ウマ娘世界の中国史 概説 (を勝手に作ってみた) 作:河野通豪
太公望の助けを得て殷を滅ぼした周は、実に800年以上という中国歴代王朝最長の歴史を誇っています。
ですが、その途中でやはり滅亡の危機を迎えているのです。その危機が訪れたのが幽王の時代でした。
彼は即位から3年後に、後宮から1人の美女を見いだします。彼女の名前を褒姒といい、周の属国(諸侯国)の1つである褒国の出身である彼女は、笑わないことで有名でした。
幽王がどれだけ彼女を笑わせようとしても、どれだけ歓心を買おうとしても彼女は笑いませんでしたが、遂に彼女が笑う瞬間が訪れました。それは緊急事態による兵隊召集を知らせる烽火が手違いにより発せられたにも関わらず、実際には何も起きなかったことに右往左往する諸将の表情を見た時でした。
これに気を良くした幽王は何事もないにも関わらず、幾度も烽火を上げさせて度々兵士を召集させて混乱を招き、その度に困惑する諸将の表情で褒姒を幾度も笑わせるので兵士達は呆れ果てて、遂には烽火に応じなくなりました。
これが原因で、幽王は滅ぼされてしまいます。
というのも幽王は褒姒の歓心を買うため、正室の申后とその息子の宜臼を廃していたことで申后の父:申侯に恨まれており、申侯は孫にあたる宜臼を迎え入れるとウマ娘の異民族である犬戎と結んで幽王を攻撃したのです。烽火の悪戯で兵士の信頼を失っていた幽王にこれを迎え撃つことは出来るはずもなく、幽王は呆気なく死んでしまうのです。
さて、今回出てきたウマ娘の異民族である犬戎の先祖はバ場と食糧を天秤にかけてバ場を選択したために中華に移らずに草原に留まったウマ娘達ですが、繁栄のためには食糧とうまぴょい(※隠語)が必要不可欠です。
しかしながら草原地帯となると食糧は畜産か狩猟でしか得られないので大量確保は難しく、特にヒトオスの数は相当限られてくるため、異民族のウマ娘の中でも特に足の速いウマ娘によって優秀なヒトオスが独占されます。そしてトレーナーとして教育されるヒトオスとのシナジーで足の速いウマ娘とそうでないウマ娘とで実力差が更に開いていく……という格差社会が展開されることは、匈奴から後世の女真族に至るまで、ウマ娘異民族の社会ではよくあることでした。
つまり、必然的かつ慢性的に不足するうまぴょい相手のヒトオス、ならびに食糧はウマ娘異民族達のモチベーションの対象であったのです。現代でもウマ娘による逆うまぴょい事件やヒトオスへの暴力事件は珍しくありませんが、当時のウマ娘達は現代とは比較にならない程に本能に忠実であったとされています。
「ヒトがウマ娘に敵うわけがない」とは後に一代王朝:武周を興した中国史上唯一のウマ娘女帝・武則天が残した、現代にまで通用する名言ですが、勿論それは古代中国でも変わらないのです。
なお、前回で紂王はウマ娘美女漁りのために積極的にウマ娘異民族征伐の遠征に乗り出したと書きましたが、実はこの過程で戦闘があった訳ではありません。異民族ウマ娘の族長が足の遅いウマ娘を間引く形で生贄要員として差し出す代わりに、異民族ウマ娘を兵士達が現地妻とすることでうまぴょい欲を満たした、いわば回春遠征だったというのが真実のようです。
とにかく申侯は本能がひときわ強いウマ娘異民族:犬戎に目をつけ、周の財宝や食糧とを引き換えに彼女達を周の都:鎬京(現在の陝西省西安付近)に招き入れて都を混乱に陥れ、驪山に逃げ出した幽王と孫から太子の地位を奪った褒姒の息子を殺しました。
以上が事の顛末になりますが、「史記」周本紀にはまた別の記述が存在しています。
〝周の宣王の時代に「檿弧萁箙、実亡周国(山桑の弓に萁の矢筒、周の国が亡びよう)」という童謡が流行った。宣王が調査させると確かに山桑の弓と萁の矢筒を売っている夫婦がおり、宣王は2人を捕らえようとしたが、2人は逃げ延びることに成功した。2人は褒国に逃げる途中で1人のウマ娘の捨て子を拾い、褒国で養育した。
このウマ娘は長じて褒国一の駿足となり、走りと美貌で彼女に敵うウマ娘は周辺国にはいない程であった。しかし褒国の者が大罪を得た際、彼女を後宮に差し出すことで許しを乞うた。このウマ娘こそが褒姒である。ところで犬戎の王もまたウマ娘として己の走りに自負を抱いており、褒姒と競うことを楽しみにしていたが、褒姒が周の後宮に入ることを知り、酷く悲しんだ。褒姒もまた己の走りが盛りを迎えた頃に後宮に入ることになったため酷く気落ちをしていた。2人は褒姒が後宮に入る前の引退競走で互いの走りを競い、褒姒が勝利を収めた。間もなく褒姒は後宮に入り、やがて周王の正妻となり、我が子を太子にしてもらいながらも、走りを奪われた気落ちのために笑うことはなかった。しかし犬戎の国の方向に上がった烽火を見てはじめて笑った。太史公(司馬遷)は思う。褒姒は偽りの召集に困惑する兵士の表情ではなく、当時の犬戎の王との競争を思い出して笑ったのだと。〟
つまり、褒姒はウマ娘で、現役時代に犬戎の王との交流があった。彼女が笑わなかったのは現役の盛りに走りを奪われたからであり、現役時代を偲ぶことで笑いを取り戻した。というのです。
現に幽王や太子と違って、褒姒は殺されることなく犬戎側に拉致されたと「漢書」に記されています。一見、ウマ娘主体で構成される犬戎にとって、わざわざヒトオスを巡る競合となるウマ娘を掠うメリットはあまりないように思われます。
しかし、前述の周本紀のエピソードの通り、犬戎の王が褒姒の走りの才能を愛していたのとすれば、この結末に説明がつくのです。
ちなみに意外にもこれが、中華史上でウマ娘を軍事行動に利用した最初の例となっています。あくまでも中華史におけるウマ娘の部隊運用は戦国時代の趙の武霊王の時代が最初であり、申侯の事例は都を混乱させる囮としての意図が強かったとはいえ非常に画期であると言わざるを得ません。
こうしてあとは孫を王に擁立するだけとなった申侯でしたが、ここで誤算が生じました。鎬京にヒトが殆どいなくなってしまったことです。それもそのはず。都のヒトオスは軒並み繁殖要員として犬戎に連れ去られ、ヒトメスは離散あるいは殺されてしまったのですから。申侯もある程度の犠牲は覚悟していたでしょうが、壊滅状態となる程とは思っていなかったのでしょう。
これでは都を維持するのは難しいと判断した申侯は、孫を東の洛邑(後の河南省洛陽)へと遷し、周王として即位させました。
しかしながらこれは廃太子された息子が父親を討つという道理に合わないやり方でもありましたので、幽王の弟:余臣を王に擁立する勢力も現れました。申侯に擁立された宜臼を平王、余臣を携王といい、両者は相争うことになります。結果として勝利したのは平王でしたが、幽王に端を発したこの一連の争乱によって周王の権威は更に失墜しまい、春秋戦国時代と呼ばれる争乱の時代が幕を開けました。
余談ですが、この鎬京の跡地にとある異民族が住み着くようになりました。彼等こそが後に中華を統一する秦の先祖達であります。