光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集   作:ろっくLWK

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二.足跡、そこに、刻みつけて

 

 

 風が、寒空に爆ぜる。

 その模様を仰ぎ見て、あすかはハアと短く溜め息を吐いた。

 

 

 『ハレの門出』なんて言葉があるけれど、それに全くふさわしくない灰色の雲がどんよりと空を覆っている。おまけに式の終わる頃には雪まで降り出す始末だった。けれどカレンダーを確認するまでもなく、これがなごり雪であることは明白だ。こうしてうっすらと降り積もった雪も、きっと明日にはきれいさっぱり溶け去って、その痕跡すらどこにも残りはしない。そして今日雪が降ったということすら、やがてはみんなの記憶から溶けて無くなってしまうのだろう。

「さぁーて、やることは全部やったし、もう行こうかな」

 そう呟いてみても、人っ子ひとりいないこの教室の中で応えてくれる声など無いのはとっくに分かり切っていた。いつだってそうだ。彼女の目に映るものはほとんどが分かり切ったことばかり。だからこそあすかはこれまでの人生における選択を一度として迷ったことが無いし、膝を折ったこともない。あったとすれば一度だけ。それも結局は、折らずに済んだ訳で。

 黒板には色とりどりのチョークでしたためられた『卒業おめでとう』のメッセージが飾られ、その周りにはたくさんの造花がこれ見よがしに添えられている。それらを目に焼き付けることもなく、あすかはいたっていつものように、着慣れたコートを身に纏った。

 廊下に出ると端のほうに見慣れた表札。『三年三組』と書かれたそこは、自分の高校生活における大半を過ごしてきたはずの場所だった。けれど、その場所にも特段これといって感慨はない。時間は有限だ。いくら自分がそこで立ち止まっていたいと思っても、時の流れは容赦なく自分を違う場所へと運んでゆく。自分の居場所だった筈のそこにはいつの間にか、顔も見知らぬ誰かが我が物顔で居座っている。そうして誰もが時に流され、それまでの自分とは異なる誰かになってゆく。人生とは、人間とは、そういうものだ。だからこの学び舎にも、思い入れなんてものは何も残さない。

 そのまま廊下を歩きながら、あすかは窓越しに中庭の様子を窺う。ひしめき合う人の群れ、そのほとんどは同じような表情を浮かべていた。泣き合う者。笑い合う者。肩を組み離別を噛み締める者。彼らは友と、後輩と、恩師と互いに感謝と別れを告げ、いつかの再会を誓い合っているのだろう。自分には、そういうことをする間柄の人間はいない。でもそのことに、寂しさや恨めしさなどといった女々しい感情はこれっぽっちも抱かない。こういう時の「いつかまたどこかで」という約束ほど果たされぬものも無いのだから。そんなことを頭の中で思い浮かべながら廊下を曲がった先、窓の向こう側に見えた人影にあすかははたと足を止める。

香織(かおり)。……と、あれは優子(ゆうこ)ちゃんか」

 抱き合う二人の女生徒。その片方、きれいに整ったショートカットの髪型は遠目に見ても香織のものであることがはっきりと解る。それにすがりつくもう一人の頭には特徴的な黄色いリボンが結わえられていた。優子も相変わらずなことだ。苦笑しつつ、あすかはそっと鞄に手を伸ばす。中から取り出したのは一葉の封筒。柔らかなピンク色を帯びてハート型のシールにしっかりと閉じられたその封筒は、式の直前に香織から直接手渡されたものだった。

『あすかはきっと私より先に帰っちゃうだろうから、今のうちに渡しておくね。その、帰ってから、読んで』

 そう言われると却って今すぐにでも中身を見てみたい衝動に駆られるのが人間の心理、というものなのだけれど、しかしここで封を開けてしまったら否が応にも香織のところへ行かなければいけなくなるような気がして、あすかはきちんと香織の言いつけを守ることにした。その代わりとばかり、封筒と入れ替えるようにして一枚の紙を取り出す。文面は、ついさっき卒業式の壇上で述べた答辞の言葉。それは既に役目を終え、今は何の価値も持たぬただの紙切れと化している。勿論こんなものを後生大事に持ち歩く趣味も感慨も、自分には一ミリほどもありゃしない。片手でクシャリと握り潰すと答辞は無惨な紙屑へと姿を変える。それをぞんざいにごみ箱へと放り投げて、あすかは振り返ることなく階段を降りていった。

 

 

 

 

 

 まっすぐに玄関へと歩みを進めながら、改めてこの北宇治高校での三年間を振り返ってみる。と言っても、思い出らしい思い出はやっぱりほとんど残ってはいなかった。あえて残さなかった、と言う方が正しいのかも知れない。振り返ってみれば後悔だらけになると分かり切っているものに他の何かを残したところで、それすら何の意味も無いのだから。

 ――だったら私は、何でこれを持ってきたんだろう?

 鞄の把手を握る己の手に力が籠る。ほとんど中身の入っていない鞄の中にはもう一つだけ、あすかにとって大事なものが入っていた。それは卒業式には全く関係の無いもので、今日ここに持ってきた理由すら疑わしい。自分はこれをどうするつもりだったのか。捨てるつもりだったらいつでも出来た。どこかで燃やすつもりならわざわざここに持ってくる必要が無い。卒業式の終わった今、こうして人目を忍ぶように学校を去ろうとしている自分は、何故これを持ってきてしまったのか?

 本当は、分かっていた。これをあの子に渡したかったから。けれど、少しだけ、怖かった。もしも『いらない』と言われてしまったら。それはまるで自分ごとあの子に拒絶されてしまうみたいで。だから学校に持ってきてはみたものの、わざわざ探して渡すのもどこか押しつけがましい気がして、それもなんとなく憚られて。だから偶然出会えたら、そのときに渡すつもりでいた。けれどこういう時に限って行き会うことも叶わぬまま、結局自分はこのノートを持ち帰ろうとしている。この中に詰まったたくさんの想いごと。

 表に出ると、きんきんに冷えた空気が喉の奥へと突き刺さる。玄関の周囲には誰の姿も見当たらなかった。不思議と言えば不思議だが、こっちにとっては都合が良い。誰にも見つからぬうちに、さっさといなくなってしまおう。そう思って校門へと足を進めたその時、下り階段のその先から現れたその姿を一目見て、あすかの心臓はズンと強く跳ねた。

 いた。

 俯き加減で歩いている彼女はまだこちらには気付いていない。こちらから声を掛けるべきか。気付かれぬうちにそっと横を通り過ぎるか。それとも向こうが声を掛けてくるまで粘り強く待つか。あすかの優秀な頭脳が一瞬のうちに答えを弾きだそうとする。と同時に、それとは全く別のことにも、思考はひとりでに駆け抜けていった。

 この学び舎に思い入れらしい思い入れなんてほとんど無い。それは決してウソではない。ただ、何一つとして思い入れが無いかと言えば、それはきっとウソになる。だって、自分がこのノートを渡したいと思った相手に対しては、少なくともそれだけの思い入れがあるのだから。

 向こうが『いらない』と言ったらその時はその時だ。それに自分の想いごと否定されてしまうという可能性さえもある。そうなってしまうだけの振る舞いを、あの子にも周りにも、自分はしてきた。そんなことは分かり切っている。このなごり雪と同じように、胸に秘めたこの想いが明日には溶け去ってしまうものであったとしても、何かがあの子に残ればそれでいい。そして、こんな自分をあの子がまだ受け入れてくれるのならば、その時は。

 あすかは大きく息を吸う。冷え切った空気が肺の奥まで沁み込んで、ほんのりと高まった体温を僅かに下げてくれる。そして何でもないかのように、努めて明るい声を、彼女へと注ぐ。

「あっれぇ~、黄前ちゃん。こんなとこで何やってんの?」

 

 

 

 

 




(2019年6月11日発表作)
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