光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集   作:ろっくLWK

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十四.光に向かって、その手を伸ばす

 

 

 窓の外には膨らみ続ける入道雲。

 聞こえてくるのはかしましいセミたちの大合唱。

 ねっとりと身体にまとわりつくこの湿気。

 飛び交う熱風。噴き出る汗。歪む風景。

 これが、日本の夏である。

「あづーい」

 ぐあー、と机に突っ伏すようにしながら、久美子(くみこ)はこの暑さを心底呪っていた。

「もうちょっと涼しい時期に産んでくれても良かったのになぁ」

「何の話?」

 そんな自分を覗き込むように葉月が声を掛けてくる。何でもない、と気だるく返事をして、久美子はもう一度起き上がった。

 関西大会が目前に迫る中、我らが北宇治吹奏楽部は今日も練習漬けの日々を送っていた。お盆もとっくに過ぎ去り暦の上では立秋どころか処暑も近付く今日この頃。秋が立つ、と書いて立秋。だのに、教室の壁に掛けられた気温計は本日も猛暑日の値をやすやすと突破してしまっている。おかげでクーラーもない教室でのパート練習の時間は、さながら地獄絵図と化していた。

「暑い日に外で過ごすのもキツいけどさー、こうやって建物の中にいるのも何か、クるわぁ」

「分かりますそれ。蒸し焼きにされてる気分っていうか」

 久美子と同じく机の上でぐったりしている夏紀に葉月が同意を示す。教員室から借りてきた扇風機はぶんぶんと首を振って部員たちに涼風を届けようと頑張ってくれてはいるのだが、いかんせん元々の気温が高いこの状況ではほとんどドライヤーと変わりない。午前の練習も一区切りし今はお昼休憩の時間帯なのであるが、茹だるようなこの暑さのせいで他の部員たちもなかなか食事を取る気力が湧いてこないらしかった。現に卓也はさっきからタオルで顔を拭ってばかりだし、梨子とさつきなど言葉もなくグビグビと水筒を(あお)るのに一生懸命になっている。

「久美子ちゃん」

「んあ」

 ちょんちょん、と肩の辺りをつつかれて、久美子はへたり顔でそちらを見やる。白いテーピングでガチガチに固められた可愛らしい人差し指。その持ち主は誰あろう、弾ける笑顔を称えた緑輝(さふぁいあ)その人だ。

「十七歳のお誕生日、おめでとうございます!」

「ふぇ? あぁ、えと、ありがと」

 不意を突かれたもので、久美子の反応もなんだかぎこちないものになってしまう。一応各々の誕生日はパート内の共有情報となってはいるのだが、それにしてもまさか、この場の全員が熱中症でKO一歩手前というこのタイミングで祝いの言葉をいただくことになるとは思ってもみなかった。

「ホントは練習終わってからにするつもりだったんですけど、今のうちの方が逆にいいかなと思いまして」

「だねぇ。この分だと、午後にはお祝いする気力も残ってなさそうだし」

 梨子の言い分に「なるほど」と久美子は思わされる。確かに自分が皆の立場だったとしたら、申し訳ないが今日は誕生日祝いなんて放っておいてさっさと家に帰り、じっくり小一時間は水風呂にでも浸かりたいところだ。形はどうあれこんな日に祝って貰えるだけ、自分はまだマシな方だと言えるだろう。

「というわけで、ハイ、これは低音パート全員から久美子ちゃんへのお誕生日プレゼント」

 がさごそと梨子がスクール鞄に手を突っ込む。取り出されたのは、きれいなラッピングを施されたピンク色のギフトバッグだ。

「ありがとうございます。さっそくですけど、開けてみてもいいですか?」

 どうぞ、と梨子から承諾を得た久美子が包みをシュルシュルと解くと、中に入っていたのはたくさんのスナックやビスケットといったお菓子と、一枚のメッセージカードだった。

『黄前久美子ちゃんへ お誕生日おめでとう これからもずっとよろしくね』

 そんな主文の周りには、パートメンバーそれぞれの筆致で一言ずつが添えられている。久美子の胸はじんと熱くなった。他のメンバーの誕生日にも同じものを贈っているとは言え、いざこうして自分が受け取る側になってみると、やはり嬉しく感じるものである。

「おめでとう!」

「おめでとうございます!」

 続けて梨子や卓也、美玲やさつきらが祝詞と共に大きな拍手を送ってくれる。ややめんどくさそうに手を叩くフリだけをしている求のことは、この際放っておくとしよう。

「それと、これは私からの個人的なプレゼントね」

 こちらに近付いてきた夏紀が、ぱん、と久美子の目の前に平手を置いた。退けられた手の下にあったものはとても小さな目玉焼き。半透明の膜に覆われた黄身や、カリっと焦げ目がつくまで焼き上げられた縁、そして気泡によって出来たクレーターと、どこをどう見ても本物としか思えない出来栄えだ。

「これ、食品サンプルってやつですか?」

「よく知ってるね」

 感心した面持ちで、夏紀が久美子を見やる。

「これはそのカプセルトイ版らしくてさ。他にもローストチキンとかスパゲティとか色々あったんだけど、きっと目玉焼きの方が喜ぶだろうなーって思って。コレ出すまでけっこう粘ったんだよ」

 へー、と言いながらさつきと美玲がこちらに近付いてくる。

「みっちゃんみっちゃん、この黄身、つついたら破れそうだよ」

「こら、さつき。プレゼントなんだからあんまり触ったらダメ」

 指先でグニグニと目玉焼きをいじるさつきを美玲がすかさず窘めた。こうして見ていると春の頃が嘘のように、今の美玲はすっかりさつきの保護者みたいな按配だ。もっとも美玲本人にはそんなこと、口が裂けたって言うつもりはないけれど。

「ありがとうございます。授業中、おなかが減ったらこれ見て凌ぎます」

「それ、ますますお腹減っちゃうやつじゃないの?」

 からからと笑いながら夏紀が元の席に戻る。では次に、と恭しい態度で躍り出たのは奏だった。ていねいなお辞儀に合わせ、艶っけのある彼女のショートボブが久美子の目の前でひらりと翻る。

「私からのプレゼントはこちらです。先輩のお気に召すものをと思いまして、数ある候補の中から一生懸命選びました」

 そう告げると共に奏の背中から登場したプレゼントの包みはやけに大きく豪奢で、袋から取り出すと紫色の箱、その中にはまた白色のギフトボックス、というふうに何重にも巡らされていた。そして一つまた一つ開封する度、箱のサイズはだんだん小さくなっていく。

「マトリョーシカ?」

「まあまあ、最後まで開けてみて下さい」

 なにか釈然としない思いを抱きつつも、奏の勧めに従い久美子は包みを開いていく。最後の箱に手を突っ込んだ瞬間、かつん、と爪が硬いものにぶつかる感触がした。

「陶器、の――、なにこれ、タヌキの置物?」

 それはお土産などでよく見かける、笠を被ってでっぷりと肥えた陶器製のタヌキみたいだった。何故こんなものを、と久美子が首を傾げるよりも早く「裏側をご覧ください」と奏が水を向けてくる。言われるままにくるりとタヌキを裏返すと、そこには細長に切り取られた長さ数センチほどの穴が一つ。この形状、なんだか見覚えがある。

「ひょっとして、貯金箱?」

「ご名答です」

 プレゼントの正体が分かると、いよいよもって奏がこれをチョイスした意図が見えなくなってくる。貯金箱のプレゼントはまだ良いとして、それがタヌキを象ったものである理由が久美子にはサッパリ掴めない。

「全体的な雰囲気が久美子先輩にそっくりだなあと思いまして。本当はキツネ型の貯金箱もあってどちらにするか迷ったのですが、先輩ならきっとこちらをお気に召して下さると直感したので、確信をもってタヌキにしました」

「へえ」

 これがねえ。

 心の中でそう毒づきながら、久美子は胡乱げな目つきでタヌキを睨んでみる。間の抜けたタヌキの眼球はべっとりとした闇色に塗り潰されていて底が窺い知れない。大人しそうでいてふてぶてしくもあるその佇まい。貯金箱でもあるこのタヌキは、いかにも腹に一物を抱えているといった雰囲気に満ち満ちていた。一体これのどこが自分にそっくりだというのか。今度なにかの折に奏をじっくり問い詰めてみる必要がありそうだ。

「そういうわけですので、キツネのほうはいつの日か夏紀先輩に献上したいと思っています」

「ちょい待ち。奏、なんでそこで私がキツネになるわけ?」

「おやおや。ユーフォの先輩方は、どちらもご自身のことに自覚がないようで」

 口元に手を当てた奏が「ぷふ、」と揶揄するような含み笑いを洩らす。その奥でふんふん、と緑輝が鼻を鳴らしながら何度も頷く姿が久美子の視界をよぎった。

「だいたい、黄前ちゃんがタヌキで私がキツネだってんなら奏は何なのさ」

「私ですか? そうですね、愛らしい容姿と人懐っこさであまねく人の寵愛を受ける品格の高い飼い猫、さながらサイベリアン、といったところでしょうか」

「あーなるほど? 確かに奏、ネコ被るのうまいもんね」

 夏紀の即妙な返しに、奏を除く場の全員が「ぶっ」と噴く。

「誰もそんな話はしてませんよ! そうやって化かすみたいにすぐ話をすり替えようとするところとか、ますますキツネっぽいですね」

「ほらほらぁ、余裕が無くなった途端にメッキ剥がれちゃってるぞ? 本性は気が荒いトコとかも猫そっくりだよ奏クン」

「ですから!」

 顔を真っ赤にした奏がなおも夏紀にしつこく絡む。あっちももう放っておこう。同じことを葉月も考えたのか、じゃー気を取り直して、と前置きをして彼女は少々小ぶりなプレゼントの包みを差し出してきた。

「私からはコレ。久美子、どんなのが好きかなーって思ってアレコレ考えたけどさっぱり分かんなかったからさ、最後は自分の好みで決めちゃった。ゴメンね」

「ううん、嬉しいよ。早速開けてみてもいい?」

「もちろん!」

 景気良く頷きを返す葉月に応え、包みを開く――と、そこにあったのは、真っ赤なリストバンド。表面にあしらわれたスポーツブランドのロゴは、久美子も良く知っている著名なものだ。

「どう? 気に入った?」

「あぁ、うん、すごく。ありがとう」

「どういたしまして!」

 良かったー、と喜びいっぱいに溢れる葉月を尻目に、これいつ着けたらいいんだろう、と久美子は考え込んでしまう。正直言えば自分の趣味には全然合致していない。でもせっかく貰ったものだし、とりあえずは大事に部屋に飾っておこう。そのうち何かの機会にコレの出番が来る日もある、かも、知れない。

「それでは続きまして、緑から久美子ちゃんへのプレゼントは――こちらです!」

「うわっ。緑ちゃん、なにそのでっかい包み」

 緑輝が教室の外から抱えてきたのは、彼女の身長とほぼほぼ同じサイズの、それはそれは大きな包みだった。一体どうやってこんなものを学校に持ち込んだのか。沸き上がる疑問は目の前の緑輝に「早く早く」と追い立てられ、久美子は黙ってびりびりと、ラッピング紙で厳重に施された封を毟ることを余儀なくされてしまう。

「……なに? これ」

 それはとても大きなイグアナのぬいぐるみだった。このデザインや形状にはどこか既視感がある。確か、以前遊びに行ったとき彼女の部屋に置かれていたものと、これはたぶん同じものだ。

「プレゼント用にもう一つ買っちゃいました。緑とおそろいですから、大事にしてくださいね」

「あ、はぁ。で、これどうやって持ち帰れば……」

「抱き締めて連れて行ってください。ふかふかで気持ちいいですよ」

「いや、そんなことは聞いてないんだけど」

 そもそもじっくり考えるまでもなく、こんなバカでかいものをぎゅうと抱き締めながら電車に乗っている姿は明らかに不審者のそれそのものだ。かと言ってこれほど目立つぬいぐるみを学校に置いておくわけにもいかない。考えるだけで頭がくらくらしてくる。それもこれも全部暑さのせいだ。そんなふうに責任転嫁を決め込んだとき、

「おめでとう、黄前」

 ぼそりと卓也がそう告げた。ありがとうございます。殊勝に頭を下げたのは、感謝の気持ちというよりは、なんだかこの状況に疲れ果ててしまったからだった。

 

 

 

 時間をかけてようやくお弁当をかき込んだ低音パートの一同は、午後の練習開始までの残り時間で思い思いのひと時を過ごしていた。久美子は基本、何か用事でもない限りはこの時間を葉月と緑輝の三人で過ごすことにしている。たまに麗奈が加わったり自分が自主練で抜けたりすることもあるのだが、今日みたいに暑い日はただでさえ体力も集中力も削がれまくりだ。本番も近いのだし、たまにはゆっくり休息しないと身が持たない。

「見て下さい。久美子ちゃんの誕生日、いろいろ調べてみたんですよ」

 さっきまで携帯をいじっていた緑輝がこちらに画面を向けてくる。八月二十一日。くっきりと記されたその日付は間違いなく自分の誕生日を示すものだ。

「まずですね、同じ誕生日の著名人は……タレントの稲川淳二さん」

「稲川淳二って、あの怪談の人?」

 コワイナーコワイナー、と隣にいた葉月のしゃがれ声。その物真似があまりに似ていたもので、そっくり過ぎ、と久美子は苦笑してしまった。

「それとカウント・ベイシーも同じ誕生日ですね」

「カウント・ベイシー? 誰それ?」

 葉月は目をまんまるに見開いてその名を復唱する。ベイシーはですね、と画面内の項目をタップしリンクを開いてから、緑輝は続けた。

「一九三〇年代からアメリカで活躍していたジャズピアニストです。ベイシー自身ピアノの演奏技術も素晴らしかったんですけど、ビッグバンドという大人数でのアンサンブル形態を組んで色んな曲やアルバムを発表したりもしています。有名なところでは『エイプリル・イン・パリ』という曲なんかがそうですね」

「へぇー」

 流暢な緑輝の説明は、回を重ねるごとにどんどん洗練されているみたいだった。そういうところにもあすかの存在感がまだ息づいているみたいで、久美子の頬は自然と緩んでしまう。

「他にもステキなジャズの曲がたくさんあるので、葉月ちゃんもぜひ一度聴いてみて下さい。久美子ちゃんはベイシーの曲の中ではどれが好きですか?」

「んー、私はあんまりジャズ知らないからなぁ。どっちかって言えば詳しいのは、しゅ」

「しゅ?」

「しゅっ、」

 やばい。うっかり葉月の前でその名を出してしまうところだった。とは言えすでに開きかけた口を閉じることも叶わず、どうやって誤魔化そう、と久美子の脳は急速にフル回転を始める。

「しゅ、シューベルトとかね、あっちの方」

「あっちって、ヨーロッパの方?」

「そう! そっちの方!」

 葉月がうまいこと乗っかってくれたおかげで、どうにか軌道修正を図ることが出来た。そして更なる深入りをされる前に、と久美子は先手を打つ。

「それで緑ちゃん、ほかに誕生日が同じ人っているの?」

「あ、はい。えっと、他にも何名かいらっしゃるんですけど――あ、この『田井中(たいなか)(りつ)』さんっていうドラム奏者の方も同じ誕生日ですね。久美子ちゃんは知ってます?」

「ううん、知らない」

「私も、初めて聞いた」

 覚えのない名に全員が首を振る。リンクを辿って調べてみるにけっこうな有名バンドの奏者ではあるらしかったが、いかんせん同じ音楽畑でも吹奏楽とガールズバンドはちょっと領分を異にするものであり、したがって久美子たちの耳目に触れたことのない人物だった。

「同じ誕生日の人はこんなところですかね。じゃあ次に、久美子ちゃんの誕生花ですけど」

 緑輝の手が携帯の画面を遷移させていった。

「久美子ちゃんの誕生花、誕生花は……と、」

「うん」

「ありました。これによると八月二十一日の誕生花は、サボテン、ですね」

「サボテン、」

 あまりに意外な名前が出てきたせいで、久美子は思わず緑輝の言葉をおうむ返しにしてしまう。サボテンに花なんてあったっけ。等とぼやく久美子に「ありますよ!」と緑輝が少し強めの口調で返してきた。

「品種によっても違いますけど、サボテンの花は一年に一回だけ咲くとか、いくつもの条件が成立して初めて咲いてくれるとか、いろんなことが言われています。咲いているのを見ることが出来たら奇跡という人もいるぐらいです。サボテンはその生育環境もあって、花言葉にも『燃える心』『情熱』『暖かい心』それに『内気な乙女』などがありますね」

「ほえー、けっこうレアなんじゃん。そんなのが誕生花ってちょっと羨ましいかも」

 こういうのに羨ましいとかあるんだろうか、と久美子は葉月の言に失笑を返す。そんな葉月の誕生日のときには「すごいです葉月ちゃん、この花言葉は葉月ちゃんにぴったりですよ!」なんて緑輝が騒いでいた覚えもあるのだが、日付ぐらいならともかく誕生花や花言葉までは流石にちょっと覚えていない。それからすれば『サボテン』という一般的知名度の高い植物が誕生花であることは、どマイナーであるよりは幾らかマシ、とも言えるだろうか。

「にしても『燃える心』かぁ。なんか最近の久美子にぴったりって感じだね」

「そう、かなぁ」

「『暖かい心』とかもすごく久美子ちゃんっぽいって思いますよ」

「なんか照れる」

「それにサボテンって刺さると痛いですし」

「ん、今なんて?」

「何でもないです」

 笑顔を保つ緑輝がふりふりと首を振った。今の一言、ちょっと引っかかる物言いのように思えたのは、果たして自分の気のせいだったのだろうか? と久美子は眉根をひそめる。

「そう言えばさ、久美子って家でもサボテン育ててるんだっけ」

「ああ、あれはユーフォルビアだよ」

「そのユーフォルビアとさ、サボテンって何がどう違うの?」

「……さあ」

 そんな違いなど、今まで深く考えたことも無かった。サボテンの一種か近縁種ぐらいにしか思っていなかったし、そういう認識で大きく間違ってはいないだろう。そもそもユーフォルビアを育てているのだって、名前がユーフォニアムに似ていたからという、せいぜいそのぐらいの動機でしかないのだ。

「そっか。まあキッカケなんて色々だよね。ところで緑、他に誕生日関係のうんちくって何かあるの?」

「まだまだありますよ。同じ誕生日の有名人、誕生花とくれば、ズバリ欠かせないのが誕生石です!」

 緑輝がまたまた携帯の画面操作に指を走らせる。さっさっさ、と軽快なその手捌きはいくぶん得意気な緑の表情ともあいまって、まるで高名な楽団の指揮者を見ている時のような気分にさせられた。

「こっちも色々あるみたいですけど、緑がいちばん久美子ちゃんらしいって思うのはこれですね」

 次に緑輝に示されたものは、淡い緑色を湛えた鉱石の画像だった。

「これは?」

「ペリドットです。カンラン石、というものの中で宝石として扱われるものがペリドットって言われるらしいんですけど、夜の灯りでも緑色に輝いていることから『夜会のエメラルド』という異名もあるそうですよ」

「へぇ」

「宝石や鉱石にも花といっしょで石言葉というのがありまして、ペリドットの石言葉は『幸せ』『夫婦間の愛』『和合』『平和』『豊穣』。特に『和合』っていうのは久美子ちゃんにピッタリだと思います」

「なんか、良く分かんない」

 あまり美辞麗句ばかり並べられると体がむず痒くなってくる。その一方で、葉月はそれとは別のものに着目しているみたいだった。

「このペリドットってさ、緑色に輝く宝石、なんだよね」

「そうですけど?」

「もしかしてさ、緑の『緑輝』って名前の読み方って、ほんとうは――」

「あー! やめてください!!」

 名前イジリに発展しそうになったのをすかさず察知して、緑輝がぶんぶんと制止の両手を振る。そこに気付くとはさすが葉月、と久美子は心の中でそっとほくそ笑んだ。

「あと、実はもう一つ誕生石がありまして。『ジェット』っていうんですけど」

「ジェット?」

「これが実物の写真です」

 緑輝に提示されたその石の画像は、なんだか真っ黒に塗りたくった真珠のような不思議な風体の石だった。横に並ぶ画像を巡ってみると、一つひとつの粒が文字通り数珠つなぎになっているものもあったりして、なんとなく異様な雰囲気がある。

「なんか、宝石っていう感じ、あんまりしないね」

「ですね。ここに書いてありますけど、このジェットという石は元々石だったんじゃなくて、樹木が化石化したもの、みたいです」

「えぇ、じゃあ元々は木だったってこと?」

「だと思います」

 葉月に首肯し、そして緑輝はさらにページを繰る。

「ジェットの石言葉は『忘却』『動揺の沈静化』だそうです。その昔イギリスの女王が夫の喪に服した時に身に付けていた、とあるので、きっとそういうイメージがあるんだと思うんですけど」

「なんか、ちょっと暗い感じするね」

「でも悲しみをじっくりと受け止めて落ち着かせるっていうのは、なんとなく久美子って感じするなぁ」

「うーん。自分ではちょっと分かんない、かな」

 ただ、控えめに艶を放つその球体にはちょっとだけ心惹かれるところもあった。ペリドットとジェット。二つの石のうち、自分により近いのは果たしてどっちだろう。そんなふうに、久美子は己をそれぞれの輝きに重ねてみる。

「そろそろ午後練、始めるぞ」

 その思考は卓也の宣言によってあっさりと寸断された。あとで家に帰ってから検索してみるか。そう思いながら、久美子は自分のユーフォが待つ席へと向かっていった。

 

 

 

 

「それじゃ黄前ちゃん、関西大会に向けてラストスパート、がんばろうね」

 お疲れ様でした、と夏紀に別れのあいさつを告げて久美子は玄関へと向かう。一日の練習が終わる頃には昼間の暑気もいくぶん和らぎ始めていた。とは言え、練習中絶え間なく噴き出続けた汗のせいで全身すっかりべとべとだ。早いところ家に帰ってシャワー浴びたい、と考えながら廊下を歩いていたその時、「おう」と背後から掛けられたその声を久美子の耳は敏感に聞き取った。

「秀一」

「良かった、帰る前に会えて」

 秀一は額に汗を垂らしながらぜいぜいと息を切らしている。この分だとここに至るまでにかなり長い距離を駆けずり回っていたのだろう。どうしたの、と尋ねるより先に、秀一は久美子の手首をぎゅっと掴んできた。

「ちょ、なに、いきなり」

「これ、渡したくて」

 息を継ぎながら、熱のこもった秀一の手が自分の手に何かを押し付ける。可愛らしいラッピングに包まれた、手の平大の小さな箱。もしかしなくても、それは秀一から自分への誕生日プレゼントだった。

「あ、ありがと」

「良かったぁー。学校中走り回って探した甲斐があったよ」

 それで秀一はこんなに汗だくになっていたのか。そう思ったとき、心臓がどくんと大きく跳ねたのが解った。

「悪いんだけど、俺、今日は塾の夏期講習あってさ。夜会えるか分かんなかったから、それで今、渡した」

「あ、うん」

「もし早く終われたら、あとで連絡してもいいか?」

「べつに、良いけど」

 ぶっきらぼうに返事をすると、それまで申し訳なさそうだった秀一の顔色がぱあっと明るくなる。

「じゃあ今日はこれで。あ、中身は開けていいからな。帰り気を付けろよ」

「秀一もね。……連絡、待ってる」

「おう」

 少しはにかみながら、けれど名残惜しそうに、秀一がゆっくりと背を向ける。手の中の包みを握りしめたまま久美子はしばらくの間、遠のく秀一をただじっと見送っていた。

 階段を降りながら、秀一から渡されたプレゼントを開けてみる。彼の見繕った品は一枚のハンカチ。それも縁取りに様々な楽器のシルエットがあしらわれてある。そう言えば、と久美子はつい先日、いつものように近所の公園で交わしていた秀一とのやり取りを思い返していた。

『お前ってさ、マッピ洗ったあとに拭くときっていつも何で拭いてる?』

『え? べつにハンカチとかタオルとか、そんなのだけど』

『そうか』

 その時はやにわに変なことを尋ねてくるものだ、と久美子はほんの少し訝しがるばかりだった。今にして思えばあれは、秀一が自分へのプレゼントを決めるために入れていた一種の探りだったのだろう。けれど秀一にしては珍しく、選択を誤った。

 せっかく贈ってもらったのに、このプレゼントは使えない。

 だって、もったいないじゃん。

 そんなふうにひとりごちながら、階段を降り切った久美子は玄関へと向かう。ところで昼間に緑輝からもらった特大イグアナぬいぐるみなのだが、あれは今夜一晩学校のロッカーに泊まってもらうことにした。下手に持って帰ろうとするより明日辺りにでも親の助力を得て搬送した方が良い。夕方近くになってようやくまとまったその判断は、我ながら間違ってはいないはずだ。

 などと今日明日の算段を立てつつ靴棚のところで外履きを突っかけ、表へと出ようとした、ちょうどその時。

「久美子」

 凛とした声に呼び止められる。その声色はいつだって、久美子を湧き立たせる。

「麗奈」

 振り向いた先にはやはりというべきか、麗奈が居た。いつも通り自前のトランペットケースを携える彼女もまた途に就こうとしていたのだろう。

「いま帰り?」

「うん」

「じゃあ、いっしょに帰ろ」

「もちろん」

 そんな短いやり取りがお互い通じ合っている事の証拠みたいに思えて、なんだか気持ち良い。いつものように部活のこと、宿題のこと、家庭の事などをつらつらと話しながら、二人の足は六地蔵駅を経て電車に乗り、十分少々を経て京阪宇治駅のホームへと降り立つ。まだ気温がずいぶん高いとは言え、日暮れの時刻はとうに過ぎているみたいで、西の空に沈んだ太陽の残滓は薄くたなびく雲を僅かに焦がすばかりだった。

 言葉少なに駅前広場を歩いていき、宇治橋東詰の横断歩道を渡る。ここから麗奈の家は左側の山裾に展開する住宅地、久美子の家は右側の橋を渡った先にある。ちょうどその分岐点に差し掛かったところで、美しい輪郭を保った麗奈の足がぴたりと止まった。

「どうしたの?」

 こちらの問い掛けに、麗奈はしばし押し黙ったままだ。何かあったの? と麗奈の顔色を覗こうとした久美子に向かって、麗奈は唐突にこう告げた。

「楽器吹きたい」

 は? と久美子の口から間の抜けた声が洩れ出る。

「いや、さっきまで散々吹いてたんだし、麗奈だったら家で吹けるじゃん」

「そういうんじゃなくて」

 まるで幼な子がいやいやをするときみたいに、麗奈はかぶりを振る。

「あっち、行こう」

 麗奈が指で示した先。それは、久美子の家のある方角だった。

 

 

 

 

 結局のところ、どうして麗奈がこんな場所で楽器を吹きたいと言い出したのか全く分からぬまま、久美子は麗奈に導かれるまま彼女の後についていくしか無かった。そうして辿り着いた先は久美子にとってはお馴染みの、木製ベンチの置かれた河原。目の前では宇治川がさらさらと、夏の濃い気配を下流へと押し流すみたいにして涼やかな音を立てている。

 ケースを地べたに置いた麗奈はそこから金色のトランペットを引き出す。いつもぴかぴかに整えられた彼女自慢の愛器。マウスピースを差し込み、ふっと軽く息を吹き込んだ後、麗奈は肩慣らしとばかりに複雑なフレーズを鮮やかに吹いてみせた。

「じゃあ、久美子はそこで聴いてて」

「分かった」

 ちょうどベンチに座る自分と向かい合うようにして、麗奈が肩幅に足を広げて立つ。――その瞬間、ぞわりと背筋が震えた。麗奈から醸し出されるこの色濃い気配は間違いなく、本番の時のそれだ。麗奈は今から、本気で、全力全霊の演奏をしようとしている。それも、自分ひとりに向けて。

「行くよ」

 スッと息を吸い込み、麗奈の桜色の唇が高らかにトランペットを振動させる。朝焼けを思わせる穏やかな音色から、情感のこもったメロディへ。そして豊かな響きを含みつつも、自分の芯を捉えるような力強い音で。決してぶれることの無いハイトーンには、麗奈の内に秘められた決意すら滲み出ているみたいだった。余韻のフレーズを細やかに歌い上げ、麗奈の独奏は神々しく幕を閉じる。

 久美子は大きな拍手を麗奈に注ぐ。それは、久美子のためだけに麗奈が開いてくれたリサイタルだった。

「どうだった?」

「凄かった。さすが麗奈だなって思ったよ」

 久美子のストレートな賛辞を受けて、麗奈の頬がほわりと朱色に染まった。

「久美子はこの曲、知ってる?」

「聴いたことはある。でも名前は分かんない」

「『ひまわり』っていう曲なんだけど。葉加瀬太郎の」

「あぁ、ヴァイオリニストの?」

 そう、と麗奈は頷いて、続きを述べる。

「作曲者の葉加瀬さんは無垢な主人公の笑顔をひまわりになぞらえてこの曲を作ったんだって。だけど、それをテーマにしてたドラマが災害で中断しちゃって。そのドラマが再開した時、観てた人からたくさんのメッセージが届いて。それをきっかけにこの曲がそれまでの『なんでもない日常の象徴』みたいに思った、っていうふうに言ってるの」

「へえ」

「私、なんかそのエピソードが好きで。だからこれが、久美子への誕生日プレゼント」

「それって、どういう?」

「だから、」

 麗奈はそこでいったん言葉を区切り、こちらに近づいてきた。そのままおもむろにベンチに腰掛け、そしてすぐ隣から、麗奈は久美子の瞳をじいっと覗き込む。

「久美子には、私にとっての『なんでもない日常の象徴』でいて欲しい、って」

 息を、呑んだ。吸い込まれるように深いダークブルーに彩られた麗奈の瞳。自分の目もまたそれにくぎ付けになって離れない。言葉の出ない自分に何を思ったのだろう、麗奈はくすりと妖しい微笑を浮かべ、久美子の手を握ってきた。麗奈の手は少しひんやりとしていて、けれどとても硬く強く、まるで祈りをそこへ結びつけるように久美子の手をしっかりと包み込む。そんな麗奈の表情は、痛いくらいの真剣さと仄かな不安を浮かべていた。

 麗奈の求めに自分がどれだけ応えられるかは解らない。仮に応えられたとして、それがいつまでなのかも。でも少なくとも今、この感触は、この想いは、自分のすぐ傍にある。だから、自分は。

「私もそうだよ。麗奈には私の『日常の象徴』でいて欲しいって、そう思ってる」

「そうなの?」

「だけど、麗奈とはちょっと違う」

 え、と息を呑む麗奈に、今度は久美子の方から麗奈の手をぎゅっと握り返す。そしてこう告げた。

「麗奈には私の『特別な日常の象徴』でいて欲しい、かな。私は」

 そして久美子は麗奈ににっこりと笑ってみせた。そう。自分にとって、高坂麗奈という存在はいつだって『特別』だ。麗奈が『特別』に向かって手を伸ばすのと同じように、自分もまた麗奈に憧れる気持ちを抱いている。そこに向かってまっすぐ手を伸ばして、いっしょの時間を過ごして、やがていつかは互いが互いの『特別』になれたらいい。

 その想いはこの時の久美子の中ではまだはっきりとしない、とてもおぼろげなものだった。けれど確かにここに、この胸の奥底に、そういう想いは存在していた。

 麗奈も笑みを返し、そして二人はそのままの姿勢で互いを認め合うように時を過ごした。日が落ち切って、月の光が二人を映し出しても尚、二人は互いという名の光に向かって、その手を伸ばし合っていた。

 

 

 

 




(2019年8月21日発表作)
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