光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集   作:ろっくLWK

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四.タンブルウィード

 

 

「おはようー」

「おはようございまーす」

 そんな声が飛び交う廊下を歩きながら、(いの)(うえ)調(しらべ)は何となく、物思いに耽っていた。

 先日行われた演奏会をもって吹部の今年度の活動もひと段落し、暦は間もなく四月を迎えようとしている。新しい学年、自分もついに北宇治の最上級生だ。そしてきっと新入生も、今年はたくさん入って来ることになるだろう。何せ北宇治吹奏楽部は昨年のコンクールで全国大会に出場し、にわかに周囲からも注目を集める存在となっている。いつか全国の舞台で吹くことを夢見て。そんな思いで入部してくる子が自分の後輩となる日も、そう遠くはない。

「そんな子たちと上手くやっていけんのかな。私」

 呟いた独り言は誰の耳にも拾われることなく、廊下にこぼれた塵芥と一緒になって消え失せる。調は元々高尚な目標を抱いて北宇治に、吹部に入ったわけでは無い。ただ何となく楽器を吹いて、放課後を楽しく過ごせれば。改めて考えてみると少し違う気もしたけれど、似たような気持ちであったようには思う。それほど深く考えず、軽い気持ちで吹部を選んだ。その点ではアイツと自分は明確に違っていた。

 (かさ)()(のぞ)()

 府内強豪の南中出身である彼女は、ここ北宇治に入学したその時からずっと高い目標を持っていた。それ故に一年生の時には先輩達と衝突し、その結果たくさんの部員と一緒に、彼女は吹部を辞めるという決断を下した。調はその当時、歯痒そうな彼女の背中をただ黙って見送ることしか出来なかった。

 希美と自分とでは音楽、いや吹奏楽に対する熱量そのものに余りにも大きな開きがある。あそこまで真剣に音楽をやりたいと思うことなんて自分には出来ない。顧問が代わり目標が替わり、それに伴って自分の意識も変わったという実感はある。けれど、それでも調にとっての吹奏楽とはあくまで学校内での数ある活動の一つでしかなかった。あそこまで何もかもをかなぐり捨て、己の決めた目標のためだけに邁進する。それは調には到底出来そうもないことだった。

「おはよ、調」

 練習場所の教室に入ると、その希美が朗らかに挨拶をしてくるのと同時に、彼女のトレードマークであるポニーテールがひらりと翻った。おはよう、と返事をして希美の隣の席に座り、調は楽器ケースから自分のフルートを取り出す作業にかかる。

「今日は何やんの?」

 パート練習の内容を調が希美に尋ねる。これもフルートパートでは日常的な光景の一つだった。

「んー。こないだの演奏会、一年の子らの指回しが安定してないのが気になったから、今日はまずそのへんの基礎練からかな。それから卒業式に向けて校歌と、部活紹介用の曲練」

「そっか。部活紹介では何やるんだっけ?」

「『宝島』と、あと『ベイ・ブリーズ』。PRの時間限られてるから、どっちもショートバージョンだけど」

 そうだっけか、とうそぶきながら調は譜面台の上に楽譜を並べていく。『宝島』は昨年のコンサートでも演奏したことのある陽気で盛り上がりの良い曲だ。一方の『ベイ・ブリーズ』は爽やかで都会的な曲調が印象深い曲であり、ドラムやラテン=パーカッションが多用されるなど『宝島』とも似た特徴を持っている。まだ合奏で数度合わせただけのこの曲を、調はちょっとだけ気に入っていた。

「『ベイ・ブリーズ』ってさ、何となく神戸とか、そういう海の街って雰囲気あるよね」

「私は横浜ってイメージかな。都会っぽくてカッコ良い曲だよねー」

 希美の白く光る指が、さらりと目の前の譜面を撫でる。

「作曲したのは真島俊夫さんなんだけど、真島さんって『宝島』とか『オーメンズ・オブ・ラブ』の編曲もやってるんだよね」

「あー、それで『宝島』とちょっと似てるのか」

「そうかも。途中のトランペットソロに一瞬『韃靼人の踊り』みたいなフレーズもあったりして、けっこう面白い曲だなって思うよ。今回の曲はどっちも吹奏楽では定番中の定番だし、それに楽しさ満載! って感じだから初心者の子にもウケが良いんじゃないかな」

「かもね。それに経験者の子もそれはそれで『真島俊夫特集じゃん!』って判るかもだし」

「だねぇ」

 希美が相槌を打ちながら、再びフルートのリッププレートに唇を寄せる。フッ、と吹き込まれた彼女の吐息はちょうど咲き誇る桜のように、辺りの空間を涼やかに艶やかに色付かせていった。

 その音を聴く度、思う。どうしてこんな音が出せるのかと。

 希美の使っているフルートは際立って高級品という訳ではない。奏法の基本ならば自分だって身に付けている。音の鳴る原理が同じなら、希美と同じように吹けば自分にも同じような音が出せる筈だ。だが、そうはならない。そんな理屈がまかり通るならば極論、楽器の奏者は誰がやっても同じということになってしまう。そうではないということの確たる証拠が目の前にはある。上手な人は音からして違う。かつて先輩がそんなことを言っていた。その意味が、今はとても良く解る。

「おはようございます」

 後方から元気の良い声が聞こえ、はたと調は我に返った。

「ああおはよう、蕾実」

「おはよー」

 調に続いて希美も挨拶を返す。一年下の後輩、(なか)()(つぼ)()はトタトタとこちらに寄って来て、希美に幾つかのCDケースを差し出した。

「これ、ありがとうございました」

「おっ、もう全部聴いたんだ。どうだった?」

「先輩のおっしゃる通り、すごく良かったです。『エルカミ』も『オセロ』も良かったですけど『アルメニ』もすごくカッコ良くて、先輩が吹きたかったって言ってた意味が分かりました」

 でしょう、と希美の声が嬉しそうに上擦る。

「で、なんか気に入った曲とかあった?」

「私は『第五組曲』がいいなーって思いました。何ていうか、第一楽章が可愛い感じで」

「可愛いかー。蕾実ちゃんらしい感想だなぁ」

 けらけらと希美が笑うと、蕾実はちょっとだけ恥ずかしそうに縮こまる。

「他にもオススメあるけど、どうする? ヴァン・デル・ローストとかスパークとか、知ってて損しない作曲家の名曲もまだまだいっぱいあるし」

「それも是非、お願いします」

「あと、ラヴェルの『ダフクロ』あたりも良いかな。去年、秀大附属が自由曲で吹いたヤツなんだけど――」

 二人の会話がどんどん弾んでいく。高校から吹奏楽を始めた蕾実には、音楽の知識がまだまだ少ない。希美はそんな蕾実に対しても常日頃から怠りなくフォローをしていた。そういう姿勢の希美に蕾実が、いや後輩達が懐くまでにそう時間がかからなかったのも、考えてみれば至極当然の話だろう。現に彼女達はここ数カ月の間にめきめきと上達を遂げている。それも全てはパートリーダーの自分に代わって、希美がパート内での練習を取り仕切ってくれているからだ。自分だったらこうは行かない。その事を、調はちゃんと認識していた。

「おはようございまーす」

 続けて小田(おだ)芽衣子(めいこ)(たか)(はし)沙里(さり)がやって来た。これでフルートパートの全員がこの教室に揃ったことになる。

「それじゃ、今日の練習始めよっか」

 希美の号令で楽器を構えそれぞれに音を鳴らす。そういういつも通りの日常が、こうして今日も始まった。

 

 

 

 

「それでー、一昨日観た映画も、ちょー面白かったんですよぉ」

「へえー」

 フライドポテトをかじりながら調は適当に相槌を打つ。練習帰り、芽衣子の提案で一行は学校近くのバーガーショップに立ち寄っていた。注文を済ませて席に着くなり芽衣子が雑談の口火を切り、各々注文の品がテーブルの上に揃う頃には話もちょうど盛り上がりのピークを迎えていたところだった。

「三歩目と同時にですね、背中合わせに立った男達が一斉に振り向いて、そこでバキューンって」

「良くあるよねーそういうシーン。西部劇の代名詞、みたいな」

「そうです、代名詞です」

 大袈裟な身振り手振りを交える芽衣子が『バキューン』と指鉄砲でそのシーンを再現してみせる。うんうん、とさっきから聞き役に徹している希美は、この後に家での夕飯があることを考慮してなのか、注文したのはシェイク単品のみだった。

「で、ラストのシーンはもう大号泣ですよ。馬に乗って去る主人公の背中に向けて男の子が『帰ってきてねー!』って、夕暮れの中で」

 語るにつれ興奮の度合いを強める芽衣子。それを見て、彼女の同輩である沙里がチーズバーガーに齧りつきながら苦笑に顔を歪める。

「先月も似たような話してたよね。芽衣子、西部劇そんなに好きだっけ?」

「いやあ、なんか夜中にやってたのを何となく観始めたら面白くって。今ちょっとマイブーム」

「相変わらず独特な感性してるなぁ、芽衣子は」

 独特って何よー、と芽衣子は沙里のおでこにトンとチョップを刻む。

「芽衣子ちゃん、いいなー。趣味たくさんで羨ましい」

 二人の会話の流れに、たっぷりのマスタードを塗りたくったナゲットをつまむ蕾実も加わっていく。音楽面ではキャリア差を抱える彼女たち一年生組も、ことプライベートでは極めて仲が良い。それはフルートパートの美点のひとつと言えよう。

「趣味、ってほどじゃないけどねー。でも映画とか海外ドラマは良く見るよ。あぁー、来年は映画好きな後輩とか来ないかなあ」

「来たらいいねぇ」

 そう告げてストローをくわえた希美のシェイクの容器が、ズズズ、と間の抜けた音を立てる。

「それでですよ。西部劇絡みでこないだちょっと、雑学仕入れちゃったんですけど」

「何?」

「ああいうのの決闘のシーンとかの後ろでコロコロ転がってく謎の物体あるじゃないですか。あれの名前って、調先輩知ってます?」

「さあ。気にしたこともなかったわ」

 正直に答えつつ、調は手元のエッグバーガーに歯を立てる。ふんわりと広がるタマゴの風味がたまらない。その食べ応えを存分に噛み締め、唇についたソースをぺろりと舌で舐め取ってから、改めて調は芽衣子に問うた。

「名前とかあったの?」

「あるんですよー、これが」

 フフン、と芽衣子はやにわに携帯を取り出しスルスルと操作を始めた。やがて目当てのページに辿り着いたらしく、これです、と四人の前にその項を示してみせる。

「タンブルウィード、ねぇ」

 その名前を目にしたのは初めてだった。あまり馴染みのない言葉だが、果たしてこれはどういうものなのだろう? 珍しく、調の好奇心が疼く。

「実はこれ、枯れ草なんですよ」

「草?」

「特定の植物ってわけじゃなくて、アメリカの荒野なんかに良く生えてるいくつかの種類の草らしいんです。夏から秋にかけて草が枯れて、それが千切れて風に吹かれて転がっていくうちにこんな風に輪の形になって。それをまとめてこう呼ぶんですって」

「あ、だからタンブルウィードって言うんだ」

 横から蕾実が身を乗り出してきた。どういう意味? と調は蕾実に尋ねる。

「タンブル、って日本語で『転がる』って意味なんですよ。ウィードは『雑草』で、つまりタンブルウィードは転がる草、って事です」

 蕾実の丁寧な解説に、おおー、と希美らが感心の声を上げる。

「いや希美、私も人のことは言えないけどさ、上級生が後輩に英単語の知識で負けるのはマズくない?」

「えー、別に良いじゃん。凄いものは凄いんだし。それにしても蕾実ちゃん、物知りだね」

「あ、ハイ。あの、ありがとうございます」

 希美のストレートな称讃に却って委縮してしまったのか、蕾実は小さくペコリと頭を下げいそいそとコーラのストローに口を付ける。その仕草は何となく滑稽で、一同に小さな笑いが起こった。

「でもこれってさっき希美先輩が言ってたみたいに、まさに西部劇の代名詞って感じじゃないですか」

「そうだね。これがコロコロ転がっていったらそれだけで、あっ西部劇、って感じする」

「でしょー、これが無いと締まんないっていう、そんな感じですよねぇ」

 盛り上がる後輩達を横目に、調はヨーグルトシェイクの容器へと手を伸ばす。もったりとしたシェイクはなかなか上手に吸い込めなくて、きつく吸い上げたストローの口から飛び出してきた冷たさに、こめかみがキンと小さく悲鳴を上げた。

 

 

 

 夜の街にはもう先日までの身を切るような寒さは残っていなかった。ちらと見やると、そこに植わった木の枝にはチラホラと花びらが顔を出している。もうすぐ桜も一斉に花開く頃だ。それまでには新入生も入学してくる。季節がどんどんと移り変わってゆくのを感じつつ、調は先ほどまでの会話をそっと振り返っていた。

 タンブルウィード。

 その単語が妙に耳に残っていて、チクチクと舌の上に棘を立てるような、そんな感覚がある。何故なのだろう。それは自分にはもう一つ分からなくて、口の中で何度も同じことばを呟きながら、調は家へと続く道を歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 部室に貼ってあったカレンダーが一枚剥がされ、ついに新年度が始まった。

 部長の号令の下、部員達はそれぞれに与えられた役割を果たすべく活動を開始する。部室の掃除。備品の点検。楽譜のチェック。係ごとにやるべき仕事は様々だ。そんな中、調は楽器室で備品である楽器の点検をしていた。いざ新入生が入部してからフルートを吹くという段になって、肝心の楽器が壊れて使い物にならなかったというのでは話にならない。場合によっては修理に出さなければならなくなるかも知れないし、そうでなくても緊急時の代替として出番が来る可能性もある。それらを踏まえればこうして定期的に楽器の点検をしておくことは吹部の活動上必要であり、かつ大事なことだった。

「えーと、ピッコロは沙里が吹いてるのがあるから良いとして、まず先にっと」

 ぴち、と薄手のゴム手袋を着けた調は帳簿に記された備品のリストと照らし合わせながら、楽器の状態を一つずつ確認していく。北宇治吹部には結構な数と種類の楽器が備品として置かれている。その多くは部費や顧問のポケットマネーなどで購入したものだが、それ以外にOBからの寄付によるものも相当数あるらしい。中には目玉が飛び出るほど高価な楽器もあり、それは十年程前まで全国大会常連校として名を馳せていた北宇治のかつての栄光を物語っているみたいだった。

「その当時の北宇治、か。どんなだったんだろうな」

 などとやくたいも無いことを考えつつ、棚から取り出した埃まみれのフルートケースをいったん床に置く。昨年まで誰も使っていなかったそれは、蓋を開ける前からいかにもという空気を放っていた。雑巾でケースを拭った途端、表面に積もり積もっていた埃が一斉に空中へと舞い上がる。饐えた匂いを追い払うように一度ゴホンと咳き込み、それから調はおずおずと、ケースのロックに手をかける。

「うわー。こりゃちょっとヤバいかな」

 長年放置された結果なのか、本来銀色であるはずの管体はどんよりと青黒くくすみ始めていた。ケースから取り出した主管のキイを押してみると、案の定ギシギシと重たい感触がする。この分だとタンポも交換した方が良さそうだ、と調の勘が瞬時に結論をはじき出した。

「せんぱーい、どうですか?」

 そこへ蕾実がひょっこりと姿を現した。これこの通り、と調は手に持った主管のくたびれぶりを彼女に見せつける。

「こいつは修理コース直行だね」

「あー、確かに」

 さすがの蕾実でもこの惨状は一目で理解出来たらしい。うえっと顔をしかめ、恐る恐るといった様子で管体をチョンとつつく。

「こんな状態でも、直せばちゃんと吹けるようになるんですか?」

「多分ね。あちこち交換したりしないといけないだろうし、時間もお金も掛かると思うけど」

「新しいの買った方が早かったりして」

「まあ、そのへんは実際にプロに診てもらった方が早いだろうね。てなわけでこれもヨロシク」

「はい」

 管体を元通りケースに戻しパチンと蓋を閉じてから、調はそれを蕾実に手渡した。蕾実の役割は修理が必要そうな楽器を音楽室に来ている修理士のところまで持っていくこと。後は修理士が程度を見て見積額を算定し、その結果を元に顧問である(たき)がどの楽器を修理するか、あるいは買い替えるか等を判断することになる。果たして修理の許可が下りるかは判らないし、これを吹くことになる新入生がいるかも不透明な状況ではあったけれど、それでも備品は備品だ。ちゃんと管理しておいて、いざという時にはすぐ使えるようにしなければならない。

「他は、去年先輩達が使ってたヤツか」

 引き続き棚から取り出したケース、こちらは先程のものと違ってまだ黒々と艶を帯びていた。最近まで使われていた楽器は手入れの面では行き届いていることが多い。先輩達も引退前に楽器の清掃ぐらいはしてくれている筈だが、改めてこうやって自分の目で確認し、必要なところにはきちんと手を掛ける。それも調の仕事のうちだ。

「お疲れー、調」

 次に楽器室へやって来たのは希美だった。お疲れ、と挨拶を返して調はゴム手袋を外す。それなりに長時間作業したせいで、ゴム手袋の内側にはじっとりと汗が滲んでいた。

「部室の掃除はどう?」

「だいたい終わりかな。窓ももうピッカピカに磨いたし」

「希美の得意技だもんね、窓拭き」

「まあね」

 希美は少し誇らしげに口角を吊り上げる。実際の話、彼女が拭き上げた窓はいつも「そこにガラスが無いのでは」と錯覚するぐらい透明で、誰が見ても非の打ち所がないという仕上がりだった。

「で、そっちの調子は?」

「さっき一本は修理行きにした。あと三本は先輩達のだから、まあ大丈夫かな」

「そっか。どれどれ」

 お試しとばかり、希美がそのうちの一本を手に取った。カシャリ、と銀の管を継ぐ音が調の鼓膜に鮮やかな響きを残す。組み上げたフルートのキイをパタパタと動かして、それから希美はおもむろに楽器を構え、ひゅるりと息を吹き込んだ。ロングトーン。スケール。ポルタメント。トリル。ほんの僅かな時間のうちに続々と基礎的な演奏を通してフルートの挙動を確認し、希美の唇がリッププレートから離れる。

「どう?」

「うん、いいと思う。ちょっとローラーケン重たい感じはするけど」

「じゃあ一通りメンテしとくか。せっかくだし、他のも試し吹きしてくれる?」

「オッケー」

 さっきまで吹いていたフルートを自分に預け、希美は次のフルートの組み立てに入った。その横顔を眺めたとき、胸がジクンとむず痒くなるのを調は感じた。

 

 


 

 

「お願いします。部に復帰させてください」

 必死になって頭を下げる希美の姿を見たのはちょうど去年の夏、コンクール関西大会直前のことだった。

 それ以前からも、希美が部に復帰したがっているという話は風の噂に聞いてはいた。けれど当の本人は顧問や当時の部長ではなく副部長のところに足繁く通っていたそうで、どうやら希美は誰よりも先に副部長からの許可を欲しがっているらしい、ということもまた調の元には伝わっていた。

 その理由については色々な憶測や邪推も飛び交った。『部に戻りたいんならまず自分達のところへ一言ぐらい言いに来るのが筋だろう』と不満面をする先輩もいた。その点は、調にとって気にするようなことでは無かった。挨拶の順番なんかはどうでも良い。ただ、どうして今さら、という気持ちだけは調の中にも微かに、けれど確実に根付いていた。

 希美が退部を決意した経緯も事情も分からないではない。真剣に音楽をやりたい、高校で結果を出したい、という彼女の気持ちを裏切るような当時の部の状況にはさぞや辟易としたことだろう。こんな部に希望なんて無いと思っても仕方なかったし、だから辞めた、という希美の決断にも理解出来るところはある。彼女らに同調せず部に残った自分達が、まるで裏切りの加担者であったかのような罪悪感と一緒に。

 けれどそれから部の状況が変わって、自分が望んだ環境になったからじゃあ戻ります、という希美の態度には、どこかしこりのようなものを覚えたのも事実だった。それでは余りに身勝手じゃないのかとか、部に残って頑張ってきた自分達はどうなるのとか、それらしい文句は幾つも思いつく。でもその文句はどれも、自分の感情の根源に辿り着くにはもう一つ足りない気がしてしまう。どうして希美が帰って来ることに、自分がこんなにも抵抗感を覚えているのか。それが調には掴み切れぬままでいた。

「……別に私らも、希美ちゃんが帰って来ることに反対してるってワケじゃないし」

「滝先生も副部長(あすか)も許可出したっていうんだったら、ねぇ」

 そんな風に渋々復帰を了承した先輩達が、心から希美の復帰を歓迎していたわけではなかったと思う。けれど結果として希美の復帰は認められ、彼女は元通りフルートパートの輪の中に収まった。そうして今では多くの部員にその実力を認められ、後輩達にも慕われ、吹部の中でちゃんと自分の立ち位置を確立している。そのさまはまるで物語の主人公みたいだった。

 圧倒的な能力と熱意をもってして、周囲の状況をドラマティックに変えていく。どうしようもない苦境からでも這い上がって、時には運をも味方につけて欲したものを掴み取る。こんなこと、誰にでも出来ることじゃない。予めそうなるよう筋書きに記されていて、その筋書き通りに実行出来る人間のみに与えられた、ある種の特権。それを希美は持っている。そんな風に、自分には見えてしまう。

 果たしてこれが自分だったら。そんな意味のない『もしも』を、時おり調は考えることがある。多分、希美のようにはならない。そうと確信できるほど、自分と希美の間には余りにも大きな隔たりがあった。音楽の能力も、人望も、運勢も人格も熱量も、何もかも。

 何も自分が人間的に大きく劣っているとか、そういうことじゃない。ただ先に挙げたそれらの要素全てにおいて、希美があまりにも優れているというだけの話だ。アイツを前にして自分などはまるきり添え物のような存在でしかない。丁々発止を繰り広げる彼女達の背景をサラリと吹き流れていって、次のシーンではあっさりいなくなってしまう。あるいは学芸会のお芝居のように木Bとか雲Aとかの役になって、次の場面になるまでじっと黙ってそこに佇む。そこで為すべき役割とは『ここがそういう場所なのだ』ということをひたすら記号的に示すこと、それ以外には無いのだ。

 

 

 ――そう、まるで、タンブルウィードのように。

 

 


 

 

「そういうことか」

 ひとりでに喉がクツクツと鳴るのを留めることは出来なかった。突然にそうなった自分の様子を不審がるように、幾人かの部員達が目を向けてくる。そんなことももう、調にはどうでも良かった。

「どしたの調、急に笑い出したりして」

 怪訝そうに希美が訪ねて来る。あーゴメンゴメン、と調は希美をなだめるように、パアと両の手のひらを向けてみせる。

「ちょっと一つ腑に落ちたことがあっただけ。気にしないで」

「なら、いいけど」

 希美は未だ戸惑うように眉根をぐにゃりと歪めている。今の自分の心境を説明したところで、きっと希美には分かってもらえないだろう。今だけじゃなく、これからも。ハー、と大げさに一息ついて、それから調はケロリと言い放った。

「ホラ、さっさと楽器チェック終わらせちゃお。コレが終わったら練習もしなくちゃだし」

 だね、と微笑む希美が少しだけ自分を慮るかのような雰囲気であったのは、果たして錯覚だったのだろうか。ともあれ希美はフルートの試奏に戻り、調は試奏済みのフルートを手に取りキイ=オイルを注してゆく。その手元に己が思考をうっそりと沈めながら。

 自分でも意外なことに、答えに辿り着いた時の心境はサッパリしていた。だからと言って正直、こうして希美と立ち並んでいる時に抱くこの想いを晴らすことはまだ難しい。自分は希美の前では何者でもない。何者にもなれやしない。その凄惨な事実をすんなり受け止めることが出来るほど、人の心は単純には出来ていないのだろう。だから、いまはそれで良い。

 この時の調に光明を差していたのは、そんな自分にも何がしかの役割はある、という気づきだった。例え添え物だろうが記号だろうが舞台を表す代名詞だろうが、傍から見れば残酷で自虐的な発想と思われようが、ここにおける自分とはそういう存在だ。そして他にもきっとそういう存在はいる。たまたまその役割を担う事になったというだけで、自分もその人たちも決して無価値じゃない。その事が一つ、分かっただけで。

「うん、他二つは大丈夫」

 希美の声に思考を寸断され、ハッとして調は手元を見やった。いつの間にかボトルを絞り過ぎて、キイの付け根からはオイルが溢れ出てしまっている。こんなヘマをするだなんて、まったく、私らしくもない。希美には見られないよう滴り落ちるオイルをクリーニングクロスで丁寧に拭い、調はなんでもないような顔をして希美に答える。

「じゃ、これでメンテも終了かな。今回の病院行きはアレ一本だけってことで」

 分割した銀色の管を元通りしまい込み、調はケースを全て棚に収め直した。これにて楽器の準備は万端。新学期が始まったら一人でも多くの新入部員を獲得すべく走り回らなければならない。やるべきことはまだまだ山積みだ。

「そのためにも、部活紹介で良い演奏しなくちゃね」

「ですな。まあ頼りにしてるよ、傘木先生」

 ポンと希美の肩を叩く。何それー、と苦笑を浮かべた希美はしかし、満更でもないふうだった。

「それじゃそろそろ練習に行こっか」

 細やかな希美の脚が楽器室の床を跳ね、ポンと軽快に入り口の敷居をまたぐ。彼女の後を追いかけようとして、調はふとそこで立ち止まってしまった。

 足元には何の高さも無い引き戸のレール。ハードルにすらならない筈のそれを、何故かどうしても、踏み越えることが憚られる。

「どした?」

 向こう側では希美がきょとんとした顔で自分を待っている。今行く、と告げるつもりで、調は口を開いた。

「ゴメン、ちょっと探し物あるの思い出したから、先行ってて」

 しばし小首を傾げてから、じゃあ後で、と希美は何でもないように翻った。ポンポン、と左右に跳ねる彼女のポニーテールはまさしく荒野を往く馬のように活き活きとしていて、己の向かう先を少しも疑っていないかのような自信と勇気に満ち溢れていた。

 彼女に追いつけない自分のことを、みじめだとは思わなかった。この線の内側でひっそりと息づく自己の存在を確かめるように、調は深く息を吸い込む。ぐず、と鳴った鼻音は自分らしく、なんとも間の抜けた音だった。

 

 

 

 

 

 




(2019年2月13日発表作)
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