゃんとわかってるくせに」
これは迂闊だった。あの麗奈と久美子が、まさかそんな突っ込んだ身の上話までするほどの関係性を構築していただなんて。中学時代の記憶と久美子の性格を考えて、それほど深掘りしていないだろう、と両者の交流度合いを見積もっていた自分の推察がまるっきり裏目に出てしまった。
麗奈の端正な眉が複雑な形にひそめられる。と、突然麗奈が自分に顔を近づけて来た。それも、互いの唇がくっついてしまいそうになるほどに。
「ちょ、麗奈。近いって」
「なんか今日の久美子ちょっとヘン。いつもならそういう話、こういうとこじゃしないのに」
「や、それはその、なんとなく……」
慌てて言い訳を探そうと必死になる梓。スンと小さく鼻を鳴らし、そして麗奈は顔を離した。
「まあ、いいけど。ところで久美子、こないだ相談した件なんだけど」
「相談? えと、どんな話だっけ」
「だから、デートのこと」
「ああ」
良かった、麗奈の関心が他に移ろってくれた。そのことに内心安堵した梓は同時に、そのせいで完全に油断してしまっていた。
「
「へえ」
これは梓にとっては衝撃的な事実だ。あの塚本秀一と麗奈が、まさか付き合っていようとは。もしかして麗奈が北宇治に進学したのも塚本を追ってのことだったのか? 彼の外見や人柄を考えれば有り得ない話じゃない、などと考えつつ、梓も久美子らしさを意識して話を合わせる。
「同じトコばっかだと飽きるよね、分かる分かる。たまに違うところの空気吸うのもいいと思う」
「久美子はどこか知ってる? 塚本といっしょに行ったら楽しそうなところ」
「そうだなあ。私だったら四条あたりまで出かけて楽器屋巡りがいいけど、でもそれだけだと退屈だよね。あ、今度木津川に新しく出来るっていうショッピングモールに行ってみるのはどう? 色んなお店があったらそれだけで見て回れば一日過ごせると思うし。それかちょっと足伸ばして枚方とか、」
「引っかかった」
そこで何故か、麗奈がくすりと妖しい笑みを浮かべた。どうしたの、と尋ねようとした刹那、梓は背中にぞわりと冷たい冷気のようなものが這い回るのを感じ取る。黒々しい髪の奥から覗く麗奈の瞳が、それまでとは違う鋭い色に染まっていた。
「久美子ならそんなこと言うわけない。あなた、誰?」
ぐさり、と胸を貫かれるような衝撃。余計な好奇心など無視すれば良かった。久美子を完璧に演じ切る。自信たっぷりだった梓のその計画は、開始からたったの数分で呆気なく破綻を迎えてしまった。
「……というわけで、信じられないと思うけど中身は佐々木梓なの」
「信じる信じないっていうか、久美子じゃないっていうのはすぐに分かったけど。でもまさか佐々木さんだなんて」
六地蔵で電車を降りてから学校までの道のり。そこを歩く間、梓は麗奈に事の次第を白状していた。こうなったからには隠し立てしたってしょうがない。それに麗奈のような人物は、敵に回すだけ損だ。だったらいっそ味方に付けてしまえばいい。梓の中にそういう打算が少しも無かったと言えば、きっと嘘になるだろう。
「どうしてそんなことになっちゃったの」
「それが全然。久美子も私も、思い当たることがひとつも無くて」
「何も無くてこんなことになるなんて、それが一番信じられないんだけど」
「私たちだってそうなんだって。朝気付いた時はホント焦ったし。っていうか、麗奈はなんで私が久美子じゃないって気付けたの?」
「うまく説明できないけど、確信持ったのは塚本の話振った時。あんな楽しそうに食いついたの見て、絶対久美子じゃないって分かった」
「へえ」
ということは、さっきの話を本物の久美子に振れば、彼女なら全然異なる反応を示したということだ。そんな久美子と秀一の関係は――類推するのもそう難しくはない。こう考えた梓はあえてそれ以上の追及を控える。
「それと、たまたま読んでた小説のおかげかな。お互いの中身が入れ替わるってやつ。そっちは男と女で入れ替わる話だったけど」
「そんなのあるんだ」
「佐々木さん、そういうの読まなそうだよね」
「全然読まない。小説って、文字ばっかりダーって並んでるでしょ? そういうの読んでると、頭くらくらしてきちゃって。現代文の授業だけでおなかいっぱいだよ」
わざとらしく胸に手を宛がってえずくような仕草をしてみせると、そういうとこ佐々木さんらしい、と麗奈は柔和に微笑んだ。端正な彼女の顔立ちがそういう形に緩むと、同性の梓ですらトクリと鼓動を乱されてしまいそうになる。
「親とかには話した?」
「話せるわけないよ。言ったって信じてもらえないし」
おたくの娘さんと自分が入れ替わっちゃいました、だなんて正直に話せば、別の意味で病院送りになるだろう。そうなればますます事を荒立ててしまう。お互い部に波風を立てぬよう、穏便に過ごすこと。これこそが自分と久美子の最も優先すべき課題であり、その真逆となる結果を招きかねない行動は極力避けるべきなのだ。
「そんなわけで、麗奈にも協力してもらえるとすっごく助かるんだけど」
「それは良いけど、でもすぐにバレると思う。私みたいな見破り方じゃないにしても」
「大丈夫だよ。麗奈はともかく、他の人には久美子っぽくしてればそれでいいんだから」
「でも佐々木さんの知ってる久美子って、中学までの久美子でしょ?」
「そうだけど」
「だったら、絶対バレると思う」
麗奈の言っている意味が、良く分からない。小首を傾げてみせた梓に、麗奈は苦笑とも呆れともつかぬ吐息を小さくこぼした。
「まあ、やるだけやってみたら? 私からはバラしたりしないし、出来る範囲で協力はする」
「ありがとう! やっぱ持つべきものは理解ある高坂麗奈だよ!」
感謝の念を込め、梓はぎゅうと麗奈の両手を握る。
「……やっぱり、絶対バレるよ」
「今のは素の私だから。校門を潜ったらちゃんと『黄前久美子』になってみせるって」
麗奈にこそバレてしまったが、言わば彼女はゲームのラスボス。それさえ味方につけてしまえば、あとは怖いものなんてない。そうと信じる梓は腰に手を当てフンと胸を張ってみせる。どうなることやら。そんなふうにもう一度ついた麗奈の溜め息は、色濃い秋の気配を含む虚空にスウと溶け失せたみたいだった。
すっかり忘れていたことが一つだけ、梓にはあった。久美子になって北宇治に行く。それはつまり、梓にとって因縁浅からぬあの子のすぐ傍で過ごすことになるというわけで。
授業中、そっと斜め前の席を見やる。明るい色に染め抜かれた、緩いウェーブのかかった長髪。華奢な体から放たれる独特の気配。頭を拳で支えるようにして、教師の退屈な授業を聞くでもなく聞いているらしいその女子生徒の背中に、梓の視線はずっと釘付けになっていた。
「それじゃ今日の日直は宿題をまとめて、後で職員室に持って来て」
授業が終わり、教師が教室を出ていく。ふうと息を抜く生徒たち。運の悪いことに本日日直だった久美子、つまり梓の目の前には、宿題をしたためた生徒たちのノートがうず高く積まれてゆく。
「これお願いね、黄前さん」
「うん、分かった」
そしてもう一人の日直である彼女の机にも同じように、たくさんのノートが置かれていた。それらを手際よく纏め、胸元に抱えるようにして立ち上がり、彼女がこちらへと振り返る。短く切り揃えた前髪は今日も丹念に整えられ、彼女の美麗な面立ちを強調するように額から耳の端へと添えられている。
「それじゃ行こうか、黄前さん」
「あ、うん」
自分の返事がどこかぎこちない。それもその筈、梓は彼女のことを良く知っていた。その上で、彼女にだけは絶対に自分のことを悟られるわけにはいかないと、明らかに警戒もしていた。
麗奈と同様に自分と同じ中学出身の彼女は、北宇治で唯一、梓が吹奏楽以外の接点を持っている友人だった。
職員室までの道のりがやけに遠く感じられる。それは果たして校内の構造を知らぬが故か、はたまたこの状況に相当以上の緊張を強いられているせいなのか。芹菜の少し後ろを、彼女に気取られない程度の距離感を保って、梓はおずおずとついて行った。
「そう言えばさ」
前を向いたままで、芹菜が突然話し掛けてきた。どうしたの、と笑顔で返そうとした自分の頬が引きつっているのが分かる。
「黄前さんって確か吹奏楽部だよね、
「え、うん。そうだけど」
「ってことは、佐々木のことも知ってる? 同じ中学の、佐々木梓」
来た。内心予想はしていたけれど、まさかこんなに早くこうなるとは。けれどそれに対する模範的解答を用意するだけの時間は、授業を受けている間にたっぷりとあった。芹菜に聞こえないぐらいの小さな咳払いをしてから、梓は頭の中に構築していた通りの返事をする。
「もちろん。梓ちゃんとは中学でも一緒に吹部やってたし。それがどうかしたの?」
「いや、大したことじゃないんだけどさ」
芹菜は相も変わらず前を向いたままで、まっすぐ歩き続けてくれている。それを密かに窺いながら、梓は細く長い吐息を漏らした。正直助かった。もしも面と向かって目を合わせなければならない状況だったら、芹菜は目の前の相手が梓であると気付いてしまうかも知れない。そのぐらいの勘の良さが彼女にはある。ふだんの梓にとっては特別な間柄と言える芹菜だが、だからこそ芹菜に自分の中の『梓』を悟られる可能性は、決して低いとは言えないのだ。
「今アイツ、立華の部長やってるじゃん。やっぱり北宇治の吹奏楽部も立華の大会の応援とかしに行ったりするの?」
「応援? んー、そういうのは特にないかな。お互いの学校の定期演奏会とかなら、聴きに行ったりすることもあるけどね」
「そうなんだ」
「それに、北宇治はマーチングの大会には参加しないから。立華の応援に行くとしたら家族とか、あとは特別仲の良い友達とか、じゃないかな」
「そうなんだ」
特別、か。芹菜がクスリと吐息を洩らしたのを、梓の耳ははっきり聞き取った。
「でもどうして、急にそんな事聞いたの?」
「なんか、自分でも良く分かんないんだけどさ」
そこで芹菜がするりとこちらを振り向く。互いの目線が合った一瞬、梓は思わずどきりとしてしまった。
「今日の黄前さん、いつもと雰囲気違うっていうか、話しやすい気がして」
「そ、そう?」
丁寧に手入れのされた睫毛を満足げに細め、それから芹菜は再び前を向く。二人の会話はそれきりだった。ごめん、芹菜。そのとき梓の胸中を占めていたのは、何故だかそんな思いだった。
「それじゃあ久美子ちゃん、今日も練習がんばりましょう!」
来たる放課後。部活の時間が始まって開口一番、明るい笑顔で元気良くそう告げて来たのは川島
だからこそ危うい。彼女もまた芹菜とは別の意味で、自分の正体を看破してしまう恐れがある。
トロンボーンならお手の物な梓だが、対してユーフォニアムはこれまでほとんど吹く機会が無かった。というより、ピストン楽器全般に詳しくない。率直に言って、ドレミの音階すらまともに吹けるか怪しいレベルだ。つまり梓が久美子になり切る上で、部で過ごすこの時間をいかにして乗り切るか、それが最大の壁なのである。
ケースから取り出したユーフォニアムは、予想以上にずしりと重たい。マウスピースこそトロンボーンのそれと似通ってはいるけれど、ふっと息を吹き込んでみた感じ、全然違う楽器であることがすぐに感じられた。後はどれだけ久美子みたいに吹けるか。マウスピースに口を付けたまま深く息を吸い込んで、それから梓は少し緊張しつつ唇を震わせる。――うん、まずまず綺麗な
「な、何?」
「黄前先輩、いつもと音が違いませんか」
チューバを抱えた高身長の女子が、恐る恐るといった様子で進言してくる。
「え、ウソ」
「久美子にしては、ちょっと音が強いかなーって」
遠慮がちにそう言ってきたのは、自分と同じ学年のチューバ担当である
「鳴りが強いっていうか、勝気な響きっていうか、ねえ」
「そうですね。良く通る音と言えば聞こえの良い表現ですが、あえて言わせてもらえれば、いくぶん音色が汚いと感じました」
「ちょっと奏ちゃん、そんなはっきり言わなくても、」
「こういうのは気付いた時にきちんと指摘するべきじゃない?」
奏、と呼ばれた後輩らしき女子は歯に衣着せぬ物言いで、チューバの小柄な女子からの窘めをいなす。
「ふだんの先輩でしたら、もっと柔らかくて澄んだ音色です。けれどさっきの音はずいぶんと荒れていて、まるで勢いに任せて吹いているように聞こえます」
ぐうう、と喉がひとりでに唸りを上げる。自分では綺麗な音のつもりでも、コンクールに専心する北宇治の生徒が聞くと今のですら荒れているように聴こえるのか。それは果たして部員たちの耳が相当に鍛えられているからなのか、それとも単に自分がユーフォをちゃんと鳴らせていなかったからなのか、どちらなのだろう。自分にとっての及第ラインが北宇治のそれに全然及んでいなかったという事実に、梓は軽く立ち眩みを覚えるほどのショックを受ける。
「もう少し整った音でしたら
意識も何も、そもそも黒江なる生徒のことなど頭の片隅にも無い。目の前の後輩が何のことを言っているのかも一向に分からず、さりとて迂闊に突っ込んでは朝の二の舞にもなりかねなかった。どうしたものかと迷った梓は、しかし瞬時に本来の目的を思い返す。どうするこうする、じゃない。基本はあくまで久美子らしく振る舞うことだ。
「奏ちゃんの言う通りだね。大会も近いことだし、ここでじっくり見直し掛けてみるよ。ってことでちょっと一人で吹いてくる」
曖昧な笑顔を浮かべ、そして梓はさらりとその場を離れる。その始終ずっと、奏からは冷ややかな視線を浴びせ掛けられていた。もしかして久美子、あの子に嫌われてるのかな。そんなことを考えつつも、ユーフォを抱える梓の足は、自ずと教室から最も遠くにある校舎裏へと向かっていた。
「――連絡は以上です。だいぶ冷え込みもきつくなって来たけど、大会本番も近付いてますし、体調を崩すことの無いようくれぐれも注意して下さい」
「はい」
どうにかこうにか部活での時間を切り抜け、梓はようやっと締めのあいさつにまで漕ぎつけていた。久美子を演じるのには苦労が多くとも、部長として振る舞う分には手慣れたものだ。今日はたまたま顧問の都合で合奏のない日だったらしく、それも梓にしてみれば僥倖と言うより他は無かった。平常より一時間ほど早く部としての活動時間を切り上げ、余ったその分は自由練習時間という事にして後は各自解散。そんな特別日程をごり押すことが出来たのも、麗奈の協力あったればこそである。
「練習もいよいよ大詰めだし、悔いのないように残りの練習時間を過ごしましょう。そして本番は絶対に、」
そこまで喋ったところで梓の口が固まる。それは突如として沸き上がった疑問のせいだった。久美子ならこういう時、なんて言うのだろう? 自分なら、立華部長としての佐々木梓なら、その答えは決まっている。
『全力マックスで楽しんで、最高の結果をもぎ取りましょう!』
けれどそれでは久美子らしくない。じゃあどうするのが久美子らしいのか。今この場に求められる部長としての久美子の姿が、梓のイメージには全くと言っていいほど浮かんでこなかった。いつも周囲の空気に溶け込むようにして、我を出さない姿勢を貫いて、そうやって吹部の一角に密やかに存在していた久美子。その久美子が、今は北宇治の部長を務めている。そんな彼女の『らしさ』などまるで想像の及ばぬ代物だ。今更のように、梓はその事に気付いてしまった。
絶対に、絶対に……。言葉を発さぬまま硬直する部長に、部員たちの訝しむ空気が次第に膨らんでいくのが判る。まずい。何かを言わないと。この際当てずっぽうでもいい。腹を括った梓が無理やりに口を開こうとした、その時。
「絶対に、全国金賞の目標を達成しましょう」
大きな声でそう告げたのは、いつの間にかトランペットの席から立ち上がった麗奈だった。そのあまりの唐突さに梓は勿論のこと、部員たちも一斉にそちらを見やる。
「部長の言いたかったのはそういう事だと思います。でしょ、久美子?」
「あ、うん、そう。麗奈の言う通り」
「北宇治の目標は春にみんなで誓った通り、全国で金を獲ることです。そのことはちゃんと頭に入れた上でみんな練習してきたと思う。だからこそ、これからの時間が正念場です。現状で満足せずに、今より少しでも良い音を目指すつもりで、残り僅かの時間を有効に使うようにしましょう。いい?」
「はい!」
麗奈の力強い鼓舞に、部員たちが一斉に返事をする。おかげでどうにか場がうまく収まってくれた。ありがとう、と梓は麗奈に目配せを送る。やれやれ、と席に着いた麗奈は『だから言ったでしょ』とでも言いたげな表情をこちらへ向けていた。
「ただいま」
「おかえり。今日はいつもより早いのね」
「たまにはね」
久美子と二度目の参拝を終え、梓は久美子の家へと帰って来た。リビングに入ると、そこでは朝と同じように久美子の母が夕食の支度をしてくれていた。食卓には既に久美子の父と思しき壮年の男性が座っている。皺の刻まれた顔に掛かった眼鏡の良く似合う人だ。物静かでそこはかとなく威厳を放つ、父親という存在。それを、梓はこれまでの人生で一度も感じたことが無かった。これが父親というものか。そんな不思議な感慨を抱きつつ、梓は椅子を引いて彼の対面へと座る。
何も喋らないこの時間が少しだけ窮屈で、息苦しい。そう感じ始めたその時だった。
「部活は、順調か」
父からの言葉はそれだけ。うん、と小さく返事をすると、ふむ、と父もまた小さな相槌を打った。
「大会ももうすぐなんだろ。今年は金賞獲れそうなのか」
「分かんない。けど、みんな今年こそはって頑張ってるし、私も金賞ならいいなって思ってる」
それは半分は、梓自身の言葉だった。今日の麗奈の発言然り、北宇治が全国金賞を悲願に自分たちを高め続けてきたことを、今の梓は良く知っている。きっと久美子もそうだったのだろう。だからこそ北宇治には、久美子には、最高の結果でもって報われて欲しい。その喜びと感激を、誰よりも自分がいちばん良く知っているから。
「そうか」
ずず、と父がおみそ汁をすする。一息ついてから、父は指で眼鏡の位置を直した。
「お前が自分で選んで三年間頑張ってきたことだ。結果がどうであれ、悔いを残さないようにな」
その言葉はとても固くて、不器用で、けれどとても温かかった。うん、と頷いたところで、父の隣に座った母親がこちらにご飯をよそった茶碗を差し伸べる。
「さあ、早くご飯にしましょう。体に気を付けて、本番頑張ってね」
「……ありがと」
作りたてのご飯。すぐ傍にいる家族。思いやりの言葉。その全てが、梓には沁み入るほど温かいものだった。
ぱちりと目を覚ます。部屋の中は真っ暗なままだった。うーんと大きく背伸びをしてベッドから立ち上がり、梓はいつもの感覚で部屋の灯りを点ける。そして姿見に、全身を晒した。
「戻ってる……」
鏡の中に映る自分は間違いなく、いつもの見慣れた佐々木梓そのものだ。部屋の光景もいつも通りだし、いくぶんばさついた黒髪も普段通りの自分のものだった。元に戻れた。どうしてそうなったか分からないのと同じように、どうして元に戻れたかも分からぬまま、梓は梓に戻れた。良かったあ。そのときの梓の心情を端的に述べるとこのような、安堵と解放の念にどぶ漬けにされた気分であったと言えるだろう。ひとしきり自己の確認を終えた梓はベッドに戻り、そこに置かれた携帯を手にする。落としたりぶつけたりであちこち傷みの激しい自分の携帯。それは久美子のものより数倍は手に良く馴染んだ。素早く画面を操作し目当ての相手をコールする。通話は、すぐにつながった。
「もしもし、久美子?」
『もしもし。梓ちゃん、だよね』
「うん」
『ということは、そっちも?』
「うん、ちゃんと戻ったみたい」
『良かったぁ。一時はどうなることかと思ったよ』
「ホントにね」
どうやらきちんとお互い元通りに戻れたらしい。今日になってまだ何もしていないというのに、どっと体から疲労感が噴き出る。勉強机の椅子にどかりと腰を下ろし行儀悪くベッドに足を投げ出して、梓は大きな溜め息をひとつ吐き出した。
『やっぱり、神さまの罰みたいなものだったのかな』
「どうだろ。でも何にしてもホッとしたよ。もし今日も入れ替わったままだったらどうしよう、って感じだったし」
『だね。あーでも、私はもう一日ぐらいだったら、梓ちゃんのままでも良かったかも』
「なんで?」
『それはまあ、なんとなくというか、私に無いものをたっぷり味わえたというか』
何それ、と笑いながら、梓はドアの向こうに目を遣る。きっと今頃、母はとっくに家を出て仕事に向かっているのだろう。梓も梓で今日も一日学校で練習漬けの時間を過ごし、家に帰ればウナギの出迎えを受けて、母の作り置きのご飯を食べて、一日の終わりにまたこのベッドで眠りに就く。それが自分の日常だ。そこにこうして帰って来れたことは、素直に嬉しい。けれど同時にどこか一抹の寂しさみたいなものがあることも、梓は密かに認識していた。
「私ももう一日、久美子してても良かったかなって思うよ」
『へ? 私に?』
「うん。ホントにもう一日だけなら、だけど」
『ふうん』
自分のこんな想いを、久美子が解することはきっと無いだろう。けれどそれは多分お互いさまなのだ。久美子が彼女に無いものを自分に求めるのと同じように、自分も自分に無いものを久美子に求めている。要するに、隣の芝生は何とやら、というやつだ。本当は自分にだって自分なりの芝生があるはずなのに。相手の芝生にいざ立ってみれば、その人なりの苦労や問題が沢山あるということに嫌でも気付かされるのに。そのことを昨日一日で、梓はこれ以上なく味わわされた。故に思う。わたしにはわたし以外の真似なんかできっこない、と。
「何にしても無事元に戻れたわけだし、これからはお互いの目標に向けて、全力で頑張らなくちゃ」
『だね』
「久美子も、頑張ってね」
『梓ちゃんもね』
「両方の大会終わったら、二人でこっそり打ち上げやろうよ。今回の騒動のさ」
『いいね、それ』
くすくすと笑い合い、そしてそこで通話が終わる。携帯を握りしめた梓の全身に、ぶるりと何かが漲った。
「頑張ろう、私らしく」
空はまだ真っ暗な帳に覆われている。けれどその遥か向こう側に、そのときの梓は確かに、大きく燃える輝きを見出していた。
(2019年9月21日発表作)