光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集 作:ろっくLWK
アホらしい。
その話を耳にして最初に
「あ、その顔。麗奈、信じてないでしょ」
「だって、あまりに突拍子もなさ過ぎるから」
京阪宇治駅の改札をくぐり、地下へと続く階段を降りながらなおも続きを語ろうとする
「そんな話、初めて聞いたし。誰情報?」
「私は初めに
緑、とは
「何かの見間違いじゃない? そもそも久美子って、そういうの信じないほうだと思ってた」
「信じないというか、信じたくないというか。でもまあ、そういうものがあるかも知れないなーって思うような体験がね、前にちょっとあって」
「何それ」
「詳しくはちょっと言えないけど。でも絶対なにかあるんだって、北宇治には」
そう語る久美子の顔色はいつになく気色ばんでいる。それを見た麗奈は、自分でも気付かぬうちに舌なめずりをしていた。噂話そのものにはまるで興味をそそられないが、こんなにも高揚する久美子を見ることはあんまり無くて、それが少しだけ、麗奈の好奇心をくすぐる。
「見た、って人は何時頃って言ってるの?」
「それは人によりまちまちだけど。でも大体は学校の門限ぐらいかな」
「だったら今ぐらいでしょ。私、そんなの見たことない」
「そりゃまあ麗奈の前には出なさそうだけど。逆に呪われそうだし」
その物言いにカチンと来て、麗奈はわざと肩を久美子にぶつける。ドン、と跳ね飛ばされた久美子は僅かによろめき、それから取り繕うような微笑を浮かべた。
「ゴメンゴメン。こないだの麗奈のお化け姿、めちゃくちゃハマってたもんでさ」
「あれは同級生のメイクのおかげだってば。私は裏方が良かったのに、お化け役に無理やり推薦されちゃって」
「その割にはけっこうノリノリだったように見えたけど」
「それも、久美子と
ぐぁ、と久美子が短く呻きを洩らす。思いのほか反撃がうまくいったことに、麗奈の喉はクツと震えた。
「だいたい、その時間だったら滝先生だってまだ学校にいるわけでしょ? 部員が帰ってから確認しに部室の見回りしてるとかじゃないの」
「うーん。そう、なのかなぁ」
「それにそういう怪談って大抵は夏場に流行るもんでしょ。もう秋も終わりかけのこの時期に幽霊だなんて、いくらなんでも時期外れ過ぎだと思うけど」
「いやー、それは分からないよ。現に京子さんだって、私が見たのは春だったし――」
「何? 京子さんって」
「あ、いやいや、こっちの話」
慌てて手を振る久美子の表情は心なしか青ざめて見える。ふうん、と曖昧に相槌を打ちながら、麗奈は駅舎の出口へと向かうエスカレーターに一歩を投じた。
じゃあまた明日ね。
そう言ってお互いに手を振り合う。久美子の住むマンションは宇治橋を渡った向こうにあるため、特に西詰の方面へ用事でもない限りはここで別れて各々の家に向かうことになる。ぴゅう、と吹く木枯らしをこらえるように制服の胸元をつかみ合わせ、麗奈もくるりと向きを変えた。
それにしても、幽霊だなんだと言うのも実に馬鹿馬鹿しい。全国大会が終わってすぐのこの時期にそんな噂話がはびこるのも、部員たちの気が抜けているからに違いない。そんなふうに麗奈は思う。つい先日三年生が引退し、新たに部長となった
ほら、何もない。
チェーンの張られた駐車場。敷地の隅に繁る暗がりには生き物も、それ以外の気配も、何もありはしなかった。夜の街並みを一人でぶらつくのも真っ暗な山道を登るのも、麗奈にとっては何ひとつ怖くない。それは幽霊だの何だのと、そんな非科学的なものを信じるのは馬鹿らしいことだと思っているから。むしろ猪か何かにでも出くわすほうがよっぽど怖いかも知れない。幽霊に少し怯えた様子を見せる久美子は、ちょっとだけ可愛かったけれど。
それにさっきも言ったように、そもそもがただの見間違いということのほうが可能性としてはずっと高い。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』だとか『蛇に噛まれて朽ち縄に怖じる』なんて言葉もあるぐらいだ。人間の認知能力など存外アテにならない。きっと部員たちが見たものは、閉校時間を迎えて最後の戸締まり確認をする滝の姿、せいぜいそんなところだろう――そう呟いて、麗奈の胸がコトリと脈打つ。
もしかしたらその時間、部室に行けば滝と二人きりになれるのでは?
ぶわり、とその状況が頭の中に広がっていく。どうしたんですか高坂さん、こんな時間にこんなところで。しかたのない人ですね貴女は。そんな滝の声が確かに自分の鼓膜を揺すった。それがただの妄想に過ぎないと解っていても、そうなるかも知れないという期待は一度思いついてしまえばそうそう抑え込めるものではない。そうだ。「滝が見回っていただけ」ということを自分が証明しさえすれば、こんな荒唐無稽な噂も一瞬にして引っ込む筈。それはひいては部の為にもなる。そう、これは来年のコンクールのため、全国金賞の目標を皆一丸となって果たすため。あくまでその一環に過ぎないことなのだ。
麗奈の足がほんの少し急ぎ気味に家路を辿っていく。『自分のため』という一言を、ていねいに言い訳という名のラミネートで包み込んで。
翌日の帰り。
『今日は家の用事で先に帰るから、また明日ね』
久美子にこんなメッセージを送り、それから麗奈は腹にしたためた計画を実行に移した。
万に一つも自分が学校に残っていることを疑われぬよう下駄箱に上履きを置き、取り出した外履きはビニル袋に包んで自分の教室へと置いておく。内履きの代わりに履いているのは、教員玄関から拝借してきた来客用のスリッパだ。今から学校の門限まではおよそ一時間弱。それまでを真っ暗闇に沈み込んだ校舎の中で過ごす事にも、心細さなんてこれっぽっちも無い。念のために潜伏場所として選んだのは、部室から最も遠い位置にある科学準備室。ここなら部員たちと鉢合わせになる可能性はまず無い、と見ていい筈だ。今のところ自分の目論見がうまく行っていることを確かめるように、麗奈は鞄から携帯を取り出し液晶画面へと目を走らせる。
『わかった。また明日ね』
久美子からのメッセージの下には、彼女お気に入りのマスコットキャラクターが手を振るイラストが添えられていた。打刻は数分前。久美子も今はもう校舎の外に出ている頃合いだろう。メッセージ画面を閉じた麗奈はそのまま音楽プレーヤーを起動させ、イヤホンで曲を聴き流す。曲目は『歌劇「アイーダ」より、凱旋行進曲』。勇壮に響くトランペットのファンファーレから始まり、唱歌と合わせて織り成される曲の進行にしばし身を委ねる。やがて流れてきたのは、誰もが一度は聴いたことのあるであろう『凱旋行進曲』主題の部分。その美しいトランペットの音色に合わせて、麗奈は右手の指を上下させる。自分ならこう吹く。そんなイメージを音に投影しながら。
その時、カタリ、と教室の隅で何かが動くような気配があった。何? 咄嗟にイヤホンを外し、麗奈はそこへじっと目を凝らす。しばらく警戒してみたがやはり誰も居ないし何も無い。さっきのは気のせいだったのだろうか。そう思った時、空いていた扉の向こうから何かがぬるりと姿を現した。息を止めた麗奈はそろりと机の陰に身を潜めつつ、端から片目だけを出して状況の推移を窺う。
真っ暗なので上半身の様相はこちらからは伺えないが、ライトを持っていないところからするに、恐らく見回りの教員ではない。首を伸ばしてよくよく見てみると、スカートがはらりと翻るのが分かった。どうやらまだ居残っていた女子生徒のようだ。まだこちらに気付いていないのか、彼女はしきりに教卓のあたりをうろうろしている。白いソックスを履いた女子生徒の足は遠目に見てもだいぶ華奢で、まるで地に足がついてないとでも形容するのが相応しいかのように、足取りも実にふわふわとしたものだった。
焦れる時間は体感上でも一分と続かなかった。やがて足音が教室の外へと向かい、人影ごと遠のいていく。室内の気配が完全に元通りに収まったことを何度も確認して、麗奈は溜めに溜め続けた息を大きく吐き出した。生徒であっても見つかったら面倒なことになったかも知れず、そうならなかったのは幸いという他はない。安堵の念を噛み締めてからふと時計を見やると、時刻は学校の門限に差し迫りつつあった。そろそろ行かないと、と手早く荷物をまとめ、麗奈は科学準備室を後にする。
――それにしても、そんなに長いこと聴いてたっけ。『凱旋行進曲』ってせいぜい五、六分の曲なのに。微かによぎるその疑問を、このときの麗奈はかぶりを振って黙殺した。
廊下の向こうに音楽室の扉が見える。部屋の照明自体は既に落ちていた。けれどその中にはぼんやりと、しかし確かに、何かの灯りがともっている。事前の願望――いや推測通りの展開に麗奈はゴクリと唾を呑んだ。
この時間帯、いつもなら他の部員はとっくに帰っている頃だ。最後に帰る人は必ず部室の鍵を顧問の滝に返すのが決まりとなっている。つまり、誰も部員が居ないこの状況で部室に誰かいるとすれば、それはやはり滝以外にはあり得ない。ひとりでに加速する心拍がトントンと胸骨をノックする。大丈夫。今日は下着にも特別気合いを入れてきた。それを確認するように制服の上からそろりと胸を撫でる。万に一つもそんなことになる筈が無いと重々理解してはいるのだけれど、それでももし、もしものことがあったら。期待か不安か良くわからない思いを交互に弾ませながら、麗奈はそろりそろりと音楽室に忍び寄ってゆく。
扉に手を掛けると、鍵は、開いていた。やはり。想像が確信に変わったような気がして麗奈の指に力が籠る。ガタガタと控えめに音を立てて引き戸が開けられた、その先の空間は。
「誰も、いない?」
そんな筈はない、と麗奈の視線が灯りを辿る。音楽室手前に置かれたグランドピアノ、その天板の上で煌々と光を放っているのは、これは、長方形の板か? それが画面をオンにしたままの携帯であることに麗奈が気づくまでに、そう時間はかからなかった。そして、おぼろげで仄かなそのともしびが照らし出した姿は。
「――優子先輩」
ピアノの天板を机代わりにして、そこにたくさんの書類や文献を広げて。その山に埋もれるみたいにして、突っ伏した優子の黄色いリボンが穏やかに上下している。すう、すう、と微かに聞こえる呼吸音は、彼女が夢の狭間にたゆたっている真っ最中であることを示していた。なぜ優子が、こんな時間に、ここにいる? 恐る恐る、ピアノへと近付く。そして彼女の周りに散らばった書類を、麗奈は一つずつ読んでいった。
部員の係分担。これから年内までの活動スケジュール。演奏会および練習の為の曲目とメニュー。強い組織づくりの方法。本年度コンクールの結果と内容の分析。リーダーとして各要素に求められる役割――そんな項目ばかりが目につく。それも一晩やそこらでは到底処理し切れないほど膨大な量だ。優子はこれら全てに目を通し、あるいは書き記し、部のこれからを考えていたのだろうか。それも、たった一人で。
「あれ、高坂さん?」
ひそり、と入り口から声がして、麗奈は反射的にそちらを見やった。
「夏紀先輩」
「し、」
そこに居たのは副部長の
「もう帰ったと思ってたのに、まだ居たんだ」
「先輩こそ、まだ帰ってなかったんですか」
「まあね。ウチら幹部はそれなりに仕事もあるし、それにこのアホがこの調子だし」
揶揄するような口ぶりで、夏紀は唇から離した指をそのまま優子のほっぺあたりに伸ばした。つん、とつつかれた優子から「んぎゅ」という良くわからない音が返って来る。
「あんまり一人で抱えんなってしつこいぐらい言ってんだけど、全然聞かなくてさ。コイツはコイツなりにけっこう、部長指名されたことに責任感じてるらしくて」
「そんなの、全然知りませんでした」
「わざわざ言ったりはしないだろうさ。目標は前任の副部長らしくて、傍目にゃどこまでもスマートでいたいんだと思う」
「はあ」
「それでも放っとくと、こんなふうに限界まで無茶するから。誰かがお目付け役にならなくちゃいけないってワケ」
「それが、夏紀先輩なんですか?」
「ほんと勘弁してって感じだけどね。こっちはこのあと塾にも行かなきゃなんないってのに」
ピアノの天板に肘をつき、頬杖をつくようにして夏紀は優子の寝顔を眺める。そのまましばらく押し黙った彼女に、麗奈は素朴な疑問を口にした。
「起こさないんですか?」
「あー? うん」
そぞろな返事をしながら、そっと動かした夏紀の手が柔らかく優子の髪を梳く。
「まあ、下校時間までもうちょいあるし、それまではね」
ぐっすり寝かせてあげたいから。その仕草はまるでそう言っているみたいだった。平素は露ほども覗かせない夏紀の柔らかさを垣間見て、ほわ、と胸の辺りにあたたかいものが沁み込むのを麗奈は感じ取る。
「ところで高坂さんのほうこそ、何か用事でもあったの?」
「あ、いえ、その」
そんなことを問われても、返事に窮してしまう。そもそも本当の目的など夏紀に言えるわけも無い。かと言ってその場しのぎの嘘をつくのも何となく躊躇われてしまい、麗奈はしどろもどろになってしまう。そんな様子を見てどう思ったか、夏紀は口の端からぷすりと小さな吐息を洩らした。
「まあ深くは聞かないでおくわ。それで、用事はもう済んだ?」
「あ、はい」
「じゃあもう帰ったほうがいいよ。たまーに教頭うろついてたりするし、もし会ったらネチネチ説教食らうから」
「先輩たちはどうするんですか」
「ウチらもそろそろハケるよ。コイツが起きたらね」
夏紀の親指がぞんざいに、優子の寝姿へと向けられる。
「たぶんだけど、優子は見せたくないだろうしさ。高坂さんに、こういう姿は」
あ、と麗奈は息を呑む。日頃の優子の振る舞いを思えば、夏紀の言っていることはもっともだった。
「すいません。それじゃお先に失礼します」
「よろしい。帰り道、気を付けなね」
「先輩方も」
お疲れ様です。その言葉を結びにして、麗奈はそろりと音楽室を後にした。
「――そんなわけで、音楽室に幽霊なんて居なかった。報告は以上」
「それをわざわざ確認するために居残ってたんだ。なんて言うか、さすが麗奈」
翌早朝、登校中の電車の中で、麗奈は久美子に事の次第をつまびらかにしていた。ちなみに自分の内なる願望と、寝落ちた優子の傍らに夏紀が寄り添っていた事実については、久美子に話してはいない。それはなんとなく、夏紀がこの件を久美子に知られるのを嫌がるだろうと考えたからだった。ちょうど優子のそれと同じように。
「とにかくこれで、ヘンな噂に惑わされずにみんなも練習に集中できると思う。久美子からも周りの子に伝えといて。川島さんとか、噂を広めてた子たちに」
「分かった。緑ちゃんのことだから『今度こそほんとにいるって思ったのにー!』とか言いそうだけどね」
その光景を思い浮かべてか、久美子が苦笑に眉尻を歪める。
「ところで麗奈、ゆうべその時間までどうやって隠れてたの? 一応帰るとき靴棚覗いたけどもういなかったみたいだったし、もしかして丘の藤棚辺りにでも潜んでたり?」
やっぱり久美子は靴棚チェックをしていたか。その念は麗奈には久美子に対する一抹の呆れと、それよりもっと大きなある種の勝利感をもたらすものであった。
「知りたい? べつに大したことじゃないけど。学校から出たフリして、科学準備室に隠れてた」
「科学準備室?」
それを聞いた久美子の顔からサッと血の気が引く。
「時間になるまで音楽聞いてたりしてたんだけど、途中で誰かが入って来たからまずいって思って、その人がいなくなってからすぐ音楽室に行って――」
「いや、そこはいいから、うん。その誰かって、どんな人だった?」
「普通に北宇治の女子だったと思う。暗くて良く分からなかったけど制服のスカート履いてたし、それに白いソックスも見えたし、」
説明が進むたび、久美子の顎ががくがくと震えを大きくしていく。ただならぬその様子に、今度は麗奈が眉根を寄せる番だった。
「どうしたの久美子。さっきから様子がヘン」
「あ、あのね麗奈。これ、ここだけの話なんだけど……」
手招きをされ、何なのかと麗奈は久美子の口元に耳を寄せる。そして久美子の吐息がぽそぽそと麗奈の耳を撫で。
これ以降、麗奈が一人で夜の学校に居残ることは、二度と無かった。
(2019年6月27日発表作)