幻聴だろう。その言葉を吐いた人はこの世に居ないし、あれは夢の出来事だ。
無理やり納得させ、しばらく横になりマシになった体でゴブリンが出ていった板まで歩いていく。
よほど満足したのだろうゴブリンは、板に隙間を残し出て行ったようだった。
隙間に手を掛けるとゴトリと板が外れ重力に逆らわず倒れていった。
慌てて板を掴み優しく地面に置く。ナイスキャッチ、自分を褒めた。
部屋にある棍棒を手に取り、女性の遺体を一瞥し部屋を後にする。
(こんなこと言うのもなんだけど、ありがとう)
そう心の中で礼を言い、二度とこの部屋に戻る事はなかった。
洞窟内を道なりに歩いているとゴブリンに出くわしそうになる。
慌てて身を隠し様子を窺う。
どうやら先程の行為で疲れ切ったのだろう、岩で出来た寝台であろう物に体を預けイビキを立てながら爆睡していた。
背後から奇襲を仕掛けようと考えたが、ここで音を出すわけにはいかない。
起きないように祈りながら休憩室であろう空間を通り抜ける。その後も、警戒しながら慎重に進んでいく。
時折ゴブリンが寝ている場所があり、その都度終わった…と思いつつ通り抜けることに成功した。
だが、それも束の間であった。
「あっ……」
足元の石に足をぶつけ、小さいものの音を出してしまう。
まだ熟睡していなかったのだろう、一匹のゴブリンが目を覚まし体を捩じらせる。
頭が真っ白になった。バレる。死ぬ。終わる。
ここで俺が出来るのは音を出さずに奴を殺す事だろう。
くうっと力を込め全力で棍棒を奴の頭に振りかぶる。ここで岩にぶつかってしまえば大きな音が出る。
奴の頭にクリーンヒットさせなければいけないだろう。祈りつつ棍棒を奴の頭に叩き付ける。
成功だ。
棍棒が頭部にぶつかった瞬間、パキャっという軽快な音が鳴り頭頂部から中身が飛び出す。
【GRRRRRRR】
心臓が跳ねる。
声の正体の方へ顔を勢いよく向けるとそこには気持ち良さそうな顔で寝ているゴブリンが居た。ただのイビキだった。
ふざけんなよ…と心の中で悪態を吐きつつ再度、道なりに進む。
洞窟に入った頃よりも慎重になった俺には分かる、これは俺が落ちた坂だ。
横には人一人通れそうな道が付いていた。恐らく内情を知っているゴブリンはこの道を使うのだろう。
いずれにせよ洞窟の出口は近いという事だ。
やや高揚した心を落ち着かせ慎重に進んでいく。
外だ。空には満天の星空が広がり、肺には新鮮な空気が流れ込んでいる。
生きている。
俺は生きて洞窟から出る事が叶った。
その瞬間、今迄忘れていた体が不調を訴えてくる。
「腹減ったぁ…水も飲みてぇ。」
場所こそ違えど、奇しくも俺は異世界初日に感じた欲求を再度感じていた。
そして御者の言葉を思い出す。
夕方日が落ちる前には迎えに来るが日が完全に落ち1時間経過したら一度引き返す
そう言っていたはずだ。今、頭上にあるのは満天の星空。そしてやけに明るい月よりも大きい衛星が真上に鎮座していた。
恐らく日が明けるまでは場所は来ないだろうと考えが至った瞬間、
【GAHHHHHHHHHH!!!!!!!!!!!】
体の奥底に響くような怒声が浴びせられた。
弾かれたように振り向くもゴブリンの姿は見えない、だが仲間の死体を見つけたのだろうゴブリンが洞窟から出てくるのは時間の問題だろう。
「マジかよ……!」
思わず呟いてしまった。
だが仕方のない事だと思う。
「クソったれ……!」
悪態を吐いた後、俺は頼りない記憶を辿り、場所が去っていった方向に走り出した。
俺は走る、とにかく走る。
途中で何度も転びそうになったがそれでも走った。
後ろを振り向いてみる。誰もいない。だが言い知れぬ恐怖を感じ走り続けた。
あれからどれくらいの時間が経っただろうか。
疲労で頭が回らない。のどがかわいた。おなかすいた。
ふらつく足取りで歩き続けていると、脇道で木々の間に佇む一軒のボロ家を見つける。
藁にもすがる思いでその家に走り、扉を殴りつけるようにノックする。
ガン、ガンと乾いた音が響き渡る。
しばらくすると中から一人の女性が姿を現した。
「はい、どちら様ですか?」
女性は落ち着いた声でそう問いかけてきた。
「すみません!助けてください!追われてるんです!お願いします!匿ってください!!」
俺は必死になって女性に助けを求める。
女性は少し困った表情を浮かべた後、家へ入るよう促した。
「どうぞ、こちらへ。」
女性の案内に従い、家の中に入る。
中にはベッドとテーブルと椅子があるだけの質素な作りをしていた。
部屋の隅には台所らしき物がありそこで火を起こし料理をするようだ。
室内を見渡していると、女性がコップに水を注ぎ俺に差し出してきた。
「どうぞ。」
ありがたく受け取り一気に飲み干す。渇いていた体に水分が染み渡り、生き返るような気分だった。
何杯も飲み干しやっと息をついたところで女性に話しかける。
「ありがとうございます。助かりました。あの、何か手伝えることありますか?何でもやりますから……」
「いえ、大丈夫ですよ。ゆっくりしておいてください。」
そう言って微笑んでくれたが、流石に何もしないというのは気が引ける。
その前に…と俺の全身を見渡しこう続けた。
「まずは、お着替えを。」
そう言われ自分の恰好を見てみると、愛用のパーカーは所々ほつれていて血や泥に染まっていた。
履いていたスウェットも膝からふくらはぎまで裂けており、その奥には痛々しい傷が見えた。
多少痛かったな、としか思っていないようでも自覚してしまうと痛みの波が訪れる。
「っつ……」
「あぁ、申し訳ありません。すぐ手当て致しましょう。」
彼女はそう言うと、棚から薬箱を取り出し、消毒液と包帯を使い慣れた様子で治療をしてくれた。
足以外にも上半身には打撲の跡や裂傷が所々見えた。
「他に怪我をしているところはございませんか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」
改めて礼を言うと、それでは…とクローゼットを開きごそごそしている。
そして一着のローブを手渡された。
「これを着てください。それと貴方のお名前は?」
「あっ……えっと、太郎と言います。」
「私はエリーゼといいます。よろしくお願いしますね。」
お互い簡単な自己紹介を済ませて着替えようとする。
「あ、ここで着替えた方が良いですか?」
するとエリーゼはハっとしたかのようにそそくさと家の外に出て行った。
ローブに目を通すと下には、淡い茶色で無地のシャツがありズボンや下着は見受けられなかった。
これだけ着てローブ羽織るとかレベル高すぎだろ…と考えていると外から、
「申し訳ございません。家には男性物のお召し物が無く…」
と本当に申し訳なさそうな声でおっしゃられていた。
シャツだけでもありがたいです…と心の中で思いつつ、
「いえ!これでも上だけ着替えれるのでありがたい限りです…!」
と少し大きい声で返答し着替える。
着替え終わり、外に出る。
「すみません、ちょっと大きかったみたいですね。」
確かに大きい、袖が余っている。裾も長い。だがそれで良い。
「いいえ、問題ないですよ。」
俺はニコリと答えた。実際サイズが大きい方が動きやすいからね。それにしても……と俺は考える。
異世界に転移したと思ったらゴブリンに追われ、洞窟を抜け出て見知らぬ女性の家に転がり込んだ。
まるでラノベの主人公みたいな展開じゃないか。
そんな事を考えていると、
「そうだ、食事にしましょう。今用意しますので少々お待ち下さい。」
とキッチンに向かい夕食の準備を始めた。
俺はというと椅子に座り、ぼーっとしていた。
しばらくして、目の前のテーブルにスープの入った皿とパンが置かれた。
「いただきます。」
手を付けようとすると、その前に…と待ったをかけられた。
「まずは手を洗いましょう。」
と笑顔で言われた。大人しく従う。
手を洗い、さぁという所で、ちょっと待ってください。と再び待ったをかけられた。
えぇ…?と思いつつ顔を向ける。
「もしかしたら、少々パンが堅いかもしれません。思い切って食べてください。」
注文の多い料理店かな?
訳が分からん…よくわからないけど空きっ腹に早く食べ物をぶち込みたい衝動に駆られて勢いよくパンに齧り付く。
「うん、旨…」
口の中に鉄の味が広がった。
最後まで言葉を紡ぐこと無くパンを吐き出す。
吐き出されたパンには大量の血液が付着しおり、口の端からも温かい液体が零れ出してるのが分かる。
え?と言葉を吐きエリーゼの顔を覗くと、笑顔でこう言った。
なんでたすけてくれなかったの?
開けていたはずの瞼がもう一度開く感覚がし、目の前にはスープの入った皿にパンが置かれてた。
「あら?起こしてしまいましたか?」
隣から声が聞こえ、困り眉をしたエリーゼが申し訳なさそうにそう告げた。
どうやらいつの間にか寝てたようだ。
「いや、大丈夫ですよ。それよりもう夜じゃないですか。俺のせいでご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「お気になさらずに。」
彼女はそう言いながら俺の前に座る。
「まだお疲れでしょうから今日は泊まっていってください。」
悪いですよ、と声が出かけたがどうにも声が出ない。
頭では断りたいと思いつつ体が言う事を聞かない。
「すみません…お願いします…」
そういうとエリーゼは微笑み、さぁどうぞと食事を促してくる。
だがどうにも手が出せない。体は目の前の食事を欲しているはずなのに脳がそれを拒絶する。
食事を前にして固まっているとエリーゼから声がかかる。
「もしかして食べられないものでもありましたか?」
申し訳なさそうに聞かれる。
いや…と言いながら意を決しパンを手に取り、
まずは割って中身を確かめる。手に取った瞬間に気付いたが驚くほどにフワッしていたパンは力を入れることもなく中身をさらけ出す。
そこには何もなかった。正確にはパンの生地が出てきた。
パンに齧り付き胃に収めると次にスープに手を付ける。
一口飲む。これは血の味ではない。塩気のある肉の出汁と野菜の甘味を感じる。
そしてもう一口、口に含む。やはり血ではなかった。今度はトマトのような酸味と微かな甘さが感じられた。
そのまま飲み込む。
美味しかった。
涙が出てきた。
日本では散々美味しいものを食べてきたのに、何も塗っていないパンが、薄味のスープが
今まで食べてきたどんな料理よりも美味しく感じた。
エリーゼからしてみれば、夜中にやってきたボロボロの男性が泣きながら食事をしているなど狂気の沙汰に見えるだろう。
だがそれでも俺の前にいるエリーゼは不快感を一切表情に出さず、笑みを浮かべながら食事風景を眺めている。
恥ずかしかった。礼を言ってさっさと立ち去りたい気持ちになった。でも体は正直だ。
食事を口元にもっていく手は留まることを知らなかった。
暫くして食事が皿から無くなると同時に瞼が重くなっていた。
「どうぞ、お休みください。」
エリーゼが言い切る前に気絶したように、意識が闇へと落ちていく。
「眠……」
最後に辛うじて出た言葉がこれだった。