光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集   作:ろっくLWK

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七.黄色いリボンと汗まみれのボトル

 

 ひと吹きを終えて、抱えていたユーフォを引きはがす。

 体に張り付く制服が鬱陶しい。じとじととした湿気は今日も朝からずいぶん高まっているみたいだった。

 そのままの姿勢で目の前の楽譜を凝視する。五本の線を縦横無尽に踊る黒い玉の羅列。正直なところ、まともに吹けているとは自分でも思っていない。それでもただひたすら、そこに書かれた音符の通りに音を奏でるより他にはない。

 目の前にはユーフォの管。そこに映された夏紀の顔は、ぐにゃりと歪んで見えた。

 

 

 


 

 

 

 春に吹奏楽部の顧問が変わり、今年からはコンクール出場者を選抜するためのオーディションが開かれることになった。正直、あの顧問ならばそのぐらいのことはやるだろうとうすうす予想していた。今年はいろいろな意味で去年とは違う。部のみんながコンクール金賞を、全国出場を目指し、血眼になって練習に練習を重ねている。そんな空気にあてられたところもあるにはある。周りの連中が必死にやってる中で私だけサボっているわけにはいかない、と。それにこの空気の中でなら、去年みたいな事件はきっと起きない。あの頃とは違う。今はがんばるのが正しいことだ。それにコンクールに出てみたいという気持ちだって、本音を言えば少しはあった。がんばることに何も制約が無いのなら、せめて今はやれるだけのことをやってみたい。その先にあるものを見てみたい。

 だけど、私にとってはそれだけじゃない。私が今さら必死こいて練習する理由、それは。

『中川先輩。みんなで、合わせてみませんか』

 今年入った私の後輩は、私なんかよりもずっとユーフォの上手い子だった。六年も吹いてればそりゃあ上手いはずだ。今年二年目で、しかもそのうち一年をほとんど棒に振っていたような私よりも、あの子のほうが上手いのは当然のことだった。今さら私がどれだけがんばってみたところで、あの子より上手くなることはできない。そんなこと、頭では解ってる。

 けれど、あの子は性根がずいぶんと優しい。じっくり話したことは全然無いけれど、パートの中で誰もが見放していたような自分のことすらあの子は気づかってくれた。もしもあの子が先輩なんて歯牙にもかけないような気の強い子だったなら、私も安心して踏まれることさえ出来た。あの子はたぶん、そうじゃない。うっかり踏んでしまったがために自分を責めてしまうような、そんな脆さを時おり感じることがある。そういう後輩に対して今の自分がしてやれることは何か。散々悩み、考えに考え抜いた末の結論は、これしかなかった。少しでも上手くなって、少しでもあの子にとって先輩らしい自分になってやること、それぐらいしか。

 課題の箇所がなかなか綺麗に吹けなくて、焦りだけがどんどん強まってくる。イメージは思い描けている。口ではフレーズを歌うこともできる。なのに指が上手く動かない。意気込んで吹くと音が外れる。もどかしい。いっそ壁を思いっ切り殴りつけてやりたい。ちゃんと動けよ、できるだろ、とこの右手に罵声を浴びせたい。でもそう思う暇さえも惜しくて、ひたすらに同じところを繰り返し繰り返し、まるで機械人形のように吹き続ける。

「珍しい、アンタが朝練なんて」

 やにわに横から声がして、そこには優子(ゆうこ)が立っていた。こんな時にめんどくさい奴が来た。本人に聞こえるようにわざと舌打ちをして、ギロリと睨みをくれてやる。カチューシャのように飾られた優子の黄色いリボンはピンと垂直に立っていて、今日もずいぶんと生意気だった。

「うっさいな。そっちこそわざわざこんなとこまで来て、なんの用?」

「べつに用事なんてないけど、さんざんサボってきたアンタもやっぱり後輩には負けたくないってカンジ?」

「アンタに関係ないでしょ」

 唾するように威嚇の吐息を向け、もう一度ユーフォを構える。今はコイツの相手をしている場合じゃない。楽譜を注視し、出すべき音を一つずつさらっていく。――さっきより感触は良くない。思い通りに吹けない自分自身に、何より腹が立つ。

「すっかり別人みたいになっちゃって。まあ、今からじゃどんなにがんばったって所詮付け焼刃だろうけど」

 飛んでくるヤジは聞こえないフリ。付け焼刃だろうが何だろうが、今の私にできることはこれだけなんだ。そういう思いで吹いた音は、今まで以上に大きく外れてしまった。苛立たしさに耐えかねて楽器を下した、次の瞬間。

 ボコン。

 間の抜けた音と共に、頭が突然何かに押される。

「ったっ――何すんの!」

 怒鳴りながら優子を見る。と、目の前にあったのは優子ではなく、ぐっしょりと結露したスポーツドリンクのボトルだった。

「差し入れ」

 ぶっきらぼうにそう告げて、優子はずいとボトルを差し伸べてくる。昔っからコイツの主張はさっぱり分からなかったけれど、いよいよもって何がしたいのかサッパリ分からない。あっという間に毒気を抜かれたみたいで落ち着かない気持ちを差し入れのペットボトルへと向ける。瑞々しくたゆたうスカイブルーの液体。それを見て、カラカラに乾いていた喉がごくりと生々しい音を立てた。無言でボトルを引ったくりキャップを捻る。そこで気付いた。

「何これ、飲みさしじゃん」

 キャップの封は既に切られていて、よくよく見ると中身もひと口ぶんほど減っている。誰が先にこれを飲んだか、なんて考えるまでも無い。その犯人を睨むと相手は涼しい、いや、冷ややかな態度でこっちを睨み返してきた。

「じゃ、私も朝練行くから。アンタもせいぜいがんばったら? アンタなりに」

 一方的にそう告げて、踵を返した優子はスタスタとその場を去っていった。何が差し入れだ。心の中で毒づきながらキャップを全開にし、中身を煽る。まだ十分に冷えている液体が喉から胃へと下り落ちていき、昂っていた体がすうっと落ち着きを取り戻していくのが解る。

「ふう、」

 飲み口を離して一息をつくと、ずいぶんと心が鎮まったような気がした。これが優子からの差し入れというのが癪に障るけれど、何はともあれ一旦リセットすることはできた。もう一回。再びユーフォを引き寄せ、今度は少し息の感触を確かめて、それから吹き込みを始める。ぎこちなかった音が少しずつ、軽やかになっていく。イメージした音にはまだまだ遠いけれど、壁を一つ越えられた。そんな手応えに自然と頬が緩むのを感じる。

 

 

 

 

 目の前にはユーフォの管。そこに映された夏紀の、今の顔は。

 

 

 

 




(2019年6月11日発表作)
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