目を覚ます。窓から日差しが漏れ出している。
上半身を起こすと体の節々が痛む。
昨日の事を思い出す。
「夢じゃなかったんだな……」
思わず口からこぼれ出る。
いつの間にか横になっていたベッドから体を起こす。
するとドアが開き、エリーゼが入ってきた。
「おはようございます。」
挨拶をする彼女に俺は咄嵯に返事が出てこなかった。
「あ、あの……ありがとうございました。それと、色々とご迷惑をお掛けしました。」
何とか絞り出し、謝辞を述べる。
「いえいえ、いいんですよ。困った時はお互い様ですから。」
と笑顔で返される。天使かな?
「そうだ、朝食は摂られますか?」
夜中に家に転がり込んできた挙句、家の物食い散らかしそのままぐうたら寝ていた俺は流石に遠慮しておいた。
あまりにも図々しすぎるよなぁ…
とりあえず気になった事を聞いておく。
「すみません。ちなみにここってどこですか。」
「エルミナス王国ファリーナ領の北西に位置する、アブン村の離れです。」
なるほど、此処はエルミナス王国ファリーナ領の北西に位置する、アブン村の離れだったのか。そうだったのか。
うん、何もわからん。
だがこれ以上迷惑をかける前に退散しておこうと考えた俺は、
「そうでしたか。すみません今は何も返せないですけど、絶対に恩は返しに来ます。本当にありがとうございました。」
と早口で捲し立てながらペコリと頭を下げ家の出口へ向かう。
「どちらに行かれるのですか?」
エリーゼから声が掛かる。
心なしか声の抑揚が無くなっていた気がした。
「王都まで戻ります。それでは」
と借り物のローブを大げさにはためかせ出口へと向かう。
「お待ち下さい。」
その声は先程と違い有無を言わさない圧力があった。
「えっと……な、なんでしょうか。」
顔を見るのが怖いので扉に目を向けたままエリーゼに問いかける。
「どうやって王都へ戻られるのですか?それに、お身体も万全ではないでしょう。」
「いや、戻り道はなんとなく分かってるんで…体も一晩寝てかなり楽になりましたし…」
「嘘。」
とバッサリと切り捨てられる。
一声かけられただけなのに体の芯から底冷えするような感覚に陥った。
「え…な、なんで?」
恐る恐る振り向くとそこには、無表情でありながらも蒼い瞳をこれでもかと鋭くしたエリーゼが鼻と鼻がくっつきそうな距離まで近くにいた。
「うわっ…!」
慌てて後ろへと飛び退くも足に痛みが走りそのまま尻餅をついてしまった。
見上げると先程変わらない表情でエリーゼが立っていた。
「ごめんなさい!!!」
そう叫び、這う這うの体で扉を開けその場から逃げ出した。
後ろから何か聞こえたような気もするが、とにかく逃げたかった。
肺が酸素を必要とし、精一杯空気を取り込もうとするもそれ以上に酸素を消費する。
ある程度進んだ所でようやく一呼吸ついた。
「はぁはぁはぁ……ふぅ……はぁ……怖ぇ……マジで怖かった……何だよあれ……」
恐怖か疲労なのかどちらにせよ、玉のような汗をかいていた。まだ心臓がバクバク言っている。
「あの女、絶対ヤバい奴だろ……」
エリーゼの事を思い出そうとすると脳裏にフラッシュバックする。
まるで蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなった瞬間を思い出し背筋が凍りつく。
「ぶっ殺される3秒前だったろ…あの顔…」
それにしてもここはどこだろう。無我夢中で走り続けた為、自分がどの方向に走り続けたのか、どこまで走ったのかも分からなくなっていた。
辺りを見渡す。そこは森だった。
「……迷ったな。」
だが後悔はなかった。むしろ清々しい気分だった。
白い狼の姿が頭に浮かぶがすぐ払いのける。
やたらとあいつには縁があるが都合よく今回は出てくる事はないだろ…と希望的観測をする。
さてと、
「どうすっかな。これから。」
とりあえず、当面の目的として王都に戻る事とする。
その為にもまずは道を探し出さなくてはならない。
しかし、俺にこの世界の地理など分かるはずもなく、あてずっぽうに進むしかないのだが……
しばらく思案していると、
「ガサッ……」
明らかに草木を搔きわける音が聞こえた。
はい、いつものね。OKOK大丈夫。見なくても分かる。
居るんだろ白い狼。振り向いたら眉間に皺寄せて襲い掛かってくんだろ?分かってるよ。
諦めたように、あるいはそこに何があるか最初から知っているような素振りで振り向く。
居た。
すっぽんぽんの女が。
正確には局部は隠れているものの、肌にぴったりと張り付いた服は脇から伸びる布により先端が隠されており、下半身はタンガが局部を隠している。
失礼だと思いつつ女性に耐性が無い俺は勢いよく視線を逸らした。
「あらぁ?美味しそうな匂いがすると思って来てみたけれど…」
女性は舌なめずりをしてこう続ける。
「魔力は少ないけど、元気そうな男の子が来たわね♡」
恐る恐る正面を向くと、
彼女は人には見慣れない物を持っていた。
湾曲した短い角、腰より少し高い位置に付いた黒い翼、ゆらゆらと揺れる黒い尻尾。
ゲームやアニメを見たことのある人間はこう思うだろう。
「サキュバス…」
「はぁい♡呼んだ?」
腰をくねらせ胸を強調するように前に突き出した。
エッッッッッッッ!!!!
思わず食い入るように目を剥いてしまう。
そんなこちらの態度を気に留める事も無く、さらに言葉を続ける。
「キミ名前はなんて言うのぉ〜?」
「あ……太郎です…」
「た・ろ・うくんねぇ。」
「は、はい……」
「私はリリス。よろしくね。」
「は、はぁ……」
「それで、たろークンはこんなところで何をしてるのかなぁ?私と遊びたいの?食べて欲しいの?それとも……」
サキュバスが視界から消え、代わりに視界が空を映す。
「がぁっ…はっ」
何が起きたのか分からなかった。
今まで目の前にいたサキュバスは倒れた俺の胸に手を置きそのまま地面へと衝突させた。
あまりにも一瞬の出来事に呼吸を忘れる。
「私を懲らしめに来たのかな?」
笑顔でサキュバスは俺に問いかける。
胸にめり込む手が更に圧迫される。
「…ハッ…あ"ァ…!」
肺に残っていた空気が全て押し出される。
あまりの激痛に視界が歪み、赤く染まっていく。
「あら、ごめんなさい。つい力を入れすぎちゃったみたい。」
パッと手を離される。急に訪れた解放感からか、肺が酸素を急激に取り入れ息が荒くなる。
「それにしても、たろークンは本当に弱っちいんだねぇ。」
クスクスと笑いながら俺から離れる。
「死にっ…かけて…、迷っ…て、王都…行きたくて…!」
過呼吸気味になりながらも重要な点だけを吐き出す。
「あら、そうなの。ここから随分遠いんだけどねぇ。」
案外素直に教えてくれる。割と友好的なのかも?
だが次の言葉であっさりとその考えは捨てられた。
「まぁ、もう帰れないんだからたろークンには関係ない事だけどね♡」
終わった。ゴブリンの時とは違い簡単に隙を作れないであろうことは分かりきった事だし、何より最初の攻撃で理解した。
次元が違う。
目の前にいたはずなのにシーンを切り抜いたかのように姿を消したかと思うと、次の瞬間には地面に叩き付けられていたのだ。
胸に置かれた手を退かすなんてとても出来た事ではないと思う。
「そ・れ・じゃ・あ♡」
と倒れた俺に体重を掛け、
「いただきまぁす♡」
首筋をペロリと舐められる。
終わった…と思いつつもせめて痛くしないようにしてください…と心の中で祈っていると、サキュバスは弾かれたように上体を起こした。
「えっ…まっっっっず!」
ぺっぺっと舌を出し咳き込むサキュバスに俺は動揺を隠せなかった。
「え?不味い?」
落ち着いたのかサキュバスは端正な顔を歪めこう吐き捨てた。
「あなた呪われてるじゃない!」
「のろ……われてる?」
「そうよ!それも、かなり強力な呪いよ!!」
サキュバスの表情からは怒りが滲み出ていた。
そういえば呪術師のばぁさんがそんなこと言ってた気がする。
俺の命が長くは持たないって言ってる辺り結構ヤバい呪いなんだなぁと他人事のように思っていると、
「何でこんなもの付けてるの!?」
とサキュバスが叫ぶ。
何でも何も、いつ付けられたのか付けた奴の事など心当たりのない俺はひたすら、いや…えっと…とはっきりしない態度を取り続けていた。結論。
「よく分かんない…です。」
するとサキュバスはため息をつき、 なら仕方がないわね。と呟いた。
そしてこう続けた。解く方法が無いわけじゃないんだけどね。
「でも、今会ったばかりのキミに私の寿命をくれてやるつもりは無いわ。」
どういう事…?とサキュバスに疑問を投げかけると、
「その呪いは、本当にキミを殺したい!って思わないと付けない呪いなの。普通だったら子供が作れなくなる~とか行く先々で不幸あれ~とかね。」
それに、
「魔法が発展した今じゃそんな回りくどい事普通しないわよ。でも事実キミには死の呪いがかけられてる。解く方法は一つ…」
呪いによって縮められた寿命の分を他の誰かが相殺するしかない。
「たろ―クンは今おいくつなのかな?」
「22です…。」
じゃあ、と続けた。
「仮にたろークンがこのまま呪いの影響を受けずに80歳まで生きるとしたら、呪いで死ぬ大体…23歳から差し引いた寿命を誰かが肩代わりするしかないの。」
57年。
つまりは、家族どころか知り合いすらいないこの異世界で、見ず知らずの俺の為に60年近く寿命を捧げられる人を探さないといけない。
「それに、そんじょそこらの人間は使えないわよ?ある程度呪いに精通した者でないと。」
とそこまで言うとサキュバスは急に俺が来たであろう方向に顔を向けた。
「え?な、なに…?」
そこまで言うが早いかサキュバスは俺の上から飛び退き少し遠い所に着陸した。
その瞬間サキュバスが元居た位置に血が固まったような見た目の刺々しい針が飛んできた。
「何故、魔物なんかと会話をしているのですか。」
血の針が飛んできたであろう方向に目を向けるとそこには、
探しましたよ。とエリーゼが冷ややかに告げそこに立っていた。
「あら、お友達?」
とサキュバスは俺から距離をとりつつ言った。
「黙りなさい。」
そう言いながら、エリーゼは俺の方に歩み寄ってきた。
「あ、あの……」
「話は後です。」
サキュバスを一蹴し、こちらに向き直る。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……はい……」
そこでふとある事に気が付く。
エリーゼの手首に小さな切り傷があったのだ。そこから垂れる血液が彼女の白い肌をより一層白く見せている。
「えっ?あっ、これは……」
エリーゼは俺から目を逸らすと、
「何でもありません。」
と言い、サキュバスの方を向いた。
「悪いけど私、女には興味ないの♡」
と、余裕の表情を浮かべていた。
「では、男に興味があるとでも?」
「たろークンに興味があるの♡」
「なら、貴方に用はない。」
そう言って剣を抜いた。
「あら、物騒ねぇ。」
そう言いながらも、サキュバスも戦闘態勢に入った。
あれ?逃げるなら今じゃね?
睨みあう二人から目を離さずじりじりと後ろへ下がっていく。
すると背中に茂みが当たる音が聞こえる。
その音がきっかけだったのか、
「死ね。」
エリーゼが口にし両者が動きだす。
相変わらずサキュバスの動きはよく見えないが、エリーゼは俺の目にもはっきりわかるように攻撃を受け流している。
理屈は分からないが、どこからか放たれた緑色の閃光を流れるように剣や手で払い退ける。
弾かれた魔法は俺のすぐそばにも着弾し触れた地面は当たった箇所がジッと音を出し溶融している。
「動かないでください。」
エリーゼは虚空に目を向けながら俺に言葉を投げかける。
怖ぇぇぇぇ…!!!
そして防戦一方だったエリーゼは徐に走り出し虚空に向けて剣をふるった。
僅かに見えた影がその剣先に当たり正体を現す。
肩から黒い液体を流すサキュバスがエリーゼから距離を取り、人差し指をエリーゼに向ける。
同時にエリーゼは剣の先をサキュバスに向け二人は咆哮を上げた。
ルウが魔法を使用した時のように二人とも何を言っているのか分からなかったが恐らく、魔法のトリガーを引いたのだろう。
両者からそれぞれ異なる魔法が放たれる。
サキュバスからは緑色の閃光が、
エリーゼの剣からは自然界には存在し得ないであろう異常に蒼く光る木の根が、
丁度、両者の間で衝突する。
まるで黒板に金属を擦り付けたような不快な音色が森に響き渡る。
目が奪われる。遂に憧れの魔法を使用した戦闘が目の前で繰り広げられる。
だがこの場から逃げ出す最大のチャンスは今だろう。
後ろ髪を引かれつつも後ろの茂みに飛び込んだ。
もう気付かれていないと願うしかない。
顔のあちこちを草木で傷つけながらも必死でその場から離れる。
相変わらず後方では不快な音は鳴り止む事はない。