光に向かって、その手を伸ばす ― 響けユーフォ短編集   作:ろっくLWK

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八.今夜あなたの夢を見たい

 

 夜空に浮かんだ星々を、いまごろはあのひとも見ているのだろうか。

 そんな想いに胸を掻き立てられ、いたたまれなくなった梨子(りこ)は代わりに大きな嘆息を洩らす。暗がりを映す窓から視線を移した先、握りしめた携帯電話の液晶画面は、真っ黒に塗りつぶされたままだ。

 

 

 

 

『待っててほしい』

 そう告げてくれた卓也(たくや)をあの日駅のホームで見送ってから、早いものでもうひと月以上が経つ。離れていてもきっとなにも変わらない。怖くなったら、会いにいけばいい。それができるだけの近さではあるし、そのための方法だって知っている。頭ではわかっていた。けれどいざ卓也に会いたいと強く思う時、そういったもろもろの条件とは全く別の何かが梨子の心を遮ってしまう。怖くなったら会いにいけばいい。そう思っていた、その筈なのに。

 実際のところ、進学してからは梨子自身も慌ただしい日々が続いた。学友、サークルの先輩や同輩、高校までとはぜんぜん違う形式で進む講義。ありとあらゆるものに触れ、それらを(こな)し、慣れぬ環境に無理やりにでも自分を適応させていく。それ自体は、なんとかなっている。けれど時おりこうして襲い来る感情だけは、そんな日々の内側に紛れてはくれない。

 彼はいま何をしているのだろう。

 眼前を覆う真っ黒な世界の向こうがわに、梨子は卓也の姿を思い描く。楽器修理士になる夢を叶えるために、卓也は東京の専門学校へ進学する道を選んだ。その道は決して易しくはないという。きっと彼もまた自分と同じように、いいや自分なんかよりもずっと、新しい環境にがんばって身を浸しながらも勉強と研鑽を重ねる日々を送っているに違いない。彼自身の夢を叶えるために。

 期間は二年。それが終わって卒業したら、彼はまたここに帰ってきてくれる。そしたら後はもうこんな思いに苛まれることも無くなる筈だ。そう、きっとその筈で。

「……でもさ、楽器修理士ってたいへんな仕事らしいじゃん? 朝から晩まで仕事漬けっぽいし、そのわりに手取りがいいかって言ったらそうじゃないみたいな話も聞くし。自分も仕事しながら彼のことも支えてあげなきゃで、梨子もたいへんになるんじゃないの?」

 進学して新しくできた学友にそんなことを言われ、笑顔でごまかしながらもちょっとだけ拗ねたこともある。口さがない彼女はこうも言っていた。

「二年って、あたしらぐらいの歳じゃけっこう長い時間だよー。遠恋してるうちに相手が心変わりして、なんてのもザラにあるらしいし」

 やめて。聞きたくない。耳にこびりつくいやな響きを手でぬぐうと、ごわりと不快な音に鼓膜を揺すられる。そんなひとじゃない。あのひとは、卓也君は、そんな軽い気持ちであんなことを言うひとなんかじゃ。

「今は良いかもだけど、そのうち梨子のほうだって気持ちが変わるかもだし。向こうだって堪えられなくなったりしてさ――」

 

 

 

 

 

 聞きたくない!

 

 

 

 

 

 

 黒々とした思考を打ち払うように顔を上げると、そこにはさっきまでと変わらぬ星空が広がっていた。あのひともきっと、この星空を見てくれている。この空の下で彼と私はつながっている。そしてそのうちにきっと、彼からこんなメッセージが届くのだ。

『今日は星空がきれいだ。そっちは?』

 そんな朴訥として飾り気のない言葉が、寂しさに凍えてしまいそうな私の気持ちをやさしく撫でてくれる。そんな僅かなつながりさえあれば、私はどんなに寂しくたって堪えることができる。たった二年だ。彼もきっとがんばっている。だから、私ばっかり弱音を吐く訳にはいかない。

 ついこの間までそんなふうに思えていたというのに、この頃梨子は真逆の思いに縛られることが増えていた。自分の知らないところであのひとが、自分の知らない環境を知って、自分の知らないものに染まって……そうしてやがて、自分とあのひとの間が、どうやっても埋められなくなってしまう。その『溝』にいつか、ふたりが引き裂かれてしまう。そんな想像をどうしても振り払うことができなくて、梨子にとっては何よりもそれが一番恐ろしいことだった。

 もう一度、携帯電話の画面を眺める。ボタンを押して指を動かせば、彼とのメッセージ画面がすぐに出てくる。ここにひと言打ち込んで『送信』のところをタップすれば、自分のことばは卓也に届く。かんたんなことだ。けれどそれが、そのかんたんなことが、今の梨子にはできない。そのたったひと言が夢に向かってがんばっている卓也を押し留めてしまいそうで。そしてそういうことの繰り返しがいつの間にか少しずつ、自分と卓也を引き離してしまうことになりそうで。

「あの頃は、こんな気持ちになったことなんて、一度も無かったのにな」

 ぽつりと呟いてみても、その言葉は壁に吸い込まれて虚しく失せるばかり。こんなことならこの前の連休、無理やりにでも彼のところに会いに行けば良かった。あのとき卓也から送られてきた『忙しくて夏までそっちに帰れそうにない』というメッセージについ遠慮して『じゃあ会うのは夏休みまでおあずけだね』なんて心にもない返事をしてしまった自分のことが、今はとてつもなく恨めしい。あの日以来、卓也からのメッセージは一通も届いていない。それは本当に忙しいからなのか。それとも、あるいは。

 ――ひとりぼっちの時間は、ありとあらゆる可能性ばかりを梨子に叩きつけてくる。そしてその全てが何一つとして答えらしい答えに辿りつかない。のそりと机から立ち上がり、パチンと照明のスイッチを押す。ふつと失せる(ともしび)。それと共に窓の外、暗闇の頂点から注がれるおぼろ月の明かり。霞み切ったその影はまるでぐっしょりと滲んでいるみたいだった。

 そのままベッドへと体を投げ出す。こうしているうちにあのひとから、何か些細なことで良い、連絡が来ますように。祈りを込めて、梨子は瞼を閉じる。目に映るものがこわいから。耳に聞こえるものが煩わしいから。だから代わりに梨子は夢を見る。あのひとと過ごしていた、楽しかった、懐かしかった、あの頃の夢を。二人で送った幸せな日々の欠片を。離れ際に交わした約束、そのことばの温かさを。今はそのひと時が、夢から覚めた朝の瞬間だけが、今にも孤独に押し潰されそうな自分を癒してくれるものだから。そして、夢の中であのひとが掛けてくれることばだけが、信じる気持ちをつなぎ止めてくれるものだから。

 

 

 

 

 

 

 糸で吊り上げられるかのように、やがて梨子の意識は星空遥か彼方へと導かれ、少しずつ霞んでいく。

 それがふつりと失せるその瞬間まで、握り締めたままの携帯がなにかを訴えることは、無かった。

 

 

 

 




(2019年5月25日発表作)
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