エレンの従姉妹「タトラ」は悩みに押しつぶされていた。
少女タトラは、テンペストの研修で救われるのか。
【プロローグ】
サリオンの夜。
バーやレストランの窓から明かりが漏れている。
「パープー、パープー」
サイレンが近づいてくる。
「タトラちゃん!落ち着いて!」
エレンの隣で背の高いボーイッシュな少女が立ち尽くしている。
エレンは両手で少女の右腕を押さえている。
少女はどこを見ているのでもなく、遠くに視線を送っている。
右手には血の付いたナイフが握られている。
少女は腰が抜けたように地面に座り込んだ。
エレンと少女の前には腹から血を流してうめき声を漏らしている男が横たわっている。その周りに二人の男が呆然と立っている。
少女はタートルネックの長袖シャツに手袋をはめていて、手袋は真っ赤に染まっている。
1.0 リムルの執務室
小高い丘からテンペストの中央都市リムルが臨める。綺麗に区画整備された町にはテンペストの行政庁舎が見える。壮観な建物だ。
「んー」
午後の面会を一つ片付けたリムルは、ソファーにドスンと座って両手を挙げてのびをした。
「シオンー。この後の面会は何時からだ?」
シオンはノートをめくり眼鏡を少しあげて壁の時計を見た。
「30分後ですね」
「そうか、今日はそれが最後の面会だったよな」
「はい。ラストです」
「・・・はー。毎日毎日、面会面会。分身体にやらせたらどうだろう?」
「ホーホホホ。ダメですね。そんなこと」
「・・・あーあー分かってるよ。言っただけ言っただけ。次は誰だ?」
シオンは再度ノートをのぞき込んだ。
「・・・エリューン・グリムワルト?サリオン王朝?」
「ん?エリューン?サリオン?・・・それってエレンのことか?」
「そうですよね?この名前」
「なんだよ。わざわざ。エレンならいつもみたいに突然来てお茶飲みながら世間話して行けばいいのに」
「ですよねー?」
「まあいいさ。エレンなら一気に気が楽になった」
・・・・・
「やあ、エレン。町に来てたんだな」
「・・・うん」
執務室に入ってきたエレンは返事をしながらゆっくりリムルのデスクに歩いてきた。
「わざわざ面談の予約を入れてどうしたんだよ。いつもみたいにふらっと遊びに来ればいいのに」
「うん。ちょっとね。・・・相談したいことがあるのよ」
「ふーん。・・・まあソファに」
エレンは後ろを向いてソファーまで歩き、いつも自分が座る所に座った。
リムルも立ち上がりソファーに行くと、エレンの向かいに浅く腰掛けた。
「リムルさん。私ね、三つ年下の従姉妹がいるの・・・」
2.1 エラルドの判断
エラルドは机に両肘をついて、頭を抱えた。
サリオンにある執務室の机の向かいにはエレンが立っている。
「何ってことをしてくれたんだ」
「タトラちゃんにはいろいろ悩みがあるのよ。あの男が悪いんだし・・・」
エラルドの前で娘のエレンがうつむいて答えた。
「知ってる。しかしだな・・・」
・・・・・
「・・・話は分かった。・・・なかった事にさせよう」
エレンはタトラが男を刺した時の事を細かく説明したのだった。
昨晩の出来事だ。
・・・・・
タトラはエレンの3才年下の従姉妹にあたる。
子供の頃からよく一緒に遊んでいた。
事件が起きた日、エレンは休日のショッピングをタトラと楽しんでいた。
夕方カフェでケーキを食べながら話をしていた。
「テンペストって楽しい町なのよー。一緒に行こうよー」
「えー。私、別にいい」
「美味しい食べ物がいろいろあるし。温泉も気持ち良いのよー」
「いい」
「町までもー、途中からだけど、街道が整備されててー、街道の途中の宿屋さんもとっても綺麗なのー」
「・・・なんで、そんなにテンペストを薦めるのよ。」
「だってー、楽しいんだもん。リムルさん、楽しいひとなのよー。このひとが魔王なのー?って感じのいいひとなの」
「私が魔王に会う理由がないでしょ」
「リムルさんに会わなくてもいいのよー。遊びに行こうよー」
・・・そんな旅行の話をしてカフェを出た。
「帰ろうか・・・」
夕暮れで辺りは暗くなってきた。
二人で楽しく話をしながら歩いていると、すれ違った3人組の男に声を掛けられた。
「ミドリちゃん。あれ、ミドリちゃんだよね。ちょっとちょっと」
エレンは振り返った。
「えー。人違いじゃないですかー?」
「あんたじゃないよ」
一番前で背の高い男がエレンを睨んだ。
エレンは振り向きタトラの背中を見た。
「違います」
タトラが背を向けたまま答えると、歩き出した。
背の高い男が一歩前に出て叫んだ。
「あー間違えた間違えた。ミドリじゃないわ。名前なんだっけ?タトラだ」
後ろにいる小太りの男と痩せた小男も言葉を続けた。
「ヒャヒャヒャ、あれ、ミドリじゃなかったっけ?」
「ミドリって名前だよなー。クックックッ」
男達が大きな声でそんな話を始めると、だいぶ離れたところまで歩いていたタトラはまたこちらに向き直すと、早足で戻ってきた。
エレンの前をタトラは通り過ぎ、背の高い男に体当たりした。
「え?え?何?何してるの?」エレンがびっくりしていると、後ろの男二人が大きく後ずさりした。
背の高い男がその場で前屈みになって腹を押さえ一歩後ずさりした。
その男はひざから地面に着くと、座り込み右手を顔の前に持って来てつぶやいた。
「なんだこれは・・・」
男の右手は真っ赤に染まっていた。男はそのまま横に倒れて腹を押さえ丸くなっている。
後ろに居た小男が倒れた男の所に来て、手で揺すっている。
「おい、ロメッシュ!ロメッシュ!おい、おい」
近くに居た通りすがりの小柄な女性が叫んだ
「キャー」
叫び声を聞いたらしく、ひげを生やした大男が建物から飛び出してきた。
「・・・おい、どうした?」
倒れている男の腹から血が出ている。
その向こうには右手に血が付いたナイフを持った少女が立ち尽くしている。
「おいおい、なんだこれは。・・・救急車だ。救急車」
大男はまた建物の中に戻った。
エレンはタトラの所に走って行き、右腕を両手でつかんだ。
空には消えて無くなりそうなほど細い三日月が、雲に隠れるところだった。
・・・・・
「・・・話は分かった。・・・なかった事にさせよう」
エラルドはつぶやいた。
「まだこの事を知っている者は少ない。俺がなんとかしよう。エレン、お前も誰にも話をするなよ」
「・・・うん」
2.2 タトラの出生
タトラの母親『ヘブミューラー』はエラルドの妹だ。兄が二人いて、自分が家を継承する必要が無いことを子供の頃から認識していて、自由奔放に育った。若い頃には冒険者のまねごともしていたらしい。
エレンはそんな『ヘブミューラー叔母』の影響を受けているのかもしれない。
ヘブミューラーは若い頃に冒険者として各地を巡っていた。今のエレンのように。
そんな時、魔物と対峙し怪我をしたヘブミューラーは、商人をしていたホブゴブリンに助けられた。
商人は森の各地に散るゴブリンの集落とドワルゴンを行き来し、武具や生活必需品を売っていた。
魔人との取引もしていて、ある魔人に名前をもらい進化した。
そのホブゴブリンは実力を持ち、そして優しかった。名前は『カルマン』である。
カルマンは元々弱い種族であるゴブリンの為に自分の利益を度外視して商品を販売していた。弱い人間・エルフ族にも優しく接した。
カルマンは行商の途中で、怪我をしたヘブミューラーを助けた。「怪我が治るまで・・・」と行商に同行させ守った。
そんなカルマンとヘブミューラーが惹かれ合うのは必然であり、ヘブミューラーは生涯この者に付いていきたいと考え、カルマンに告白した。
ヘブミューラーはカルマンを自国サリオンに連れて行き、母親『エリス』に紹介した。
「私達は一緒に暮らします。許可して欲しいとは言いません。ただお伝えしたいだけです」
ヘブミューラーは当然ダメだと言われると考えそう告げた。
「許可?・・・何を言っているのヘブミューラー。なんで私が許可しないといけないの?」
やはりそういう返事が来るか・・・
「これはあなた方の問題よ。私が許可するもしないも、あなた達が決めることじゃないの。いい?ヘブミューラー。一緒に暮らすって事は大変なことなのよ。親が良いって言ったかダメって言ったかなんて問題じゃないのよ。その覚悟は出来てるんでしょうね」
「覚悟は出来ています。私は・・・」
「それなら良いじゃない。頑張りなさい。カルマンさん。娘をよろしくね。幸せになって下さい」
今まで黙っていたカルマンは答えた。
「はい。娘さんを幸せにします」
「良い答えね。・・・私は別に他に言うことはないわよ。・・・そうね、言うとすれば、・・・私はあなた方の味方よ」
ヘブミューラーの兄であるエラルドは大反対であった。当然である。
ゴブリンと言えば、エルフ族と近い種族ではあるが、エルフから見たら下等な種族と評価するのが当たり前である。
エルフがゴブリンと結婚するなど聞いたことがない。そんな結婚を一族の中から出す、妹がゴブリンと結婚するだなんて事を考えることができなかった。
しかしエリスは「反対しても無駄よ」の一言で息子を黙らせた。
元々家でじっとしていられないヘブミューラーは、カルマンに付いて一緒に行商の仕事を手伝った。
ドワルゴンでは買い付けの仕事をこなし、ジュラの森ではカルマンと一緒に行動し、各集落を回った。
時々サリオンに帰省し、生活が上手くいっている事をエリスに報告していた。
兄エラルドには結婚以来一度も会っていない。
しばらくするとヘブミューラーの体には新たな命が宿る事になるのも必然のことであった。
大きくなったお腹を抱え、行商の仕事を一緒にしていたが、臨月になると出産の為にサリオンに戻っていた。
カルマンとはしばらくの別れである。
3才になったエレンはヘブミューラー叔母の冒険の話を聞くのが大好きだった。
サリオンの町に居ては分からない、面白い生き物の話や、活気あるドワルゴンの話を聞くとわくわくした。
町に戻ってきたと聞くと会いに行き、冒険話をせがんだ。
そして今回出産の為に長期滞在する事になったヘブミューラーの所へは毎日の様に通い、大きくなったお腹に耳を当て、
「ここからいつ赤ちゃんが出てくるの?お姉ちゃんだよ」と声を掛けていた。
ヘブミューラーが産婦人科に移動したと聞いた次の日には『赤ちゃんが生まれた』と聞かされた。
病院への行き方を知らないエレンは、父親エラルドに「病院に赤ちゃんに会いに行く」と言ったが、「ダメだ」とだけ返事をされた。
それでも赤ちゃんに会いたいエレンは、祖母であるエリスに「病院に行きたい。赤ちゃんに会いたい」とお願いをした。
エリスはエレンに告げた。
「会いに行こうね。でもね、エリューン。驚いちゃだめだよ。いろんな赤ちゃんが居ていいんだからね」
エレンは何を言われているのか分からなかった。ただ赤ちゃんに会える事が嬉しかった。
エリスはエレンの手を引き産婦人科を訪れた。
廊下を進み一番奥のドアの前でエレンに同じ事を言う。
「驚いちゃダメよ」
「うん」
ドアを開けて中に入った。
目の前のベッドの上にはヘブミューラー叔母が座っていて、何かを抱いている。
エレンは小走りにベッドへ進んだ。後からエリスが付いてくる。
ヘブミューラー叔母の胸には真っ白な産衣に包まれた様に赤ん坊がいた。
「かわいいー。赤ちゃーん」
エレンは触ろうと手をそーっと出した。
「まだダメよ。赤ちゃんは弱いの。ごめんね」
叔母ヘブミューラーにそう言われ、エレンは手を引っ込めた。
エレンは後ろに立っている祖母の顔を見上げた。
「赤ちゃんかわいいねー。私驚かなかったよ」
エリスはこくんと頷いた。
「子供の様子はどう?」
エリスが尋ねる。
「ええ、元気よ。問題はないわ」
ヘブミューラーが答える。
・・・赤ん坊が泣き出した。
「おやおや、オムツの交換かな?」
そう言うとヘブミューラー叔母はベッドから降りて赤ん坊をベッドに寝かせ、産衣を脱がせてオムツの交換を始めた。
初めて見る赤ちゃんをエレンは不思議に感じた。
なぜなら、首から下が全て緑色だったからだ。
「赤ちゃんって緑色なのねー」
祖母がエレンの口を後ろから両手で塞いだ。
「・・・?」
ヘブミューラー叔母はささやくように話し始めた。
「エリューンちゃん。体が緑なのはこの子だけなのよ。他の子はみんな肌色なの。・・・でもそれだけのことなのよ」
「ふーん。それだけのことよ」
エレンは繰り返した。
エレンは赤ん坊を見るのが初めてで、そんなことは全く気にはならなかったし、そう言うものだろうとすら思った。
驚くことはなかった。
この時の皆の反応が『体が緑だと言う事が大問題なのだ』と、後々思い知らされる事になる。
オムツ交換の済んだ叔母はベッドに座って再度赤ん坊を抱きかかえた。
エレンは両手を背中で組んで赤ん坊に近づいた。
赤ん坊に顔を近づけて話をした。
「あかちゃーん。私はお姉さんだよー。早く遊ぼうねー」
「カルマンさんには生まれたことは伝えたのかい?」
「ええ。手紙は出しました。会いに来るはずです」
「そうかい。・・・体のことは?」
「なにも言っていません」
「・・・そうかい」
そのあとは沈黙が続いていた。
エレンは一人「赤ちゃん、赤ちゃん」と声を掛け続けた。
しばらくするとヘブミューラー叔母は赤ん坊と一緒に屋敷に戻ってきた。
数日後カルマン叔父がサリオンを訪れ、叔母と赤ん坊を連れて町を出て行ってしまった。
エレンは赤ん坊と遊ぶことを楽しみにしていたのに、居なくなったことを教えられ涙を流した。
赤ん坊の名前だけを教えられた。『タトラ』と名付けられたと・・・
2・3 幼少期のタトラ
町を離れたカルマン家族は年に2回程度はサリオンを訪れた。
町に帰ってくると祖母エリスの住居に滞在した。エレンにはエリスから連絡があった。
エレンはタトラに会うのを楽しみにしていて、毎日遊びに行った。
タトラは1才になっていた。大きくなっていたが、まだ歩けない。
ハイハイで家の中を歩き回っていて、エレンは一緒について家の中を歩いた。
疲れたタトラが昼寝を始めると横に並んで一緒に寝て、食事を始めると隣に座って一緒に食べた。
タトラは離乳食を自分ではまだ食べられない。叔母のヘブミューラーがスプーンで食べさせているのを見て、「私もあげたーい」と言っては「エリューンにはまだ無理かなー」とさらりとヘブミューラーに断られていた。
タトラが寝ている間、エレンはヘブミューラーやカルマンからドワルゴンの町での話や、ジュラの森の魔物の話を聞く事も楽しみにしていた。
次の日、エラルドが「これを持って行って、おばさんに渡しなさい」とリボンの付いた小さい箱をエレンに渡した。
エリスの家に着くと「はい、これ。お父さんから」とヘブミューラーに箱を渡した。
ヘブミューラーは椅子に座って、テーブルの上で箱を開けた。エレンも横に並んで箱の中を覗いた。
箱の中には、白くて小さなカワイイ洋服が入っていた。
「まあ・・・お兄さん」
ヘブミューラーが微笑んだ様に見えた。
タトラの服なのだろう。一歳の子供が着る服は小さく可愛い。自分が着ている服とはサイズが全然違うとエレンは感じた。
「エリューン、ちょっと待っててね」
そう言うとヘブミューラーはタトラが寝ている隣の部屋に服を持って行き、しばらくするとタトラを抱いて部屋に戻ってきた。
さっきまでリボンの箱にに入っていた可愛い服を着たタトラが寝ぼけ眼でこちらを見ている。
「カワイイー。タトラちゃーん」
エレンはタトラに話しかけた。長袖から出ている可愛らしい小さい手が緑色であることになにも違和感を感じなかった。
「エラルドに『ありがとう』って伝えてね」
ヘブミューラーが笑顔でそう言った。
小さいエレンは、父親エラルドがカルマン家族と会っていない事を知らなかった。その理由も。
サリオンを訪れる度に成長しているタトラも、サリオンでエレンと会うことを楽しみにしていた。
タトラが七歳になる年、ヘブミューラーとタトラだけがサリオンに戻ってきたとエラルドに聞かされた。
カルマンが魔物と対峙して死んだというのだ。
エレンは涙を流した。とても優しかった叔父のカルマンがもう居ないだなんて考えられなかった。もっと話を聞きたかった。
次の日、エラルドに「これを持って行って、おばさんに渡しなさい」と手紙を渡された。
エリスの家でヘブミューラーに手紙を渡すと、椅子に座って手紙を開け読み始めた。
エレンはその姿をじっと見ていた。
ヘブミューラーは手紙をテーブルに置くと、下を向いて目を閉じた。
その年、なぜかタトラだけがエリスの家に残って、叔母はサリオンを去った。
タトラは「お母様はお仕事があるのです。私はここでお祖母様を守るのです」とエレンに話した。
タトラを残しサリオンを去った叔母だが、年に一度はサリオンに戻ってきた。
サリオンに戻ってくる叔母は、タトラとエレンにドワルゴンの珍しいお土産を持って帰ってくる。
ジュラの森での魔物の話や、ドワルゴンの町の話はタトラとエレンをワクワクさせた。
亡くなったカルマンは森で困っているひとの為に仕事をしていた素敵なひとだったと語った。
叔母はしばらく滞在するとまた仕事の為にサリオンを去った。
タトラはエレンの前でも泣くこともなく、母を送った。そして今まで通りにエレンと遊んだ。
エラルドからいい話を聞かされた。
「タトラはエレンと同じ学校に通う事になったからね。守ってあげるんだよ」
エレンは嬉しかった。
カルマンが死んだこと、ヘブミューラーがタトラを残していった事が悲しかったのだが、
タトラがずーっとサリオンに居るのだという事が、これで自分がやっとお姉さんになれるのだと誇らしかった。
毎日エレンはエリスの家までタトラを迎えに行った。
ただただ妹が出来たうれしさだけだった。
「ねえ、エレン。私だけ手が緑なの。なんで?」
タトラは歩きながらエレンにそう言う。
「え?そう?タトラだけ?」
「うん」
エレンは自分の右の手の平を歩きながら眺めた。
確かに、自分の周りに手が緑の友達はいない。手の色など考えたことも、気にしたこともなかった。
エレンは思い出した。赤ちゃんのタトラを初めて見たとき、首から下が全て緑だったことを。
「そのうち変わるんじゃないの?」
「ふーん」
夏になり、サリオンも暑い日が続いている。エレンの格好はキュロットに半袖シャツだ。
「タトラー。学校行くよー」
「はーい」
ドアから出てきたタトラは今日も長袖長ズボンを着ている。
「タトラ、暑くないの?」
「暑いよー」
「なんで長袖着てるのよー」
「だって、お祖母様が着させるんだもの。絶対に袖をまくっちゃダメだって。レディのタシナミだってさ」
「ヒェー。私はそんなタシナミは無理だよー」
学校に着くとタトラは1階の教室に向かう。エレンは階段で別れて2階に向かう。
「タトラー。お前暑いだろー。そんな格好見てる俺も暑くてたまらねーよ」
階段を数段上ったところで振り向くと、背の高い男の子がタトラの脇を走りながら叫んでいた。
「いいのー。レディーのタシナミー」
タトラも遠ざかる男の子に叫んでいた。
「なんだ、もうボーイフレンドができたんじゃん」
エレンはにっこりして階段を上った。
・・・・・
サリオンの街路樹も紅葉が進み、だんだん寒い日が増えてきた。
エレンはロングスカートに長袖、コートを着てタトラを迎えに行く。
玄関から出てきたタトラは長ズボンにコートを羽織り、手袋をしている。
「タトラ手袋良いなー。私も明日から手袋しよー」
「・・・」
・・・・・
休日にエリスの家に遊びに行くと、タトラは手袋をしたまま玄関でエレンを出迎えてくれた。
「遊ぼ、タトラ」
「うん」
「・・・タトラ、家でも手袋してるの?そんなに寒い?」
「・・・うん」
「ふーん・・・」
お昼ご飯はエリスが作ってくれたパンケーキを3人で食べた。食事中もタトラは手袋をしていた。
エレンは気になったが、何も聞かなかった。
結局夕方にエレンが帰るまでのあいだ、タトラは一度も手袋を外さなかった。
今まで気にもしていなかったが、タトラが手袋を外さないことに気がつくと、気になって仕方がない。
学校でも休み時間に、一階のタトラの教室をのぞきに行った。
開きっぱなし後ろのドアから顔だけ入れてタトラを探した。
窓際の前から3番目あたりに椅子に座ったまま前を向いているタトラがいた。
右手を頬に当てている。その右手はやはり手袋をしている。
やはり教室でも手袋を外していないのだ。
『なにがあったのだろう?』エレンは思った。
自分の教室に戻ろうとエレンが1階の廊下を歩いていると、小さい女の子二人とすれ違った。
「みどりちゃんまた手袋したまんま?気にしなくていいのにねー」
「気にしちゃうんでしょ。やっぱり」
『え?手袋?・・・みどりちゃん?・・・タトラの事?』
陰でタトラはそんな風に呼ばれているのか?
手が緑だからなのか?
陰で言われているとしても、その言葉がタトラの耳に入らないわけがない。
それでタトラは手袋を外せなくなったのだ。きっと。
なんで・・・
3.0 エレンの相談事
タトラの生い立ちと事件について、エレンはリムルに話をした。
話の間ずっとひざの上で両手の指をからめていたエレンは、右手でテーブルの上のコーヒーカップを持って、少ししてから一口飲んでカップをテーブルに置いた。
エレンがカップをテーブルに置いたタイミングでリムルは右手をあげた。
「エレン、質問。腹を刺された男は死んだのか?」
「・・・ううん」
エレンは首を横に振った。
「お腹の怪我はたいしたことはなかったんだって。たいしたことない・・・って言っても刺されたんだから大変だったみたいだけど、ちょっと入院してもう退院しているらしいの」
「そうか、それはよかったじゃないか。相手が死んだり大けがだったりしたら、いくらもみ消したにしても、気分的にイヤなもんだからな」
「うん」
「その男、従姉妹の知り合いって事だよな?誰だ?」
「うん・・・良くは分からないの。タトラに聞いても教えてくれないの」
「そうか。・・・もう一つ。『無かったことにする』ってエラルドさんが言ったのはどういう方法だ?」
「・・・詳しくはわからないけどね。お金じゃない?」
「ハハハ。金か。まあそんなところだろうな。・・・で俺は何を手伝えばいい?」
「・・・リムルさん。私ね、タトラの本当の気持ちは分からないの。だって、私が知ってるタトラは、タトラのほんの一部分だと思うの。でもね、サリオンにだけ居ることがどんどん悪い方向に行っちゃってる気がするの。だからね、テンペストに連れてきたいの」
「ふーん・・・」
「事件の前に、テンペストに旅行に行こうって誘ってたんだ。でも面倒臭そうで断られたの。・・・タトラは世界を知らないのよ。森の魔物は怖いわよ。でもここに来れば魔物って言ったって、フツーのひとたちじゃない。いろんな種族がいて。鱗でシッポのリザードマンが居て、角の生えた鬼人が居て、肌が緑のゴブリンが居る」
「・・・そう言うことか。意味は分かった。・・・俺が昔人間だったって話覚えているだろ?シズさんと同じ人間の世界だ。魔物も魔法使いもいない世界。国によっては同じように肌の色で差別があったよ。そういう見た目の違いがない俺が住んでる国ではさ、生まれた地域だとかお隣の国同士でいがみ合ったり差別したりな。困ったものだよな」
「うん。サリオンは基本的にエルフしかいないから。多様性がないのよ」
「そうだな・・・でも従姉妹の子、誘って来ないものを、俺がなんとも出来ないぞ」
「うん。・・・だからね、留学とか、研修生とか、テンペストとサリオンで交換留学的に『あなたに決まりました』って事にしちゃえばって思って」
「交換留学か・・・従姉妹のタトラ?学校の専攻とかなんなんだ?」
「まだ中学生。だからまだ専門的な勉強はしていないと思う。でもね、亡くなったお父さんの事は尊敬しているみたい。だから、商売に関することとか、そんなのどうかなーって思って」
「なるほどな。学校じゃなくて良いわけだ。それじゃコビー君にでも預けて商売の研修とか実際に働いてみるのでいいのかもしれないな。こっちからは誰をサリオンに留学させれば良いんだ?」
「そうねー。サリオンは差別意識があるからねー。誰も来なくてもいいんじゃない?」
「え?それでいいのか?」
「だって、だれも来なくたって、誰も気がつかないじゃん」
「まあそうだけど・・・。」
『王室令嬢は大胆だな。国同士で交換留学って話までしたらそう言う訳にはいかないだろう・・・』リムルはそんなことを考えた。
「それじゃ、人間の姿になれるサイカあたりでも王家のSPの勉強にでも行ってもらうか。ソウエイに確認しないといけないけどな」
すると、ビュンという音と共にソウエイとサイカがひざを着いた状態で頭を下げ現れた。
「リムル様、サイカの交換留学の件、問題ありません。他国の諜報活動についても勉強させる良い機会だと思います」
隣のサイカも頷いている。
「話が早いな」
さすがソウエイだ。
「それじゃ、こちらからはサイカを交換留学生として送り込もう」
「いいと思う。お父さんには言っておくから。目的はタトラの為って事もね」
「うん。サリオン王朝のエリューン・グリムワルトさん」
エレンはにっこり笑い、リムルと同時にコーヒーカップを手に持った。
一口飲んだエレンはカップを手に持ったまま話す。
「リムルさん。タトラの事件の話はあんまり広めないで欲しいの」
「うん。そのつもりだ。・・・お父さんがゴブリンだとかお母さんがエレンのおばさんだとか、そういうのはいいんだろ?」
「うん、その位はきっと問題無いよね?皆が知ってても」
「テンペストでは問題ないだろ」
「そうだよね。ガバル達にも事件は内緒ね。今のところ知らないから」
「分かった」
エレンは再びにっこり笑って珈琲を飲んだ。
4.0 旅立ち
執務室。リムルはデスクを前に何かを書いている。
町の者にはどこまで話をしていいか悩んだ。エレンの従姉妹タトラのことだ。
シオンはエレンの話を隣で聞いていたのだから全て知っている。
『サリオンからの研修生だ』と言う話は全ての者に知らせる。
亡くなられた父親と母親の話はリグリドと研修生受入をお願いするコビーくらいに話して終わりにしようと考えていた。
研修生の受入期間は3ヶ月だ。コビーには甘やかさずに従業員と同じように指導して欲しいと話をした。
コビーの店。
コビーは事務机を前に立ち、リムルはその前に立って話をしている。
「カルマンさんの娘さんですか?」
コビーは少し驚いた顔をした。
「なんだ、知ってるのか?」
「ええ、10年くらい前ですかね?我々と同じで行商をしていたカルマンさんですよね?」
「そうだ。きっと同じひとだ」
「魔物に襲われて命を落とされたんですよ。その後しばらくは奥様がパーティーの者達を連れて仕事を続けていたはずですがね。・・・カルマンさんご夫婦は森の中のゴブリン達の部族と取引をしていたのですよ。コボルトは当然ですけど利益を最優先に考えて商売してますが、カルマンさんは違いました。利益を度外視してゴブリン達に武具などを渡していました。時には売掛けで、商品を渡したり。商売の目的が、貧しい弱き者を救うことなんですよ。だからなかなか・・・厳しい状況でしたよ」
「そうなんだな。そういう父親だったんだ・・・。研修生受入頼める?」
「ええ、問題ないですよ。私もいろいろな者を雇っていますからね。一人増えるだけです。労働力としてだけではなく、ちゃんと仕事を覚えさせますよ」
「うん、ありがとう。実際来るのはもう少し先になると思うから近くになったら、もう一度話そう」
「はい、リムル様」
コビーの話を聞いて、リグルドにも聞いてみた。
「おー。カルマンさんの娘さんですか?」
リグルドが執務室のリムルのデスクの前で答えている。
「やっぱ、知ってたか」
「ええ、勿論知っていますよ。娘さんがいたことは知りませんでしたが」
「そうか」
「我々は技術も力も金もない弱小種族でしたからね。カルマンさんはかなり値引きして武具などを売ってくれました。交換する物が無いときは後払いで商品を置いていったりしてましたな。・・・聞いてみないと正確な事は分かりませんが、カルマンさんの事は他の部族のゴブリンも皆知っているのではないでしょうか」
「・・・有名人だったんだな」
「あの方に我々弱小種族は救われていたのですよ」
「らしいな」
・・・・・
エラルドと少しだけ打ち合わせをして、タトラのテンペスト訪問の裏工作を策定した。
サリオンとテンペストの交流としてテンペストで研修する者にタトラが選出されたというウソの文章をエラルドが作り、ソウカがサリオンに研修に行くと言う文章をリムルが作る。それらしい正式っぽい文章をタトラにも見せて、疑わないように工作した。
「いやーリムルさん。エレンにはだれにも話すな・・・と言っていたのですがな。身内の恥を・・・借りができちゃいましたな」
エラルドがそう言うと、リムルが答える。
「そんな風に考えないでくれよ。一人の少女の将来の為だ。それに友人の頼みだ」
「ありがとうございます。私にとっても大事な姪ですからな。テンペストの生活でなにか変わってくれるといいのですがな」
「俺は何もできないよ。精神科の医者でも心理学者でもないからな。本人次第だ。環境が変わればなにか思うところもあるだろうからな」
「はい。そうですな」
・・・・・
オープンカフェでエレンとタトラは向かい合ってお茶を飲んでいる。
「良かったじゃん。タダで行けるんだから。いいなー。行くときは私達がテンペストまで同行するよ。護衛護衛。ついでにテンペストでのんびりしよーっと」
笑顔のエレンが座っている。
その前には憮然とした顔つきのタトラがコップをテーブルに置いた。
「なんか変じゃない?なんで私なの?」
タトラは言った。
「知らないよ。研修って言っても遊びに行くような気分でいいんじゃないの?気分転換、気分転換」
「んー、まあ、いいけどさ」
『よし!』エレンは心の中でガッツポーズ。
「テンペスト良いところだよー。いつ行くの?」
エレンは尋ねた。
「再来週らしいよ」
なにが書いてあるのか分からないけど、分厚い書類のページをめくって答えてくれた。
「再来週ね。まだちょっと時間あるね」
「うん、なに持って行けばいいんだろう?」
「書いてないの?」
タトラは分厚い書類を数ページめくった。
「特に書いてないと思うけど・・・」
「洋服持って行けばいいんじゃないの?」
「それだけでいいの?」
「たぶんね。ダイジョブダイジョブ」
「・・・・・」
二人同じタイミングでお茶を飲んだ。
・・・・・
タトラがテンペストに向かう日が来た。
エレンはギド・ガバルをタトラに紹介した。これからテンペストまでの仲間だ。
サリオンの町を出たことのないタトラはかなり緊張している様子だ。
家の前でヘブミューラーがタトラの背中に右手を当てて、真剣に話しかけている。
横ではエリスが黙って聞いている。
タトラは時々「うん」と頷いているようだ。手には手袋がはめられている。
・・・・・
叔母であるヘブミューラーは、1年ほど前にサリオンに戻ったあと、仕事でサリオンを離れることはなかった。
エレンは「仕事に行かないのか」本人に聞いたことがある。
「カルマンさんの仕事は終わったの。やっとバケツの穴を直してくれる方が現れたのよ」
「・・・どういう意味?」
「私達はバケツの穴の直し方は分からなかったの。でも水を入れ続けなければバケツの中は干上がっちゃうでしょ」
「え?水を売ってた訳じゃないでしょ?」
「まあね。でもそう言うことよ」
「?なんか分からないけど、今まで大変だったでしょ。森の中を行商してたんだから。少しゆっくりしたらいいわ」
「うん。そうね」
ヘブミューラーはソファに深く座り直した。
・・・・・
森の中は獣道のように細い道が出来ている。多くの商人や冒険者が同じ道筋を通るからだ。
タトラはエレンの隣を離れないように並んで歩いた。
最初の日はエレンがいろいろ話しかけてきたが、二日目三日目にもなると、話もなくなり、無言で進んだ。
タトラは時々昔の事を思い出しながら歩いた。
5.1 過去の出来事(ロメッシュとの関係)
タトラはエレンの背中をつまみながら下を向いて歩いていた。
数年前の出来事をいろいろ思い返していた。
・・・・・
小学校も中学年になると、ほとんどの者が仲良しのグループに別れて遊ぶようになる。
しかし、そのどのグループにもタトラは入らなかった。
声を掛けてくれる子もいたが「うん・・・ちょっと用があるから」と断っていた。
遊びたくない訳ではない。しかし、陰で自分の事を「みどりちゃん」と呼んでいることは知っている。
誰がそう呼んで、誰がそう呼ばないのか、それは分からない。
誰のことも信用できないでいた。
プールの授業は全て欠席していた。勿論肌を見せたくないからだ。
体育の欠席時は『教室で自習』と言う事になる。実際には窓からプールの様子を眺めて過ごしていた。
そんな自習時、必ずロメッシュが居ることに、ある日タトラは気がついた。
窓際の一番後ろの席に座って、プールで泳いでいる友達を見ているロメッシュの二つ前の席にタトラは移動した。
「ロメッシュあんた、なんでプール休みよ?」
ロメッシュはタトラの方に顔を向けた。
「ああ。プールって塩素キツいじゃん。俺、塩素ダメなんだよ。気持ち悪くなっちゃうの。母ちゃんが『絶対プールに入れるな』って先生にも言ってくれてるんだ」
「ふーん、そうなんだ」
「タトラはなんで欠席よ」
「うん。・・・私は、風邪」
「まあ・・・仕方ないよな。泳ぎてーけどなー」
ロメッシュはそう言うと、開けた窓の上に両手を組んで、その上に顎を載せてプールを眺めた。
他にもプールに入らない生徒も居るので、自分だけが悪目立ちする事はないとタトラは思っていた。
ロメッシュとはこの自習の時間にいろんな話をした。
ロメッシュは父親がいないらしい。
「俺が赤ん坊の時に出て行ったんだってさ・・・母ちゃんから聞いた。」
「そうなんだ。私は赤ん坊の時に死んじゃったんだ。お父様。・・・似てるね」
「そうだな。お前のうちはいいよ。王様の家系だろ。うちの母ちゃんなんて女手一つで俺を育てて、仕事もやって、なんだか大変そうだよ」
「王家って言っても、うちのお母様は行商で稼いでいるんだよ。ドワルゴンとかジュラの森とか行ってさ。大変なのは一緒だよ。私は学校に入学するタイミングでお祖母様の家に預けられているの。時々は帰ってくるけどね」
「そうか・・・タトラの母ちゃんも大変なんだな」
ロメッシュは話が出来る唯一の友達であった。
・・・・・
学校には運動会や文化祭など様々なイベントがあった。
タトラはどんなイベントにも興味が沸かなかった。
秋になると文化祭の出し物や展示の準備をみんなが始める。この時期は午後の5時間目と6時間目が準備の時間に充てられる。
誰が何の当番だの、何の準備をするだのとクラスの中心になりたがるヤツが楽しそうに決めていく。
タトラは全く楽しくない。できることならやりたくない。決められた事は仕方なくやるが、本来の授業の終了時間になったらタトラは帰宅する。
「私帰るね」
本来の授業時間が終わってもみんなは作業を続けているが、タトラはそこまでして文化祭の準備などしたくはない。
一人カバンを持って帰路についた。
そんなある日、タトラは段ボール箱を五枚積み重ねて集塵室に運んでいた。
タトラは皆とワイワイ作業するより、こういう作業が良いと思った。
集塵室で段ボール箱を所定の場所に置いていると、後ろから女子生徒数名が近づいてきた。
先頭には、いつもクラスの中心に居たがるハプラーの姿がある。
つやつやのあごラインボブのハプラーはタトラより全然背が低い。たしかどこかの王家の娘のはずだ。
澄ました顔でタトラを睨み付けている。
「あんた、もう少し文化祭の準備、手伝いなさいよ」
「・・・時間まではちゃんとやってるわよ?」
「みんなは放課後もやっているんだから、あんたもやったら?・・・クラスの『輪』ってものをどう考えてるのよ」
「・・・なによ『輪』って。・・・気持ち悪い」
「だから・・・そういうところよ。なに言ってるの?全くっ・・・」
少し後ろに居た、ハプラーより更に背が低い、編み込みローツインテールの女子生徒が話し始めた。
「あんた、2組のノルトホフ君に色目使ってるでしょ?」
「誰よ?それ。・・・知らないわよ。・・・ココに連れてきなさいよ。『あんたなんか大嫌い』って言ってあげるわよ」
「んーーー。なによー、みどり!」
そう言いながら右手を上げて、タトラに殴りかかろうとした。
すぐに周囲に居た女子生徒が止めている。
『みどり・・・』という言葉に一瞬空気が止まった。
「よしな。あんたの内申に傷が付くだけだよ」
ハプラーは顔だけ振り向き、右手を真横に上げて殴りかかろうとしている女子生徒に冷静に告げた。
周りの生徒に止められている女子生徒は泣き出している。
右手を下ろしながらハプラーが言う。
「あんた、もう少し大人になりなさい」
「なによ。ほっといてよ」
タトラは顔を真っ赤にして『フン』と右を向いてハプラーから目を逸らした。泣きたいのを必死にこらえている。
「行くよ」
ハプラーはそう言うと女子生徒を引き連れてその場を去って行った。
タトラはしばらくそのままの姿で呆然と立ち尽くしていた。
すると集塵室の裏から「ガタン。バリン」となにか割れた音がした。
ビクッとして振り向くと、壁から男が顔を覗かせている。ロメッシュだ。
そのまま歩いてタトラに近づいてきた。
「イヤー、ビックリしたよ。・・・だってよ、小うるさいハプラーを逆に怒鳴りつけちゃうんだもんな・・・」
ロメッシュは苦笑いしながらそうタトラに話した。
「・・・なによ!あんたなんて最低よ!」
タトラは顔を真っ赤にしてロメッシュを右手でビンタした。
ロメッシュは顔を左に向けたまま、頬を手で押さえている。
タトラは右に顔を向け、そして走り出してその場を離れた。
そんな事があってから、折角仲良くなったロメッシュとも、なんとなく話をしないような日が続いた。
「タトラおはよう!」
「・・・」
タトラは以前にも増して、クラスで浮いた存在になってしまった。
ロメッシュに挨拶をされても返事すらしなくなったタトラに、声を掛けてくる者は誰もいなくなった。
毎日挨拶してきたロメッシュも挨拶すらしなくなった。
ある日、他の生徒が居る教室でロメッシュが大きな声で叫びながら教室に入ってきた。
「みどりー、おはよー・・・あ、間違えたわ。タトラだ、ハハハ」
教室が静まりかえった。皆がロメッシュを見ている。
タトラも自分の席に座ったまま、ロメッシュを黙って睨み付けた。
ロメッシュは口笛を吹きながら自分の椅子まで歩いて黙って座った。
集塵室でタトラをつるし上げたハプラーがロメッシュの前まで歩いて行く。
机に両手を付いて、ハプラーはなにか言っている。
ロメッシュは背もたれに寄りかかると、上を向いて口笛を吹きはじめた。
ハプラーはふいっと右に首を振り自分の机に戻ると黙って座った。
教室では皆、隣の友人と話を始め賑やかになった。
タトラはロメッシュを睨み続けていたが、前にむき直し正面の黒板を睨み付けた。
『私はもうココには居られない・・・』
タトラは机の横に掛けていたカバンをつかんで立ち上がり、急いで廊下に出た。
教室はまた静まりかえった。
一旦廊下で立ち止まり、そのまま廊下を走って家に帰った。
・・・・・
タトラはそれから数日学校を休んだ。
エレンが毎日迎えには来るが、体調が悪いと言って、学校には行かなかった。
丁度そんなタイミングの時に母親であるヘブミューラーがサリオンに戻ってきた。
タトラはヘブミューラーにお願いをした。
ヘブミューラーはソファーに深く腰掛けてコーヒーを飲んでいる。
タトラはその横に立ち、話始めた。
「お母様。次に仕事に行くときに私も連れて行ってください。お仕事のお手伝いをしたいのです」
「どうしたの?」
「私、お母様の仕事に興味があります。覚えたいのです」
「そう・・・」
自分はまだ子供だ。ヘブミューラーに断られることをある程度は想定していた。
「実はね。タトラ・・・私の仕事は終わったのよ」
「・・・終わった?」
「そう。あなたのお父様がしていた仕事はね、困っている弱いひと達に必要な物を運ぶ仕事だったの。でもね、困ってるひとが居なくなったのよ」
「・・・?」
「・・・私達がしていたことはね、言ってみれば穴の空いたバケツに水を入れ続けることなの。水を入れ続けなければ干上がっちゃうの。私達に出来る事はそれくらいの事だったのよ。・・・私達に穴の塞ぎ方は見当もつかなかった。穴が空いているのは分かっていたけど、それでも、水を入れ続けなければホントにみんな死んじゃうところだったのよ。・・・ところがね。そのバケツの穴を塞いでくれるひとが現れたのよ。バケツの穴はちゃんと塞がれそうなの。だからね、もう行商の仕事はしなくて良くなったの。・・・だから私は今日からずっとサリオンに居ることになったの。・・・少し疲れたしね」
「・・・もう、お仕事の為に長く旅に出ることはなくなったのですか?」
「そうよ」
「そうなのですね。それは・・・それはとても嬉しいことです。嬉しいです・・・」
タトラの目から涙が落ちた。
椅子に座ったままのヘブミューラーにタトラは抱きついた。
小さい頃、突然家に置いていかれた記憶が甦る。涙はこらえていた。
しかし、今、ひとりぼっちがようやく終わったと思うと、その時から我慢していた涙があふれてきた。
学校での事など、もうどうでもいいくらい暖かい気持ちになった。
5.2・過去の出来事(ハプラーとの関係)
「タトラ。今日はここで野宿するよー」
「え?」
『ああ、そうだった。今私はエレン達と旅をしているのだった』
タトラの目には涙があふれている。
昔の事を思い出していて、自分が歩いていることすら忘れていた。
「うん、わかった」
ガバル達が軽く整地をし、そこにエレンとギドがテントを立てていく。
まだ数回の野宿だが、タトラも要領は覚えてきた。
整地が終わるとガバルは火をおこし焚き火の準備をする。
テントを立てると、ロープの端をペグ打ちして行く。
ペグ打ちはタトラの仕事になった。
二つテントを立てるとエレンとギドが荷物をテント内に運び入れる。
その間も2棟目のテントのペグ打ちをタトラは進めている。
タトラはエレンと同じテントで寝ることになっている。
エレンとガバル・ギドは交代で見張りをしてくれているらしい。
睡眠時間がタトラだけ長い事に申し訳なく思って『自分も見張りをやる』と申し出たのだが、「見張りを初心者がやっても意味ないでゲスぜ」とギドにあっさり断られ、申し訳ないとは思いつつ、実際には疲労で朝まで一度も起きずに寝ていたのだった。
携帯している乾燥肉を焚き火で焼いて、食事を取る。
少しは話もするが、みんな疲れていて、食べるだけ食べたら、ギドとガバルは自分たちのテントに潜り込みすぐに眠るようだ。
毎日、最初にエレンが見張りをしている。
タトラはエレンと同じテントだが、毎日寝付くときは一人と言うわけだ。
昨日まではすぐに眠りについたが、今日は昔の事を思い出し寝られずにいた。
・・・・・
ロメッシュとのことがあって、タトラは数日学校を休んでいた。
そして日曜になった。エレンは迎えには来ない。
母親が家に居てくれるという安心感と、母親との旅という逃避が出来ないという諦めが入り交じってイヤな気持ちになっていた。
タトラは自分でも現実逃避している事は分かっている。それでも明日学校に行く気にもなれなかった。
『学校に行かない事をお母様はなにか言うだろうか?』余計な心配も増えた。
タトラはイヤな事があると必ず行く場所がある。美術館だ。
あまり人気の無い美術館でいつもすいている。
美術館に入ると、いつもの順路で絵画を見ていくが、止まることはない。
そして二つ目の部屋の角に掛けられている絵の前に来ると、タトラは立ち止まった。
タトラは絵画を見つめている。
絵の下の説明書きには『タイトル:なし・作者:不明・制作年:不明』と書かれている。
絵には、白い服を着た女性が椅子に座り、腕には赤ん坊を抱いている。
女性は優しい笑顔で赤ん坊を見つめている。
赤ん坊の目は母親を見つめている。
背景の広大な森の緑が美しい。
優しい色合いで他の絵画とは趣が違う。
学校の校外学習の一環でこの美術館に来たことがあった。
他の者達は全ての絵画を素通りして行ったが、タトラだけはこの絵から目が離せなかった。
タトラはこの絵が大好きだ。
イヤな事があるとこの絵を見る為に美術館を訪れるのだ。
昔、母親だけが行商の仕事に出掛け、自分だけが置いていかれひとりぼっちになった。
そんな悲しさや学校での出来事など全てを忘れられる。
絵画に描かれた女性を母親とダブらせているのかもしれない。
しばらく黙ってこの絵を見ている。
絵の前に立ちぼんやり絵画を眺めていると、学芸員と名乗るひげの生えた老人が声を掛けてきた。
「お嬢さん、いらっしゃい。この絵がお好きなんですねー。いつもこの絵の前で立っておられる」
ちょっとビックリしたタトラは、横に立つ老人に視線を向けて挨拶をした。
「・・・はい。こんにちは」
「私もこの絵が大好きなんですよ。実はね、この絵、私が美術館に寄贈したんですよ」
「え?そうなんですか?・・・それじゃ、おじいさまが描かれたのですか?」
「いえいえ」
学芸員の老人は微笑んで、右手を顔の前で左右にひらひらさせた。
「私は学芸員なんてやっていますがね、絵を描くのは素人の趣味程度ですよ。ふふふ。・・・実はこの絵、ガラスの食器を梱包していたものなんですよ」
「え?・・・梱包?・・・どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味ですよ。あるとき商人から食器を購入しましてね。家で開けてみると、その食器を包んであったのがこの絵なんですよ。『なにか描いてある・・・』と思って、丁寧に開けてしわをのばしてみると、こんなに綺麗な絵でしょ。ビックリしましてね。折角買った食器なんてそっちのけですよ。・・・その後同じ商人にどこで入手したのか聞いたのですが、旅の途中に別の商人と物々交換で入手したとかで、どこから来た物かすら分からないのですよ。・・・ただね、古いものではないと思うんです。紙ではなく、なにかの動物の皮に描かれているんですけどね。それに絵の具が一般的なものではない。植物由来の独特な物を使っています。これらの物が年代ものではないんですよ。おそらく」
タトラはコクコクと頷いた。
「ふーん。面白い経緯の絵なんですね」
「私は他国のいろいろな絵画も研究しています。でも他のどの絵描きにも共通する点がないんです。有名な画家ではなく、しかも独学でこの絵を描いたのだと思うんですよ」
「誰が描いたんだろう・・・」
タトラは再び赤ん坊を抱く女性の顔を見つめた。
「どうぞ、ごゆっくり」
学芸員の老人は去って行った。
タトラは振り返り、コクンと会釈した。
タトラは学芸員の話を思い返しながら絵画を見つめた。
しばらくして再度、絵の下の説明書きに顔を近づけた。
「『作者:不明』か・・・こんな素敵な絵を描くひとはどんなひとなんだろう・・・」
絵画を見あげ、全体像を遠くから見たいと二歩三歩と後ろに下がった。
すると、そこには誰かがいたようでぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
タトラが振り向くと小柄な女性が倒れていて、近くにはモップも倒れている。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
清掃スタッフに体当たりしてしまったようだ。
急いで女性の腕を取っておこそうとすると、三角巾とマスクの間から見覚えのある顔が。
「ハプラー・・・どうしてココに?」
ハプラーはタトラを睨み付けている。
「あんたこそなんでココに居るのよ」
「私は、・・・絵を見に」
ハプラーは自分で立ち上がり、横に落ちているモップを持った。
「ちょと、タトラ。・・・話がある。こっち来なさいよ」
ハプラーはドアの方を顎で指示した。
「私は話しなんてないわよ」
「私は話があるの。来なさいよ」
ハプラーは一人歩き出しドアから出て、振り返った。『早く来い』とでも言っているようだ。
タトラは仕方なく付いていく。
ハプラーは廊下をちょっと歩き、ドアを開けてテラスに出た。
タトラも続けてテラスに出ると、ハプラーはドアを閉めてタトラを睨んだ。
「タトラ、今日、ココで私に合ったことは誰にも言わないで」
「・・・言わないわよ。別に」
「・・・タトラ。あんた明日は学校に来なさいよ」
「ほっといてよ」
「いいから来なさいよ」
「誰にも言わないわよ。なんだか知らないけど。ほっといてよ」
「違うわよ。・・・いろいろあるだろうけど・・・言いたいヤツには言わせておけばいいのよ。だから学校は来なさいよ。そうしないとあなたの負けになっちゃうじゃないの」
ハプラーは淡々と話を続ける。
「あんたには分からないわよ」
タトラはハプラーの言葉に言い返すしかできないでいる。
「タトラ。私はあなたの気持ちは分からないわ。誰も他人の気持ちなんて分からないのよ。それでいいのよ。あなたも私の事は分からないでしょ?」
「・・・・・」
「私も王家の娘だって事は知ってるんでしょ?でもね、あなたの家とは全然違うのよ」
「どういう意味よ」
「うちはね、・・・うちは王家って言っても、お金がないのよ。貧乏なの。あなたの家とは違うの」
「・・・・・」
タトラは返事ができなかった。
「私が生まれる前の事だからホントはなにがあったのか知らないけど、曾祖父が大ちょんぼして、領地もなにもなくなったらしいの。それでも王家の地位を失いたくなかったらしくて、王家をやってるのよ。その時に王家なんて返上してくれてれば、今頃普通になんかの仕事でもしていられたのよ。それが王家なんかにしがみついているもんだから、サリオンでは普通の仕事もできないのよ。・・・私の両親はね、魔法師として冒険者みたいなことやって暮らしているのよ。サリオンでは仕事が出来ないから。だから私も働かなくちゃ生きていけないのよ。・・・私の事なんか、あなたには分からないわよ。働かなくちゃいけないの。それでも絶対学校は行くの。私は卒業したら上の魔法学校に行って、もっと学んで、サリオンでも食べていける仕事に就くの。冒険者なんてイヤなの」
「分かったわよ。言ってる事は分かった。・・・でもそれと私が学校に行くか行かないかは関係ないんじゃないの?」
「私は貧乏王家なんて皆に言われたくない。でも働かなくちゃ生きていけない。学校ではウソの自分を演じているのよ。・・・あなたが負けたら、私も負けちゃいそうなのよ。怖いのよ。・・・あなたが自分と重なるのよ。・・・だから・・・学校に来てよ」
「・・・分かったわ。・・・行くわよ。別に絶対行きたくない訳じゃないし、行きたい訳でもないけど。別に。・・・あなたって『世界は自分を中心に回っている』って言う人かと思っていたわ」
「なによそれ。だから言ったでしょ。人の事なんて分からないのよ。・・・学校来なさいよ。私仕事に戻るから」
そう言うとハプラーはスタスタとドアから廊下に出て行ってしまった。
一人残されたタトラは閉まったドアをしばらく見つめていた。
次の日の朝、タトラはいつもより早くに玄関の外に出て、座ってエレンが来るのを待っていた。
「タトラおはよう。体調はどう?今日は学校行けるのね」
「うん。大丈夫」
そう言って立ち上がり、エレンを追い越して歩き出した。
エレンも振り向きタトラの横に並んで歩いた。
学校に近づくといろいろな学生が歩いている。
エレン達もそんな中で二人並んで歩いていると、後ろから声がした。
「タトラおはよう」
エレンとタトラは立ち止まり振り返る。ハプラーだ。
「おはよう。来たわよ」
「そう。よかったわ」
ハプラーは立ち止まらずにそう言うと、二人を追い越して歩いて行ってしまった。
エレンが尋ねた。
「クラスメート?」
「うん」
そう言ってタトラは再び歩き出した。
「タトラ・・・タトラ」
後ろからエレンが声を掛ける。
「タトラ。タトラ。おはよう。タトラ、朝だよー」
「え?」
・・・・・
目の前は小さいテントの三角の天井だ。
『え?・・・あ。そうだ私はエレンと旅の途中だったんだ』
タトラは寝袋ごと上半身を起こして座った。
「タトラ。朝だよー。疲れ取れた?ご飯食べて出発だよー」
「おはよう。うーん」
タトラは寝袋から両手を出して上に伸ばしてのびをした。
着替えを済ませ外に出るとガバル達が焚き火の前に座って何かを飲んでいる。
「おはよう。よく寝られたかい?」
ガバルがタトラを見つけ声を掛けてきた。
「うん。よく寝た。夢を見た」
「へー。野宿も慣れてきたって事だな」
そう言うと湯気の立つコップをタトラに渡した。
タトラはコップを受け取るとガバルの横に座った。
「ひょっとしたら野宿は今日で終わりかも知れないぞ。ゲルドさん達がサリオン向けの街道をテンペストから作っているはずだ。この辺りまで進んでいるはずなんだ。その現場まで行ければ、仮設の飯場で寝られるかもしれないからな。さあ飯食って出発だ」
朝ご飯はスープと乾燥肉だ。もう少しボリュームのある食事をしたいけれど、旅とはこう言うものなのだろうと納得していた。
四人で消えた焚き火から出る煙を見ながら、建設中という街道の話をしながら食事をした。
『街道』と言っても、木を伐採して多少広げた獣道のことで、その作業小屋で寝られると言うことだろうとタトラは考えた。
焚き火跡には土をかけ完全に消した。タトラの仕事だ。
ガバル達三人はテントを片付け、ガバルとギドが背中に担いだ。
荷物をそれぞれ担いだり肩に掛けたりすると、
「よし、いいな、出発」
とガバルの威勢の良いかけ声で皆は歩き始めた。
6.0 魔物との出会い
相変わらず獣道を歩き続ける四人だった。
『誰だかが街道整備をしている・・・って話はウソだったの?』とタトラは思っていた。
しかし、なんとなく道の先が開けて明るく見えてきた。どこかから木を切る様な音もしてきた。
「ウイーン。バン。バン」
森を抜けて草原に出たのかとタトラは思った。
数名の大男が木を切っている姿が見える。
草原と思った場所には木の切り株がそこら中にある。
その光景が広い幅になって続いている。
ガバルが叫んだ。
「こんにちはー」
木を切っていた大男がノコギリをひく手を止めてこちらに振り返った。
タトラはビックリした。
『豚だ・・・』
タトラはエルフ以外の種族を初めて見たのだ。
隣にいたエレンの背後にまわり、ひざを曲げ両手を肩に置き、肩から目だけを出してのぞき見ていた。
「エレン。あの豚襲って来る?」
「えー?やだータトラったら。あのひとはハイオーク。豚なんて言ったら怒られちゃうわよー」
「ハイオーク?」
「そう。テンペストの人たちよ。大丈夫。とっても優しいひと達だから」
「そうなの?」
「やあ、エレンさん達じゃないですかー。テンペストに行かれるんですよね?」
作業を止めたハイオークの一人がエレン達の所に近づいてきた。
「うん。そうなの。もうここまで道が来ているのね」
「まだ、しばらくはこの状態の道が続きますがね」
ハイオークは木の切り株をポンポンと手で叩いた。
ガバルが話始める。
「いや、獣道よりは全然楽ですよ。有り難い。ところでゲルドさんはココにはいないんですか?」
「ああ・・・最近執務室勤務が続いているみたいなんですよ」
「そうか。ちょっと相談したいことがあったんだけど」
「町に着けば会えるとは思いますがね」
「いやね、途中の仮設の飯場?街道整備後は宿屋になるヤツ。あそこで宿泊させてもらえねーかなーって・・・都合のいい話なんだけど」
「ああ、そう言う話ですか。全然いいんじゃないんですか。ゲルドさんから聞いてますよ。研修生がサリオンから来るとかって。あれ?一緒じゃないんですか?」
「おう・・・話が早い。さすがゲルドさんだ。一緒ですよ。ほら」
ガバルは振り返ったがギドとエレンしかいない。
「あれ?タトラどこ行った?」
エレンが自分の後ろを指さして笑って答える。
「ここ、ここ」
タトラがエレンの背中から顔だけ出している。
「何やってるんだ?お嬢さん」
ガバルが笑って声を掛けた。
ハイオークが話始める。
「この先20km位の所に飯場がありますよ。四人一緒の部屋になると思うけど、部屋はありますよ。まだ水道が来ていないけど、炊事担当者もいるし、晩飯と朝飯も食べていって下さいな。むさ苦しい連中と一緒だけど。ハハハ」
エレンが答える。
「ありがとー。もう疲れちゃった。町に着いたらリムルさんに御礼言っとくね」
「はい。遠慮無く使って下さい」
「ありがとー。はい。タトラも御礼を言って下さい」
そう言うとエレンは背中に隠れているタトラの手を引っ張って自分の横に並べた。
「あ。ありがとうございます」
そう言うとまたエレンの背中に隠れた。
今度はひざを曲げずにいるのでエレンの頭からタトラの頭が見えている。
「何してるのよ。全くー」
四人は歩き出した。エレンは周囲にいるハイオークに手を振りながら歩いた。
切り株があるものの、歩きにくいという程の問題はない。
周囲が見渡せる分、魔物の出現も早くに察知できるから有り難いのだ。
しばらく進むと、切り株がなくなった。
土のみの道路は切り株が掘り返され、柔らかくなっているところもあるが、獣道より全然良い。
旅のスピードは飛躍的に上がっている。
旅が楽になって、エレン達も話を始めた。
「早く、温泉に入りたーい」
「そうでげすね。あと二日くらいですかね」
木を切った道というのはかなり広い。
タトラっが思っていた『街道』とはだいぶイメージが違った。
「エレン。なんでこんなに広い道を作るの?」
「・・・んー。詳しくは分からないけど、歩くひととか、馬車とか、安全を考えているんじゃないの?リムルさんって凄い先を見ているひとなのよ」
「・・・この街道はリムルさんってひとが作っている訳?」
「うん。いや・・・お金とかそう言うのは知らないけどね」
「・・・スライムなんでしょ?その・・・テンペストの盟主って」
「うん」
「スライムが、あの・・・ハイオークとか使ってる訳?」
「うん。・・・使ってる・・・って言うか、仲間なのよ。みんな」
「・・・ふーん。ちょっと想像出来ないわね。スライムがねー」
「会えば分かるわ」
エレンは満面の笑みを見せた。
切り株がなくなり、未舗装であるものの歩きやすい。
どのくらい歩いたら仮設の飯場があるのか分からない。
「そろそろお昼にしよーよ」
エレンの誰にいうでもない言葉にギドが答える。
「そうでげすね」
道の脇で火をおこし、あり合わせの野菜と乾燥肉でスープを作る。
4人で火を囲んでスープを飲んだ。
「これからは道があるから楽だねー」
エレンのふんわりした言葉にガバルが答える。
「お嬢は暢気だなー。歩くのは楽になったけど、いつ魔物がでるか、それは変わらないんだからな」
「まあねー」
エレンの暢気な様子は変わりない。
タトラは手を引かれて歩いているようなもの。
魔物にも遭遇していないし、怖い思いはしていない。
緊張しっぱなしは無理だし、暢気なのも良くはないとは思うのだが、街道を歩いていて、今ひとつ旅の状況が理解できていない。
前の作業現場で次の仮設の飯場で宿泊して良いとハイオークに言われた。
みんなその言葉を信じて飯場が見えるのを期待しているのを感じる。
緩やかな左カーブを進むと左側に建物らしき物が見えてきた。
「あれだ。きっと」
ガバルが叫んだ。
「やっと着いたねー。ここだよねー」
「そうでげすよね」
四人はそのままのペースで歩く。だんだん大きく見えてきた建物には四角い窓が整然と並んでいる。
ドワルゴンへの街道にある宿屋と全く同じ作りに見える。
ガバルが扉を開け他の三人も建物に入るが誰も居ない。
「こんにちはー」
エレンが大きな声を出した。
「あのー。サリオンからテンペストに向かってる者なんですけどー・・・あのー。今夜一泊させてもらえないかなーと思いまして・・・」
「誰もいないな。少し待とう」
ガバルがそう提案し、みんな荷物を床に下ろした。
しばらく近くにある椅子に座って休憩していると、建物の奥から大男が現れた。
「豚だ・・・」
タトラが言った。
「こら。オークのひとでしょ」
「うん。そう。そのひと・・・」
ハイオークは手を布で拭きながら近づいてきた。
「ガバル・エレン・ギドとテンペストで研修予定のタトラです。今夜一泊させてもらえないかと思いまして・・・」
「やあ、エレンさん。ようこそ。以前に町でお見かけしましたよ。宿泊の件もゲルドさんに聞いています。どうぞどうぞ」
エレンが答える。
「あ。ありがとうございます」
「この辺りが街道整備の末端だから、飯場初めてだったでしょ?ここからは数十キロ事に飯場があるから、ずっと泊まっていけますよ。・・・この飯場、街道が全部できたら宿屋に変身って訳ですよ。リムル様よく思いつきますよね。作業している俺らもこれだけ立派な飯場で寝泊まり出来るんだから、俺らの作業効率も上がるってもんですよ」
「らしいですよね。ドワルゴンへの街道にある宿屋は泊まったことありますよ。豪華な宿ですよ。こんな立派な宿、サリオンでも超一流宿ですよ」
「ほー。俺らはそんな立派な宿使ったことないから分からないけど、リムル様の言われるとおりの造りに改築するんですがね。このあとで。・・・リムル様は先の先を見据えてますよ。・・・まだ夕飯までは時間あるけど、飯も食べて下さいね。それまではまあ、ゆっくりしていて下さい。ああ、ここ、まだ上下水道来てないんですけどね、樽に水もあるし、トイレだけは外の仮設を使って下さいな」
「ありがとうございます」
ガバルが腰を直角に曲げて頭を下げた。
それにならって、他の3人も頭を下げた。
「俺ら炊事担当なんだけど、他の時間は飯場近くの水道とか野宿エリアの整備なんかしてますんで、この裏で作業してますからなんかあったら言って下さい」
「はーい」
エレンが手を上げてふんわりした返事をした。
ハイオークに「今夜はココを使ってくれ」と二階の部屋に案内され荷物を置いた。
「時間があるから俺とギトでちょっと食料調達に行ってくるわ」
荷物を置いたガバルがそう言ってギドを連れて出て行った。森に入って食べられそうな野菜を探すらしい。
「わかった。私達はその辺ブラブラしているね。休憩」
エレンはそう言って部屋の中央に座った。
タトラがドアを開けて廊下に出るとエレンから声を掛けられた。
「どこ行くのー。遠くに行っちゃダメだからねー」
「うん。わかった」
タトラはハイオークに興味があった。
街道整備で木を切っていたオークも、さっき対応してくれたオークも、皆優しい印章を受けた。
『オークとはどんなひとたちなんだろう?・・・顔が豚だけど、皆あんな感じなんだろうか?』
二階の廊下の窓から道とは逆の森が見える。
建物の裏側も木が切られていて、広場になっていた。
さっきのオークだろうか、三人ほどで広場の端に四角く切られた長方形の石を真っ直ぐに埋めている。
一人が張られた糸に沿って、かなり丁寧に穴を掘っている。
残り二人が長方形の石を穴に入れると木の板を置いてその上から叩いている。
『下に降りよう』タトラは一階に降りると、さっき入った玄関とは反対の建物の裏側に向かった。
そこには裏口らしきドアがあった。ドアを開けると二階から見た広場に出た。
広場に出るとドアの横に積んである石材にタトラは座った。
ドアが開いたことに気がついたのかハイオーク達が手を止めてこちらを見た。
一人が右手をあげた。さっきのひとだろう。
タトラはコクンと会釈した。
ハイオーク達は何か一言二言話をすると、又仕事を再開させた。
タトラはハイオーク達の仕事を無言で見ている。
ハイオーク達はほとんどしゃべらず仕事を進めている。
かなりゆっくりと作業しているが、慎重に仕事をしているのだろう。すでに並べ終わった四角い石は、ウソのように真っ直ぐに並んでいる。
『この人達はこんなに綺麗に仕事をするのか・・・』
タトラはジーッとその仕事ぶりを眺めていた。
「タトラー。どこ行ったー」
エレンの声だ。
タトラは立ち上がり、裏口のドアを開けたまま建物の中を覗いた。
「エレン。こっち」
「・・・やだー。どっか行っちゃったかと思ったよー。何してたの?」
「うん。オークさん達の仕事見てた。見て」
タトラは開けたドアから再び外に出ると、エレンが出てくるのを待った。
エレンが来たのを確認すると、作業をしているハイオーク達の方を見てつぶやいた。
「綺麗な仕事でしょー。エレンー。全然、豚なんかじゃなかったよ」
「当たり前でしょー。だから、豚なんて言ったら怒られるよー」
「そうだよね。見た目でそんな風に思ったらダメだよね」
「・・・戻ろう。ガバル達が戻ってきたんだ」
「うん。わかった」
二人は裏口から建物の中に入った。
ハイオークの三人は黙って仕事を続けている。
部屋に戻るとガバルとギドが汚い袋からいろいろ収穫物を出し、床に広げている。
「どうだ、見ろ。食べられそうな植物があったから持って来た。これだけあれば明日からの昼は豪勢にランチだな」
満足そうに笑顔で手を広げているガバルにエレンが言う。
「うひょー。大漁だねー。・・・明日からは朝ご飯と晩ご飯は宿で ご馳走になれるのかな?」
「期待はしちゃうけど、ダメでもこれだけあれば今までみたいな品祖な食事にはならないだろう」
「あと何泊すればテンペストに着くんだろうー?」
「二泊か三泊だろうな。皆が戻ってきたら聞いて見るさ」
「そうだね」
収穫物を洗いたいところだが、水道がまだ来ていないと言っていたから、ココで洗うのは我慢しそのまま袋に詰め直した。
途中の川で洗えばいい。
しばらくすると一階から話し声が聞こえる。
廊下から裏の広場を見ると誰も居なくなっている。広場で作業していた三人が戻ってきたのだろう。
タトラが一階に降りると、ハイオーク達はキッチンで作業を始めようとしていた。
「あのー。なにかお手伝いする事はありますか?」
タトラが声を掛けた。
「ああ。お嬢さん。いや、大丈夫ですよ。もう少しすると、他の作業員も戻ってくると思いますので、そうしたら食事です。もう少しお待ち下さい」
「分かりました。なにか手伝えることがあれば言って下さい」
「はい」
ハイオーク達はそう言うと、それぞれまた無言で仕事を始めた。
タトラは又しばらくその仕事を眺めていた。
四人は二階の部屋でしばらくテンペストの話をしていた。
盟主であるリムルが魔王になったこと。今までどんな事があったのか。
タトラは初めてエレンからそんな話を聞いた。
「大変だったんだね。その、リムルってスライムも」
「・・・タトラ。『豚』とか『スライム』とか本人にそんなこと言っちゃダメだからね」
「言わないよ。大丈夫」
野宿の時には聞けなかった、冒険者としてのいろんな話を聞きながら時間は過ぎていった。
「コンコン」ドアをノックする音。
四人が振り向くとドアが半開きになりハイオークが顔を覗かせた。木を切っていた者だ。
「部屋、大丈夫でしたね。全部の部屋を使ってるわけじゃないので、空いてる部屋があるはずでしたので。食事の用意が出来ましたので、下にどうぞ」
「あ。先程はどうも。ちゃんと部屋に案内されましたよ。ありがとうございます。食事分かりました。今行きます」
四人は待ってましたとばかりに急いで立ち上がりハイオークの後に続いて階段を降りた。
ドワルゴンへの街道で宿泊した際の食堂であろう大広間に入ると、そこには数十人のハイオークと数名の魔獣が座っていて、食事を始めていた。
今まで話し声で充満していた部屋だが、急に静まりかえって皆がエレン達の方に振り向いた。
一瞬ぞっとした四人だったが、いろんなテーブルから
「やあ、ガバルさん。来てたんですね」
「おー。エレンさん。こんにちは」
などと、声が飛んだ。
ガバルもホットして「こんにちは。一晩お世話になります」と会釈をし、ハイオークが「こっちこっち」と手招きする方にそのまま歩いて進んだ。
キッチンの向かいのカウンターでお盆にのった食事を四人が受け取る。
キッチンの中には広場で作業していたハイオークの三人が働いている。
その内の一人が料理の載った皿をお盆に置いて、カウンターに並ぶ者に渡していた。
タトラは配膳しているハイオークに声を掛けた。
「皆さんは食べないのですか?」
「俺らは先に食べたんだよ」
「そうなんですか」
テーブルにはお茶が入ったヤカンが置かれている。各自でカップに注いでいる。
タトラはお盆を持ちエレンの後を付いて歩いた。
エレンが空いている席を見つけたようだ。
「タトラ、ここ」
「うん」
二人分空いている場所に座るとご飯を食べ始めた。
「いただきまーす」
「いただきます・・・」
お盆に載った食事の量は多い。大盛りだ。
ご飯が丼でなみなみよそってある。それにスープと大盛りの野菜炒めのようなおかずだ。
ちょっと濃いめの味付け。
凝った食事ではないが、肉体労働をしている作業員には丁度いいのだろう。
キッチンの方を見るとカウンターでお盆を受け取る者はもう居ないようだが、キッチン内の三人はまだなにか仕事をしている。
ガバルとギドは別の席で食べているようだが、隣のオーク達と楽しそうに話をしながら食べている。
ギドはやたらと大きな手振り身振りで話をし、となりのオークは大笑いをしている。
エレンにも隣のオークが話しかけてきた。
「エレンさん。テンペストにいくんですよね?」
「うん。そう」
「お仕事ですか?」
「ううん。違うの。テンペストで研修する従姉妹を連れてきたの」
そういってタトラの肩を「ポン」と叩いた。
「ほー研修生さん?」
オークは少し体を前にして、エレン越しにタトラに視線を向けた。
「テンペストは素晴らしい国ですぞ。研修頑張って下さい」
「はい。ありがとう。・・・ちょっとお聞きしたいことがあるのですが」
タトラは間のエレンを挟んで話しかけてきたオークに質問を始めた。
「街道を作る仕事はお給料幾らもらえるんですか?」
「こらー。タトラ。そんな事聞いちゃダメでしょー」
「いや。別に構いませんよ。俺らは金はもらってないですよ。・・・金って。まあ、もらってもどう使うのかも俺らは知らないんですけどね。俺らはリムル様に配下にしてもらったときに、衣食住の保障をしてもらっているんですよ。その代わりに労働でお返しする」
「・・・ふーん。そう言う仕組みなんだ。・・・」
「衣食住って言ったって、仮設の飯場がこのレベルなんですぜ。食い物も家も、十二分以上のレベルですからね」
「・・・そうですね。立派な建物」
タトラは食堂を見回してそう言った。
タトラは食事を終えると、お盆をカウンターに持って行った。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
キッチンで鍋や釜を洗っているオークが振り返った。
「ああ、そう言ってもらえると張り合いがあるよ」
「あのー。皿洗いくらいならお手伝いしてもいいですか?」
「いや、いいよ。そんなことしなくて」
「いえ、やらせて下さい」
タトラはそう言うと、勝手にカウンターを回って、キッチンの中に入っていった。
カウンターの裏側は一番端がシンクになっている。その横には水が入っているのであろう樽が置いてある。
樽からは蛇口が出ていて、それを回せばシンクに水が流れる仕組みのようだ。
タトラは食器を洗う為に手袋を外そうと右手を左手の手袋に掛け、止まってしまった。
『そうだ・・・食器を洗うには手袋を外さないといけない・・・』
シンクのまわりを見回したがキッチン用のゴム手袋などはない。
頭だけ振り向き後ろで鍋を洗っているオークを見ても、素手で洗っている。
『自分から手伝うと言い出したのだ。今更止めるわけにはいかない・・・やろう』
そう決意し、両手の手袋を外し、カウンターの上に置いた。
綺麗な長い指の緑色の手が、置いてあるスポンジをつかんだ。
樽から少しだけ水をスポンジに染みこませ、洗剤を付けて積み上げられている食器を洗い始めた。
「いや、ホントにいいよ。そんなことしなくて」
奥で鍋を洗っていたオークが仕事を中断してタトラの横に来て話し始めた。
「いえ、やらせて下さい。宿泊と食事の代金にもならないとは思いますけど、感謝と謝罪の意味で・・・」
「悪いね。・・・謝罪ってなんのこと?」
「いえ。自分の気持ちの事です」
「・・・なんだか分からないけど、まあ、それじゃ頼んじゃおうかな。全部やったら大変だからほどほどでいいからね」
「はい」
タトラは初めて見たハイオークを『あの豚、襲ってこないか?』とエレンに聞いた。
これだけ細かい丁寧な仕事をする人を、見た目でそんな風に思ってしまった。
世間知らずの自分が情けなく感じていた。
食事の際に話してくれたオークは『衣食住の対価として労働をしている』とも話していた。
それなら、この飯場での宿泊と食事の御礼としてなにかお手伝いをしようと考えたのだ。
積み上げられた食器を洗ってはシンクの一番端の水が貯められているタライに入れていく。
少し溜まったら更に横のタライに移して行く。
水を樽で運んでいるのだ。たぶん貴重なのだろうから、できるだけ節水の意識で皿洗いを続けた。
何十分食器洗いをしていただろう。だいぶ片付いてきた頃に先程のオークがコップを2つ持ってやってきた。
「休憩しようや」
「いえ、大丈夫です」
「いやいや。いつも休み休みやってるのさ。君の為に特別休憩するわけじゃないよ。休憩休憩」
「・・・そうなんですか?分かりました」
オークからコップを受け取ると、自分が手袋をしていないことを今更思い出した。カップを一旦シンクの横に置き、カウンターの手袋を手にはめた。
他の二人のオークもそれぞれが湯気の立つコップを持ってやってきた。
カウンターを出て、一番近いテーブルに向かうと四人は椅子に座った。
オークの一人がお茶を一口飲み話し始めた。
「ハー。疲れたね。細かい仕事だからね」
『疲れたと言った・・・こんな大男も疲れるのか・・・』
タトラは本心でそう思った。
「みなさん、体力ありそうだけど、やっぱり疲れるんですね」
「ハハハ。そりゃ疲れるさ。でも労働で疲れるのは気持ち良いさ」
「・・・皆さんはお給料をもらっていないと聞きました。働くのイヤにはならないですか?」
「ハハ。お金はもらってないけどさ、飢餓の心配がないって言うのはありがたいことだぜ。リムル様のお陰さ。働くことがイヤになるはずがないさ」
代わる代わるに二人のオークがしゃべる。
「俺達はね、昔飢えに苦しんだんだ。それで悪いこともしちゃった訳だよ。それをリムル様は許して下さって、その上に衣食住の保障をしてくれた。国が発展して行く上で仕事はどんどん増えていく訳だ。俺達の体力の生かしどころって訳だ。働くさ。いくらでも」
「でも、木を切って、切り株を抜いてってキツい仕事ですよ。石材は重いし。・・・自分がオークじゃなければこんなキツい仕事をしなくていいのに・・・って考えたことないですか?」
「え?ハハ。オークじゃなければ・・・ってだってオークだもの。オークじゃなければって、自分が自分じゃなければってことか?それじゃ何者だ?・・・なんか難しいこと考えるな、お嬢さんは。自分は自分で、オークはオークで、その中で楽しく働ければいいんじゃないか」
「・・・・・」
タトラは黙ってしまった。
「まあ、毎日汗水垂らして働いて、美味い飯食って、良い暮らしだと思うよ」
「・・・そうですね」
タトラはそう言うしかなかった。
コップのお茶を飲み干したタトラはキッチンに向かった。
「お嬢さん。もうほんとにいいぜ。助かったよ。ありがとう。俺らもいつもより早く寝られるよ」
オークの三人は椅子に座ったままそう言った。
「いえ、もう少しですから」
キッチンに入る前にタトラは振り返って答える。
「いやいや、お嬢さんも旅で疲れているんだ。今日はもういいよ。・・・そう言ってもやるって言うんだろうから、それじゃ明日の朝も手伝ってくれよ。飯食ったらすぐに出発なのかもしれないから、給仕の手伝いしてくれよ。それで十分だ」
「・・・はい。それじゃ、そうします。・・・今日はこれで失礼します」
「うん。ありがとう」
タトラは深々とお辞儀をすると二階の自分たちの部屋に戻った。
エレン達三人はすでに寝袋にくるまって寝ているようだ。エレンの横にタトラの寝袋が広げられている。
エレンが準備してくれたのだろう。
タトラは音をたてないように寝袋に滑り込んで横になると、そのまま眠りについた。
「タトラ朝だよ。タートーラーちゃーん」
「ハッ。給仕の仕事をしなければ」
タトラは寝袋のまま上半身を起こした。
「私、キッチンの手伝いをする約束をしているの。行ってくる」
「そうなの?偉いねー。・・・それじゃ私も手伝おうかな」
タトラは寝袋から出るとそのままキッチンに向かった。
後ろからエレンも付いてくる。
「おはようございます。お手伝いに来ました」
「私も手伝いまーす」
大きな鍋に向かって大きな棒をかき回しているオークがこちらを向いた。
「おはよう。早いね。まだ飯の時間じゃないから・・・それじゃ、籠の食器をカウンター前に持って行ってもらおうかな」
「はい。分かりました」
「はーい」
タトラとエレンはシンク横の籠から種類ごとに昨晩食器洗いをしたカウンター横に運んだ。
数が多いので何回にも分けて持っていくと、裏口に近いところから別のオークが釜をカウンター横に持ってきた。
配膳カウンターには数個の釜が並んだ。
「それじゃ、次はコップをテーブルに運んでもらおうかな。一つのテーブルに10個づつ位置いてもらうかな」
さっきまで鍋をかき混ぜていたオークが、大きな鍋を持って来てカウンターに置きそう言った。
「はい、わかりました」
「やる事いっぱいあるのね。たいへんねー」
「なーに、これが俺らの仕事さ」
別のオークは大きなやかんを各テーブルに配っている。
オークどうしは無言のまま仕事を進めている。
「そろそろみんな飯を食いに来るから、それじゃ、ごはんはごはん茶碗に。このスープはこのボールによそって、このお盆に載せると。・・・やってくれるか?」
オークは並べた釜と鍋をそれぞれポンポンと叩きながら説明をした。
「はい」
オークは一抱えするほど大きなボールを持ってきて、小皿に漬物らしき野菜を載せ始めた。
「エレンー。私スープよそうから、ごはんはエレンね」
「うん。わかった」
二人で作業分担をして仕事を始めた。
「ごはんはもう少し多くていいかな。みんな食うからね。大盛大盛」
漬物を小皿に分けながらオークはにっこり微笑んだ。
「はーい」
エレンは返事をするとお盆に載せたごはん茶碗を再度手に取りご飯を足していった。
お盆がカウンターに10個以上並ぶと、オーク達がぞろぞろとやってきた。
「おはようございます」
タトラが挨拶をすると、両手でお盆を取ったオークが目を丸くしてタトラに言う。
「ビックリした。今日はべっぴんさんの給仕か。こりゃ飯がウマイや」
すると漬け物を小皿に移してお盆に載せているオークが答える。
「なに言ってやがる。俺が給仕したって、美味い飯は美味いんだよ」
「いーや。全然違うぞ。・・・ありがとな」
「・・・どうぞ召し上がって下さい」
タトラはちらっとお盆を持つオークを見てから、スープをよそう手を止めずに答えた。
次々にオーク達がお盆を受け取りに来る。
「おはようございます。・・・おはようございます」
タトラとエレンは都度挨拶をした。
「おー。今日はスペシャルな朝飯だ」
エレン達がカウンター前に居ることに対して、オーク達はいろいろな言葉を掛けてお盆を受け取っている。
しばらくするとガバル達もお盆を受け取りに来た。
「お、手伝いか。偉いな」
「はい」
スープをよそう手を止めずにタトラは答えた。
「手伝いも良いけど、お前らも早く食っちゃえよ。食べたら出発だからな」
「うん。わかった」
エレンは手を止めて答えた。
ガバル達はお盆を手に取り、空いているテーブルを探して歩きだした。
「ふー」
手を止めて一息ついていたエレンは、ふと横に居るタトラを見た。
『そういえば、手袋をしていない・・・』
エレンは今更そのことに気がついた。
綺麗な長い指の左手でボールを持ち、右手でお玉を持ってスープを注いでいる。
『朝から手袋していなかったかな?・・・なにかあった?』
手の色は緑かもしれないが、それが別に特異には感じない。
タトラの緑色の肌を見るのは、お互いがまだ小さい子供の時以来だ。
お盆を取りに来るオーク達も少なくなってきた。
タトラも手を止めて、休憩しているようだ。ぼーっとしている。
作りおきはしないようにしているのだろう。
オークがお盆を取りに来るとスープをよそうようにしていた。
「もうそろそろいいよ。あとは俺が全部やっても間に合うから」
隣で小皿に漬け物を移していたオークが言ってきた。
「はーい。それじゃ私達もご飯頂きますね。タトラ、私達の分スープ入れてね」
「うん」
タトラはそう言うとボール二つにスープを注ぎお盆に載せた。
エレンも丼二つにご飯をよそいお盆に載せると、タトラの緑色の手をつかんでカウンターの向こう側に引っ張って行く。
「もういいんですか?」
タトラはカウンターでご飯とスープの載ったお盆を横に滑らせながらオークの前まで移動すると聞いた。
「十分だよ。ありがとう」
そういいながらオークは漬け物の載った小皿をお盆に載せてくれた。
お盆を持つタトラの両手は緑色だが、オークもなにも意識はしていないようだ。
そんな状況を隣で見ていたエレンは、タトラとオークの顔を交互に見た。
・・・・・
エレン達四人は食事を終え、二階の自室に戻ると、旅の準備を始めた。
荷物を持ち一階に戻ると、オーク達はすでに誰もいない。
キッチンの方で「カチャカチャ」と音がするだけだ。
四人で食堂に向かいカウンターからキッチンを覗くとオークが一人食器を洗っている。
奥では大鍋を洗っているオークの姿も見える。
ガバルが少し大きな声で話しかけた。
「ありがとうございました。出発しまーす」
カウンターの向こう側の一番端で食器を洗っていたオークが手を止めてガバルの方を向いた。
「あー出発ですか。お気を付けて」
「どうもありがとございました。お世話様でした」
ガバルは再度礼を言った。
ギド・エレンも御礼を言い、タトラもならった。
「ありがとうございました。食事も美味しかったです」
「こっちこそ、手伝ってもらっちゃって。ありがとな」
「はい」
タトラは微笑んだ。
四人は飯場を出発し、街道整備中の土の道を歩いた。
降雨による影響か、多少の凸凹はあるが、いたって歩きやすい。
広い道だ。整備中の街道に歩く者はいない。
「あと二泊くらいだって言ってたよねー。次も泊めてくれるかなー」
「ダイジョブじゃないか?ま、ダメでも飯場近くにテント立てれば、森の中で野宿よりはいいさ」
エレンとガバルが暢気に話している。
昼は昨晩ガバル達が収穫してきた野菜でスープを作り、デザートに果物まで付いた。
「どうだ。美味いだろう。俺が獲ったんだからな」
ガバルが偉そうに言う。
「飯場のご飯の方がおいしいよ」
エレンが答える。
「そりゃ、当たり前だよ。あれと比べるなよ」
「まあねー」
エレンは笑っている。
お昼ご飯を食べ終え、四人は再び歩き始める。
しばらく歩くとオーク数名が転圧機で地面をドン付いている。
丸いすをひっくり返したような転圧機は重そうだ。
それを軽々と持ち上げては地面にたたきつけている。
「こんにちはー」
エレンが立ち止まらずに声を掛けた。
「やあ、エレンさん。久しぶりですね。テンペストに行くんですよね?」
『やった。私の事を知ってるひとだ。』エレンは心の中でつぶやいた。
「はい、そうです。・・・あのー・・・次の飯場に私達泊めてもらえますか?」
「ああ、大丈夫でしょ。まだ宿にはなっていないけど、旅のひとには宿泊を認めるように言われてますから」
「ありがとー。行ってみますねー」
歩きながらガバルがエレンに言う。
「なかなか図々しいな。でもこれで今日も屋根の下で寝られるな」
「うん」
何も言わないがタトラもギドも安堵している。
少し歩くとまたオーク数名が仕事をしている。
四角く切られた石材を道に並べている。
「こんにちはー」
エレンは歩きながら挨拶をした。
「こんにちは。テンペストまで行かれるのですか?ここから先は石畳が施工済ですから歩きやすいですよ」
「ありがとー」
街道は石畳の道に変わった。断然歩きやすい。
歩きやすいと言う表現はおかしい。単なる整備された普通の道だ。
サリオンの町中の道よりよほど綺麗だ。
「ここ、森の中でしょ?こんなに綺麗で広いな道を作る必要あるの?」
タトラは疑問を口にした。
「だから、リムルさんはずっと先のことまで考えているのよ。・・・たぶん」
エレンが答える。
『信じられない・・・』
タトラは疑問というよりこれだけ立派な街道を作る意味が分からなかった。
石畳の道を歩いていると、ここが森の中だと言うことを忘れそうになる。
快適な旅に一変した。
しばらく歩くと飯場が見えてきた。造りは昨晩の飯場と全く同じようだ。
ドアを開けて声をかけるとオークが姿を見せた。
宿泊・食事の了承を快くもらった四人は、昨晩と同じように二階に案内された。
タトラは部屋に荷物を置くと、廊下に出て裏の広場を眺めた。
『昨日の宿ではこの場所の縁に長方形の石材をオークがキレイに並べていた・・・』
広場を見ると二人のオークが広場全体に石材を並べている。街道と同じように。
『こうなるわけか・・・ここは何に使うんだろう・・・』
オーク達の仕事の進め方に感心した。
明日ももう一泊飯場に泊るはずだ。今度の飯場はどのように変化しているのか少し楽しみになってきた。
タトラは一階に降りるとキッチンに向かった。配膳カウンター横からキッチンに入ると、立ち止まり大きな声をあげた。
「お手伝いします」
まな板で野菜を切っているオークがビックリしたように肩をピクッとさせ、こちらに振り向いた。
「あー、さっきの。・・・いーよいーよ。手伝いなんて」
「いえ。昨日も前の飯場で泊めていただいて、お手伝いしました。ある程度キッチンの様子は分かっていますので」
「んー。そうかい?それじゃ頼むかな。米研いだことある?」
「コ・メ・・・?ですか。ごめんなさい。分からない・・・」
「そうか、それじゃここ頼むかな。今俺が切ってるこれ、この大きさに全部切ってくれるか?」
「はい。それならできます」
タトラは手袋を外して、まな板の向こう側に置いた。
まな板の右側には何本あるのか大量のオレンジの野菜が積まれている。
左側にはすでに切られた野菜が大量にある。
同じように切ればいいのだ。
右手で包丁を持つと作業を始めた。
「そう、そんな感じで。大きさは大体でいいからね。俺はあっちで米研いでるから。なんかあったら呼びに来て下さい」
「はい」
タトラは大量にあるオレンジの野菜と格闘を始めた。
大量の野菜を切り終える頃になると、オークが二人キッチンに入ってきた。
「おー、今日は助っ人がいるのか。旅の方かい?」
「はい。お手伝いです」
「助かるよ。ありがとね」
「いえ。宿泊とご飯の御礼です」
「あー・・・なるほどね。そういうことか。別にいいんだぜ。まだちゃんとした宿屋になってなくて申し訳ないくらいだ」
「いえ、お手伝いします」
タトラはそう言うと残り少ないオレンジの野菜のカットを続けた。
しばらくすると先程のオークがやってきて言った。
「まだいいいのかい?」
「はい。食事までお手伝いします」
「なんか悪いけど、それじゃ今度はこの芋切ってくれるかな。皮はこれで剥いて、で四分の一に。小さいのは半分でいいから。こんな感じで」
オークは芋をピーラーで剥き、包丁で半分に切って、それをまた半分に切った。切った芋は水の入った大きなボールに入れていく。
「分かりました」
タトラはそう言うと同じように作業を始めた。
「うん、それでOK」
オークはそう言うと入ってきた二人のオークとなにか話を始めた。
『うんうん』と二人はうなずき、一人はまたキッチンを離れた。
いろいろな説明を受けながら作業を続け、先程の野菜類は大きな鍋で煮込まれていく。
なにか黒いスープになっていく。
大きな釜からは湯気が出て美味しそうな香りがする。
『この香りは・・・昨日飯場で食べたご飯というものだろう』
「コメとはどういうものなのですか?」
いろいろと説明をしてくれるオークに質問をした。
「米見たことないか。・・・いや俺だってテンペストの住人になって初めて見たんだけどさ」
そう言うと『こっち』と手招きをしてキッチンの奥に連れて行かれた。
「これが米」とオークは樽に手を突っ込み手の平に何かを載せて見せてくれた。
そこにはピカピカの真っ白な粒があった。
「コレを研いで、あの釜で炊くと、あのご飯ができるのですか?」
「そうそう。昨日食べたんだよな。美味かっただろう。こんなに美味いもの、リムル様の配下になるまで食ったことなかったぜ。・・・お嬢さんの国にも米はないんだな」
「はい。ありません。初めて見ました」
「そうか。テンペストに武具でも買いに行くのか?冒険者だろ?」
「いえ。他の三人はそう言う仕事みたいですけど、私は研修生です」
「研修ねえ。テンペストで?」
「はい。そうです」
「ふーん。テンペストは魅力的な町だぞ。いろんなものがある。良い勉強が出来るといいな」
「はい」
タトラは笑顔でそう答えた。
しばらくすると今朝の配膳の段階に入ったとタトラは感じた。
カウンターの前で食器を移動させ始めると、
「今日の晩飯では大皿を使うから、丼は棚に戻して、棚にあるこの大皿を出す。この作業場には30人位働いてるからあんたらの分と合わせて35枚位ね。ボールと小皿は使うからこっちに置いてOK」
説明を受けてタトラは準備を一人でする。
オークが大鍋と釜を順番にカウンターに持って来た。
そろそろ皆が食べに来るのだろう。
「俺がご飯をよそうから、お嬢さんは大皿のここにこのスープを掛けてくれるか?」
「はい」
オークは大皿の半分側にご飯を大盛りで載せると、黒いスープを残りの半分によそった。
「こんな感じでね。これカレーライスって言うんだ。俺好きなんだよ。しょっちゅう作っちゃうんだ。ハハハ」
ちょっとスパイシーな良い香りがする。
『飯場の料理担当者によって料理は違うんだな・・・』
タトラの右側では別のオークがボールに野菜サラダを盛りつけ、小皿にはなにかの漬け物を載せている。
5つ位カレーライスをお盆に載せた頃、オーク達がお盆を受け取りに来た。
「お、今日はかわいいお嬢さんの給仕だ。うれしいね。ありがとよ」
最初のオークはそう言ってサラダと漬け物・カレーライスの載ったお盆を持ってテーブルに歩いて行った。
今朝、自分が準備したのはスープだけだったが、いま手にしているのは大皿に大盛りご飯とカレーだ。
結構な重さの大皿を少し高い位置にあるカウンターのお盆に載せるのはなかなか大変だ。
「あのー。ご飯担当と交代してもらえませんか?」
「どうした?」
「いえ、カレーをよそうのは問題ないのですが、それをお盆に載せるのが、私の腕力ではちょっと・・・」
「おー。そうかそうか。悪かったな。気が効かないで」
すぐに立ち位置を交代してくれて、タトラはご飯をよそう担当になった。
「いいよー。そういう判断は」
「え?」
『・・・なんの事を言っているんだ?』そう思った。
「出来ない事を失敗するまで無理にやって、失敗してから『実は無理でした』ってのは、プロジェクト全体から見たらダメさ。体力問題となれば尚のこと」
「はあ」
タトラは何を言われているのか、ちょっと理解ができなかった。
エレン達も現れ食事を始めた。
タトラのお腹が『グーー』となった。
「もういいよ。あんたも食事にしなさい」
オークがにっこり笑ってそう言う。
「はい。分かりました」
タトラは最初のまな板の場所に行き、手袋をつかみズボンのポケットに突っ込んだ。
カウンターでお盆を受け取り、一人分席の空いている場所に座った。
左右には二回りも大きいオークが座っている。オークに挟まれ、タトラはなんの違和感もなく食事を始めた。
手袋をしていない緑色の右手。すっと延びた綺麗な指でスプーンを持つとカレーライスをスプーンですくった。
顔の前に持って来ると、スパイシーな良い香りがする。
一口食べると、なんとも言えないコクのあるちょっぴり辛い味が口一杯に広がった。
「美味しい・・・」
黙って食事をする左右のオークに挟まれ、タトラは綺麗な緑色の右手でカレーライスをバクバクと頬張った。
夕飯後エレンと食器洗いの手伝いをして、二階に戻った。
・・・・・
タトラは朝も料理の手伝いをして、飯場を出発した。
街道は完成したように見える。時々狼が荷車を引いてすれ違う。
狼の横には必ずオークが付いている。
「こんにちはー」
エレンが挨拶をすると、オークも声を返す。
「こんにちは。お気を付けて」
「まだ街道がサリオンまで完成していないのに何を運んでいるんだろう?」
タトラはエレンに質問した。
「・・・なんだろう?わかんない。今度会ったら聞いて見なよ」
「うん。別にいいんだけどさ」
タトラ達は石畳の上を歩き続けた。
しばらく歩くとまた狼が荷車を引いて現れた。
やはり狼の横にはオークが歩いている。
タトラはエレン達から一人離れ、小走りで荷車に向かった。
あまりに大きな狼に少し恐怖を感じ、少し離れた所から質問をした。
「こんにちは。何を運んでいるのですか?」
「やあ。こんにちは。食料さ。水もね。街道整備の仲間にね。資材を運んでいる者もいますよ」
オークは立ち止まることはなく、歩きながら返事をした。
「食料かー。飯場に運んでいるってことですよね?」
タトラもオーク達の進む方向に一緒に歩きながら質問を続けた。
「そう。仲間が飯食うのは飯場だからね。そこまで運べば俺の仕事は終わりさ。帰りは材木を積んで町まで帰るというすんぽうだ」
「すごい。そういうことか。・・・昨日も一昨日も飯場に泊めてもらいました」
「そうかい。綺麗な仮設宿泊所だったろ。いずれ宿屋になるんだ。次の飯場はもう水も来ているから水道ひねれば水もでますよ。寄って下さい」
「気を付けて行くんだぞ」
突然狼が話しかけてきたので、タトラは驚いた。
『そうか、この狼もテンペストのひとってことなんだ』
「はい。ありがとうございます」
返事をすると会釈をしてタトラは立ち止まった。
『なるほど。あの大量の食料はテンペストの町からどんどん補給しているってことなんだ』
遠ざかっていく荷車の後ろ姿をしばらく眺めていた。
タトラは街道整備の進め方と労働者の食料確保のイメージが自分なりに理解出来た気がした。
タトラは走ってエレン達に追いついた。
「エレン。凄いわ。順番に街道がどんどん出来てきて、そこを使って食料を効率よく補給しているのよ」
「食べ物を運んでいるってこと?ふーん」
「凄いわ・・・道路ってこうやって作るのね」
「・・・」
エレンは何が凄いのかよく分からず、首をひねった。
・・・・・
太陽はまだ高い位置にあるが、飯場が見えてきた。
「今日も泊めてもらおう」
ガバルはそう言うと飯場のドアを開けた。
中ではオーク数名が電気の配線をしたり、床板を張ったりしていた。
「こんにちは。今晩泊めてもらえますか?」
「ああ、いらっしゃい」
脚立の上で天井のなにか作業をしているオークがエレン達の方に視線を向け返事をした。
「まだ宿屋ではないんですよ。それでも良ければ・・・」
ガバルが返事をした。
「勿論ですよ。昨日も一昨日もこの先の飯場に泊めてもらいました」
「ああ、そう言うことか。分かってるってことですよね。まだ改装中ですけど、それで良ければどーぞ」
ガバルは聞きにくそうに話を続けた。
「あのー。まだ宿屋じゃないってことは宿賃はー・・・・」
「ハハハ、お金は取りませんよ。まだ単なる仮設施設なんだから」
ガバルの顔がほころんだ。
「あ、ありがとうございます」
そしてまた真顔になって、聞きにくそうに聞いた。
「あのー。・・・飯はぁー・・・」
「ハハハ、ダイジョブですよ。食っていって下さい。たいした物は出せませんがね」
「ありがとうございます」
ガバルは最敬礼した。
習って他の三人も最敬礼をした。
前の飯場と同じ雰囲気だったが、食事の時間になっても労働者のオークの数は増えなかった。
結局飯場の室内で作業しているオーク5人とエレン達で一つのテーブルで食事をした。
「もうここは作業員の寝泊まり場所ではないからね。これからは宿屋への改築作業がメインだから」
「なるほど・・・」
ガバルが返事をした・・・
「ここが終わったら俺らは次の飯場を宿屋へ改築だ。順番にね」
「なるほど・・・」
ガバルが同じ返事をした。
『なるほど・・・凄い。システマティックだ。一つの仕事を専門的にしていくわけだ・・・』
タトラは思った。
食後、タトラとエレンは食器荒いの手伝いをした。
カウンター横のシンクには蛇口が付いていて、ひねれば水が出る。
人数が少ないからあっという間に食器洗いは終わった・・・
翌朝、朝食もご馳走になり、四人は出発した。
「たいしたシステムだよな。同じひとが丸太を切って、石畳を敷設するんじゃなくてよ・・・労働者の仮設宿泊施設を改修して宿屋にしてよ・・・」
石畳を歩きながらガバルが言う。
「そうでげすね。宿屋に改修っていうより、宿屋にする事前提の宿泊所を作ってますよ。飯炊きも立派なキッチンだし。」
ギドが隣でうんうん頷きながら答える。
「全部リムルさんが考えたんだろうねー・・・よく分からないけど、リムルさんは凄いんだよ・・・きっと」
エレンは自信満々にそう答えている。
しばらく歩くと水道施設らしいものが見えてきた。
「今朝の宿屋に水が来てたからな。ここも水道が開通してるのかもな」
ガバルが蛇口をひねると惜しげも無く水が出る。
「ありがてー。ここで昼飯にするか」
ささっと火をおこし、鍋に水を入れるとリュックから一昨日収穫した野菜とサリオンから持参した干し肉を入れてスープを作り始めた。
「このまま行けば、今日にはテンペストに着くはずでしょ?。水捨てちゃう?」
「いやいや。なにがあるか分からねーから持ってた方がいいさ」
エレンとガバルの会話を聞きながらタトラは「ちょっとお花摘み」と言って森の奥に入っていた。
この辺で・・・と思ったタトラの目に二つの光るものが見えた。
『誰かいる・・・』
タトラは立ち止まった。
二つの光がボーッと暗くなると、全身が見えてきた。
大きな蜘蛛にも見えるが蟹にも見える。
「こんにちはー」
タトラは大きな声で挨拶をした。
「え?誰かいるのー?」
エレンが遠くから声を掛けてきた。
「・・・うん。・・・テンペストのひと?」
ガバル達は聞こえているが振り向かないようにしているらしい。
「え?だれ・・・?」
エレンがタトラのいる方に歩いて行く。
タトラの前方、エレンからも確認出来る所には会いたくもない「ナイトスパイダー」が睨み付けていた。
「いーやー」
エレンは叫びタトラの手を大急ぎで引っぱってガバル達の所に走った。
「え?テンペストのひとじゃないの?」
「そんな訳ないでしょ。あれはタダの魔物。あれはタダの・・・逃げなきゃいけないヤツ・・・」
ガバル達の反応を確認しつつ、エレンは荷物も持たずにその場を通り過ぎた。
「えー。ここまで来てかよー」
ガバル達も手近の荷物を手に取って、走りだした。
鍋と完成間近のスープは置き去りだ。
タトラは訳が分からない。少なくともオーク達のようにテンペストの人ではないことは理解した。
であれば『戦わないのか?』という疑問だ。
「あれ、敵なの?害獣?戦わないの?」
エレンに手をひっぱられて走っているタトラが聞いた。
「敵よ。敵って言うか・・・逃げるの・・・」
分からないけど、タトラは一緒に走った。
ガバルが立ち止まり振り返えり叫んだ。
「ダメだこのままじゃ追いつかれる。戦うぞ。・・・エレン結界を張ってくれ」
「うん。わかった・・・」
四人は立ち止まり石畳の上を追って来るナイトスパイダーに向き合った。
エレンはタトラの手を引っ張って自分の後ろにかくまうようにした。
ガバルが叫ぶ。
「いくぞー」
ナイトスパイダーがものすごい勢いでこちらに来る。
「あれ?ガバルさん。久しぶりっすねー。テンペストに行くんっすか?」
ガバル達が振り向くと石畳の上を狼に載ったゴブタ達の姿が見える。
緊張感もなく優雅に歩いている。
「いっつも戦ってるっすね。そんなに戦うのが好きなんっすか?」
「ゴブタ君。良いところに・・・」
「ココは俺がぁー。・・・今夜の、晩飯ー」
ゴブタが宙を舞って剣を振り下ろした。
「カキーン」
ナイトスパイダーは細切れになってランガに背負われていた。
「これ、美味いんすよ。今日は宴会っすねー」
ゴブタの暢気な声を聞いてガバル達は地面にひざから落ちた。
タトラは何が起きているのか分からず呆然と立ち尽くしている。
・・・・・
「エレンさん、研修生が来るっすよね?ひょっとして、このひとっすか?」
ガバル達四人と、ランガに乗るゴブタは石畳を歩きながら話をした。
「うん、そう。私の従姉妹のタトラ。よろしくね」
タトラもぺこりとお辞儀をした。
『これがゴブリンなんだ。・・・全身緑。顔も緑だ・・・』
タトラには父親カルマンの記憶が無い。
サリオンを出たことがないタトラはゴブリンを見るのが初めてなのだ。
「お嬢さん・・・なにか困った事があったら、すぐにおいらを頼って下さい。すぐに助けに行くっすから」
ゴブタは、ない前髪をサラッとかき上げる仕草をした。
「タトラ。気にしなくていいから・・・」
エレンがそう言うと間髪入れずにタトラは答えた。
「うん。・・・なんか、わかった」
エレンとタトラは顔を見合わせて拭きだして笑った。
タトラは悪い気はしていなかった。
ガバル達が苦戦する魔物をこのゴブリンが瞬殺したのだ。
『弱き者』と母に聞かされていた自分の中に流れる血は、決して『弱き者』ではないのでは・・・と感じたのだ。
ガバル一行はランガに乗ったゴブタ達と歩いていた。
「エレンさん、この先の宿に泊ったんすよね?まだ商人や旅行者は少ないけど、街道が出来ると往来する人も増えるから、警備しなくちゃいけないんすよ」
「さっきみたいに魔物も出るしね」
エレンが答える。
「まだオークのひとが改修工事していたでしょ?」
別のゴブリンが話し掛けてきた。
「うん」
エレンが答える。
「まだオークのひとが居る間は彼らに周囲の警備を任せられますがね、宿屋への改修が終わると、料理人やスタッフだけになりますからね。そろそろ俺らが見回りをしなくちゃいけないんですよ」
「街道の警備もテンペストの人がやるんだ・・・」
タトラはふと思った事をつぶやくと、エレンがそれに答えた。
「そうよ。サリオンへの街道についてはお父さんが交渉したみたい。通行税とか、宿屋の運営とか警備とか?詳しくは分からないけどね・・・サリオンが管理するよりリムルさんが管理した方が安心よ」
「そうなの?・・・私まだテンペストって想像ができない」
ゴブタがまた無い前髪をかき上げた振りをして口を開いた。
「お嬢さん。テンペストは良い町っすよ。俺が御案内するっす」
タトラはエレンのと目を合わせてから「はあ」とだけ答えた。
「エレンさん。今日の夕飯は広場で宴会っすよ。こいつで」
ゴブタはランガに担がせたナイトスパイダーをポンポンと叩きながら言った。
「うん、わかった。リムルさんも来るかなー。タトラを紹介したいんだけどなー」
「来るっすよ。リムル様は・・・美味いものの臭いを嗅ぎ付ける天才っすから」
「ふふ。そうかもね」
タトラは二人の会話を横で聞きながら、考えていた。
『リムル様って・・・テンペストの盟主のことよね?なんだか学校の友達の話をしているみたい・・・ほんとに国を治めているひとなの?・・・』
サリオンを出てからいろいろなことがあった。
もう、よく分からない。タトラはそんな気持ちでいた。
『テンペストの盟主、リムルさんってスライムは・・・』
どんなスライムか思いを巡らしたが分からない。そして考えるのを止めた。
7.0 テンペスト到着
テンペストに到着した。
町に入ると、ランガに乗ったゴブタがニカッと笑顔を作り右手の親指を立てて話しはじめた。
「ここまで来ればもう魔物の心配はないっすね。俺達は先に行くっす。晩飯の準備っす。エレンさん達は今晩は宿屋っすよね?晩飯は食わずに広場に集合っすよ」
そういうとランガに乗ったゴブタ達はあっという間に姿を消した。
タトラは首を左右に振って立ち並ぶ建物を見ていた。そしてあまりの発展ぶりに驚いていた。
魔物の国と聞いていたから、どんな辺境の地かと思っていたのだ。
これではサリオンとなにも変わりない。いや、むしろ綺麗に整備されている印象だ。
「すごいね、テンペストって」
タトラはエレンにそう言った。
「綺麗な町でしょー。・・・タトラー、夕食まで時間があるから温泉行かない?」
「温泉?」
「うん。プールみたいに広いお風呂が外にあるのよー。露天風呂ー。気持ち良いよー」
タトラはギョッとして、目を見開きエレンを睨んだ。
「なにそれ?お風呂なの?・・・プールに全裸で入るの?・・・一人じゃなくて?・・・」
「え?・・・そういうお風呂だもん。気持ち良いよー」
「遠慮します。・・・行きません。・・・拒否します」
タトラは断言した。
「えー。行こうよー」
「拒否!」
タトラには説明された文化が理解できなかった。
それに、自分の緑の肌を他人に晒す事を、自分から好んでする事など考えられなかったのだ。
町にはいろいろな建物が建っている。サリオンとは町の雰囲気が違うのは木造建築が多いからだろうか。
ガバルとギドはエレン達の後ろを歩いている。
エレンとタトラは歩きながら話を続けている。
「今日はね、リムルさんが宿を用意してくれているの」
「ふーん」
「私達四人分。お客さんってことではないけど、研修生のお供ってことで、私達もタダで泊まれるんだー。明日は朝にリムルさんの執務室に行って、そこで私の仕事は終わり」
「もう、帰っちゃうの?」
「ううんー。2・3日は滞在予定。疲れちゃったもん。ちょっとのんびりしてそれで帰る」
「しばらくは居るんだ・・・私大丈夫かな?」
「ダイジョブダイジョブ。みんな優しいひとばっかりだから。しばらくは同じ宿に泊ってるから、なんかあったら来てね」
「うん。分かった」
四人は言われていた宿に着いた。
受付のゴブリナの優しい接客を受けたが、タトラだけは緊張していた。
サリオンを出たことが無いタトラは、宿に泊ったことなど今まで無かったからだ。
ガバルがカウンターで何かを書いた後、別のゴブリナ二人が小さい台車に四人分のリュックを積み込み、部屋まで案内してくれた。
しばらく廊下を歩くと、一人のゴブリナが台車から荷物を下ろし、ガバルとギドは手前の部屋に案内され入っていった。
エレン達はもう一人のゴブリナに隣の部屋に案内されると、言葉を掛けられた。
「どうぞ、こちらでお履きものを脱いでお上がり下さい」
エレンはゴブリナがそう言っている最中にクツを脱ぎ部屋に入っていった。
タトラはエレンの行動をじっくり観察してから、見たことの無い薄緑色のクッションが敷き詰められた部屋にクツを脱いで上がった。
タトラは薄緑色の床の不思議な感触に、右足を左足のひざの上に引っかけて足の裏を確認した。
「これはね、タタミって言うのよ。テンペスト独自の絨毯みたいなもの。これも気持ちいいでしょー」
「タタミ・・・」
ゴブリナが話し始めた。
「この畳はテンペストの名産品なんですよ。植物から作られていて、調湿・空気浄化機能に優れていて、リラックス効果があるんですよ」
「・・・ふーん。畳ねー」
部屋の真ん中には低いテーブルと四角いクッションが二つ置いてある。
エレンはドカッとそのクッションの一方に座った。
「疲れたー」
タトラもテーブルの向かいにおいてある四角いクッションに座った。
すると、部屋までリュックを持ってきてくれたゴブリナが畳に正座をして両手を前について話し始めた。
「遠方より、ようこそお越し下さいました」
タトラは話を聞きながら右手で畳の表面をなでている。
エレンが返事をした。
「こちらこそ、荷物をありがとうございました。この子は今日だけの宿泊だけど、私達三人は明日もこちらにお世話になりたいの。大丈夫かなー?」
「はい。今はお客様も少ないですから、大丈夫ですよ。同じお部屋でよろしいですか?」
「うんー。明日からは私一人だからもっと狭い部屋にしてもらえますか?・・・明日からは自腹だし」
エレンは舌をぺろっと出した。
「フロントに確認致しますが、このまま使って頂いて料金はシングルの料金で調整できるかと思いますよ。エレンさんは私達の大事な友人ですからね」
「ホントー?無理はしないで下さいね。リムルさんに怒られちゃうから」
ゴブリナが立ち上がり、エレン達の近くに来ると再び座った。
そして急須から二つのカップに飲み物を入れて、それぞれをエレンとタトラの前に置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
エレンは投げ出していた足を折りたたみテーブルの前にちゃんと座りカップを手に取った。
それを見てタトラもカップを両手で取った。温かい。
中を見ると薄い緑色の飲み物が見える。一口飲んだ。ちょっと苦い
「はー。暖まるー」
エレンがそう言うとタトラも「ふー」と深く息をはいた。
ゴブリナが話を始める。
「夕食のことなのですが・・・」
「ああ、今日広場で宴会をするからってゴブタさんに誘われているの」
「そうですよね。さきほどゴブタさんがいらして、そう言われていきました。他のお客さんにも声を掛けてくれって」
「へー、お客さん皆を誘うんだ。まあ、ナイトスパイダー一匹で凄い量だもんね」
「それでは明日の朝食ですが、一階の食堂でバイキングとなりますので、6時から8時までの間にお越し下さい。他の時間が御希望の場合、対応致しますのでお申し付け下さい。・・・他に何かありましたらそちらにあります『電話』で1番を押して下さい。受付に繋がりますのでなんなりとお申し付け下さい。エレンさん電話の使い方は大丈夫ですもんね」
ゴブリナは壁際にある番号が並んだ変な形のものを指さした。
「うん。分かる。大丈夫でーす」
エレンは右手を上に上げて返事をした。
「あのー。今質問してもいいですか?」
タトラがゴブリナに声を掛けた。
「はい」
「あのー。あなたもやはりお給料をもらっていないのですか?」
「・・・ちょっとー。タトラー。そう言うの聞いちゃダメなやつー」
エレンが真っ先にそう答えた。
「いえいえ。いいのですよ」
ゴブリナは笑顔で答えた。
「私達はお給料は頂いていません。その代わりに衣食住は保障されていますので」
「やっぱり、そうなんですね」
タトラは納得のいかない顔でつぶやいた。
「タトラー。なんでお金の話ばっかり聞くのよー」
「エレンさん。いいんですよ。他のお客様からも同じ質問をされることがありますので。皆さん、この町には興味があるのですよ。・・・他には?ご質問ありますでしょうか」
「ううん。大丈夫。変なこと聞いちゃってごめんねー。ありがとう」
エレンが答えると、ゴブリナはお辞儀をして部屋から出て行った。
ゴブリナが部屋から出て、正座をしてドアを閉めたところでエレンはタトラの顔を睨み付けた。
「タトラー。街道でオークの人にもお給料の話聞いてたでしょー。なんでお金の話ばっかり聞くのよー」
タトラが答える。
「うん。・・・エレンー。お母様が仕事を辞めてサリオンにずーと居る様になった時の事覚えてる?」
「え。うん」
「お母様はね、『仕事が終わった・・・』って言ったの」
「うん。そんな事言ってたね」
「『仕事が終わる』ってどういう意味?バケツの穴が塞がったって言ってた」
「そうね。そんな話だった。水を入れるとか」
しばらくの沈黙のあと、タトラが話し始めた。
「私、『仕事』ってお金を稼ぐ事なんだと思ってたの」
タトラは美術館でハプラーに言われたことを思いだしていた。
『働かなくちゃ生きていけない。お金がない・・・』
「お母様はお金を稼ぐためではなく、なにか困っているひとの為に働いていたの?それって仕事なの?エレンの冒険者はお金の為じゃないの?」
エレンは首をひねって考えてから答えた。
「んー。私は冒険者に憧れてて、それでこういう仕事をしているんだけど・・・んー。これでお金が全くもらえないんじゃイヤよね。でも、テンペストの人はお金じゃなくて、住むところとか、着る物・食べるものをもらっている・・・ってことなんじゃないの?」
「それじゃ、お母様は?別に働かなくてもサリオンに住むところもあるし、食べるものにも着る物にも困ることはないわ」
「うん・・・。でも、それじゃつまらないじゃん。働きたいのよ。私だって冒険者やりたいからやってるんだもん」
「んー・・・その辺がよく分からない。私、仕事ってよく分からない。研修なんてちゃんと務まるのかなー。不安」
「・・・ダイジョブよ。そう言うのも全部含めて研修なんだから。・・・さあ、広場に行ってみよ。美味しいご飯が待ってるよ」
「・・・うん」
そう言うと二人は少し冷めたお茶を飲んだ。
8.0 宴
「そろそろ煮えたっすよー」
鍋の前でゴブタが右手を口に当てて叫んだ。
まわりにはオークやゴブリン、リザードマンが酒を飲みながら取り分けてもらった皿を受け取っている。
少し遅れてやってきたエレン達四人も鍋から取り分けた皿をもらい空いている席を探していた。
「俺達は酒もらってくるから」
そうガバルが言うとギドと二人でどこかに行ってしまった。
「タトラ。ココに座ろう」
丁度二人分空いている縁台を見つけたエレンがコップを持った右手で縁台の場所を指した。
隣にはゴブリンの親子三人が座って食事をしている。
「ここ空いてますか?」
エレンが聞いた。
「はい、どうぞ」
ゴブリナが答えた。
二人はそこに座って食事を始めた。
まわりを見ると立ったまま歓談しながら酒を飲み笑っているオークやリザードマンがいる。
少し離れた縁台には観光客らしき人間の姿も見える。隣に座っているリザードマンと談笑している。
「ねえ、エレン。あそこのトカゲもテンペストの人?」
「え?そうよ」
「あそこの魚は?」
「・・・あのひとは商人かな?私も分かんない。テンペストの住人か旅人かは見ただけじゃ分からないもん」
「ふーん。ココには敵はいないんでしょ?」
「町の中は大丈夫よ」
「でもいろんなひとがいるのね」
町に到着し宿に着くまでの間、タトラはオークやゴブリン、数人の人間とすれ違った。
でも宴には今までに見たことのない魔物達がいる。
タトラは食べることよりも、周りを見回して初めて見る魔物の観察を優先している。
「エレンさん。いらっしゃい」
遠くの縁台で犬頭のひとがリザードマンと笑い合っている姿を眺めていたタトラはその声に振り向いた。
「シュナちゃーん。到着しましたー」
エレンが答えている。
「ようこそ。お待ちしていましたよ。あれ?ガバルさん達は?」
「うん、あの二人はどこかで飲んでると思うけど・・・」
エレンは首を少し伸ばして周りを見回した。
「こちらがタトラさんですね?」
「うん」
エレンがタトラの肩に手を掛けた。
「は。はい。タトラと言います。よろしくお願いします」
タトラはそう答えたが、視線は頭の角をロックオンしている。
「こちらはね、テンペストの幹部でもあるシュナちゃん。スイーツの開発とかね、洋服の縫製・デザインの主任をしているのよー。凄いんだからー」
「凄くなんてないですよ、タトラさん。明日はリムル様の執務室で研修辞令の交付ですね。私も同席しますので、明日またお会いしましょう。今日はテンペストの夜を楽しんでくださいね。・・・エレンさんも明日いらっしゃるのですよね?今新しいタルトを試作中なの。それをお出ししますね」
「やったー。久しぶりのテンペストで久しぶりのシュナちゃんのスイーツー」
「待ってますね。それでは私はこれで・・・」
シュナはそう言うと振り返り歩いて行った。
「そうだ。シュナちゃん」
エレンが声をあげた。しかしシュナの後ろ姿はだいぶ遠くに見える。
「タトラ、ちょっと待っててね」
そう言うとエレンは立ち上がってシュナのいる方へ走って行ってしまった。
「え・・・」
一人残されたタトラは走って行くエレンをしばらく見ていたが、手元に視線を戻し思い出したように手に持っている皿から冷めた鍋料理を食べ始めた。
気がつくと同じ縁台で食事をしていたゴブリンの親子もいなくなっていた。
「やあ、君がタトラか?」
後ろから声がした。
『んん?』
タトラは振り向いた。そこには髪の青い少女が立っている。
「はい」
タトラは返事をした。
「横いいかな?」
少女はタトラの返事を聞く前に、縁台をまたいでタトラの横にちょこんと座った。
『自分と同じ位の年齢かな・・・』タトラは自分より背の低そうな少女をそんな風に感じた。
「あなたは・・・?」
タトラが聞くと少女が答えた。
「俺の名前はリムル。よろしくな」
少女は右手を出して握手を求めてきた。
「あ、はい」
タトラも手袋をしたままの右手を出すと、少女に強く握り替えされた。
「・・・それもう、冷めてるだろ。はい、これどーぞ」
少女は縁台に置いた皿を渡してきた。
「あ、ありがとう。でもあなたのがなくなっちゃうじゃない」
「ああ、俺はいいさ。これがあれば」
そう言うとリムルは右手のビアマグを掲げた。
「研修前夜の気分はどうかな?」
「え?ああ。ちょっと不安です」
「そうだよなー。でもテンペストは良い町だから研修も大事だけど、楽しんでいってくれ。な」
「ああ。はい。あのー・・・あなたはテンペストのひと?」
「・・・・勿論」
「あなたはどんな仕事をしているの?」
「・・・・そうだな。・・・公務員かな」
「公務員?」
「うん。国の運営に携わっている・・・というか、外交に携わっていると言うのかな」
「へー。すごい仕事をしているのね。・・・ねえ、あなたもやっぱりお給料無しなんでしょ」
「え?給料?あー。確かにな。決まった金はもらってないな」
リムルはすっかり暗くなった空を見上げて考えた。
『幹部にも他の労働者にも給料を支払う仕組みにはしたいんだよなー。俺の為とか国の為に無給で働くんじゃなくてな・・・日本の総理大臣も4000万円位もらってたよなー。だけど仕事の内容に対しては高いとは言えないと思う。今の俺は幾らくらいの給料をもらえる仕事をしているんだろう・・・』
「ねえ、どうしたの?」
急に黙り込んだリムルにタトラが問いかけた。
「おー。いや。俺は自分が楽しく暮らせればそれでいいんだけどね。でも給与制度も作っていきたいとは思ってるよ」
「給与制度?あなたがそういう事も考えるってこと?」
「うん、まあね。・・・ま、いろんな事体験して良い研修にしていってくれな。それじゃ、明日」
「え。はあ」
そう言うと髪の青い少女はマグカップを持って歩いて行ってしまった。
少女は隣の縁台からも声を掛けられて、手を振っている。
『え・・・』今の誰?人間?・・・公務員って言ってたから、明日また会うのかな?
「まあいいや」
タトラはそうつぶやくと折角もらった温かい鍋料理を食べ始めた。
しばらくするとエレンがガバルとギドを連れて戻ってきた。
新しい大量の料理をお盆に載せて戻ってきたエレンは縁台に座り食べ始めた。
陽気に話すガバル達の話を聞きながらタトラもそれを食べた。
周りからも同じように笑い声が聞こえている。
そんな光景を見ながら、タトラは明日から始まる研修の不安と、きっとテンペストは良い町なんだろうという期待が混ざった不思議な感覚で旅の疲れを忘れていた。
9.0 テンペストでの生活
宿の食堂でエレン達四人は一緒に朝食を取った。
「私はこの後タトラを連れて庁舎に行くから」
「うん。その予定だな。俺達はカイジンさんの所に行ってくる。新しい武具があるだろうし、少し話がしたいしな」
「わかった。タトラは今日から研修でしょ。私達とは別行動になるはずだからね」
「うん。私は荷物を持って出発ってことね」
タトラは答える。
「そういうことね」
エレンがそう言うとギドが話始める。
「タトラさん。研修頑張るでげすぜ」
「うん。何するんだか分からないけど、頑張るね」
エレンとタトラはリムルの執務室がある庁舎へ向けて宿を出た。
ガバルとギドとは宿の玄関で別れた。
庁舎の玄関にはゴブリンの守衛が立っている。
エレンは守衛に向かって歩いて行き、話掛けた。
「あのー。サリオンから交換留学生を連れてきました」
そう言うと、エレンはタトラの背中に手をあてた。
「エレンさん、お久しぶりです。伺ってますよ。どうぞお入りください」
守衛はタトラにこくんと会釈をしてから言った。
庁舎に入ると階段を上がる。エレンには慣れ親しんだ庁舎である。
三階まで上がると右に曲がってリムルの執務室に向かう。
エレンの真後ろを歩きずっと自分の足元を見ている。タトラは緊張しているのだ。
執務室の前まで来ると、エレンは後ろに居るタトラの顔を見て、にっこり微笑んだ。
「いいね。入るよ」
そう言うとエレンは振り向き直してドアをノックした。
部屋の中から女性の声で返事がある。
「はい。どーぞ」
エレンはドアをそーっと開けた。
「しつれいしまーす」
挨拶しながら部屋に入るとシオンが出迎えてくれた。
「シオンちゃーん。お久でーす」
「エレンさん。ようこそいっらしゃい」
「はい。こちらが交換留学生のタトラです」
そう言って振り向くとタトラはドアの外で、元の場所に立ったままでいた。
「何やってるのよー。ほら」
エレンはドアの外に小走りで行き、タトラの右手首を引っ張って部屋の中に戻ってきて、再度紹介した。
「はい。タトラです」
タトラは直立したまま真っ正面を見たままだ。
「お待ちしてましたよ、タトラさん。・・・さあ、こちらへどうぞ。エレンさんも」
シオンはそう言って部屋の中央まで歩き、ソファーの背もたれに両手を置いた。
「はい。ありがとう」
エレンは歩き出すがタトラが動かない。その事に直ぐ気がつき、今度はタトラの手袋をはめた右手を強く握って引っ張ってソファーに向かった。
「今、お茶を持って来ますね。リムル様も来ますからちょっとお待ちください」
「はい」
エレンが返事をすると、シオンは部屋から出て行った。
「タトラー。大丈夫?緊張してる?」
「・・・うん。・・・怖い」
「緊張しない。ダイジョブだから。リムル様は優しい人だから」
しばらくするとシュナがお盆を持って現われた。
『昨日宴で見た角のひとだ・・・』
タトラはソファーから飛び跳ねるように立ち上がり挨拶をした。
「おはようございます」
「おはようございます。タトラさん、いらっしゃい」
シュナはそう言うとお盆をテーブルに置いて、お茶をそれぞれの前に置いた。
「ありがとう。シュナちゃん」
そう言って、立ったまま斜め上を見つめているタトラの手を引っ張って座らせた。
「シュナちゃん。私もしばらくテンペストに滞在するから、新しいスイーツ食べさせてねー」
「新しいお菓子もお店に出てるし、開発中の新作も沢山あるから、食べに来て下さいね」
「やったー。タトラも来ようね」
「・・・」
「タトラー!ダイジョブ?ほらお茶飲んで」
エレンはタトラの背中をポンポンと軽く叩いた。
「はい。頂きます」
そう言うと両手で茶碗を持ち、一気に飲み干した。
「熱ぅー」
タトラは立ち上がり、お茶を吹き出して叫んだ。
「ちょっとー」
エレンも立ち上がり、これ以上こぼさないようにタトラのカップを手で抑えると、テーブルに戻した。
目の前のテーブルはタトラが吹き出したお茶でビチャビチャになっている。
「シュナちゃん、ごめーん。水、水もらえる?」
「大丈夫ですかー?今持って来ます」
そういうとシュナはドアに向かう。
「私も行く。台布巾、台布巾」
エレンもシュナの後を追って部屋から出て言った。
「あ、リムルさん。お久しぶりー」
「やあ・・・え?どこ行くんだ?」
「お茶こぼしちゃって・・・」
廊下の外でエレンと誰かが話をしている声が部屋の中にいるタトラにも聞こえる。
タトラは開いたままのドアを見た。ドアからは青い髪の少女が部屋に入ってくるところだった。
「やあ、タトラ。早いね」
『あ、昨日の少女だ・・・』
「なんだ、お茶こぼしたってタトラか。火傷しなかったか?まあ、座って待ってなよ。今秘書が研修先のコビー君を連れてくるから」
「あなた、公務員って・・・ココで働いてるの?私緊張しちゃって。・・・お茶こぼしちゃって・・・」
「緊張?何でさ」
「だって・・・」
ドアからシュナとエレンが飛び込んできた。
「タトラさん大丈夫ですか?」
シュナが水の入ったコップを立ったままのタトラに渡した。
「もう、やだー」
エレンは持って来た台布巾でテーブルの上を拭いている。
「あ、リムルさん、ごめんなさーい。もうタトラったら緊張してるみたいで・・・」
「ハハ、そうらしいな」
リムルはタトラの前のソファーに座っている。
「リムル様、おはようございます」
シュナがリムルに挨拶をした。
『んん?・・・様?』
エレンがテーブルを拭き終わったタイミングでシオンがコビーを連れて部屋に入ってきた。
「リムル様、お連れしましたよ」
シオンがそう言うとリムルが答えた。
「やあコビー君、忙しいとところ悪いね」
『・・・様?』
タトラは首を傾げた。
「シュナ。お茶を頼むよ」
リムルがシュナに命ずる。
「はい、只今」
シュナはそう言うとまた部屋から出て行った。
『なんか、・・・この少女偉いひとなの?』
タトラは水の入ったコップを持ったままソファに浅く座ると、コップをテーブルに置きながら身を乗り出して、目の前にいるリムルに小声で尋ねた。
「あなた、何者なの?」
「え?」
リムルも身を乗り出して答えようとした。
ちょうどそのタイミングでコビーが話し始める。
「リムル様、こちらが研修生さんですかな?」
「ああ。そうだ。そうそう。それじゃ研修の開会式を始めるか」
リムルは自分のデスクに行くと引き出しから首から下げるネックストラップと身分証明カードを手に取りソファーに戻ってきた。
「タトラ。それでは形だけだけど、これから研修の辞令交付式を始めます」
リムルの発言にタトラが立ちがって答える。
「え?はい」
「こちらが研修受け入れ先である商人のコビー君だ。コビー君よろしく頼むね。こちらが研修生のタトラだ」
リムルはタトラにコビーを紹介した。
「私も研修生の受入は初めてです。分からない事もありますが、新人従業員として接しますのでよろしくお願いしますね」
「はい。サリオンから来ました、タトラです。よろしくお願いします」
タトラは背筋をピンと伸ばして答えた。
「はい、コレIDカード」
リムルはタトラに身分証明カードとネックストラップを渡した。
「うちも研修生の受入は初めてなんだ。対応は手探りだけど、とりあえずコレを持っていれば、この庁舎は出入りが出来る。毎週月曜は朝ここに来て研修の経過報告書を書くこと。研修の経過はサリオンにも報告するからな。俺が居なくてもシュナかシオンが対応するから」
ソファーの横で立っているシオンが黙って頷いている。
「それ以外の曜日は基本コビー君の指示に従うこと。週に1日は休日を取るように。いいねコビー君」
「はい。うちの従業員も基本的に週に1日は休日になっています」
「うん、いいね」
リムルはコビーに親指を立ててウインクをした。
「住居は町人用の団地の一部屋を用意した。生活に必要な備品は揃っているはずだ。もし足りない物があれば、そのIDカードを見せれば町で買い物も出来る。いいね」
「はい」
タトラは直立したまま返事をする。
「そのIDカードを見せれば庁舎内の食堂は無料で食べられる。毎日ココにきて食事をしてもいいし、食料を買って自炊してもいい。君の判断だ」
「はい。分かりました」
「町で購入した物は月曜の報告書に書くように」
「はい。分かりました」
ソファの横でプチ開会式をしていると、シュナがお盆を持って戻ってきた。
「さあ、みんな座って続けようか」
リムルはそう言って、コビーの背中を押して、ソファーに並んで座った。
それを見て、タトラの横に立っていたエレンはタトラの肩に両手を置いてソファーに進んで着席した。
シュナがそれぞれの前にお茶とお菓子を置くとシオンの横に並んで立った。
「紹介しよう。こちらがシオン。俺の第一秘書だ。こちらがシュナ。洋裁和裁・デザイナー兼料理開発・・・というか、俺のホントの秘書というか・・・」
「よろしくね。タトラさん。困った事があったらなんでも私に言いなさい」
シオンが挨拶をする。
「タトラさん、昨日お会いしましたね。よろしくね」
シュナが挨拶をする。
「エレン。しばらく町に滞在するんだろ?今日はタトラに町を案内してくれないか。コビー君の店は知ってるよな」
「うん。いいよ。大丈夫」
エレンが答えた。
「住居まではリグルドに案内させる。そこからいろいろ案内して欲しい」
「わかった」
「コビー君いいね。研修は明日から。今日エレンが連れて行ったら、明日からの出勤時間とかそういうの打ち合わせしてくれ」
「はい、分かりました」
コビーが答えた。
「よし、今日の所はこんな所かな。それじゃ、タトラ君。有意義な研修になることを期待しているよ」
「はい」
タトラは背筋を伸ばして答える。
「シュナ、リグルドを呼んできてくれないか」
シュナは「はい」と返事をして部屋から出て行った。
リムルが背もたれに寄りかかって、「ふー」と息を吐いた。
「なんか疲れたね。こういうの苦手だよ」
リムルは右手をぐるぐる回しながら言った。
その様子を見てエレンもソファに深く座って両手を上に伸ばした。
「コビーさん、よろしくね。リムルさんもありがとね」
「私も初めてのことですけど、タトラさんの為になるように、良い研修になるように努めます」
コビーがエレンに答える。リムルはうんうんと頷いている。
タトラもソファーの背もたれに寄りかかり、横に居るエレンの耳に両手をあてて内緒話を始めた。
「ねえ、今日スライムの盟主にも会うんでしょ?この後?」
エレンは『え?』という表情でタトラを見た。
「なに言ってるのー」
・・・・・
「ハハハハハ・・・・」
シュナがリグルドを連れてリムルの執務室に戻ると、部屋の皆が腹を抱えて笑っていた。
タトラは顔を真っ赤にして両手を自分のひざに置き下を向いている。
「だってー」
タトラが言った。
「だって、この国の盟主さんってスライムって言ってたじゃん」
「いやー。悪かった悪かった」
リムルが言った。
「昨日あった時から『あれ?』とは思ってたんだ。確かに、スライムの姿じゃないと分からないよな」
リムルはぴょんと跳んでスライムの姿になった。
「あ。初めまして。タトラと申します。あの・・・」
タトラは飛び跳ねるように立ち上がり挨拶をした。
リムルはすぐに元の姿に戻ると言う。
「初めましてはないだろう。どんな姿だって、俺はおれだ」
「あ。はい。あの。はい」
隣のエレンが笑いをこらえて、立ったままのタトラの足をポンポンと叩いて言った。
「リムルさんはリムルさんよ。スライムの姿だろうが人間の姿だろうが、なんにも変わらないのよ」
「はー。そうですよね・・・」
タトラの顔はまだ真っ赤だ。
部屋に入ってきたリグルドが話し始める。
「なにか良い雰囲気ですなー。笑顔は世界を平和にしますからなー」
「おう、リグルド。こちらがタトラだ。これからしばらく町にいるからな。みんなで彼女の研修をバックアップして行くぞ」
「リムル様、お任せ、あれ!」
リグルドは力こぶを披露した。
・・・・・
庁舎から出たリグルドとエレン・タトラの三人はタトラを真ん中に挟む形で並んで歩いている。
「タトラさん、昔、私はあなたのお母さんとお父さんにお世話になったのですよ。たぶん、あなたの生まれる前のことだとは思いますが。」
「え?そうなんですか?知っているんですか?」
タトラはリグルドの顔をまじまじと見て尋ねた。
「ええ。カルマンさんから武具や調理器具など購入していました。・・・昔の我々は弱い種族でしてね。仲間がドワルゴンまで買い付けに出たこともありましたがね、無事に戻ってこれるかどうか、そういう一か八かの旅でしてね。カルマンさんにはホントに助けて頂いたんですよ」
「そうなんですね・・・」
「カルマンさん、残念でしたね。早くに・・・ヘブミューラーさんはお元気ですかな?」
「はい。国で元気に過ごしています」
「そうですか。それはなにより。それは・・・それは。うっ」
リグルドは右手で両目を覆い泣き出した。
「リグルドさん。穴のあいたバケツを直すひとが現われた・・・っておばさまが言ってたんだけど、・・・それってリムルさんのこと?」
エレンがリグルドの顔を見上げて尋ねた。
さっと泣き止んだリグルドが答える。
「ははーん。なるほどですな。そういう表現は的を射てるかもしれませんな。・・・自分たちで一生懸命水を入れていた。しかし開いた穴から水はダダ漏れです。自分たちで入れる事の出来る水量なんてわずかです。そんな時カルマンさんは水を入れ続けてくれていた。うん。そう言う表現は正しいですな。確かに我々で開いた穴を直す事なんてできない。それより、食べること、魔物から身を守ることで毎日精一杯でしたからな。そこに穴を塞いでくれるリムル様が現われた。穴を塞ぐどころか、バケツの中から別の世界に連れ出して頂けました」
「そういうことなのね・・・お母様は『仕事が終わった』と言っていました。そう言うことなのですね」
タトラは前を向いてそう言った。
「いえいえ、ヘブミューラーさんにはまだまだお願いしたいことが沢山ありますがね。しかし、ジュラの森はまだまだ危険です。そう言う気持ちになられるのは分かりますが・・・」
「まだ仕事はありますか?」
タトラは再びリグルドの顔を見て真剣な顔で聞いた。
「ありますとも。私はリムル様の配下として幹部に登用して頂きましたが、・・・今は仕事が多岐にわたる。正直私の許容量を超えている。もっとスタッフが必要です。・・・ヘブミューラーさんがお元気なら是非お手伝いをお願いしたいところです」
「そうなんですね」
タトラは胸の前で両手を組んで、ちょっと嬉しい気持ちになった。『お母様もまだ必要とされているんだ』
三人で歩きながらタトラは考え込んだ。
タトラは母親の仕事に対する気持ちが今ひとつ分からなかった。
お金の為だけではないことはなんとなく理解できるようになってきた。
この町の人たちは盟主であるリムルさんの為に働いている。
衣食住の保障も労働の対価になり得るだろう。
エレンが冒険者をしているのも理解はできる。
好きでしているのだ。分かる。
でも、タダではイヤだと言っていた。それも分かる。
それならお母様は仕事を続けたっていいはずだ。でも止めた。体が疲れたと言うのも確かにあるだろう。
でも仕事の再開はなかった。
お母様にとっての仕事とはなんなんだろうか?
「タトラ。ここだって」
『ん?』
エレンの声が後ろからした。
振り向くとリグルドとエレンが二人並んでこっちを見ている。
「ここ。あなたのおうち」
エレンが右の家を指さしながらそう言っている。
隣のリグルドが『うんうん』と頷いている。
タトラは何歩か戻ってエレンに言った。
「考え事してた。まずい。庁舎からの道覚えてないよー」
「ダイジョブ。私分かるから。あとで詳しく教えてあげるよ」
ココと言われた住居は四軒が一つに繋がった長屋風の住居だ。
周りにも同じ建物がいくつか並んでいた。
「タトラさん。こんな住居しか用意出来なくて申し訳ないです。今、ココしか空いてなくて」
リグルドがそう言うと真っ先にエレンが答える。
「えー。十分よ。立派な家じゃない。ねえ」
「はい。十分です」
タトラはそう答えたが、こういう家に住んだことがないから、良いのか悪いのか判断が付かなかった。
お屋敷が用意されているわけもなく、十分だと思ったのは事実だ。
「それでは中の説明を少ししましょう。これがカギです。テンペストは安全な町ですが、他国の商人や旅行者も多く居ますので、外出する際は戸締まりをして下さい」
そう言うとリグルドが鍵をタトラに渡した。
鍵には「2街区団地5-4」と書かれたキーホルダーが付いている。
「はい」
そう返事をし鍵を受け取ったタトラは玄関の鍵穴に差し込み解錠した。
ドアの横には「2-5-4」と書かれている。
玄関ドアを開けたタトラは頭だけを中に居れて家の中を覗いた。
「こんにちはー」
ささやくように声をかけるが誰もいるはずもなく返事はない。
「さあ、どうぞ、入ってください」
タトラの後ろに立っていたリグルドはそう言っうとドアを大きく開けた。
「おじゃましまーす」
誰よりも先にエレンが家の中に入っていく。
エレンは玄関で靴を脱ぐと振り返ってタトラに言う。
「タトラ。ここで靴を脱ぐのよ。テンペストでは家の中では靴を脱ぐの。いい?」
「うん。わかった」
タトラは返事をして、同じように玄関で靴を脱いで部屋に入っていく。
一番最後にリグルドが部屋に入ると説明を始めた。
「タトラさん。サリオンのトイレは水洗ですかな?」
「うちは水洗でした」
「そうですか。この町の住宅や店舗は全て水洗トイレです。使用後はこのレバーをひねると水が汚物を流してくれます」
リグルドは一つのドアを開けて中に入るとトイレのレバーをひねりながら話した。
「分かりました」
リグルドはキッチンに歩いていき、蛇口をひねった。
「キッチンは蛇口をひねればお湯も水も出ます。料理もできますが、火の取り扱いには注意してください。この町は木造の住宅が多いので、火事は大惨事を招きかねません。火の用心でお願いします」
そう言うとリグルドは右手の人差し指をたててタトラに向けた。
「はい」
「炊飯器もあります。米を購入してもらえればご飯を炊くこともできます」
「・・・宿で食べたご飯か。これで炊けるんだ・・・」
「テンペストの白米はうまいですからね。町の者はご飯を主食にしております。町の食堂もそのIDカードで利用できますが、是非自炊も挑戦してみてください」
「はい、基本的に自分で作ろうと思っています」
リグルドはうんうんと頷いた。
「えー、なんか、こういう一人暮らしいいなー。私も今度から旅館じゃなくてここで暮らそうかなー」
エレンが家の中を歩き回りながらそう言っている。
「そうですな。長期滞在者向けの自炊もできる宿があってもいいですな。・・・リムル様に提案してみましょう」
「やったー。私もリムルさんに提案しちゃったー」
「・・・あとは特別難しいところはないと思いますが、毎週月曜の朝は庁舎にいらっしゃるのですよね?分からないことがあれば、そこで聞いてください。いいですかな?」
「はい。分かりました」
「それではあとはエレンさんにお任せしていいとのことでしたが、よろしいですかな?ここからコビー殿の店までは分かりますかな?」
リグルドの問いにエレンが答える。
「うん。大丈夫。これからコビーさんのお店に行って、そのあと、街を案内しますね」
「分かりました。それでは私はこれで戻りますので。少し休んで下さい。お疲れになったでしょう。たぶん、お茶くらいは置いてあると思いますので」
「はーい」
エレンは右手を挙げた。
リグルドは部屋から出て行った。エレンはキッチンに行くとレンジ下の扉を開けて、ヤカンを取り出した。
「ヤカン発見」
そう言うと蛇口から水を入れて、火に掛けた。
キッチン横の戸棚に向きを変えて、腰をかがめガラス越しに中を眺めると引き違いの扉を開けた。
茶筒と急須を手に取りキッチンに置く。再び戸棚から湯飲み茶碗を二つ取って置いた。
急須の蓋を開け茶筒から適当にお茶の葉を入れると、ヤカンから「ピー」と音が鳴る。
エレンは急須にお湯を入れて蓋を閉めると、振り向いてタトラの顔を見た。『タトラはなにしてる?』
「・・・エレン。・・・手際いいわね」
「え?フツーフツー」
タトラはリグルドを見送った場所から一歩も動かずに立っていた。
「これからはここがタトラのお城なんだから。自由に楽しく使って良いんだからね。こっちこっち」
「うん。そうなんだけど・・・」
タトラはそう言いながらテーブルの椅子を引いて座った。
エレンはお盆に載せた湯飲みに急須からお茶を入れてタトラの前に運んだ。
エレンもタトラの前の椅子に座るとお茶を一口飲んで話始めた。
「タトラ。これから何があるのか分からないけど、いろんな経験をしてね。・・・私は冒険者なんてしているから、いろんな国の人に会ってきたけどさ」
タトラも一口お茶を飲んで話す。
「うん。・・・私サリオンから出たことないでしょ。ちゃんとやっていけるかな」
「ダイジョブよ。そう言うことも含めて研修なのよ。きっと」
「うん・・・」
エレンはダイニングの壁に掛けられた時計を見てから言う。
「お茶飲んだらお隣さんにご挨拶して、コビーさんのお店に行ってみよう」
「うん。わかった」
エレンとタトラはサリオンから持って来たお菓子の入った小さい箱を持って並びの三軒にご挨拶に向かった。
タトラに提供された家は長屋の一番左端だ。
お隣のドアの横には「2-5-3」と書かれている。
チャイムを鳴らすとはゴブリンのおじいさんが出てきた。
研修生としてしばらく隣に住むことを告げると「はいはい」とおじいさんは返事をし、渡した菓子箱を両手で受け取り「わざわざすまないね」と言った。
その隣のドア横には「2-5-2」と書かれている。
チャイムを鳴らすがは不在のうようだ。
一番奥のドア横には「2-5-1」と書かれている。チャイムを鳴らすとゴブリナのおばあさんが出てきた。
「これからしばらく研修生として『5-4』に滞在します。よろしくお願いします。」
タトラはそう言ってお辞儀をした。となりでエレンもお辞儀をした。
「あーそうなの。よろしくね。私はこの歳でしょ。一日中家に居るからなにかあったら言ってきなさいね」
「はい。ありがとうございます」
「ご姉妹?」
エレンが手を左右に振りながら答える。
「いえいえ。従姉妹なんです。私は冒険者で、ここに住むのはこの子だけですので。よろしくお願いしますね」
「そうなの。お二人で住むのかと思ったわ。よろしくね」
おばあさんは笑顔でそう言うと差し出した菓子箱を受け取った。
部屋に戻るとタトラは小さい肩掛けのカバンをリュックから出して、ノートとペンを入れた。
立ち上がると首から下げたIDカードを手に取り書かれている内容を読み返した。
「さあ、行こうか」
エレンがそう言うとタトラは黙って頷いた。
玄関から外に出るとリグルドに言われた通りタトラは鍵を閉め、ノブを回して閉まっていることを確認した。
鍵をカバンの内ポケットに入れるとエレンの顔を見た。
「いいよ。行こ」
エレンが頷くと二人は歩き始めた。
「今度は道を覚えてよ。明日から毎日通うんだから」
エレンがそう言うとタトラも返事をした。
「うん」
エレンはできるだけ大きな道を歩いて進む。所々、目印になる建物やカフェなどを指さして説明しながら歩いた。
10分も歩くと賑やかな通りに出て「はい、ここ」と言ってエレンが立ち止まった。
大きな商店の入り口の上には「コビーの店」と書かれている。
タトラは今来た道を振り返って確認した。
「難しくはないね。覚えた」
タトラはそう言うと、エレンはドアを開けて店内に入っていく。
タトラもその後を付いて店に入る。
「いらっしゃいませ」
女性の声がした。
「あら、エレンさん。いらっしゃい。さあこっちこっち」
ゴブリナが入り口まで来て出迎えてくれた。
「こんにちはー」
エレンが返事をした。
ゴブリナがタトラの顔を見たのでタトラもお辞儀をした。
ゴブリナはにっこり微笑んで、「さあこちらへ」と言って店の奥に向かって歩き出した。
二人は後を付いて店の奥に進んでいく。
ゴブリナはドアを開けて次の部屋に入っていった。ドアには『スタッフ』と書いてある。
「やあ、いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
部屋ではコビーがデスクに向かって何かを書いているところだった。
コビーは顔を上げてそう言うと立ち上がって、タトラの前に歩いてきた。
「さあ、明日から研修ですね。あなたにはまず店内でお客様の対応をしてもらいます。ゆっくり順番にいろんな事をして行きましょう」
「は、はい」
タトラは返事をした。
「月曜の朝はリムル様の執務室に行くことになっていますよね。月曜は研修報告が終わり次第こちらに出勤。火曜から土曜は8時半から17時半までが勤務時間です。日曜はお休み。いいですね」
「は、はい」
コビーは淀みなく説明を続ける。
「お店自体は日曜も営業をしています。営業時間は午前8時半から夜8時まで。朝早くに町を出発する商人もいるから開店準備と平行してお店を開けています。夜の時間も交代で店番をしています。あなたも仕事を覚えてきたら、日曜勤務とかシフトは変わるかもしれません。いいですね」
「は、はい」
「なにか質問は?」
「は、・・・あの、私は具体的に何をどうすればいいんでしょうか・・・」
「うん、今日ちょっとこのあといいかな?店長に店を案内させるから見ていって下さい。お客さんから注文を受けて、注文書記入して・・・ちょっとそう言う説明を聞いて下さい。・・・それじゃ店長、後よろしくね」
そう言うとコビーは自分のデスクに戻って書き物の続きを始めた。
「タトラさん。よろしくね。私が店長のサクラです。最初っから全部覚えることは無理だから、私と一緒に動きましょ。そのうち覚えるから。お店見ていきましょうか」
「はい」
タトラは返事をした。
「あの、あの・・・私も一緒に居ていいのかしら?」
エレンが尋ねる。
「どうぞどうぞ。納品してくる取引先もいるし商品陳列もしているけど、もう店はオープンしていますので。なにか良い物があったら買っていって下さいね」
「ああ、そうか。8時半からお店やってるってコビーさん言ってたもんね。それじゃ私は勝手に見てる」
「はい。どうぞごゆっくり。なにか気になる物がありましたらお声かけ下さいね」
「はーい」
エレンはそう返事をすると、タトラから離れて勝手に店内を歩き始めた。
「この辺がコップとかお皿とかね。・・・こっちが武具。ドワーフ三兄弟がデザインした物なんかがすごく人気なの。この辺ね」
店長サクラがそう言って綺麗なピンクの切り込みのあるグラスをタトラに渡した。
「綺麗。・・・これがこの町で作られているのですか?」
「そう。みんな綺麗でしょ。洋服はね、シュナ様がデザイン縫製したものも人気よ。観光に来たお客様もね、爆買いする人もいるから」
そう言ってサクラは笑った。
「この辺が回復薬。お店にはローポーションという手頃な商品だけサンプルで置いてあるの。人気商品だから、ある程度の数量は倉庫に置いてあるの。こういうのは注文を聞いて倉庫に取りに行く訳ね。私も見たことないけど、フルポーションって言う最上位品だとね、戦いなんかで足を失ったひとの足を元通りに出来るんだって。凄いでしょ」
「はー。そんな薬がこの世の中にはあるんですか・・・それもこの町でつくっているんですか?」
「そうよー。テンペストの特産品。フルポーションを求めるひとはまずいないけどね。ローポーションは毎日売れるから覚えてね。・・・あとは明日から少しずつ覚えましょう」
「はい。明日からよろしくお願いします。・・・あのコビーさんにご挨拶して、それで今日はエレンに町をちょっと案内してもらいます」
「うん、わかった」
サクラはそう言うと再びスタッフルームに向かった。
「コビーさん、それでは明日からよろしくお願いします」
書き物の手を止めてコビーが顔を上げた。
「うん。よろしくね」
そう言うとコビーはまた顔を下に向けて書き物を始めた。
洋服のコーナーで中腰になってコートを見ているエレンの背中をタトラは突いて「終わった・・・」と言うと、二人は店の外に出る。
「それじゃ、ちょっと町をご案内いたしますー」
そう言ってエレンとタトラは歩き出した。
少し歩くと観光案内所があったので、エレンは観光マップをもらった。
タトラにそれを見せて、庁舎の場所、コビーの店、団地の場所と今居る場所を指で示した。
「ねえ、タトラ、カフェ行こう。ちょっと休憩」
「まだなんにもしてないじゃん」
「まあいいから」
そう言ってエレンは地図のある場所を指さした。
「ここに行きまーす。」
タトラは地図をのぞき込んでから「こっちかな?」と道の先の方を見た。
「そう。こっちよ」
エレンはそう言うとその方向に歩き出した。
カフェに着くとエレンはカウンターでカプチーノを注文した。
「私はブラックコーヒー」
タトラはそう注文した。
ゴブリナの店員が返事をし、すぐにカウンターの上に二つのカップを置いてくれた。
二人はカップを手に窓際のテーブルについた。
「この町でもコーヒーが飲めるのね。」
「そうよ。サリオンにあるものならほとんど、それより見たことも食べたこともないものだらけよ」
「想像と違ったわ」
「そう?」
二人はコーヒーを飲んだ。
カップをテーブルに置いたタトラが話し始める。
「エレン。あなたこの町で有名人なのね」
「え?そんなことないよ。何回も来ているから知り合いが多いだけでしょ」
「そうかな・・・スライムのリムルさんとも仲良いみたいじゃない」
「うん、まあね。・・・この町がまだテントしかない頃に初めて会ったからね。立派な町になったよー」
エレンはそう言うと窓の外をボーと眺めた。
「ねえ、エレン。あなた今回の私の交換留学になにか絡んでいるんじゃないの?」
「え?・・・絡むって・・・タトラの送迎を引き受けただけよ」
「そうかなー。・・・まあいいんだけどね。私がロメッシュ刺したことでしょ。・・・って言うか私の体の色でしょ」
「・・・なに言い出すのよ。私はあなたの送迎だけだってばー」
「いいの。私もうサリオンには居られないって思ってたところだったから。タイミング良かったの」
タトラはコーヒーを一口飲んだ。
「・・・お母様に旅に連れて行って欲しいって言ったら、仕事は終わったって言われちゃったし。丁度良かったのよ。・・・私ね。この研修で死んじゃってもいいと思ってたの。・・・でも、この町に来たら、なんか・・・死んじゃってもいいなんて考えなくなったわ。お父様の仕事にもちょっと興味が沸いてきたし」
「死んでもいいなんて言わないでよ・・・コビーさんのお仕事も楽しそうじゃない。なんか分からないけど良い勉強になるんじゃない」
「・・・うん。やるだけよ」
カフェを出ると、タトラは食材の入手先をエレンに訪ねた。
エレンは観光マップで今居る場所を示して「日用品とか食材とか買うならこの辺ね」と言って指さした。
観光マップを「あげる」と言ってタトラに渡して、二人は歩きだした。
「お米が買いたい」そう言うタトラに「そう言うのはここね」と店に連れて行き、一緒に店内に入った。
タトラは研修生である事を店員のゴブリナに告げてIDカードを見せ、5合分のお米を買った。
「なくなったらこの袋を持って来てね。袋にお米を入れてあげるから」
店員に言われて頷いた。
「今日はコレでいいわ」そう言うタトラに「ご飯だけ食べて暮らすの?」とエレンが言って、その店で卵4個と玉葱1個・キャベツ1個をエレンが買ってやり渡した。
「あとは仕事の帰りに買うのよ。ちゃんと食べなくちゃダメだからね。庁舎の食堂でも食べられるって言ってたし、お弁当屋さんもあるからね。食べなさいよ」
そう言うとエレンは弁当屋まで連れて行き「御弁当買ってちゃんと食べなさいよ」と言う。
次は庁舎に戻り「食堂使っていいんだからね。ちゃんと食べなさいよ」と言った。
「分かったわよ。ちゃんと食べる。今は何作って良いか分からないからお米だけ買ったの。ちゃんと食べる。・・・ご飯だってちゃんと炊けるか分からないんだから。まずはご飯なの」
「ほんとに?・・・それじゃ家に戻ろう。ご飯炊いてみよ」
「え?もうお昼ご飯作るの?」
「うーん。まだ早いか。じゃあお昼は今日は外食して、夕飯一緒に作ろ。地図地図」
エレンは渡した観光マップをタトラに出させた。
「私達もカイジンさん達の工房行こ。さっきの武具とか綺麗なガラスのコップとか作ってるから」
そう言って地図を指さした。
エレンは地図を見ながらいろいろな所にタトラを連れ回し、昼はエレンが大好きなラーメン屋に入った。
タトラは米とキャベツ・玉葱・卵の入った袋を片手にテンペストの観光をした。
・・・・・
西の空が夕焼けで少し赤くなってきた。
二人は団地の家に戻り、炊飯器を前にああでもないこうでもないと話をしている。
「どうやって使うの?」
タトラは誰にいうでもなくつぶやいた。
「街道の宿のご飯炊くヤツとは仕組みが違うじゃん。コードが付いてるし」
エレンもコードを手に取ってつぶやいている。
「お米研いで水入れるのよ。そこまでは同じよ」
タトラがエレンの顔を見て言った。
「それで」
「・・・火に掛けるんじゃないかな?」
「それじゃ、このコードは?」
エレンはコードを持ったまま言った。
「コードは・・・なんだろう」
「んー。・・・一番向こうのおばあさんに聞きに行こ。知ってるよ。きっと」
エレンはそう言うとタトラの返事を聞かずに玄関から出て行ってしまった。
ちょっとするとエレンはおばあさんを連れて戻ってきた。
「え。連れてきちゃったの?」
「うん。行く・・・って言うから」
エレンはクツを脱ぎながらそう言うと部屋に上がる。
その後ろを朝挨拶したおばあさんが同じようにクツを脱いで部屋に入ってきた。
「なに?炊飯器の使い方が分からないって?ひょっとしてお米の研ぎ方も分からないんじゃないの?」
そう言うとおばあさんはキッチンまで来て炊飯器の蓋を開けて、後ろから出ているコードを手に取った。
「あ、同じね。うちのと。このお釜にお米と水を入れて、コードはココにつないで・・・」
そう言うとコードを壁の二つの穴に刺した。
すると炊飯器から「ピッ」と音がした。
「おーー」
エレンとタトラは同時に声を上げた。
「あなた達お米はあるの?持ってこようか?」
おばあさんは続けてそう言った。
「いえ、買ってきました」
タトラはそう言って今日一日中持ち歩いた買い物袋からお米の袋を取り出した。
「研ぎ方とか水の量とか分かる?」
おばあさんがタトラの顔を見て聞いてきた。
「いやー。あの。研ぐってことは知ってるんですけど、やったことなくて・・・」
タトラがそう答える。
「それじゃ私がやってあげる。みてなさい」
そう言うとおばあさんは炊飯器から内釜だけを取り外してシンクに置いた。
タトラから米の袋を受け取ると、キッチンの一番上の引き出しを開けた。
中を見て閉めると、次に二番目の引き出しを開けて木製の四角い容器を出した。
「これが一合枡ね。あなた、夕食分だけ作るの?二人分?」
「私は今日は宿で食べます。だからタトラの分だけね」
そう答えるエレンの顔を見ていたおばあさんは、タトラの顔を見てから話を続ける。
「あなた明日の朝食と昼のお弁当の分も一緒に炊いちゃいなさい。そうすれば一日一回ご飯炊きすれば良いから。明日の朝食はおかずだけ作るの。お弁当の分とね。手抜きよ。手抜き。楽しなくちゃ」
「はー。なるほど・・・あのー。明日の朝まで置いたら悪くなっちゃいませんか?」
「大丈夫よ。炊き終わったら保温になるから。朝までなら味も変わらないわ。美味しいわよ」
「ほー。なるほど。保温の機能が付いてるんだ」
「それじゃみてなさい」
そう言うとおばあさんは1合升で2回、米をすり切りに計って内釜に移し、蛇口をひねった。
あれやこれやと説明をしながら米を研いで、「ここの『2』って書いてある線まで水を入れるの」と言って蛇口から水を入れる。
おばあさんは米と水が入った内釜を炊飯器に入れてタトラの顔を見て聞く。
「もう炊いちゃっていいの?1時間も掛らないで出来るわよ」
「あ。いいです。炊いちゃって」
タトラが答えるとおばあさんは「ここね」と言って炊飯器のスイッチを指さした。
タトラはのぞき込んで右手の人差し指でスイッチを押した。
炊飯器は「ピー」と音を鳴らして赤いランプが点いた。
「おーー」
エレンとタトラは同時に声を上げた。
炊飯器は「ブイーーン」と音をたて、なにか働き出した。
「あとは何もしなくていいのよ。出来るとね、またピーって音がしてランプがオレンジになるから。その間におかずを作るの。おかずは何作るの?」
「はあ。キャベツと玉葱と卵を買ったのでスープでも作ろうかと思って。」
タトラはそう返事をした。
「そう。ま、今日来たばっかりだもんね。少しずついろんな料理しなさいよ」
「はい、ありがとうございます。あのー。おばあさま、お名前は?」
タトラが聞くとおばあさんは答えた。
「私はウメ。なんでも聞きに来てね。それじゃあね」
そう言っておばあさんは玄関から出て行った。
嵐が去ったような感じでエレンとタトラは黙ったまま玄関をしばらく見ていた。
そして二人は顔を見合わせた。
「いいひとでよかったね」
エレンがつぶやく。
「そうだね」
タトラも答える。
二人はまた黙ったまま立ち尽くした。炊飯器は「ブーーン」と音をたてて働いている。
「私、二日三日は昨日の宿に泊ってるから、なにかあったら連絡してね。そうだ、さっき留守だったお隣にも挨拶に行くのよ。・・・私、サリオンに帰る前にはコビーさんの店に行くからね。頑張ってね」
エレンはそう言うとタトラの新居から出て行った。
今度こそ嵐が過ぎ去ったとタトラは感じた。
『さあ、スープでも作ろうかな』
一人になったタトラはそう思って、まな板と鍋を探した。
シンクの下の扉を開けると両方あった。他にもフライパンなどがある。包丁も扉に掛っていた。
まな板をキッチンに置いて、玉葱とキャベツをその上に置く。包丁を取って、料理を始めた。
一番上の引き出しを開けると塩やコショウなど、他にもなんだか分からない調味料も数種類ある。
タトラはサリオンに居るときも料理はしていた。自分が食べるだけならそれなりに作る自信はあった。
『明日寝坊しないようにしなくちゃ』
鍋に水を入れ玉葱とキャベツを入れて塩コショウを振った。鍋を火に掛け弱火にしてダイニングの隣の部屋を見に行った。
寝室はココで良いんだろう。ベッドがあり、布団も掛けてある。
サイドテーブルには目覚まし時計らしき物もある。
タトラは歩いてサイドテーブルまで行くと時計を手に取った。
『6時に起きればいいかな?』
そう考えて時間を合わせた。
キッチンに戻ると炊飯器はまだ「ブーン」と言っている。鍋をのぞき込むと野菜はくったりしてきている。
鍋をそのままにして再び歩き出し、リグルドにトイレの説明を受けたドアを開ける。
『トイレね』
心の中でそう言うと、隣の扉を開ける。
鏡の前に小さなシンクがある。そしてその後ろにまたドアがある。
タトラは部屋に入り、そのドアを開けてみる。
『お風呂か・・・ってことはココが脱衣室。お風呂はどういう仕組みだろう?』
中に入って蛇口を開いてみる。
「サーーー」頭の上からお湯が降ってきた。
「いやー」
声を上げてその場を離れた。
『濡れちゃったじゃん。もうー』
もう一度近づいて水の出所を見るとホースの先から水が細かくなって出ている。手に取れば外れそうだ。
タトラは『シャワーヘッド』を取り外して、お湯を壁に向けるとさっきひねった蛇口を閉める。
『これで体を洗うわけか・・・理解した』
床を見るとたぶん体を洗う石鹸であろうボトルが数種類置いてある。
『まずいな・・・これはそれぞれの目的が分からないなー・・・ま、なんとかなるでしょ』
ボトルを一本手にとってそう考えた。
「ピンポーン」
チャイムが鳴った。
『え?誰?』
タトラはボトルを置いて玄関に向かい、鍵を開けた。
「やあ、あんたが研修生さんかい」
体格のいいゴブリンのおじいさんが大きな声で話しかけてきた。
「はい」
タトラが答えるとおじいさんがまた大きな声で話し始める。
「これやるよ」
おじいさんはドアを大きく開けると、玄関の中に「ドン」と袋を置いた。
「え?」
「俺は端っこの、ばあさんの亭主だ。話聞いたよ。俺、畑で働いてるんだ。いろいろ規格外品が出るんだよ。いつも家で食ってんだ。あんた野菜なら買うことねーからな。おれが全部持って来てやる。今日はこれだけだ。じゃあな」
そう言うとおじいさんは振り向き出て行った。
「え?」
タトラは半歩外に出ておじいさんを目で追った。
おじいさんは確かに一番奥の家の玄関を開けて家の中に入っていった。
『ビックリしたー。野菜?』
タトラは置いていかれた紙製の大きな袋を覗いた。
イモと赤い野菜が見える。玉葱と他にもいろいろ入っている。
『おーすごい。これは有り難い。・・・しばらくは野菜を買わなくていいかもしれない・・・』
紙袋はそのままにしてキッチンに戻ると炊飯器はオレンジのランプに変わっていた。
「ブーン」という音もしない。
『炊きあがったということか?』
タトラは蓋を開けてみると中からぶわっと湯気が上がり、なんとも言えない香りが立ちこめた。
『おー・・・これは宿屋で見たご飯と同じだ。・・・火に掛けないで自動で完成するとは』
鍋を見ると野菜から出た色でスープも美味しそうだ。
『さあ食べよう』
キッチン横の食器棚をガラス越しに覗き大きさ的に手頃なご飯茶碗とボールを見つけて、キッチンに運んだ。
食器棚の引き出しを開けるとスプーンとフォークも見つけた。それらをテーブルに置く。
炊飯器を開けて『だいたいこのくらいかなー』と3分の1をご飯茶碗に入れる。
スープの火を消し鍋から直接ボールにスープを注いだ。
鍋はシンクにおいて蛇口をひねり水を入れた。
テーブルにご飯茶碗とボールを運んで椅子に座ると声を出した。
「いただきます」
『ああ、なんか久しぶりに声を出した・・・一人暮らしってしゃべらない生活なんだなー・・・今までだって私は一人だったんだ。元に戻るだけだ』
そう思ってからご飯を食べ始めた。
ご飯とスープだけの夕食はすぐに食べ終わる。
「ごちそうさまでした」
丁寧にお辞儀をすると、ボールなどを持ってシンクに向かう。
食器と鍋をささっと洗うと、タトラは玄関に向かった。
タトラは留守で挨拶出来ていないお宅のことが気になっていた。
あまり早くに行ってまた留守だとイヤだし、遅くに行くのも迷惑だろうしと、いろいろな事を考えてしまっていた。
残った菓子箱はまだいくつかある。エレンがテンペストに着くと渡してくれた物だ。
下駄箱の上に置いてある菓子箱一つを持つと外へ出た。留守だった隣の隣に向かう。
ドア横に書かれている「2-5-2」の表示を確認し、タトラはチャイムを鳴らす。
「はーい」
ドアの中から女性の返事が聞こえた。しばらくするとオークの女性がぬーっと顔を出した。
「なんでしょう?」
「あ。あの、今日から5-4に住みます。研修生です。あの。よろしくお願いします」
「ああ、あなた今日庁舎で見かけたわ。そう、ココに住むんだ。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
「私はね、あそこの土木の部門で働いているの。ダンナもあそこの食堂で料理作ってるのよ」
「あ。そうなんですね。よろしくお願いします」
タトラが何度もお辞儀をしていると、部屋の奥から子供の声がする。
「だれー?」
そう言いながら女の子がドアから顔を出した。
「お隣さん。引っ越してきたんだって」
オークの女性が子供にそう言うと、「こんにちは」と子供が言う。
「はい。こんにちは。あの、よろしくお願いします」
タトラは再度お辞儀をする。
「お嬢さん。そんなに緊張しないで。テンペストを楽しんでね」
オークのお母さんはそう言って微笑んだ。
「はい。それでは失礼します」
タトラはもう一度深くお辞儀をするとくるりと左を向いて自分の部屋に戻った。
『あー疲れた。今日の仕事は完了。はー・・・思い残すことはございません。』
玄関のドアを閉めるとカギを掛けドアに寄りかかってため息をついた。
フーっと一息吐くとクツを脱いで部屋に上がる。テーブルの前の椅子に座って、両手をテーブルにバタンと投げだした。
『疲れたー』もう一度ため息をつくと、両手の手袋を外して上半身をテーブルに投げ出した。
『あー・・・こんな状態でやっていけるのかな・・・だめだ。疲れた。寝よ。』
タトラは寝室に行くと目覚まし時計を確認して、そのままベッドに潜り込んだ。
10.0 研修の始まり
「じりじりじりじり・・・じりじりじりじり」
目覚まし時計は思いの外大きな音でタトラを起こした。
「はっ。なに・・・」飛び起きたタトラは自分がテンペストに居ることを思いだした。
サイドテーブルの目覚ましを右手で止ると、時間は6時を示している。
ベッドで体をひねって両足を床に付けた。
ぐるりと部屋を見回してから立ち上がると、ドアを開けてダイニングに進む。
そこでまたグルリと部屋を見回して、テーブルの上のリュックから洗面道具を取り出すと脱衣室のシンクに向かった。
顔を洗ってダイニングに戻ると、キッチンの炊飯器の蓋を開けて中を覗いた。
顔を近づけてくんくんと臭いを嗅ぐ。
『悪くはなっていない・・・』
キッチンで顔だけ玄関の方に向けると、昨晩ウメの旦那さんが持って来てくれた紙袋が見える。
玄関に行き、袋の中を見ると一番上にジャガイモが見えた。それを一つ取るとキッチンに戻り、シンクに置いた。
水で洗って、置いたままになっているまな板の上に載せると、皮を剥かずに細めの拍子木切りにした。
シンクの下からフライパンを出しコンロに置くと、隣の深い引き出しを開けて油のボトルを出す。
フライパンに油を少し入れ火に掛けると、ジャガイモを入れた。
塩コショウをして少し炒めると、昨日買った卵を取り出してジャガイモの上に割り入れる。
コンロに置いたままのヤカンに水を入れて、その水をフライパンに少し入れると、ジューっといい音がする。
シンクの下から同じ大きさの蓋を探してフライパンにのせると、籠に伏せたままになっているご飯茶碗を持ち炊飯器の蓋を開ける。
炊飯器の中には丸い円グラフの大体三分の二が残っている。
タトラは内釜だけをクルクルと少し回して残ったご飯を左右均等に見える位置にすると『半分』としゃもじで線を引く。
線を引いた半分だけを茶碗に入れるとテーブルに置き、コンロに戻る。
フライパンの蓋を開けると良い香りがしている。
火を止めてから食器棚をガラス越しに見て、『これ』と中くらいの皿を持ちコンロに戻ると、引き出しからへらを出して目玉焼きOnジャガイモを皿に移した。
テーブルに運ぶと椅子に座る。
「いただきます」
声にしてまた思う。『ああ、今日初めてしゃべった・・・いただきます』
そんなことを考えてからご飯を食べ始めた。
一人の食事はあっという間に終わる。
「ごちそうさまでした」
そう言ってお辞儀をすると、食器をシンクに運ぶ。
炊飯器の蓋を開けて中を見ると三分の一が残っている。『これをお弁当にね・・・』
食器棚をまたガラス越しに眺めるが、弁当箱に丁度良さそうな容器はない。
キッチンの引き出しと扉を開けたがやはり手頃な物はない。
『仕方ないか・・・』
炊飯器のコードを抜いてから内釜をまな板の上に置く。
手に塩を付けて残ったご飯の半分を手に載せておにぎりを作る。
残りでもう一個おにぎりを作りまな板に並べると、シンクの下から一番小さい鍋の蓋を手に持って、食器棚に向かった。
食器棚の扉を開けると『これかな・・・』と深めのボールを手に取り、鍋の蓋を載せてみる。
『よし、丁度良い・・・ことにしよう』とボールと鍋の蓋を手にまな板に戻り、おにぎりをボールに入れて、鍋の蓋をした。
テーブルの上のリュックから荷物を縛る為に持っていたヒモを持ちキッチンに戻り丸いボールと蓋をなんとか十字に縛った。
即席のお弁当箱を肩掛けカバンに入れると、時計を見た。
『7時15分か・・・早いけど行くか・・・』
昨晩は洋服のまま寝てしまった。寝室で着替えて、ダイニングのテーブルに置いてある手袋をはめた。
キッチンに行き炊飯器のコードを指さした。『よし、抜いた』心の中で叫ぶ。
コンロの前に行くと指さして心の中で叫ぶ。『よし、消えてる』
肩掛けカバンを手に持ち、外に出る。カバンからカギを取り出しドアを施錠する。
「ガチャリ」
ドアノブを回して閉まったか確認する。『よし、閉まってる』
心の中でそう言ってから出発した。
・・・・・
コビーの店までは間違いなく行けた。特別難しくはない。
教えてもらった裏口からスタッフルームに入り挨拶をする。
「おはようございます。研修生のタトラです」
立ち止まって挨拶すると、昨日案内してくれた店長のサクラが棚の蔭から顔だけちょこんと出した。
「あら、ずいぶん早いのね。おはよう」
そう言うと顔は引っ込んで姿が見えなくなる。ちょっとすると、姿が見えてこちらに歩いてきた。
「ずいぶん早くに来たのね。それじゃ一緒に陳列をしましょうか」
「はい。分かりました」
「そうか、荷物はねえ・・・こっち」
そう言うとサクラは部屋の奥に歩いて行き、ドアを開ける。
次の部屋にはロッカーがいくつか並んでいて、一つのロッカーをサクラは開けて中を覗く。
「ここ使って。あなた専用のロッカーね」
そう言うと後ろのテーブルにおいてある紙に『タトラ』と書き込んでロッカーの扉に貼付けた。
タトラはロッカーの扉を開けるとリュックを入れて扉を閉める。
振り向くとサクラが赤い布を持って立っている。
「これお店のエプロンね。仕事中はコレを服の上から付けてね。洋服汚すこともないし『私が店員ですよ』ってお客さんへのアピールになるしね」
サクラはそう言ってタトラにエプロンを渡す。
受け取ったタトラはエプロンを広げるが、ロープと生地とがこんがらがって、どこが上かも分からない。
その様子を見ていたサクラは微笑んでそのエプロンを手に取り、くるっと回して、ロープを2本持って「こうね」と言う。
口をとんがらせて「こことここに手を通して」とサクラは顔で手を通す場所を示す。
タトラは言われた場所に両手を通すと、サクラはロープの一番上を首に掛けてくれた。
なんとなくエプロンを着た姿になった。
「それでこのロープとこのロープを後ろから前に回して、お腹の前で結ぶのね。OK?」
タトラはそれぞれのロープを前に回して蝶結びした。
「OKです」
「OK?じゃ、こっちね」
サクラは歩き出す。
スタッフルームに戻ると「これ持って」と箱を渡された。
サクラも同じ箱を持つと店内に移動した。
店内ではゴブリナのスタッフが商品棚をハタキでパタパタとしていた。
昨日サクラが紹介してくれたスミレだ。
「おはようございます」
タトラが箱を持ったまま挨拶をすると、スミレはハタキの手を止めて振り向いた。
「あら、タトラさん。おはよう。早いわね」
「まだ時間の感覚がつかめなくて・・・」
「早く来たんだから、早くに帰ちゃいなさい。へへ」
タトラは黙っていた。
サクラに言われるままにタトラは箱のグラスを棚に並べる。
サクラは他の食器を指さして「空いてる所には同じ商品を補充していってね」と言われ、スタッフルームに戻るとそれらの商品を探して補充していった。
スタッフルームと店内を一人で数回往復していると、サクラから「こっち来て」と声を掛けられた。
サクラは手に伝票を持って、女性客と話をしている。
「こちらは常連さんのスズキさんね。顔覚えてね」
「はい。おはようございます」
タトラは客に挨拶をすると、サクラが紹介してくれた。
「この子は研修生のタトラです。今日からだから分からない事もあるけど、よろしくお願いしますね」
「へー研修生・・・なに?どこから来たの?」
「サリオンです」
「へー・・・テンペストってそう言う交流もしてるのね。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
『人間かな?』タトラはそう思いながらサクラの後ろで様子をうかがっている
スズキという客は、アレをいくつコレをいくつと注文をしている。
サクラは立ったまま伝票に何か書いている。
客は店内を歩き始めて、いろいろ見ている。
「そうだ、スズキさん。新しいデザインのシャツが出てますよ。こちらです」
サクラは洋服類が展示されているコーナーに歩いて行く。客もサクラの後を付いていく。
「これ。どうです?シュナ様のデザインですよ。オシャレでしょー」
「ふーん。面白いデザインね。売れるかなー・・・それじゃ2つ入れといてくれる?」
「はい。ありがとうございます。色が2種類ありますよ。それぞれ1つずつ入れておきましょうか?」
「そうね・・・」
客はそう返事をして、その辺の服を手に取って見ている。
しばらく店内を歩いていたスズキと言う客は「それでいいわ。それじゃ明日の朝ね。よろしくね」と言った。
サクラは伝票の一番上をペリッと剥がして客に渡すと、スズキと言う客は店を出て行った。
サクラとタトラは店先まで出て見送ると、その場で伝票をタトラに見せながらサクラが話し始めた。
「スズキさんはね、今日一日中いろんなお店に行って仕入をするの。それで明日の朝また店を回ってお金を払って注文した荷物を受け取って、テンペストを出発するの」
「はぁ」
「だから伝票に注文を書くでしょ。で、一番上をお客さんに渡す訳。すると次の伝票に複写で同じ内容が書かれているから」
「おー。確かに。・・・どういう仕組みなんですか?」
「仕組み?ふふふ。私も分からない」
サクラは笑って話を続けた。
「で、残った2枚は事務所のコビーさんの机の・・・」
サクラは歩き出しスタッフルームに入っていく。タトラも後に続く。
「残った2枚はここ。」
サクラはそう言うとコビーの机の上の薄いボックスに入れた。
「こうしておけばね、接客をしない別のスタッフが荷造りしておいてくれるの。ちなみにね、荷造りが終わったら、こっちのボックスに上の一枚を入れて、下の1枚はこっちのボックスに入れるのね」
「はぁ。・・・ちょっと覚えきれないですけど」
タトラがそう返事をすると、サクラは店内の方に歩きながら答える。
「ま、そのうち覚えるわよ。大丈夫。棚をみて商品が空いてるところがあったらまた補充していてね。お客さん来たら声掛けるから」
「あ、はい。分かりました」
タトラは答えると『さっきの続きだ・・・』とサクラに呼ばれる前に商品の補充をしていた棚に向かった。
タトラはスタッフルームを数回往復し、時々サクラに声を掛けられて接客を一緒に行った。
タトラはサリオンでアルバイトをしたことがある。
仕事はそれなりにこなせると思っている。慣れだ・・とも思っている。
仕事の初日をそれなりにこなしているとサクラに「お昼にしよう」と言われた。
タトラは壁に掛けられている時計を見たが、まだ11時だ。
「早いんですね?」
「うん。私はいつも11時からお昼なの。スミレさんが12時からお昼休み。だから私は12時から午後の仕事が始まるの」
「そうなんですか。なるほど・・・」
「・・・スミレさん。お昼にしまーす」
サクラはそう言ってタトラの肩に両手を置いて、肩を押してスタッフルームに歩いて行った。
スタッフルームに入ると初めて見る顔のオークのおばさんが伝票を見ながら箱に荷物を詰めている。
サクラから紹介されタトラは挨拶をした。
「タトラさん、お弁当?一緒に食べよう」
「はい」
タトラは返事をして、ロッカールームに向かうと自分のロッカーを開けてしゃがみ込んだ。
一番下に置いてあるカバンからボールと鍋ぶたの弁当箱を手に取った。
サクラも自分のロッカーから弁当箱を取り振り向いてタトラの持っている弁当をみて目を剥いている。
「え?なにそれ?それお弁当?やっだー・・・」
「え?でも、これしかなくって・・・」
「ふふふ・・・そうなんだ。まあ、なんだっていいのよ。外で食べよう」
サクラはそう言うと、ランチクロスで綺麗に包まれた弁当箱を片手で持って、扉を開けて外に出て行った。
タトラも後を付いて外に出る。右手でボールの底を持ち、左手でボールの蓋を上から抑えて歩いた。
道路に出る手前に小さい庭のようなスペースがある。そこにはベンチが二つ置いてあり、サクラはベンチの左隅に座って弁当を隣に置いた。
タトラは同じベンチの空いている右側に座って、膝の上にボールを置いた。
「食べよう。いただきます」
サクラはそう言うと綺麗なランチクロスをめくって弁当箱の蓋を開けるとフォークを手に持ち食べ始める。
タトラはその仕草をじっと見て、サクラが食べ始めたタイミングで自分の弁当のヒモを外して鍋の蓋を開けた。
蓋を椅子の横に置いて膝の上のボールからおむすびを一つ取ると、「いただきます」と言って食べ始めた。
サクラがタトラの姿を眺めて、食べながら聞いてきた。
「慣れた?まだ初日だけど、商品の場所もだいぶ覚えてきたみたいじゃない」
「そうですね。品出ししてると場所はなんとなく覚えてきました」
「今度はお客さんの対応もして行きましょうね」
「はい」
そう答えておむすびをパクッと一口食べる。
サクラがタトラの弁当をのぞき込んだ。
「ええー。あなた、おむすびだけなのー?」
「いや・・・まだ何作ればいいか分からなくて」
「やーだー。・・・帰り一緒に帰りましょう。お弁当箱も買わなきゃ。お店教えてあげるー」
「お弁当箱も手頃なのが家になくて・・・帰りにお店にあったの買って帰ります」
「だめよ。この店のは高いんだから。ドルドさんが作ったお弁当箱なんて買うことないから」
「そうなんですか?高いんですか?」
サクラは背筋を伸ばして一オクターブ高い声を出した。
「高いわよ。この店は商人とか観光客向けなんだから。フツーの売ってる店がちゃんとあるから。帰りに教えてあげる」
「ああ。はい。ありがとうございます」
「食材も買わなきゃね」
「あ、でもお野菜はお隣さんにもらった物がありますので・・・」
「そうなの?でもお店いろいろ教えてあげる」
「あ、はい。ありがとうございます」
タトラがそう言うと、サクラがフォークに刺した卵焼きをタトラの置いた鍋の蓋に一つ載せた。
「食べてね」
「あ、すみません。いただきます」
「これも」と言ってソーセージを一本卵焼きの横に置いてくれた。
タトラはもう一度御礼を言って、卵焼きを手で摘まんで食べた。
その姿を見ていたサクラがタトラに尋ねる。
「あなた、ずっと手袋してるけど、暑くないの?」
「ええ・・・」
「伝票めくるのに素手の方が仕事早いわよ」
「・・・そうですね」
タトラはそう答えただけで、おむすびを食べ続けた。
午後もそれなりに客は来た。その場で支払いを済ませて持ち帰る客も多い。
スミレが販売した分もあるので、商品棚は少しずつ空きが出来るので時々品出しをした。
客にはいろいろな種族がいた。
頭が魚のひとにはビックリした。猫の耳のひとも来た。
リザードマンが回復薬を納品に来た時にはいろいろ話をした。
見たことのない種族が来る度にタトラは見てない振りをしながら、彼らの様子を観察した。
午後4時半になると「帰えろ」とサクラが声を掛けてきた。
「いや、まだ5時半じゃないから」と言うと、「あなたは今日早くに来たのだから、いいのよ。コビーさんには私が断っておいたから」と言われた。
スタッフルームでコビーはまたなにか書き物をしている。
「いいのですか?」とタトラが聞くと「いいよ。明日からも7時半に来なさい」とコビーは言ってくれた。
サクラさんと一緒に仕事をするのだからその方が良いだろう・・・とも言ってまた下を向いて仕事を始めた。
サクラと一緒に店を出たタトラは、隣の隣の店に連れて行かれ、店員のゴブリナにIDカードを見せて弁当箱を買った。
IDカードを見せて『タダで買う』というのがどうも申し訳なく感じて、『ありがとうございます』を連発して店を出た。
その後少し離れた肉屋に連れて行かれた。いろいろな肉が陳列してあり、タトラは街道で食べたカレーライスを思い出した。
店員のオークの女性にカレーライスの話をすると、『それならこれが美味しいですよ』と言われ、肉の塊を100g買った。
昼にサクラからもらったソーセージと同じものがあったのでそれも100g買った。
IDカードを見せると、前の店と同じようにタダで売ってくれる。タトラは又『ありがとうございます』を連発した。
一緒に歩きながらサクラは店を指さして「ここが魚屋さん。なんか買う?・・・ここが八百屋さん。なんか買う?」と言ってくる。
「いえ、今日は・・・」とタトラは断りながら道を歩いた。
最後の「ここがお花屋さん。なんか買う?」を最後に、「それじゃ、私保育園に娘迎えに行くから、ここでね。又明日ね。7時半ね」と言ってサクラは突然道を曲がって振り向いて手を振って去って行った。
『嵐が去ったような感じ・・・テンペストのひとはみんな元気なんだ』そんな事をタトラは思った。
エレンにもらった地図をカバンから出し今居る場所を確かめた。地図にはコビーの店と家に赤く丸を付けている。
タトラは地図上のコビーの店を指さして道を振り返った。地図上の道路を指でなぞって、雑貨や、魚屋、八百屋の前をなぞって、花屋の先の交差点で指を止める。
顔を上げてぐるりと周囲を見回した。
今居る場所はわかる。今日は少し違う道を通って帰ってみようと考えて、サクラが曲がった道に向かって歩き出した。
地図を見ながら周囲の店を確認しながらタトラは歩いた。
『いろいろな店がある・・・サリオンよりよほど栄えている雰囲気』そんなことを考えながら、道に迷うことはなく二街区の団地に到着した。
カギを開けて自分の家に入る。土間には昨日ウメの旦那さんからもらった野菜の入った紙袋がそのまま置いてある。
『ただいま』心の中でそう言うと、部屋の電気を点ける。
「キィーーン」静まりかえった部屋の中ではそんな音が響いてるような気がした。
キッチンに行き買った肉と弁当箱を調理台の上に置いて、ダイニングのテーブルに進みカバンを置くと、手袋を外して一緒にカバンの横に置いた。
脱衣室のシンクで手を洗い、キッチンに戻る。ふと玄関の土間を見ると昨日ウメの旦那さんからもらった野菜の入った紙袋が置いてある。
タトラは玄関に行き、少し重い紙袋を両手で持ち上げてキッチンまで運んだ。
床に置いた袋の中から野菜をシンクに移していく。
『緑の葉っぱ?・・・じゃがいも・・・街道で見たニンジン!たまねぎ・・・大きいなにか?白い長いなにか?・・・』
シンクの中は野菜で一杯になった。
タトラはオレンジ色の人参を手に取り、調理台の上の肉が入っている袋を見た。
『丁度いいじゃない。今日はカレーライスを作ってみよう』
街道で食べたカレーライスを思い出しながら玉葱とジャガイモと人参を調理台の上に1個ずつ並べて、残りの野菜はシンクの下に移動させた。
『さて、野菜を切って煮れば良いのは分かるけど、あの味付けはどうやるんだろう?塩コショウだけじゃあの味になるわけがない』
油のボトルが入っている扉を開けてなにがあるのか確かめた。
黒い液体が入ったボトルがある。手に取り蓋を開けて臭いを嗅いでみるが、『こんな香りしたかな?』と少し手の平に取ってなめてみた。
『しょっぱっ』
タトラは顔をしかめた。カレーには使わないだろうし、コレは何に使う物なのか検討もつかない。
『んー。・・・ウメさんに聞きに行こ』
そう考え黒い液体のボトルを棚に戻して扉を閉める。立ち上がるとテーブルの手袋をはめて、カバンからカギとノートとペンを出して玄関に向かった。
『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。私は何にも知らない。どんどん聞いちゃおう』
そう考えてクツを履くとドアを開けた。
11.0 ウメと菊次郎
一番奥のウメの家のチャイムを鳴らすと「どちらさん?」と女性の声が返ってくる。
「5の4の研修生のタトラですー」
閉まったままのドアに向かって少し大きな声で言うとドアがバタンと開いた。
「あら、どうした?」
「あのー。カレーライスを作ろうと思うんですけど、作り方を教えていただけませんか・・・」
タトラは左手に開いたノートを持ち右手でペンを持っている。
「え?・・・ああ、カレーライスね。・・・丁度良いわ。今日カレーライス作ろうと思ってたの。一緒に作りましょう。その方が早いわよ。それで食べていきないさいよ。今日は」
「え・・・でも・・・それは悪いですよ」
「なにが悪いのよー。どうせ作るんだから。二人分も三人分も同じよ。・・・あなたが手伝ってくれれば私も楽だし」
ウメはそう言って満面の笑みを作った。
「どこまで作ったの?」
ウメが聞いてきた。
「野菜を出したところです」
「それじゃ、まだ何もしてないって事よね。あがってあがって、一緒に作りましょう」
「はー。はい。・・・それじゃ、失礼します」
ウメが「入って入って」とサンダルを脱いで部屋に入っていく後をタトラも追った。
部屋に入るとグルリと部屋の中を見回した。
『家の間取りは全く同じみたい』そう思ってキッチンに向かった。
「タトラさん。ご飯炊いちゃってくれる?炊飯器同じようなものだから分かるでしょ?」
「ああ、はい。えっとー・・・お米は?」
「お米、ここね」
ウメはそう言って、キッチン背面の戸棚の一番下の扉を開けて、木箱を「ポン」と叩いた。
タトラがしゃがんでその箱を見ると上面にスライドの扉が付いている。
扉を右にスライドさせるとお米が大量に入っていて、その中に昨日使った一合枡がある。
「何合炊きますか?」
「そうね・・・三人だから2合かな・・・カレーライスだと、じいさんいっぱい食べるから3合炊いちゃおうか」
「3合ですね」
そう言ってタトラは立ち上がり、炊飯器の所へ行く。炊飯器の蓋を開けて内釜を持ち、米のところに戻ってしゃがんだ。
3合計ると枡を戻し、スライドの扉を閉めて、戸棚の扉も閉めて内釜を持って立ちあがる。
シンクに内釜を置いて蛇口に手を掛けたところでタトラは止った。
自分が手袋をしている事に今更気が付いたのだ。
『街道のキッチンでは手袋を外した。オークのひとたちは何も言わなかった。ウメさんは自分の手を見てびっくりするのだろうか・・・なにか言うだろうか・・・』
そんな事を考えていたが、タトラはゆっくり手袋を外して、ズボンの後ろポケットに手袋を差し込んだ。
蛇口を開ける前に横を向いてウメを見る。
ウメはコンロの前でしゃがみ込み扉を開けて何かしている。
タトラは前をむき直して蛇口を開けた。
「ギュッギュッ、ギュッユギュッ・・」コメを研いでいると、隣にウメが来てタトラの手元をのぞき込んだ。
『見てる・・・なにか言われる・・・』タトラはコメを研ぎ続けながらそう思っていると、ウメが声を掛けてきた。
「そんなに力一杯研いじゃダメよー。シャカシャカーってやるのよー。見てなさいよ」
そう言うと体でタトラを横に押し出してウメが蛇口の前に立った。
「シャカシャカシャカシャカ・・・こうやって20回くらいシャカシャカしたら・・・」
ウメは蛇口をひねって水を入れ始める。
「水入れて、2回流すの」
そう言うとコメがこぼれないように水を捨てた。
ウメは蛇口をもう一度ひねって水を入れると、同じように水を捨てた。
「で、もう一回20回くらいシャカシャカしたら、水入れて2回流すの。この位でいいのよ。やってみて」
「あ、はい」
手際の良さにちょっと見とれていたが、この位自分でも出来る・・・とコメをシャカシャカと研ぎ始めた。
水を入れて捨て、それを2回繰り返したところでウメがタトラの横に来てまた並んだ。
「そうそう、そんな感じよ。水は『3』の線まで入れてね。・・・私達もね、お米なんて初めて見たのよ。こんな美味しい物食べたことなかったからね。これでもリムル様はまだまだ・・・なんだって。品種改良に励んでいるらしいのよ。もっと美味しいの作るんだって。すごいわよねー。・・・料理の仕方もね、シュナ様にみんなで習ったのよ。シュナ様会ったでしょ?なんでも器用になされる方よねー。尊敬しちゃうわよ。あなたどこから来たんだっけ?」
怒濤のおしゃべりが一段落した。
「ああ。あの、私はサリオンっていう国から来ました。学校は卒業したんですけど、なんか。・・・なんか・・・」
タトラは『3』の線まで入れた内釜の水を見つめた。
「・・・ふーん。サリオンね。遠いんじゃないの?」
ウメが聞いてくる。
「え?あ、でも途中まで街道が出来てたので思ったより早く到着出来たみたいです」
「そう。内釜はそのままね。お米はしばらく水に漬けておくと水を吸って美味しく炊けるんですって。で、玉葱ね」
「は?あ、はい」
玉葱を左手に持つウメを見て、料理の話に戻ったのか・・・と我に返った。
玉葱・人参・ジャガイモの切り方、ジャガイモは水にさらすこと。その理由。炒める順番。水の量。ウメの話は止らない。
「はい、そろそろ炊飯器スイッチオンね」
「あ、はい」
ウメと並んで野菜を一緒に切っているタトラはシンクの横に置いてあった内釜を炊飯器にセットして、コードを探した。
『ああ、コードは刺したままでいいのか・・・』そして赤いスイッチを押した。
炊飯器は「ピー」と鳴り赤いランプが点くと「ブーン」となにか仕事を始めたらしい。
「はいはい、タトラちゃん。続き続き」
ウメに呼ばれてタトラはまな板の前に戻った。
『・・・ちゃん付けになったし。まあ別に構わないし・・・』
全ての野菜を炒めているとウメが背面の大きい箱形の戸棚を開けた。
タトラは野菜を炒めながら振り向くと、戸棚は電気が点いている。
「あれ、その戸棚は電気が点くんですか?」
タトラは聞いた。部屋に同じ物があるが、そう言う機能があるとは思っていなかった。
「やだ。電気が点くけど、そういう機能が問題じゃなくて、これは冷蔵庫よ。冷蔵庫。」
「レイゾウコ?」
「そう、来てごらん。ほら、手入れてごらん」
タトラは右手をそーっと入れる。
「おー。冷たい。これは?なんですか?」
「これは、痛みやすい物あるじゃない。お肉とか、野菜なんかも。そう言うのを入れておくのよ」
「ほー。これは凄い機能だ。・・・こんな物までフツーの家庭にあるんですか?」
「そうよ。ぜーんぶリムル様のお陰よ」
ウメは片手に何かを持ったまま立ち上がり、両手を腰に当てて満面の笑みでうんうん頷いている。
『これは。町の人が、リムルさんの為にタダで働くっていうのも・・・分かるような気がするな・・・』
タトラは少し感心した。
「ほら、タトラちゃん。焦げちゃうから炒めて炒めて。そろそろ水を入れてー、ちょっと煮てー」
ウメは手に持っていた物をまな板の上に置くとパタパタと左右に紙を広げて中の物を取り出した。
「これ、お肉ね」
「あ、私も今日、カレー作ろうと思って、同じようなお肉買ってきました」
「あら、そうなの。それじゃ、そう言うのを冷蔵庫に入れるのよ。明日でも明後日でも全然大丈夫だから。なんかスープとか、焼き肉とか、なんでも使えるわよ」
「はい。分かりました。そうしてみます」
「うん、それじゃお肉を食べやすい大きさに切って、鍋に入れてと」
ウメはそう言うと炊飯器の横の戸棚の一番下の扉を開けて何かの小さい箱を持って来た。
「これがカレーのルーね」
「はあ」
「ちょっと臭い嗅いでごらんなさい」
ウメは箱の蓋を開いてタトラの顔の前に差し出した。
タトラは顔を近づけて「クンクン」と臭いを嗅ぐ。
「おー、カレーの臭いですね」
タトラも笑顔になる。『これがカレーか・・・』
「これなんなんですか?」
「なにかって?・・・私も詳しくは分からない。へへへ。でもね、何種類ものスパイスとかそう言うのを固めたものなんですって。街道で食べたんでしょ?あのひと達はプロだからね、ルーなんて使わないでスパイスから作ってるのかもしれないけどね。私達じゃそこまでできないじゃない。だからね、だれでも食べられるようにってね・・・」
「リムルさんが作ったんですね」
先にタトラが言うとウメはこれ以上無いと言う笑顔で頷いた。
「うんうん」
タトラとウメはテーブルを挟んで座ってお茶を飲んでいる。
「あとは少し煮込むの。お茶でも飲みましょう」と言ってウメはダイニングに向かった。
「明日からも夕飯はうちで一緒に作って、一緒に食べましょう」とウメに言われた。
しばらくすると玄関がガチャガチャといって昨晩家に来たおじいさんが帰ってきた。
「おー研修生さん。昨日の」
そう言いながらテーブルに近づいてきた。
「あんた、今日から晩ご飯はタトラちゃんと一緒だからね。お友達になったのよ。私達」
「おーそうかい。賑やかでいいさ」
おじいさんはカップを持つタトラの手をふっと見たような気がした。そして無言で隣の寝室に向かった。
ウメは手にしていたカップをテーブルに置くと、立ち上がりおじいさんの後を追って寝室に入っていった。
キッチンでは鍋がクツクツと言っている。隣の寝室では二人は何を話しているのだろうか・・・
タトラも立ち上がりキッチンへ行くと、鍋に菜箸を入れてグルリと2回かき混ぜた。
「そうかい、サリオンから来たのかい。それはそれは遠いところからご苦労さんだったね」
後ろから突然おじいさんに大きな声で話し掛けられてタトラは菜箸を持ったまま振り向いた。
おじいさんは歩きながらキッチン来ると、「俺の名前は菊次郎だ、よろしくな」と右手を出してきた。
タトラも「ああ」と言って右手を出して握手をした。
握手をする手を見ると、おじいさんの大きな緑の手に自分の細い手が包まれている様に感じた。
『そうだ。この町のひとは・・・、ゴブリンは右手だって体だって緑色なんだ。なんにもおかしなことなんてないんだ。きっと』
タトラは急に緊張が解けた様に、両肩の力が抜ける感じがした。
「あんた何やってるの。お茶でも入れるから座ってなさいよ」
ウメが後ろから大きな声で叫んでいる。
「いやー腹減ったなー。早く出来ねーかなー」
菊次郎はそう言いながら右手を離しテーブルに向かった。
「やーね、じいさん、握手なんてしちゃって。悪い人じゃないから安心して。あのひとにもなんでも聞いてね。あのひとも料理もできるし、野菜のことなんか私より詳しいからね」
ウメがコンロに来て鍋をのぞき込みながらそう言った。
「うん」
タトラは目頭がジーンとしていた。
その日は三人でテーブルを囲んでカレーライスを食べた。
タトラはウメの横に座り、ウメの前には菊次郎が座った。
タトラはコビーの店での事を話し、菊次郎は畑での出来事を話した。
昼休みにボールと鍋の蓋の弁当箱を開けて店長のサクラに笑われた事を話すと、ウメはテーブルを叩いて大笑いした。
食後にウメが珈琲を入れてくれて、三人で飲んだ。
リムルに名前をもらい、菊次郎はだいぶ体力が回復したらしい。見てくれは老人なのだが、自分では若返ったつもりだと言っている。
しかしウメは体力的にもたいした違いを感じなかったらしい。名前をもらう事が魔物にとって意味を持つことは知っていたが、そういう個人差があるのだろう。
この国の盟主リムルに出会う前の大変だった頃の話を聞いて、自分の両親はそういう種族のひとたちを助ける仕事をしていたのだろうな・・・と考えたりしていた。
5人居た子供は皆死んでしまったのだと言うことを聞くと、ちょっと暗い気持ちにもなった。
それでも、今を楽しく生きていることが幸せだと言った菊次郎の言葉がタトラの心に刺さった。
「今日はごちそうさまでした」
タトラとウメで食器を洗ってから、そう言ってタトラは頭を下げた。
「なに言ってるの、あなたが作ってくれたんじゃないの。お互い様よ。また明日も来るのよ。絶対よ」
「ホントにいいんですか?」
「いいわよ」
「・・・はい。それではお言葉に甘えて」
そう言って玄関に向かうと、「ちょっと待ってね」と言ってウメが冷蔵庫の中をゴソゴソと何かを探し始めた。
「はい、これ持って行きなさい」
ウメはそう言って小さい容器を二つ渡してくれた。
「これは?」
「こっちがポテトサラダ。こっちはカボチャの煮物。明日のお弁当に持って行きなさい。いつも夕食は多めに作って取っとくのよ。で、次の日の昼に私が食べたり、じいさんのお弁当にしたりね」
「え、いいんですか?なくなっちゃうんじゃ・・・」
「大丈夫大丈夫。まだ他にもあるから」
「ありがとうございます。それじゃいただきます。・・・今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「だから、お互い様だって。私達も楽しかったわ。じいさんと二人で食事なんて、干からびちゃうわよ。フフフ」
「フフ・・・」
タトラも思わず笑ってしまった。
そんな会話を続けていると、菊次郎も玄関まで見送りに来てくれた。
「タトラちゃん、明日も必ず来るんだよ。俺だけだと、ばあさん干からびちゃうらしいからよ」
「はい」
タトラは笑顔で返事をした。
12.0 絵
タトラの研修は順調に進んでいる。
コビーの店では一人で注文を受け伝票を書き、荷物を持ち帰る客にはお金を受け取り領収書を書く。
近くでサクラがその様子を見ていて「うん」と頷いてくれる。
朝出勤すると、サクラがいない日もある。そういう日は、誰に言われるでもなく品出しをこなし、スミレについて顧客対応をこなした。
仕事のあとはウメの家に行き一緒に夕食を作る。
大根の煮物。ハンバーグ。餃子。親子丼。麻婆豆腐。とんかつ。食べたことのないいろいろなメニューにタトラは驚いた。
醤油や味噌の使い方も知り、出汁の顆粒を入れるだけでサリオンでは考えられない複雑で繊細な味付けが出来る事も知った。
お米の食事以外にいろいろな麺類のレシピを教わり、自分でも朝食で作るようになった。
菊次郎とウメと食事をし、店の客が話してくれた面白い話をタトラがすると、ウメはテーブルを叩いて大笑いする。
研修開始から五日経った日の朝、エレンとガバル達がコビーの店に顔を見せた。
「私達帰るけど、タトラ大丈夫?やっていけそう?」
エレンが聞いてきた。
「大丈夫よ。慣れてきた。仕事にも生活にも」
「なにかあったらリムルさん頼るのよー」
「うん。大丈夫。ありがとうね」
タトラがそう言うとエレンが聞き返してくる。
「なにがぁ?」
「いや、・・・テンペストまで送ってくれてさ」
「そんなこと。全然OKよ。帰るからねー。ダイジョブー?」
「大丈夫よ」
エレンはそれでもまだ心配なようで、神妙な顔つきでいる。
隣にサクラが来た。
「エレンさん、ホントに大丈夫よ。安心して。タトラさんしっかり仕事してるし、お弁当も立派になってきたしね」
そう言ってサクラはタトラの顔をのぞき込んで笑顔を見せた。
タトラも笑顔を返して「うん」と頷いた。
「そう、サクラさんよろしくねー」
そう言ってエレンはコビーにも挨拶をして店を出て行った。
この頃には研修に対するタトラの不安は全くなくなっていた。そしてタトラの手に手袋はなかった。
・・・・・
初めての日曜日は、ウメと菊次郎に誘われて町の観光に行った。
仕事の帰りにいろいろな道を通って帰っているのである程度は知っているつもりでいたが、店や団地から離れた場所にある店では、見たことのない商品を売っている店もあり興味深かった。
「タトラちゃん。パン買おう」
ウメはそう言いパン屋の扉を開けた。菊次郎とタトラも後をついてパン屋に入る。
茶色い麺が挟んであるパンや、ウメと一緒に夕食で作ったコロッケが挟んであるパンが並んでいる。
ずらっと並ぶいろいろな種類のパンにタトラは驚いた。
『こんなにいろいろなパンがあるの?』
「好きなものを選びなさい」とウメに言われて、「これ・・・これ・・・」とタトラは指をさした。
ウメは「はいはい・・・はいはい」と言ってトングでトレーに載せていった。
パン屋を出ると、屋台でソフトクリームを買ってベンチに座って三人で食べた。
ベンチの正面には洋服を並べた店が見える。
『シュナさんが作った洋服なのかなー』
・・・・・
子供の頃にタトラはエリスと町に買い物に行ったことがある。
綺麗な洋服が並んだショーウインドウの前でタトラはガラスに手をついて眺めた。
町はキラキラと輝いて見えた。
そんな生活も学校に入ると変わっていった。
『世界から輝きがなくなったのはいつからなんだろう?もう覚えていない・・・いつから私は一人ぼっちになったんだっけ・・・』
・・・・・
「タトラちゃん。明日の朝ごはんはこのパンにしなさい。美味しいから」
ウメがパンの袋を持ち上げてタトラに見せる。
「うん。ありがとう。そうする」
「今日は晩飯なんだ?」
菊次郎が聞く。
「うーん。まだ考えてないけどね・・・」
ウメが答えると菊次郎がすぐに返事をする。
「それじゃ鍋にするか。俺が作るさ。タトラちゃんと一緒に」
「あらそう?じゃよろしくね。・・・切るだけでいいけどね。ふふ」
「なんだよー。切るだけだって立派な料理だぞ。素材が生きるってやつだ。昨日持って来た野菜でできるだろう。肉、なにがある?」
「肉もあるわね。鶏のもも肉があるわよ」
「おー。それじゃ何も買わなくていいな。タトラちゃん。よろしくな」
タトラは笑顔で菊次郎をみて答える。
「はい。教えて下さい」
「おう」
菊次郎も満面の笑みだ。
ウメの家に戻ると、菊次郎と鍋の準備を始めた。
菊次郎は白菜や大根を切って土鍋に入れる。
タトラは鶏肉を一口大に切った。
「味付けは?」
タトラが聞くと、「そうだな、キムチ鍋にするか」と菊次郎は答えて、コンロの下から樽を出してきてタトラに見せた。
「俺漬け物作るの得意なんだわ。だからこういうの作ってんだよ。外品野菜持ち帰るしな。・・・一口食べてみろ」
そう言って樽からひとつまみ赤い何かが付いた野菜をタトラの手の平に載せた。
タトラは手の平に口を付けてその野菜をパクッと食べた。
「・・・ッ辛ァァー。・・・なにこれ?」
「キムチだ。発酵食品。保存食。リムル様の世界にも似たようなのがあるらしくてその名前で呼んでるんだ」
「こんなに辛いの食べるんですかぁ?」
「おう。美味いぞ。・・・コレを鍋に入れればキムチ鍋だ」
菊次郎はそう言って菜箸でキムチを取り鍋に入れた。
テーブルの上に土鍋を置いて、三人で夕食を食べる。
タトラは生まれて初めてこれほど辛いものを食べた。
街道のカレーライスも驚いたが、キムチ鍋には更に驚かされた。
「・・・辛いけど、体がポカポカになるね。暑いわ」
タトラは汗をかきながらキムチ鍋と格闘した。
・・・・・
初めての日曜日はウメ達に連れられてテンペストの町を楽しんだ。
夕食では初めて食べるキムチ鍋に驚かされた。
そして初めて迎えた月曜。庁舎に出向き研修の報告をする曜日だ。
タトラはいつもの出勤時間に家を出て、庁舎に向かった。
もう地図を見ずとも行きたいところに行ける。
庁舎に着いたタトラは、玄関に立つ守衛にIDカードを見せると「どうぞ」と言われて建物の中に入った。
階段を上りリムルの執務室をノックするが返事がない。
ドアを開けて中を覗くが誰も居ない。
『ちょっと早すぎたかな・・・ちょっと探検でもするかな・・・』
タトラは扉を閉めて廊下を歩いた。階段に向かう途中窓の外を見ると町の景色が見える。
横にはテラスが見える。
『あそこに出られるのかな?』
隣にある扉をそーっと開けるとそこは部屋ではなく外のようだ。
『ここだな・・・』
タトラはテラスに出て真っ直ぐ進み、手すりに両手をついて町を眺めた。
『大きいなー・・・これがテンペストか。・・・魔物の国って全然豊かな国じゃん』
タトラはしばらく町をボーッと眺めていた。
「ガチャン」廊下からのドアが開く音がした。
タトラは振り返りドアを見たが誰も居ない。
するとドアの床を這うように青いスライムがこちらに進んできた。
「やあ、タトラ。早いな」
「あ。リムルさん?おはようございます」
リムルはピョンと飛び跳ねて人型に戻ると、歩いてタトラの隣で手すりに右手をついた。
「どうだ?研修は」
「はい、ちゃんと働いています」
「そうか」
リムルはそういうと、両手を手すりについてテンペストの町を眺めた。
タトラも同じように両手を手すりについて再び町を眺めた。
「どうだ?この町は」
リムルが尋ねる。
「綺麗な町ですよね。みんな優しいし・・・」
「そうか。俺は、皆が楽しく暮らせる国を作りたいんだ。・・・研修はさ、コビーの店だけじゃなくてさ・・・町での暮らしも研修の一環だと考えて欲しいんだ。だからなにかあったら月曜に俺達に言って欲しいんだ」
「なにかって?・・・分かりました。なにかあったら報告します」
「うん、それじゃあ部屋に行こうか」
リムルはそう言ってドアに向かって歩きだした。
タトラもその後に続いた。
執務室ではシオンから紙が1枚渡されて、センターテーブルのソファーを勧められた。
質問項目が箇条書きにされていて、そこに記入していく。
リムルは自分のデスクで何かを読んでいる。
シオンから「どうですか?」と聞かれたタトラは「問題はありません」と答えた。
リムルからも一言二言言葉を掛けられ、それに返事をして研修報告は終わった。
「それではコビーさんの店に行きます」と言ってタトラはお辞儀をして部屋を出た。
コビーの店に着くと、スタッフルームに入る。
コビーは自分のデスクで書き物をしている。タトラはコビーのデスクの前まで歩き、直立して挨拶をした。
「おはようございます。リムルさんのところで研修の報告をしてきました」
「おはよう。それじゃあ、一週間よろしくね」
「はい」
タトラはお辞儀をして頭を上げると、コビーの後ろの壁に掛っている絵に目が止った。
『今までここに絵があったのかな?気がつかなかった・・・綺麗・・・』
「ん?どうした?」
コビーが尋ねる。
「いえ・・・絵が・・・」
タトラが答えると、コビーはその視線の方向を理解して自分の後ろに張ってある絵を振り返って見た。
「綺麗な絵でしょう。この店が出来た頃にもらったんですよ。町の人が描いてくれたんです」
一点透視図法で道が右の奥に続いている。一番手前の左側にコビーの店が描かれていて、建物がぽつんぽつんと描かれている。
奥には山が描かれていて、全てが淡い色調の優しい絵だ。
「綺麗な絵ですね。私以前にもこの絵に似た絵を見たことがあるような気が・・・」
「ほー。そうですか。誰だったかな?くれたの・・・」
「・・・あ、すみませんでした。準備してお店に出ますね」
タトラはそういうとロッカールームに向かった。
エプロンを着て店に出たタトラはサクラに研修報告の話をしてから、品出しをしたり、客対応をした。
「昼にしよう」とサクラに言われ、スタッフルームに戻るとコビーは部屋に居なかった。
コビーのデスクの前に行くともう一度あの絵を見つめた。
「ほら、昼にしようよ」
サクラに声を掛けられたタトラは、サクラを手招きした。
サクラはタトラの横まで来ると「なーに?」と聞いてきた。
「この絵、誰が描いたか知ってますか?」
「あー。これはビンズさんよ」
「ビンズさん?」
「そう。ビンズさん」
「えーと、テンペストの方ですか?」
「そう。どこに住んでるんだっけかなー。私とは部族が違うから一度くらいしかお話したことないけどね。・・・昼にしよ」
「あ。はい」
タトラはそういうとサクラの後に続いてロッカールームに向かった。
タトラは次の日も、その次の日も、スタッフルームに入る度にあの絵を見てしまう。
店内でお客さんの対応をしているときも、絵のことを考えていた。
「ちょっと、聞いてるの?」
客がタトラの顔をのぞき込んで聞いてきた。
「は、はい。えっと、なんでしたっけ?」
「これの赤と青を一つずつよ。分かった?」
「は、はい。赤と青ですよね」
タトラは復唱してから伝票に書いた。
タトラは伝票を見ながらスタッフルームのストックの棚からお客さんに言われた商品を籠に入れていく。
伝票のチェック欄にチェックを付けてコビーのデスクに置くと、「このくらいかな」とスタッフルームで空き箱を選んで荷物を詰めた。
三枚目の伝票に領収印を押して荷物を持ち店に戻り、代金を受け取る。
おつりはなかったので、荷物と領収書を渡して店頭まで一緒に行き、「ありがとうございました」と言って客を見送った。
スタッフルームに戻ると「あの絵」をまた見つめた。
早ランチをサクラと終えてスミレとバトンタッチをして店内の陳列の直しをしていると、午前中に対応した客がやってきた。
「ちょっとー。グラスの色が違うのが入ってるわよー」
「え?ごめんなさい。確認させて下さい」
そう言って客から箱を受け取り、作業台の上ですでに開けられている箱から商品を一つずつ出して並べていく。
「あ・・・」
グラスは赤と青と言われたのに赤と黒のグラスが梱包材に包まれている。
「ごめんなさい。間違えました。大至急交換いたします」
そう言ってスタッフルームに戻るとコビーのデスクに置いた伝票を確認する。コビーは不在だ。
伝票には「赤・青」と書かれている。
「アチャー。何をやってるんだ・・・」
タトラは自分のおでこをぴしゃりと叩いて青のカップと伝票を取ると店に戻った。
「こちらで間違いないですよね?」
「うん」
「本当に申し訳ありませんでした」
タトラは大急ぎで青いカップを梱包材で包み、伝票を確認しながら、全ての商品を箱に入れ直した。
「申し訳ありませんでした」
店頭で最敬礼して客を見送った。
店内を見るとサクラが笑顔でタトラを見つめている。
「あーあ。やっちゃいました。ごめんなさい」
「あるわよ、誰にだって。ミスは。・・・でもなんか最近考え事してるんじゃない?なんか悩みでもあるの?」
「いえ・・・そういうんじゃないんですけど・・・ちょっと絵が気になっちゃってて・・・」
「絵?」
「はい。あの、コビーさんの後ろの・・・」
「あー。あの絵?なにが気になってるの?」
お客さんが居ないことを確認してから、二人はスタッフルームに移動して、コビーのデスクの前で「絵」を前に話し始めた。
「実はサリオンの美術館で・・・」
タトラは自分のお気に入りの絵に似ているこの「絵」が気になっているのだと話した。
「ビンズさんってどこに住んでるんでしょう?是非お話を聞きたいと思って」
「そこまで興味があるとはね・・・スミレさん戻ってきたら聞いてみよ。知ってるかもよ」
「そうですね」
「仕事に支障が出るほどじゃダメよ。気になることを片付けちゃわないと」
「はい。すみませんでした」
スミレが戻ってきて早速聞いたが、スミレもビンズの所在は知らなかった。
気にしないように仕事に集中するように一日を過ごして終業の時間になった。
タトラはカバンを持って店の前に立ってみた。
『一点透視図法で道の向こうに山が見えるのは・・・』と周囲に人が居ないことを確認してから、一歩二歩と後退してみる。
『左側にコビーの店が見える位置・・・この辺だな・・・』と絵を描いたであろう位置を確認してスタッフルームの壁の絵を思い出した。
建物がだいぶ増えているが、コビーの店が出来た頃に描かれたものだと言っていた。
テンペストも最初は建物が少なかったのだろう。
いろいろな事を考えていると、一点透視の道の奥からランガに乗ったゴブタの姿がだんだん大きく見えてきた。
あのひとなら知ってるかも・・・そう思いタトラは大きく手を振った。
「ゴブタさーん。おーい」
ゴブタも手を振りながら近づいてくる。
「どうしたっすか?デートのお誘いですね。困っちゃいましたねー」
ゴブタはランガからひらりと飛び降りるとタトラの肩に手を回した。
「バチーン」
「お聞きしたいことがあるんです」
「なんすか?」
ゴブタの右ほほが赤く腫れ上がっている。
「ゴブタさん、ビンズさんという方をご存じですか?」
「ビンズさん?・・・ビンズおばさんっすね。天気予報の」
「天気予報?」
「そうっすよ。たぶん。天気良く当るんすよ。ビンズさん」
「・・・その方、絵を描きますか?」
「絵?あー。絵ね。描くっすよ。上手いっすよ」
「ちょっとお話を聞きたいと思ってるんです。どこにお住まいか知ってますか?」
「タトラさん、二街区の団地っすよね?住んでるの」
「そうですけど」
「ビンズさんも二街区っす」
「え?・・・そうなんですか?」
「二街区のどこだったかなー・・・これから一緒に行ってみますか。二街区。ご案内するっす」
そう言ってゴブタは左腕を軽く曲げて腕を組むように誘っている。
「大丈夫です」
タトラはそういうと振り向いて歩き出した。
後ろには左腕を曲げたまま立つゴブタを、ランガが鼻で突いている。
・・・・・
タトラは仕事から真っ直ぐウメの家に行くようになっている。
「ただいまー」
「おう、おかえり」
菊次郎が土間から上がったところで振り返って迎えてくれた。
「あれ、今日は早いんですね」
タトラが尋ねる。
「俺も今帰ったところだ。今日は仕事のキリが良かったんでね」
ウメとタトラはキッチンに並んで料理をしている。
菊次郎はその姿を見ながらダイニングでお茶を飲んでいる。
「ウメさん。今日失敗しちゃった」
「なに?」
「お客さんに渡した荷物に違う商品入れちゃって・・・お客さん戻ってきて怒られちゃった」
「まあ、そう言うこともあるって」
「自分がイヤになっちゃう」
「気にしなさんなって」
食事が終わって三人でコーヒーを飲んでいる。
「コーヒー美味しいー。ウメさんの入れる珈琲美味しい」
「そうかい?嬉しいこと言ってくれるじゃないの」
「そうだ、ウメさん。菊次郎さん。この団地にビンズさんって方いますか?」
菊次郎とウメは顔を見合わせた。
「ビンズさん居るだろう、3号棟か?」
菊次郎がウメの顔を見て言った。
「そうかな?2号棟かも」
ウメが答える。
「そうなんだ。居るんですね」
タトラは笑顔になった。
「実はコビーさんの店にビンズさんの絵があるの」
「絵?絵・・・ってあの絵の具で描く絵のこと?」
ウメが聞いてくる。
「そう、その絵。サリオンの美術館に私の好きな絵があるんだけど、その絵にそっくりなの。雰囲気が。・・・ひょっとして美術館の絵もビンズさんが描いたんじゃないかと思って・・・それが気になって気になって、それで今日失敗しちゃって・・・」
「へー。絵ねー。・・・ビンズさんって元々の部族が違うんだよな。あのひとあんまり出歩かないから団地で会ったことないんじゃないか。3号棟だろ?そっちの列のそこの一番奥」
菊次郎がタトラとウメの顔を交互に見ながら、あっちこっちと指を動かして話した。
「2号棟でしょ。そっちの・・・こっちの一番奥。私もシュナ様の料理教室で一度話したことあるけど、団地で会ったことないわよね」
ウメが二人の顔を見ながら人差し指であっちこっちと指さしながら話した。
「そうなんだ・・・でもこの団地に居ることは確かなのね。会ってこなくちゃ」
「でも、今日はもう遅いからダメだぞ。タトラちゃん朝早くから仕事なんだから、今度の日曜に行きなさい」
菊次郎がそう言った。
「そうね。日曜ならゆっくり話が出来るしね。そうする」
「日曜に話が出来るんだから、仕事中はそのことは忘れて、失敗しないようにしなくちゃダメだよ」
ウメにそう言われてタトラは笑顔で答える。
「うん。大丈夫。居場所が分かってちょっと安心したから」
タトラはコーヒーを口に含んだ。
次の日も出勤するとタトラはコビーのデスクの前に行き、「絵」を眺めた。
『よし。あと三日、絵のことは忘れる』そう誓って、スタッフルームを後にした。
この日からタトラは伝票に書いた商品を指さして「グラス赤、よし」と声に出して荷造りするようにした。
13.0 ビンズさん
日曜の朝が来た。
ビンズの家に行くことを考えると昨日から楽しみと緊張が交錯した妙な感覚でいた。
朝ご飯にパンと野菜炒めを食べると、時計を見た。
まだ早いから今までしたことのなかった掃除を徹底的にやることにし、家中のぞうきん掛けをした。
時計を見ると9時を回っている。
『もういいかな・・・』そう考えて昨日の帰りに買った焼きそばパンとカレーパンを手土産として小さい袋に入れて、家を出た。
ウメは2号棟の奥と言い、菊次郎は3号棟の奥と言っていた。
順番に行って違ったらそこで尋ねれば良い・・・と軽い気持ちで3号棟の一番奥の家に行ってみた。
ドアの横には「2-3-1」と書いてある。チャイムを鳴らすとしばらくして女性の声がした。
「はい。・・・どちら様ですか?」
「えっと。5の4で生活しています研修生のタトラと言います」
「研修生さん?カギ掛ってないから入って下さい」
「はい。失礼します」
そう言ってタトラはドアを開けた。
中を覗くと玄関の上り框のところで椅子に座ったゴブリナの女性がこちらを見ている。
タトラはドアの外で深くお辞儀をして話し始めた。
「こちらはビンズさんのお宅ですか?」
「そうよ。なに?」
「私、コビーさんのお店で研修をしています、タトラと言います。あのー。お店でビンズさんが描かれたと言う絵を拝見したのですけど、あの絵はビンズさんが描かれたものでしょうか?」
「絵?あー。お店を描いた絵のことでしょ?・・・そうねー。いつ描いたんだっけ・・・私が描いてコビーさんに差し上げたのよ」
「あー、やっぱそうなんだー。ビンズさんが描かれた物なんですね」
「そうよ」
「あのー。実は私サリオンから研修に来ているんですけど・・・」
「まあ、中に入りなさいよ。お茶でも飲みながらお話しましょ」
「はい、失礼いたします」
タトラは家の中に入りドアを閉めて振り返る。
椅子に座っていた女性はタトラがドアを閉めたことを見ると、くるりと向きを変えて滑るように移動を始めた。
『あ』タトラはその椅子に車輪が付いている事に初めて気がついた。
ビンズは車椅子の車輪を手で押してキッチンに横付けすると、手を延して蛇口をひねりヤカンに水を入れて火に掛けた。
車椅子に座った状態では全ての作業がキツそうにタトラには見える。
「さあ、こちらに座って」
そう言ってテーブルの椅子を指さした。
「失礼します」
そう言ってタトラは椅子に座って女性がこちらに向きを変えてくれるまで黙って待つ事にした。
女性はお盆をテーブルに置き、カップと急須をお盆に載せると、ヤカンを持って急須にお湯を入れた。
ちょっとして急須からカップにお茶を入れると、その片方をズズーっと滑らせるようにタトラの方へ置いた。
「どうぞ」
そう言って自分のお茶を手元に置くと、やっとタトラの顔に目を向けてくれた。
「サリオンから来たんですって?」
「はい、交換留学生としてきました。今コビーさんのお店で働いています」
「へー。面白いわね。そんな事やってるんだ。・・・まあ、お茶飲んで下さい」
「はい、ありがとうございます。・・・あのービンズさんで間違いないですよね?」
「そうよ、私の名前はビンズ」
「あのー。サリオンの美術館に赤ちゃんを抱いた女性の絵があるんです。以前にそういう絵を描かれたことはありますか?」
「え?赤ちゃん?美術館にあるの?・・・美術館にあるなんて私のじゃないでしょー。・・・いろんな絵を描いてるからねー・・・描いたかもしれないし、描いてないかもしれないし・・・覚えてないわね」
「そうですか・・・」
タトラはお茶を飲んだ。
『これで終わりか・・・お茶飲んだら帰るか・・・』
残念な気持ちでそんなことを考えていると、ビンズが話を始めた。
「あなた絵が好きなの?」
「絵が好きって言うか・・・サリオンにあるその母子の絵がとっても好きで・・・」
「そう。私が描いた絵が幾らか残ってるから見て行く?」
「え?こちらにあるんですか?」
「うん。ちょっと待っててね」
ビンズはそういうと車椅子のタイヤを自分で押して隣の部屋に移動した。
タトラは気になって椅子に座ったまま背伸びをして隣の部屋をのぞき込んでいた。
姿は見えないが、なにかゴソゴソと音がする。
しばらくすると小さい箱を一つひざの上においてビンズがタトラの椅子の横まで来た。
「はい、見て下さい」
そう言ってタトラの前に箱を置いた。
タトラは箱の蓋を開けて中を見ると、そこには無造作に入れられた絵が入っていた。
一番上の1枚を手に取る。
『・・・これは紙じゃない。美術館のおじいさんが言っていた何か動物の皮だ・・・』
タトラは1枚ずつ出してテーブルに並べていく。
全部で7枚ある。
3枚は山や町の絵。1枚は花の絵。
1枚は夕焼けの中で建築作業をしている作業員の絵。作業員は黒く人影となっていてだれだか分からない。
1枚はリムルの肖像画。1枚はだれだか分からないがゴブリンが微笑む絵だ。
どれも淡い色合いのコビーの店にある絵と同じ印象だ。
そしてサリオンの美術館にある母子の絵と同じだとタトラは確信した。
「ビンズさん、もう絵は描かれないのですか?」
タトラは聞いた。
「描いてるわよ。今でも。絵を描くのが好きなのよ。絵の具もね、自分で作るの。野菜とか木の実とかね。そういうのを煮詰めて作るの。趣味よ、趣味」
「そうなんですね」
「ほら、そこの・・・山の風景は先週描いたんだったかね・・・」
「そうなんですか。これですか?」
タトラは一枚の絵を持ってビンズに見せた。
「そうそう」
ビンズが答えた。
タトラは横を向いて窓から外を見るが、向かいの団地の玄関が見えるだけだ。
どこから見た風景かは分からないが、この部屋から見ることが出来る景色ではないことは分かる。
「あのー大変失礼なんですけど、足がお悪くて山を見に行くのも大変じゃないですか?」
「あー・・・昔に山を見た時の記憶よ。私ね、なんか一度見た風景を覚えちゃうのよね。だからそれを家で描くの」
「はーそういうことなんですか」
「最近は町を出歩くことも少なくなったからね。みんな記憶で描いてるのよ。あとは、ほら、その花の絵はそこから見える花を描いたの。ずっと家に居るから、庭に見える花も素敵に見えちゃうの」
ビンズはそう言ってタトラの前に並べてある花の絵を指さしてから窓を指さして、にっこり微笑んだ。
「町はどんどん大きくなっていて、綺麗に変わってますよ。・・・今度一緒に町を散歩してみませんか。新しい絵が描けるかもしれないですよ」
「うん、でもねー。ほら。これだから」
そう言ってビンズは車椅子をポンと叩いた。
「私が押しますよ。大丈夫です。やらせて下さい」
「うん・・・ありがとう。でもねー玄関を出るのも男の人二人がかりなのよ・・・だから無理」
「えー。そうなんですか-」
そう言いながらタトラは玄関を見た。
確かに玄関には段差があるし狭い。自分一人では車椅子に乗ったビンズを外に連れ出すことを無理だ。
「考えます。なにか方法を考えます。私、ビンズさんの絵をもっと見たいんです。良い方法が見つかったら散歩付き合ってくれますか?」
「ふふ。あたな凄いわね。ドンドン来るわね。・・・でもいいわ。たまには外も出てみたいしね」
「ありがとうございます。考えます。・・・そうだ、これお土産です。忘れてました。お店の近くのパン屋さんで買ったものなんですけど。どうぞお昼にでも召し上がって下さい」
「まあ、悪いわね。ありがとう。遠慮無くいただくわ」
パンの入った袋をテーブルの上に置くと、タトラは背もたれに寄りかかった。
「なんかほっとしたー。いや、サリオンにある絵も絶対ビンズさんの絵だと思います。なんか懐かしい人にたどり着けたような気分で・・・」
「ふふ。面白い事言うわね。でもいいわ。私の絵が好きだなんてそう言ってもらえれば嬉しいものね」
二人は同じタイミングでお茶を飲んだ。
「ビンズさん。警備のゴブタさんが言ってたんですけど、天気予報のビンズさんって・・・天気予報ってなんですか?」
「ああ。天気ね。・・・私ほら、こんな足でしょ。生まれた時からなのよ。ホントはこんな体で生きていけないと思うんだけど、私昔っからなんだか天気が当るのよね。魔法とか予言とかそんなんじゃないんだけどね。なんか、雨が降りそうだなーって思うとホントに降るし、明日は寒くなりそうだなーってそう思うと寒くなるのよね。そんなだから、皆が便利に思ってくれてね。それで食べ物くれたり、生活支えてくれていたのよ」
「そうなんですか・・・天気予報・・・」
「子供の頃に父は狩りに出て死んじゃったし、母も病気でね。兄弟もみんなリムル様と出会う前に死んじゃってね。私は家の近くしか出歩けないから、だから魔物に襲われる事もないしね、行き延びちゃったの。それでも村の皆がその天気のお陰で食べさせてくれたのよ。たまたま当るだけなんだけどね。だからお礼に絵を描いて差し上げてたの。みんな質素な家だけど、少しでも華やかになってくれればと思ってね」
「そうなんですね。他の方からも伺いましたけど、昔は大変だったんですね」
ビンズがお茶を飲みカップを置くと、チャイムが鳴った。
ビンズは車椅子で玄関まで行くと「はい。・・・どちら様ですか?」と声を掛ける。すると玄関の外から声がする。
「ゴブタっす。肉持って来ました」
「あら、入って」
「お邪魔しまーす」
タトラが振り向いて玄関を見ると、ゴブタが右手の袋を顔の横でブラブラさせている。
「牛鹿獲ったんで持って来たっす」
「いつもありがとね」
ビンズはゴブタから荷物を受け取った。
「あれ、タトラさん。ビンズさんの家分かったんすね。よかったよかった」
ゴブタはタトラを見つけて首を伸ばしてそう言った。タトラは椅子に座ったまま「はい」と答えた。
「ビンズさん。明日雨降るっすかねー?」
「明日?降らないわよ。明日は一日中晴れよ」
「あさっては?」
「明後日ねー。明後日夜は降るかもね。そんな気がする」
「そうっすか。俺明日から街道の警備なんすよ。それなら雨合羽いらないっすね。よし。それじゃまた来るっす。・・・タトラさんもそれじゃ」
ゴブタはドアを開けて出て行き、ビンズはもらった肉を冷蔵庫に入れてからテーブルに戻ってきた。
『こういうことか・・・外に出なくても食べていくだけなら困らないと言うわけだ・・・』
タトラはそう思って壁の時計をふと見た。11時半を指している。
「ビンズさん、今日は貴重なお話を伺うことが出来ました。絵も拝見出来てとっても嬉しかったです。ありがとうございました」
タトラはそう言って箱に絵を戻した。
「今日はこれで帰ります。外に出る方法を考えますので、散歩一緒にしましょうね」
「分かったわ。楽しみにしてる。私も嬉しいわ」
「必ずですよ」
そう言ってタトラは玄関に向かうとビンズも車椅子のタイヤを自分で押して玄関まで送りに来てくれた。
「それではまた、必ず来ます」
タトラはドアを開けて頭を下げてドアを閉めた。
ビンズは家の中で手を振ってくれた。
しばらくそのままドアの外で立っていたが、カギが掛る音がしない。
『土間に降りられないから、カギもずーっと開けっ放しなのかも・・・』
そんな事を考えて自分の家に戻る事にした。
14.0 リムルにお願い
月曜は研修報告の為に庁舎に行く事になっている。
タトラは先週と同じ時間に家を出て、庁舎に向かった。
執務室には誰も居ないことは分かっているので、真っ直ぐテラスに出た。
手すりに両手を付いて町を眺めながら、昨日会ったビンズの事を考えていた。
なんとかビンズを町に連れ出して新しい絵を描いてもらいたい。
『方法か・・・』昨日ビンズの家から戻った後もずっと考えていた。
ウメ達にも話したが、車椅子というものが想像出来ないようだった。
方法・・・方法・・・そう考えていると一人のオークが袋を下げて庁舎の敷地に入ってくる姿が見えた。
『そうだ、街道の宿屋を作っているんだ、オークのひとは・・・あのひと達ならビンズさんの家を直せる。きっと』
手すりから乗り出してオークの人を目で追っているとその人は庁舎の中に入って行ったのだろう、三階からでは姿が見えなくなった。
ちょうどそのタイミングで後ろのドアが開く音がする。
タトラは振り向きドアの下の方を見た。スライム姿のリムルがドアから入ってくるところだ。
タトラは会釈して「おはようございます」と挨拶をする。
リムルはピョンと飛び跳ねて人型になると「おはよう。ココに居ると思ったよ」と言ってタトラの横に来た。
リムルはタトラの手を見た。手袋はしていない。
「リムルさん、お願いがあります」
一歩踏み出してタトラは言った。
「おお、なんだ、突然」
リムルは半歩後ずさりして返事をした。
タトラはビンズの車椅子の話しをした。
「あー・・・覚えてるよ。まだ最初の頃だったな。全然町なんてできていない頃だよ。確かに足の悪いゴブリナが居た。すぐに車椅子は作ったんだ。喜んでくれたよ」
「そうです。たぶん、その車椅子のひとです」
「そうか・・・昔はテントみたいな家だったからなー。車椅子でも問題無かったのかもしれないけど、今はかえって生活し辛くなっちゃったか・・・」
「そうなんです。自分では全く外に出られないらしくて・・・で、ですね。あのー・・・街道の宿を作っていたオークの人に・・・住宅を直していただけないかなーと思って・・・ですね」
「なるほどね。リフォームだな」
「リフォーム?」
「そう、住人が使いやすいように家を直すんだ。でもなー、団地だったよな。その人の家」
「団地です。私が住んでる団地。二街区です」
「んー。次に住む人の事を考えるとあんまり自由勝手にリフォームしちゃう訳にはいかないんだけどなー。・・・まあいっか。この世界では引っ越しもそんなにないしな。・・・わかった。リフォームやろう。タトラ、ちょっと付き合え。ゲルドのところ今から行こう」
「え?ゲルド?・・・え?」
「良いから良いから。ついて来な」
リムルはそういうと廊下の方へ歩き出した。
「はいはい」
タトラは素っ頓狂な声で返事をするとリムルの後を追った。
階段を降りて1階の部屋のドアを開けるとオークのひとが近くのテーブルで弁当を食べているところだった。
「よーゲルド。ちょっといいか?飯食い終わってからでいいからさ」
ゲルドは「はい」と返事をし、最後の一口を口に放り込むと弁当を片付けて立ち上がった。
「どうぞこちらへ」そう言ってゲルドはさっきまで弁当を食べていたテーブルの向かいの椅子を引いた。
リムルは椅子に向かって進み、隣の椅子を引いてタトラに手招きをして二人一緒に椅子に座った。
「ゲルド悪いな。急に」
「いいえ、問題ありませんぞ」
ゲルドはそう言って二人の向かいに座った。
「こちらはタトラ。サリオンから来てる研修生だ」
「おー。例の研修生さんですか。ご苦労さんです」
「実はな・・・」
タトラが団地に住んでいること。その団地に車椅子のゴブリナが居ること。その人を外に連れ出してあげたい事をリムルはできるだけ簡潔に話した」
「ほう。・・・それはその都度誰かが運び出せばいいのでは?」
「そうじゃないの。自分でいつでも好きな時に外に出られるようにしてあげたいの」
タトラはそう言って玄関の段差の話をした。
「んんー。なるほど。住宅の構造が問題だということですな」
ゲルドがそう言うとリムルが答える。
「でだな、誰か都合の良い時間でいいから、タトラと一緒に一度そのビンズさんの家を見に行ってくれないか?直せないなら直せないでいいんだ。次の団地の一室を車椅子用に作って、引っ越してもらえば良いからさ。それにしてもどこをどう直すべきか知っておいた方が良いと思うんだよ」
「分かりました。私が行きましょう」
「いいのか?」
「大丈夫です。・・・今日はどうでしょうか?あと1時間もすれば朝の会議も終わりますので私は外出できますが・・・」
タトラが手を横にバタバタと降った。
「ダメですダメです。私この後すぐにお店に行かないといけないから」
「そうですか・・・それでは・・・」
ゲルドがテーブルの横のカレンダーを見ながらそう言うと、リムルがタトラの肩をポンと叩いた。
「俺がコビーに言っておくよ。今日の午前中はちょっとだけ俺の仕事を手伝ってもらうから、それが終わり次第行くってさ。それならいいだろ?」
「はー。いいのかなー」
「大丈夫大丈夫。前にも言っただろ。この町での生活全てが研修だ」
「・・・はい。分かりました」
リムルは「うん」と頷いてから、ゲルドの顔を見た。
「タトラもこれから俺の部屋で研修報告書を書くんだ。終わり次第この部屋に来るようにするよ。それでいいか?」
「はい、分かりました。タトラさん、よろしくお願いします」
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」
タトラは立ち上がって深々とお辞儀をした。
リムルとタトラは二人並んで階段を上った。
タトラは階段を上りながらリムルの顔を見た。
「ありがとうございました。こんなに話が進むとは思っていなくて・・・」
「こちらこそだ。俺はな、みんなが楽しく暮らす町を作りたいんだ。でも目が行き届かない。今回の事も考えてもみなかったよ。今日直す訳じゃないからな。よーく話を聞いてきてくれ。こう言う打ち合わせってさ、本人も気がついていない事とか、ゲルドじゃ気がつかない事とかあるからさ。ビンズさんの言わない事でもタトラが気がついたことがあればドンドン言って欲しい。いいか?」
「OKです。がんばります」
「よし」
そう言ってリムルはにっこりした。
研修報告書を書いて、コビーの店での事を話した。
商品を間違えたことも報告し、「気にするなよ」とリムルに言われた。
シオンが「リムル様いいですね?」と書類の確認をすると、リムルが「それじゃ一階に行って良いぞ」と言った。
タトラは「それでは失礼します」とお辞儀をして部屋を出て一階に向かった。
ドアをノックして部屋に入ると、ゲルドは窓を背にした一番奥のデスクで書類をにらんでいた。
近くに居たゴブリナに要件を言うと、ゲルドに伝えてくれた。
ゲルドは顔を上げてドアの近くに立つタトラを見つけると、立ち上がって風呂敷の荷物を持って歩いてくる。
「それでは行きましょうか。二街区でしたな」
「はい」
タトラは二回りも三回りも大きいゲルドと二人で並んで歩いた。
「ここです」
そう行ってタトラはビンズの部屋のチャイムを鳴らした。しばらくしてビンズの返事の声がした。
「はい。・・・どちら様ですか?」
「タトラです。今お時間いいですか?」
「どうぞ入って」
タトラはドアを開ける。ビンズは昨日と同じように上り框のところで車椅子に座ってこちらを見ている。
「あら。お店じゃないの?」
「はい。ビンズさんの事リムルさんに相談したんです。そうしたら、家を直してくれるって事になって・・・」
「ええ?」
ゲルドが横から顔だけ覗かせて挨拶をした。
「おはようございます。お話を聞かせていただけますかな?」
「まあ、ゲルドさん。久しぶりねー。元気?」
タトラとゲルドは家に入る。
ビンズは「こちらにどうぞ」と椅子を勧めて、昨日と同じように車椅子でキッチンに向かい手を伸ばしてヤカンに水を入れ始めた。
タトラは立ったままゲルドの顔を見る。
ゲルドはその視線に気づいて「ん?」とタトラの顔を見た。
「キッチンも使い勝手が悪いんです。」
タトラは背伸びをしてゲルドの顔の近くで小声でそう言った。
「んー。確かに・・・」
ゲルドはビンズの動きを見ながらそう言った。
タトラとゲルドは椅子に座ってビンズの動きを観察した。
ビンズはお盆を膝の上に置き、作り付けの食器棚から3つの湯飲み茶碗をお盆に載せる。
ゲルドは食器棚の上の方を見るが、手の届かない上の段は何も入っていない。
器用にタイヤを押してテーブルに来るとお盆をテーブルに移して、食器棚に戻り急須を膝に載せてテーブルに来るとお盆に載せた。
ヤカンを片手に持ってタイヤを押してテーブルに来ると急須にお湯を入れた。
「んー」
ゲルドは軽くうなった。
「さあ、お茶をどうぞ」
ビンズはそう行って湯飲み茶碗を二人の前に滑らせるように押してきた。
「いただきます」と二人は言って、一口飲んだ。
「ビンズさん、今現在、外に一人で出られないと言うのは玄関の段差のせいですね?」
ゲルドが尋ねるとビンズが答える。
「うん。まあそう言う事ね。でも段差がなくてもノブを回してドアを押して出るってちょっとできないのよ。私の手の長さだと・・・」
タトラとゲルドは座ったまま振り向いて玄関を見た。
「なるほどですな」
ゲルドはそう言って又ビンズの顔を見て質問を続けた。
「ビンズさん、キッチンはどうですか?野菜や肉を切るときはどうやっているのですか?」
「別に問題ないわよ。まな板をここに置いてここで切るの」
ビンズはそう言ってテーブルを右手の人差し指で指した。
「なるほどですな」
ゲルドはそう言ってお茶を飲むと「他にはなにか使い勝手の悪いところはないか」と聞くが「なにもない」とビンズは答える。
ゲルドはタトラの顔を見るが、タトラも「うーん」と言って返事が出来ない。
キッチン以外の事で気づいている問題はないのだ。
「そうだ、カギを閉められないでいるんです。それも直せれば・・・」
タトラはカギが開けっ放しであることを思いだした。
「わかりました。そういうのです、そういうの。他にあればなんでも言って下さい」
ゲルドは持参したノートにいろいろい書き込んでいる。
そうは言われても他に思いつかない。タトラはビンズに話しかけた。
「ビンズさん、ちょっと家の中をいつもみたいに動いてみてくれませんか」
「動くの?」
ビンズはそう言って、車椅子のタイヤを押して部屋の中を移動し始めた。
隣の部屋に入る際には段差を超えるのに少し勢いを付けている。
トイレに入る時は、トイレのドアの前で車椅子から降り、床に座った状態で後ろ向きに手で床を押して入っていった。
脱衣室に入る際も同じように車椅子から降りて入っていった。
このタイミングでゲルドが椅子から立ち上がり脱衣室に向かった。
タトラも立ち上がり脱衣室に向かう。
足を投げ出して脱衣室で座っているビンズさんがこちらを向いて笑いながら話し始める。
「裸になった方がいいの?」
「いえいえ、そのままで・・・ここで服を脱いで風呂に入るわけですな?」
ゲルドはそう尋ねた。
「そうよ。別に問題無いわよ。・・・そういえば、そこの洗面台は使ってないのよね。届かないからね。だから部屋の修理してもらえるなら持ってっちゃっていいわよ」
「んー。なるほどですな」
ゲルドは振り返って、タトラの顔を見て頷いた。
ビンズは脱衣室から這って部屋に戻ると車椅子に器用に座って、テーブルに戻ってお茶を飲んだ。
二人も椅子に戻るとゲルドが話し始める。
「だいたい直す箇所が分かりました。いつ作業できるか分かりませんが、決まったら連絡します。家の図面は事務所にありますので計測は不要ですが、最後に車椅子の寸法を測っていきます」
そう言ってゲルドはお茶を飲み干して立ち上がり、ビンズの横でひざまずきメジャーで何カ所かの寸歩を測りだした。
タトラも立ち上がりその姿を見ていた。
二人で玄関の外でお辞儀をするとビンズは上り框のところで車椅子に座って手を降ってくれた。
タトラがドアを閉めしばらくそのまま立っている。
「ね」と言ってゲルドの顔を見る。
「カギを閉められないんですよ。きっと。今の作りだと」
「そのようですな」
二人は歩き出した。
「タトラさんにお願いがあるのですが」
「はい」
「作業は一日で終わらせます。その作業日、一日タトラさんの部屋でビンズさんを滞在させていただきたいのですが・・・」
「それは構いませんが・・・私日曜日しか家には居られないのですが・・・」
「それは問題ありませんぞ。われわれもこのリフォーム作業は日曜に行うつもりでいますので」
「そうですか。日曜・・・。分かりました。日にちが決まったら教えて下さい」
「分かりました。・・・それでは私は事務所に戻りますのでここで」
ゲルドは交差点に来たところでタトラにお辞儀をして歩いて行ってしまった。
タトラも左に曲がってコビーの店に向かった。
絵のことも、ビンズの外出のことも、タトラの不安はなくなり1週間大きなミスもせずに仕事をすることができた。
15.0 これが自分
次の日曜日にビンズの家のリフォームが行われることになった。
リフォームの話をウメ達に話すと「ここに連れてきなさい」と菊次郎が言って、結局ビンズはウメたちの家に居る事になった。
ウメは「昼ご飯も夕ご飯も2人も3人も4人も一緒だ」と言い「人数が多い方が楽しいさ」とも言った。
リフォーム当日、朝9時にオークのひとがタトラの部屋のチャイムを鳴らした。
一緒にビンズの家に行くと、ゲルドが一人でビンズの乗った車椅子を持って玄関から後ろ向きで出てくるところだった。
ドアの少し向こうでは別のオークが大きな荷車から大量の荷物を下ろしていた。
「5-1のウメの家に居る事になった」とゲルドに言うと「午後になったら最終的な調整のためにビンズさんを呼びに行くから午前中は家に居なくても良い」との
ことだった。
車椅子のハンドルに両手を掛けているタトラはビンズをのぞき込んで話しかける。
「それじゃあ、今日午前中にちょっと散歩しましょうよ」
「いいわよ」
ビンズが微笑んで答えた。
ウメに散歩に行くことを伝えると、ビンズはまずコビーの店の前に連れて行った。
店にあるビンズの絵が描かれたであろう場所に来ると車椅子を止めた。
「コビーさんに差し上げた絵はここで描いたんですよね?きっと」
「ああ。そうね。・・・実際は家で描いたんだけどね。ほら、私記憶しちゃうから。・・・でも、建物が増えたわねー」
「変わりましたよね。あの絵の頃とは」
「凄いわねー。いつの間にか町が立派になっちゃって」
タトラはしばらく一点透視図法で奥に続く道の絵を思い出しながら風景を眺めていた。
「次どこ行きましょうか?」
「丘に行きたいわ。町が臨める丘」
「はい。行きましょう」
タトラは笑顔で返事をした。
丘に着くと芝生の上でビンズは車椅子から降りて足を投げ出して座った。
タトラもその横で芝生に座ると、ビンズが話し始めた。
「昔、私達はこの辺りでリムル様に会ったらしいの。それがこの町の始まりよ」
「そうですか。立派な町ですよね-」
タトラは綺麗に区画整備されたテンペストの町を眺めながら言った。
「・・・昔は何もなかったのよ。タダの森。大変な暮らしだったわー。へへへ。私は絵を描いて、天気予報してただけだけどね」
「それでも皆の為になっていたんですから、立派なお仕事ですよ」
「そうかねー」
そう言ってビンズは自分の足をさすった。
その様子を見ていたタトラが話す。
「・・・そういえば、私思ったんですけど、コビーさんのお店で回復薬を売ってるんです。フルポーションとか言うヤツだと、事故とかで無くなっちゃった手足も再生するって。リムルさんに頼んでそれ掛けたら足直るんじゃないでしょうか?」
「ふふふ。みんな同じ事考えるのね。実はねリムル様と初めて会ったときにね、リムル様もそう言って私の足にその薬を掛けたのよ。でも直らなかったの」
「そうなんですか・・・」
「あの薬は『元に戻る』ってことなんでしょ?たぶん。・・・私はね、生まれたときからこの足なの。だから、直すも直さないも、コレが私なのよ。何かが足りないわけでも何かがおかしいわけでもなくてね。・・・そんな事言っても、以前はなんで私だけこんな体なの・・・って思ってたけどね。あの薬を掛けて直らないっていうのが、なんて言うのかなー、あーこれは欠けているんじゃない、これが私なんだってね」
「・・・・・」
タトラはビンズの顔をぼーっと見ている。
「ほら、あれ」
ビンズが空を見て、正面の山の上を指さした。
タトラも正面の空を見た。
青空の中、ひとりのドラゴニュートが音も無く右から左へと飛んでいた。
「ハネがあって、空を飛べるひとからみたら、私達は空を飛べない何かが欠けてるひとかもしれないわね。でもゴブリンでハネが生えてる人なんて居ないわ。だからハネがあればいいのに・・・なんて誰も思わない。もし世の中のゴブリン全てが歩けなかったら、私は何で歩けないんだろう・・なんて思わないわ。きっと。・・・ひとと比べるなんて意味がないのよ。大きい小さい、細い太い。歩ける歩けない・・・。コレが私なの」
「・・・ビンズさん。・・・・私・・・・」
タトラは手袋をしていない自分の両手を見つめた。
「ん?」
「・・・私。・・・私、父がゴブリンなんです」
「そう」
「母がエルフ族なんです。だから顔がこれで・・・。私、体が緑なんです」
タトラは右手を自分の頬にペタリと付けて言った。
「そう」
「そう・・・。それだけの事なんです」
タトラの目から涙がこぼれた。
ビンズはタトラのそんな姿を見つめていた。
「・・・それがあなたは辛かったのね」
タトラの涙は止らなくなった。
「・・・いいのよ。誰も居ないわ。思いっきり泣いちゃいなさい」
タトラはビンズに抱きついてワンワンと泣いた。
どれほどの時間泣いたのか分からない。しばらくしてタトラは落ち着きビンズに謝った。
「ごめんなさい。ビンズさんを散歩に連れてきたかっただけなのに、こんな・・・」
「いいのよ。こんな私でよかったらいつでも」
「・・・私、友達を刺しちゃったんです。ナイフで」
「まあ」
「彼だけは私を理解してくれてると思ったんだけど、それを裏切られたと思ったんです。・・・それでも、時間が解決してくれた。・・・それなのに、時間が経ったのに、また裏切られたと思ってしまった・・・なにがなんだか分からなくなっちゃって・・・」
「そう。そんな事があったの・・・」
「私は許されないことをしてしまった。それを何らかの力でなかったことにしてしまったの。・・・それは許されない・・・」
「自分だけを責めちゃダメよ。時間はあるのだから」
「そうよ。私は国に戻って警察に行かなきゃ」
「待って待って。その前にその彼に謝りに行かなきゃ」
「・・・そうね。それが先ね」
「それに、その前に今の研修をちゃんとやり遂げること。今のあなたが集中する事は研修よ」
「・・・そうね。それが先ね。・・・ちゃんと研修を終わらせてからね・・・」
「ほら」
そう言ってビンズは芝生に倒れて両手を広げた。
「空が青いは。こんなに世界は広いのよ。ゆっくりでいいのよ。ゆっくり生きましょう」
タトラは空を見上げた。綺麗な青空が広がっている。タトラも芝生に倒れて両手を広げてみた。空はどれだけ広いのだろうと感じた。
ゆっくり深呼吸をした。
芝生の良い香りと共に澄んだ空気が体の中に入るのを感じる。
しばらく二人はそのまま寝転がっていた。
タトラは車椅子のハンドルを両手で押している。
「ゆっくり生きましょう。いろいろな事があるけど、きっとたいした問題ではないのよ」
ビンズが前を向いたままそう言った。
「はい。たいした問題ではないんです。きっと」
タトラも前を向いたまま答えた。
八百屋で野菜を買い、パン屋で二人であれこれ言いながら美味しそうなパンを買った。
店を出るとビンズが言った。
「お昼はウメさん達とこのパンを食べましょう」
「はい。そうしましょう」
「・・・タトラさん。ちょっとそこに立ってみて」
「え?」
「そこ、そのまま」
ビンズは自分で車椅子のタイヤを押してちょっと移動し、くるりとタトラの方にむき直した。
「うん。あなた美人ね」
「ええ?なに言ってるんですか?」
タトラは吹き出して笑った。
ビンズは自分でタイヤを押してタトラの所に戻ると、「さあ行きましょう」と言って微笑んだ。
ウメの家に着くと中から菊次郎を呼んで、二人で車椅子を前後から持って家の中に入った。
お昼ご飯の少し前に戻れたので、ウメはまだ食事の準備はしていなかった。
買ってきたパンの袋を見せながら「お昼はパンにしましょう」とタトラが言うと「それじゃ目玉焼きとスープでもつくろうか」とウメが言った。
ビンズはテーブルで菊次郎と向かい合って話をしている。
ウメとタトラはキッチンでおしゃべりしながら料理をした。
午後は菊次郎とウメが庭の手入れを初めた。それをビンズとタトラは部屋の中から眺めながらおしゃべりをしていた。
時々オークのひとがビンズに話を聞きに来る。
何度目かの時「ちょっと見てもらいたいのですが」とオークの人が言ってきた。
「いいわよ」とビンズが言うと、オークのひとは一人で軽々と車椅子を玄関から外に出し、車椅子を押していく。タトラも後を付いていった。
玄関は引き戸に変わっていた。
道から玄関まではスロープがある。
「ご自分で車椅子を移動させてみてくれますか?」
「ん?」とビンズは振り向いてオークの顔を見ると「やってみる」と言ってスロープを上がってみせた。
「大丈夫そうですね。坂はキツくないですか?」
オークが尋ねる。
「問題無いわよ」
ビンズが答えると「そのまま引き戸を開けて入ってみて下さい」とオークが言った。
ビンズは車椅子のまま引き戸を開けて家の中に入って行った。
「ビンズさん。そのまま振り向いてドアを閉められますか?」
オークが尋ねる。
「そのまま?」
ビンズはそう言って車椅子をくるっと半回転させてこちらにむき直しドアを閉めた。カギもガチャガチャと開け閉めしてみせた。
ドアが開きビンズは笑顔で言った。
「凄いわ。初めてカギ閉めた」
タトラはドアを開けて家の中を見た。団地の土間は広さはそのままだ。土間からの上り框は5mm程の高さに変わっていた。
『え?どうやって床を下げたの?・・・土間を上げたの?』タトラは土間と部屋と玄関ドアを何回も見た。
「そこの段差はどうですか?」
オークは腕を車椅子の横で前に出して、上り框を指さした。
ビンズは自分で車椅子を動かして乗り越えて見せた。
「問題ないですよ」
「そうですか?大丈夫ですか?ちょっと議論したんですよ。ゼロでも良いんだけど、砂埃が部屋に入らないように少しはあった方がいいのでは・・・と」
「いいんじゃないですかね、この段差は別に問題ないですよ」
ビンズはそう言った。
オークは車椅子を少し押して広い場所で車椅子を追い越した。
「まだ完成はしていないんですが、高さとか確認して下さい。こちら」
オークはそう言ってキッチンに向かって歩いた。
ビンズは自分で車椅子を移動させてキッチンに行くと、作業していたゲルドが話し始めた。
「ビンズさん。車椅子のタイヤを調理台の下まで入れることができます。どうですか?高さとか、蛇口の位置とか」
ビンズは車椅子のままキッチンの調理台の下に足を入れた。
「いやーこれはいいわね。これなら、ここで料理できるじゃないの。ゲルドさん、さっすがー」
ビンズはそう言って蛇口に手を伸ばしたり、ガス台にヤカンを載せる手振りをしてみた。
「OKですな」
ゲルドはそう言って、「それでは次はこちらに」と言ってトイレの方に歩いた。
トイレのドアと脱衣室のドアがあったところには1枚の引き戸があり、「ここを開けてみて下さい」とゲルドが言う。
ビンズが開けてみると中にはトイレと洗面台がある。
「ビンズさん、一人暮らしですからこういうのはどうかなと思いまして」
車椅子のまま便器の横まで行く事が出来る。便器の横には横向きと縦向きの手すりがある。
ビンズは自分で脱衣室に入り、手すりにつかまって便器に座って見せた。
脱衣室と共有のスペースになったので広いから車椅子でも不自由はなさそうだ。
「OKですな。洗面台も下に車椅子が入ります。使えると思います。・・・あとは仕上げをして行きますので、もう少しお待ち下さい」
ゲルドはそう言って、ビンズの車椅子を押して外に出ると、スロープを降りウメの家の前まで進んだ。
タトラがウメの家のドアを開けると、ゲルドが一人でひょいとビンズの車椅子を持って家の中まで運んでくれた。
菊次郎と二人で車椅子に乗ったビンズを家の中に入れることは大変だった。
スロープがあるだけでこの苦労がないのはなんて有り難い事だとタトラは感じた。
その後ももう一度オークに呼ばれてビンズとタトラはリフォーム中の家に行った。
食器棚の使い方や食料の置き場所などを聞かれた。
今度はタトラが車椅子を押してウメの家まで戻った。
ドアを開けて菊次郎を呼ぶと、菊次郎とタトラの二人で車椅子を家に入れる。
『どうせなら、全ての家にスロープが付いてればいいのに・・・』
タトラは車椅子に乗ったビンズを運びながらそんなことを考えていた。
「夕食はコロッケを作ろう」とウメが言い、タトラと二人で料理を始めた。
菊次郎はその後ろで樽に白菜を入れて新しいキムチを作り始めた。
夕食はコロッケとキャベツの付け合わせ。冷や奴とナスの味噌汁。
菊次郎が樽のキムチを小鉢に移してテーブルに4つ置きながら言った。
「俺はキムチが好きじゃ」
「なんか私だけご馳走になってばかりで申し訳ないわね」
ビンズがそういうと「いいのよいいのよ、お互い様よ」とウメが言う。
四人で食事を始めた。夕食ではウメが庭に植えた花の話をした。
いつ頃花が咲くとか、水はどのくらいやるのだろうか・・・など話は止らないようだ。
ビンズは町の景色が大きく変わっていて驚いたと話し、丘から見た町が大きく広がっていることも嬉しいと語った。
タトラが号泣したことは話さないでいてくれた。
食事が終わってウメとタトラで食器を洗っているとチャイムがなった。
菊次郎が出るとゲルドが「終わりました」と言う。菊次郎が振り向いて「終わったってよー」と叫ぶと、車椅子を自分で押してビンズが玄関まで来て言った。
「ゲルドさんありがとうね。こんな遅くまで」
「いえ、まずは確認してもらえますか?」
「はいはい」
ゲルドが一人で車椅子をひょいっと持ち上げてビンズを外に出す。
タトラとウメも玄関に来て外に出たウメがビンズに話し掛ける。
「ビンズさん、私らも見に行っていいかな」
「いいわよ。一緒に見ましょ」
ビンズがそう答えた。
タトラがビンズの車椅子を押して、ゲルドとウメ・菊次郎がその後ろを歩いた。
リフォームが終わった新しい家だ。四軒長屋の見慣れた団地ではあるが、玄関だけが綺麗な白木の引き戸になっている。
「おーー」
ウメと菊次郎が同時に声を上げた。
玄関の前はスロープになっている。
「ビンズさんもう一度ここからお一人で家に入ってみてもらえますか?これが新しいカギです」
そういってゲルドがビンズにカギを渡した。
「なんだかドキドキするわね。お引っ越ししたみたい」
笑顔でカギを受け取ったビンズはそう言って一人でスロープを上がり、カギを鍵穴に差し込み引き戸を開けて家に入りドアを閉めた。
ドアから「ガチャリ」と音がして、「カギ閉めたよー」と中から声がした。
タトラは胸の前でぱちぱちと拍手をした。
皆で家の中に入ると家の中はいろいろなところで白木の引き戸や食器棚に変わっている。
「キッチンとトイレ・風呂は先程みていただいた通りです。これが新しく作った食器棚ですが、ここを引っ張ると、これが降りてきて手元で取り出すことができます。ちょっと使ってみてもらえますか?」
ゲルドは食器棚の横に付いているバーを下に引っ張ると上にある三段程度の食器棚が下に降りてきた。
「おーー」
ウメと菊次郎がまた同時に声を上げた。
タトラは口をポカンと開けてただただ驚いた。
「どれどれ」と車椅子に座ったビンズがバーを上げるとさっき降りてきた棚が軽々と上に上がり、裏側に隠れた棚からも食器が取れる。
引っ張ると、さっきと同じように三段の棚が下がってきた。
「力要らないわね。ゲルドさんがやってるから怪力じゃないとできないかと思ったわ。ふふふ」
ビンズは笑った。
「大丈夫そうですな。一応、これで今日の全ての作業は終了ですが、使ってみて改良の必要があれば言って下さい。タトラさん、いいですかな?もし何かあれば研修報告の時、私の執務室に来て言って下さい」
ゲルドがそう言い、タトラも「はい、わかりました」と言った。
「改良だなんて、これで十分よ。なにも不便ないわよ。ゲルドさんありがとうね。いっつも皆の為に働いてくれてね。ゲルドさん、大好き」
ビンズがそういうとゲルドは頭に手をやって、顔を赤くしてから話し始める。
「そう言っていただけるとこちらこそ嬉しいです・・・。でも改良が必要な箇所についてはホントに遠慮無く言って下さい。この経験はテンペストの財産ですからな。次からは最初からそのようなものを作れます。ひょっとしたら観光客にも同じようなひとが居るかもしれない。今まで宿屋などを作る際にそのような対応をしたことがありませんでした。リムル様にもお伝えして検討事項にすべきと考えているところです」
「わかったわ。なにかあればタトラさんに言います。ホントにありがと」
「それでは私は事務所に戻りますので」
そう言ってゲルドは頭を下げ、他の二人のオークと一緒に部屋を出た。
真新しい部屋に残ったウメと菊次郎とタトラとビンズ。
各々部屋を見まわしている。
「なんか良いわねー新しくなった部屋って」
ウメがそう言うと菊次郎が続けた。
「目新しさだけじゃダメだぞ。あんたがホントに暮らしやすいかどうかだ」
そう言ってビンズの顔をのぞき込んだ。
「そうよね。だけどここまでしてもらえただけでも、有り難いわ。リムル様はホントに心がお優しいひとなのよ」
ビンズがそう言って、タトラの顔を見た。
「あなたのお陰よ。行動力のお陰。これで明日から外に買い物に行けるわ。ありがとね」
「いえ・・・お互い様ですよ」
タトラはつい、ウメの口癖を言っていた。
・・・・・
コビーの店での研修は順調に進んでいる。
店内での顧客対応だけではなく、翌日以降に受け取りに来る客の荷物をスタッフルームで荷造りをする日もあった。
この作業はサクラやスミレの書いた伝票を見て商品をピックアップする。
二人それぞれ字にクセがあり、間違わないように気を付けて作業した。
スタッフルームでの作業が3週間経った土曜の夕方、両手を挙げて背伸びをしながらサクラがスタッフルームに戻ってきた。
「さあ、帰ろうかな」
「お疲れ様です」
「あなたも終わりでしょ?」
「はい」
「そういえばさっき荷物取りに来たスズキさんのペンダントって、赤と黒在庫あったの?店の棚に赤1個しかなかったけど」
「ありますよ。・・・え?青と黒でしょ?」
タトラはそう言って、コビーのデスクの上の出荷済の伝票からスズキさんの伝票を探した。
「どうした?」
コビーが聞いてきた。
「私、また間違えたかもしれない・・・」
数枚めくるとスズキさんの伝票があった。明細の5段目と6段目のペンダントを見ると「アオ 1個」「クロ 1個」と書いてある。
伝票をサクラに見せて、「ほら、青と黒でしょ?」と尋ねると「えーー」とサクラが言う。
「これアカよー。『カーー』いやだー私、字ぃ汚いから『オ』に見えちゃったのー?」
「えーどうしよう・・・」
タトラはつぶやいた。
「仕方ないよ・・・サクラ君は字をきれいに書いてね、ひとが見る伝票なんだから」
コビーが言うとサクラが謝った。
「ごめんなさーい」
「仕方ないよ。次来店したときによーく謝っておいてね」
コビーが言う。
「はーい」
サクラが返事をした。
タトラはコビーに向かって言う。
「コビーさん、私追いかけます。まだ間に合いますよ」
「今から行くのか?」
「私足早いんです。大丈夫です。スズキさん夕方の受け取りって今からどこ行くんですかね?」
「街道の入り口で別の商人と商談するんですって」
「それじゃ、ドワルゴン方向に行けばいますよね。まだ商談してなければいいけど」
そう言うとロッカールームから自分のカバンを持って来て、赤のペンダントを梱包して入れた。
「それじゃ、そのまま直帰でいいよ。もうタトラさんの終業時間だし。追いつけなかったらそれでいいからね」
「分かりました」
タトラはそう言ってエプロンを脱いでサクラに渡した。
タトラは地図を見なくても街道への道は分かる。
この数週間地図を片手にいろいろな場所を見に行っていたからだ。
タトラは走った。左手でカバンを押さえて商品が傷付かないように注意しながら走った。
道には商店などがなくなり、周囲は畑が広がっている。
小さな橋をスズキさんが渡っている後ろ姿が見えた。『あれだ』
「スズキさーん」
少し先を歩いているひとが止って振り返った。
『スズキさんだ』タトラは手を振った。
スズキさんは橋の上で立ち止まって待っている。
「なに?あなたコビーさんの所のひとね」
「はー。はー。はいー。はー・・・」
「どうしたの?」
「スズキさん、ごめんなさい。商品の色を間違えて入れちゃいました」
タトラはそう言ってカバンから赤のペンダントを取り出し梱包を解いてスズキさんに見せる。
「あら?そうなの?」
スズキも荷物を地面に置いてヒモを解き、中から同じように梱包されたものを二つ取りだして箱の上に置いた。
片方を開けると黒のペンダントが出てきた。
もう一方を開けると青いペンダントだ。
「はー。これです。すみませんでした。交換いたします」
「あら、ありがとう。あなた走ってきたの?」
「はいー。はー」
「悪いわね。でも助かったは。色指定でなにか良い物って言われていたのよ。双子のお子さんへのプレゼントなんですって。色違いじゃ黒も引き取ってくれなかったかもだもんね。ありがとう。わざわざ」
「はー。いえー、とんでもない。今後は気を付けますので、またのお越しをお待ちしています」
タトラはそう言って最敬礼した。
スズキは受け取った赤のペンダントを箱に入れて元通りにヒモで結んだ。
タトラの肩をポンと叩いて「じゃあね」と言ってまた歩き出した。
「ふーーー」タトラは大きく息を吐いて額の汗を手でぬぐい、青いペンダントをカバンに押し込んだ。
『暑いー』回りを見回したが、周囲に誰もいない。
タトラはカバンを地面に置き、着ていた長袖シャツのボタンを上から順番に外した。
長袖シャツを脱ぐとタトラの上半身は白いタンクトップ姿になった。
首からグラデーションを付けたように徐々に緑の色に変わり、肩の辺りからは綺麗なエメラルドグリーンに変わる。透き通った様に綺麗な肌。
細身の腕と胸元も綺麗なエメラルドグリーンだ。
小さな橋だが道幅が広いので欄干がなければ橋とは気がつかない程度の長さの橋だ。
タトラは橋の欄干に脱いだシャツを載せてからしゃがみ込む。
地面に置いていたカバンを開けて中からタオルを出すと顔をごしごしと拭いて、地面に座り込んだ。
「疲れたー」
大きな声で息を吐きながらタトラは言った。
『・・・でもよかった。間に合って良かったー』タトラは立ち上がり、カバンを肩に掛けると欄干のシャツを取ろうと置いた場所を見た。
『ない!』辺りの地面を見るがどこにもない。
タトラは橋から川をのぞき込んだ。それ程広くはない小川だがサラサラと流れている。
少し先に大きな木が川に被さるように立っている。
枝の先が川に入っていて、そこにタトラのシャツが引っかかっている。
「えー」タトラは橋を渡って、川岸に降りていく。木の近くまで行くが、シャツには届かない。
カバンを置いて、そばにあった木の棒を持った。棒で引っかけようとするが届かない。
『流されてしまう前に取らなければ』タトラは木に登り川に垂れている枝に足を掛けた。
その時「ボキッ・・ボキン」と足元の太い枝が折れた。
「あ!」
シャツが流されていく。タトラはとっさに右足を川に入れて、シャツをつかんだ。
「ああ!」
タトラは倒れて川に落ちた。
川は浅かった。足はすねから下、両手はひじまでが川の中に入って、四つん這いの状態で静止した。
「さらさら、さらさら・・・」川は静かに流れている。
『浅いのなら、クツ脱いで素直に入ったのに・・・』そんなこと思っても今更仕方がない。ズボンもタンクトップもビショビショに濡れてしまった。
川の中で四つん這いの状態でいると声が聞こえた。
「あなた、何やってるの!」
タトラが橋を見ると二人のひとがこちらを見ている。
「ダイジョブー?」
そう言うと二人が川岸に降りてこちらに来る。
タトラは立ち上がり、転ばないようにゆっくり川から岸に上がった。
「大丈夫ですか?あら?タトラさん」
タトラが顔を上げると執務室で毎週月曜に会うシュナの顔がある。
シュナは野菜の載せられた籠を両手で持っている。
「あ、シュナさん・・・シャツが流されちゃって・・・」
タトラは水が滴るシャツを右手につかんだまま答えると、隣にいたゴブリナが話しかけてきた。
「あらシュナ様、お知り合いですか?・・・いやーびっしょりじゃないの」
シュナは野菜の載った籠を地面に置いて、ゴブリナとタトラに説明をする。
「こちらはタトラさん。サリオンから来た研修生の。・・・こちらは生産部門のトップでリリナさんよ」
「あら、あなたがタトラちゃん。いやー。面影があるわ。私の事覚えてる?」
タトラはリリナの顔を見る。見覚えはない。
「いやー、ごめんなさい。・・・えーと、どこでお会いしたんでしたっけ?」
「覚えてないわよね。あなた赤ちゃんだったんだからね」
「え・・・」
川岸でシュナとリリナがタオルでタトラの体を拭いている。
「ズボンとタンクトップ脱ぐわけにいかないもんね。風邪ひいちゃうわよ」
リリナがそう言うとタトラが答える。
「あのー。上に羽織るものかなにかあれば・・・」
「そんなことしてるより、早く温泉行きましょう。暖まればそれでOkよ」
「・・・いえ・・・私体が・・・」
そう言ってタトラは両手で体を隠すように自分を抱きしめる形になった。
「体ってなによ。・・・あなた綺麗な肌ねー。透き通ってるみたい」
「透き通ってる?」
タトラは自分の両手を開いて見た。
「やっぱ、化粧水?乳液?ボディークリーム何使ってるの?何?秘訣はなに?」
「え・・・秘訣って。別になにも・・・」
「良いわねー。私なんてだんだんくすんで来ちゃったわよ」
そう言ってリリナは自分の左の腕をさすった。
「いいわよ、そんなこと。それよりこんな時間だから仕事終わったんでしょ?温泉行きましょう。暖まらなくちゃ。さあ行こ」
リリナはタトラの背中を押した。
「私タトラさんの着替え持って温泉に行きますね」
シュナはそう言うと、街道に戻って三人並んで歩き始めた。
『このまま肌を露出して町を歩いていいのか・・・』タトラはそんな事を考えながらリリナに腕を組まれたまま歩いた。
16.0 温泉デビュー
石組みの露天の大浴場、泡がブクブク沸いている。
「プハー・・・なに、私が一番?」
リリナの顔がお湯から飛び出してそう言う。
「ワー、ハーハー・・・えー私2番ですかー?」
シオンが顔を出して言った。
「プハー・・・」
「プハー・・・」
シュナに続いてタトラが顔を出して言う。
「おしいー、タトラさんに負けちゃったー」
タトラはお湯から右腕を出してガッツポーズをしている。
シオンがお湯の中で立ち上がりタトラの前で仁王立ちになった。
「タトラさん、今度は私と一騎打ちですよ」
「えー私もういいですー。疲れちゃった」
「勝ち逃げはダメですよ。勝負です」
隣でお湯から顔だけ出しているシュナがシオンに言う。
「シオン、ダメですよ。本当は遊んじゃダメなんですからね」
「えー、でもー」
シオンは不満そうにその場で立っている。
タトラはそんなシオンの顔を見て言う。
「シオンさん、赤ちゃん何ヶ月ですか?」
「ええ?何を言うんですか?私は独身です。子供もいませんー」
シオンが腕を組んでタトラに言った。
「でも、胸がやたらデカイから・・・授乳中なのかなと思って」
「そんなわけないでしょ。独身。・・・エヘン。お胸が大きいことは良いことなのですよ。世の殿方は大きいのが好きらしいですしね」
シオンは両手を腰に当てて満面の笑顔で答えた。
「え?そんな価値観サリオンにはないですよ」
「えー。そうなんですかー。万国共通の価値観じゃないんですかー」
仁王立ちしているシオンにシュナが答える。
「ほらね。大きけりゃいいってもんじゃないんですよ。そのうち垂れるってミリム様も言ってましたしね」
「私は垂れません。鍛えてますから」
そう言ってシオンは胸の前で左右の手の平を合わせてギューっと力を入れた。
「私は垂れませんよー」
そう言いながら手の平を合わせたままシオンは浴槽の奥の方に歩いて行った。
シュナがタトラに話しかける。
「温泉って気持ちいいでしょ?」
タトラが答える。
「そうですね。初めてテンペストに来た時エレンに誘われたんだけど、断っちゃったんですよね」
「そうだったんだ。・・・裸の付き合いって言うんですって。リムル様に教わりました。何も飾らず、何も隠さず、本音で話が出来る関係でありたいってね」
「ふーん。本音で話が出来る・・・か・・・」
タトラはふっとロメッシュやハプラーの事を思い出した。
「だからね、私達とかリムル様にも本音で話して下さいね。何も隠さずにね」
「隠さずか・・・。分かりました」
タトラがそう言うと、シュナは「シオンー」と言ってお湯の中から顔だけ出したまま移動し始めた。
「いやー暑いー」
リリナがお湯の中で立ち上がり浴槽の縁に座った。
タトラも真似をして横に座った。
「リリナさん、私のこといつから知ってるんですか?」
「あなたのご両親は商人をしていたでしょ?それは知ってる?」
「はい」
「私達の村に来た時はね、私の家に泊めてあげてたの。家って言っても、あの頃の私達の家は貧相なものだったけどね。テントよりはいいと思ってね。あるときヘブミューラーさんが赤ちゃんを連れてきたのよ。それがあなた」
「ふーん」
「私、あなたのおしめも代えた事あるのよー」
「え。そうなんですか?・・・それはどうも、その節は・・・お世話になりました」
タトラはぺこぺこお辞儀をした。
「こんなに大きくなっちゃってねー」
リリナはそう言ってタトラの肩をなでた。
「カルマンさんは残念だったわ。魔物は仕方ないわよね。ヘブミューラーさんがご無事でなによりだったわ」
「私、あるときからサリオンに置いて行かれるようになったんです。だから旅をしていた頃の記憶がなくって・・・」
「小っちゃかったもんね。まだ。・・・学校に通うために連れてくるのは止めたってヘブミューラーさん言ってたわよ」
「そう言う理由なのか・・・私が邪魔になったの?的な思いでいました」
タトラはお湯につかっている足を動かしてお湯をチャプチャプとさせた。
「そんなわけないじゃない。それに森は危ないしね。カルマンさんの事もあったし・・・あなたのご両親には本当にお世話になったわ。でもリムル様が現われたでしょ。暮らしは良くなったしね。町に居て分かるでしょ?衣食住の不安はなくなったし」
「そうみたいですね。母の仕事は終わったって言ってました」
「まあ、そうかもね。貧しい私達みたいな種族を助けてくれていたんだもの。でもそう言うボランティア的な仕事ばかりじゃなくて、今のテンペストならヘブミューラーさんもやりがいを持てる仕事がいくらでもあると思うけどね」
「仕事かー。テンペストで仕事をするのも良いかもしれないなー」
「そうよ。テンペストに引っ越してきなさい。ヘブミューラーさん連れて」
「お母様か・・・そう言う手もあるんだなー」
タトラは首を後ろに曲げて空を見あげた。
「・・・月だ」
「ん?」
リリナも空を見上げてから両手を後ろについてそのまま空を見ている。
空には大きな青い満月が、自分の存在など人々の暮らしとは無関係だと言わんばかりに堂々と輝いている。
リリナがぽつりと言った。
「・・・サリオンから見る月も、テンペストから見る月も、同じ月よ」
タトラも真似をして両手を後ろについてリリナの顔を見た。
「どういう意味?」
「別に深い意味はないわ」
二人でボーッと月を眺めた。
その日はシュナが用意してくれた半袖のTシャツとジャンパースカートを着て団地に帰った。
スカートはひざ丈で生足が見えている。Tシャツからは緑色の腕、ラウンドネックの首元も緑の肌が見えている。
タトラはリリナ達と温泉で過ごしたことで、自分の肌を必至に隠していた事をむしろ恥ずかしく感じていた。
「洋服は差し上げます」とシュナに言われた。週明けからはこの服を着て店に行こうかと考えていた。
17.0 宿題提出
週明けの月曜、研修報告を終えてコビーの店に行くとスタッフルームにコビーが居た。
デスクに座って何かを書いていたが、タトラが部屋に入ると顔を上げた。
「タトラさん、おはよう」
「おはようございます」
「今週から又接客に戻ってくれるかな」
「はい」
「それでだ。宿題を出します。私は二週間出張に出る事になったので、その間に考えて下さい」
「え?宿題?」
「宿題はですね、・・・今まで一ヶ月以上この店に居たと思うんだけど、なにか企画を考えて下さい」
コビーは右手の指を一本ずつ揚げて話を続ける
「商売はね、1、販売単価を上げること。2、販売数量を増やすこと。3、経費を低くすること。基本的にはこの三つを意識して下さい」
「はい・・・」
タトラは首をひねった。
「でも新人さんのあなたに出来る事は限られていますよね。そこでです、販売数量を増やす事を考えてもらいます」
「販売数量ですか?えーとー・・・お客さんに『もう一個買いませんか?』って聞くとか?」
「ははは。それはひょっとしたら一個二個は多く売れるかもしれませんがね。それは販売員なら誰でも出来る事です。そうじゃなくてお客さんが多く来るなにかアイデアを考えて下さい。お客さんの数を増やす事。リピート客を増やす事。お客さんが増えれば販売数量が増える事になります」
「お客さんの数を増やす・・・んー。難しいですね。全然思いつかない」
「今すぐに答えがでなくていいんです。まずは二週間後の宿題提出としましょう。・・・例えばね、店内で演奏会をやるとかね、いろいろ方法はあると思いますよ」
「演奏会か・・・」
「演奏会はもうダメですよ。私が言っちゃいましたからね」
「分かりました。考えてみます」
タトラはコビーの後ろの壁に貼付けてあるビンズが書いた絵を見てから、ロッカールームに歩いた。
タトラは接客の合間にサクラに相談をした。
「ああ・・・私も以前にそんな事言われたけど、思いつかなかったなー」
「同じ宿題をだされたのですか?」
「うん。そんな内容だったと思うけどね。宿題とはいわれてないけど、なんかアイデアがあったら言ってくれって・・・あ、いらっしゃいませ」
サクラはそう言って、店に入って来た客に向かって歩いて行った。
『お客さんは買い物だけの為に来るのかな・・・店内をブラブラ歩いているのはなにか良い物がないかなって探しているのか・・・何も買わずに出て行くひともいる・・・』
客はサクラを連れて店内を歩いていろいろな商品を手にとっている。タトラは少し離れたところからその光景を眺めていた。
仕事が終わりウメの家に帰ると、壁に絵が貼られている。
「これどうしたの?」
「ビンズさんがくれたのよ」
ウメは絵の前に行き答えた。
「ビンズさんが?」
タトラも絵の前まで行ってウメの横に並んで眺めた。
絵にはウメとタトラの後ろ姿が描かれている。キッチンに立ちそれぞれの顔を見て笑っている横顔が見える。
その手前では菊次郎が樽に白菜を入れている。
『この前、ビンズさんがこの家に来たときの一瞬だ。記憶してるんだ』
タトラは口をポカンと開けて感心していた。
横を向いてキッチンを見ると雑然と置かれている調理器具が絵と全く同じ位置にある。
雑然と置かれているように見えて、この配置がウメにとっては使いやすい配置なのだろう。全く同じ位置だ。
「ビンズさんがちょっと前に来てね、この前のご飯の御礼だって言ってくれたのよ。絵なんて飾るようなガラじゃないんだけどさ、三人が描かれてるからなんか嬉しいじゃないの」
ウメが絵を見ながらそう言ってキッチンに向かった。
「ビンズさんの絵っていいよねー。私大好きよ」
タトラはそう答えて壁に貼られた絵を少し見てからカバンを床に置いた。
翌日の朝、コビーの店に着くとコビーは不在だ。『出張に行くって言ってたもんな』
タトラはエプロンを付けると、店に出る前にコビーのデスクの前まで行きビンズの絵を眺めた。
『・・・好きだなー』サリオンで自分はこの絵に救われていたんだ・・・と思った。
コビーは二週間出張に行くと言っていた。毎日コビーの机の前でビンズの絵を眺めた。
日曜日の昼、タトラはご飯にスパゲティーを食べようと寸胴鍋にお湯を沸かし始めた。
「ピンポーン」チャイムが鳴った。
「はーい」カギを開けてドアを開けると、車椅子に乗ったビンズが居る。
「タトラさん、ご飯中?」
「いえ、まだです。お湯沸かし始めたところ」
「そう。これあげる」
ビンズはそう言うと膝の上に置いてある布をタトラに差し出した。
「あーありがとう」
タトラは受け取ったものが布ではなく、何かの皮であることに気がついてコレは『絵』だとピンときた。
すぐに広げてみるとそこには町の中で笑っているタトラが描かれている。
「えー・・・私ー?」
「そうよ。あなた美人だからね。描きたくなっちゃったの。リフォームの御礼よ」
「えーうれしー。もらっちゃっていいんですかー?」
「勿論よ。あなたにあげるために描いたんだから」
「うれしー」
タトラはずーと自分が描かれている絵を眺めていた。
「・・・それじゃあね」
タトラが絵を見たまま黙っているのでビンズが帰ろうとしている。
「ああ、あ、待って待って、ビンズさん、スパゲティ一緒に食べましょう」
「ありがとう、でもあなたの家には車椅子じゃ入れないわ」
「ああ、そうか。それじゃ、私鍋持って行くからビンズさんの家で食べましょう」
「そう?わかった。私先に帰ってていいの?」
「うん。すぐに行くから」
そう言ってビンズは車椅子のタイヤを自分で押して去って行った。
タトラはドアを開けたまま部屋に戻り、もらった絵をテーブルの上に置くとカバンを肩に掛け、キッチンでスパゲティの乾麺をカバンに入れた。
ウメからもらったトマトソースの入った容器を冷蔵庫から出してカバンに入れると、ボコボコとお湯が沸いている鍋の火を止めてから蓋をして、両手で持って家を出た。
ビンズの家に着くとお尻で引き戸を開けて家の中に入った。ビンズはヤカンを火に掛けているところだった。
「あらやだ、鍋持って来たの?」
そう言ってビンズは笑った。
「ヘヘ・・・せっかくお湯沸いてたから、もったいないでしょ」
寸胴鍋をコンロに載せて火を付けると、隣のヤカンからお湯を足し入れる。
ビンズの家には時々来ていたので、調理器具や調味料の置き場所をタトラは分かっている。
引き出しを開けて塩を鍋に入れてから、カバンを低い調理台の上に置いて、トマトソースの容器とスパゲティの乾麺を出す。
ソースを小鍋に移して火に掛けると、寸胴鍋も沸騰したようなので乾麺を鍋に入れた。
食器棚から手頃な皿を出して少しするとキッチンタイマーがピピピと鳴った。
スパゲティをザルに開けてオリーブオイルを回しかけてから2枚の皿に取り分けた。
クツクツと音を立てているトマトソースをお玉で掛けてテーブルに運んだ。
フォークが向かい合わせの席に置かれている。ビンズが準備していたのだろう。
皿をテーブルに置いて、タトラは椅子に座った。
「はい、いただきます」
ビンズはそう言って食べ始めた。
「いただきます」
タトラも食べ始める。
「ねえビンズさん、他にも絵描いてるの?」
「この前ウメさんの絵を描いてあげたわ」
「私と菊次郎さんも居るヤツでしょ?ウメさんの家で見た」
「そう。他には描いていないわよ」
「そうなんだ・・・」
二人は話をしながらスパゲティを食べた。
食後、食器と鍋はビンズが洗ってくれた。
車椅子用に作り直したキッチンはタトラには少し背が低いが、ビンズには使いやすいようだ。
そのままビンズはお湯を沸かしてお茶を入れてくれた。
二人はお茶を飲みながら話した。
「ビンズさん、もう一回絵を見せてくれませんか?」
「いいわよ」
ビンズは車椅子を押して寝室に行くとすぐに戻ってきてタトラに箱を手渡した。
タトラは箱をテーブルに置いて7枚の絵をテーブルに並べて眺めた。
「ビンズさんの絵、私好きだなー」
「前も言ってたよね。どこがいいんだろうね?」
「なんだろーなー・・・なんか・・・雰囲気」
「雰囲気ねー。・・・ま、私は好きなように描いてるんだけどね」
目の前に7枚の絵がある。さっきもらった自分の絵が家にある。ウメの家にももらった絵がある。9枚あることになる。
コビーの店にもコビーがもらった絵がある。全部で10枚だ。
ひょっとしたら以前にビンズが町のひとにあげた絵がこの町にはあるのかもしれない。
この町にはビンズさんの絵が沢山あるんだ・・・サリオンの美術館のように展示してみんなに見てもらいたいなー・・・そんな事をタトラは考えていた。
「・・・そうだ」
タトラが大きな声を出したので、ビンズがお茶を飲みながら目を大きく見開いた。
「ビンズさん、個展やりましょうよ」
ビンズは湯飲み茶碗をテーブルに置きながら答える。
「コテン・・・ってなに?」
「個展。個人展覧会。ビンズさんの絵を並べてみんなに見てもらうの」
「えー、そんなたいそうなこと。みんなだって別に見たくないわよ」
「いや、みんな好きになるって。それにビンズさんの絵を見たことがないひとだって、いっぱいいるはずよ。みんなに見てもらわなくちゃ」
「どうかね」
「私ね・・・」
タトラはコビーから宿題を出されていることを話した。そしてコビーの店内で個展を開催する事を提案しようと思うと言った。
「えー。コビーさんに怒られちゃうかもよー」
「大丈夫。絶対宿題二重丸もらえると思う」
タトラはにっこり笑顔を作った。
・・・・・
週明けコビーの店に行くが、コビーはいない。出張だ。
エプロンを付けたタトラはいつものようにビンズの描いた絵を眺めてから店に出た。
シュナにもらったジャンパースカートを時々着て出勤している。今日もジャンパースカートにエプロンをしている。
「おはようございます」
タトラがサクラに挨拶をする。
「おはよう」
サクラはタトラになにか指示を出すことはもうない。何も言われなくても商品の補充をタトラは進めていく。
タトラは商品の補充をしながら「ここはどうかな?」とビンズの絵を飾る場所を考えていた。
一週間が過ぎ、コビーが店に戻ってきた。
月曜にジャンパースカートを着て店に行くと、コビーがデスクに座って書き物をしている。
「おはようございます」
タトラは挨拶をしながらスタッフルームに入るとコビーが顔を上げた。
「おはよう。お・・・タトラさん、イメチェンですか。すっかりテンペストのひとに見えますよ」
笑顔のコビーにそう言われて、タトラは両手を横に挙げて自分の姿を見た。
「おかしいですか?」
「とんでもない。シュナさんがデザインした服は機能性もよくて評判いいですからね」
「コビーさん、今少しいいですか?宿題の事・・・」
「宿題?・・・ああ、宿題ね。いいですよ」
タトラはコビーのデスクの前に立ち話し始める。
「お客さんを増やすアイデアですけど、絵画の個展を店内でやるのはどうでしょう?」
「個展?個展ねー・・・まだテンペストは芸術的な分野が進んでいないんですよね。他国から絵画を購入するとなると経費が莫大なんですよ」
「いるんです。テンペストに。素晴らしい絵描きさんが」
タトラはデスクに両手をついて前のめりにそう言うと、コビーの後ろのビンズの絵を指さした。
コビーは後ろを振り向いて絵を見る。
「ああー・・・ビンズさんの絵ねー。ビンズさん絵、上手だよね。いくつか描いてもらうってことかい?」
「いえ、すでにビンズさんが7枚、私が1枚、ウメさんが1枚持っています。それに、これ」
そう言ってタトラはコビーの店を描いたビンズの絵をもう一度指さした。
「コビーさん。実はサリオンの美術館にビンズさんの絵が展示してあるんです。私大好きで通っていました。・・・なんか、モヤモヤしたり・・・なんかイヤな事があると行くんです。ビンズさんの絵をしばらく見ていると、なんて言うのか・・・ほっこりした気持ちになるって言うか・・・だから・・・いいと思うんですよね」
「ふーん・・10枚あるってことか。・・・いいかもね。やってみよう。今の話なら10枚はすぐに用意できる訳だし、なにより経費が掛らない。効果が無くても、出費もないからね。そう言うことは失敗を恐れずにやってみようよ」
「はい。やりましょう」
タトラは笑顔で返事をした。
その日の帰りは真っ直ぐビンズの家に行き、個展の話をした。
ビンズが持っている7枚の絵を借りる事は承諾を得られた。
個展開始日が決まったら絵を引き取りに来る、と告げてウメの家に行く。
ウメの家では食事中に絵を借りたいと言うと、即決でOKをくれた。
食事が終わり自分の家に戻ると、タトラは壁に貼付けてある自分が描かれた絵の前に立った。
『なんか・・・嬉しい・・・』そんな気持ちで絵に描かれた自分の顔を眺めると、そこに居る自分も笑っていた。
翌日コビーの店に行くとコビーは居なかった。一日店には来なかった。
二週間の出張から戻ったばかりで、個展の事だけを考えていればいい自分とは立場が違うのだろうと自分に言い聞かせて、通常通りの仕事をした。
あまり前のめりになっていると仕事でミスをしかねない。個展の事は考えないようにして過ごした。
次の日の午後、コビーが店に現われた。
コビーはタトラを見つけると近づいてきて話しかけた。
「絵のことなんだけど・・・」
「はい・・・」
『やっぱ止めるとか言わないでね・・・』そんなことを思っているとコビーが話を続けた。
「絵のサイズを測ってきてくれませんか」
「サイズですか?」
「そう。絵はどれも額縁には入ってないでしょ?ほら、うちにあるのもそのまま貼付けてるしね。額縁買おうと思ってね」
「なるほど。そういうことですね。分かりました。」
コビーが個展の事を忘れていた訳ではないことが分かってタトラはホッとした。
それどころか額縁を買ってくれるだなんて、嬉しいことだ。
そこまで自分は考えていなかったことに、結局自分は前のめりでいただけだと気がついた。
この日も、タトラはビンズの家に寄ってそれぞれの絵の寸法をノートに書いてからウメの家に行った。
料理の手伝いの前にウメの家にある絵の寸法を書き留めた。
食後家に戻ると自分がもらった絵の寸法をノートに書き、上から順番に指で10枚の寸法をなぞって確認した。
『サイズがバラバラなんだな。動物の皮だもんな。規格がある訳じゃないし・・・』
でもこれでコビーが額縁を買ってくれれば、さらに立派な絵に見えるはずだ。タトラはそう思った。
次の日午後になるとコビーが店に現われた。
コビーはタトラを見つけると近づいてきて話しかける。
「サイズ測ってきましたか?」
「はい。ノートに書いてきました」
「そう。後で頂戴ね。今度の日曜いつもの時間に出勤してくれるかな?いい?」
「大丈夫ですけど」
「日曜は納品がないからさ、日曜の朝にちょっと壁際の商品整理して、壁に掛けようと思うんだ。僕も来るから」
「はい!分かりました」
タトラは笑顔で答えた。
「それでだ、土曜に出勤するときに9枚の絵を預かってきてくれないかな?」
「土曜に・・・Okです。分かりました」
金曜の帰りにビンズとウメから絵を預かって土曜に自分の持っている絵と一緒に持ってこようと考えた。
土曜日、絵をコビーの店に持って行くとコビーが居た。
コビーはデスクに額縁を積み上げている。
コビーの後ろの壁から絵がなくなっていて、デスクの1枚の額縁にはその絵がすでに納められていた。
「どうだい、グッと良く見えるでしょ?」
コビーは額縁をタトラに向けた。
「おー。良いです。すっごく良い」
タトラはパチパチと拍手をしながら美術館の絵を思い出していた。
タトラが持って来た9枚の絵をデスクに置くと、二人で「これだ、これじゃない」と言いながらそれぞれの絵をサイズの違う額縁に入れた。
全ての絵を入れ終わるとコビーがデスクの横から何かを取り出してデスクの向かいに置いた。
イーゼルの形のスタンドに木目の綺麗な板が載せてある。
板には「BINZ 絵画展」と大きく書かれている。下の段には「ご自由にお入り下さい」と書いてある。
「わーー。素敵ー」
タトラは胸の前で両手を合わせて言った。
「よし、明日までは私のデスクの下に置いておくから。明日一緒に壁に掛けましょう」
コビーはそう言って、額縁に入れた絵をデスクの足元に移動して言った。
「それじゃ私は品出し作業します」
そう言ってロッカールームに歩いた。
日曜、初めての休日出勤だ。
タトラは日曜も同じ時間に起きて同じように生活している。特別早く起きなければいけないと言うことではない。
弁当を作りいつもの時間に家を出た。
コビーの店に着くとコビーはまだ来ていなかった。
タトラはエプロンを付け品出し作業を始めた。
「あら、あなたがタトラさん?」
声のする方を振り向くとオークの女性が同じエプロンを付けて立っている。
「私日曜担当なの。初めまして。コビーさんから聞いてるわ。研修生さんが来てるって」
タトラは直立してお辞儀をした。
「初めまして。タトラと言います。日曜の仕事は初めてですのでよろしくお願いします」
「よろしくね。日曜はね、あんまり忙しくないのよ、この店。町のひとがわんさか来るような店じゃないからね。納品もないし」
「そうなんですね。今日はコビーさんと絵の展示をする予定なんです」
「聞いてるわよ。あなたのアイデアなんでしょ。同じ仕事してると、アイデアなんて出てこないのよね。コビーさんも思いつかなかったって言ってたわ」
「いえいえ。私ビンズさんの絵が好きなんです。その絵をなんとかしたいと思って・・・」
「それでいいのよ。きっと。それがお店の売り上げに繋がれば尚のこと良いってことでしょ。コビーさんも新しい事したいのよ」
「そうなんですかね・・・」
「さあ、仕事仕事」
そう言ってオークの女性はパタパタと右手に持っていたハタキで商品の埃をはたき始めた。
タトラがスタッフルームに商品を取りに行くとコビーが来ていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「どこが良いと思う?」
コビーはそう言って自分の店が描かれている絵を持って店内に移動した。うしろをついて行くと食器類が並ぶスペースに歩いて行った。
「お客さんが絵画を見ながら、つい商品も見て手に取って見る」
そう言ってコビーは壁を見た後にその前の赤い切り子のグラスを手に取った。
「そう言う配置を考えるわけですね」
「そう。ただ単に展示すればいいわけじゃないからね」
「・・・良い商品なのにお客さんがあまり買っていかないものってなんでしょう?」
「売れ行きの悪いものねー・・・」
コビーはそう言ってパスタやうどんの乾麺が並ぶコーナーに移動した。
「テンペストの名産品で売り出したいって事なんだけど、なかなかね」
コビーはパスタの乾麺を手に取った。
「そうなんですか・・・それじゃあ、こういうのはどうですか?このコーナーにビンズさんの絵を展示して、パスタの横には『向かいのカフェでスパゲティ出してますよ』ってポップを貼っておく。私もお店でスパゲティ食べたけどとっても美味しくて、それで家でもこの乾麺買って作っています。絵を見るためにこのスペースに来る。それでこのポップを見る。それでスパゲティを食べたことのある人なら乾麺を買う。食べたことがなければお向かいに行って食べて、それで買ってくれる。ダメか・・・」
タトラは笑った。
「いや、良いんじゃないか。やってみよう」
「え。いいんですか?そんなんで」
「いいさ、売り上げに変わりが無ければまた考えよう。その位の気落ちでいいのさ。いろいろやってみよう」
「はい」
「一番上の棚の商品を少し減らそう。そうしないと絵が目立たないから」
コビーはそう言って近くの籠を取って、商品を籠に移していく。
タトラも同じように籠に移して、棚の上に商品がないスペースを作った。
コビーが空になった棚の奥の壁に絵画の入った額縁を掛けた。
二人で少し離れて絵画を見る。
「いいんじゃないか」
「はい」
二人は食品コーナーの一番上の棚にスペースを作るように商品を籠に移してはスタッフルームに戻した。
全ての絵画を店内に飾るのに2時間掛った。
「よし、それじゃ、パスタのポップ書くかな」
コビーはそう言うとスタッフルームに戻っていく。
タトラも後をついて行き、デスクの前に立ってコビーに質問をした。
「私は今日いつも通りに仕事をしていればいいのでしょうか?」
「そうだね。今日は午前中の半日勤務でいいから。で明日は研修報告の日でしょ。だから明日は一日お休みでいいよ」
「え、それでいいんですか?」
「うん。そうしよ」
タトラは頷いて店内に移動しようとしたところでコビーに声を掛けられる。
「これ店の前に出しておいてよ」
そう言って個展の看板を指さした。
「おー。そうですね。もう展示したんですもんね。今日から個展開催ですね」
「そうだ。どうなるか楽しみだね」
「はい」
タトラは返事をしてイーゼルの看板を持って裏口から店を出た。
18.0 個展
日曜出勤の翌日は研修報告でリムルに会う月曜だ。
ジャンパースカートで庁舎に向かったタトラは、いつも通り三階のテラスで町を眺めていた。
リムルが入ってくるとタトラの姿を見て少し驚いている。
「なんだイメチェンか?」
「だめですか?」
タトラは両手を横に広げて自分の姿を見た。
「そういう意味じゃないよ。ボーイッシュな格好が好きなのかと思ってさ」
「別にそう言うことではないんですけどね・・・」
「似合ってるよ」
タトラはにっこり笑いビンズの個展の話を始めた。
「ビンズさんって、リフォームのあのひとだよな?そういう才能があるのか。いいじゃないか、宿題の答えが良い結果になるといいな」
「はい。リムルさんも見に来て下さい。ビンズさんの絵、素敵なんです」
タトラはリムルの手を両手で握った。
「おー。おー。行くよ。必ず」
執務室で毎週書いている報告書類を書き終えたタトラは家に戻った。
休日出勤の代休で今日一日休んで良いとコビーに言われたからだ。
タトラはビンズをコビーの店に連れて行こうと考えていた。
ビンズの家に行くとカギを開けてビンズが顔を見せた。
「コビーの店で個展が始まったから行こうよ」と言うと「いいわよ」と言ってくれた。
「準備してくる」と言って一旦自分の家に戻ると、すぐにビンズの家に向かった。
タトラは車椅子を押していつもの道を歩いてコビーの店まで行く。
でも今日は店舗の表玄関に回った。
そこには「BINZ 絵画展」と書かれたイーゼルの看板が立っている。
その前で車椅子を止めてコビーが作ってくれたとビンズに話すと「照れちゃうわね」と振り向いてタトラの顔を見てビンズは笑った。
車椅子を押して店内に入る。入り口に少し段差があるが、タトラが押せば入れる程度だ。
店内は車椅子でも問題無く通れる通路幅がある。
「あら、タトラさん。今日はお休みだってコビーさんが言ってたけど、来ちゃったの?」
サクラがタトラを見つけると声を掛けてきた。
「今日はビンズさんを連れてきました。こちらが絵の作者さんです」
タトラはサクラにビンズを紹介した。
「こんにちは」とお互いに挨拶をして、タトラは絵が展示されているコーナーに車椅子を押して進んだ。
食品コーナーをコの字になるように目線の少し上の壁に絵画が飾られている。
左側の手前から順番に車椅子を押しながら見ていく。
一番最初にリムルの肖像画が出迎える。リムルは軽く微笑んだ様な顔でこちらを見ている。まるで話しかけてきそうな表情だ。
ビンズの様子を後ろからのぞき込むと、すでに棚の商品を手に取って見ている。
「動いていい?」
ビンズは手に取った商品を棚に戻して「いいよ」と言った。
順番に絵を見ていく。いちばん最後の絵はたくましいゴブリンの男性の肖像画だ。
『だれなんだろう?』タトラがそう思っていると、隣に置いてあるポップに目がいった。
コビーが書いた例のパスタのポップだ。
「テンペスト名産 スパゲティの乾麺」と書いてある。
下の段に「茹でてソースを掛けるだけで美味しく頂けます」と書いてある。
一番下には「お向かいのカフェ『アルデンテ』で食べられます」とタトラの提案通りのコメントが書いてある。
その隣に袋に入った乾麺が積んである。
『これならお客さんも手に取ってくれるかな・・・』ビンズの様子を見ると、パスタの乾麺を手に取っている。
ビンズは振り向きながらタトラに話しかけてきた。
「これ、あなたが作ったスパゲティでしょ?こんな硬いのがアレになるのね・・・不思議よねー」
「そうよ。美味しいでしょ?私もウメさんに教わって初めて食べたんだけどね」
タトラはそう言って笑った。
「・・・ねえ、タトラさん。絵を見に来たひとに商品買ってもらうことが最終的な目的なんでしょ?」
ビンズがポップを見ながらそう言ってきた。
「まあ、そうなんだけどね。・・・でも私はビンズさんの絵を皆に見てもらえればそれでいいのよ」
「いやそれはいいのよ。そうじゃなくて、この商品説明にあなたが作ったスパゲティの絵付けたら余計に売れるんじゃない?」
「え?絵を付けるの?」
「そう」
「絵ってビンズさんが描くの?」
「描くわよ。その位描くわよ」
「ホントに?」
ビンズはポップの絵を描くとサラッと言う。ビンズにとって絵を描くと言うことはその程度のことなのだ。
車椅子を押して団地に戻ると、二人でビンズの家に入る。
コビーの店で買ったスパゲティをタトラは茹で始めた。
冷蔵庫から卵と牛乳・ベーコンを出してまな板の上に置いた。
ベーコンは短冊に切り、小鍋に油を少し入れて弱火に掛ける。
フライパンに卵を割り入れて牛乳を少し入れて混ぜると弱火に掛ける。
塩コショウをしてバターを入れると火を止めた。
キッチンタイマーがピピピと言うとタトラはパスタの火を止めて、シンクに置いたザルにパスタをあけた。
オリーブオイルを少し掛けて混ぜてから、卵のフライパンにパスタを移し、カリカリに炒めたベーコンも入れる。
少し混ぜて、準備していた皿二枚に取り分けた。
タトラは両手で2枚の皿を持ってテーブルに行くとフォークが準備されている。ビンズが準備していたのだ。
ビンズは自分の所定の場所に座って待っている。
ビンズの前に皿を置いて自分の席にも置くとタトラも椅子に座った。
「いただきます」
ビンズがそう言う。
「描かなくていいの?」
「冷めちゃうじゃない。後で描くからいいのよ」
「そうか、記憶しちゃうんだもんね。それじゃ、いただきまーす」
二人はタトラが作ったスパゲティカルボナーラを食べた。
食後ビンズが「皿を洗う」と言うので、「忘れないうちに描いちゃってよ」とタトラが言って皿を洗い始めた。
ビンズは「そう?」と言って寝室に行くと薄い箱を膝に載せて戻ってきた。
箱をテーブルに置くと中からいろいろなボトルや筆を出した。
タトラは食器と鍋を洗い終わると、キッチンに掛けてあるタオルで手を拭いて椅子に座ってビンズの作業を眺めた。
ビンズはノートの大きさ程度の動物の皮を自分の前に置くと、下書きもなしに筆で絵を描き始めた。
「下書き描かないのね・・・」とタトラがつぶやくと「描かないわね」と絵を描きながら答えてくれた。
「私話し掛けて良いのかな?」
タトラが聞くと、「いいわよ。手が勝手に動くのよ」とビンズが答える。
下書きも描かず、絵の左側から順番に描いている。
「どうしてそんなバランス良く描けるの?」
「どうしてだろうね。覚えてるからそのまんま描いてるんだけなんだけどね」
ビンズは手を止めずに答える。その後タトラは黙って作業を見ているが、30分もしないうちに完成したようだ。
「はい、これでいいかな?」
「もう終わったの?」
「どう?いい?」
タトラは立ち上がりビンズの横に移動して絵をのぞき込んだ。
「いい。素晴らしいと思う。なんだろうね・・・ビンズさんの絵って暖かいのよね・・・これお店に持って行っていいの?」
「いいわよ。これでパスタがいっぱい売れればいいわね。そんな簡単な話しじゃないのかな?」
そう言ってビンズは笑った。
「ビンズさんも行くでしょ?」と聞くと「疲れたから家に居る」とビンズは言った。
「それじゃ、これから持って行くね」と言ってタトラはコビーの店に向かった。
店の裏口から入るとコビーは居なかった。
そのまま店内に行くとサクラもスミレも暇そうにボーッと立っている。
「こんにちは」と声を掛けると「あら、又来たの?」と声を揃えて言われた。
「これ」とビンズが描いたカルボナーラの絵を両手で持って突き出すように見せると、サクラが手に取った。
「すごーい。これ絵なの?・・・湯気が出てきそう。ほら見て」
そう言ってスミレに見せている。
「美味そう。・・・ねえお向かいのカフェのパスタ食べたことある?」
スミレが聞いてきたが、サクラもタトラも首を横に振った。
「今日御弁当持って来ちゃったからなー。明日食べに行こう」
スミレがそう言うとサクラがタトラの顔を見て話し始める。
「タトラさん、私達も明日のお昼カフェ行こう。だからお弁当はなしよ」
「うん。わかった」
タトラはそう答えてサクラから絵を受け取ると、パスタのコーナーに歩いて行く。
パスタの棚の前に来てタトラは少し考え込んだ。
『ここにカルボナーラの絵をおいても目立たない・・・』
一番下の少し広い平台を見るとそこにはうどんの乾麺が置いてある。
『ここに絵を置けば見やすいかも・・・』
そう思うと、タトラは近くにあった籠を取り床に置くと、一番上の段のパスタを全て籠に入れた。
コビーが作ったポップも最後に籠の上に載せた。
次に一番下の平台にあるうどんの乾麺を一番上の棚に移動する。
空いた平台に籠に入れたパスタを移し、空いたスペースにポップを置いた。
その横にビンズが描いたカルボナーラの絵を置き、少し離れてその光景を眺めた。
『よし、これでいい。きっと』タトラは黙って頷いてから、ポップを絵の端っこに載せて重しにしてから店を出た。
次の日コビーの店に出勤すると、観光客らしき人間に声を掛けられた。
「あのー・・・絵画展って、どこですか?」
「はい、こちらです」
そう言ってタトラは客を案内した。
「あら、こちらの盟主のリムルさん?」
客がリムルの肖像画を指さして聞いてきた。
「はい、そうですよ」
タトラが答える。
「そうだと思った。可愛らしい方なのね・・・なんか私に話し掛けてるみたい・・・」
客はしばらくリムルの肖像画を見つめている。
そうしてそのまま次の絵に視線を移して次の絵の前に歩いて行き立ち止まって絵を見つめている。
『絵画展目当てに来たひとは、商品に目が行かないのかな・・・』
黙って客の行動を見ていると、10枚全ての絵を見ているが商品には目が行かない。
『だめだ。これでは・・・』
しかし、最後のゴブリンの肖像画を見たあとはその近辺を見回して、平台にあるカルボナーラの絵を見つめてからパスタの乾麺を手に取った。
『よし』
客は周囲にあるいろいろな乾麺を手に取って見ている。
最後に一つの乾麺の袋を手に取ったまま歩き出して、再度リムルの肖像画の所に歩いた。
客はリムルの絵を再度じっくり見てから、今度はその回りの商品に目をやった。
客は同じ順番で全ての絵を見て、回りの商品にも目をやっているようだ。
時々クッキーの袋を手に取ったりしている。
タトラの肖像画のところに来ると客は振り向いてタトラを捜し、目が合うと絵を見てからタトラの顔を二度見した。
にっこり笑うと再び次の絵を見ては商品を手に取っているようだ。
『これで良いのかな・・・もう少し様子を見よう』タトラはそう思った。
結局観光客はパスタの乾麺を一つ買って行った。
この日は数人の客に絵画展の質問をされて案内した。
質問はしなくても絵を眺めている客も居た。
次の日も、その次の日も同じように絵画展の質問をする客や、絵を眺めていく客が居た。
だんだんその数が増えているような気もしていた。
次の日店に出勤するとコビーがデスクで何か書き物をしていた。
「おはようございます」
挨拶をすると、コビーが顔をあげた。
「おはよう、タトラさん、食品の売り上げが少し上がっていますよ」
「そうなんですか?それは・・・絵画展の影響ですか?」
「うんー・・・まだ分からないけどね。特にパスタが売れているね」
「そうなんですね。・・・判断出来ないけど嬉しいです」
「そうだね。もう少しこのまま様子を見ましょう」
「はい」
タトラは笑顔で答えた。
次の日、客の居ない時間店内でサクラとおしゃべりをしていると、白衣に赤いコックタイを巻いたオークが店に入ってきた。
「やあ、コビーさん居るかな?」
向かいのカフェのオーナーシェフだ。
「はい、呼んで参りますのでお待ち下さい」
サクラがそう答えてスタッフルームに向かった。
『やっば。クレームかな・・・』タトラはそう思った。
ポップに「向かいのカフェで・・・」と書いたことを怒られるのかな・・・と考えた。
残されたタトラは何を言って良いか分からず下を向いた。
「君さー絵画展ってどこ?」
シェフが聞いてきた。
「は、はい。こちらです」
そう言ってタトラはオークのシェフを案内した。
シェフはビンズの絵をサラッと見て進み、最後のカルボナーラの絵で立ち止まった。
丁度そのタイミングでコビーが店内に現われてシェフの所に来た。
「やあ、こんにちは。どうされました?」
コビーの問いにシェフがカルボナーラの絵を指さしてコビーに尋ねる。
「この絵、誰が書いたんだい?」
「ああ、ビンズさんですよ。上手でしょう」
「うんー。上手いもんだな。・・・実はさ、昨日辺りからパスタの売れ行きがいいんだよ。カルボナーラが特に。・・・それで客に聞いたんだよ。そしたらさ、コビーさんの店で美味しそうだったから来たって言うんだよ。なんだそれは・・・って思ってさ。見に来た訳よ」
「いやー黙って紹介しちゃって済まなかったね。迷惑掛けたかい?」
「いやいや、そんなんじゃないよ。むしろ感謝しなくちゃいけねーよな。うちの宣伝してくれてるんだからさ」
「そう言ってくれるとありがたいね。シェフのパスタ食べてうちでパスタ買ってくれればうちも儲かるって事だよ。ウィンウィンでいこうや」
「そうだな」
シェフとコビーは握手をしている。
タトラはホッとした。『よかったー・・・そう言う話で・・・』
タトラは店の入り口から入った突き当たりに「絵画展はこちらです⇒」と書いた案内版を貼付けた。
それ以来質問をされることはなくなり、毎日数人がビンズの絵を見て行くようになった。
コビーによるとパスタの売り上げは絵画展をやる前と比べると十倍に上がったらしい。
タトラは嬉しかった。少しでも自分がコビーの店の為になったのかも・・・と感じた。
次の日、店内での接客の合間にコビーに声を掛けられた。
「カフェのシェフがビンズさんに看板の絵を描いてもらいたいって言うんだよ。ビンズさんに頼めないかな・・・」
「そんな話があったんですか?・・・ビンズさんに聞いて見ます」
タトラはそう答えた。
仕事が終わり店を出ると、タトラは真っ直ぐビンズの家に行った。
カフェの看板の話をすると、あっさり「いいよ」と返事があった。
でも一度実物見ないと描けないよと言われて、次の日曜に一緒に行く約束をした。
日曜の昼前に車椅子を押してカフェに行くとカフェの入り口は三段程度の階段になっていた。
「あーそうだった。このお店階段があるんだった。今お店の人呼んでくる」
そう言ってタトラだけがカフェに入ってシェフに事情を話した。
シェフは「悪いね。ありがとう」と言って店の前まで出てきて車椅子姿のビンズを見ると、「そういうことか」と言ってから一人でひょいと車椅子を持ち上げて階段を上がり店の中まで運んでくれた。
ビンズとは「食べたことがないパスタを食べてみようよ」と言って、メニューを眺めた。
ビンズは納豆スパゲティ、タトラはタラコスパゲティを頼んだ。
二人ともそれが何か分からずに頼んだ。
少しするとゴブリナのウエイトレスが二つのパスタを運んできた。
ビンズの皿にはパスタの上に白い泡状のソースが掛っていて、中に茶色い豆が見える。
タトラの皿にはピンク色のソースが掛っていて、その上には黒い細い短冊状の何かが掛っている。
ビンズはすぐに記憶する事をタトラは知っている。今絵を描くことはない。
二人で「いただきます」と言って食べ始めた。
お互いについ最近までパスタ自体を食べたことがなかった。
「こういうのもあるんだね」
ビンズは言った。
「どんな味?」
「んー面白い味。甘いの。豆が。白いのは・・・卵の白身かな?・・・美味しいよ」
「ふーん、こっちはね、たぶん魚の卵だと思う。ピンク色はなんだろう?卵自体がピンクなのかな・・・バターが効いてる感じ」
二人は周囲をちらっと見回して、お互いの皿をくるっと入れ替えて食べた。
「なんか凄いね。テンペストって。私今まで食べたことないよ。こんな味。これ豆をどうやったらこんなに甘く出来るんだろう?甘く煮るのかな?」
タトラがそう言うとビンズも一口食べて感想を言った。
「私なんて魚の卵自体食べたことがないよ。ジュラの森って小魚しか獲れないからね。卵なんてないもんね。この魚の卵って売ってるのかね?」
「どうなんだろうね」
二人はまた周囲を見回してからお互いの皿をくるっと入れ替えた。
シェフに頼んで車椅子に乗ったビンズを外まで運んでもらうとビンズがシェフに話しかけた。
「ごちそうさまでしたね。看板っていうのは、私は絵を描くまでしか出来ないけど、それでいいのかい?」
「勿論ですよ。看板は私が作りますから。急ぎませんよ」
「いや、家に帰ったらすぐに描いちゃうから。明日タトラさんに持って行ってもらうよ。それでいいかい?」
「そんなに早く描けるんですか?十分ですよ。よろしくお願いします」
シェフは頭を下げてそう言った。
車椅子を押してビンズの家まで行くとタトラも一緒に部屋に上がりお湯を沸かしてお茶を入れた。
ビンズはカルボナーラの時と同じように画材を持って来て、さらさらと描き始めた。
納豆パスタが描き終わると動物の皮をもう一枚出して二枚目を描き始めた。
迷うことなく、たらこパスタを描くとタトラが入れたお茶を飲んだ。
「すごいよねー。ホントに」
タトラはお茶を飲みながらそう言った。
「なにがさ」
「なんでそんなにサラサラ描けるんだろう・・・」
「なんでかね」
ビンズもお茶を飲んだ。
ビンズから絵を預かったタトラは、翌日の月曜日、カバンに二枚の絵を入れて庁舎に向かう。研修報告の為だ。
研修報告の前、テラスでリムルに会うことが恒例になっている。
「リムルさん、ほら」
タトラは肩に掛けたカバンから二枚の絵を出してリムルに見せた。
「おー。美味そうだな。これがビンズさんの絵か」
「上手でしょ。これはね、コビーさんの店のお向かいのカフェに頼まれたんです。看板にって」
「ふーん。ビンズさん絵描きになれば良いんじゃないか?」
「絵描き?」
「絵を売ってお金を稼ぐって言うのは買い手が居ないと成り立たないだろ?職業としてはなかなか難しいよ。特にこの世界ではね。でも看板とかのポップアートだって立派な芸術だからね。今度絵画展見に行くよ。どんな絵を描くのか」
「うん。是非来て下さい。ホントにですよ」
「できるだけ早く行くよ。他の絵も見たくなった」
リムルはそう言って「さあ部屋に行こう」と言って二人で執務室に向かった。
研修報告のあとはコビーの店で働く。
仕事が終わってタトラは向かいのカフェの裏口に向かう。
ドアを開けて小さな声で挨拶をする。
「こんにちは-」
料理をしていたオークのシェフが「ん?」とタトラの方を見た。
「やあ、どうした?」
シェフはタオルで手を拭きながらタトラの方に歩いてきた。
「ビンズさんの絵を持って来ました」
シェフは二枚の絵を受け取ると驚いている。
「二枚も・・・いやーありがとう。さすがだな・・・俺が作った本物より美味そうじゃないか」
そう言ってシェフは笑っている。
タトラはお辞儀をして裏口から出た。
『喜んでもらえてよかった』なんとも言えない暖かい気持ちで家路についた。
次の日タトラがカフェの前を通ると、表玄関の横にメニュー表が吊られていて、その横に二枚の絵が貼付けられていた。
『こういう看板もありか・・・納豆とたらこが売れたら良いな・・・』そんな事を考えた。
数日後シェフが店に現われた。
「やあ、タトラさん。売り上げ爆上がり」
笑顔でそう言いながらタトラの前に歩いてきた。
「爆上がり?」
「おー。注文、納豆スパとたらこスパばっかりだよ。客の数が倍になった」
「倍ですか・・・それは凄いですね」
「初めて来た客が多いみたいだな。あとは俺の腕だ。リピーターになってくれればいいんだがね」
「そうですね。でもビンズさんの絵凄いですね。うちのパスタも売り上げ上がってるみたいですよ」
「絵が良いもん。ビンズさんに御礼言っておいてくれな。うちもさー、ちゃんとスロープ付けるから、また食べに来てくれってね」
「はい。伝えます」
シェフは始終にっこにこで「コビーさんによろしく」と言って帰って行った。
夕方コビーがスタッフルームに居たのでカフェの売り上げの話を伝えた。
「そうか。凄いな、ビンズさんの絵の効果って。ビンズさん、商売にすればいいのにな。テンペストの為にもなるってな」
「そうですよね、私リムルさんに話したんですよ。リムルさんも同じ事言ってました」
「そうかい。なんとかならないものかな・・・」
コビーとタトラがそんな会話をしていると店の方からサクラの大きな声がする。
「リムル様ーいらっしゃいませー」
コビーが椅子から立ち上がって言う。
「リムル様が来たのか?」
タトラの顔を見てそう言うと店内に歩いて行く。タトラもその後をついて行った。
店内に行くとリムルが自分の肖像画を見ている。
「リムル様、いらっしゃいませ」
コビーがリムルに挨拶をするとリムルがコビーの顔を見て話し始めた。
「これがビンズさんの絵か・・・」
「はい」
タトラはそう答えてからリムルの横に並んで肖像画を眺める。
「これは・・・確かに凄いな。フェルメール・・・というか、ミレーというか・・・俺は芸術に疎いけど、なんていうのかな・・・見とれちゃうな」
リムルが絵から目を離さずに言った。
「そうでしょー。私大好きなんです」
タトラも肖像画を見たまま答えた。
リムルは順番に全ての絵を見て最後のカルボナーラの絵を見ると、横のパスタを手に取った。
「なるほどな・・・これだけ美味しそうな絵があると食べたくなるよな」
「そうでしょ。リムルさん、お向かいのカフェでね・・・・・・・・・」
タトラはカフェの客が倍に増えた事を言うと、リムルは店を出てカフェに向かって歩き看板を見た。
タトラとコビーもついて行く。
「これなら食べたくなるよな。コビーの店の乾麺は作らなくちゃって思うけど、カフェなら今すぐこれが食べられるんだからな」
「そうでしょ、そうでしょー」
タトラは笑顔で答える。
コビーが話し始める。
「リムル様、テンペストのいろいろな店や街道の宿にもビンズさんの絵が必要なのではないでしょうか。ビンズさんの趣味で終わらせるのは勿体ないですよ」
リムルがコビーの顔を見て答える。
「そうだよな。一度俺が話をしてみるか」
コビーがリムルの顔を真剣な眼差しで見て言う。
「それが良いと思います。・・・それでですね、リムル様。タトラさんとビンズさんはお友達のようです。今タトラさんがビンズさんのつなぎ役になっています。出来ればこのままタトラさんにはテンペストで仕事を続けてもらったら良いのではないでしょうか。タトラさんには私にも気がつかないアイデアが出てくるのですよ。うちの新しい店の店長でもいい、任せられる。そしてビンズさんの秘書的に仕事を管理してもらってはどうかと思うのですが・・・」
「コビーさん・・・」
タトラがコビーの顔を見てつぶやいた。
リムルがコビーの顔を見て話す。
「まあ、タトラにはタトラの都合があるだろう。そのことはもう少し時間を掛けて考えよう。しかしだ、タトラ」
リムルはタトラの顔を見た。
「ビンズさんの家に連れて行ってくれないか。今から」
「今からですか?」
「善は急げだ」
コビーがタトラの肩をポンと叩いて言う。
「もう終業時間だよ。今からリムル様をビンズさんの家にお連れしてあげなさい」
「はい。分かりました」
タトラは笑顔で答えた。
19.0 ビンズの仕事
タトラはリムルをビンズの家の前まで連れてきた。
「ちょっと待って下さい」
タトラはそう言うとウメの家に走り事情を話して帰るのが遅くなると言った。
走ってリムルの所に戻るとリフォームの済んだビンズの家のチャイムを鳴らした。
「どちら様?」とビンズの声がする「タトラです」と言うとガチャとカギを回す音がして引き戸が開く。
「どうした?・・・あら。リムル様」
ビンズは驚いた。
「こんにちは。今少しいいいかな?」
リムルが尋ねる。
「勿論良いですよ。どうぞ上がって下さい」
ビンズはそう言うと車椅子をくるりと回転させて家の中に入っていった。
リムルも家に入りクツを脱いで部屋に上がった。タトラも後をついて行く。
ダイニングに入るとビンズはコンロでお湯を沸かしている。
タトラは「こちらにどうぞ」といつも自分が座る椅子をリムルに勧めた。
ビンズがテーブルに急須とコップを三つ用意すると、タトラがリムルの横で立っていることに気がつき、寝室に行って、丸椅子を一つ持ってきた。
「あなたコレに座りなさいよ」
ビンズはそう言ってタトラに椅子を手渡した。
お湯を急須に入れてカップにお茶を入れるとリムルとタトラに差し出した。
「どうぞ」と言ってビンズは自分のコップにもお茶を入れて一口飲んだ。
「ビンズさん。絵画展を拝見しましたよ。あなたの絵、素晴らしいよ。パスタの絵も見た」
「そうですか。それはそれはありがとうございます。リムル様にそんな事言っていただいて嬉しい限りですよ」
ビンズは照れている。
「ビンズさん、テンペストの為に働く気はありませんか?」
リムルが尋ねる。
「私こんな体なんでね・・・」
ビンズは自分の足をポンポンと叩いて答えた。
「絵だよ。絵。あなたの絵がテンペストを豊かにしてくれると俺は思うんだ」
「絵ですか?絵が仕事になりますかね?」
「なるともさ」
リムルはコビーとタトラから聞いた売り上げが上がっている話をした。
「ビンズさんはここで絵を描いてくれればそれでいいんだ。まあ、注文に即した絵を描いてもらわないといけないけどね」
「注文ねえ・・・注文ってスパゲティの絵とかでしょ?」
「そういうことだね」
「別に画けますよ。それでテンペストの為になるなら、いくらでも描きますよ」
「そうか。そう言ってもらえると嬉しいよ。でもね、あんまり無理に多くの絵を描くことはないんだ。芸術肌のひとは無理すると作品がダメになっていくみたいだからね。できるだけ、好きなように描ける分だけ描くでいいんだよ」
ビンズは頷いた。タトラはリムルの横でその様子を黙って見ている。
リムルはお茶を一口飲み横に居るタトラの顔を見て話を続ける。
「今は、タトラがビンズさんの絵の仲介をしている感じになっているだろ?」
「え?仲介って言うか・・・コビーさんから言われて、ビンズさんにカフェのパスタの絵を描いてもらっただけですけど・・・」
「もう少ししたら研修が終わって、タトラはサリオンに戻る。絵の依頼はコビーが受けることができるけど、その後の、ビンズさんがイメージを膨らませる作業の手伝いをするひとがいなくなる。それを相談したいんだ」
ビンズが答える。
「作業って・・・ただ描く物を見られればそれでいいんですよ。まあ、この家の中で現物見るんじゃ、光の加減とかそう言うのがあれかもしれないけどね」
リムルは腕を組んで言う。
「そうか・・・それじゃあ、ビンズさんの車椅子を押して依頼された絵の現物があるところまで連れて行ければそれでいいのかな・・・」
「自分でも車椅子を押して動けるけどね。距離があると石畳って疲れるのよねー」
「わかった。誰か探そう。あとコビーから依頼内容をビンズさんに伝えるひとが居ればそれでOKかな・・・うん。まあ、やってみて少しずつ修正していこう」
リムルは頭の後ろに両手をやって少し仰け反って言う。
「誰がいいかなー。ビンズさんと気が合う人。車椅子を押してビンズさんと楽しくやっていけるひと・・・」
タトラは上を向いて天井を見た。それからビンズの顔を見てつぶやいた。
「・・・ウメさんはどうかな。ウメさん一日中家に居るし・・・菊次郎さんに仕事の帰りにコビーさんの店で依頼内容聞いてきてもらえばそれでいいんじゃないかな・・・」
「ウメさん?菊次郎さん?だれだ?」
リムルはタトラに聞く。
「私が毎日夕飯一緒に食べてるご近所さん。この団地に居るご夫婦です」
「ほー。そうか、それじゃちょっとこの後行ってみるか」
「はい。行きましょう」
タトラは両手を胸の前で合わせて笑顔を見せた。
タトラは「ただいまー」とウメの家のドアを開ける。
奥から「おかえりー」と菊次郎の声がする。
「お邪魔しまーす」とリムルが言って、タトラの後に続いて家の中に入っていく。
「え?誰かと一緒か?」
菊次郎が玄関まで来た。
「いや、リムル様・・・どうしました・・・」
「え?リムル様?」
ウメも玄関に来た。
「うん、ちょっと相談事」
タトラがそう言って部屋の中に入る。
「いいかな?」
リムルが尋ねると「どうぞどうぞ」と菊次郎が答える。
テーブルの上には三人分の皿と箸、キムチが載った小皿が用意されている。
「あー。夕飯か。悪いタイミングに来ちゃったな」
リムルがそう言うとウメが話し始める。
「リムル様も食べていって下さいよ。今日は鍋だから三人も四人も一緒だからさ。ねえ。そうしましょう」
「おー。悪いな。それじゃご馳走になろうかな」
リムルがそう言うと「こっちこっち」とウメが椅子をペンペンと叩く。
キッチンでは鍋がクツクツと音を立てている。
タトラはもう一人分の皿と箸を出してリムルの前に置くと、ウメが鍋をテーブルに運んできた。
菊次郎は樽からキムチを皿に大盛りに載せるとリムルの前に置いてから言う。
「リムル様、俺が付けたキムチですわ。美味いですぞー。・・・ウメ、酒出していいだろ?俺も」
ウメが答える
「リムル様が来てるんじゃダメとは言えないじゃないかね。このじいさんはちゃっかりしてるんだから」
菊次郎は酒のボトルとグラスを二つテーブルに置くと、リムルはグラスを手に取る。菊次郎はリムルの持つグラスに酒を注ぎ、自分のグラスにも酒を注いだ。
「おっととと。ありがとう」
リムルが言う。
「よし、リムル様、鍋とキムチで晩酌じゃ。カンパーイ」
二人はコツンとグラスを当てた。
四人で鍋を食べ始める。
リムルと菊次郎は酒を飲みながら鍋をつついている。
「辛っいなーこのキムチ」
リムルがキムチを食べて言った。
「そうだべ。辛いべ。それが美味いんだわ」
タトラがご飯茶碗をテーブルに置いて話し始めた。
「ウメさん、菊次郎さん、お願いしたいことがあるの」
「おーそうだよ。その為に来たんだよ」
リムルがビンズの仕事の話を簡潔にして、コビーから仕事の依頼内容をビンズに伝える仕事と、ビンズを依頼者の所に連れて行く仕事を二人に頼みたい事を話した。
「なーんだよ、そんなこと、仕事の帰りにコビーさんの店に寄れば良いだけの話だろ。何の問題もないですよ。やりますよ」
菊次郎は快諾した。
「私もやってみるよ。でもあんまり体力に自信はないんだよね。車椅子押して町の中歩くくらいなら出来るとは思うんだけどね」
ウメも了承してくれた。
「ウメさん、無理だったら言ってね。研修が終わって私が帰っちゃってからの話だからね。もう少し先の話ね」
タトラが言うとウメが悲しげな顔をして言う。
「そうか・・・タトラちゃん、居なくなっちゃうんだね。なんか寂しくなっちゃうね」
「そんなこと言わないで。・・・私も寂しくなっちゃうから」
「ダイジョブだよ。ちゃんとビンズさんの仕事のお手伝いをするよ。お互い様さ」
「うん。よろしくお願いします」
そう言ってタトラは頭を下げた。
リムルがグラスをテーブルに置いて話す。
「ウメさん。これは立派なウメさんの仕事ですよ。俺には秘書がいるけど、秘書がいなければ俺は100%の仕事が出来ない。ウメさんの仕事はビンズさんの秘書みたいなものだ。テンペスト発展の為に必要な仕事です。ほこりに思っていいんですよ。菊次郎さんもです」
ウメは姿勢を正して自分の胸をげんこつでドンと叩いてから言う。
「任せなさい。立派に仕事をしてみせますよ」
「うん頼みます」
リムルが頭を下げて言うとウメが答える。
「お互い様、お互い様。任せなさい。さあ、食べて食べて」
「よーし、菊次郎さん、飲むぞー」
リムルはそう言ってグラスの酒をいっきに飲んだ。
20.0 研修終了
カフェ・アルデンテのパスタの売り上げが上がったという話は、あっという間にテンペストの様々な店に伝わった。
カフェのシェフとコビーに話を聞きに来る者がひっきりなしに尋ねてきた。絵の制作依頼をしたいと言う者も複数いた。
タトラは日曜になるとウメと一緒にビンズを依頼者の所に連れて行き、描いて欲しいと言う大きなパフェを三人で食べたり、商品を見せられたりした。
そんな日が続くとタトラの研修も残り一週間となった。
コビーがスタッフルームでタトラに話しかけている。
「タトラさん。残り一週間ですね」
「はい。なんか早いですよね」
「そうだなー。早いもんだよね。・・・それでさあ、絵画展はタトラさんが居る今週の土曜で終わろうと思うんだ」
「えー。そうなんですか・・・」
「あんまりダラダラやるのも良くないしね、それにあなたの肖像画を返さなくちゃ」
「あーそうですよね。折角ビンズさんから頂いたのだから、サリオンに持って帰りたいです」
「そうだろ。ウメさんにも返却しないといけないしね。・・・この前リムル様が来た時に私が話したこと、覚えてる?店長の話」
「あ、はい・・・」
「僕は本気だからね。あなたが自分で店をやるというなら、うちの系列店って事でうちが援助するし、うちの別の店の店長でもいいし。そこであなたのアイデアで絵画展を続けても良いし、ビンズさんの絵を売っても良いと思う。タトラさんがテンペストに戻ってくるまでうちでは絵画展は封印するから」
「そう言っていただけると嬉しいです。私も出来ればテンペストで暮らしたいです。・・・だけど・・・私サリオンでやらなければいけないことがあるんです。だからいつになったらテンペストに戻れるか、今は分からないんです。出来れば早くに戻ってきたいです。だから・・・」
「うん分かったよ。あなたにはあなたの予定があるだろう。それが終わってからで勿論いいよ。気長に待ってるから」
「はい、ありがとうございます」
タトラは深々とお辞儀をした。
・・・・・
リムルの執務室。
中央のソファーにはエレンが座ってケーキを食べている。
「おー、久しぶりだな」
リムルはドアを開けて部屋に入ると歩きながら言った。
「リムルさん、久しぶりー。元気だった?」
「うん。タトラには会ったか?」
リムルはソファの向かいに座って言った。
「ううん、まだー。今着いたとこだもん」
エレンは首を横に振って答えた。
「そうか、今日会うんだろう?早く会ったらいいよ。エレンの期待通りにタトラはこの研修を有意義なものにした。絶対に」
「んん?どういう意味?」
「会ったら分かるよ。サリオンに戻ってからもたぶん大丈夫だ」
「ふーん。なんだか分からないけど、これから会いに行くけどね」
「月曜に帰るのか?」
リムルは立ち上がり自分のデスクに向かいながら話す。
「うん、月曜に研修の修了式があるんでしょ?修了式が終わったら出発する予定。それまではのんびりするつもり」
「そうか」
リムルは自分のデスクの椅子に座ると背もたれに寄りかかって言う。
「コビーが言うんだよ。タトラにはこのままテンペストに残ってもらって働いてもらったらいいって。別の店の店長になってもらってもいいって」
「えー、コビーさんそんなこと言ってるのー?なんでー?」
「タトラのアイデアでコビーの店の売り上げが上がったんだよ。それだけじゃなくてテンペストの他の店の売り上げも上げる事が出来る方法と人材を見つけたんだ」
「ふーん。タトラやるわねー。タトラに会ったら詳しく聞いてみよ」
そう言ってエレンはケーキをパクッと口に入れた。
・・・・・
タトラは温泉に肩まで浸かって空を眺めている。
その隣にはエレンが同じように肩まで浸かって空を眺めている。
・・・・・
コビーの店でタトラと久しぶりに会ったエレンは、ビンズの絵画展を案内された。
ジャンパースカート姿にエプロンをしているタトラの姿にエレンは驚いた。
半袖シャツからは緑色の腕が見えていて、ひざから下の足も見えている。
首元も薄い緑色がグラデーションになっている。
リムルの肖像画から始まって、タトラの肖像画もある。
「綺麗な絵ねー」と言いながらエレンは順番に見て行き、最後にカルボナーラの絵を見るとエレンは乾麺のパスタを手に取った。
そのまま向かいのカフェの前にエレンを連れて行くと、たらこスパと納豆スパの絵を見せた。
乾麺の売り上げが上がったことや、カフェの客数が増えた事などタトラの話は終わりがなかった。
エレンを連れて団地に帰るといつも通りウメの家のドアを開ける。
「ただいまー」
「え?誰か居るの?・・・って家あっちでしょ?」
眉間にしわを寄せたエレンは四軒長屋の一番奥の方を指さした。
「いつもウメさんの家に帰って、夕飯一緒に作って食べてるの。ウメさんも菊次郎さんもいいひとよ」
「え?あんた何やってるのよ」
「お友達になったの」
家の中からは「おかえりー」と菊次郎の声がする。
エレンを紹介するとウメは初めてタトラが団地に来たときに会ったねと言ってくれた。
菊次郎にエレンが「初めまして」と挨拶をすると「座れ座れ」と椅子を勧められる。
「あんたも食べてけ」と菊次郎に言われて、エレンは「はい」と笑顔で返事をした。
タトラはウメとキッチンに立ち笑顔でおしゃべりをしながら料理を作っている。
菊次郎とエレンはテーブルでお茶を飲みながらその姿を見ていた。
『絵画展で見たあの絵だ・・・』エレンはそんなことを考えながら、ジャンパースカートから出たタトラの腕を見ていた。
人参とポテトの付け合わせに、厚めのハンバーグが載せられた皿をタトラが持って菊次郎とエレンの前に置いた。
「おー美味そう」と菊次郎が声を上げると、エレンも皿をのぞき込んでつばをゴクンと飲み込んだ。
ウメとタトラが四人分のハンバーグとスープを運んで座ると「いただきます」と言って四人でハンバーグを食べた。
エレンが街道の整備状況を話すとウメも菊次郎も「行ってみたいねー」と言った。
タトラもビンズの絵の評判を話したり、菊次郎は野菜の生育状況を話したりして食事は終わった。
エレンが「食器は私が洗います」と言ってタトラと二人でシンクに立った。
その間にウメが珈琲を入れている。
食器を洗い終わって二人がテーブルに座るとウメが話し始める。
「タトラちゃん帰っちゃうんだねー。寂しいよ」
「また、来るわ。必ず」
「待ってるよーー」
ウメは泣きそうな声で言う。
「ねえ、ウメさん。明日一緒に温泉に行こうよ。菊次郎さんも」
タトラが言うと菊次郎が答える。
「おー、行こう行こう。なあ」ウメに向かってそう言うとウメは「うんうん」と返事をした。
「ねえ、ビンズさんも誘おうよ。私達が居れば一緒に入れるよ」
「そうしよう。誘おう」
ウメがそう言ってくれてた。
「エレンもだよ」
タトラはエレンの顔を見てそう言った。
「う、うん」
エレンは三人の会話を聞きながら、タトラの変化に驚いていた。
・・・・・
「あー気持ち良い-」
肩までお湯に浸かっているタトラが両手を上にあげてのびをした。
隣ではエレンがタトラの顔を見ている。
エレンはタトラに話し掛ける。
「タトラなにがあったの?」
「何?」
「あなたなんか変わった気がする・・・」
「そうかな?・・・なんか、・・・解けたって言うかさー。開放されたって言うかさー。わかんない」
タトラはそう言って空を見た。
タトラの横にはビンズがお湯に浸かっている。その隣にはウメが居る。
「私温泉なんて初めてだよ。テンペストにこんなところが出来てたんだねー」
ビンズがそう言った。
「ビンズさん、家から出られなかったんだもんね。私居なくなっちゃうけど、もう家から出られるんだから、ドンドン家出て、いろんなとこに行ってね」
タトラがそう言うとビンズが答える。
「うん、分かったよ。これからはウメさんといろんな所に行くよ。ねえウメさん」
「そうだよ。きっと私の行った事のない所にビンズさんが連れ出してくれるんだ。楽しみだよ」
ウメがそう言うと、ビンズが答える。
「ウメさんホントによろしくね」
「お互い様、お互い様」
壁の向こうから菊次郎の声がする。
「タトラちゃーん。湯加減はどうかなー」
「とっても気持ちいいでーす」
タトラが返事をするとウメも大きな声で返事をする。
「じいさん、話しかけてくるんじゃないよー。いやらしいねー」
「だってよー、こっち一人なんだよー。俺もそっち行くかなー」
「バカな事言ってんじゃないよー」
ウメがそう叫ぶのでタトラも叫んだ。
「来ても良いよー」
エレンとビンズとウメが声を揃えて叫んだ。
「絶対ダメー」
・・・・・
土曜日、タトラの最後の出勤だ。
店に着くとコビーがデスクで下を向いてなにか書いていた。
「おはようございます」
タトラがスタッフルームに入りながら挨拶をすると、コビーが顔を上げた。
「おはよう。今日が最後の仕事だね」
「はい。お世話になりました」
「私はこの後別の店に行くのでこれでお別れです」
コビーはそう言うとデスクの上に置いてある額縁を持ってタトラの所まで歩いてきた。
「はい、コレはお返しします。ウメさんにも渡してくれるかな」
二枚重ねて渡された額縁をタトラが受け取ると、一番上の絵を見た。自分の肖像画だ。
「ビンズさん・・・」
コビーの顔を見てタトラが言う。
「コビーさん、額縁はお返ししなくちゃ」
「なに言ってるんだよ。その位プレゼントだ。売り上げが上がったことに比べれば申し訳無い程度の御礼だよ」
「いいんですか?ありがとうございます」
タトラはそう言って下の絵も見た。
「ウメさんにもちゃんと返しておきます」
「うん」
コビーはそう言うとタトラの手を握って握手をした。
「本当に私は待っているからね」
「はい、母にも相談して出来ればそうしたいです。いろいろとありがとうございました」
タトラはそう言うとロッカールームに行き自分のカバンに2つの絵を入れた。
最後の一日の仕事が終わった。
「サクラさん、スミレさん、短い間でしたけど、いろいろとありがとうございました」
タトラはサクラとスミレの前で最敬礼した。
「寂しくなっちゃうわね」
スミレはそう言ってタトラに抱きついた。
スミレがタトラから離れると、今度はサクラがハグをして言った。
「寂しいわよ。テンペストに残りなさいよ」
「そう言うわけにはいかないので・・・でも必ずもう一度テンペストに来ます」
「うん。待ってるわよ」
サクラはタトラから離れてそう言うとタトラの頬にキスをした。
ウメの家に帰り、菊次郎に絵を渡すとその絵を見ながら言う。
「月曜に帰っちゃうのかー。寂しくなるなー」
隣にウメが来て絵をのぞき込んで言った。
「明日は仕事ないんでしょ?ビンズさん誘ってカフェとか行こうよ」
「うん。いいよ。私もそうしたい」
ウメは返却された絵をダイニングテーブルから見える位置の壁に掛けた。
その日はいつも通りウメとタトラがキッチンに並んで料理をした。
後ろでは菊次郎が樽の中のキムチを皿に出している。
返却された絵と同じ光景だ。
・・・・・
次の日、朝食後にビンズを誘って四人でテンペストを望める丘に向かった。
大きく広がっているテンペストの町は整然と区画整備されていて綺麗だ。
ビンズはひょいと車椅子から降りて芝生に座った。
それを見てタトラも横に座る。ウメと菊次郎もタトラの横に座った。
四人はしばらく黙ってテンペストの町を眺めた。
「立派な町になったよねー。リムル様のお陰だ・・・」
ウメがそう言った。
「ホントになー。ちょっと前じゃ信じられないことだ。生きるか死ぬかだったんだからな・・・」
菊次郎が言う。
四人はまた黙ってテンペストを眺めた。
昼食はカフェ・アルデンテに行こうと言うことになった。
タトラが車椅子を押してカフェに着くと、入り口の数段の階段の横に、壁に沿うようにスロープが出来ていた。
「シェフが作ってくれたんだね・・・」
ビンズはそう言うとスイスイとスロープを上って行った。
「これからは他の施設もスロープ付けて欲しいね-」
タトラが言うとビンズが答える。
「贅沢は言えないさ。今まで家に閉じこもっていたこと考えりゃ、上等さ」
四人は店に入り、メニューから今まで食べたことがないパスタをそれぞれ注文した。
午後はいろいろな店を見て回り、団地に戻った。
「ビンズさん、今日はうちで食べてけ。キムチ鍋にしよ」
「そうね、タトラさんとも最後の食事だもんね。私もそうしたいわ」
ビンズはそう答えた。
菊次郎とタトラで車椅子を部屋に運び、菊次郎とタトラがキッチンで料理をした。
ウメとビンズはテーブルでお茶を飲んでいる。
その日は四人でキムチ鍋を囲んでわいわいと楽しい食事をした。
食後にはウメが珈琲を入れ、四人で飲んだ。
「あーあ、明日で居なくなっちゃうんだねー。寂しいよ」
ウメがそう言うのでタトラはすぐに答える。
「ウメさん、私必ず戻ってくるから。私テンペストが大好き。だから待ってて」
「うん。待ってるからね-」
ウメは今にも泣きそうな顔で、テーブルの上でタトラの手を握った。
・・・・・
テンペスト最後の日。
タトラは少し早く起きて部屋を掃除した。
家の鍵を掛けて、横を見るとウメと菊次郎とビンズが玄関の外に出てこちらを見ていた。
タトラはウメの家の前まで行くと最敬礼して言った。
「いろいろとお世話になりました。本当にありがとうございました」
「なに言ってんだよ。こっちの台詞だよ」
菊次郎が答える。
「そうだよ。お互い様だよ。また絶対に来るんだよ」
ウメはそう言って涙を流しながらタトラに抱きついてきた。
「・・・ウメさん痛いよ。ダイジョブだよ。絶対戻ってくるから」
タトラがそう言うと、ウメはタトラから離れてタトラの顔を見つめて言う。
「ほんとにだよ。絶対だよ。待ってるからね」
ビンズは手をすっと差し出してきた。
「ありがとうね。お陰で新しい人生が始まった感じだよ」
タトラはビンズの手を握って言う。
「ビンズさんに会えて良かった。私を救ってくれた絵の作者さんなんだから。ビンズさん、お店の絵ばっかりじゃなくて、自分の好きな絵も描いてね。私見に来るからね」
「分かったよ。いろんな絵を描くよ」
「うん。・・・それじゃあ、またね」
タトラはそう言うとビンズの手を離した。
「うん。またねだよ。ちゃんと、またね、だからね」
ウメが言う。
タトラは三人に最敬礼をしてから振り向いて歩き出した。
三人は手を振った。
少し歩いて4号棟の角を曲がる前に、タトラは立ち止まり振り向いた。三人はまだ手を振っている。
タトラは堪らず走って三人の所に戻った。菊次郎に抱きつき、次にウメに抱きつき、最後に車椅子のビンズに抱きついた。
「さよなら。絶対又会いに来る」
タトラはそう言って三人に背を向けて下を向いた。
『うん』タトラは心の中でそう言って走り出した。
もう振り返る事はない。涙をこらえて走った。
・・・・・
庁舎に着くといつも通りテラスに向かった。
テラスの一番奥にはリムルがすでに来ていて、ドアが開いた音でリムルはタトラの方を見た。
タトラは長袖長ズボンのボーイッシュな出で立ちに戻っている。手袋はない。
タトラは歩いてリムルの横に並びリムルの方を向いた。
「リムルさん、ありがとうございました。コビーさんの店では大変貴重な勉強が出来ました。そして、とっても大事なお友達も出来ました。テンペストで研修ができて、本当に感謝しています。私・・・」
タトラは自分の両手の手の平を見た。
「私・・・」
「タトラ。・・・何も言わなくていいよ。自分の思いは自分だけのものだ。俺は研修の受け入れ先の一人だ。それだけだよ。あとは君次第だ」
タトラは背筋を伸ばして返事をした。
「はい。ありがとうございました」
そう言って最敬礼した。
執務室での修了式にはエレンも同席し、つつがなく終わりシュナとシオンが拍手をした。
「IDカードを・・・」
タトラはそう言って首に掛けていたカードを手に持ってリムルに渡そうとした。
「それは記念に持って行ってくれ。今度来るときもそれを見せればタトラの身分証明になるだろ。研修生でありながらタトラはすでにテンペストに貢献したひとなんだからな。また来いよ」
「はい」
タトラは最敬礼した。
庁舎の前ではリムルの横にシュナとシオンが並び大きく手を振っている。
エレンとガバル・ギド、そしてタトラがだんだん小さくなっていく。
タトラは一人立ち止まり振り返ると大きく手を振った。
21.0 そしてサリオン
住宅地の一角に建築途中の建物がある。
屋根は掛っているが壁はない。全ての柱が外から見えている。
建物の中からは、バチン、バチンとリズムを刻むように音が聞こえる。
少し離れた場所に背の高いボーイッシュな格好の少女が立ち建築現場を見ている。
少女は緑色の両手の指を前で組み誰かを探している。
サリオンに戻ったタトラだ。
一人の若者が建築中の建物から長い材木を肩に載せて出てきた。少女は小走りに若者に近づいて声を掛けた。
「ロメッシュ。・・・少しいい?」
「・・・なんだ、タトラか。うんー。ちょっと待てよ」
ロメッシュはそう言うと、顔だけ振り向いて建物の中に向かって叫んだ。
「棟梁ー。ちょっと抜けていいかー。知り合いが来たんだー」
「んー。そうだな、それじゃ俺達も一服にするか」
誰かのそう言う声が聞こえた。
「いいぞー。一服ぅー」
大きな同じ声が続くと「おー」と別の声が聞こてバチンバチンという音は止った。
ロメッシュは肩に載せていた材木を荷車に下ろすと「こっち」と言って歩き出し、斜め向かいの児童公園に入りベンチの端に深く座った。
「なんだよ」
ロメッシュは横を向いて言った。
タトラはベンチに座るロメッシュの前に立ち最敬礼をして言った。
「ごめんなさい。私は許されないことをしました。謝って済むことではないけど・・・ごめんなさい」
「なんだよ。いいよ」
「いや、ダメよ。・・・私これから警察に行く。罰を受ける」
「えっ・・・やめろよ。そんなこと」
ロメッシュは浅く座り直すと両手をひざの上に置いてタトラの顔を凝視した。
「ダメよ。無かったことには出来ない」
「だから、いいって、やめろって。蚊に刺された程度だよ」
「そんな訳ないじゃない。私これから警察に行くけど、あなたの所にも警察が来る事になると思う。それを言いに来たの」
「やめろって」
ロメッシュは更に浅く座り直してからそう言ったあと、タトラが手袋をしていないことに気が付いた。
「やめろっ」
ロメッシュはベンチから立ち上がるとその場でひざまずき、両手を前についた。
「お前が俺を刺したと言うなら、俺はお前の心を傷つけ続けた。俺の方がひどい犯罪を犯している」
「・・・」
タトラは何も言えない。
ロメッシュは両手を地面についたまま、タトラの手を見ている。そして右足を前に出してズボンをめくり上げ靴下をずり下ろした。
「俺の足・・・」
ロメッシュがめくったズボンから見える足は、緑色をしていた。
ベンチの左端にロメッシュが座っている。タトラはベンチの右端に座った。微妙に距離が離れている。
「俺の父さん、俺が生まれたあとに出て行ったって言っただろ」
「うん。覚えてる」
子供の頃、授業のプールに入らない二人はそんな話をしていた。
「俺の父さん、ゴブリンなんだよ。俺は腰から下が緑なんだ」
「・・・」
「俺は父さんのこと覚えてないから分からないけど、俺の姿見て出て行ったんじゃねーのかなって思ってる」
「・・・そうなんだ」
「俺は別に気にしてなかったんだけどさ、母さんが絶対半ズボン履かせてくれないんだよ。プールも入るなって」
「・・・うん」
「そしたらお前が学校で緑色の手、フツーに出して学校に来てるじゃねーかよ。・・・俺もさあ、次の日からズボン自分でちょん切って学校行ってやろうって思ったら、お前手袋し始めてさ。俺も足出すタイミングなくしちゃってさ。なんか、お前強いなーって思ってたんだけどさ・・・」
「強くなんてないよ。・・・私こそ、もうダメだった」
「だから、俺が悪いんだよ。俺がお前の・・・、そのギリギリの所に居たお前を後ろから突き落としちゃったんだよ。俺が弱かった。だから俺を刺したことは、ホントに無かった事にしてくれ。俺がお前にしたことも消えないけど、そうしてくれれば俺も少しは気が楽になる」
「・・・わかった。・・・警察に行くのはやめる」
二人は下を向いたまま、しばらく黙っていた。
「私ね。テンペストに行ってたの」
タトラが下を向いたまま話し始める。
「ああ、ダチから聞いたよ。研修だって?」
「そう、3ヶ月行ってたの。テンペストっていいところよ」
タトラはロメッシュの顔を見て答えた。
「魔物の国だろ?怖くないの?」
ロメッシュもタトラの顔を見て言った。
「怖いだなんて。とっても綺麗な町よ。カフェもあるし、料理も美味しいの」
「ふーん」
「ゴブリンもいいひとばっかりだし、オークのひともいるし、リザードマンもいるし、角が生えたひともいるの」
「多種族が暮らしてるんだ・・・」
「そう。温泉って言うのがあってね。露天の岩風呂に皆で入るの。皆裸でよ。何も飾らず何も隠さず、裸の付き合いって言うんですって。ありのままの自分でいろんなお話をしながら温泉に浸かるの、気持ち良かったなー」
タトラはベンチの背もたれに寄りかかって空を見た。
「裸で皆と風呂に入ったのかよ」
「うん」
タトラはそう言って両手を前に出して自分の手の平を見た。
「角が生えたひとなんて、こんなに胸が大きいのよ」
タトラは自分の胸の前で丸く手を動かして大きな胸を表現した。
「フン」
ロメッシュが笑った。
「あ、男女は別だからね。あなたは見られないからね」
「フン、見なくていいよ。なんか楽しそうだな」
ロメッシュは又笑って答えた。
タトラは少し横向きに座り直してロメッシュの方に体を向けて話し始めた。
「あなたもテンペストに行ってみるといいわ。なんかねー・・・開放されたの。私。今・・・気持ちがすごく楽」
「そうか、よかったな」
「ホントに行ってみなさいよ。私お母様説得して、絶対もう一度行くつもり。出来ればテンペストで暮らしたいと思ってる」
「そこまで考えてるのかよ。・・・そうか、俺も一度行ってみるかな」
「うん」
お互いにしばらく黙っていると、遠くから男の人の声がする。
「おーい、仕事始めるぞー」
ロメッシュが後ろを振り向いて返事をした。
「おー」
タトラの顔を見てロメッシュが話す。
「それじゃ俺行くから」
「うん」
ロメッシュは立ち上がり歩き出し、タトラの前を横切って少しして立ち止まり振り返って言った。
「また会おう」
「そうだね」
「・・・それじゃ」
ロメッシュは前を向いて歩き出した。
・・・・・
ヘブミューラーはソファーに座って紅茶を飲んでいる。
ドアが開き、部屋に入って来たタトラはヘブミューラーの前に座って話し始めた。
「お母様、テンペストは素晴らしい国だったわ」
「そのようね。あなたの顔を見れば分かるわ」
ヘブミューラーはそう言って紅茶を一口飲んだ。
「お母様の言っていたバケツの穴を塞ぐひとって、リムルさんのことでしょ?」
「そうね、そんな名前だったかもね」
「リムルさんにも会ったの。とってもいいひとだったわ。他にもゴブリンのひとたちとお友達になったわ」
「そう」
タトラは立ち上がり、キッチンに行くと自分でコーヒーを入れてマグカップを持って戻ってくる。
「ねえ、お父様ってどこの部族のひとだったの?」
「どこって・・・あの頃は部族の名前もないしね、南の方の部族よ」
「南か・・・お父様のご両親とかご家族はいないの?」
「ご両親は健在よ。ご兄弟はみんなお亡くなりになったって聞いてるわ」
「ふーん。・・・お父様のご両親とはお会いしたことあるの?」
ヘブミューラーは紅茶を一口飲んでから答える。
「あるわよ。カルマンさんの出身部落を訪ねた時は、ご両親の家に泊めてもらってたからね」
「そうなんだ・・・」
「家と言ってもね、言っては悪いけど隙間から外が見えるような雨漏りするような家だったけどね。あの頃は」
「ふーん」
「ご両親はご高齢でね。お義父様はもう狩りには出られないって、仲間が取ってきた野菜や魚を漬け物にして保存食を作っていたわ」
「漬け物?」
「そう、お義父様辛いものが好きでね。皆が捨てていた真っ赤な木の実をその漬け物に使っていたわ。頂いたけど辛いのよ、すっごく。ふふふ」
ヘブミューラーは笑った。
「え?キムチ漬けてたの?」
「キムチ?なに?それ?」
タトラは眉間に皺をよせた。
タトラはヘブミュラーにテンペストで暮らそうと進言した。
「テンペストにはまだお母様の仕事があるわ。困っているひとがいる。豊かになればきっとその中で新たな問題が生まれる」
「うんー・・・」
「研修は短い期間だったけど、私、テンペストに貢献したんですって。リムルさんにそう言われちゃった。コビーさんにもお店任せても良いって言われたの」
「へー。なにしたの?」
「あのねえ、絵の上手なひとを見つけたの。その人ってね・・・」
タトラはビンズの話をヘブミューラーに聞かせた。サリオンの美術館にある絵の制作者だと思うとも言った。
「私がしたことなんて・・・お互い様よね、お互い様。私はその人に救われていたのだもの」
「お互い様・・・ふふふ。あなたお父様の口癖を言ってるわ。お父様のDNAね」
「え?・・・お父様『お互い様』が口癖だったの?それって・・・」
タトラは斜め上を向き、天井から下がるガラスのペンダント照明をなんとなく見た。
ヘブミューラーはテンペストに一度旅行に行きましょうと言ってくれた。
タトラは嬉しかった。もう一度ウメや菊次郎に会える。ひょっとしたら、ヘブミューラーもテンペストで商売を再開してくれるかもしれない。
タトラは立ち上がって窓の近くに行くと空を見上げた。
空には細い三日月が浮かんでいる。
月は誰にも邪魔されないとばかりに、自分勝手に青く輝いている。
テンペストのみんなもこの月を見ているはずだ・・・
【エピローグ】
タトラは歩きながら空を見上げた。白い雲がぽかりと浮かんでいる。
そして街道の先に目を向ける。
「お母様、次の宿が見えてきたわ。明るいうちに着けて良かったわね」
「信じられないわ。こんな立派な街道が出来てるなんて。・・・もう冒険者を雇う必要がないんですものね」
「テンペストまで毎日こういう宿に泊っていけるのよ」
「・・・リムルさんって方は、バケツの穴を塞ぐだけじゃなくて、バケツを・・・ガラスの美しい聖杯に替えちゃったんだねー」
宿の入り口まで来ると三角形の立て看板が目に留まった。
二人は立ち止まりその看板を見た。そこには美味しそうな餃子が描かれている。
『ビンズさんの絵だ・・・ビンズさん絵を描き続けてるんだ』
タトラはそう思って、宿に入る。
「お母様、今日はラーメンと餃子を食べましょう」
「?・・・なんだか分からないけど、あなたのお勧めを頂くわ」
ヘブミューラーが受付カウンターの前でリュックを床に下ろした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中でゴブリナが深々と頭を下げた。
その後ろの壁には、丘から見たテンペストの町の風景が描かれた、淡いタッチの大きな絵が掛けられている。
・・・・・
リムルの執務室。
リムルが自分のデスクの椅子に座っている。その前にはリグルドが書類を持ち立っている。
「よし、そのスケジュールで進めよう」
リムルがデスクの上の書類の最終ページを閉めて言った。
「分かりました。お任せ下さい」
リグルドは力こぶを作って見せた。
「ところで、リグルド。リリナさんが言ってたんだけどさあ、タトラが居た団地にカルマンさんのご両親が居るんじゃないかって」
「さあ、どうでしたかな・・・」
リグルドはリムルの後ろの窓まで進むと空を見た。
「リグルド、知っててあの団地を選んだんだろ?」
「・・・さあ、昔のことなんで覚えていないですなー」
リグルドは空にぽかりと浮かんだ白い雲を眺めてそう言った。
「リグルド-」
「さあ・・・」
空を眺めたままリグルドはつぶやいた。
「いや、そのことじゃなくてさ。そういえば、サリオンに行ってるサイカはどうなった?」
リグルドは振り返り、リムルを見て言う。
「・・・そういえば、どうしたんでしたっけ?」
・・・・・
サリオンに居るサイカが青空の下、建物のドアの前で振り向いて言う。
「私いつ帰れるのー?」