光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集   作:ろっくLWK

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三.そのチョコレートはほろ苦くて

 

 希美の心境は、とても複雑だった。

 

 

「ハイ、じゃあ五分休憩ー」

 希美がそう告げたのを合図に、うへぇ、と後輩達はへばったような息を吐いた。

「おやおや、お疲れですなぁお若いのに」

 極めて愉快そうに、井上(いのうえ)調(しらべ)が口角を歪める。いやいや先ぱぁい、とそれに仏頂面で反応を示したのは一年の小田(おだ)芽衣子(めいこ)だ。

「だってぇー、希美先輩の指導ちょーキツいんですもん」

「そういうこと、本人目の前にして言うかなぁ」

 そんな後輩の発言に、希美は特に動じることもなくけらけらと笑ってみせる。元より練習に関して、希美は後輩達を甘やかさない方針でいた。それに当の芽衣子にしたって悪意あっての発言では無かっただろう。部に復帰しておよそ半年。今では希美もすっかりフルートパートの輪の中に溶け込めるようになっていた。こういう口さがない発言が出てくるのも、つまりは芽衣子が希美に心を開いてくれている事の証というわけだ。

「でも今回の曲も例に漏れずっていうか、けっこう大変なのが多いですよね」

 そうぼやきながら、高橋(たかはし)沙里(さり)が目の前の楽譜をパラパラとめくる。

「希美先輩の希望曲って、今回通りました?」

「一曲だけね。もう一曲もやりたかったけど、そっちはボツ。まあリードの曲って定番中の定番なとこもあるし」

 しょうがないよ、と希美は肩をすくめてみせる。もう一つのほうも大変魅力的な曲であり、本音を言えばそちらも吹きたかったのは山々だ。けれどここで我儘を言ったところでどうしようもない。それに部内の倍率を考えれば、自分の要望が一曲採用されたというだけでも御の字と見るべきだろう。

「あーでも、リードの曲って良いの多いですよね。私は『エルカミーノ・レアル』とか、結構好きだな」

「分かるー。『春の猟犬』もいいよね」

「あとあと『オセロ』。あれのⅢとⅣ、ちょースキ」

 後輩達と調が吹奏楽談義に花を咲かせ始める。しかしその傍らで後輩の一人、中野(なかの)蕾実(つぼみ)はどこかポツンと所在無さげに座っていた。どうした蕾実ちゃん? と気さくに声掛けするよう努めつつ、希美は蕾実の隣の席に腰を下ろす。

「あ、いや、……そのう、私って高校から吹奏楽始めたじゃないですか。だから皆の話題についていけなくって」

「ああ」

 そんなことか、という言葉を希美はぐっと喉の奥に押し込める。確かに吹奏楽を始めたばかりの人間にとって、専門用語がひっきりなしに飛び交う音楽の世界は解らないことだらけに違いない。蕾実もおよそ一年は吹奏楽に籍を置いていた訳で、知識も経験もそれなりには積んできた筈だが、それでも周囲の経験者とでは数年以上もキャリアに開きがある。深遠なる音楽の世界に関して知らないことはまだまだ多いはずだ。

「ごめんごめん、置いてけぼりにしちゃって」

 そう言いながら立ち上がり、希美は自分の鞄からファイルケースを取り出して、中にしまってあった楽譜を蕾実の前で開く。

「さっき言ってたボツのほうはコレ。『アルメニアン・ダンス・パートⅠ』って曲なんだけどね、吹奏楽の曲をたくさん手掛けてるアメリカの作曲者、アルフレッド・リードって人が作曲したの。だからリードの曲」

「パートⅠってことは、パートⅡとかⅢもあるんですか?」

「Ⅲはなかったと思うけど、パートⅡはあるよ。パートⅠとは曲調が違ってて、これはこれで良い曲なんだよねー」

「へえ」

「んで『エルカミ』も『オセロ』も、どっちもリードの作曲なんだよ。うちにCDあるから、今度まとめて貸そっか?」

「いいんですか?」

 もちろん、と希美は頷いてみせる。

「ありがとうございます!」

 お礼を告げる蕾実の表情はキラキラと弾けんばかりだった。それを見た希美にも、胸の内をつるりと甘いジュースで満たした時のような満足感が訪れる。これをキッカケにして、目の前の後輩が今より少しでも吹奏楽を好きになってくれたらいいな。そう希美は願っていた。

「あ、でも、気に入ったらちゃんとCD買ってね」

「もちろんです」

 などと話をしていたところに、ガラリと教室の戸が開けられる。

「希美ー? いる?」

「あれ、どうしたの夏紀(なつき)?」

 中川(なかがわ)夏紀。自分と同じ南中の出身者である彼女は蕾実と同じく高校から吹奏楽を始め、紆余曲折あって現在はこの北宇治吹奏楽部の副部長を務めている。そんな彼女は今日もその役職上に関わる物なのか、たくさんの書類が収められたケースを小脇に抱えていた。

「どうしたの、じゃないでしょ。照明係は五時から打ち合わせって言ってたじゃん」

「ああ」

「まさか忘れてたんじゃないだろうね、キミ」

「ごめんごめん。ついうっかりってヤツ」

 席を立ち、希美は鞄の把手を引っ掴む。

「そんなわけで調、悪いけどあと頼むね」

「しょうがないなぁ。さっさと済ませて来なよ」

 行ってくる、と希美は夏紀と二人、教室から廊下へと小走りに駆けてゆく。定期演奏会本番まで残すところ三週間を切り、北宇治吹部の部員達は皆それぞれのすべきことに向かって全力投球中であった。

 

 

 

 

 一日の練習が終わり、フルートの手入れを済ませて管体をケースへと収める。ピカピカに磨かれた楽器をこうして眺めるのはいつだって気持ちが良い。ケースの蓋をぱたんと閉じて、それから希美は畳んであったコートを羽織る。

 窓の外はもうすっかり真っ暗だ。暦の上では立春を過ぎたとは言え、実際のところはまだまだ冬の只中といった具合で夜になれば冷え込みも戻って来る。うっかり風邪を引かないように、と希美はコートのボタンをきっちり留め、鞄を肩に掛けて教室を出た。

「お疲れ様でーす」

 下校の前に一度音楽室に立ち寄ってみると、そこから出てきた後輩の一人がこちらに挨拶を寄越してきた。その装いを見る限り、彼女もまた練習を終えてこれから家路に着くつもりのようだ。

「お疲れー。あのさ、みぞれ見てない?」

鎧塚(よろいづか)先輩ですか? えっとぉ、部室にはいないみたいですけど」

「そっか。ごめんね」

「いえ。それじゃまた明日」

 また明日ね、と希美は立ち去る後輩の背中を見送る。そして閑散とした音楽室の中を一度ぐるりと見渡した。先程の彼女の言葉を疑うつもりは無かったが、改めて自分の目で見てみても、みぞれの姿をそこに見つけることは出来なかった。

「どうしたんだろ、みぞれ」

 首を傾げながら希美は音楽室の引き戸を締める。レールに小砂でも噛んでいるのか、戸は不快な振動と共にガタガタと苛立たしげな音を立てた。

 

 

 

 みぞれとは去年の夏以来、ほぼ毎日を一緒に登下校していた。それは別にお互い約束をしていたとかでは無い。二人とも下校の時間一杯まで練習をして二人とも同じ方角に帰るから、一緒に帰ることも自然と多かった。それだけの話だ。

 けれど少なくともそれが出来るぐらいには、自分とみぞれの距離はすっかり元通りになっていた。あの夏の日を境に、今はもう何のわだかまりもない、その筈だ。

「でもなー」

 などと一人ごちてみたところで、その続きを考えていた訳ではない。いつまで経っても出てこない言葉の代わりに、はあ、と希美は白い靄を吐き出した。それは夜風に紛れ、瞬く間に彼方へと去ってしまう。

 こうして一人で下校するようになったのはちょうど今月に入ってからの話だ。それ以前、みぞれとは特に何も無かった、と思う。それに朝練の時や昼間など、みぞれと過ごす時には普段と変わったところがあるようには思えない。故に自分は何もしていないはずで、なのだがしかし、そうと言い切れるだけの根拠を有している訳でもない。

『だから怒ってるの!』

 あの日あの子に浴びせられた強い言葉。それが未だに希美のどこかにこびりついている。自分の分かっていないところで他の誰かを傷付けてしまう可能性があるということを、例の事件を通じて希美はいやというほど思い知らされた。だから、何もしていないなんて断言することは出来ない。もしかしたら。あれ以来常に、そういう想念が希美の頭の片隅を占めている。

 でも、こうして思い悩んでいたって仕方ない。それにみぞれにだって何か用事の一つくらいはあるだろう。病院とか塾とか、さもなくば家の用事とか。何かのタイミングでそんな話が出来ていないだけで、ひょっとしたら。それなら自分があれこれ考え過ぎなだけかも。そんな風に己をなだめすかしつつ、希美は今日も一人で寒空の下を帰っていった。

 

 

 

 

「ううん。特に何もない」

 あくる日の朝練中、それとなく探りを入れてみたところ、みぞれはあっさりと希美の希望的観測を否定してくれた。

「無いかぁ、そっかー」

「どうして?」

「ん? いや別に、大したことじゃないんだけどさ」

 最近一緒に下校してないよね。そう問うのは何となく相手を咎めているみたいで、希美はしばし言い淀む。

「ホラ、定演の本番も近いじゃん。今は追い込みの時期でもあるし、そんな時に体調崩したりしたら大変でしょ?」

「うん」

「だから、みぞれは大丈夫かなってふと思って、ホントにそれだけ。気にしないで」

「……そう」

 すう、と視線を戻し、オーボエのリードをくわえ込んだみぞれが再びゆるやかな音色を紡ぎ出す。彼女のあまりにもいつも通りな様子を見て、密かに希美は呆れと徒労感がない交ぜとなった嘆息を漏らした。やっぱりこれといって変わった様子は見られない。と言うよりみぞれの場合、そんな様子を微塵も窺わせないというべきか。いずれにしてもこの分だと、本人から直接答えを引き出すのは難しそうだ。

「だったら、何なのかな」

 部活が終わった後も希美は教室で一人、そぞろに思考を巡らせていた。こうして唸ってばかりいても、やはり思い当たる節など一つとして無い。こんな気持ちを引きずったまま練習するのもちょっと難しい。そう思い、希美は今日の居残り練習を切り上げることにした。いつもみぞれが先に帰ってしまっていることもあるし、今日は思い切って自分から誘ってみよう。そう思い立ち、帰り支度を終えた希美は急ぎ足で音楽室へと向かう。と、視界の端をよぎったその光景に、希美は思わず足を止めてしまった。

「みぞれ? ……と、優子(ゆうこ)

 交差する廊下の向こうは生徒用玄関へと続いている。その先でみぞれと一緒に歩いているのは吉川(よしかわ)優子だった。二人とも暖かそうなコートに身を包み、何やら会話を交えながら歩いている。あの様子からするに、恐らくあの二人はこれから一緒に下校するところなのだろう。

「そっか、優子とか」

 ぽっかりと、胸に穴の開いたような気分。何でなのかは分からなかった。ただ、何かを納得できたような、そんな気もした。それと同時に自分の中にこびりついていたものが、再び心臓の辺りでぎゅるりと疼くのを希美は感じ取る。

 

 

『だから怒ってるの!』

 

 

 ――あの日、自分を責めたその声の主は、優子だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……というわけで、この日は推薦受験の面接日なので部活も一日休みになります。大きな音を出すと受験生の迷惑になるので、くれぐれも学校で音出ししたりしないようにね」

「はい」

 優子の業務連絡に部員達が揃って返事をする。それを聞くでも無しに聞く希美はここ数日、どこか上の空で過ごしていた。

 別に、みぞれと優子が一緒に帰っていたのがショックだったわけじゃない。二人は自分と同じ南中の出身だし、高校でも自分とは違いずっと部に残り続け、今では友達同士の関係だ。そう、みぞれの友達は自分一人という訳じゃない。二人が一緒に帰ることだって、何の問題も無いことじゃないか。――気が付けばさっきからそんな風に、自分に言い聞かせてばかりいる。

 窓の外に見える空は鬱蒼と灰色の雲に覆われて、今にも雪が降り出しそうな物憂げな気配を醸し出していた。雪は嫌いじゃない。宇治ではたっぷり雪が積もることもそうそう無いし、例え降ったにしろ、交通が麻痺するほどでもない。白一面に覆われる景色は自分を新しい世界へと誘っているみたいで、その感覚は希美にとって決していやなものでは無かった。

 けれど、今日は何故だかそんな気分になれない。一日の練習が終わっても何となく帰る気にはなれず、かと言って居残り練習に熱中も出来ず、何となくフルートを握り締めたままで希美は重い溜息ばかりを洩らしていた。

「希美?」

 そんなところにひょっこりと、夏紀が顔を出した。反射的に顔を無理やり綻ばせ、希美は彼女へと向き直る。

「どしたの夏紀? もしかしてまた私、会議すっぽかしてた?」

「ううん、今日は無いけど。っていうか希美こそどうしたのさ」

「私?」

「皆とっくに帰ったし。もうすぐ下校の時間だよ」

 ほれ、と夏紀は壁に掛けられた時計を指で示す。夏紀の言う通り、そこに示された時間はいつの間にか閉門の刻限に近付いていた。窓の外ももうすっかり真っ暗になっている。別に楽器室を閉められたからといってマイフルートを持ち帰るのが習慣の希美には関係無い事なのだが、学校自体が閉まってもなお居残っているのはさすがに不味い。

「あちゃー、気付かなかった。もう帰らないと」

「待ちなよ」

 何? と希美は夏紀を見やる。

「私ももう上がるからさ。折角だし一緒に帰ろ」

「あ、うん」

「じゃあ支度してくるから、玄関のとこで待ってて。すぐ行く」

 軽く手を振り、颯爽と身を翻した夏紀はあっという間に真っ暗な廊下の奥へと消えていった。一緒に帰ろ。久しぶりに誰かに掛けられたその言葉はとても暖かくて、けれどどうしてか、己の良心に針を突き刺した時のような微かな後ろめたさも、希美は同時に覚えていた。

 

 

 

 果たしてそれから十分もしないうちに、夏紀は下足棚のところへやって来た。

「お待たせ―」

 息を弾ませながら駆け寄ってきた夏紀はやはりと言うべきか、きっちりコートを着込んでいる。彼女の羽織るコートはカーキとオリーブの中間みたいな色をしていて、それは髪色の明るい夏紀には良く似合っていた。うー寒寒、と両手を擦り合わせ、夏紀はその手をコートのポッケへと突っ込む。

「手袋しないの?」

「あー、なんか付けたり外したりが面倒くさくってさ。私には似合わないし」

「夏紀らしい」

 でしょー? とおどける夏紀と肩を並べながら、希美はクスクスと吐息を零す。冬の空気はひたひたと身に沁み込むみたいに冷たかったけれど、こうして傍に誰かが居てくれるだけで、ほんの少し和らぐような心地だった。

「ところで希美さ、何悩んでんの?」

 やにわに夏紀に切り出され、え、と希美は声を詰まらせる。

「……気付いてたの?」

「そりゃ気付くよ。いつもの希美らしくないなーって」

「そっかぁ。私らしくない、か」

 どうやら自分の演技はまだまだ下手くそのようだ。きゅるりと自分を覗き込む夏紀の双眸に、本音を洩らすまいと必死に閉じていた希美の心の戸が、少しずつ開かれてゆく。

「うん、悩んでる」

「それって人間関係?」

「そう」

「ここ最近?」

「今月に入ってからだから、まあ最近」

「分かった。ズバリ、恋の悩みでしょ」

「はあ!?」

 思わず希美は素っ頓狂な声を上げてしまった。周囲の通行人から向けられる視線がこちらへ向けて痛々しく突き刺さる。

「なんでそうなるワケ?」

「だって二月だし、バレンタインデーももう来週じゃん。希美は誰かにあげたりしないの?」

「ないよー。そういう夏紀はどうなの?」

「まあ、私もないけどさ」

 何それ、と二人して笑い合ってから、はたと希美は気付く。自分をリラックスさせようと、あえて夏紀は一旦話題を逸らしてくれたのだ。

「実は、みぞれのことなんだけどね」

「みぞれ?」

「最近一緒にみぞれと帰ってなくて」

 ふむ、と首を縦に動かしながら耳を傾ける夏紀に、希美は独白するように続きを語る。

「ホラ、みぞれとは色々あったからさ。私また自分でも分かってないうちに、みぞれのこと傷つけちゃったりしてるのかなー、って」

「なんか思い当たることでもあるの?」

「全然。私ってそういうの、ホント鈍感でさ」

 かぶりを振って、希美はそこに一つ息を落とす。人間の機微とか感情とか、そういうものの読み合いに自分は本当に向いていない。近ごろ希美は自分自身をそう思い始めていた。そもそもそれさえ出来ていたなら、去年部に復帰しようとした時だって、もっとスムーズに事が運べていたかも知れなかったのに。

「みぞれは、どうしてるワケ?」

「見た目はいつも通りにしてるけど、こっちが練習終わる前にはもう帰っちゃうみたい。本人に直接聞いてみたりもしたけど特にコレって事も言わないしで、何が原因なのかはやっぱり分かんなくて。それでこないだは私の方から一緒に帰ろう、って誘うつもりだったんだけど」

「ほうほう」

「その日はみぞれ、優子と一緒に帰ったみたいで」

 ぶ、と夏紀の口元あたりから不思議な音が漏れる。そちらに目を向けると、夏紀はくしゃみをした時のように鼻頭に手を当てぐずぐずと呻いていた。

「大丈夫? ひょっとして風邪?」

「あー、平気平気、なんでもない。ちょっとノドに絡んじゃっただけ」

 ひゅう、と木枯らしのような深呼吸を一度して、調子を整えた夏紀はくるりと希美の前に回り込んだ。

「それならさ、みぞれにあげたらいいんじゃない?」

「何を?」

「バレンタインチョコ。希美の手作りでさ」

「チョコぉ?」

 夏紀の提案はなかなか想像の斜め上を行くものだった。それを聞いた希美の声も自ずと上ずってしまう。

「ええー、なんで私がみぞれにチョコあげるの?」

「別に、今はバレンタインチョコって『女が男にあげるもの』って感じでもないじゃん。友チョコー、とか言ったりして、女同士でも贈り合ったりしてるし」

「そりゃ、そうかもだけど」

「その延長みたいな感じで、自分でチョコ作って、みぞれにプレゼントしてあげたら? そしたらみぞれだってきっと機嫌直してくれるんじゃない? まあ、みぞれがホントに機嫌損ねてるかどうかは知らないけど」

「……そうかなぁ」

 そういうことも無い気もするけれど、しかし言われてみれば何となくそうかも、という気になって来る。それに名目上は『友情の証』とか『日頃からの感謝の印』とか、何だっていい。この事態を解決するためのキッカケ作りという点で、みぞれに何かを贈るというアイデアは確かにアリと言えばアリだ。

「でも私、チョコなんて作ったこと無いよ」

「大丈夫、そんな難しくないから。今はネットとかで調べればごろごろレシピ出て来るし、その通り作れば大丈夫だよ」

「うーん。チョコかぁ」

「どうせ今度のオフもあるんだしさ、まずは作ってみなよ。失敗したヤツは私が全部処理してあげる」

「そんなこと言って、後で体重計乗る時に泣いたって知らないよ?」

 あはは、と笑い、それから希美は夏紀の瞳を覗き込む。柔らかな夏紀の眼差し。それはいつでも、希美に居心地の良さを与えてくれるものだった。

「ありがとね、夏紀」

 

 

 

 

 

 

 先般の連絡通り、今日は中学生の面接受験があるため吹部は終日休み。定期演奏会前の最後の休日ということもあり、日頃忙しい部員達も今は思い思いに羽根を伸ばしている筈だ。そして希美は夏紀のアドバイスに従い昨日のうちに材料を買い込んで、朝からずっとバレンタインチョコの制作に取り組んでいた、……のだが。

「なんでだろ、うまく行かない……」

 希美は半ば投げ出したくなっていた。事前に調べた手順通りにやっているつもりなのだが、湯せんにかけて溶かしたチョコはどうにもバサバサとざらついていて、味見をしてみてもちっとも美味しくない。流石にこのまま固めるのは何かが違う気がして、そこから先の作業に移れないままでいた。

 このままではチョコが完成しない。既に板チョコ一枚をまるまる消費してしまい、残る材料は予備にと思って買い足した小サイズの一枚のみ。両親は用事で夕方まで出かけているので母にコツを教わる訳にもいかない。もっとも両親が不在だからこそ思い切ってチョコ作りに挑める、という都合もあるにはあるのだが。どうしようと思案した希美がひとまずもう一度レシピを調べ直そうか、と考えていた、その時だった。

 ぴんぽーん。

「はーい」

 宅配か何かか、と思いつつ希美は玄関のカギを捻りドアを開ける。と、そこに立っていたのは夏紀だった。

「いよっ」

「夏紀、なんでここに?」

「傘木センセーが苦戦してらっしゃるのではと思いまして」

 センセーって何よ、等と軽口を叩きながら希美は夏紀を台所に通す。

「うわっ、こりゃ相当苦戦してるね」

 調理台の上の惨状を見て、夏紀はたちまち眉をひそめた。その詳細はあえて語るまでも無いだろう。母が帰って来るまでに片付けを終えていないと何を言われるか分かったもんじゃない。端的に現状を表現するならそういう状態である。

「レシピ通りには作ってる?」

「一応は。でも全然上手く行かなくて」

「オッケー。じゃあ私が見ててあげるから、希美はとりあえずもう一回最初からチョコ作ってみてよ。おかしいところは私が教えるから」

「お願いします」

 希美は殊勝に頭を下げる。正直、傍から見てアドバイスをくれる人が居るというのは、今の自分にとってとても有り難いことだ。チョコ作り初心者の自分には何が正しくて何が間違っているのか、こうしてレシピと睨めっこをしていてもまるで解らない。夏紀にレシピを確認してもらって失敗の原因を指摘してもらえれば、上手なチョコの作り方もきっと判明する筈だ。

 まずは板チョコを湯せんで溶かす。これをしなければ思い通りの形にチョコを作ることが出来ない。さっきと同じように電気ポットのお湯をボウルに適量注ぎ、もう一つのボウルにはバキバキと手で砕いたチョコを入れ、希美はそれをお湯の上に持っていこうとする。

「はいはい、ストップ!」

 さながら現場監督の如く、作業の差し止めをした夏紀はまずお湯の入ったボウルに手を近付けた。

「ちょっとお湯が熱いかな。このチョコで湯せんかけるならもっとぬるくして、五十度ぐらいの方が良いと思う」

「ふむふむ」

「それとチョコ。どうせ溶けるからってアバウトに砕かないで、ちゃんと包丁で細かく刻むこと」

「はいっ」

 こんな調子で夏紀がくれる指示に基づき着実に段階を踏んだ作業のおかげで、ようやくチョコは本来想定した通りのトロトロの状態となった。それをひと掬いした指を、希美は夏紀の口元に差し出す。

「どう?」

「んー、良いんじゃない? ざらつきも無いし、ツヤも風味もバッチリ」

「よしっ」

「で、次はこれを一旦冷まして、ちょっと温めて、それからまた冷やして固める」

 なおも続く夏紀教官のレシピ指導。希美は一つひとつ丁寧に、それらをこなしていった。予め用意してあった型にチョコを流し込み、そこでようやく希美はひと段落とばかり息を吐く。

「はー、チョコ作りって超タイヘン。誰ぇ? レシピ通りにやればカンターン、とか言ってたの」

「お? 希美サンひょっとして、私がウソついたって言うおつもりですかぁ?」

「そこまでは言わないけど、チャーハンとか豚汁作る方がよっぽど楽だよ。そういう普通の料理は私、けっこう得意なんだけどな」

「まあ、お菓子作りは分量も手順もレシピ通りにやらないと失敗しちゃうからね」  

 口の端を苦笑で歪めつつ、でもさ、と夏紀は型の中に収まったチョコに目を遣る。

「こんだけ大変だからこそ、じゃない? バレンタインの日に、好きな相手に、自分の手作りのチョコを贈るのって」

「一生懸命手間ひまかけて、美味しく作ったチョコレートを受け取って欲しい、っていう?」

「そ。愛情タップリ込めました、みたいな」

 それは夏紀らしからぬ物言いではあったのだけれど、でも確かに的を射ているとも思える発言だった。

「お金で買えない何かがあるからこそ、手作りには手作りの価値があるのかなって思うよ」

「そうかもだね」

 返事をしながら、希美はぼんやりとみぞれの顔を思い浮かべる。これだけ苦労して作った人生初の手作りチョコレート。果たしてみぞれは喜んでくれるだろうか。機嫌を直してくれるだろうか。そのことにはまだちょっとだけ不安もあった。けれどウジウジ悩むのは性に合わない。実際にチョコを作ったのなら、あとはこれを持ってみぞれ本人にぶつかるのみだ。

「それに作る側の苦労を知っとけば、受け取った時の嬉しさも倍増しだろうし」

「ん? 夏紀、いま何て?」

「うんにゃ、何でも。ところでさ、このチョコ、なんか模様つけたりとかしないの?」

「あ、忘れてた。それも買ってあって――」

 

 

 

 

 そしてとうとう、勝負の時はやって来た。冬晴れとでも言うべき爽やかな空模様の朝だった。

 希美はそっと鞄を開ける。そこには可愛らしくラッピングされた包みが一つ。中には夏紀と二人して作ったチョコが詰められている。あの日一日をかけて何度も作り直し、ようやく完成した珠玉のチョコレート。出来栄えに自信はあれど、果たしてみぞれが気に入ってくれるかは分からない。とくとくと胸の内で打たれる早鐘は、期待か、それとも不安か。良く分からぬ気分のまま、希美はいつもの通学路を歩く。

 と、目の前にみぞれの背中があるのを見つけた。いよいよだ。緊張に一度歯を食いしばり、演奏会本番の前にそうするように勢い良く息を吐く。よし、と自分に発破を掛けるようにして、希美は彼女の背中へと駆け寄った。

「おっはよ、みぞれ」

 さほど声を張った訳では無かったが、ビクリと肩を震わせたみぞれがおずおずと振り返る。

「……おはよう」

 彼女の口からか細い声が出てくるまでには数秒ほどの間があった。やはりみぞれは自分のことを警戒しているのだろうか。そのことに少しだけ胃がキリリと引き絞られるのを感じつつ、それを堪えて希美はみぞれに語りかける。

「あのさ。実はみぞれに、渡したいものがあるんだ」

「渡したいもの?」

「そう。これなんだけど」

 鞄を開け、希美は取り出した包みをみぞれにずいと突き出す。

「今日、バレンタインデーだからさ。ありがとうって気持ち込めて作ったから、みぞれに食べて欲しい」

「え、」

 声を震わせ、それからみぞれは希美の顔と、手元のチョコとを交互に見つめる。

「これ、希美の、手作り?」

「そうだよ。時間無くて、これ一個しか作れなかったんだけど」

 本当は先に無くなったのは時間ではなく材料だったのだけれど、それはこの際言わないでおくことにした。

「いいの?」

「良いに決まってるじゃん。みぞれはこれ、受け取ってくれる?」

 しばらく硬直していたみぞれの口から、ほう、と白く曇った吐息が漏れる。彼女の頬はいつになく、赤みを帯びているみたいだった。

「……嬉しい。ありがとう」

 ほんの微かに綻んだみぞれの表情。それを見てようやく希美は安堵した。良かった。いつものみぞれの笑顔だ。これが見られたのならもう大丈夫。そんな理屈抜きの感覚が、緊張に固まっていた希美の心を解きほぐす。

「その、希美」

「ん? どした、みぞれ?」

「私も、渡したいものがあるんだけど。希美に」

「私に?」

 キョトンとする希美をそのままにして、みぞれはいそいそと自分の鞄に手を伸ばし、中から掴み出したものを希美に差し出す。それは綺麗にラッピングされた、手のひらサイズよりも少し大きめの、そう、ちょうど自分がみぞれに贈ったものと同じような寸法の箱だった。

「これってもしかして、チョコ?」

「そう」

 照れているのか。それとも臆しているのか。下げた視線をもじもじと彷徨わせるみぞれが、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「希美に、チョコあげようって思ったんだけど、作り方がわからなくて。だから、優子に教わった」

「優子に?」

 コクリ、とみぞれが頷く。

「優子、色々アドバイスもしてくれて。学校帰りに材料とか、飾りつけとか、色々見て回って勉強もした。だから、上手に出来たと思う」

 カクン、と膝を抜かれるような感覚。それは全く予想外で、けれどもこれ以上なく腑に落ちる結論だった。

 そうか。

 そうだったのか。

 それなら確かに居残り練習を普段よりも早く切り上げていた筈だ。優子と一緒に下校する筈だ。そして、自分とは一緒に帰らなかった筈だ。

 全てを悟った希美は今にも鞄を投げ出して、そのまま地べたに座り込みたいような心地だった。そして何より自分自身のことが、今は本当に情けなく思えて仕方ない。

「みぞれー、希美―」

 と、そこに自分たちを呼ぶ声がする。振り返ると、後ろから二人を追いかけて来たのは優子だった。

「おはよ。みぞれ、ちゃんと希美に渡せた?」

「うん」

 おもむろに頷いたみぞれに、良かったね、と優子は満面の笑みを向ける。

「って訳で、ハイこれ。こないだみぞれと一緒に作ったから、アンタにもあげる」

「え、いいの? 貰っても」

「当たり前でしょ。ホラ」

 少し苦笑しつつ、優子は肩に掛けたトートバッグから包みを一つ取り出して希美に差し出してくる。自分たちのものよりも細長いラッピングはいかにも義理チョコといった風体だったが、それでも希美はありがたいと思えた。と同時に、優子に対して申し訳なさを覚える。

「どうしたの? ヘンな顔して」

「いや、私、優子の分のチョコ用意してなくて。なんかゴメン」

「別に気にしなくていいって。このチョコはあくまで部員に配る用だし、お返しなんて要求しないから」

 でも、と希美は食い下がる。本当に申し訳ないと思っていたのは、お返しを用意できていなかったことでは無いのだけれど。

「いいから黙って受け取っておきなさい。その代わりお礼は、本番の演奏で返してもらうから」

 その物言いはいかにも吹奏楽部の部長といった趣きで、希美はついつい噴き出してしまう。彼女のこういう真っすぐな気性は組織を束ねるリーダーには向いていると言えるだろう。少なくとも、自分よりは。

「おっはよーぅ。希美、みぞれ」

「ぎゃっ」

 奇妙な声を上げて優子が姿勢を屈める。その背中からひょっこりと現れたのは夏紀だった。

「おはよう、夏紀」

「お。その分だと上手く行ったみたいだね」

「おかげ様で」

 ありがとう、という気持ちを込めて、希美は夏紀に笑顔を返す。

「ちょっと夏紀。急に人にぶつかっておいて、謝罪の一言ぐらい無いワケ!?」

 ガバリと身を起こすなり優子はがなり声を上げた。咄嗟に離れた夏紀が、意地悪そうな笑みを優子へと向ける。

「おやおや、部長サマもいらっしゃいましたか。おはようございまぁーす」

「アンタもっぺん家帰って寝て来たら? 目の前の人間に気付かないぐらい寝不足みたいだし」

「おあいにくさまだけど昨夜はそりゃもうグッスリ快眠しましたんで、ご心配なく」

 そのまま二人はギャーギャーと、いつもの仲良しモードへと移行していく。全く相変わらずだなあ、と二人の様子を眺めていたところで、チョン、と希美のコートの袖がつままれた。

「ん。どしたの、みぞれ?」

「中、開いてみて欲しい」

「中?」

「チョコ。今ここで」

「えっ」

 いやいやここ外だよ、とか、落としたりしたら勿体ないし、等と言い訳を並べてみたものの、みぞれにはまるで通用しない。早く早くと急かされ、とうとう根負けする形で希美は彼女から渡された包みを渋々とほどいていった。

「じゃ、開けるよ」

 ボール紙の蓋をパカリと開く。そこにあったのは、恐らく自分が作ったものよりもよほど上出来に仕立てられた大粒のトリュフチョコ。その表面には何やら楽器のような形の彫り込みが装飾として為されてあった。

「これ、もしかして、フルート?」

「そう。頑張って彫った」

 自信作、とばかりにみぞれが小さく鼻息を吐く。どうやったのかまるで想像もつかないが、チョコの表面は鋭く尖った針でそうしたように細かく削られていて、それは確かにフルートの形をしていた。これは流石に夕方まで放置していたら室内の温度で表面が溶けてしまい、せっかくの彫り込みも分からなくなっていたかも分からない。そうなる前に早く見て欲しい、とみぞれが願うのも当然だろう。彼女の苦労と懇願の理由が、今の希美には良く解る。

「頑張ったね、みぞれ」

 そう告げると、みぞれは嬉しそうにきゅっと唇を結んだ。一つ食べてみて。みぞれに言われるがまま、希美はチョコの一粒を指で摘み、口に放り込む。

「美味しい」

「良かった」

 希美に喜んでもらえて。そう言うかのように、みぞれはゆるりと目を伏せた。ふと前方に目を遣ると、まだ何かを言い合う優子と夏紀の手にはそれぞれ上等にラッピングされた包みがあるみたいだった。並べて比べるまでもなく、その包みはさっき優子から貰ったものよりも、自分やみぞれが用意したチョコのそれよりも、かなり大きい。

「優子と夏紀はいつも仲良し」

 ぼそりと呟くみぞれに、そうだね、と希美も笑みを零す。そして希美はまだ口の中に残っているチョコレートの欠片をもう一度、舌で転がしてみた。

 そのチョコレートはほろ苦くて、口の中に豊かな風味をじわりと広げていく。これをみぞれが、自分のために、作ってくれた。それは本当に嬉しくて。けれど自分自身の疑り深さが情けなくて。その時の希美の心境は、とても複雑だった。

 

 

 

 




(2019年2月11日発表作)
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