ウマ娘世界の中国史 概説 (を勝手に作ってみた)   作:河野通豪

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夏→殷→周の王朝交代と、トレーナーの祖・太公望

さて、その夏王朝は日本の学会ではその存在が疑問視されてきました。しかしながら中国での発掘調査が進んだ結果として二里頭遺跡などから殷より前の時代である可能性の高い跡が発掘されたことで、今日ではその存在は確実視されています。また禹が鎮めた洪水も紀元前1950年代に実際にあったことが地学の見地から確認されており、史書における夏王朝の建国の経緯の信憑性を補強するものになっています。

 

 

そうして成立した夏王朝ですが、桀王の代に滅ぼされてしまいます。桀王が数年におよぶ宮殿の建造や末喜という美女の寵愛によって贅の限りを尽くし失政を重ねたことで諸侯が反乱を画策。桀王に捕らわれ、釈放された後に徳を積んで信望を集めていた湯を中心に夏王朝への反乱が勃発し、結果夏が敗れ去ってしまうのです。

そして夏にとって代わった湯によって建国された王朝が「殷(商)」です。

 

 

またこのように古い王朝を武力で滅ぼし、新しい王朝を樹立することを「易姓革命」と言います。

 

 

そしてその殷(商)もまた、紂王の代に周に滅ぼされて滅亡するのですが、ここで夏→殷と殷→周の王朝交代経緯を比較していきたいと思います。

 

夏の場合

①宮廷の改築を計画し、数年単位におよぶ宮廷の建造に着手。

②諸部族を討伐した際、そのうちの有施氏から娘「妹喜」を奪い取って后とし、寵愛。肉山脯林とうたわれる程の贅沢の限りを尽くす。

③国が傾いたことで諌めてきた臣下を次々に処断。

処分を受けて捕らわれた人々の中には子履(後の殷の湯王)も存在する。

④諸侯の反乱を統率した湯王によって国を滅ぼされる。

 

殷の場合

①有蘇氏を討伐した際に美女:妲己を献上され、妲己を寵愛。酒池肉林とうたわれる程の贅の限りを尽くす。

②妲己のために鹿台と呼ばれる豪勢な建物群を建築。

③国が傾いたことで諌言してくる臣下や諸侯を次々に処断。謀叛の疑いで西伯侯:姫昌(後の周の文王)を幽閉。

④文王の後を継いだ武王が諸侯を率いて殷討伐の兵を起こし、殷は敗れて滅び去る。

 

このように夏→殷と殷→周の経緯は極めて酷似していることが分かります。これは周の時代に夏→殷の王朝交代の物語を創作されたからというのが今日では有力視されています。

 

つまり、「夏王朝を滅ぼしたの殷と同じような過程を経て自分達、周は殷を滅ぼしたのである」という正当化が図られた訳です。

 

ただし、夏→殷の王朝交代劇が全部が全部虚構であった訳ではないことが、二里頭遺跡の発掘調査から判明しています。

というのも二里頭遺跡は夏末期~殷初期の都市の遺跡なのですが、夏末期の都市跡の区画からは多量のウマ娘の骨が発掘されており、それらには鋭利な刃物で切断された痕が残されています。史書の記述を信じるのであれば、ウマ娘が武力として中華で用いられたのはかなり後代になってからであることから、発掘された遺骨のウマ娘達は夏王の後宮(ハーレム)の構成員である可能性が一番高く、少なくとも夏王朝が王朝末期に他国から大規模な軍事攻撃を受けたことは確実なのです。

 

余談ですが、後宮の構成員がこの都市跡で多数死亡していることでまさにこの二里頭遺跡こそが夏王朝の首都の跡地であるという説が中国の学会では有力視されています。

 

 

さて、夏王朝はウマ娘とヒトミミの支持を受けていたと語った通り、ウマ娘という存在に寛容な王朝でした。

しかしながら、殷王朝は夏王朝とは打って変わってウマ娘に対してアンチ的なスタンスを打ち出しています。

 

というのも、殷という国家を象徴するものの1つに「占い」があります。殷の代々の王は占いによって国事の重要事を定める「神権政治」を行っていましたが、この占いには生贄が捧げられており、その多数を占めたのがウマ娘でした。分かっている範囲だけで少なくとも14000体の生贄の実に8割近くの11000体をウマ娘が占めているのです。

 

これは旧王朝の夏王朝とウマ娘とが友好的であったことを殷王朝側が危惧し、占いを盾にしてヒトオスヒトメスよりも高い身体能力を持つウマ娘達の中の反乱分子になり得る者達を定期的に間引きしたのが始まりでしたが、やがて反乱分子の炙り出しが一段落すると、ウマ娘がヒトメスよりも美しい容姿をしている=より神に近い存在であり生贄としての価値が高いと考えによって、生贄の対象が殷国内のウマ娘から、異民族として草原を闊歩していたウマ娘へと変遷していったとされています。

 

特に殷の滅亡時の君主である紂王は東方のウマ娘異民族の征伐遠征に幾度も出ており、その中で多くのウマ娘の生贄を作り出すことに成功しています。殷滅亡の引き金となった有蘇氏の妲己もまたウマ娘(※封神演義でも狐の妖怪だが、ウマ娘に化けて登場する)の姿で描かれることが多く、この紂王の遠征の動機はウマ娘の美女を漁りに行くものであった。という説が有力です。

 

そして、そんな殷王朝から虐げられてきた異民族の1つに羌族という部族がありましたが、その羌族から1人の天才が現れました。

 

彼は姓を姜、氏を呂、名前を望、諱を尚、字を子牙といい、今日では太公望の名前で知られている人物です。彼は名君と名高い周の文王の招聘を受けると、文王・武王を支えて殷滅亡の絵図を描いてそれの実行を助けた周の名軍師です。

 

周は殷を滅ぼした後、全国各地に王族や功臣・有力諸侯を封土して、それぞれの任地に国を建てさせて統治させることで中華を治めてきました。太公望の「太公」は、殷王朝滅亡後に彼が斉の地に封土されて斉国の創始者となったことに由来します。春秋戦国時代においては管仲や晏子、孟嘗君のような傑物を輩出する人材大国、あるいは戦国七雄の一角を占める強国として有名になる斉の国ですが、もともとは美人の産地として有名でした。例えば孝行息子として有名な晋の献公の息子:申生の母は名前を斉姜といい、斉の桓公の娘ではあったものの席次・身分ともに低い女性でしたが、その美貌を献公に愛されたことで息子の申生を太子にすることに成功したりしています。

何故、斉が美人の産地となり得たのか?という問いに関して、太公望がウマ娘達を統べる王として斉を創始したと考えれば、おおよそ説明がつくという訳です。

 

言い換えるならば、太公望はウマ娘の異民族の安住の地を求めて周の殷王朝打倒を助け、その見返りとして斉の地にウマ娘異民族を中心とした国家を建設したということになります。

 

ここで、太公望はウマ娘だったのか?という問いが出てくるかと思いますが、その実はよく分かってはいません。

しかしながら、太公望(姜子牙)が主人公である「封神演義」において、武吉というウマ娘が弟子として登場していることからも分かるようにウマ娘ではなくトレーナーの役割であったという考えが今日では主流となっており、今日では文献に残る史上最古のトレーナー=トレーナーの祖・トレーナーの神様として中国のウマ娘やトレーナー職を目指すヒト学生から多くの崇拝を集めているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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