*ヒクサクが女体化しています。ご注意下さい。
太陽暦475年。
英雄戦争は終結し、一つの紋章の化身がその宿主と共に打ち倒されてからしばし。
ハルモニア神聖国の神官将である青年は、帰還するや否や、指導者たる神官長ヒクサクへの面会を申し出た。
ヒクサクは十数年前より、表舞台に姿を現していない。神官将である立場は有数のものであるにも関わらず、面通りが叶わないことは珍しくなかった。
「ヒクサク様はお休みになっておいでです」
いつもの断り文句が取り次ぎ人より発せられ、青年ーーササライは心中で舌打ちをした。
こんなだから、死亡説なんかが流されてしまうのだ。もちろん、ヒクサクは死んでなどいない。ササライがグラスランドへ赴く前に取り次ぎ人と御簾を介してではあるが会話をしているし、何よりヒクサクは真の紋章の所持者だ。殺されない限りは死と無縁であるし、ヒクサクの持つ円の紋章は他の紋章よりもその楔は固いとさえ言われている。
「至急、ご報告せねばならぬことがあるのです」
ササライに引き下がるつもりは無かった。彼には、どうしても直接問いたださねばならないことがあった。
「構わないよ。そろそろ、良い頃合いだろうからね」
奥の間から聴こえてきた声は、かすれるように心許ないながらも、どこか力強さを感じさせるそれだった。声が響き渡り、瞬間、世界は静寂に包まれる。
現れたのは、年端もいかない容貌の少女であった。
彼女こそが、500年の時を生きる魔人、ハルモニア神聖国を統べる神官長--ヒクサクである。
ヒクサクが現れたことで、取り次ぎ人は首を垂れる。ササライは一瞬、気を取られながらもそれに続く。
ヒクサクはそれを見て、はは、と薄く笑いながら手を振った。
「そんなにかしこまる必要はないよ、ササライ。ボクと君の仲じゃないか。
ーー知ったんだろう?君自身が何者であるのかを」
ヒクサクの問いにササライはうつむき、無言で返す。それは抵抗の出来ない威圧であった。
弟と共に暗躍していた人ならざるものにも似た雰囲気の存在感は、否応なしに汗を滴らせる。
「肯定とみなすよ。
そうだな。まずは君の報告を聞こうか。色々聞きたいこともあるだろうけど、それは後だ」
ヒクサクは玉座に座り、足を組む。その矮躯では、子供が背伸びをしているようにしか見えない様相だが、その本質は立場の差を明確にさせているだけに過ぎない。どちらが上で、どちらが下か。抗いようのない事実が首元に突きつけられた。ササライは、そんな錯覚に思わず身震いをした。
ササライの報告は至って簡潔なものだった。
真の紋章の収集を命じられた彼は軍を率いてグラスランドへ攻め込んだが、仮面神官将を名乗る双子の弟、ルックの企みにより彼の持つ真なる風の紋章の化身が現れたことで全て失敗に終わったというものだ。
炎の英雄が持っていた真なる火の紋章は封印が解かれ、新たな導き手に宿った。
炎の英雄の盟友たちが持っていた真なる水の紋章と真なる雷の紋章は回収出来ず、ルックの持っていた真なる風の紋章は砕かれた。
結果、自身の持つ真なる地の紋章をそのまま持ち帰ってきただけで、兵の損失しか残らない作戦行動だったといえる。グラスランドとゼクセンの結束は固まり、今後の作戦行動にも支障が出るだろう。
「君にしては珍しく、大失敗じゃないか」
予想に反し、ヒクサクはしかし上機嫌だった。口元を薄く歪ませて、言葉なく笑う彼女の微笑みはどこか妖艶で、余程愉快であることを窺わせる。
何もかもがうまくいかなかったというのに、どういうことなのか。ササライには返す言葉もなく、ぎり、と噛み締める。目の前の女のこの余裕が、妙に苛立たせた。
「こうなることが、わかっておいでだったのですか?」
直接ではないにしろ、殺すことになってしまった双子の弟のこと。神官将の立場として戦場に現れ、ササライを暗殺しようとした彼は、ヒクサクからの命令書を携えていた。
その上で、真の紋章の回収を謳いながらも目的はその破壊にあった。
彼の企みを、果たしてヒクサクは知っていたのか?
知っていて、争わせるような真似をしたのか?
ササライにとって、ヒクサクの存在は絶対的なものだった。
決して言葉を疑うことはなかったし、その信頼は盲目的と言っても良かった。
いま、その全てが揺らいでいる。自身の生まれてから歩んできた全てが、まるで掴んだ砂のように、さらさらとこぼれ落ちていくようだった。
「その問いには、肯定しておくよ。いくつか不確定要素はあったけど、概ね結果には満足している。うん、よくやってくれたね、ササライ」
違うと言って欲しかった。
弟の死を悼んで欲しかった。
そう思って、けれど、褒められたことに愉悦さえ感じている自分を自覚した。
それは恐怖だった。
ササライは、ヒクサクによって作られた存在だ。だから、今、彼の中にある感情さえ、そう思わせられるように作られたと理解したのだ。
「戻ってきたばかりなんだろう?
休息を取ると良い。君にはいずれ、またやってもらいたいことがあるからね」
「……分かりました」
ササライは頷いて、その場を後にする。
納得がいったわけではない。無力さばかりが胸中を占める。
何もできなかった。全てが作り物で、ヒクサクの思い通りで、果たして自分には何が残ったというのか。
グラスランドの戦士たちが命を賭したあの戦いが無駄だったとでも言われたようで、けれど、ルックのようにはなれないと思い知らされたようで。
「その表情、上手くいかなかったようですね?」
声に振り向くと、柱の影から男が現れる。その声には聴き覚えがあった。明かりに照らされ見えた髪色は金髪で、それは見知った人物だった。
「ナッシュ。きみもこれが予定通りだとでも言うのかな?」
その語気は、やや荒くなっていた。ナッシュは、両手を左右に振って呆れた風に装った。
「可能性として想定していた、という程度ですよ。ヒクサク様に御目通り叶うとまでは、流石に」
「あの人には、何か別のものが見えているようだ。そして……」
「何か気になることでも?」
いや、と否定しようとして、ササライは口を切り結ぶ。
「あの戦いを、英雄戦争と呼んでいるらしいね。けれど、あれが終わりでは無いんだろう」
「次なる戦場、というわけですか」
ヒクサクは頷いた。
赤月帝国。
ハイランド。
そして、グラスランド。
共通するのは真なる紋章というファクターであり、その背後で暗躍するハルモニア。
「そして……」
そして、ヒクサクという少女。
彼女の企みの果て、新たな戦場が幕を開けることになるのだろう。
「あの老人の考えだけは読めませんね……。
ともあれ、どうです?しばらくの間で結構です。共同戦線といきませんか?」
「普段なら、君のような男は信用しない主義なんだけどね……。
そうも言っていられないようだ。恐らく身動きが取れなくなるから、情報収集を頼めるかな?」
ヒクサクの告げた休息という言葉に、拒否権は存在しない。ササライはその動きを制限されたというに等しいだろう。
ナッシュの目的も読めないという点ではヒクサクと同じだが、彼の行動原理の根底はもっとシンプルなものであるように思う。そういう点で、ササライにとっては利用価値のあるものだった。
「お任せを。連絡手段は、どのように?」
「頼りになる副官がいる。ディオスという男だ。彼に……そうだな、『風を継ぐもの』とでも伝えてくれればいい。符牒にしておこう」
「あなたにしては随分とセンチメンタルだ。引き継ぐのは信念だけにしておいてくださると助かりますがね」
「結末まで似せるつもりは毛頭ないよ。色々と……考えさせてもらうことには、なると思うけどね」
ふ、と短い微笑みと共に、ナッシュは影に消えていく。
ササライはそれを見送って、そう言えば、と思い直す。
ナッシュは先程、ヒクサクのことを『老人」と称した。だが、ササライが謁見したのは『少女』である。それは決して同値を示すものでは無いはずだ。
ヒクサクにはまだ、ササライにも想像のつかない秘密があるのだろう。
それが些細なものかどうか、答えの出ない疑問が浮かんでは消えていく。
このままで終わってなるものか。
燻る想いに名がつく日は、きっと遠くは無いのだろう。
続かないと思う